ウェブニュースより
逆風さえ楽しむ佐藤名人 光った安定感、冷静な見極め ―― 第76期将棋名人戦七番勝負は、佐藤天彦(あまひこ)名人(30)が3連覇を果たして幕を閉じた。史上初の6者プレーオフを勝ち抜き、4度目の復位を目指した羽生善治竜王(47)の挑戦を4勝2敗で退けた。先手番の3局をすべて勝つなど安定した戦いぶりが光った。
2度目の防衛戦となった今期は、第4局まで互いに先手番を制するシーソーゲームとなったが、第5局を後手番で勝つと、第6局の先手番で激戦を制してシリーズを終わらせた。第5局まで勝った対局はすべて快勝。いずれも優位を築いて押し切るという内容で、羽生竜王は持ち時間が残っていたにもかかわらず、投了に追い込まれた。
昨年度は名人を防衛するも勝率4割5分と負け越すなど、決して成績はよくなかった。対する羽生竜王は竜王位を奪還し、A級順位戦の6者プレーオフを勝ち抜くなど上り調子。3連覇を危ぶむ声もあったが、開幕前に佐藤名人は「将棋に対する興味もしっかりあって勉強もできている。調子は悪くない」。第1局に負けた時にも「敗れはしたが、内容のよい将棋が指せた」。冷静に自分の状態を見極め、自信を持って七番勝負に臨んでいた。
国民栄誉賞を受賞して注目される羽生竜王と戦うことについても「アウェー感があるかもしれないが、やりがいもある。人生でそういう出来事は多ければ多いほど面白い」と、逆風さえ楽しんでいるようだった。日本将棋連盟会長の佐藤康光九段(48)は「勝った将棋も負けた将棋もしっかり分析し、糧としている。余裕を感じます」と言う。
年齢的には活躍めざましい藤井聡太七段(15)と羽生竜王の中間の世代に位置する。「将棋界の歴史で最上位クラスの天才と言われる人たちと、自分がいい状態の時に戦えるのは幸せなこと。それは年下相手でも同じ。棋士人生という観点からすると恵まれていると思う」と話す。
名人3連覇は、13連覇の故大山康晴十五世名人を筆頭に過去5人しかいない。いずれも通算5期以上獲得して「永世名人」となり、一時代を築いている。今回の勝利は大きな一歩となった。
◇
〈羽生挑戦者の話〉
(今回の七番勝負は)一進一退という感じでした。ちょっと、後半の(対局の)方が内容的に悪かった感じです。(名人戦七番勝負は)非常に長丁場なので、全体的に内容を上げていくのが大事なのかな、と思いました。 (朝日新聞DIGITAL 2018年6月20日23時00分)
https://www.youtube.com/watch?v=ohdgltFzMvI
ウェブニュースより
日本、劇的幕開け コロンビア破る ―― 【サランスク=ロシアW杯本社取材団】サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会で一次リーグH組の日本は十九日、当地でコロンビアとの初戦に臨み、2-1で破る金星を挙げた。W杯でアジア勢が南米のチームに勝つのは初めて。
前半早々に香川真司のPKで先制。その後、追い付かれたが、後半に入り、CKを大迫勇也が頭で決めて決勝点を奪った。
二〇一四年の前回ブラジル大会の一次リーグ最終戦でも対戦し、1-4と大敗した相手。国際サッカー連盟(FIFA)ランキング六十一位の日本に対し、同十六位のコロンビアに四年ぶりの再戦で雪辱を果たし、貴重な勝ち点3を獲得した。日本のW杯勝利は、一〇年南アフリカ大会一次リーグのデンマーク戦以来二大会ぶりとなった。日本は一次リーグ突破へ向け好スタートを切った。
日本は今後、二十四日午後八時(日本時間二十五日午前零時)からエカテリンブルクでセネガル、二十八日午後五時(同十一時)からはボルゴグラードでポーランドとそれぞれ対戦する。
◆西野監督「タフに戦った」
激闘を制した選手たちが試合終了と同時に雄たけびを上げた。サランスクの空に両拳を突き上げた日本代表の西野朗監督は、自身のW杯初勝利にも「選手がタフに戦ってくれた結果」と選手たちをたたえた。
ハリルホジッチ前監督が四月、電撃解任されたのを受け、代表チームを統括する日本サッカー協会の技術委員長から現場指揮官に就任した。自ら招いた異例の事態にもチーム再建で責任を果たすと覚悟を決めた。準備期間はわずか二カ月間。西野監督は選手のコンディションに配慮しつつ、初戦のコロンビア戦へ向けた対策だけに注力してきた。大会直前の強化試合三戦は全て「南米の雄」を想定して戦い方を探り、本番で見事に撃破した。
一九九八年、日本がW杯に初出場して以来、これほど足元の定まらなかった四年間はない。過去の八百長疑惑でアギーレ元監督が去り、ハリルホジッチ氏も本大会を目前にして解任された。監督が代わるたび、目指すサッカーも変わった。
それでも、西野監督は「日本の良さであるグループの力、連動」を体現できるメンバーに初戦を委ねた。チームは曲折を経たが、海外の主要リーグなどで活躍する選手たちは、自らの経験と自信を胸に強豪と渡り合い、日本の意地を示した。「最高の化学反応が起こるチームをつくりたい」。指揮官の言葉の一端が垣間見える勝利だった。 (東京新聞 6月20日)
手遊び歌は、赤ちゃんの成長発達を促す知育遊びの一つとして知られています。手遊び歌は、赤ちゃんとの遊びの一つとして昔から世界中で親しまれてきたもので、日本でも、多くのパパママが実践していますし、保育園や幼稚園のカリキュラムにも取り入れられています。
無数にある手遊び歌の中で、爺も幼いころに習ったパパママに人気だった手遊び歌「ちょちちょちあはは」を紹介します。
「ちょちちょちあわわ かいぐりかいぐり とっとのめ おつむてんてん ひじポンポン」と歌いながら
1.ちょちちょちあわわ:「ちょちちょち」でパチパチと手を叩き、「あわわ」で手を口に当てます
2.かいぐりかいぐり:胸の前で両手をグルグル回します
3.とっとのめ:人差し指で手の平をツンツンします
4.おつむてんてん:「おつむてんてん」の掛け声に合わせて、両手で頭をポンポンとたたきます
5.ひざポンポン:膝をポンポン叩きます
https://www.youtube.com/watch?v=2rRuj2tYmw8
ところで、「チョキチョキ」とは何なのでしょう?
実はこれも、ケフ→キョウ、テフ→チョウに平行する変化によって成立した語であって、チョチは最初はテウチだったのです。それが、
teuti→teôti→tiôti→tyôti という変化を経て、チョチになったものなのです。このteutiとは何かというと、テウチとは「手打ち」です。従って、チョチチョチアワワとは、最も古くは、「手打ち手打ちあはは」であった訳で、なるほどこの遊びは手を打ちながらする遊びだったのです。
アワワは、動作のままで、口に手を当てて「あわわ」です。語源は「あはは」です。
「かいぐり」とは、広辞苑でしらべますと、
かい-ぐり[掻繰](「かい」は「かき」の音便)①かいぐること。②子供の遊戯で、左右の手を胸のあたりでぐるぐる回す動作。
とありますので、「たぐり寄せる」動作のことで、かいな(腕)をぐるぐるする動作からきているのでしょう。
「とっとのめ」は、まず「とっと」自体が魚・鶏・鳥などをいう幼児語です。とにかくそういう動物の目を示すということでしょうか。
「おつむてんてん」「ひじぽんぽん」については、動作のままです。
子供の遊び歌に「おちゃらかほい」というのがあります。
『おちゃらかほい』は、二人組みで向かい合って遊ぶ日本の遊び歌・わらべうたです。
遊び方は、まず向かい合って両手をつなぎ、「セッセッセ~の」で上下に3回両手を振って、「ヨイヨイヨイ」で両手をつないだまま交差させて上下に3回両手を振る。その後、左手を上に向けて相手に差出し、「おちゃ」で自分の左手を、「らか」で相手の左手を叩く。これを3回繰り返します。「ほい」でジャンケンをして、勝ったらバンザイ、負けたらうつむき、あいこなら腰に両手を当てます。勝ち負けの判定は、じゃんけんの勝敗ではなく、一連の動作が正確にできたか否かで判断します。相手が失敗するまで、徐々にスピードを上げながら繰り返していきます。
セッセッセーのヨイヨイヨイ
おちゃらか おちゃらか
おちゃらか ほい
おちゃらか かったよ
おちゃらか ほい
おちゃらか まけたよ
おちゃらか ほい
おちゃらか あいこで
おちゃらか ほい
https://www.youtube.com/watch?v=OneQ5HW5i18
子供の遊び歌「おちゃらかほい」の「おちゃらか」の意味、語源が分からなかったので調べてみました。
どうやら「おちゃらか」は「おしゃらく(お洒落)」が訛ったもの、「おしゃらく」は(オシャレをした)遊女ということになるようです。さらに「勝ったよ」ではなく「買ったよ」になるらしく、じゃんけんに買ったほうが遊女を買える遊びが元のようです。
貧乏だったため親に売られたり人身売買されて遊女となってしまった女性早く自由になりたい、そのためにせっせと働かなければなりません。そんな哀しい歌なのです。
せっせっせーの
(今晩もせっせ、せっせと働きなさい)
よいよいよい
(宵はまだはじまったばかりだよ)
おちゃらか おちゃらか おちゃらか ほい
(ほら、おちゃらかしにお客がやってきたよ)
おちゃらかあいこで
(どの女にしようか)
おちゃらかほい
(オレはあの女にするよ)
おちゃらか 勝ったよ
(オレはこの女を買ったよ)
おちゃらか ほい
おちゃらか 負けたよ
(あぁ、負けてしまった あの子は買われて私は買われなかった)
おちゃらか ほい
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そして女同士の張り合いを、旦那衆は楽しそうに見ているのでした。
ウェブニュースより
【速報】大阪北部で震度6弱、京都南部で震度5強 津波の心配はなし ――
午前7時58分、大阪府北部を震源とする地震が発生した。この地震による津波の心配はないという。 (Abema TIMES 2018.06.18 08:06)
朝飯を食べながらテレビを見ていると、大阪府北部で震度6弱の地震があったと言います。昨日、女房と松屋に出かけているときに、篠山の姪から関東北部の地震を心配して携帯に安否の問い合わせがあったことだし、姪に電話しようとしていた矢先に、携帯が(メール受信)の合図を報せてきました。開くと、姪からのメールで、曰く、
FW:震度6弱
こちらは無事です。お知らせまで。 C.U.
と、ありました。方々からの電話で忙しいだろうと、まだ返事を出さないでいます。
ウェブニュースより
群馬で震度5弱=内陸直下で断層ずれる ―― 7日午後3時7分ごろ、群馬県南部を震源とする地震があり、同県渋川市で震度5弱の揺れを観測したほか、関東を中心に震度1~4の揺れがあった。気象庁によると、震源の深さは14キロ、地震の規模(マグニチュード)は4.6と推定される。
気象庁の尾崎友亮地震情報企画官は記者会見で、「近くに大久保断層があるが、今回の地震との関係は分からない。内陸直下で断層が押されてずれた逆断層型地震とみられる」と説明。「揺れの強かった地域では約1週間、最大5弱程度の地震に注意してほしい」と呼び掛けた。近くの火山の活動に異常はないという。 (時事通信社 2018/6/17 19:26)
大阪府北部で震度6弱 西淀川区で「住宅から煙」の通報 ―― 18日午前8時ごろ、大阪府北部で震度6弱、京都南部で震度5強などの地震。津波の心配なし。
大阪市消防局によると、18日午前8時半現在、エレベーター内に閉じ込められるなど、救助の要請が複数ある。また午前8時25分ごろ、西淀川区大和田3丁目で、「住宅から煙が上がっている」と通報があった。
枚方寝屋川消防組合によると午前8時半現在、枚方、寝屋川両市では壁の倒壊、エレベーターの閉じ込めの通報が複数ある。枚方市では「水道管が破裂した」という通報もあったという。 (朝日新聞DIGITAL 2018年6月18日09時16分)
東京の京橋には今でも親柱が残っており、そこには「きやうはし」と刻まれています。「今日」の歴史的仮名づかいは「けふ」なのに、なぜ「京」は、「きやう」なのでしょう?
現代仮名づかいの「きょう」は、歴史的仮名づかいでは「きよう」「きやう」「けう」「けふ」と4通りに表記する場合があり、それぞれの例として共通(きようつう)、兄弟(きやうだい)、教育(けういく)、今日(けふ)などがあるといいますが、どういう風に使い分けるのでしょうか?
「きよう」「きやう」「けう」「けふ」 これらは現代ではもちろん全て「きょう /kjo:/」と同じ発音をされますし、古典作品を読むときも全て同じように読みます。
初めから同じ音に複数のつづりを用意するのは考えてみればおかしなことです。実は歴史的仮名遣いは昔は書いてある通りに発音していたのです。「きよう」「きやう」「けう」「けふ」は全く別の音をその通りに書いているだけで「使い分ける」ようなものではなかったのです。
しかし言語というものは時間がたつと発音が変わってゆくのが普通です。その一方文字の方はそれに比べると改定されるのが遅れるのがまた普通です。書いたものはいつまでも残り、また話し言葉は書き言葉よりも常に先を行くものです。こうなると単に昔からの習慣として同じ発音に違う文字を使い続けることになります。
このように文字と発音に乖離が生じるのは決して珍しいことではなく、代表的なのは英語(例えばknight)です。日本語はつづりを改定し発音と文字を完全ではないにしろ近づけましたが英語はいまだに「歴史的仮名遣い」をしているのです。
なお、漢字の音読みの場合、伝わってきた当時の音を限られた種類の仮名でできるだけ忠実に表そうとしたのが歴史的仮名遣いに現れていると言われます。
「京(きゃう)」-現代中国音 jing:朝鮮音 kyeong
「協(けふ)」-現代中国音 xie:朝鮮音 kep
昔の中国や朝鮮の発音は正確には分かりませんが、日本音(旧仮名遣い)と中国音、朝鮮音の間にはほぼ正確な対応が見られます。「~ふ」となる場合は中国では末尾の子音なし、朝鮮では p で終わる、「~う」は ng に対応するなどのようにです。
「今日」と書いてもキョウと読みます。これを旧仮名遣いではケフと書きます。その発音の移り変わりは次の通りです。まずケフは古くはkeFeと発音されましたが、そのFが弱くなってwになり、さらに消失してkeuと発音されるように変わり、ついで keu→keô→kiô→kyô というように変化してきて、今日のキョウにいたったものです。ところが、発音の変化は、同じ条件の場合には例外なく一斉におこるので、古語の蝶(テフ)がチョウになったのも、ケフ→キョウと全く同じ経過をたどっているのです。
つまり、蝶(てふ)は元々中国語の発音を仮名で写したもので、teFu と発音されていました。それがテウと発音されるようになり、teu→teô→tiô→tyô という変化を経ました。その結果、蝶々がチョウチョウとなったのです。
ウェブニュースより
完全非核化、体制保証で合意=トランプ氏、拉致問題を提起-具体策先送り・米朝会談 ――トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は12日、シンガポール南部セントーサ島のホテルで初めて会談し、共同声明に署名した。トランプ氏は北朝鮮の体制保証を約束、正恩氏は「朝鮮半島の完全な非核化に向けた断固とした揺るぎない決意」を再確認した。トランプ氏は会談後、日本人拉致問題を提起したと明らかにした。
共同声明によると、米朝両国は新たな関係を構築し、永続的で安定した朝鮮半島の平和体制構築へ共に努力することを確認した。一方、北朝鮮核問題では、米国が求める「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」の文言はなく、具体策は継続協議となった。焦点の一つとなっていた朝鮮戦争の終結も言及されなかった。
トランプ氏は署名式で、「共同声明はとても重要で、包括的だ。非核化のプロセスは極めて早く始まる」と説明。正恩氏は「歴史的なこの対面で、過ぎ去った過去にふたをし、新しい出発を知らせる歴史的な文書に署名する。世界はおそらく重大な変化を目にすることになる」と応じた。
トランプ氏は会談後の記者会見で、「われわれの前例のない会談は本物の変化が全く可能であることを証明した」と称賛した。その上で、正恩氏がミサイルエンジン試験場の破壊を約束したことも明らかにした。ただ、「完全な非核化の実現には長い時間がかかる」と指摘し、対北朝鮮経済制裁を当面継続する方針も述べた。
米韓合同軍事演習については、対話中は「不適切だ」とし、当面は実施しない意向を示した。朝鮮戦争については「間もなく終結するという希望を持っている」と語った。正恩氏に「適切な時期」のホワイトハウス訪問も招請したという。
首脳会談は午前9時(日本時間同40分間10時)すぎにスタート。通訳だけの1対1の膝詰めで約40分間会談した後、拡大会合、ワーキングランチで協議を続けた。トランプ、正恩両氏は報道陣の前で散歩をするなど会談成功に向けて友好を演出した。
トランプ氏は首脳会談冒頭、「われわれは素晴らしい議論をし、大きな成功を収めるだろう」と述べた。正恩氏は「ここまでの道のりはなかなか容易ではなかった。われわれは全てを乗り越え、この場に来た」と応じた。 時事通信社 2018/06/12 21:09
葵(アオイ)と言えば、古代から中世までは、冬でも咲く冬葵(フユアオイ)でしたが、江戸時代の近世以降は、葵(アオイ)と言えば、立葵 (タチアオイ)のことを意味するようになったとされています。
タチアオイは以前は中国原産と考えられていましたが、今はビロードアオイ属のトルコ原産種と東ヨーロッパ原産種との雑種であるとする説が有力です。
中国では前漢(紀元前206~8年)の時代にはすでに栽培されていたらしく、紀元前二世紀頃に編まれた『爾雅(じが/中国最古の類語・語釈辞典)』に「蜀葵」の名で登場します。これは蜀の国(?~紀元前316年)から伝来したアオイということを表しています。
また、敦煌の壁画の一つである「楽庭壊夫人供養図」に一株のタチアオイらしいものが描かれてあるそうで、この植物がシルクロードに沿って西域から中国へと伝播したことを示唆しているのかもしれません。
どうして、「アオイ」と言うようになったのか? 諸説ありますが、そのうちの1つはこの植物が太陽の方に花や葉をを向けて、まるで、お日さまを仰ぐように咲くことから「仰日(アフヒ)」と呼ばれ、それが変化して「アオイ」になったという説があります。
「葵」の字が最初にあらわれるのは『万葉集』(7世紀後半~8世紀後半に成立)の第3834番の歌です。
梨棗 黍に粟嗣ぎ 延ふ田葛の 後も逢はむと 葵花咲く
(なしなつめ きみにあはつぎ はふくずの のちもあはむと あふひはなさく)
この歌には、 黍(きび)に粟(あは)つぎ ⇒ 君に逢はつぎ
葵(あふひ) ⇒ 逢う日
という掛詞にがつかわれています。「後(のち)も逢はむと 葵(あふひ)花咲く」から、「逢日(アフヒ)」に由来して、葵(アオイ)になったという語源の説があります。
さて、この万葉集で歌われたこの歌の葵とは、冬葵(フユアオイ)のことだとされていますが、「日本の植物学の父」と称された植物学者の牧野富太郎はこの万葉集で歌われた葵は立葵であると主張しています。
その後、918年ごろに成立したという『本草和名(ほんぞうわみょう/現存する日本最古の薬物辞典)』を見ると、「蜀葵」の和名として「加良阿布比」をあげており、これが今でいうタチアオイであると考えられています。つまり、平安時代(794~1185年頃)中期にはすでに渡来していたのです。
その後の特筆すべきこととしては、画材として注目されたということが挙げられます。室町時代(1336~1573年)の作品では、狩野派の画人が描いたとされるボストン美術館所蔵の名画「麝香猫(じゃこうねこ)図」に紅花と白花の見事なタチアオイが描かかれています。
そして江戸時代になると、多くの品種も作り出きれ、琳派の画人たちが好んでタチアオイを描きましたが、なかでも酒井抱一(ほういつ)が残した“十二か月花鳥図”の「立葵紫陽花に蜻蛉」の中のそれはとても優雅なものです。
この立葵の学名は Althaea rosea、 Althaeaは「アルテア属」で、roseaには、「バラのような」という意味で、Althaeaはギリシア語由来の古典ラテン語に由来し、ギリシア語「althaia」は「althaino」(治療)が語源です。Althaea roseaは、薬用の効果があるとされ、その立葵が日本に伝わった古くから薬草として伝わってきたといいます。その立葵は、梅雨が始まるころの6月上旬に咲き、梅雨明けのころの花の季節が終わるので、「梅雨葵」という別名があります。
家紋に使われる葵(徳川家の「三つ葉葵」、下鴨神社の「双葉葵」など)は別科であるウマノスズクサ科のフタバアオイの葉をデザインしたものです。
愛知県豊川市の伊奈城趾公園に、「葵の紋発祥の由来」という石碑と、「葵の紋発祥ゆかりの地」という説明パネルがあります。本多家の「立葵の紋」と徳川家の「三つ葉葵の紋」を示しています。
「ばら」の名は和語で、「いばら」の転訛したものです。漢語「薔薇」の字をあてるのが通常ですが、この語はまた音読みで「そうび」「しょうび」とも読みます。漢語には「玫瑰」(まいかい)や「月季」(げっき)の異称もあります。「玫瑰」は中国語においてはハマナスを指すそうです。
欧州ではラテン語の rosa に由来する名で呼ぶ言語が多く、また同じ語が別義として「ピンク色」の意味をもつことが多いそうです。6月の誕生花で、季語は夏です。(「冬薔薇」「ふゆそうび」となると冬の季語になります)。
日本はバラの自生地として世界的に知られており、品種改良に使用された原種のうち3種類(ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシ)は日本原産です。
古くバラは「うまら」「うばら」と呼ばれ、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があります。『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とあります。常陸国にはこの故事にちなむ茨城(うばらき)という地名があり、茨城県の県名の由来ともなっています。
江戸時代初期に、仙台藩の慶長遣欧使節副使・支倉常長が西洋からバラを持ち帰ったそうです。そのバラは、伊達光宗の菩提寺の円通院にある光宗の霊廟「三慧殿」の厨子に描かれたため、同寺は「薔薇寺」の通称で呼ばれるようになったそうです。
江戸時代には職分を問わず園芸が流行りましたが、バラも「コウシンバラ」「モッコウバラ」などが栽培されており、江戸時代に日本を訪れたドイツ人ケンペルも「日本でバラが栽培されている」ことを記録しています。
また、与謝蕪村が「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」の句を残しています。
このようにバラ日本人にゆかりのある植物ですが、バラがいまのように「花の女王」として愛好されるようになるのは明治以降なのです。
明治維新を迎えると、明治政府は「ラ・フランス(和名:天地開)」を農業試験用の植物として取り寄せ、青山官制農園(いまの東京大学農学部)で栽培させた。馥郁とした香りを嗅ごうと見物客がしばしば訪れたので、株には金網の柵がかけられたといいます。
しかしまだ、バラは西洋の「高嶺の花」でしたが、その後、バラが接ぎ木で増やせることから、優秀な接ぎ木職人のいる東京郊外の川口市の安行や京阪神地域の郊外・宝塚市山本で栽培が行われるようになりました。バラは皇族、華族、高級官僚といったパトロンを得て、日本でも徐々に愛好され始め、生産量も増え始めます。大正から昭和のころには一般家庭にも普及し、宮沢賢治が「グリュース・アン・テプリッツ(和名:日光)」を愛し、北原白秋の詩にもバラが登場しています。
第二次世界大戦で日本でもバラの栽培より野菜の栽培が優先され、生産が停滞します。しかし、戦後すぐの1948年には銀座でバラの展示会が開かれた。さらに1949年には横浜でバラの展示会が開かれ、そのときにはアメリカから花を空輸して展示用の花がそろえられたそうです。
鳩山一郎や吉田茂などのバラの愛好は、戦後日本でのバラの普及に大いに貢献しました。このように戦後の高度成長の波に乗り、バラは嗜好品として庶民にも普及していき、日本でも品種改良が行われるようになります。また、鉄道会社が沿線開発の一環として、バラ園の造営を行うようになり、各地にバラ園が開園されました。
ウェブニュースより
近畿、東海、関東甲信 梅雨入り ―― 6日、気象庁は近畿、東海、関東甲信地方の梅雨入りを発表しました。各地で長雨の季節の到来です。
6日、近畿、東海、関東甲信地方が梅雨入りしたとみられます。近畿は平年より1日早い、東海と関東甲信は平年より2日早い梅雨入りです。
今年は、5月7日ごろに奄美地方、翌8日に沖縄地方が梅雨入り。5月26日は九州南部、28日は九州北部と四国、6月5日は中国地方も梅雨入りしており、続々と長雨の季節を迎えています。
※ 梅雨は季節現象であり、梅雨入り明けには、平均的に5日間程度の「移り変わり」の期間があります。 (tenki.j 2018年06月06日11:0)
関東地方もいよいよ梅雨入りしたようです。
梅雨の雨は、梅にとって恵みの雨です。この季節に雨が降ることで、梅の実は大きく膨らんでいきます。ところで、「梅雨」はなぜ「梅の雨」と書くのでしょう?
「梅雨」とは、6月~7月中旬、中国の長江下流域から朝鮮半島、日本列島(北海道を除く)に見られる雨期のことで、それほど雨足の強くない雨が、長期に亘って続くのが特徴です。現在、中国では「梅雨(メイユー)」、韓国では「長霖(チャンマ)」と呼ぶそうです。「梅雨」は東アジア特有の雨期であり「梅」も東アジアにしか生息しない植物です。
しかし中国でも梅雨という言葉が使われるようになった経緯がはっきりしていないため、現代でもあいまいなままとなり様々な説があるそうです。そのひとつとして黴(かび)の生えやすい時期の雨という意味で「黴雨(ばいう)」と呼ばれていて、それでは語感が良くないため季節に合った同じ音の「梅(ばい)」の字を使って梅雨と呼ぶようになったという説があります。
中国盛唐の詩人杜甫が「梅雨」という詩を残しています。そこには“4月になると梅の実が黄色く熟する”という一文と、“梅雨の細やかな雨が降り続き空は暗い”という一文があるのです。つまり、梅の実が熟すころに雨が降り続いていたことになり、この詩の題名から杜甫が生まれた712年以降には梅雨と呼ばれていたと捉えることができます。
日本独自の歳時記としては『日本歳時記』が始まりとされ、そこには“此の月淫雨ふるこれを梅雨と名づく”という一文があるのです。梅の熟す時期の雨という意味となり、杜甫の詩と同じ雨のことを指していることがわかります。日本歳時記は貝原益軒(かいばら えきけん)によって1688年に刊行されたことから、日本では江戸時代から梅雨と呼ばれるようになったと言えるでしょう。
「梅雨」という言葉は、江戸時代に日本へ伝わり、その頃から、日本でも「梅雨(つゆ)」と呼ばれるようになったといいます。それにも、いくつかの説があります。
・「露(つゆ)」から連想した。
・梅の実が熟す時期だから「つはる」から連想した。
・梅の実が熟し潰れる時期だから「潰ゆ(つゆ)」と関連つけた。
・カビのせいで物がそこなわれる「費ゆ(つひゆ)」から連想した。
「梅雨」という言葉が伝わる以前は「五月雨(さみだれ)」といったようです。「さ」は陰暦の5月(現在の6月)、「みだれ」は「水垂れ」を意味するといいます。
ウェブニュースより
藤井七段、2期連続で竜王戦挑戦者決定Tに進出 ――史上最年少プロ棋士、藤井聡太七段(15)が5日、大阪市の関西将棋会館で指された第31期竜王戦5組ランキング戦決勝で石田直裕五段(29)を破って優勝し、羽生善治竜王(47)への挑戦者を決める挑戦者決定トーナメント(T)に進出した。優勝賞金155万円を手に入れた。4月に高校進学後、負けなしの7連勝。公式戦通算成績は78勝12敗。
終盤の攻め合いを制した藤井は「感触のよくない手もあった」としながらも厳しい手を指し続け、投了に追い込んだ。
初対局となった石田は「終盤の読みの精度はすごいと感じた。自分には見えていない手を指されて対応することができなかった」と完敗を認めた。
https://www.youtube.com/watch?v=c1hoomlhLaE
藤井は昨年、6組で優勝して決定Tに出場しており、これで2期連続の進出となった。挑戦者決定Tは各組上位者11人によるトーナメント。藤井は羽生竜王への挑戦権を得るまで最短で7連勝が必要となる。
昨年の竜王戦決定Tの初戦は増田康宏四段(現六段)に勝ち、歴代最多の29連勝を達成した。「昨年は2回戦で負けてしまったので、今期は経験を生かして上を目指したい」。決定T初戦は6組1位の都成竜馬五段(28)と対局する。
挑戦権を獲得し、10~12月にかけて行われる7番勝負で、羽生竜王からタイトル奪取すれば、昇段規定「竜王位1期獲得」をクリアすることになり「16歳八段」が誕生する。 [日刊スポーツ 2018年6月5日22時47分]
sechin@nethome.ne.jp です。
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