瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
3歳にして父を、14歳にして兄を失い、兄嫁の鄭氏に養われ、苦労して育った。792年に進士に及第、その後、監察御史、中書舎人、吏部侍郎(この官によって「韓吏部」とも呼ばれる)、京兆尹などの官を歴任したという。818年(元和13年)、30年に1度のご開帳に供養すればご利益があるとして信仰を集めていた鳳翔(陝西省)法門寺の仏舎利が、長安の宮中に迎えられ、供養されることとなった。819年(元和14年)、それに対して韓愈は、『論仏骨表』を憲宗に奉って極諌しため、崇仏皇帝であった憲宗の逆鱗に触れ、潮州(広東省)刺史に左遷された。翌820年、憲宗が死去して穆宗が即位すると、再び召されて国子祭酒に任じられ、その後は兵部侍郎・吏部侍郎を歴任し、824年に死去した。礼部尚書を追贈されたという。
北宋の沈括〔しんかつ、1030~1094年、北宋中期の政治家・学者〕の『夢渓筆談』に、韓愈についての記事がある。
やせた韓退之:世人は韓退之をひげの美しい痩せた顔に紗帽をかぶせて描くが、これはじつは江南の韓煕載〔かんきさい、902~970年〕の像なのだ。当時の絵がいまなお残っており、題誌もはっきりしている。煕載の諡(おくりな)が文靖(ぶんせい)なので江南人は彼を「韓文公」と呼んだ。そこで韓退之と取り違えるようなことになったのである。退之は肥(ふと)っていてひげは薄かった。元豊年間(『宋史』によると元豊7年、1084年)に退之が文宣王廟〔孔子廟、孔子は唐の玄宗から文宣王、宋の眞宗から至聖文宣王と諡された〕に合わせ祀られることになって、各郡県で画いた像は、みな煕載の像だった。以来後世の者には判断のしようもなく、退之は煕載になってしまったのである。《夢渓筆談、巻四、第77条》――中国古典文学大系56 平凡社刊 より
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目高 拙痴无
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