瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
夢渓筆談巻1より 中国の衣冠は胡服
中國衣冠,自北齊以來,乃全用胡服。窄袖、緋綠短衣、長靿靴、有鞢帶,皆胡服也。窄袖利於馳,短衣、長靿皆便於涉草。胡人樂茂草,常寢處其間,予使北時皆見之。雖王庭亦在深薦中。予至胡庭日,新雨過,涉草,衣褲皆濡,唯胡人都無所沾。帶衣所垂蹀躞,蓋欲佩帶弓劍、帉帨、算囊、刀礪之類。自後雖去蹀躞,而猶存其環,環所以銜蹀躞,如馬之鞧根,即今之帶銙也。天子必以十三環為節,唐武德貞觀時猶爾。開元之後,雖仍舊俗,而稍褒博矣。然帶鉤尚穿帶本為孔,本朝加順折,茂人文也
〔訳〕中国の衣冠は、北斉〔550~577年、古代北アジア騎馬遊牧民族の一つである鮮卑族が華北に建てた国家〕以来、ずっとすべてきたアジア騎馬遊牧民の服装〔胡服〕を用いている。細い袖、緋と緑の丈の短い服、長い革靴、鞢しょう〔革+燮〕のついている帯などは、みな北アジア騎馬民族のふくそうである。
細い袖は騎馬に便利であり、丈の短い服と長い欻とは、いずれも草原を突っ走るのに便利である。
北アジア騎馬遊牧民は、草の生い茂ったところを好み、いつも草原にねぐらを定める。私が北方に使者として赴いた際に、そのことは実際に見聞したところで、王の居所でさえ草原中にあるのだった。私が王の居所に着いた日、雨がさっと降ったあと草原を歩いたところ、私の衣服はすっかり濡れてしまったが、彼らの衣服は全然ぬれていなかった。
帯に鞢しょうを垂らすのは、弓や剣・手拭・数取り棒を入れる袋・刀の砥石の類を身につけておくためである。のちに鞢しょうを取り去るようになってからも、その環だけは残っている。環は鞢しょうを吊るすためのもので、馬における鞦根(しりがい)のようなもの、すなわち今の帯銙(おびがね)である。天子は必ず十三の環をつけるのを定めとしていた。唐の武徳・貞観年間〔618~649年、すなわち初唐の頃〕がそうであった。
開元〔713~741年、すなわち盛唐の頃〕以後は、やはり旧俗を保ってはいるが、少し華美になってきている。とはいっても帯鉤(おびがね)はもともと帯そのものに穴を空けて留めているのに、わが宋朝では順折〔意味不明〕を加えるなど、手を加えすぎている。
※ 鮮卑はウィグル族やカザフ族と同じトルコ系の民族であったらしい。北朝から唐にかけて大量の古代北アジア遊牧民文化が、それもとくにトルコ系の文化が流れ込んだらしい。もっとも北アジア騎馬遊牧民の服装即ち胡服が初めて中国に入ったのは、もっと古く王国維〔1877~1927年、研究領域は文学・美学・史学・哲学・考古学に及び、「新学術」の開拓者とされる)は史記に述べる所に基いて趙の武霊王(BC325~299年)の時であるとしている。武霊王はその軍隊に胡服を採用して騎射を修得させ遊牧民族の戦闘方式を輸入して西北の胡族を撃破した。以来秦漢代を通じて胡服は士卒の服として用いられてきたが、南北朝時代になると、騎馬遊牧民の建国した王朝の多い北朝において、胡服が天子や文武百官の着用する正式の衣冠にまでなって、隋・唐に及んだのである。
※ 鞢しょう〔革+燮〕:元鞍の付属品の名称で、鞍の左右の縁に金属の環などを取り付けてたらしたもの。帯につけるものもこれと同型のものなので同じ名で呼んだらしい。
※ 沈括(しんかつ)は宋の神宗の煕寧八(1075)年五月に、北方の遼国〔契丹(きたい)〕に使者として赴き、国境紛争を宋に有利に解決して帰っている。時に沈括四十五歳。
中國衣冠,自北齊以來,乃全用胡服。窄袖、緋綠短衣、長靿靴、有鞢帶,皆胡服也。窄袖利於馳,短衣、長靿皆便於涉草。胡人樂茂草,常寢處其間,予使北時皆見之。雖王庭亦在深薦中。予至胡庭日,新雨過,涉草,衣褲皆濡,唯胡人都無所沾。帶衣所垂蹀躞,蓋欲佩帶弓劍、帉帨、算囊、刀礪之類。自後雖去蹀躞,而猶存其環,環所以銜蹀躞,如馬之鞧根,即今之帶銙也。天子必以十三環為節,唐武德貞觀時猶爾。開元之後,雖仍舊俗,而稍褒博矣。然帶鉤尚穿帶本為孔,本朝加順折,茂人文也
〔訳〕中国の衣冠は、北斉〔550~577年、古代北アジア騎馬遊牧民族の一つである鮮卑族が華北に建てた国家〕以来、ずっとすべてきたアジア騎馬遊牧民の服装〔胡服〕を用いている。細い袖、緋と緑の丈の短い服、長い革靴、鞢しょう〔革+燮〕のついている帯などは、みな北アジア騎馬民族のふくそうである。
細い袖は騎馬に便利であり、丈の短い服と長い欻とは、いずれも草原を突っ走るのに便利である。
北アジア騎馬遊牧民は、草の生い茂ったところを好み、いつも草原にねぐらを定める。私が北方に使者として赴いた際に、そのことは実際に見聞したところで、王の居所でさえ草原中にあるのだった。私が王の居所に着いた日、雨がさっと降ったあと草原を歩いたところ、私の衣服はすっかり濡れてしまったが、彼らの衣服は全然ぬれていなかった。
帯に鞢しょうを垂らすのは、弓や剣・手拭・数取り棒を入れる袋・刀の砥石の類を身につけておくためである。のちに鞢しょうを取り去るようになってからも、その環だけは残っている。環は鞢しょうを吊るすためのもので、馬における鞦根(しりがい)のようなもの、すなわち今の帯銙(おびがね)である。天子は必ず十三の環をつけるのを定めとしていた。唐の武徳・貞観年間〔618~649年、すなわち初唐の頃〕がそうであった。
開元〔713~741年、すなわち盛唐の頃〕以後は、やはり旧俗を保ってはいるが、少し華美になってきている。とはいっても帯鉤(おびがね)はもともと帯そのものに穴を空けて留めているのに、わが宋朝では順折〔意味不明〕を加えるなど、手を加えすぎている。
※ 鮮卑はウィグル族やカザフ族と同じトルコ系の民族であったらしい。北朝から唐にかけて大量の古代北アジア遊牧民文化が、それもとくにトルコ系の文化が流れ込んだらしい。もっとも北アジア騎馬遊牧民の服装即ち胡服が初めて中国に入ったのは、もっと古く王国維〔1877~1927年、研究領域は文学・美学・史学・哲学・考古学に及び、「新学術」の開拓者とされる)は史記に述べる所に基いて趙の武霊王(BC325~299年)の時であるとしている。武霊王はその軍隊に胡服を採用して騎射を修得させ遊牧民族の戦闘方式を輸入して西北の胡族を撃破した。以来秦漢代を通じて胡服は士卒の服として用いられてきたが、南北朝時代になると、騎馬遊牧民の建国した王朝の多い北朝において、胡服が天子や文武百官の着用する正式の衣冠にまでなって、隋・唐に及んだのである。
※ 鞢しょう〔革+燮〕:元鞍の付属品の名称で、鞍の左右の縁に金属の環などを取り付けてたらしたもの。帯につけるものもこれと同型のものなので同じ名で呼んだらしい。
※ 沈括(しんかつ)は宋の神宗の煕寧八(1075)年五月に、北方の遼国〔契丹(きたい)〕に使者として赴き、国境紛争を宋に有利に解決して帰っている。時に沈括四十五歳。
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