瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
論語 先進篇 より
顏淵死。子曰:「噫! 天喪予!天喪予!」
顔淵が死んだ時、先生〔孔子〕は仰った。「ああ、天はこの私を亡ぼした。天はこの私を亡ぼした」
顏淵死、子哭之慟。從者曰:「子慟矣。」曰:「有慟乎? 非夫人之為慟而誰為!」
顔淵が死んだ時、先生は〔顔淵の家で〕哭の礼を行われたが〔本当に〕身を震わせて泣かれた。〔後日〕お供をした門人が、「先生は身を震わせてお泣きになりました」と申し上げると、〔先生が〕仰った。「身を震わせるほどだったかね。あれのために慟哭するのでなくて、誰のためにそんなに泣こうか」
顏淵死、門人欲厚葬之、子曰:「不可。」門人厚葬之。子曰:「回也視予猶父也、予不得視猶子也。非我也、夫二三子也。」
顔淵が死んだ時、同門の弟子たちは盛大な葬式を執行しようとした。先生は「いけない」と言われたが、弟子たちは盛大に葬式をおこなってしまった。先生が仰った。「回は〔生前〕私をまるで実の父のようにしていたものだ。ところが〔今度〕私は彼を実の子のように出来なかった。〔あんな分不相応な葬式をして私にそのような思いをさせたのは〕私の所為ではないぞ。あの〔お節介な〕弟子どもだよ」
顔回〔BC513~482年、顔淵〕は、孔子が最も深く愛し将来を嘱望した高弟であり、孔子の諸国遊説以前から孔子に師事していた人物である。顔回は、巧言令色を好まず議論で積極的に意見を述べることも殆どなかったが、寡黙な態度を保持しながら内面に徳の高さを感じさせる人物であったという。同じ論語の爲政篇には
「子曰、吾与回言終日、不違如愚、退而省其私、亦足以発、回也不愚。〔子曰く、吾回と言(かたる)ること終日、違わざること愚なるが如し。退きてその私を省(かえりみ)れば、亦(また)以って発(あき)らかにするに足れり。回は愚ならず。〕」とある。顔回は孔子よりも早く41歳でこの世を去り、最愛の弟子に先立たれた孔子は深い悲しみに襲われることになったのである。
爺がまだ国民学校6年生だった頃の国語の教科書の文を見つけたので、以下に掲載する。
《孔子と顔回》
一
「ああ、天は予(よ)をほろぼした。天は予をほろぼした。」
七十歳の孔子は、弟子顔回の死にあつて、聲をあげて泣いた。
三千人の弟子のうち、顔回ほどその師を知り、師の敎へを守り、師の敎へを實行することに心掛けた者はなかつた。これこそは、わが道を傳へ得るただ一人の弟子だと、孔子はかねてから深く信頼してゐた。その顔回が、年若くてなくなつたのである。
「ああ、天は予をほろぼした。天は予をほろぼした。」
まさに、後繼者を失つた者の悲痛な叫びでなくて何であらう。
二
十數年前にさかのぼる。孔子が、弟子たちをつれて、匡(きやう)といふところを通つた時、突然軍兵に圍まれたことがある。かつて陽虎(やうこ)といふ者が、この地でらんばうを働いた。不幸にも、孔子の顔が陽虎に似てゐたところから、匡人は孔子を取り圍んだのである。この時、おくればせにかけつけた顔回を見た孔子は、ほつとしながら、
「おお、顔回。お前は無事であつたか。死んだのではないかと心配した。」
といつた。すると顔回は、
「先生が生きていらつしやる限り、どうして私が死ねませう。」
と答へた。
孔子は五十餘歳、顔回は一靑年であつた。わが身の上の危さも忘れて、孔子は年若い顔回をひたすらに案じ、また顔回は、これほどまでその師を慕つてゐたのであつた。
三
それから數年たつて、陳(ちん)・蔡(さい)の厄があつた。孔子は楚(そ)の國へ行かうとして、弟子たちとともに陳・蔡の野を旅行した。あいにくこの地方に戰亂があつて、道ははかどらず、七日七夜、孔子も弟子も、ろくろく食ふ物がなかつた。
困難に際會すると、おのづから人の心がわかるものである。弟子たちの中には、ぶつぶつ不平をもらす者があつた。き一本な子路が、とがり聲で孔子にいつた。
「いつたい、德の修つた君子でも困られることがあるのですか。」
德のある者なら、天が助けるはずだ。助けないところを見ると、先生はまだ君子ではないのか──子路には、ひよつとすると、さういふ考へがわいたのかも知れない。孔子は平然として答へた。
「君子だつて、困る場合はある。ただ、困り方が違ふぞ。困つたら惡いことでも何でもするといふのが小人である。君子はそこが違ふ。」
子貢(しこう)といふ弟子がいつた。
「先生の道は餘りに大き過ぎます。だから、世の中が先生を受け容れて用ひようとしません。先生は、少し手かげんをなさつたらいかがでせう。」
孔子は答へた。
「細工のうまい大工が、必ず人にほめられるときまつてはゐない。ほめられないからといつて、手かげんするのが果してよい大工だらうか。君子も同じことだ。道の修つた者が、必ず人に用ひられるとはきまつてゐない。といつて手かげんをしたら、人に用ひられるためには、道はどうでもよいといふことになりはしないか。」
顔回は師を慰めるやうにいつた。
「世の中に容れられないといふことは、何でもありません。今の亂れた世に容れられなければこそ、ほんたうに先生の大きいことがわかります。道を修めないのは君子の恥でございますが、君子を容れないのは世の中の恥でございます。」
このことばが、孔子をどんなに滿足させたことか。
四
孔子は、弟子に道を説くのに、弟子の才能に應じてわかる程度に敎へた。
孔子の理想とする「仁」についても、ある者には「人を愛することだ。」といひ、ある者には「人のわる口をいはないことだ。」と説き、ある者には「むづかしいことを先にすることだ。」と敎へた。いづれも「仁」の一部の説明で、その行ひやすい方面を述べたのである。ところで顔回には、
「己に克(か)つて禮に復(かへ)るのが仁である。」
と敎へた。あらゆる欲望にうちかつて、禮を實行せよといふのである。その實行方法として、
「非禮は見るな。非禮は聞くな。非禮はいふな。非禮に動くな。」
と敎へた。朝起きるから夜寝るまで、見ること、聞くこと、いふこと、行ふこと、いつさい禮に從ひ、禮にかなへよといふのである。ここに、「仁」の全體が説かれてゐる。さうして、顔回なればこそ、この最もむづかしい敎へを、そのまま實行することができたのである。
五
孔子は顔回をほめて、
「顔回は、予の前で敎へを受ける時、ただだまつてゐるので、何だかぼんやり者のやうに見える。しかし退いて一人でゐる時は、師の敎へについて何か自分で工夫をこらしてゐる。決してぼんやり者ではない。」
といつてゐる。また、
「ほかの弟子は、敎へについていろいろ質問もし、それで予を啓發してくれることがある。しかし、顔回は質問一つせず、すぐ會得して實行にかかる。かれは、一を聞いて十を知る男だ。」
ともいつてゐる。
孔子がよく顔回を知つてゐたやうに、顔回もまたよくその師を知つてゐた。顔回は孔子をたたへて、
「先生は、仰げば仰ぐほど高く、接すれば接するほど奥深いお方だ。大きな力で、ぐんぐんと人を引つぱつて行かれる。とても先生には追ひつけないから、もうよさうと思つても、やはりついて行かないではゐられない。私が力のあらん限り修養しても、先生は、いつでも更に高いところに立つておいでになる。結局、足もとにも寄りつけないと感じながら、ついて行くのである。」
といつてゐる。顔回なればこそ、偉大な孔子の全面を、よく認めることができたのである。
六
「先生が生きていらつしやる限り、どうして私が死ねませう。」
といつた顔回が、先生よりも先に死んでしまつた。ある日、魯(ろ)の哀公(あいこう)が孔子に、
「おんみの弟子のうち、最も學を好むものはだれか。」
とたづねた。孔子は、
「顔回といふ者がをりました。學を好み、過ちも二度とはしない男でございましたが、不幸にも短命でございました。」
と答へた。 国民学校国語教科書『初等科國語八』より(旧仮名遣い)
昨日大久保病院に見舞ったマイチが、爺との面会を待っていたかのように今朝ほど5時35分帰らぬ人となった。これが宿命と言うものなら、宿命とやらを憾みに思いたい。
人一倍元気で明るく、いつもみんなを楽しませてくれたマイチは3年程前、胃のスキルス癌で、放っておけば3ヶ月の余命、胃と周りの臓器4つを取る手術をすれば、3年生存率が50%、5年生存率が20%以下と言われたらしいが、本人の選択で手術はやめ、食事療法とサプリメントと鍼で、2年ほどは元気に何事もなく過ごしたと言う。一昨年の暮れに癌の活動が活発になったため、通院で抗がん剤治療も始めたが、やはり限界もあり、昨年10月に1ヶ月入院したという。この時点で同期の友人2・3名には知らせたらしいが、「先生には心配を掛けるのが申し訳ない」という本人の思いもあり、この爺には知らせなかったらしい。年末年始は自宅で過ごしたが、年明から病状は悪化の一途(いっと)の辿るばかり、痛みは全くなく、意識もまだはっきりしていたが、主治医からはいつ何があってもおかしくない状態と余命宣告され、この爺にも知らせてくれた次第である。心からご冥福を祈る。 合掌
顏淵死。子曰:「噫! 天喪予!天喪予!」
顔淵が死んだ時、先生〔孔子〕は仰った。「ああ、天はこの私を亡ぼした。天はこの私を亡ぼした」
顏淵死、子哭之慟。從者曰:「子慟矣。」曰:「有慟乎? 非夫人之為慟而誰為!」
顔淵が死んだ時、先生は〔顔淵の家で〕哭の礼を行われたが〔本当に〕身を震わせて泣かれた。〔後日〕お供をした門人が、「先生は身を震わせてお泣きになりました」と申し上げると、〔先生が〕仰った。「身を震わせるほどだったかね。あれのために慟哭するのでなくて、誰のためにそんなに泣こうか」
顏淵死、門人欲厚葬之、子曰:「不可。」門人厚葬之。子曰:「回也視予猶父也、予不得視猶子也。非我也、夫二三子也。」
顔淵が死んだ時、同門の弟子たちは盛大な葬式を執行しようとした。先生は「いけない」と言われたが、弟子たちは盛大に葬式をおこなってしまった。先生が仰った。「回は〔生前〕私をまるで実の父のようにしていたものだ。ところが〔今度〕私は彼を実の子のように出来なかった。〔あんな分不相応な葬式をして私にそのような思いをさせたのは〕私の所為ではないぞ。あの〔お節介な〕弟子どもだよ」
顔回〔BC513~482年、顔淵〕は、孔子が最も深く愛し将来を嘱望した高弟であり、孔子の諸国遊説以前から孔子に師事していた人物である。顔回は、巧言令色を好まず議論で積極的に意見を述べることも殆どなかったが、寡黙な態度を保持しながら内面に徳の高さを感じさせる人物であったという。同じ論語の爲政篇には
「子曰、吾与回言終日、不違如愚、退而省其私、亦足以発、回也不愚。〔子曰く、吾回と言(かたる)ること終日、違わざること愚なるが如し。退きてその私を省(かえりみ)れば、亦(また)以って発(あき)らかにするに足れり。回は愚ならず。〕」とある。顔回は孔子よりも早く41歳でこの世を去り、最愛の弟子に先立たれた孔子は深い悲しみに襲われることになったのである。
爺がまだ国民学校6年生だった頃の国語の教科書の文を見つけたので、以下に掲載する。
《孔子と顔回》
一
「ああ、天は予(よ)をほろぼした。天は予をほろぼした。」
七十歳の孔子は、弟子顔回の死にあつて、聲をあげて泣いた。
三千人の弟子のうち、顔回ほどその師を知り、師の敎へを守り、師の敎へを實行することに心掛けた者はなかつた。これこそは、わが道を傳へ得るただ一人の弟子だと、孔子はかねてから深く信頼してゐた。その顔回が、年若くてなくなつたのである。
「ああ、天は予をほろぼした。天は予をほろぼした。」
まさに、後繼者を失つた者の悲痛な叫びでなくて何であらう。
二
十數年前にさかのぼる。孔子が、弟子たちをつれて、匡(きやう)といふところを通つた時、突然軍兵に圍まれたことがある。かつて陽虎(やうこ)といふ者が、この地でらんばうを働いた。不幸にも、孔子の顔が陽虎に似てゐたところから、匡人は孔子を取り圍んだのである。この時、おくればせにかけつけた顔回を見た孔子は、ほつとしながら、
「おお、顔回。お前は無事であつたか。死んだのではないかと心配した。」
といつた。すると顔回は、
「先生が生きていらつしやる限り、どうして私が死ねませう。」
と答へた。
孔子は五十餘歳、顔回は一靑年であつた。わが身の上の危さも忘れて、孔子は年若い顔回をひたすらに案じ、また顔回は、これほどまでその師を慕つてゐたのであつた。
三
それから數年たつて、陳(ちん)・蔡(さい)の厄があつた。孔子は楚(そ)の國へ行かうとして、弟子たちとともに陳・蔡の野を旅行した。あいにくこの地方に戰亂があつて、道ははかどらず、七日七夜、孔子も弟子も、ろくろく食ふ物がなかつた。
困難に際會すると、おのづから人の心がわかるものである。弟子たちの中には、ぶつぶつ不平をもらす者があつた。き一本な子路が、とがり聲で孔子にいつた。
「いつたい、德の修つた君子でも困られることがあるのですか。」
德のある者なら、天が助けるはずだ。助けないところを見ると、先生はまだ君子ではないのか──子路には、ひよつとすると、さういふ考へがわいたのかも知れない。孔子は平然として答へた。
「君子だつて、困る場合はある。ただ、困り方が違ふぞ。困つたら惡いことでも何でもするといふのが小人である。君子はそこが違ふ。」
子貢(しこう)といふ弟子がいつた。
「先生の道は餘りに大き過ぎます。だから、世の中が先生を受け容れて用ひようとしません。先生は、少し手かげんをなさつたらいかがでせう。」
孔子は答へた。
「細工のうまい大工が、必ず人にほめられるときまつてはゐない。ほめられないからといつて、手かげんするのが果してよい大工だらうか。君子も同じことだ。道の修つた者が、必ず人に用ひられるとはきまつてゐない。といつて手かげんをしたら、人に用ひられるためには、道はどうでもよいといふことになりはしないか。」
顔回は師を慰めるやうにいつた。
「世の中に容れられないといふことは、何でもありません。今の亂れた世に容れられなければこそ、ほんたうに先生の大きいことがわかります。道を修めないのは君子の恥でございますが、君子を容れないのは世の中の恥でございます。」
このことばが、孔子をどんなに滿足させたことか。
四
孔子は、弟子に道を説くのに、弟子の才能に應じてわかる程度に敎へた。
孔子の理想とする「仁」についても、ある者には「人を愛することだ。」といひ、ある者には「人のわる口をいはないことだ。」と説き、ある者には「むづかしいことを先にすることだ。」と敎へた。いづれも「仁」の一部の説明で、その行ひやすい方面を述べたのである。ところで顔回には、
「己に克(か)つて禮に復(かへ)るのが仁である。」
と敎へた。あらゆる欲望にうちかつて、禮を實行せよといふのである。その實行方法として、
「非禮は見るな。非禮は聞くな。非禮はいふな。非禮に動くな。」
と敎へた。朝起きるから夜寝るまで、見ること、聞くこと、いふこと、行ふこと、いつさい禮に從ひ、禮にかなへよといふのである。ここに、「仁」の全體が説かれてゐる。さうして、顔回なればこそ、この最もむづかしい敎へを、そのまま實行することができたのである。
五
孔子は顔回をほめて、
「顔回は、予の前で敎へを受ける時、ただだまつてゐるので、何だかぼんやり者のやうに見える。しかし退いて一人でゐる時は、師の敎へについて何か自分で工夫をこらしてゐる。決してぼんやり者ではない。」
といつてゐる。また、
「ほかの弟子は、敎へについていろいろ質問もし、それで予を啓發してくれることがある。しかし、顔回は質問一つせず、すぐ會得して實行にかかる。かれは、一を聞いて十を知る男だ。」
ともいつてゐる。
孔子がよく顔回を知つてゐたやうに、顔回もまたよくその師を知つてゐた。顔回は孔子をたたへて、
「先生は、仰げば仰ぐほど高く、接すれば接するほど奥深いお方だ。大きな力で、ぐんぐんと人を引つぱつて行かれる。とても先生には追ひつけないから、もうよさうと思つても、やはりついて行かないではゐられない。私が力のあらん限り修養しても、先生は、いつでも更に高いところに立つておいでになる。結局、足もとにも寄りつけないと感じながら、ついて行くのである。」
といつてゐる。顔回なればこそ、偉大な孔子の全面を、よく認めることができたのである。
六
「先生が生きていらつしやる限り、どうして私が死ねませう。」
といつた顔回が、先生よりも先に死んでしまつた。ある日、魯(ろ)の哀公(あいこう)が孔子に、
「おんみの弟子のうち、最も學を好むものはだれか。」
とたづねた。孔子は、
「顔回といふ者がをりました。學を好み、過ちも二度とはしない男でございましたが、不幸にも短命でございました。」
と答へた。 国民学校国語教科書『初等科國語八』より(旧仮名遣い)
昨日大久保病院に見舞ったマイチが、爺との面会を待っていたかのように今朝ほど5時35分帰らぬ人となった。これが宿命と言うものなら、宿命とやらを憾みに思いたい。
人一倍元気で明るく、いつもみんなを楽しませてくれたマイチは3年程前、胃のスキルス癌で、放っておけば3ヶ月の余命、胃と周りの臓器4つを取る手術をすれば、3年生存率が50%、5年生存率が20%以下と言われたらしいが、本人の選択で手術はやめ、食事療法とサプリメントと鍼で、2年ほどは元気に何事もなく過ごしたと言う。一昨年の暮れに癌の活動が活発になったため、通院で抗がん剤治療も始めたが、やはり限界もあり、昨年10月に1ヶ月入院したという。この時点で同期の友人2・3名には知らせたらしいが、「先生には心配を掛けるのが申し訳ない」という本人の思いもあり、この爺には知らせなかったらしい。年末年始は自宅で過ごしたが、年明から病状は悪化の一途(いっと)の辿るばかり、痛みは全くなく、意識もまだはっきりしていたが、主治医からはいつ何があってもおかしくない状態と余命宣告され、この爺にも知らせてくれた次第である。心からご冥福を祈る。 合掌
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目高 拙痴无
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