瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
夢渓筆談巻9 夫婦のきずな
朝士劉廷式、本田家。鄰舍翁甚貧、有一女、約與廷式為婚。後契闊數年、廷式讀書登科、歸鄉閭。訪鄰翁、而翁已死;女因病雙瞽、家極困餓。廷式使人申前好、而女子之家辭以疾、仍以傭耕、不敢姻士大夫。廷式堅不可、“與翁有約、豈可以翁死子疾而背之?”卒與成婚。閨門極雍睦、其妻相攜而後能行、凡生數子。廷式嘗坐小譴、監司欲逐之、嘉其有美行、遂為之闊略。其後廷式管幹江州太平宮而妻死、哭之極哀。蘇子瞻愛其義、為文以美之。
〔訳〕朝廷に仕える劉廷式ももと百姓であった。隣に非常に貧しいじいさんがいて、その一人娘と廷式とは婚約をしたが、そのあと数年たって廷式は勉学の末官吏登用試験に合格した。故郷に帰って来て隣の爺さんを訪ねたところ、じいさんはすでに死んでいて、娘も病気のために両眼を失明しており、家は困窮のどん底にあった。廷式は人をやって前からの約束通り嫁を迎えることを申し入れさせた。だが娘の家では盲人だし、百姓の身分でし士大夫に嫁ぐわけにはいかぬと辞退した。だが廷式は断固として聞き入れず、じいさんと約束したのだ、じいさまが亡くなり娘が盲人になったからと言って、どうして約束にそむいていいものかといって、とうとう結婚してしまった。夫婦仲はきわめてむつまじく、妻と手に手を取ってでなければ出かけず、数人の子供をつくった。廷式がかつて小事件に連座して、司法官が免職にしようとしたときも、この善行があったことによって寛大な処置がとられた。その後、廷式は江州〔江西省九江〕にある太平宮の管理官になったが、妻に先立たれてしまい、その哀しみ振りといってはなかった。蘇東坡はその情の深さを愛して、文を作り称えた。
※劉廷式:字は得之。斉州つまり山東人で、蘇東坡と同時代の人。進士に合格した後密州〔山東省諸城県〕の通判になった。「宋史、卓行伝」にその伝は載っている。なお、蘇東坡の文およびその文に拠った「宋史」では、庭式とある。
※蘇軾(1031~1101年)の蘇東坡集にある『書劉庭式事』によると、妻を失ってから何年経っても庭式の妻に対する哀しみが消えずどうしても再婚しなかったので、東坡が訊ねる。
予偶問之:「哀生於愛、愛生於色。子娶盲女、與之偕老、義也。愛從何生、哀從何出乎?」庭式曰:「吾知喪吾妻而已、有目亦吾妻也、無目亦吾妻也。 吾若緣色而生愛、緣愛而生哀、色衰愛弛、吾哀亦忘。則凡揚袂(衣袖)倚市、 目挑而心招者、皆可以為妻也耶?」
《訳》私はこれについて問うた、「哀しみは愛より生じ、愛は容色より生ずるもの。あなたが盲女を娶り、睦まじく暮らしたことは立派と言えるが、その愛は何処から生じ、その哀しみは何処から出たものか?」庭式はこたえた、「わたしは、わたしの妻を失ったのだ。目があろうがなかろうが、わたしの妻であることには変わりない。わたしがもし容色によって愛を生じ、愛によって哀しみを生じたというのであれば、容色がおとろえれば愛も弱まり、哀しみも消えてしまい、きれいな着物をひらひらさせて色目を使う姐さんでも娶ってしまうということになるのではなかろうか。」
この文の著者である沈括自身にも逸話が残っている。
沈括(しんかつ)は翰林院(かんりんいん)を振り出しに、外交軍事面でも手腕を発揮してその才名を広く知られていた。多才有能な政治家であり、博覧な学者でもあった彼にとって最大の悩みの種は後添いの張氏であった。非常に凶暴で、遼や西夏を前にして一歩もひくことのなかった沈括でさえ手を焼いた。/怒り狂った張氏が沈括を罵り殴りつけたことがある。殴るだけでは満足しなかったのか、沈括の鬚(ひげ)を引きむしるなり投げ捨てた。驚いた子供達が駆け寄って鬚を拾い上げてみれば、根元には血や肉がついている。子供達が父のために泣き叫んで許しを乞うても、張氏は一向に気にとめなかった。/沈括には先妻との間に博毅(はくき)という長男がいた。張氏はこれを追い出してしまったのだが、沈括は隠れて生活の援助を続けていた。張氏はこのことを知ると激怒し、博毅の悪逆非道ぶりを訴え出た。沈括は家庭内の不祥事を治めることができなかった責めを負って、秀州(注:現浙江省)に左遷された。/張氏の無道ぶりは限度を超えたもので、役所に乗り込んでは夫の悪口を言いふらした。家人は裸足でその後を追い、懸命にとりなすのだが聞かない。見かねた親戚の勧めもあり、張氏と別居することにした。こうして沈括の生活に平穏がもたらされた。/紹聖初年(1094)に沈括は中央に復帰した。実に十余年ぶりのことであった。/その時、張氏が病で急死した。生前の悪妻ぶりを知る人々は、葬儀の席で沈括に祝いを述べたものである。不思議なことに沈括は呆けたようになっていた。あまりにぼんやりとしすぎて、船で揚子江を渡る時にもう少しで水に落ちそうになり、周りの人に助けられたほどであった。/しばらくして、沈括も亡くなった。張氏の死からわずか一年後のことであった。/ 長い間、張氏の暴虐に苦しめられて心の落ち着く間もなかったのが、ようやく解放されたというのにどうしてこうなってしまったのだろう。思うに張氏の獰猛ぶりは並大抵ではなかった。死んでもその亡魂が沈括を苦しめ続けたのではないだろうか。 (宋 朱彧『萍州可談』より)
朝士劉廷式、本田家。鄰舍翁甚貧、有一女、約與廷式為婚。後契闊數年、廷式讀書登科、歸鄉閭。訪鄰翁、而翁已死;女因病雙瞽、家極困餓。廷式使人申前好、而女子之家辭以疾、仍以傭耕、不敢姻士大夫。廷式堅不可、“與翁有約、豈可以翁死子疾而背之?”卒與成婚。閨門極雍睦、其妻相攜而後能行、凡生數子。廷式嘗坐小譴、監司欲逐之、嘉其有美行、遂為之闊略。其後廷式管幹江州太平宮而妻死、哭之極哀。蘇子瞻愛其義、為文以美之。
〔訳〕朝廷に仕える劉廷式ももと百姓であった。隣に非常に貧しいじいさんがいて、その一人娘と廷式とは婚約をしたが、そのあと数年たって廷式は勉学の末官吏登用試験に合格した。故郷に帰って来て隣の爺さんを訪ねたところ、じいさんはすでに死んでいて、娘も病気のために両眼を失明しており、家は困窮のどん底にあった。廷式は人をやって前からの約束通り嫁を迎えることを申し入れさせた。だが娘の家では盲人だし、百姓の身分でし士大夫に嫁ぐわけにはいかぬと辞退した。だが廷式は断固として聞き入れず、じいさんと約束したのだ、じいさまが亡くなり娘が盲人になったからと言って、どうして約束にそむいていいものかといって、とうとう結婚してしまった。夫婦仲はきわめてむつまじく、妻と手に手を取ってでなければ出かけず、数人の子供をつくった。廷式がかつて小事件に連座して、司法官が免職にしようとしたときも、この善行があったことによって寛大な処置がとられた。その後、廷式は江州〔江西省九江〕にある太平宮の管理官になったが、妻に先立たれてしまい、その哀しみ振りといってはなかった。蘇東坡はその情の深さを愛して、文を作り称えた。
※劉廷式:字は得之。斉州つまり山東人で、蘇東坡と同時代の人。進士に合格した後密州〔山東省諸城県〕の通判になった。「宋史、卓行伝」にその伝は載っている。なお、蘇東坡の文およびその文に拠った「宋史」では、庭式とある。
※蘇軾(1031~1101年)の蘇東坡集にある『書劉庭式事』によると、妻を失ってから何年経っても庭式の妻に対する哀しみが消えずどうしても再婚しなかったので、東坡が訊ねる。
予偶問之:「哀生於愛、愛生於色。子娶盲女、與之偕老、義也。愛從何生、哀從何出乎?」庭式曰:「吾知喪吾妻而已、有目亦吾妻也、無目亦吾妻也。 吾若緣色而生愛、緣愛而生哀、色衰愛弛、吾哀亦忘。則凡揚袂(衣袖)倚市、 目挑而心招者、皆可以為妻也耶?」
《訳》私はこれについて問うた、「哀しみは愛より生じ、愛は容色より生ずるもの。あなたが盲女を娶り、睦まじく暮らしたことは立派と言えるが、その愛は何処から生じ、その哀しみは何処から出たものか?」庭式はこたえた、「わたしは、わたしの妻を失ったのだ。目があろうがなかろうが、わたしの妻であることには変わりない。わたしがもし容色によって愛を生じ、愛によって哀しみを生じたというのであれば、容色がおとろえれば愛も弱まり、哀しみも消えてしまい、きれいな着物をひらひらさせて色目を使う姐さんでも娶ってしまうということになるのではなかろうか。」
この文の著者である沈括自身にも逸話が残っている。
沈括(しんかつ)は翰林院(かんりんいん)を振り出しに、外交軍事面でも手腕を発揮してその才名を広く知られていた。多才有能な政治家であり、博覧な学者でもあった彼にとって最大の悩みの種は後添いの張氏であった。非常に凶暴で、遼や西夏を前にして一歩もひくことのなかった沈括でさえ手を焼いた。/怒り狂った張氏が沈括を罵り殴りつけたことがある。殴るだけでは満足しなかったのか、沈括の鬚(ひげ)を引きむしるなり投げ捨てた。驚いた子供達が駆け寄って鬚を拾い上げてみれば、根元には血や肉がついている。子供達が父のために泣き叫んで許しを乞うても、張氏は一向に気にとめなかった。/沈括には先妻との間に博毅(はくき)という長男がいた。張氏はこれを追い出してしまったのだが、沈括は隠れて生活の援助を続けていた。張氏はこのことを知ると激怒し、博毅の悪逆非道ぶりを訴え出た。沈括は家庭内の不祥事を治めることができなかった責めを負って、秀州(注:現浙江省)に左遷された。/張氏の無道ぶりは限度を超えたもので、役所に乗り込んでは夫の悪口を言いふらした。家人は裸足でその後を追い、懸命にとりなすのだが聞かない。見かねた親戚の勧めもあり、張氏と別居することにした。こうして沈括の生活に平穏がもたらされた。/紹聖初年(1094)に沈括は中央に復帰した。実に十余年ぶりのことであった。/その時、張氏が病で急死した。生前の悪妻ぶりを知る人々は、葬儀の席で沈括に祝いを述べたものである。不思議なことに沈括は呆けたようになっていた。あまりにぼんやりとしすぎて、船で揚子江を渡る時にもう少しで水に落ちそうになり、周りの人に助けられたほどであった。/しばらくして、沈括も亡くなった。張氏の死からわずか一年後のことであった。/ 長い間、張氏の暴虐に苦しめられて心の落ち着く間もなかったのが、ようやく解放されたというのにどうしてこうなってしまったのだろう。思うに張氏の獰猛ぶりは並大抵ではなかった。死んでもその亡魂が沈括を苦しめ続けたのではないだろうか。 (宋 朱彧『萍州可談』より)
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目高 拙痴无
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92
誕生日:
1932/02/04
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