瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 夢渓筆談巻9より 酒仙石曼卿
 石曼卿喜豪飲、與布衣劉潛為友。嘗通判海州、劉潛來訪之、曼卿迎之於石闥堰、與潛劇飲。中夜酒欲竭、顧船中有醋鬥余、乃傾入酒中並飲之。至明日、酒醋俱盡。每與客痛飲、露發跣足、著械而坐。謂之“囚飲”。飲於木杪、謂之“巢飲”。以藁(?)束之、引首出飲、復就束、謂之“鱉飲”。其狂縱大率如此。廨後為一庵、常臥其間、名之日“捫虱庵”。未嘗一日不醉。仁宗愛其才、嘗對輔臣言、欲其戒酒、延年聞之。因不飲、遂成疾而卒。
〔訳〕石曼卿〔せきまんけい、992~1040年〕は豪飲するのが好きで、一平民であった劉譖(りゅうせん)と友達になった。海州〔江蘇省東海県〕の通判〔州知事に対する目付役〕になった時、劉譖が訪ねて来ると、曼卿はこれを石闥堰〔せきたつえん、陝西省長安縣西南〕まで迎えに出て譖と痛飲した。夜中に酒がなくなると、船中に酢が一升余りあるのを見つけ酒に混ぜて飲む。朝になった時には酒も酢もすっかり無くなっていた。客人と痛飲するたびに、ざんばら髪に裸足となり、械(かせ)をつけて飲むのを「囚飲(しゅういん)」と称し、梢にのぼって飲むのは「巣飲(そういん)」と称し、藁に身を包んで、頭を伸ばしては飲みまた引っ込めるのは「鼈飲(べついん)」と称するという奇抜さであった。役所の後ろに一庵をつくり、何時もそこにとぐろをまき「捫虱庵〔もんしつあん、無頓着庵、人前で虱を捻り潰すような無頓着な様を捫虱という〕と名付け、一日として酔わない日はなかった。仁宗はその才を愛して、かつて近臣に向かって、あれも酒を慎んで欲しいものだと言った事がある。延年、これを聞いて酒を絶ったところが、とうとう病気になって死んでしまった。

8833f636.JPG※ 石曼卿: 石延年、字は曼卿、宋の真宗・仁宗〔997~1053年〕の頃の人。豪放な性格で雄勁(ゆうけい)な文章を作り詩も巧みであったが、何と言っても酒仙としての名が最も売れていた。宋・欧楊修の『帰田録』にも石曼卿と劉譖の二酒仙が、都の酒楼で飲み比べしたことが載っている。二人は一日中一言も交わさず飲み続け、夕方になると、少しも酔った風もなく、互いに挨拶して去った、とある。

※ 劉譖 字は仲方、これもなかなかの変り種であるが、のち進士に合格して蓬莱県〔山東省〕の知事となり、鄆州〔山東省城県〕で酒友の石曼卿と飲んでいた時に母を病気で失い、死に目に合えなかったのを痛哭して世を去り、その妻も夫を慕って痛哭して世を去ったと『宋史』の伝は伝えていると言う。
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