瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
史記 殷本紀 第三 より
西伯歸、乃陰修德行善、諸侯多叛紂而往歸西伯。西伯滋大、紂由是稍失權重。王子比干諫、弗聽。商容賢者、百姓愛之、紂廢之。及西伯伐饑國、滅之、紂之臣祖伊聞之而咎周、恐、奔告紂曰:「天既訖我殷命、假人元龜、無敢知吉、非先王不相我後人、維王淫虐用自絕、故天棄我、不有安食、不虞知天性、不迪率典。今我民罔不欲喪、曰『天曷不降威、大命胡不至』?今王其柰何?」紂曰:「我生不有命在天乎!」祖伊反、曰:「紂不可諫矣。」西伯既卒、周武王之東伐、至盟津、諸侯叛殷會周者八百。諸侯皆曰:「紂可伐矣。」武王曰:「爾未知天命。」乃復歸。
〔訳〕
西伯は帰国してから、ひそかに徳をおさめ善政を行った。諸侯は多く紂にそむいて西伯に帰属した。西伯の威望はますますおおきくなり、紂はこのため次第に権威を失った。王子比干〔ひかん、紂のおじ〕が諌めたがききいれなかった。商容(しょうよう)は賢者だったので、百官人民の信愛するところであったが、紂は止めさせてしまった。西伯が飢國を伐ってほろぼすと、紂の賢臣祖伊〔そい、祖己の子孫〕はこれを聞いて周をにくみ、恐れて紂のもとに奔(と)んでいって告げた。
「天はすでにわが殷にくだし賜うた命を絶ってしまいました。賢人の観察によりましても、亀甲を焼いて占いましても吉を認めることは出来ません。これは、わが先王がわれら後世のものを助けないからではありません。わが君が淫虐で、みずから天命をお絶ちになられたのです。ですから、天は我が国を棄て去って、安らかに天の禄を食(は)みえないようにしたのです。わが君には、天性をはかり知ろうともなさらず、天道に従おうともなさいません。いまや、わが民は、わが君が喪(ほろ)びなさるのを望まないものとてはなく、『天はどうして威名をくだしてわが君を滅ぼさないのか、天の大命はどうして早く来ないのか』と申しております。わが君にはいかがお考えになりますか」
紂は言った。
「わしが生まれて天子としてあるのも、天命があってのことではないか」
祖伊は帰ってから言った。
「紂は諌めてもむだだ」
西伯が死んでのち、周の武王(西伯の子)が東征して盟津〔もうしん、河南省〕までくると、殷に叛いて周の下に集まった諸侯が八百もあった。それらの諸侯はみな言った。
「紂は伐つべきです」
しかし武王は言った。
「そなた達は、まだ天命をしらない」
そして、引き返した。
紂愈淫亂不止。微子數諫不聽、乃與大師、少師謀、遂去。比干曰:「為人臣者、不得不以死爭。」乃彊諫紂。紂怒曰:「吾聞圣人心有七竅。」剖比干、觀其心。箕子懼、乃詳狂為奴、紂又囚之。殷之大師、少師乃持其祭樂器奔周。周武王於是遂率諸侯伐紂。紂亦發兵距之牧野。甲子日、紂兵敗。紂走入、登鹿臺、衣其寶玉衣、赴火而死。周武王遂斬紂頭、縣之[大]白旗。殺妲己。釋箕子之囚、封比干之墓、表商容之閭。封紂子武庚、祿父、以續殷祀、令修行盤庚之政。殷民大說。於是周武王為天子。其後世貶帝號、號為王。而封殷后為諸侯、屬周。周武王崩、武庚與管叔、蔡叔作亂、成王命周公誅之、而立微子於宋、以續殷后焉。
〔訳〕
紂はますます淫乱で、止(とど)めがなかった。微子啓〔生没年不詳。紂王の長兄であったが、庶長子であったために王位を継承せず、微に封じられた〕がしばしば諌めたが、聞き入れなかったので、大師・少師と相談して国外に去った。比干〔生没年不詳、紂の叔父〕は、
「臣下たるものとしては、一命を投げ出しても諫争(かんそう)しなければならない」
と言って、強く紂を諌めた。紂は怒って、
「わしは聖人の内臓には七つの竅(あな)があると聞いている」
と言って、比干を解剖してその内臓を見た。箕子〔きし、生没年不詳、紂の叔父〕は懼れて、狂気をよそおって奴隷に身を落とした。しかし、紂はこれを囚(とら)えた。殷の大師・少師は、その祭楽器を捧持して周に出奔した。周の武王は、遂に諸侯をひきいて紂を伐った。紂も軍隊を出動して牧野〔ぼくや、河南省〕に防いだ。甲子の日に紂の軍はやぶれた。紂は逃げて鹿台にのぼり、宝玉の衣服を着て、火中に身を投じて死んだ。周の武王は紂の頭を斬って白旗にかけ、姐己(だっき)を殺し、箕子を幽囚からとき放し、土もりして比干の墓をつくり、商容の住んでいる里の門に頌徳のしるしをたてた。また、紂の子の武庚禄父(ぶこうろくほ)を封じて殷の先祖の祭祀をつづけさせ、盤庚の政治をおこなわせたので、殷の民は大いに悦んだ。かくて、周の武王は天子となったが、これからのちは、帝号を一段落として王と称するようになった。そして、殷朝の後裔を封じて諸侯とし、周に属せしめたのである。
周の武王が崩ずると、武庚は管叔・蔡叔〔共に武帝の弟〕とともに反乱を起したので、成王〔武王の子、周の第二代の王〕は周公〔生没年不詳、武王の弟〕に命じてこれを誅滅した。そして、微子啓を宋に立てて、殷のあとをつがせた。
西伯歸、乃陰修德行善、諸侯多叛紂而往歸西伯。西伯滋大、紂由是稍失權重。王子比干諫、弗聽。商容賢者、百姓愛之、紂廢之。及西伯伐饑國、滅之、紂之臣祖伊聞之而咎周、恐、奔告紂曰:「天既訖我殷命、假人元龜、無敢知吉、非先王不相我後人、維王淫虐用自絕、故天棄我、不有安食、不虞知天性、不迪率典。今我民罔不欲喪、曰『天曷不降威、大命胡不至』?今王其柰何?」紂曰:「我生不有命在天乎!」祖伊反、曰:「紂不可諫矣。」西伯既卒、周武王之東伐、至盟津、諸侯叛殷會周者八百。諸侯皆曰:「紂可伐矣。」武王曰:「爾未知天命。」乃復歸。
〔訳〕
西伯は帰国してから、ひそかに徳をおさめ善政を行った。諸侯は多く紂にそむいて西伯に帰属した。西伯の威望はますますおおきくなり、紂はこのため次第に権威を失った。王子比干〔ひかん、紂のおじ〕が諌めたがききいれなかった。商容(しょうよう)は賢者だったので、百官人民の信愛するところであったが、紂は止めさせてしまった。西伯が飢國を伐ってほろぼすと、紂の賢臣祖伊〔そい、祖己の子孫〕はこれを聞いて周をにくみ、恐れて紂のもとに奔(と)んでいって告げた。
「天はすでにわが殷にくだし賜うた命を絶ってしまいました。賢人の観察によりましても、亀甲を焼いて占いましても吉を認めることは出来ません。これは、わが先王がわれら後世のものを助けないからではありません。わが君が淫虐で、みずから天命をお絶ちになられたのです。ですから、天は我が国を棄て去って、安らかに天の禄を食(は)みえないようにしたのです。わが君には、天性をはかり知ろうともなさらず、天道に従おうともなさいません。いまや、わが民は、わが君が喪(ほろ)びなさるのを望まないものとてはなく、『天はどうして威名をくだしてわが君を滅ぼさないのか、天の大命はどうして早く来ないのか』と申しております。わが君にはいかがお考えになりますか」
紂は言った。
「わしが生まれて天子としてあるのも、天命があってのことではないか」
祖伊は帰ってから言った。
「紂は諌めてもむだだ」
西伯が死んでのち、周の武王(西伯の子)が東征して盟津〔もうしん、河南省〕までくると、殷に叛いて周の下に集まった諸侯が八百もあった。それらの諸侯はみな言った。
「紂は伐つべきです」
しかし武王は言った。
「そなた達は、まだ天命をしらない」
そして、引き返した。
紂愈淫亂不止。微子數諫不聽、乃與大師、少師謀、遂去。比干曰:「為人臣者、不得不以死爭。」乃彊諫紂。紂怒曰:「吾聞圣人心有七竅。」剖比干、觀其心。箕子懼、乃詳狂為奴、紂又囚之。殷之大師、少師乃持其祭樂器奔周。周武王於是遂率諸侯伐紂。紂亦發兵距之牧野。甲子日、紂兵敗。紂走入、登鹿臺、衣其寶玉衣、赴火而死。周武王遂斬紂頭、縣之[大]白旗。殺妲己。釋箕子之囚、封比干之墓、表商容之閭。封紂子武庚、祿父、以續殷祀、令修行盤庚之政。殷民大說。於是周武王為天子。其後世貶帝號、號為王。而封殷后為諸侯、屬周。周武王崩、武庚與管叔、蔡叔作亂、成王命周公誅之、而立微子於宋、以續殷后焉。
〔訳〕
紂はますます淫乱で、止(とど)めがなかった。微子啓〔生没年不詳。紂王の長兄であったが、庶長子であったために王位を継承せず、微に封じられた〕がしばしば諌めたが、聞き入れなかったので、大師・少師と相談して国外に去った。比干〔生没年不詳、紂の叔父〕は、
「臣下たるものとしては、一命を投げ出しても諫争(かんそう)しなければならない」
と言って、強く紂を諌めた。紂は怒って、
「わしは聖人の内臓には七つの竅(あな)があると聞いている」
と言って、比干を解剖してその内臓を見た。箕子〔きし、生没年不詳、紂の叔父〕は懼れて、狂気をよそおって奴隷に身を落とした。しかし、紂はこれを囚(とら)えた。殷の大師・少師は、その祭楽器を捧持して周に出奔した。周の武王は、遂に諸侯をひきいて紂を伐った。紂も軍隊を出動して牧野〔ぼくや、河南省〕に防いだ。甲子の日に紂の軍はやぶれた。紂は逃げて鹿台にのぼり、宝玉の衣服を着て、火中に身を投じて死んだ。周の武王は紂の頭を斬って白旗にかけ、姐己(だっき)を殺し、箕子を幽囚からとき放し、土もりして比干の墓をつくり、商容の住んでいる里の門に頌徳のしるしをたてた。また、紂の子の武庚禄父(ぶこうろくほ)を封じて殷の先祖の祭祀をつづけさせ、盤庚の政治をおこなわせたので、殷の民は大いに悦んだ。かくて、周の武王は天子となったが、これからのちは、帝号を一段落として王と称するようになった。そして、殷朝の後裔を封じて諸侯とし、周に属せしめたのである。
周の武王が崩ずると、武庚は管叔・蔡叔〔共に武帝の弟〕とともに反乱を起したので、成王〔武王の子、周の第二代の王〕は周公〔生没年不詳、武王の弟〕に命じてこれを誅滅した。そして、微子啓を宋に立てて、殷のあとをつがせた。
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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