瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「題詞」の中に「于時初春月 氣淑風(時に、初春の月にして、気淑く風)の語句があり、これを出典として「令和」としたと説明されました。
 
これは、「文選」(530年頃成立)巻十五にある後漢の張衡(ちょうこう)が詠んだ「帰田賦」の、「於是仲春月 時氣清」(これにおいて、仲春の月、時はし気は清む)を踏まえているのです。
 
 
「序」に続いて、この「梅花の宴」で歌われた三十二首が一気に紹介されています。昔はこの三十二首を手掛かりとして旅人主宰による「梅花の宴」の席順などが詳しく研究されたそうです。そして、その席順の想定などをもとに、これらは四つのグループに分かれるのではないかというようなことも言われたそうです。
 
確かに、それぞれの歌には名前と官職が記されていますから、この三十二首が上級の職から下っ端に向かって並べられていることが分かります。冒頭の「大弐紀卿」という人は太宰府のナンバー2で、それに続く「少弐小野大夫」というのがナンバー3に当たるそうです。そして、それらに続いて筑前守とか豊後守という国守クラスが続いていて、8番目に主人である旅人の歌が披露されることで一つのまとまりとなっています。
 
つまりは、旅人までの7人がこの宴のいわゆる「主賓」にあたる人だと考えていいようなので、それに従って残る24人も8人ずつのグループとして着座したのではないかと想定したようなのです。
 
「大弐紀卿」とか「少弐小野大夫」というのは、少し気取って「中国風」に名乗ったものなので、なかには「中国風」になりすぎていて「名未詳」となっている人も多いようです。ちなみに、主賓中の主賓である「大弐紀卿」と言う人もそういう「名未詳」の一人になってしまっているようです。
 
それにしても、「蘭亭序」の「曲水の宴」を踏まえて「梅花の宴」を行うだけでなく、出席者全員が名前まで「中国風」にして「歌」を詠んだとは、驚くほどの凝りようです。
(大貳紀卿)
集歌815 武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎岐都々 多努之岐乎倍米
訓読 正月(むつき)立ち春の来()たらば如(かく)しこそ梅を招()きつつ楽しきを経()
意味 正月の立春がやって来たら、このように梅の花が咲くのを招き、そして客を招き、楽しい風流の宴の一日を過ごしましょう。
※大弐紀卿(ただいにきのまえつきみ): これは名前ではなく、このとき太宰府の大弐(位のひとつです)だった紀氏の人、という意味です。
 
(少貳小野大夫)
集歌816 烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 和我覇能曽能尓 阿利己世奴加毛
訓読 梅の花今咲ける如(ごと)散り過ぎず吾()が家(いへ)の苑(その)にありこせぬかも
意味 梅の花は今咲いているように散り去ることなく吾が家の庭に咲き続けてほしいよ。
 
(少貳粟田大夫)
集歌817 烏梅能波奈 佐吉多流僧能々 阿遠也疑波 可豆良尓須倍久 奈利尓家良受夜
訓読 梅の花咲きたる苑(その)の青柳(あほやぎ)は蘰(かづら)にすべく成りにけらずや
意味 梅の花の咲く庭に、青柳もまた、蘰に出来るように若芽を付けた枝を垂らしているではないか。
(筑前守山上大夫)
集歌818 波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武
訓読 春さればまづ咲く屋戸(やと)の梅の花独り見つつや春日(はるひ)暮らさむ
意味 春になると最初に咲く屋敷の梅の花よ、私独りで眺めながら、ただ、春の一日を暮らしましょう。
 
(豊後守大伴大夫)
集歌819 余能奈可波 古飛斯宜志恵夜 加久之阿良婆 烏梅能波奈尓母 奈良麻之勿能怨
訓読 世間(よのなか)は恋繁しゑや如(かく)しあらば梅の花にも成らましものを
意味 この世の中は私から女性に恋することが多いなあ。このようであるのなら人に恋われる梅の花になれたら良いのに。
(筑後守葛井大夫)
集歌820 烏梅能波奈 伊麻佐可利奈理 意母布度知 加射之尓斯弖奈 伊麻佐可利奈理
訓読 梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり
意味 梅の花は今が盛りです。親しい友よ梅の花枝を飾って眺めましょう。花は今が盛りです。
 
(笠沙弥)
集歌821 阿乎夜奈義 烏梅等能波奈乎 遠理可射之 能弥弖能々知波 知利奴得母與斯
訓読 青柳(あほやぎ)梅との花を折りかざし飲みての後(のち)は散りぬともよし
意味 青柳と梅との枝や花枝を、手折って皆の前に飾って眺め、この宴会で酒を飲んだ後は花が散ってしまってもしかたがない。
(主人)
集歌822 和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母
訓読 吾()が苑(その)に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
意味 私の庭に梅の花が散る。遥か彼方の天より雪が降って来たのだろうか。
 
(大監伴氏百代)
集歌823 烏梅能波奈 知良久波伊豆久 志可須我尓 許能紀能夜麻尓 由企波布理都々
訓読 梅の花散らくは何処(いづく)しか清()がにこの城()の山に雪は降りつつ
意味 梅の花が散るのは何処でしょう。それにしてもこの城の山に雪は降りつづくことよ。


(小監阿氏奥嶋)
集歌824 烏梅乃波奈 知良麻久怨之美 和我曽乃々 多氣乃波也之尓 于具比須奈久母
訓読 梅の花散らまく惜しみ吾()が苑(その)の竹(たけ)の林に鴬鳴くも
意味 梅の花の散ることを惜しんで、私の庭の竹の林に鴬が鳴くことよ。
 
(小監土氏百村)
集歌825 烏梅能波奈 佐岐多流曽能々 阿遠夜疑遠 加豆良尓志都々 阿素比久良佐奈
訓読 梅の花咲きたる苑(その)の青柳(あほやぎ)を蘰(あづら)にしつつ遊び暮らさな
意味 梅の花の咲く庭の青柳の若芽の枝を蘰にして、一日を宴会で過ごしましょう。
(大典史氏大原)
集歌826 有知奈比久 波流能也奈宜等 和我夜度能 烏梅能波奈等遠 伊可尓可和可武
訓読 うち靡く春の柳と吾()が屋戸(やと)の梅の花とを如何(いか)にか分()かむ
意味 春風に若芽の枝を靡かせる春の柳と私の屋敷の梅の花の美しさを、どのように等別しましょうか。


 

梅を詠んだ歌2
梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
 
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春月、氣淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。
序訓 天平二年正月十三日に、帥の老の宅に萃(あつ)まりて、宴會を申く。時、初春の(れいげつ)にして、氣淑()く風ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀(うすもの)に封()められて林に迷ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故鴈歸る。於是、天を盖(きにがさ)とし地を坐とし、膝を促け觴(さかずき)を飛ばす。言を一室の裏(うち)に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきさま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑(かんゑん)に非ずは、何を以ちて情を壚()べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦()して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
意味 天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、梅の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。
注意 原文「鳥封穀而迷林」は「鳥封縠而迷林」とし「鳥は縠(うすもの)に封()められて林に迷ふ」、「役膝飛觴」は「促膝飛觴」とし「膝を促け觴(さかずき)を飛ばす」、「何以壚情」は「何以攄情」とし「何を以ちて情を攄()べむ」と訓みます。
 
 
ごく身近なことから幽玄な遠い峰へと引いていく、ダイナミズムあふれる視点の移動が感動的です。繊細でありながら力強い情景描写は、のちの狩野派による花鳥図もほうふつさせます。この序を書いたのは旅人か山上憶良といわれていますが、原文では旅人を「帥老(そちのおきな)」という尊称で表現しており、本人が自分を敬称で呼ぶのは不自然であることから、旅人ではなく憶良が旅人の身になって代筆したとも考えられています。
 
 
この序には書の世界の神的存在である古代中国の書家、王義之(おうぎし)の最も高名な作品『蘭亭の序』から引用したスタイルが多くみられるとのことですが、『蘭亭の序』は蘭亭という場所を会場にしてもよおされた宴の席で参加者が詠んだ27編の詩の序として、イイ心持ちに酔った主催者の王義之が書いたものだそうです。なるほど状況設定が旅人と同じです。
 
  蘭 亭 序             王 羲 之
永和九年歳在癸丑暮春之初會于會稽山陰
之蘭亭脩禊事也群賢畢至少長咸集此地有
崇山峻¹茂林脩竹又有清流激湍暎帶左右
 
1「領」は、古く「嶺」と通じて用いられた。
引以爲流觴曲水列坐其次雖無絲竹管弦之
盛一觴一詠亦足以暢叙幽情是日也天朗氣
淸惠風和暢仰觀宇宙之大俯察品類之盛所
以遊目騁懷足以極視聽之娯信可樂也夫人
之相與俯仰一世或取諸懷抱悟言一室之内
因寄所託放浪形骸之外雖趣舎萬殊靜躁
不同當其欣於所遇蹔得於己²怏然自足不知
 
2「怏然」は「快然」が正しいとされる。
老之將至及其所之既惓情隨事遷感慨係之
矣向之所欣俛仰之閒以爲陳迹猶不能不以
之興懷況脩短隨化終期於盡古人云死生亦
大矣豈不痛哉毎攬昔人興感之由若合一契
未甞不臨文嗟悼不能喩之於懷固知一死生
爲虚誕齊彭殤爲妄作後之視今亦³今之視
 
3「由」は「猶」と通用。
昔悲夫故列叙時人録其所述雖世殊事異所
以興懷其致一也後之攬者亦將有感於斯文

《蘭亭序(らんていじょ)書き下し文》
 
永和九年、歳(とし)は癸丑(きちう)に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事(けいじ)を脩(をさ)むるなり。群賢(ぐんけん)畢(ことごと)く至り、少長(せうちやう)咸(みな)集まる。此の地に、崇山(すうざん)峻領(しゆんれい)、茂林(もりん)脩竹(しうちく)有り。
 
又、清流(せいりう)激湍(げきたん)有りて、左右に暎帯(えいたい)す。引きて以て流觴(りうしやう)の曲水と為(な)し、其の次(じ)に列坐す。糸竹管弦の盛(せい)無しと雖(いへど)も、一觴一詠、亦以て幽情を暢叙(ちやうじよ)するに足る。
 
是の日や、天朗(ほが)らかに気清く、恵風(けいふう)和暢(わちやう)せり。仰いでは宇宙の大を観(み)、俯しては品類の盛んなるを察す。目を遊ばしめ懐(おも)ひを騁(は)する所以(ゆゑん)にして、以て視聴の娯しみを極むるに足れり。信(まこと)に楽しむべきなり。
 
夫(そ)れ人の相与(あひとも)に一世(いつせい)に俯仰(ふぎやう)するや、或いは諸(これ)を懐抱(くわいはう)に取りて一室の内に悟言(ごげん)し、或いは託する所に因寄(いんき)して、形骸の外(ほか)に放浪す。
 
趣舎(しゆしや)万殊(ばんしゆ)にして、静躁(せいさう)同じからずと雖も、其の遇ふ所を欣び、蹔(しばら)く己(おのれ)に得るに当たりては、怏然(あうぜん)として自(みづか)ら足り、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らず。
 
其の之(ゆ)く所既に惓(う)み、情(じやう)事(こと)に随ひて遷(うつ)るに及んでは、感慨(かんがい)之(これ)に係(かか)れり。向(さき)の欣ぶ所は、俛仰(ふぎやう)の閒(かん)に、以(すで)に陳迹(ちんせき)と為(な)る。猶(な)ほ之(これ)を以て懐(おも)ひを興(おこ)さざる能はず。況んや脩短(しうたん)化(か)に随ひ、終(つひ)に尽くるに期(き)するをや。
 
古人云へり、死生も亦(また)大なりと。豈(あ)に痛ましからずや。毎(つね)に昔人(せきじん)感を興(おこ)すの由(よし)を攬(み)るに、一契(いつけい)を合(あは)せたるが若(ごと)し。未(いま)だ甞(かつ)て文に臨んで嗟悼(さたう)せずんばあらず。之(これ)を懐(こころ)に喩(さと)ること能はず。
 
固(まこと)に死生を一(いつ)にするは虚誕(きよたん)たり、彭殤(はうしやう)を斉(ひと)しくするは妄作(まうさく)たるを知る。後(のち)の今を視るも、亦(また)由(な)ほ今の昔を視るがごとくならん。
 
悲しいかな。故に時人(じじん)を列叙し、其の述ぶる所を録す。世(よ)殊に事(こと)異(こと)なりと雖も、懐(おも)ひを興(おこ)す所以(ゆゑん)は、其の致(むね)一(いつ)なり。後(のち)の攬(み)る者も、亦(また)将(まさ)に斯(こ)の文に感ずる有らんとす。


蘭亭の序の現代語訳
 
永和九年癸丑の歳、三月初め、会稽郡山陰県蘭亭に集ったのは禊(みそぎ)を行うためである。賢者がことごとく集まり、老いも若きもみな集まった。この地には高い山と険しい嶺、茂った林、長い竹がある。
 
また、清流や早瀬があり、左右に照り映えている。その水の流れを引いて、觴(さかずき)を流すための「曲水」を作り、人々はその傍らに順序よく並んで坐った。琴や笛のような音楽はないが、觴がめぐってくる間に詩を詠ずるというこの催しは、心の奥深い思いを述べあうのに十分である。
 
この日、空は晴れわたり空気は澄み、春風がおだやかに吹いていた。
 
仰げば広大な宇宙が見え、見下ろせば万物の盛んなさまがうかがえる。
 
こうして、目を遊ばせ思いを十分に馳せ、見聞の娯しみを尽くすのは本当に楽しいことである。
 
そもそも人間が同じこの世で暮らしていく上で、ある人は一室にこもり胸に抱く思いを友人と語り、またある人は志の赴くままに、肉体の外に、自由に振舞う。
 
どれを取りどれを捨てるかもみな違い、静と動の違いはあるけれど、その境遇を喜び、それぞれ合致すればよろこび合う。暫し自分の意のままになるとき、人は快く満ち足りた気持ちになり、老いていくのも気づかない。
 
その行き着くところに飽きてくると、感情は対象に従い移ろい、感慨もそれにつれて変わってしまう。以前の喜びはほんのつかの間のうちに過去のものとなってしまうが、だからこそおもしろいと思わずにはいられない。ましてや、人の命は物の変化に従い、ついには死が定められていることを思えばなおさらである。
 
昔の人も「死生はまことに人生の一大事」と言っているが、何とも痛ましいことではないか。昔の人がいつも何に感激していたかを見ると、割り符を合わせたかのように私の思いと一致し、その文を読むたび嘆き悼まずにはいられないが、我が心を諭すことはできない。
 
死と生を同一視するのは偽りであり、長命も短命も同じなどというのはでたらめであることは知っているものの、後世の人々が現在の我々を見るのは、ちょうど今の我々が昔の人々を見るのと同じことだろう。
 
悲しいではないか。それゆえ今日ここに集う人々の名を列記し、それぞれ述べたところを記録することにした。時代は移り、事情は異なっても、人々が感慨を覚える理由は、結局は一つである。後世の人々もまたこの文に共感するにちがいない。


 

梅を詠んだ歌1
 
梅はバラ科サクラ属の落葉低木です。1~3月、葉が出る前に白、ピンク、紅などの花が咲きます。中国が原産ですが、かなり古い時代から日本でも好まれたようです。
 
 
万葉集では萩に次いで多く、119首に詠まれています。雪といっしょに詠んだ歌が目立ちます。また、鶯が登場する歌も多いですね。なお、万葉集に詠まれている梅は、すべて白梅と考えられています。


巻3-0392: ぬばたまのその夜の梅をた忘れて折らず来にけり思ひしものを
 
巻3-0398: 妹が家に咲きたる梅のいつもいつもなりなむ時に事は定めむ
 
巻3-0399: 妹が家に咲きたる花の梅の花実にしなりなばかもかくもせむ
 
巻3-0400: 梅の花咲きて散りぬと人は言へど我が標結ひし枝にあらめやも
 
巻3-0453: 我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る
 
巻4-0786: 春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも
 
巻4-0788: うら若み花咲きかたき梅を植ゑて人の言繁み思ひぞ我がする

巻4-0792: 春雨を待つとにしあらし我がやどの若木の梅もいまだふふめり


 

卯の花を詠んだ歌6
 
昔の人はホトトギスの声を「テッペンカケタカ」と聞きならし、最近では「特許許可局」という聞きならしもありまか。もっと素直に書けば 「キョッ、キョン、キョキョキョキョ」または 「キョッ、キョ、キョキョキョ」となります。遠くで聞くと甲高く金属的響きさえ感ずる声も、間近かで聞くと、ふくらみのある肉声で 「クワ、クェ、クワ、クワ」という感じになります。口を大きく開け、そのとき口内のオレンジ赤が目立ち、さらに喉の奥から全身の力をふりしぼって送り出されてくるこの音色に、昔の人は「鳴いて血を吐く」といったのです。テリトリー(なわばり)の決った6月の六甲では、尾根にある決った松の大木で長時間鳴いてから、ひらひらとした羽ばたきで次の木へと移って、またそこで鳴きつづけるというような動きがみられます。鳴きながら谷を飛び越していく姿をよく見られます。もっとも活発に鳴くのは6月の霧の季節です。姿は見えず霧の中を声だけが移動して行くのは何ともいえない風情があります。深い山に来ているような気分をもり上げてくれます。時には 「ピ、ピ、ピ、ピ、ピ」と鳴くが、これは地鳴きです。雌はこの鳴き声だけです。雄2羽が接近した時には猛烈に鳴き交わし、ついには調子を乱した鳴き方になってしまうのです。また、鳴いている雄の近くに雌がくると、テンポが早くなり調子も乱れ、熱のこもった鳴き方に変調します。
 
https://www.youtube.com/watch?v=F51PwH_EHho


184089: 高御倉天の日継とすめろきの神の命の聞こしをす国の………(長歌)
獨居幄裏、遥聞霍公鳥喧作謌一首并短謌
標訓 獨り幄(とばり)の裏(うち)に居て、遥かに霍公鳥(ほととぎす)の喧()くを聞きて作れる謌一首并せて短謌
集歌4089 高御座 安麻能日継登 須賣呂伎能 可美能美許登能 伎己之乎須 久尓能麻保良尓 山乎之毛 佐波尓於保美等 百鳥能 来居弖奈久許恵 春佐礼婆 伎吉能 可奈之母 伊豆礼乎可 和枳弖之努波無 宇能花乃 佐久月多弖婆 米都良之久 鳴保等登藝須 安夜女具佐 珠奴久麻泥尓 比流久良之 欲和多之伎氣騰 伎久其等尓 許己呂都呉枳弖 宇知奈氣伎 安波礼能登里等 伊波奴登枳奈思
訓読 高御倉(たかみくら) 天の日継と 天皇(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 聞こし食()す 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥(ももとり)の 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか 別きて偲はむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥(ほととぎす) あやめぐさ 玉貫くまでに 昼暮らし 夜渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 云はぬ時なし
意味 高御倉にあって天下を受け継ぐ日嗣の天皇たる神の命がお治めなされる国の、その秀でた国土には山はたくさんあると、いろいろな鳥が飛び来て鳴く、その声は、春になると聞いていて、愛しいことです。そのどれが良いかと聞き分けて愛しむ。卯の花の咲く月になると、新鮮に鳴くホトトギスの声を、菖蒲の花を薬玉に貫く時期まで、昼は一日中、夜は一晩中聞くけれど、聞く度に、気持ちが動いて感動し、興味が尽きない鳥だと、声を挙げない時はありません。
反謌
集歌4090 由久敝奈久 安里和多流登毛 保等登藝須 奈枳之和多良婆 可久夜思努波牟
訓読 行方(ゆくへ)なくあり渡るとも霍公鳥(ほととぎす)鳴きし渡らばかくや偲(しの)はむ
意味 どこへ飛んで行ったか知れずに飛んで行っても、ホトトギスが鳴きながらやって来ると、これほどに恋しく思うのでしょう。

集歌4091 宇能花能登 登聞尓之奈氣婆 保等登藝須 伊夜米豆良之毛 名能里奈久奈倍
訓読 卯の花のとともにし鳴けば霍公鳥(ほととぎす)いやめづらしも名告()り鳴くなへ
意味 卯の花の咲くのとともに鳴くと、ホトトギスは一層に新鮮に思える。自分から名告り出るように鳴くたびに。
注意 原文の「宇能花能登登聞尓之奈氣婆」を一般には「宇能花能登聞尓之奈氣婆」として「卯の花のともにし鳴けば」と訓みます。

集歌4092 保等登藝須 伊登祢多家口波 橘能 播奈治流等吉尓 伎奈吉登余牟流
訓読 霍公鳥(ほととぎす)いとねたけくは橘の花散る時に来鳴き響(とよ)むる
意味 ホトトギスが大変残念なことは、橘の花が散るときになって、飛び来て鳴き、その声を響かせることです。
右四首、十日、大伴宿祢家持作之
注訓 右の四首は、十日に、大伴宿祢家持の之を作る


ウェブニュースより
 
花見の次は団体旅行 昭恵夫人がコロナ会見翌日にお出かけ ―― 3月下旬に知人と私的な「桜を見る会」をしたと報じられて、世間を仰天させた安倍首相の昭恵夫人。3月15日にはヒマを持て余し、団体のツアー客と共に大分県を旅行していたという。週刊文春が15日ウェブサイトで報じた。
 
 
前日14日には、安倍首相が記者会見して、国民にコロナウイルス対策の重要性を訴えたばかり。そのタイミングで、昭恵夫人は約50人の団体ツアーと共に同県の宇佐神宮を参拝していた。ノーマスクで他の客と距離を取ることもなく、警戒しているそぶりはなかった。ツアーの主催者に「コロナで予定が全部なくなったので、どこかへ行こうと思っていた」と能天気に語って参加を希望し、参拝に合流したという。   (日刊ゲンダイ 公開日:2020/04/16 14:50 更新日:2020/04/16 15:5

 
首相、昭恵氏の大分訪問聞いていた 「観光はしてない」 ―― 安倍晋三首相の妻・昭恵氏が新型コロナウイルス対応の改正特措法が施行された翌日の3月15日に大分県の神社を参拝していたことについて、安倍晋三首相は衆院厚生労働委員会で「参拝以外は特に観光などは行っていない。参拝時に限って、あえてマスクを外したということだった」と説明した。
 
首相は昭恵氏の参拝について「団体のツアーに参加したものではない。参拝のみ団体と合流した」と強調した。「事前に本人より聞いていた。『3密とならないようしっかり気をつけてもらいたい』と申し上げた」と説明した。
 
 
3月15日は東京都が不要不急の外出自粛を都民に要請する前の段階だった。首相は「不要不急の外出自粛をと申し上げて以降、(昭恵氏は)東京都から出ていることはないと思う」と語った。国民民主党の岡本充功氏への答弁。   (朝日新聞DIGITAL 2020417 1727分)


 

卯の花を詠んだ歌5
17-4008: あをによし奈良を来離れ天離る鄙にはあれど我が背子を…(長歌)
 
万葉集を代表的する歌人大伴家持が、天平18年(746)から約5年間を越中の国守として、国庁が置かれたわが町伏木に在任しました。家持やその官人たちは、越中を舞台に多くの歌を今に残しています。なかでも万葉集に収められている大伴家持の作品の約半数(223首)がこの5年間で詠ったものです。これらの詩情あふれる歌の数々は「越中万葉」として、多くのことを語りかけてくれています。万葉集に詠まれている地名、草花、鳥や風物は、現在も色濃く形をとどめています。それらは当時のままではないにしても、それから受ける季節ごとの想いは、1250年以上の時空を超えても共感できることでしょう。
 
2019年は万葉集から典拠した新元号「令和」となり、家持生誕1300年にあたる節目の年です。
 
 
忽見入京述懐之作。生別悲号、断腸万廻。怨緒難禁。聊奉所心一首并二絶
標訓 忽(たちま)ちに京(みやこ)に入らむとして懐(おもひ)を述べたる作を見る。生別は悲号にして、断腸は万廻(よろづたび)なり。怨(うら)むる緒(こころ)(とど)め難し。聊(いささ)かに所心(おもひ)を奉れる一首并せて二絶
集歌4008 安遠邇与之 奈良乎伎波奈礼 阿麻射可流 比奈尓波安礼登 和賀勢故乎 見都追志乎礼婆 於毛比夜流 許等母安利之乎 於保伎美乃 美許等可之古美 乎須久尓能 許等登理毛知弖 和可久佐能 安由比多豆久利 無良等理能 安佐太知伊奈婆 於久礼多流 阿礼也可奈之伎 多妣尓由久 伎美可母孤悲無 於毛布蘇良 夜須久安良祢婆 奈氣可久乎 等騰米毛可祢氏 見和多勢婆 宇能婆奈夜麻乃 保等登藝須 弥能未之奈可由 安佐疑理能 美太流々許己呂 許登尓伊泥弖 伊婆〃由遊思美 刀奈美夜麻 多牟氣能可味尓 奴佐麻都里 安我許比能麻久 波之家夜之 吉美賀多太可乎 麻佐吉久毛 安里多母等保利 都奇多々婆 等伎毛可波佐受 奈泥之故我 波奈乃佐可里尓 阿比見之米等曽
訓読 あおによし 奈良を来()(はな)れ 天離る 鄙にはあれど 我が背子を 見つつし居()れば 思ひ遣()る こともありしを 大君(おほきみ)の 命(みこと)(かしこ)み 食()す国の 事取り持ちて 若草の 足結(あゆ)ひ手作(たつく)り 群鳥(むらとり)の 朝立ち去()なば 後(おく)れたる 我れや悲しき 旅に行く 君かも恋ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留(とど)めもかねて 見わたせば 卯の花山の ほととぎす 音()のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心 言(こと)に出でて 言はばゆゆしみ 砺波山(となみやま) 手向(たむけ)の神に 幣(ぬさ)(まつ)り 我が乞()ひ祈()まく はしけやし 君が直香(ただか)を ま幸(さき)くも ありた廻(もとほ)り 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとぞ
意味 あをによし奈良の都をあとにして来て、遠く遥かなる鄙の地にある身であるけれど、あなたの顔さえ見ていると、故郷恋しさの晴れることもあったのに。なのに、大君の仰せを謹んでお受けし、御国の仕事を負い持って、足ごしらえをし手甲をつけて旅装いに身を固め、群鳥の飛びたつようにあなたが朝早く出かけてしまったならば、あとに残された私はどんなにか悲しいことでしょう。旅路を行くあなたもどんなにか私を恋しがって下さることでしょう。思うだけでも不安でたまらいので、溜息が洩れるのも抑えきれず、あたりを見わたすと、彼方卯の花におう山の方で鳴く時鳥、その時鳥のように声張りあげて泣けてくるばかりです。たゆとう朝霧のようにかき乱される心、この心を口に出して言うのは縁起がよくないので、国境の砺波の山の峠の神に弊帛を捧げて、私はこうお祈りします。「いとしいあなたも紛れもないお姿、そのお姿に、何事もなく時がめぐりめぐって、月が変わったなら時も移さず、なでしこの花の盛りには逢わせて下さい。」と。
 
4009 【承前,反歌。】
 多麻保許乃 美知能可未多知 麻比波勢牟 安賀於毛布伎美乎 奈都可之美勢余
訓読 玉桙(たまほこ)の 道神達(みちのかみたち) 賄(まひ)はせむ 我(あ)が思ふ君を 懷(なつか)しみせよ
意味 玉鉾のようなけやしい道、その道におられる神々よ、捧げ物をしますから、どうぞ私の募っているこの君を お守りください。

4010 【承前,反歌。】
 宇良故非之 和賀勢能伎美波 奈泥之故我 波奈爾毛我母奈 安佐奈佐奈見牟
訓読 衷戀うらごひ)し 我(わ)が背君(せのきみ)は 撫子(なでしこ)が 花にもがもな 朝な朝さな見む
意味 心から慕わしいあなた様がなでしこの花でしたらいいのに。(そしたら)毎朝見ましょう。
 
 右,大伴宿禰池主報贈和歌。【五月二日。】

ウェブニュースより
 
明るい浅草再び 雷門大提灯 新調 ―― 東京・浅草寺の雷門に十七日午前、新しい大提灯(ちょうちん)がつるされた。専門の職人が早朝から作業を始め、約一カ月ぶりに真っ赤な「浅草の顔」が街に戻った。
 
寺の御用出入(ごようでいり)で建設会社「新門」(台東区)の職人五人が同日午前六時半ごろから、高さ三・九メートル、幅三・三メートル、重さ約七百キロの大提灯の取り付けを開始。雷門にはしごを掛けるなどして設置し、午前八時半には真新しい大提灯がつるされた。寺による法要もあった。韓国から仕事で訪れた金準(キムジュン)さん(62)は「大提灯は新しくて立派。こんな状況だが、大好きな浅草と日本の方に頑張ってほしい」と話した。
 
 
浅草寺によると、大提灯の掛け替えは今回で六回目で、約七年ぶりに新調された。制作は京都市の老舗「高橋提燈(ちょうちん)」が担った。取り外し作業は三月十日に実施し、約一カ月間、雷門に大提灯がなかった。
 
雷門は一八六五年の火災で焼失し、一九六〇年に松下電器産業(現パナソニック)創業者の故松下幸之助さんの寄進で再建された。   (東京新聞夕刊 2020417日 夕刊)


 

卯の花を詠んだ歌4
17-3978:妹も我れも心は同じたぐへれどいやなつかしく相見れば……(長歌)
 
大伴家持が越中国(=富山県から能登半島を含む北国一帯の地域)に、国司(くにのつかさ)として赴任していたときに詠まれたものです。時期は、家持が越中に赴任した翌年の天平19(西暦747)3月20日。このとき家持は30歳。この歌は、奈良の都に残してきた最愛の妻、坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)へ贈られました。
 
述戀緒謌一首并短謌
標訓 戀の緒(こころ)を述べたる謌一首并せて短謌
集歌3978 妹毛吾毛 許己呂波於夜自 多具敝礼登 伊夜奈都可之久 相見波 登許波都波奈尓 情具之 眼具之毛奈之尓 波思家夜之 安我於久豆麻 大王能 美許登加之古美 阿之比奇能 夜麻古要奴由伎 安麻射加流 比奈乎左米尓等 別来之 曽乃日乃伎波美 荒璞能 登之由吉我敝利 春花之 宇都呂布麻泥尓 相見祢婆 伊多母須敝奈美 之伎多倍能 蘇泥可敝之都追 宿夜於知受 伊米尓波見礼登 宇都追尓之 多太尓安良祢婆 孤悲之家口 知敝尓都母里奴 近有者 加敝利尓太仁母 宇知由吉氏 妹我多麻久良 佐之加倍氏 祢天蒙許万思乎 多麻保己乃 路波之騰保久 關左閇尓 敝奈里氏安礼許曽 与思恵夜之 餘志播安良武曽 霍公鳥 来鳴牟都奇尓 伊都之加母 波夜久奈里那牟 宇乃花能 尓保敝流山乎 余曽能未母 布里佐氣見都追 淡海路尓 伊由伎能里多知 青丹吉 奈良乃吾家尓 奴要鳥能 宇良奈氣之都追 思多戀尓 於毛比宇良夫礼 可度尓多知 由布氣刀比都追 吾乎麻都等 奈須良牟妹乎 安比氏早見牟
訓読 妹も吾(われ)も 心は同じ 副(たぐ)へれど いや懐(なつか)しく 相見れば 常(とこ)初花(はつはな)に 心ぐし めぐしもなしに 愛()しけやし 吾()が奥妻 大王(おほきみ)の 御言(みこと)(かしこ)み あしひきの 山越え野行き 天離る 鄙治めにと 別れ来し その日の極み あらたまの 年往()き返り 春花の 移(うつ)ろふまでに 相見ねば 甚(いた)もすべなみ 敷栲の 袖返しつつ 寝()る夜おちず 夢には見れど うつつにし 直(ただ)にあらねば 恋しけく 千重(ちへ)に積()もりぬ 近くあらば 帰りにだにも うち行きて 妹が手枕(たまくら) さし交()へて 寝ても来()ましを 玉桙の 道はし遠く 関さへに 隔(へな)りてあれこそ よしゑやし 縁(よし)はあらむぞ 霍公鳥(ほととぎす) 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を 外(よそ)のみも 振り放()け見つつ 近江(あふみ)()に い行き乗り立ち あをによし 奈良の吾家(わぎへ)に ぬえ鳥の うら嘆()けしつつ 下恋に 思ひうらぶれ 門(かど)に立ち 夕占(ゆふけ)()ひつつ 吾()を待つと 寝()すらむ妹を 逢ひてはや見む
意味:愛しい貴女も私も心は同じ。いっしょに居てもますます心が惹かれ、逢うと常初花のようにいつも、心を作ったり、眼差しを繕ったしないで、愛らしい私の心の妻よ。大王の御命令を謹んで、足を引くような険しい山を越え野を行き、都から離れる鄙を治めると、貴女と別れて来て、その日を最後に、年の気を改める、年も改まり、春の花が散ってゆくまで、貴女に逢えないと、心が痛むがどうしようもない、敷栲の袖を折り返しながら寝る夜は、いつも夢に見えても、現実に、直接に逢うこともできないので、恋しさは幾重にも積もった。都が近かったら、ちょっと帰ってでも行って、愛しい貴女の手枕をさしかわし寝ても来ようものを、立派な鉾を立てる官路は遠く関所までも間を隔てていることだ。ままよ、何か良い機会もあるだろう。ホトトギスが来て鳴く月にいつかは、すぐになるだろう。卯の花の美しく咲く山を外ながらにも遠く見ながら、近江路を辿っていって、青葉が美しい奈良のわが家に到り、ぬえ鳥の、その言葉のひびきのように、うら嘆きつつ(=心の底から嘆きつつ)、心の底からの恋に侘びしく思いつつ門に出ては、夕占を問いながら私を待って寝ているだろう愛しい貴女に、早く逢いたいものです。

集歌3979 安良多麻之 登之可敝流麻泥 安比見祢婆 許己呂毛之努尓 於母保由流香聞
訓読 あらたまの年返るまで相見ねば心もしのに思ほゆるかも
意味 年の気が新たになる、その年が改まるまで貴女に逢えないと、心も萎れるように感じられます。

集歌3980 奴婆多麻乃 伊米尓婆母等奈 安比見礼騰 多太尓安良祢婆 孤悲夜麻受家里
訓読 ぬばたまの夢(いめ)にはもとな相見れど直(ただ)にあらねば恋ひやまずけり
意味 漆黒の夜の夢には空しくも貴女に逢えるが、直接、逢えなければ、貴女への恋心は止まない。

3981 安之比奇能 夜麻伎敝奈里氏 等保家騰母 許己呂之遊氣婆 伊米尓美要家里
訓読 あしひきの山き隔(へな)りて遠けども心し行けば夢(いめ)に見えけり
意味 足を引く険しい山を隔てて遠いけれども、心を通わせれば夢に逢いました。

集歌3982 春花能 宇都路布麻泥尓 相見祢波 月日餘美都追 伊母麻都良牟曽
 春花のうつろふまでに相見ねば月日数()みつつ妹待つらむぞ
意味 春花が散りゆく季節までに私に逢えないと、中上がりまでの月日を数えながら愛しい貴女は私を待っているでしょう。

右、三月廿日夜裏、忽兮起戀情作。大伴宿祢家持
左注 右は、三月廿日の夜の裏(うち)に、忽(たちま)ちに戀の情(こころ)を起して作れり。大伴宿祢家持


 

()の花を詠んだ歌3
 
民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)博士によると、古くはウツギの花の咲きぐあいでその年の豊凶を占ったといい、多い年は豊作と考えられました。これは、ウツギの花が春から初夏への季節の変わり目に咲き、また白く目だつことから、暦の普及していなかったころに季節を知る重要な花であったことによるのでしょう。
 
 
『万葉集』にはウノハナで24首詠まれ、万葉人も関心が高かったことが知られます。ウツギの名は『万葉集』にはないが、『和名抄(わみょうしょう)』に出ています。
10-1989: 卯の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思にして
 
17-3993: 藤波は咲きて散りにき卯の花は今ぞ盛りとあしひきの…(長歌)
原文:布治奈美波 佐岐弖知理尓伎 宇能波奈波 伊麻曽佐可理等 安之比奇能 夜麻尓毛野尓毛 保登等藝須 奈伎之等与米婆 宇知奈妣久 許己呂毛之努尓 曽己乎之母 宇良胡非之美等 於毛布度知 宇麻宇知牟礼弖 多豆佐波理 伊泥多知美礼婆 伊美豆河泊 美奈刀能須登利 安佐奈藝尓 可多尓安佐里之 思保美弖婆 都麻欲妣可波須 等母之伎尓 美都追須疑由伎 之夫多尓能 安利蘇乃佐伎尓 於枳追奈美 余勢久流多麻母 可多与理尓 可都良尓都久理 伊毛我多米 ■尓麻吉母知弖 宇良具波之 布勢能美豆宇弥尓 阿麻夫祢尓 麻可治加伊奴吉 之路多倍能 蘇泥布理可邊之 阿登毛比弖 和賀己藝由氣婆 乎布能佐伎 波奈知利麻我比 奈伎佐尓波 阿之賀毛佐和伎 佐射礼奈美 多知弖毛為弖母 己藝米具利 美礼登母安可受 安伎佐良婆 毛美知能等伎尓 波流佐良婆 波奈能佐可利尓 可毛加久母 伎美我麻尓麻等 可久之許曽 美母安吉良米々 多由流比安良米也
作者:大伴池主(おおとものいけぬし)
 
奈良時代の歌人。生没年不詳。746(天平18)ころ越中掾(じよう)として大伴家持の配下にあり,家持との間に交わした多くの贈答歌を《万葉集》にとどめますが,大伴一族とあるのみで系譜は不明です。のち越前掾に転じ,さらに中央官として都にかえりました。757(天平宝字1)橘奈良麻呂の変に加わって投獄され,その後の消息は不明です。
 
よみ藤波(ふぢなみ)は、咲きて散りにき、卯()の花は、今ぞ盛りと、あしひきの、山にも野にも、霍公鳥(ほととぎす)、鳴きし響(とよ)めば、うち靡(なび)く、心もしのに、そこをしも、うら恋しみと、思ふどち、馬打ち群れて、携(たづさ)はり、出で立ち見れば、射水川(いみづがは)、港の渚鳥(すどり)、朝なぎに、潟(かた)にあさりし、潮(しほ)()てば、夫呼び交す、羨(とも)しきに、見つつ過ぎ行き、渋谿(しぶたに)の、荒礒(ありそ)の崎に、沖つ波、寄せ来る玉藻(たまも)、片縒(かたよ)りに、蘰(かづら)に作り、妹(いも)がため、手に巻き持ちて、うらぐはし、布勢(ふせ)の水海(みづうみ)に、海人船(あまぶね)に、ま楫(かぢ)()い貫()き、白栲(しろたへ)の、袖(そで)振り返し、あどもひて、我が漕()ぎ行けば、乎布(をふ)の崎、花散りまがひ、渚(なぎさ)には、葦鴨(あしがも)騒き、さざれ波、立ちても居()ても、漕()ぎ廻り、見れども飽かず、秋(あき)さらば、黄葉(もみち)の時に、春(はる)さらば、春(はる)の盛りに、かもかくも、君がまにまと、かくしこそ、見も明らめめ、絶ゆる日あらめや
意味(ふじ)は咲きて散り、卯()の花は今を盛りと咲き誇り、山にも野にも霍公鳥(ほととぎす)が鳴くと、気持ちがひかれて、それが気になって親しい友と仲良く馬を連ねて見に行ってみると、射水川(いみづがわ)の河口にいる鳥が朝なぎに潟(かた)で餌をとり、潮が満ちると夫婦で呼び合います。心ひかれますが、過ぎ行きて、渋谿(しぶたに)の荒礒(ありそ)の崎で波が寄せてくるところで玉藻(たまも)を拾って、蘰(かづら)にし、あの女(ひと)のために手に巻き持って、美しい布勢(ふせ)の湖で海人船(あまぶね)に梶(かじ)をつけて、袖を振り返して掛け声をかけて漕いでゆくと、乎布(をふ)の崎には花が散り乱れて、渚(なぎさ)には葦鴨(あしがも)が騒いでいて、ずっと漕いでいても見飽きることがありません。秋(あき)がきたら黄葉(もみち)の頃に、春(はる)がきたら花(はな)の盛りに、とにもかくにも、あなた様にお従いして、こうして見ることで気を晴らします。絶えることなく。
 
 
天平19年(西暦747)4月26日に大伴家持が詠んだ「布勢水海(ふせのみずうみ)に遊覧(ゆうらん)する歌」に唱和した歌です。布勢水海(ふせのみずうみ)は、当時、(現在の)富山県氷見市にあった湖で、いまは存在していません。
 
18-4066: 卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥来鳴き響めよ含みたりとも
 
18-4091: 卯の花のともにし鳴けば霍公鳥いやめづらしも名告り鳴くなへ
 
19-4217: 卯の花を腐す長雨の始水に寄る木屑なす寄らむ子もがも



 

()の花を詠んだ歌2
 
ウツギの学名は、アジサイ科ウツギ属であり、落葉低木の植物です。樹の高さは大体2~4m。よく分枝する為、横にも広く育っていきます。名前の由来は、幹が中空であることから「空木(ウツギ)」と名付けられました。その為、科や属が違う別の種類でも幹が中空なら「空木」と呼ばれることがあるそうです。 昔から、畑の生け垣や観賞用、木釘などに利用され、庶民に愛され続けられてきた植物です。空木は別名「卯の花」とも呼ばれています。その由来は、ウツギの一文字目「ウ」の字を取り、干支の「卯(う)」を当てはめられた「卯(つぎ)の花」と名付けられたそうです。この名称から、卯の花の開花する時期を「卯月」と呼ばれるようになり、開花する旧暦4月の事を卯月と呼ぶようになったそうです。
 
10-1942: 霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女
 
10-1945: 朝霧の八重山越えて霍公鳥卯の花辺から鳴きて越え来ぬ
 
10-1953: 五月山卯の花月夜霍公鳥聞けども飽かずまた鳴かぬかも
 
10-1957: 卯の花の散らまく惜しみ霍公鳥野に出で山に入り来鳴き響もす
 
10-1963: かくばかり雨の降らくに霍公鳥卯の花山になほか鳴くらむ
 
10-1975: 時ならず玉をぞ貫ける卯の花の五月を待たば久しくあるべみ
 
10-1976: 卯の花の咲き散る岡ゆ霍公鳥鳴きてさ渡る君は聞きつや
 
10-1988: 鴬の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ
 


ウェブニュースより
 
<新型コロナ>みんなで打ち勝とう ツリー特別ライトアップ ―― 世界が一丸となって新型コロナウイルス感染症に打ち勝とう-。東京スカイツリー(墨田区)は、そんな思いを込めた特別ライティングを実施している。
 
特別ライティングでは、地球をイメージした濃い青色が先端や中腹を彩る。地上350メートルの天望デッキには「TOGETHER WE CAN ALL WIN!(みんなで打ち勝とう)」のメッセージを投影している。
 
 
4月5日まで午後7時~午前0時に点灯する。悪天候の場合はメッセージの投影を中止する。    (東京新聞 2020329日)


 

 ()の花を詠んだ歌1
 
ユキノシタ科ウツギ属の落葉低木である空木(うつぎ)の花のことです。日本原産です。5月頃に白い5弁の花を沢山咲かせます。幹の中が中空で、空ろな木だから「空木(うつぎ)」だということです。
 
万葉集には24首に登場します。その多くが、霍公鳥(ほととぎす)とセットで詠まれています。「卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて…」という歌を聞いたことがありますよね。
https://www.uta-net.com/movie/5950/
巻7-1259: 佐伯山卯の花持ちし愛しきが手をし取りてば花は散るとも
 
8-1472: 霍公鳥来鳴き響もす卯の花の伴にや来しと問はましものを
 
8-1477: 卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥佐保の山辺に来鳴き響もす
 
8-1482: 皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴く霍公鳥我れ忘れめや
 
巻8-1491: 卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴き渡る
 
巻8-1501: 霍公鳥鳴く峰の上の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ
 
巻9-1755: 鴬の卵の中に霍公鳥独り生れて己が父に.......(長歌)
 
10-1899: 春されば卯の花ぐたし我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも
 


4月9日(午後2時頃)に浅草寺病院で、定期検診を受けました。その時の担当医師の話によると、「今のところ、院内でコロナウイルスの感染はありません」ということでしたが、女房の話によると、昨日(4月13日)の朝のテレビで浅草寺病院内で職員のウイルス感染者が出たというテロップが出たということでした。パソコンで調べてみると、浅草寺病院からの「お知らせ」が出ていました。








馬酔木(あしび/あせび)を詠んだ歌 1
 
馬酔木はツツジ科アセビ属の常緑低木です。有毒植物で、昔は殺虫剤に使われたとのことです。3月から4月にかけて、枝の先に壷の形をした白い花をつけます。馬がこれを食べて苦しんだという故事から馬酔木という名前がついたということですが、本当に馬が食べる訳ではありません。
 
巻2-0166: 磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 
          
見すべき君が 在りと言はなくに
 
7-1128: 馬酔木なす 栄えし君が 掘りし井の
           
石井の水は 飲めど飽かぬかも
 
8-1428: おし照る難波を過ぎてうちなびく草香の山を.......(長歌)
 
10-1868: かはづ鳴く 吉野の川の 滝の上の
            馬酔木の花ぞ はしに置くなゆめ

10-1903: 我が背子に 我が恋ふらくは 奥山の
            馬酔木の花の 今盛りなり


馬酔木を詠んだ歌 2
 
アセビは同じツツジ科のレンゲツツジなどと同様、葉や枝に「グラヤノトキシン」という毒を含み、口にすると腹痛や下痢、神経麻痺などの症状を引き起こします。そのことを草食の哺乳類もよく知っていて、このアセビだけは避けるといいます。アセビをその名もずばり「シシクワズ(シシ=鹿)」と呼ぶ地方もあるそうです。
 
アセビに「馬酔木」の字を当てているのは、一説に中国からの渡来人に伴われて来た馬が食べて酔っ払ったようになったためといわれます。アセビの語源ははっきりしないが「足しびれ」から来たともいわれます。万葉集にも多く詠まれた万葉植物です。
 
「馬酔木(あしび)」は俳人、水原秋桜子の主宰誌でも有名です。秋桜子もアセビの歌を多く残しています。「馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ」「来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり」。花の色は白が一般的ですが、写真のように「アケボノアセビ」と呼ばれる紅色やピンク色のものもあります。
 
101926: 春山の 馬酔木の花の 悪しからぬ 
          君にはしゑや 寄そるともよし
 
133222: 三諸は 人の守る山 本辺は馬酔木咲く
        末辺は椿花咲く うらぐはし山ぞ 泣く子守る山
 
20-4511: をしの住む 君がこの山斎 今日見れば
           馬酔木の花も 咲きにけるかも
 
20-4512: 池水に 影さへ見えて 咲きにほふ
         馬酔木の花を 袖に扱入れな
 
20-4513: 礒影の 見ゆる池水 照るまでに
          咲ける馬酔木の 散らまく惜しも


 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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