藻(も)を詠める歌10
巻7-1227:礒に立ち沖辺を見れば藻刈り舟海人漕ぎ出らし鴨翔る見ゆ
巻7-1248:我妹子と見つつ偲はむ沖つ藻の花咲きたらば我れに告げこそ
巻7-1290:海の底沖つ玉藻のなのりその花妹と我れとここにしありとなのりその花
巻7-1380:明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに
巻7-1394:潮満てば入りぬる礒の草なれや見らく少く恋ふらくの多き
巻7-1395:沖つ波寄する荒礒のなのりそは心のうちに障みとなれり
巻7-1396:紫の名高の浦のなのりその礒に靡かむ時待つ我れを
巻7-1397:荒礒越す波は畏ししかすがに海の玉藻の憎くはあらずて
ウェブニュースより
棒読み菅首相、五輪判断の基準示せず正念場 閣僚援護も火に油で大荒れ模様 ―― 菅義偉首相は7日の参院決算委員会で、東京オリンピック(五輪)・パラリンピック開催をめぐり、これまで同様に具体的な判断基準を明示しなかった。関係閣僚の援護射撃も反発する野党に火に油を注ぐ展開となり、野党から求められた五輪開催の可否を新型コロナ対策分科会(尾身茂会長)への諮問も却下した。1対1で臨む、あす9日の党首討論では、さらに激しくなる野党の追及をかわせるかが焦点となる。
◇ ◇ ◇
国会会期末(16日)を控えた締めくくり総括審議で、菅首相が野党から集中砲火を浴びた。立憲民主党の福山哲郎幹事長から五輪開催の判断基準をただされたが、「選手や大会観戦者の感染対策をしっかり講じて~」など、質問内容とズレた答弁を棒読みした。
首相は追及の嵐に「命と健康を守っていく。これが開催の前提条件。前提が崩れれば、こうしたこと(五輪)は行わない」などとした。だが、福山氏から「前提が崩れるか、どうかは何で判断するのか」と問われ、またも「選手や大会観戦者の感染対策を~」と棒読み。
炎上を予見した閣僚がフォローしたが、チーム菅の援護射撃は、火に油となった。菅首相が福山氏から判断基準について「イエスか、ノーかで」と迫られると、丸川珠代五輪担当相がPCR検査など関係のない説明を始め、野党の反発で質疑は約3分間ストップするなど、大荒れ模様となった。
首相は「尾身(茂)会長の分科会に、正式に五輪に対しての条件を諮るべき」と迫られると、西村康稔経済再生相が「分科会はオリンピックの開催の可否など審議する場所ではありません。権限はありません」と却下。野党から反発が広がった。一方で20日の緊急事態宣言の解除期限について、首相は「専門家のみなさんの意見を伺う中で判断する」と発言。委員会後の会見で福山氏は「ダブルスタンダード(二重基準)だ」と猛批判した。
あす9日、約2年ぶりの党首討論は1対1で援護なし。五輪開催の可否をめぐって、さらに激しい論戦は必至。11日から英国で開催される先進7カ国首脳会議(G7サミット)へ旅立つ直前、正念場を迎える。 [日刊スポーツ 2021年6月7日20時4分]
藻(も)を詠める歌9
巻7-1136:宇治川に生ふる菅藻を川早み採らず来にけりつとにせましを
巻7-1152:楫の音ぞほのかにすなる海人娘子沖つ藻刈りに舟出すらしも
巻7-1157:時つ風吹かまく知らず吾児の海の朝明の潮に玉藻刈りてな
巻7-1167:あさりすと礒に我が見しなのりそをいづれの島の海人か刈りけむ
巻7-1168:今日もかも沖つ玉藻は白波の八重をるが上に乱れてあるらむ
巻7-1199:藻刈り舟沖漕ぎ来らし妹が島形見の浦に鶴翔る見ゆ
◎妹が島・形見の浦
和歌山市加太の港の目の前にゆったりと二並ぶ友ケ島(実際には四つの島から成っています)を「妹が島」と歌ったのでしょう。「形見の浦」は「妹が島」内のいずれかの浦を指します。一説に現在の加太(万葉時代の賀太)の浦を指すと考えられてもいますが、歌の語構成からみて「妹が島と形見の浦」と解することは無理で、「妹が島の形見の浦」と解せられます。
巻7-1206:沖つ波辺つ藻巻き持ち寄せ来とも君にまされる玉寄せめやも
ウェブニュースより
藤井聡太棋聖が渡辺明名人との“どつき合い”制す、初防衛へ90手で先勝 ―― 藤井聡太棋聖(王位=18)が初防衛に向けて好スタートを切った。6日、千葉県木更津市「竜宮城スパホテル三日月」で行われた第92期ヒューリック杯棋聖戦5番勝負第1局で、挑戦者の渡辺明名人(棋王・王将=37)を下した。午前9時から始まった対局は、いきなり激しく駒がぶつかり合った。攻めをつないだ後手の藤井が午後6時24分、90手で快勝した。第2局は18日、兵庫県洲本市「ホテルニューアワジ」で行われる。
◇ ◇ ◇
昨年とは立場を入れ替えての開幕戦。先手渡辺が誘導した相掛かりに乗った。応じる形で序盤から激しく駒がぶつかり、取っては打ちつける。相撲で言えば「突っ張り合い」、陸上なら100メートル走の選手同士が全力疾走で42.195キロのマラソンを走るような展開だ。午後4時すぎ、優位を築くと一気に押し切った。「難しい展開でした」と、ホッとした表情を見せた。
https://www.youtube.com/watch?v=rfJF7hygbuk
対局前日、直近の将棋について問われた。3日の順位戦B級1組では稲葉陽八段(32)に敗れ、順位戦の連勝を「22」で止められた。ほかにも苦戦を強いられる対局が目立つからだ。「結果的に状態がいい訳ではないが、棋聖戦に向けて自分なりにしっかり準備してきた」と、会見で話した。
盤に向かえばしっかり局面を読み、最後は3枚の桂を4五、6五、6四の地点に打ち据えて渡辺玉を攻略した。
昨年はコロナ禍による強行日程で、挑戦者決定から中3日で5番勝負に臨んだ。バタバタと始まった開幕戦は和装を諦め、スーツで盤に向かっている。特にタイトル戦という意識はなかった。今年は違う。
3カ月前、竜王戦2組準決勝で松尾歩八段(41)を下し、5年連続昇級を決めた時のこと。「先を見越して戦っていきたい」と、コメントしている。ちょうど順位戦B1昇級を決めた直後で、明らかにその先のタイトル争いや防衛戦を意識していた。
盤外では新たな選択をした。2月、高校(愛知・名古屋大教育学部付属)を1月末に自主退学していたことも明らかにした。3月には不二家、サントリー食品インターナショナルと広告契約も交わした。将棋に専念し、生活できる環境は整った。「次局もしっかり準備して戦いたいです」と、気を引き締めていた。
◆棋聖戦 将棋の8大タイトル戦の1つ。1962年(昭37)創設。初代棋聖は、故大山康晴十五世名人。94年度までは半年に1回開催されていた。95年度から年1回に。96年度は当時7冠すべてを保持していた羽生善治現九段が三浦弘行現九段に敗れ、6冠に後退した。「棋聖」は将棋、囲碁で抜群の才能を示す者への敬称。将棋では江戸時代末期の不世出の天才棋士、天野宗歩(あまの・そうふ)がこう呼ばれた。
【第92期ヒューリック杯棋聖戦5番勝負日程】
◇第2局 6月18日、兵庫県洲本市「ホテルニューアワジ」
◇第3局 7月3日、静岡県沼津市「沼津御用邸東附属邸第1学問所」
◇第4局 7月18日、名古屋市「亀岳林 万松寺」
◇第5局 7月29日、新潟市「高志の宿 高島屋」 [日刊スポーツ 2021年6月6日18時35分]
藻(も)を詠める歌8
巻6-0943:玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ
巻6-0946:御食向ふ淡路の島に直向ふ敏馬の浦の.......(長歌)
標題:過<敏馬>浦時山部宿祢赤人作歌一首[并短歌]
標訓:敏馬の浦を過りし時に、山部宿祢赤人が作りし歌一首、短歌を幷せたり
原文:御食向 淡路乃嶋二 直向 三犬女乃浦能 奥部庭 深海松採 浦廻庭 名告藻苅 深見流乃 見巻欲跡 莫告藻之 己名惜三 間使裳 不遣而吾者 生友奈重二
万葉集 巻6-0946
作者:山部赤人
よみ:御食向ふ 淡路の島に 直向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松採り 浦廻には なのりそ刈る 深海松の 見まく欲しけど なのりその おのが名惜しみ 間使も 遣らずて我れは 生けりともなし
意訳:御食(みけ)の国、淡路島に、まっすぐ正面に向かい合う敏馬(みぬめ)の浦。その沖では海中深くの海草、海松(みる)を採取する。浦の海岸周辺では名のりそを刈り取るという。深海松は是非見たいし、名のりそは名のるのが惜しくて、使いの者もやらず、どうしようもない。なので、生きた心地がしない。
左注:右作歌年月未詳也 但以類故載於此次
注訓:右ノ作歌、年月詳ラカナラズ。但類ヲ以テノ故ニ此ノ次ニ載ス。
巻6-0958:時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻刈りてな
※大弐小野老(だいにおののおゆ、?~737年)
奈良時代の官人で万葉歌人です。天平10(738)年を没年とする説があります。神亀年間(724~29)には大宰少弐として『万葉集』に歌をのこしていす。大宰大弐のままで死去しています。業績については、高橋牛養を南島(沖縄諸島)に遣わして、漂着船のためにそれぞれの島に島の名,船の泊所、給水所および本土からの距離を記した碑を建てたと『続日本紀』に記されています。このような老の仕事は当時、遣唐使は南海路を通ることが多かったこともあって、律令政府には南島への関心があったことの表れでもあります。
巻6-1065:八千桙の神の御代より百舟の泊つる泊りと.......(長歌)
標題:過敏馬浦時作歌一首[并短歌]
標訓:敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時よめる歌一首、また短歌
原文:八千桙之 神乃御世自 百船之 泊停跡 八嶋國 百船純乃 定而師 三犬女乃浦者 朝風尓 浦浪左和寸 夕浪尓 玉藻者来依 白沙 清濱部者 去還 雖見不飽 諾石社 見人毎尓 語嗣 偲家良思吉 百世歴而 所偲将徃 清白濱
万葉集 巻6-1065
作者:田邊福麻呂
よみ:八千桙の 神の御代より 百舟の 泊つる泊りと 八島国 百舟人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に 浦波騒き 夕波に 玉藻は来寄る 白真砂 清き浜辺は 行き帰り 見れども飽かず うべしこそ 見る人ごとに 語り継ぎ 偲ひけらしき 百代経て 偲はえゆかむ 清き白浜
意訳:大国主の命の神の御代から多く舟が停泊する所と八島国(日本中)の舟人が定めてきた敏馬の浦。朝風が吹くと波が立ち騒ぎ、夕波時には海藻が寄せてくる。白砂の清らかな浜辺は行きつ戻りつしていつまで眺めていても飽きない。なるほど、見る人見る人が語り継ぎ、なつかしがるわけだ。この先、いついつまでも褒め称えてゆこうではないか。この清らかな白浜を。
左注:右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也
注訓:右の二十一首は、田邊福麻呂の歌集の中に出でたり
※田辺 福麻呂(たなべ の さきまろ、生没年不詳)
奈良時代の下級官人です。万葉歌人。姓は史(ふひと)。
田辺氏(田辺史)は百済系渡来氏族で、西文氏のもとで文筆・記録の職掌についた史部の一族と想定されます。
天平20年(748年)、造酒司の令史のとき、橘諸兄の使者として越中守・大伴家持のもとを訪れ、ここに新しき歌を作り、幷せて便ち古詠を誦(よ)み、各(おのもおのも)心緒(おもひ)を延ぶ」とあります。また、越中掾の久米広縄の館でも饗宴を受け、歌を詠んだともあります。福麻呂の和歌作品は『万葉集』に44首が収められています。巻18に短歌13首があり、巻6・巻9にある長歌10首とその反歌21首は「田辺福麻呂の歌集に出づ」とあります。それらの歌は用字・作風などから福麻呂の作と見られています。
ウェブニュースより
浅草の名所が消滅危機 伝法院通りで不法占拠問題が表面化「なぜ今」店主は困惑 ―― 東京の名所・浅草寺の境内に隣接するレトロな商店街が消滅の危機を迎えている。「伝法院でんぽういん通り」と呼ばれる一角で40年以上にわたり営業してきたが、地元の台東区が、店舗の立つ場所は公道上で不法占拠に当たるとして立ち退きを求めているためだ。店主たちは「なぜ今なのか」と戸惑い、営業継続に向けて署名活動を始めた。
◆浅草観光の定番コースで何が
伝法院通りは、浅草寺の仲見世商店街と交差する形で東西に約300メートル伸び、両脇に土産物店などが並ぶ。2000年代に入ってからのリニューアル事業で江戸の町並みが再現された。メンチカツや大学芋の人気店も進出し、着物姿で食べ歩きする客も多い。人力車の定番コースにもなっている東京を代表する観光スポットだ。
台東区から立ち退きを求められているのは仲見世通りの西側に連なる32店舗。舞台衣装や作業着、雑貨などを売る店が多く、昭和の味わいある雰囲気が残っているが、区は「区道の上に許可なく立っている。道路法違反に当たる」と説明する。
◆「掘っ立て小屋ならともかく…」
この32店舗でつくる「浅草伝法院通り商栄会」によると、起源は1977年、浅草公会堂が完成したころだという。公会堂の建設に合わせた区の周辺整備の一環で建てられ、この場所で終戦直後からバラックで営業していた露天商たちが入居した。
商栄会側は、当時の内山栄一区長(故人)の指示で建てられたと主張する。西林宏章会長(59)は「掘っ立て小屋ならともかく、鉄筋造りの連なる店舗を勝手に並べられるわけがない。当然、区に認められていると思って商売してきた」と話す。
◆口ごもる区職員 背景に何が
波風が立ち始めたのは2014年。区が不法占拠であることを商栄会に告げ、その後も説明会を開いたり戸別訪問を繰り返したりして、立ち退きを求めるようになった。
区道路管理課の斎藤洋課長は本紙の取材に「建てられた当時から違法状態だったと認識している」としつつも、なぜ近年になって問題化したかについては「その時々の担当者がどう対応してきたかは分からないので…」と言葉を濁した。
図面など建設の経緯が分かる資料は区にも商栄会側にも残っていない。主張は対立したまま、互いに代理人を立てて交渉している。ある地元関係者は「区が一代限りで認めたらしい」と明かした。
店主たちは5月、営業継続への賛同を求め、週末の街頭署名活動を始めた。これまでに7000筆を集め、今後、区に提出する予定だ。西林会長は「商店街の一員として浅草の発展を支え、個人事業主としても所得税などを納めてきた。店がなくなれば生活の糧を失ってしまう」と訴えている。
◆専門家「行政は歩み寄ってもいいのでは」
中央大法科大学院の土田伸也教授(行政法学)は、問題が表面化した背景について、「不法占拠の解消を首長に求める住民訴訟が近年増加するなど適性管理への社会的なニーズが高まってきている」と指摘する。
一方、「不法占拠ながら観光面での貢献や事業主として納税があったのなら、行政にも得があったわけなので、代替地を考えるなど歩み寄ってもいいのでは」と語った。 (東京新聞 2021年6月5日 20時00分)
藻(も)を詠める歌7
巻6-0917:やすみしし我ご大君の常宮と仕へ奉れる.......(長歌)
標題:神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時山部宿祢赤人作歌一首并短歌
標訓:神亀元年甲子(かふし)の冬十月五日、紀伊国に幸(いでま)しし時に、山部宿禰赤人の作れる歌一首并て短歌
原文:安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背<匕>尓所見 奥嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代従 然曽尊吉 玉津嶋夜麻
万葉集 巻6-0917
作者:山部赤人
よみ:やすみしし わご大君(おほきみ)の 常宮(とこみや)と 仕へまつれる 雑賀野(さひがの)ゆ 背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚(なぎさ)に 風吹けば 白波騒(さわ)き 潮干(ふ)れば 玉藻(たまも)刈りつつ 神代より 然(しか)そ尊(たふと)き 玉津島山(たまつしまやま)
意訳:われらが大君の常宮(離宮)としてお仕え申し上げる雑賀野の、その背後に見える沖の島。清らかな渚に風が吹くと、白波が立ち騒ぐ。潮が引けば藻を刈り取ってきた。神代の昔より貴い、その沖の島、玉津島。
左注:右年月不記 但称従駕玉津嶋也 因今檢注行幸年月以載之焉
注訓:右は年月を記さず。玉津島に従駕(おほみとも)すといへり。因(かれ)、今行幸の年月を検へ注して以ちて載巣す。
歌の内容は典型的な儀礼歌で、まず天皇を讃え、その永遠の宮である雑賀野から背後に見える沖の島…と、行幸先の宮から見える玉津島の島々のことを詠っています。「雑賀野(さひがの)」は和歌山市西、雑賀崎の野で、このあたりに玉津島の宮があったのでしょう。
巻6-0918:沖つ島荒礒の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも
巻6-0931:鯨魚取り浜辺を清みうち靡き生ふる玉藻に.......(長歌)
標題:車持朝臣千年作歌一首[并短歌]
標訓:車持朝臣千年(くるまもちのあそみちとせ)の作れる歌一首并せて短歌
原文:鯨魚取 濱邊乎清三 打靡 生玉藻尓 朝名寸二 千重浪縁 夕菜寸二 五百重<波>因 邊津浪之 益敷布尓 月二異二 日日雖見 今耳二 秋足目八方 四良名美乃 五十開廻有 住吉能濱
万葉集 巻6-0931
作者:車持朝臣千年
よみ:鯨魚取り 浜辺を清み うち靡き 生ふる玉藻に 朝なぎに 千重波寄せ 夕なぎに 五百重波寄す 辺つ波の いやしくしくに 月に異に 日に日に見とも 今のみに 飽き足らめやも 白波の い咲き廻れる 住吉の浜
意訳:鯨魚も取れるという浜辺が清らかなので、うち靡いて生えている美しい藻には、朝の凪に千重の波が寄せて来る。夕べの凪には五百重の波が寄せて来る。その浜辺の波にように、よりいっそうに、月々に、日に日に見るとしても満足できないのに、今だけ見て飽き足りるだろうか。白波が開花してめぐる住吉の浜よ
※車持朝臣千年(くるまもちのあそみちとせ、生没年不明)
奈良時代の歌人です。笠金村(かさの-かなむら)や山部赤人(やまべの-あかひと)らと同時代の宮廷歌人のひとりといわれます。養老7年(723)元正(げんしょう)天皇の吉野行幸にしたがったときの長歌および反歌,神亀(じんき)2年聖武(しょうむ)天皇の難波(なにわ)行幸にしたがったときの長歌および反歌などが「万葉集」におさめられている。女性とする説もあります。
巻6-0935:名寸隅の舟瀬ゆ見ゆる淡路島松帆の浦に.......(長歌)
標題:三年丙寅秋九月十五日、幸於播磨國印南野時、笠朝臣金村作謌一首并短謌
標訓:(神亀)三年丙寅秋九月十五日に、播磨國の印南野に幸(いでま)しし時に、笠朝臣金村の作れる謌一首并せて短謌
原文:名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名藝尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍 海末通女 有跡者雖聞 見尓将去 餘四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳徊 吾者衣戀流 船梶雄名三
万葉集 巻6-0935
作者:笠朝臣金村
よみ:名寸隅(なきすみ)の 船瀬(ふなせ)ゆ見ゆる 淡路島(あはぢしま) 松帆(まつほ)の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海(あま)未通女(をとめ) ありとは聞けど 見に行かむ 縁(よし)の無ければ 大夫(ますらを)の 情(こころ)は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて 徘徊(たもとほ)り 吾はぞ恋ふる 船梶(ふなかぢ)を無み
意訳:名寸隅の船を引き上げる浜から見える淡路島、その松帆の浦では朝の凪には玉藻を刈り、夕方の凪には藻塩を焼く、そんな漁師のうら若い娘女がいると聞くのだが、彼女に会いに行く機会がないので、朝廷の立派な男の乙女に恋する気持ちは失せ、か弱い女のように気持ちも萎え、恋心はさまよい、私は噂の乙女に恋をする。船もそれを操る梶もないので。
巻6-0936: 玉藻刈る海人娘子ども見に行かむ舟楫もがも波高くとも
※笠金村(かさのかなむら、生没年不明)
奈良時代の歌人です。元正(げんしょう)、聖武(しょうむ)両朝の下級官人で、行幸につき従って賛歌を詠み、志貴皇子挽歌(しきのみこばんか)をつくるなどした、いわゆる宮廷歌人的な人です。『万葉集』に残る作品は715年(霊亀1)から733年(天平5)までの長歌9首、短歌26首の計35首。ほかに「笠朝臣金村之歌中出(かさのあそみかなむらのうたのなかにいづ)」と記す長歌2首、短歌8首もありますが、作者不明歌を含みます。歌風は柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の影響を強く受けていますが、迫力に乏しく、私的な相聞風の発想をよくするなどの点に時代の反映をみることができます。
ウェブニュースより
尾身会長が五輪開催巡る緊急提言 政府決定前に「我々の考え伝えたい」 ――政府の新型コロナ対策分科会の尾身茂会長(71)は4日、衆院厚生労働委員会で五輪開催の可否をめぐり野党から集中質疑を受けた。立憲民主党の山井和則氏からは「一番、国民が不安に思っているのは、やるか、やらないか」と重ねて食い下がられたが、この段階での明確な答弁は避けた。その上で今後、現状のコロナ禍における五輪開催へ向けた緊急提言を行うことを明らかにした。尾身会長は「政府は(緊急事態宣言解除の)20日以降に(五輪開催の可否を)決められる、と聞いている。(提言は)その後だと意味がない。なるべく、それよりも前に我々の考えを伝えたい」と断言した。
現況での五輪開催について、尾身会長は2日に「今の状況で、やるのは普通じゃないわけだから、やるのであれば、開催規模をできるだけ小さくして管理体制をできるだけ強化するのは主催者の義務だ」と政府、組織委員会に突きつけ、波紋を呼んだ。そして、この日は「本当にやるんであれば、緊急事態宣言の中での、オリンピックなんていうことを絶対に避けるということ」と自説を語り、「一生懸命、自粛している所にお祭りという雰囲気が出た瞬間をテレビで見て人々がどう思うか」と、さらに踏み込んだ見解を示した。
これまで尾身会長は、コロナ対策や緊急事態宣言の発令、延長に際しての判断を仰がれ、記者会見では菅首相と並んで登壇し、専門的な説明はすべて委ねられるなど、重用されてきた。しかし、緊急提言を決断した尾身会長に対しては政府内から早くも反発の声が上がり、田村憲久厚労相は「自主的な研究の成果の発表ということだと思う。そういう形で受け止めさせていただく」と、公式提言として認めない構えでけん制した。
尾身会長は緊急提言の内容について明らかにしていない。開催以外の選択肢を提示しない政府にとっては提言によって五輪開催の是非や可否につながる世論拡大は避けたいところだ。尾身会長の提言に、注目が集まっている。 [日刊スポーツ 2021年6月4日21時40分]
藻(も)を詠める歌6
巻4-0491:川上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも
※吹芡刀自(ふふきのとじ、生没年不明)
飛鳥(あすか)時代の歌人です。天武天皇4年(675)十市(とおちの)皇女にしたがって伊勢神宮にもうでたときによんだ歌が「万葉集」巻1に1首、巻4には相聞歌が2首みえる。吹黄(ふきの)刀自ともあらわします。
◎「いつ藻」は「斎藻」で美しい藻のことです。そんな「いつ藻」という言葉の響きから「いつもいつも」を引き出して詠んだ「調べ(リズム)」の美しい一首です。
万葉集の時代の歌には祈りの呪文としての意味合いも強かったので、この歌のような口ずさんだ時の「調べ(リズム)」のよさは非常に重視されていたのだろうと想像できます。
妻が夫に対して「いつもいつも来てください」と詠い掛けるのは現代人の感覚では少し違和感を感じるかも知れませんが、この時代の婚姻は結婚後も妻は自分の生家に住んでいて夫が毎晩妻の家に通う「通い婚」が普通でした。ですので、現代に比べれば婚姻関係が薄弱で、ある日突然夫が来なくなって婚姻関係が終わるということもよくあったようです。
(逆に妻のほうが夫を拒むという感じで婚姻関係が終わることもあったようですが…)
それゆえに婚姻関係にある夫婦の間でも、この歌のように妻が夫の来訪を待ちわびる切ない恋愛感情が失われずに成立したのでしょう
巻4-0511:我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
◎持統天皇が伊勢に御幸された際に従駕した夫(当麻麻呂)を待つ妻が都で詠んだ詩となります。作者は当麻麻呂妻(たいまのまろのつま)です。
夫である当麻麻呂についても、持統天皇が伊勢に御幸された際に従駕したこと以外よくわかっていません。
巻4-0619:おしてる難波の菅のねもころに君が聞こして.......(長歌)
標題:大伴坂上郎女怨恨歌一首[并短歌]
標訓:大伴坂上郎女の怨恨(うらみ)の歌一首〔并て短歌〕
原文:押照 難波乃菅之 根毛許呂尓 君之聞四乎 年深 長四云者 真十鏡 磨師情乎 縦手師 其日之極 浪之共 靡珠藻乃 云々 意者不持 大船乃 憑有時丹 千磐破 神哉将離 空蝉乃 人歟禁良武 通為 君毛不来座 玉梓之 使母不所見 成奴礼婆 痛毛為便無三 夜干玉乃 夜者須我良尓 赤羅引 日母至闇 雖嘆 知師乎無三 雖念 田付乎白二 幼婦常 言雲知久 手小童之 哭耳泣管 俳徊 君之使乎 待八兼手六
万葉集 巻4-0619
作者:大伴坂上郎女
よみ:押し照る 難波の菅の ねもころに 君が聞(きこ)しを 年深く 長くし云(い)へば 真澄鏡(ますかがみ) 磨(と)ぎし情(こころ)を 許してし その日の極(きは)み 波の共(むた) 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず 大船の 憑(たの)める時に ちはやぶる 神か離(さ)くらむ 現世(うつせみ)の 人か禁(さ)ふらむ 通(かよ)はしし 君も来まさず 玉梓の 使(うかひ)も見えず なりぬれば 痛(いた)もすべ無み ぬばたまの 夜はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども 験(しるし)を無み 思へども たづきを知らに 手弱女(たわやめ)と 言はくも著(しる)く 手童(たわらは)の 哭(ね)のみ泣きつつ た廻(もとは)り 君が使(つかひ)を 待ちやかねてむ
意訳:天と地との両方から照らされる難波に生える菅の根のように、密に心を込めて貴方がおっしゃて「年永く末長い仲であれば」と云うと、願うと見たいものを見せると云う真澄鏡を磨ぐような澄み切った私の思いを貴方に許して、その日を境として波と共に靡く玉藻のように、あれこれと揺れ動く気持ちは持たず、大船のように貴方を信頼している時に、神の岩戸を押分けて現れた神が二人の仲を割くのでしょうか、この世の人が止めるのでしょうか、私の許を通っていた貴方もやって来ず、美しい梓の杖を持つ立派な使いも来て姿を見せないようになったので、心を痛めてもどうしようもなく、漆黒の夜は夜通し、明るい昼間は日が暮れるまで、身の不幸を嘆くのですが、その甲斐もなく、貴方を恋い慕っても便りを行う手段も知らないので、手弱女と言われる通りに幼子のように、さめざめと泣いて床に身をよじる。そんな私に貴方からの使いを待つことが出来るでしょうか。
◎この歌は大伴坂上郎女が詠んだ恋の怨恨(うらみ)の長歌です。年久しく末永く共に暮らそうと声をかけてくれた男を頼りにしていたのに、次第に男が疎遠になって、嘆き悲しみ男の使の来るのを待つしかない女心の切なさが素敵に詠われています。
歌の前半で男が声をかけてくれた時の喜びを詠って大船に乗っているかのように頼りにしきっていた様子を表現することで、後半の不安で切ない気持ちがよりいっそう強調されていますね。
まあ、ほんとうのところはこの歌は「怨恨(うらみ)の歌」という主題で詠まれた題詠歌であるらしく、実際に坂上郎女がこのような恋をしていたわけではないようですが、それにしても男の存在をこころの拠り所にして待つしかない女性の心情がよく表現されていますよね。あるいは恋愛経験の豊富な坂上郎女だからこそ詠めた題詠といったところでしょうか。
坂上郎女は大伴家の刀自(とじ)として女性の立場から大伴家を支えた才女のイメージがありますが、その強さの根本にはこの歌に詠まれたような切ない恋を何度も繰り返してきた経験の積み重ねがあったのかも知れませんね。
巻4-0625:沖辺行き辺を行き今や妹がため我が漁れる藻臥束鮒
※大原高安(おおはらの-たかやす、?-743年)
奈良時代の官吏。天武天皇の曾孫(そうそん)。川内王の子。
はじめ高安王と称しました。和銅6年従五位下にすすみ,養老3年伊予守(いよのかみ)のとき按察使(あぜち)を兼任します。のち衛門督(かみ)。天平(てんぴょう)11年弟の桜井王らとともに大原真人(まひと)の氏姓をあたえられました。「万葉集」に歌3首がおさめられています。天平14年12月19日死去。
巻4-0659:あらかじめ人言繁しかくしあらばしゑや我が背子奥もいかにあらめ ........(藻そのものを詠んだ歌ではありません)
◎大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)が詠んだ六首の歌のうちの一首です。「まだ恋が始まったばかりなのにもうこんなに人の噂になるとは。これではあなた、この先どうなることでしょう…」との、他人に噂される恥ずかしさを詠っています。
この時代の人々にとって、現代人が思う以上に自分の名は汚してはならない大切なものでした。また、恋はまさしく「秘め事」であり、恋の浮名が立つことを非常に嫌っていたようです。
そんな大切な自分の名が恋の始まりからもう人の噂に立っているようではこれから先どうなるのか…、と噂好きの人々にうんざりしているのでしょう。
女性にとっては自分の恋の噂が立つことは嫌っても、他人の恋の噂話が楽しくて仕方がないのはいまも昔も変わらないのかも知れませんね。
巻4-0782:風高く辺には吹けども妹がため袖さへ濡れて刈れる玉藻ぞ
※紀女郎(きのいらつめ、生没年未詳)
紀朝臣鹿人の娘。名は小鹿(おしか)。安貴王の妻。万葉集巻八には「紀少鹿女郎」ともあります。小鹿(少鹿)は諱(いみな=本名)か字(あざな=通称)か不明です。
養老年間(717~724)以前に安貴王に娶られます。安貴王は養老末年頃因幡の八上采女を娶った罪で本郷に退却せしめられ、紀女郎の「怨恨歌」(万葉集巻四)はこの事件ののち夫と離別する際の歌かと言われます。天平十二年(740)の恭仁京遷都前後、家持と歌を贈答しています。遷都後早い時期に新京に仮住居を建てていることが知られ、女官だったかと推測されます。家持との関係は程なく解消されたようです。万葉集巻四・八に計十二首の歌を載せています(すべて短歌)。技巧的で妖艶、万葉後期の典型的な作風を示す歌人の一人です。
藻(も)を詠める歌5
巻3-0250:玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ
◎「野島(のしま)」は淡路島の北端。場面が播磨(兵庫)へ移っているわけです。「一本(あるほん)に云はく」の異説は、人麿自身がこの歌を記録として記すときに別案で詠んだものでしょうか。
歌の内容としては、「美しい藻を刈る敏馬を離れて夏草の茂る野島の崎に舟は近づきました。」との、自身の旅の様子をそのまま表現しただけのものにも読めますが、前半の柔和な景色から後半の夏草の茂る野島へ近づいてゆく心の動揺がそこには感じられるように思います。おそらくは夏草が茂って荒れ果てた野島の地に上陸しようとする不安なこころの動揺を、歌を詠むことによって鎮めようとしたものなのでしょう。自身の姿を歌として詠うことで、人麿は自分という魂の形を現世に繋ぎとめようとしているのです。
巻3-0278:志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに
◎この歌は、石川少朗(いしかはのをといらつこ)が詠んだ一首。
「石川少朗」は左注によると「石川朝臣君子(いしかはのあそみきみこ)」のことで男性のようですね。詳細は不明です。
そんな石川君子が詠んだ一首ですが「志賀の海人のおとめは海藻を取ったり塩を焼いたりと暇がないので髪を梳く小櫛を手に取ってみることもないのだろう…」と、志賀の海人のことを詠った内容となっています。
読みようによっては田舎の海人をからかった歌とも取れて解釈が分かれている一首ですが、これはやはり髪の手入れをする暇もないほどに生業に勤しむ海人を讃えている歌と解釈したほうがよいのではないでしょうか。
同時に、旅路で見た海人のおとめに心を寄せて詠うことで、旅の不安に動揺する自身の心を鎮めようとした歌のようにも感じられます。
巻3-0293:潮干の御津の海女のくぐつ持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む
◎角麿(つののまろ)が詠んだ四首の歌のうちのひとつです。角麿については伝不詳です。「三津(みつ)」は「御津(みつ)」で難波の港。「くぐつ」は海藻を入れる籠のこと。
そんな「潮の引いた海岸で三津の海女がくぐつを持って藻を刈っているようだ。さあ行って見よう。」との、御津の海女を詠った一首です。
ただ、この歌も単なる観光の歌ではなく、おそらくは海女が玉藻を刈る御津をたたえることでその土地の神の加護を得ようとした土地讃めの歌なのでしょう。この時代、「見る」とは誉める行為であり、「いざ行きて見む」とはそれだけ価値のあるものだとの賞讃の言葉なわけですね。
巻3-0360:潮干なば玉藻刈りつめ家の妹が浜づと乞はば何を示さむ
◎山部宿禰赤人(やまのべのすくねあかひと)が詠んだ旅の歌六首のうちのひとつです。「つと」は土産のことで、「浜(はま)づと」は海の土産です。
つまりは「潮が引いたならあの美しい玉藻を刈りなさい。家で待つ妻が海辺の土産を乞うたなら何もあげるものがないではないか。」と、奈良の都で待つ妻の土産にするために海岸の玉藻を刈ろうと詠っています。
これまでの歌では大和を詠うことでそこに残してきた妻への思いを詠っていましたが、こちらの歌でははっきりと妻への思いが詠われています。
まあ、「玉藻を土産にする」と言っていますが実際に玉藻を刈って持って帰るわけではなくて、家に残してきた妻のことを思って詠うことで妻と自身の心との結びつきを深めようとした歌の言霊の一首なわけです。
このようにして妻との結びつきを確認することで、旅先で孤独に引き込まれそうになる自身の心を現世に結び付けておこうとしたわけです。
巻3-0362:みさご居る磯廻に生ふるなのりその名は告らしてよ親は知るとも
◎山部宿禰赤人(やまのべのすくねあかひと)が詠んだ旅の歌六首のうちのひとつ。「みさご」は雎鳩(みさご)で、浜辺に棲む猛禽類。
そんな「みさごのいる磯に生える名乗藻のように、名前を教えてよ。親に知られたとしても。」との、女性に対する恋歌ですね。
この時代、女性が異性に名前を教えることは求婚に応じる意味がありました。
「親」はこの場合は娘の親で、娘を見守り監督する立場にありましたが、この歌の結句はそんな「親に知られてもかまわない」との本気の求婚であることを示しています。
巻3-0363:みさご居る荒磯に生ふるなのりそのよし名は告らせ親は知るとも
巻3-0390:軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに
※紀皇女(きのおうじょ、生没年不明)
飛鳥(あすか)時代、天武天皇の皇女です。母は石川大蕤娘(おおぬのいらつめ)。恋の歌2首が「万葉集」にのります。その1首には、高安(たかやすの)王にひそかに通じて世間から非難されたときにつくったという伝承がありますが、年代があわず多紀(たきの)皇女の誤写とする説もあります。異母兄弓削(ゆげの)皇子の「紀皇女を思(しの)ぶ」相聞歌などがのこされています。
巻3-0433:葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
◎真間の手児奈
伝説によると、手児奈は現在の市川市真間の地に暮らしていました。その容姿がとても美しかったため、多くの男性が手児奈に恋心を抱き、それが原因で男性たちの争いがたえなかったほどでした。男性たちが醜い争いを続けるなか、手児奈は次のような感慨を抱きます。「自分の心は幾つにでも分けることができる。しかし、身体は一つしかない。もしも、自分が誰かのもとに嫁げば、ほかの人を不幸にしてしまう」。夕陽が海の下へと沈んでいくのを目にした手児奈は我が身に絶望し、海に身を投げてしまったのでした。手児奈の悲劇は遠く都にまで届き、都人はその話に涙したといいます。『万葉集』に手児奈の恋物語を題材にした歌が複数収録されていることは、その証であるといえるでしょう。
真間山弘法寺(ままさんぐぼうじ)の創建は奈良時代。寺伝によると、奈良時代の高僧・行基が手児奈の霊を弔うために創建したのがはじまりであるといわれています。鎌倉時代以降、地元の豪族・千葉氏の庇護を受けて発展。真間宿と呼ばれる門前町が形成されるほどの賑わいを見せました。
藻(も)を詠める歌4
巻2-0207: 天飛ぶや軽の道は我妹子が里にしあれば.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短哥
標訓:柿本朝臣人麿の妻死りし後に泣(い)血(さ)ち哀慟(かなし)みて作れる歌二首并せて短歌
原文:天飛也 軽路者 吾妹兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不己行者 人目乎多見 真根久往者 人應知見 狭根葛 後毛将相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣渕之 隠耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隠如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使乃言者 梓弓 聲尓聞而(一云、聲耳聞而) 将言為便 世武為便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者 為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴(或本、有謂之名耳聞而有不得者句)
万葉集 巻2-0207
作者:柿本人麻呂
よみ:天飛ぶや 軽の道は 吾妹児の 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど 止(や)まず行かば 人目を多(おほ)み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後も逢はむと 大船の 思ひ憑(たの)みて 玉かぎる 磐(いは)垣(かき)淵(ふち)の 隠(こ)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠(くもかく)るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉(もみちは)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまずさ)の 使(つかひ)の言へば 梓(あずさ)弓(ゆみ) 音に聞きて (一は云はく、 音のみ聞きて) 言はむ術(すべ) 為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きてあり得(え)ねば 吾が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 情(こころ)もありやと 吾妹子が 止(や)まず出で見し 軽の市に 吾が立ち聞けば 玉(たま)襷(たすき) 畝傍の山に 喧(な)く鳥の 声も聞こえず 玉桙の 道行く人も ひとりだに 似てし去(ゆ)かねば 術(すべ)を無み 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる (或る本に、「名のみを聞きてありえねば」といへる句あり)
意訳:空を飛ぶのか、雁の軽の路は私の愛しい貴女の住んでいた豊浦寺へ続くものと思うと、ねんごろに逢いに行きたいのですが、ひっきりなしに行くと人の目を引くし、たびたび行くと人が気づいてしまうだろう。さね葛の根が絡みあっているように後にも逢えると、大船のように思い後に逢うことを信頼していて、美しい玉となって輝く玉石の磐垣の淵に隠れるように貴女に恋しているのに、空を渡る日が暮れていくように、夜照る月が雲に隠れるように、沖の藻が浪に靡き寄せるように私に靡いた貴女は、黄葉のように過ぎて去って行った玉梓の使いが言うので、巫女が神寄せする梓弓の音のように聞いて、答えるべき言葉も為すべきことも思いもつかず、使いが言う言葉の音だけ聞いて、その内容が理解できずにいると、「貴方の恋するあの人へ千回の想いをを一回にするような悼む気持ちはありますか」と。私の愛しい貴女が儀式がある毎にたびたび出かけていって見ていた軽の市の辻に私が立ち、辻占として人の言葉を聞くと、美しい玉の襷をかけるような畝傍の山に普段は鳴き騒ぐ鳥の声も聞こえず、美しい玉の鉾を立てる道を行く人も、誰一人、鳥の行いに似て立ち去らない。貴女の行方を占う辻占も出来ずにどうしようもなく、貴女の名前を口に出して呼んで、魂を呼び戻す袖を振りました。
◎この歌は、柿本朝臣人麿の軽(かる)の地にいた妻が亡くなった際に、人麿(人麻呂)が哀しんで詠んだ挽歌です。
この長歌と、長歌に付けられた反歌が二首の非常に長い歌となっていますが、それだけに人麿がどれほどこの軽の妻の死を哀しんだことがうかがえます。
題詞には「泣血(いさ)ち」と、血の涙を流して哀しんだともありますが、けっして大げさな表現ではなかったように感じられます。
「軽(かる)」というのは現在の奈良県にある橿原神宮駅の東、剣池の南西に「法輪寺(軽寺跡)」や「応神天皇軽島豊明宮跡」などがあるので、その周辺に人々の集まる市がたっていたものと思われ、人麿の隠妻もこのあたりに住んでいたのでしょう。
歌の内容からも分かるようにこの妻はなんらかの理由で人に知られないように持つ「隠妻(こもりづま)」だったらしく、人に知られないようにと妻の家に頻繁に通わずにいた内に亡くなったしまったようですね。
そんな「亡くなった妻にもう一度逢いたいと軽の市に立ってはみたけれど、畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず妻によく似た人すら通らないので、妻の名を呼んで袖を振ったことです。」と、なんとも切ない思いが切実な言葉となって詠われています。
「袖を振る」とはこの時代の術式のようなもので、「おいでおいで」と袖を振って恋しい人の魂(生者死者にかかわらず)を自分のほうに引き寄せる行為のことです。なんだか、隠妻の名を呼びながら涙を流して袖を振る人麿の姿が、目に浮かんでくるような哀しい一首です。
巻2-0220: 玉藻よし讃岐の国は国からか見れども飽かぬ.......(長歌)
標題:讃岐狭峯嶋、視石中死人、柿本朝臣人麿作歌一首并短哥
標訓:讃岐の狭岑(さみねの)島(しま)に、石(いは)の中に死(みまか)れる人を視て、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌
原文:玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従 船浮而 吾榜来者 時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭峯之嶋乃 荒磯面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 往而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 鬱把久 待加戀良武 愛伎妻等者
万葉集 巻2-0220
作者:柿本人麻呂
よみ:玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ 神柄か ここだ貴き 天地 日月とともに 満(た)りゆかむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来る 中の水門(みなと)ゆ 船浮けて わが漕来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波さわく 鯨魚(いさな)取り 海を恐(かしこ)み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯(ありそ)面(も)に いほりてみれば 波の音の 繁き辺べを 敷栲の 枕になして 荒床に 自(ころ)伏(ふ)す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは
意訳:玉のような藻も美しい讃岐の国は、お国柄か何度見ても飽きることがなく、神代の飯依比古の時代からの神柄かなんと貴いことよ。天と地と日と月と共に満ち足りていく伊予の二名の飯依比古の神の御面と云い伝えて来た。その伝え来る中の那珂の湊から船を浮かべて我々が漕ぎ来ると、時ならぬ風が雲の中から吹き付けるので、沖を見るとうねり浪が立ち、岸辺を見ると白波が騒いでいる。大きな魚を取るような広い海を恐み、航行する船の梶を引き上げて仕舞い、あちらこちらに島はたくさんあるのだけれど、名の麗しい狭岑の島の荒磯に停泊してみると、波の音の騒がしい浜辺を夜寝る寝床として荒々しい床に伏している貴方の家を知っているのなら行って告げましょう。妻がここでの貴方の様子を知っていたらここに来て荒磯に伏す理由を聞くでしょう。玉の鉾を立てる立派な道筋すら知らず、おぼろげに貴方を待って恋しく思っているでしょう。貴方の愛しい妻たちは。
◎この歌は柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)が讃岐の国の狭岑島(現在の香川県坂出市)を訪れたときに、岸の岩場に倒れていた行路死者を見て悼んで詠んだ挽歌です。
歌の前半は讃岐の国を誉める土地讃めの内容となっており、そんな讃岐の国の海を渡る途中に狭岑島に立ち寄った様子が詠われています。
その狭岑島の海岸で行き倒れの旅人の遺体を見つけたわけですが、この時代の旅は現在と違いつねに命の危険が付きまとうものでしたのでこのような旅の途中で亡くなった行路死者が多く居たようです。
まあ、必ずしも旅人とは限らず、生活に困窮した挙句に行き場をなくして倒れた者もいたのかと思いますが。
そんな無念の思いを抱いて亡くなった者たちの魂はその場にさ迷って、道ゆく者たちに災いをもたらすと恐れられていたようです。
それゆえに行路死者に出会ったものは、かならずこの歌の人麿のようにその魂を慰める挽歌を詠んで霊に語り掛け、その無念の魂を慰めて鎮めてから通りました。
この一首も、「君の家を知っていたなら行って家族に知らせてあげるのだが…」、「君の妻が知ったならきっと駆けつけて来て言葉も掛けてくれるのだろうが…」と、まさに死者の魂との会話のような歌となっています。
そこには自分自身もいつおなじように道の途上で行き倒れるかも知れないとの、おなじ旅人である心境が表れていたのかも知れません。
ウェブニュースより
藤井聡太2冠はライバル永瀬拓矢王座下す 豊島将之叡王への挑戦権に1歩 ―― 藤井聡太2冠(王位・棋聖=18)が豊島将之叡王(竜王=31)への挑戦権獲得にまた1歩近づいた。
5月31日、都内で行われた将棋の第6期叡王戦本戦トーナメント準々決勝で永瀬拓矢王座(28)を下した。午前10時から始まった対局は、先手の永瀬が攻勢を仕掛けて優位を築いたかにみえたが、チャンスを逃した後はうまく対応した藤井が午後5時23分、138手で逆転勝ちした。1回戦で行方尚史九段(47)を下した勢いに乗り、前期叡王で本戦シードの永瀬も撃破。初のベスト4入りを果たした。準決勝では、昨年の竜王戦決勝トーナメント初戦で敗れた丸山忠久九段(50)と対戦する。
https://www.youtube.com/watch?v=zD0FIYR0jgo
藤井から見た、永瀬との対戦成績は3勝1敗。特に初顔合わせとなった昨年6月4日の棋聖戦挑戦者決定戦で藤井が勝つと、同月23日の王位戦挑戦者決定戦でも勝利し、そのまま2冠獲得へと駆け上がった。今回もライバルを下した。
今年は6月6日から始まる棋聖戦5番勝負では渡辺明名人(棋王・王将=37)、同29日から始まる王位戦7番勝負では豊島の挑戦をそれぞれ受ける。防衛戦を掛け持ちしながら、当分は竜王戦決勝トーナメントと、このタイトル戦の挑戦者を決めるトーナメントにも参戦する。「熱い」季節が始まる。 [日刊スポーツ 2021年5月31日17時46分]
藻(も)を詠める歌3
巻2-0162: 明日香の清御原の宮に天の下知らしめしし.......(長歌)
標題:明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛真人天皇、謚曰天武天皇/天皇崩之後八年九月九日、奉為御齊會之夜夢裏習賜御謌一首
標訓:明日香清御原宮に御宇天皇の代(みよ)、天渟中原瀛真人天皇、謚(おくりな)して曰はく天武天皇/天皇の崩(かむあが)りましし後八年の九月九日、奉為(おほんため)の御齊會(ごさいゑ)の夜に夢のうちに習(なら)ひ賜へる御謌(おほみうた)一首
原文:明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之皇子
万葉集 巻2-0162
作者:持統天皇(沙羅羅大后)
よみ:明日香の 浄御原(きよみはら)の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡ける波に 潮(しお)気(け)のみ 香(かほ)れる国に 御(み)籠(こも)りし あやにともしき 高照らす 日の御子
意訳:明日香の浄御原の宮で天下を御統治された、天下をあまねく統治なされる私の大王の天の神の世界まで照らしあげる日の皇子は、どのようにお思いになられたのか、神の風が吹く伊勢の国の沖から藻を靡き寄せる波の潮気だけが香る清い国に御籠りになられて、私は無性に心細い。天の神の世界まで照らす日の御子よ。
◎この歌は天武天皇の崩御された後の持統七年、九月九日に行われた御斎会(ごさいゑ)の夜に天武天皇の霊と夢で逢った持統天皇(沙羅羅大后)が詠まれた一首。実際には持統天皇の代わりに夢の中で霊と対話する占い師が存在してその者が詠んだ歌と思われますが、形式上、持統天皇の作となっています。
内容としては明日香の浄御原で即位して天下をお治めになった天皇…と天武天皇を讃え、その天武天皇の魂が伊勢の国に行ってしまわれたと、天皇の亡くなられたことを哀しんでいます。
歌の中では「香れる国に」のあとに、天皇が「おいでになってしまわれた」と続く部分が省略されているわけですね。
そして「あやに(不思議なほどに)慕わしい天高き日の御子よ」と、天武天皇への愛情の深さを詠って天武天皇の魂を慰めている訳です。
一応、代作でありますが、この時代の歌はあくまで言霊としての呪術的意味合いのあるなものなので誰の作であるかはあまり問題ではなく、実際に口に唱えて霊に詠い掛けることが出来ればそれでよかったわけです。持統天皇(沙羅羅大后)もきっと、この歌を何度も何度も口ずさんで、遠き伊勢の国にいる天武天皇の魂にその慕わしい思いを語り掛けたことでしょう。
巻2-0194: 飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に生ふる玉藻は.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌
標訓:柿本朝臣人麿の泊瀬部皇女・忍坂部皇子に献(たてまつ)れる歌一首并せて短歌
原文:飛鳥 明日香乃河之 上瀬尓 生玉藻者 下瀬尓 流觸経 玉藻成 彼依此依 靡相之 嬬乃命乃 多田名附 柔庸尚乎 釼刀 於身副不寐者 烏玉乃 夜床母荒良無(一云、何礼奈牟) 所虚故 名具鮫魚天 氣留敷藻 相屋常念而(一云、公毛相哉登) 玉垂乃 越乃大野之 旦露尓 玉裳者泥打 夕霧尓 衣者沽而 草枕 旅宿鴨為留 不相君故
万葉集 巻2-0194
作者:柿本人麻呂
よみ:飛ぶ鳥の、明日香(あすか)の川の、上(かみ)つ瀬に、生(お)ふる玉藻(たまも)は、下(しも)つ瀬に、流れ触らばふ、玉藻(たまも)なす、か寄りかく寄り、靡(なび)かひし、嬬(つま)の命(みこと)の、たたなづく、柔肌(にきはだ)すらを、剣太刀(つるぎたち)、身に添へ寝ねば、ぬばたまの、夜床(よとこ)も荒(あ)るらむ、[一云、荒(あ)れなむ]、そこ故(ゆゑ)に、慰(なぐさ)めかねて、けだしくも、逢ふやと思ひて、[一云、君も逢ふやと]、玉垂((たまだれ)の、越智(をち)の大野の、朝露(あさつゆ)に、玉裳(たまも)はひづち、夕霧(ゆふぎり)に、衣(ころも)は濡(ぬ)れて、草枕(くさまくら)、旅寝(たびね)かもする、逢はぬ君故(きみゆゑ)
意訳:明日香(あすか)の川の上流の瀬に生える玉藻は、下流の瀬に流れて触れ合います。その玉藻のように寄り添い寝た夫の君の柔肌さえも、(剣や刀のように)身に添えては寝ないので、夜の床も荒れていることでしょう(一つには、荒れてゆくでしょう)。
そのために、慰めることもできなくて、もしかしたら逢えるのではと思って(一つには、君に逢えるかと)、越智(をち)の大野の朝露(あさつゆ)に玉裳は濡れ、夕霧に衣は濡れて、旅寝をするのでしょうか。逢うことのできない君ですから。
左注:右或本曰、葬河嶋皇子越智野之時、献泊瀬部皇女歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子河嶋薨。
注訓:右は或る本に曰はく「河嶋皇子を越智野に葬(はふ)りし時に、泊瀬部皇女に献(たてまつ)れる歌なり」といへり。日本紀に曰はく「朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朔の丁丑、浄大参皇子河嶋薨(かむあが)りましぬ」といへり。
巻2-0196: 飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に石橋渡し.......(長歌)
標題:明日香皇女木瓲殯宮之時、柿本人麻呂作歌一首并短歌
標訓:明日香皇女の木瓲(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本人麿の作れる歌一首并せて短歌
原文:飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡(一云、石浪) 下瀬 打橋渡 石橋(一云、石浪) 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎為礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾生乃 立者 玉藻之如許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宣君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曽臣跡 念之時 春部者 花折挿頭 秋立者 黄葉挿頭 敷妙之 袖携 鏡成 唯見不献 三五月之 益目頬染 所念之 君与時ゞ 幸而 遊賜之 御食向 木瓲之宮乎 常宮跡定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨(一云、所己乎之毛) 綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬(一云、為乍) 朝鳥(一云、朝霧) 往来為君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼往此去 大船 猶預不定見者 遺問流 情毛不在 其故 為便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思将往 御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此為
万葉集 巻2-0196
作者:柿本人麻呂
よみ:飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生(お)ひををれる 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも 吾が生(お)ふの 立てば 玉藻のごところ 臥せば 川藻の如く 靡かひし 宜(よろ)しき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を 背(そむ)き給ふや うつそみと 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉(もみぢ)かざし 敷栲(しきたへ)の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いや愛(め)づらしみ 思ほしし 君と時々 幸(いでま)して 遊び給ひし 御食(みけ)向ふ 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 定め給ひて あぢさはふ 目(め)辞(こと)も絶えぬ 然(しか)あるかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋嬬 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思い萎えて 夕(ゆふ)星(つつ)の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 遣(や)り問(と)ふる 情(こころ)もあらず そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも 絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ み名に懸かせる 明日香河 万代(よろづよ)までに 愛しきやし わご王(おほきみ)の 形見かこれは
意訳:飛ぶ鳥の明日香川の川上には石橋を渡し、川下には杭を打って木橋をかける。石橋のたもとに生えて靡く玉藻は、なくなればまた生え育つ。木橋のたもとに生えている川藻も、枯れてはまた芽生えて来る。それなのに、私を養われる、立つと玉藻のようで、身を横たえると川藻のような、その皇女が靡いてお慕いした相応しい夫君が、貴女と過ごした朝宮をどうしてお忘れになるのでしょう。また、貴女と過ごす夕宮をお嫌いになるでしょうか。この世の現実のことと思われた時には、春は花を折り髪にかざし、秋になると黄葉を髪にかざして、夜の敷いた床の栲の上でお互いの袖を交わして、鏡のように見ても飽きない満月のように、ますます慕わしくお思いになっていた夫君とともに、時々に、お出ましになり遊ばれた。その皇女に御食を捧げる城上の宮を永遠の宮とお決めになり、二匹の味鴨が寄り添うように貴女が夫君に寄り添い、お目にかかることも何か申される辞もなくなってしまった。そのためでしょう、いいようもなく悲しく、ぬえ鳥が片恋する妻、その朝鳥が心を妻に通わすように亡き妻に心を通わす夫君が、夏草のように悲しみしおれ、夜空の星が移り行き、大船が揺れるように心が揺れ動いているのを見ると、行ってお気持ちを尋ねる思いもありません。そのために、夫君に対してどのようにすれば良いのでしょうか。皇女のお噂だけでも、御名だけでもいつまでも天地のともに永久にお慕いしていきましょう。お名前にかかわる明日香川は、万年の後までも夫君の愛しい皇女の形見でしょうか。ここは。
◎明日香皇女(あすかのひめみこ、生年不明)
天智天皇皇女です。飛鳥皇女とも表します。母は橘娘(父:阿倍内麻呂)です。同母の妹は新田部皇女です。忍壁皇子の妻とする説があります。
持統天皇6年(692年)8月17日に持統天皇が明日香皇女の田荘に行幸しています。持統天皇8年(694年)8月17日に明日香皇女の病気平癒のために沙門104人を出家させました。
文武天皇4年(700年)、浄広肆の位で4月4日に死去。もがりの折に柿本人麻呂が、夫との夫婦仲の良さを詠んだ挽歌を捧げいます。
明日香皇女は、持統天皇の訪問を受けたり、彼女の病気平癒のために108人の沙門を出家させたりなど、他の天智天皇皇女に比べて異例の重い扱いを受けています。
藻(も)を詠める歌2
巻2-0121: 夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅香の浦に玉藻刈りてな
※弓削皇子(ゆげのみこ、?~699年)
7世紀後半の皇族です。天武天皇と天智天皇の娘大江皇女の子。第6皇子。同母弟に長皇子がすまか。『懐風藻』所収の葛野王伝によれば、天武天皇の第1皇子高市皇子の死(696)後、弓削皇子は皇太子を選ぶ群臣会議で兄弟による皇位継承を主張しますが、兄弟による継承は乱の原因になると主張し、草壁皇子(母がのちの持統天皇)の子軽皇子による継承を支持する葛野王らに敗れます。軽皇子はのちの文武天皇です。「万葉集」に短歌8首があります。文武天皇3年7月21日死去。
巻2-0131: 石見の海角の浦廻を浦なしと人こそ見らめ.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首并短歌
標訓:柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の石見(いはみの)国より妻に別れて上(のぼ)り来(こ)し時の歌二首并せて短歌
原文:石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等 [一云 礒無登] 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縦畫屋師 滷者 [一云 礒者] 無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎 [一云 波之伎余思 妹之手本乎] 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段 顧為騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而 志<怒>布良武 妹之門将見 靡此山
万葉集 巻2-131
作者:柿本人麻呂
よみ:石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと [一云 礒なしと] 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は [一云 礒は] なくとも 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝し妹を [一云 はしきよし 妹が手本を] 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎へて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山
意訳:石見の海の津野の浦を、船を泊めるよい浦がないと人は見るだろう。藻を刈るのによい潟がないと〔一は云はく、釣りをするよい磯がないと〕人は見るだろう。たとえよい浦はなくても、たとえよい潟は〔一は云はく、磯は〕なくても鯨でさえ捕れるほどの海から海岸に向けて、和多津の荒磯の上に青々とした美しい藻、海底の藻を、朝は溢れるように風が寄せ、夕方には溢れるように波が寄せて来る。その波のように私に寄りかかり寄る、美しい藻のように側によって寝る妻を〔一は云はく、妻の袂を〕露霜の置くように家に置いてきたので、この旅路の道のたくさんの曲がり角ごとに、何度も何度も振り返ってみるけれど、ますます妻のいる里は遠くなってしまった。ますます高く山も越えてきてしまった。夏草の萎えるようにように恋しさに萎えて私を思っているだろう妻のいる家の門を見たいものだ。靡け山々よ。
◎この歌は石見の国(現在の島根県の西半分)に赴任していた柿本人麿が大和へ戻る際に石見の国に残してきた現地妻を思って詠んだ一首。
非常に長い長歌となっていますが、意味は無駄がなく「調べ(リズム)」も人麿らしい重厚な美しさを持った名歌のひとつなのでこの歌もぜひ記憶しておいてもらえればと思います。
内容としては歌の前半を石見の国の土地讃めに使い、そこから石見の家に残してきた妻に想いを馳せる土地讃め歌と、妻を想うことで旅路での心の不安を鎮める旅の鎮魂歌的な両方の要素も持った恋歌となっています。
結句の「靡けこの山」は、妻のいる家が見えるように目の前の山々に伏してくれと祈っているわけですが、山に向かって「靡け」とはなんとも壮大で呪術的な言の葉ですよね。
あまりにも長い長歌であるために一見しただけで避けてしまわれる方もいらっしゃるかも知れませんが、口語訳を参考に内容を理解して読んでくださればそれほど難しい歌ではないですし、なによりも「調べ(リズム)」の美しい一首ですので、この歌もぜひ実際に口に出して(出来れば石見の国の海や山を眺めながら)詠ってもらえればと思います。
そうすることで、千数百年の時を越えて蘇った人麿の言の葉の力によって実際に目の前の山々が動き出しそうなそんな不思議な感覚も味わっていただけるかと思います。
巻2-0135: つのさはふ石見の海の言さへく唐の崎なる.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首[并短歌]
標訓:柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の石見(いはみの)国より妻に別れて上(のぼ)り来(こ)し時の歌二首[并せて短歌]
原文:角<障>經 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽 深海松生流 荒礒尓曽 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之来者 肝向 心乎痛 念乍 顧為騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隠有 屋上乃 [一云 室上山] 山乃 自雲間 渡相月乃 雖惜 隠比来者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而<沾>奴
万葉集 巻2-0135
作者:柿本人麻呂
よみ:つのさはふ 石見の海の 言さへく 唐の崎なる 海石にぞ 深海松生ふる 荒礒にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば 肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡の山の 黄葉の 散りの乱ひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上の [一云 室上山] 山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝ふ 入日さしぬれ 大夫と 思へる我れも 敷栲の 衣の袖は 通りて濡れぬ
意訳:石見の海の辛の崎にある海石(海中の岩)には、海松(海草)が生い茂り、荒磯にも美しい藻が生い茂っている。 その玉藻のように、添い寝した妻を、その深海松の名のように、深く思いながら、共に寝た夜は、いくらもなかった。 今、這う蔦の先の別れるように、別れてきたので、心を痛め、悲しい思いにふけりながら、振り返り見るけれども、 渡の山の紅葉の葉が散り乱れていて、妻の振る袖もはっきりとは見えず そして、屋上の山の雲間を渡る月が姿を隠していくように 妻の姿も見えなくなってしまった。 その時、入日が淋しく射してきた。ひとかどの男子だと思っていたわたしも、衣の袖が涙でしみ通るほど濡れてしまった。
◎この歌は巻2-0131の長歌とともに、石見の国に派遣されていた柿本人麿が大和へ帰るときに詠んだもう一首の長歌です。
「海松(みる)」は海の底深くに生えている海藻。
「言さへく韓」は「言葉の通じない韓の国」の意味で、ここでは「韓の崎(現在の島根県那賀郡国府町、唐鐘の崎か?)」を引き出す修飾語となっています。
内容としては巻2-0131の長歌とおなじく相聞歌の分類に含まれていますが土地誉めや旅の鎮魂歌の要素も多く持っている一首といえるでしょう。
巻2-0131の歌が石見の家に残してきた妻を中心に詠っていたのに対して、こちらではおなじく石見の家に残してきた子のことにも触れて、別れの哀しさを際立たせる内容となっています。
また、海の底深くの「海松」や散り乱れる山の黄葉も詠い込み、巻2-0131の長歌の内容をさらに深めた内容となっていますね。
このように呪術的な鎮魂歌としての要素を盛った歌でありながらも読み手を飽きさせない工夫がなされているのは、道々の精霊や土地の神々を飽きさせない言葉にこそ大きな言霊としての霊力が宿ると人麿たちの時代の人々が信じていたからなのでしょう。
巻2-0138: 石見の海津の浦をなみ浦なしと人こそ見らめ.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首并短歌/或本歌一首并短歌
標訓:柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)の石見(いはみの)国より妻に別れて上(のぼ)り来(こ)し時の歌二首并せて短歌/或る本の歌一首并せて短歌
原文:石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山
万葉集 巻2-0138
作者:柿本人麻呂
よみ:石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば 風こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き我が寝し 敷栲の 妹が手本を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ はしきやし 我が妻の子が 夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山
意訳:石見の海の津の浦を、船を泊めるよい浦がないと人は見るだろう。藻を刈るのによい潟がないと人は見るだろう。たとえよい浦はなくても、たとえよい潟はなくても鯨でさえ捕れるほどの海から海岸に向けて、柔田津の荒磯の上に青々とした美しい藻、海底の藻を、朝が来れば波が寄せ、夕方には風が寄せて来る。その波のように私に寄りかかり寄る、美しい藻のように側によって私が寝た敷栲の妻の袂を、露霜の置くように家に置いてきたので、この旅路の道のたくさんの曲がり角ごとに、何度も何度も振り返ってみるけれど、ますます妻のいる里は遠くなってしまった。ますます高く山も越えてきてしまった。愛しくて仕方ないわが妻である子が夏草の萎えるようにように恋しさに萎えて嘆いているだろう。妻のいる角の里を見たいものだ。靡け山々よ。
◎この歌も石見の国(現在の島根県の西半分)に赴任していた柿本人麿が大和へ戻る際に石見の国に残してきた現地妻を思って詠んだ一首で、巻2-0131の歌の異伝です。
内容自体は巻2-0131の歌とまったく同じですが、語句などが少し変わっていますね。
万葉集の歌の中にはこの歌のように同じ歌が異伝として少し形を変えて伝わっているものが多く含まれていますが、この時代の人々には著作権という概念などは当然無く、歌が呪術的な言霊の記録として伝誦される過程で享受者などによってこのような語句の変化を見せたのでしょう。
物などへの記載の際か、あるいはそれ以前の口伝の過程で変化したのか…
場合によっては人麿自身が歌を記録として残す際に時期によって語句を推敲した可能性なども考えられるかと思いますが、このように同じ歌の異伝がどのような意図を持って語句の変化として表れたのかを想像し、比べてみるのも万葉集の楽しみのひとつといえるのではないでしょうか。
藻(も)を詠める歌1
藻は海や淡水の水性植物、たとえば昆布や若布(わかめ)などの総称です。古くは藻葉などと言われたそうです。海藻類は、塩焼き、食用として使われていました。海藻類にはミネラル(鉄やカルシウムなど)・ビタミンAが豊富に含まれているので当時の健康食品としては最適だったのでしょうね。
万葉集には80首以上に登場します。厳藻(いつも)、藻塩(もしお)、奥つ藻、玉藻(たまも: 藻の美称)などとして登場します。
海藻類の当時の呼び名は次のようなものがありました。
(中公新書 食の万葉集 廣野卓著 1998年12月20日発行より)
現在名 万葉時代の名
あまのり 無良佐木乃利(むらさきのり)
あらめ 阿良米(あらめ)
てんぐさ 古留毛波(こるもは)
ふのり 布乃利(ふのり)
ほんだわら 莫告藻(なのりそ)
みる 海松(みる)
わかめ 和可米(わかめ)
巻1‐0023: 打ち麻を麻続の王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります
※麻続王(おみのおおきみ、生没年未詳)
伝未詳。麻続は正しくは麻績でしょうが、万葉集の古写本には「麻續王」とあります(續は続の正字)。日本書紀によれば、三位の位にあった天武四年(675)四月、罪により因幡に流されます。同時に一子は伊豆島(伊豆大島か)、別の一子は血鹿(ちか)の島(長崎県の五島列島)に流されたといいます。如何なる罪を犯したかなど、詳しいことは不明です。この時ある人が詠んだ歌が万葉集に載りますが、詞書に「伊勢国伊良虞島」に流されたとあります。この歌に和した麻続王の歌は、後年の仮託の作と見られています。なお『常陸国風土記』の行方郡板来村(今の茨城県の潮来)の条には、同地を麻続王の配所とする記事を伝えています。
巻1‐0024: うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む
巻1‐0041: 釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ
巻1‐0043: 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
※作者は当麻麻呂妻(たいまのまろのつま)です。
夫である当麻麻呂についても、持統天皇が伊勢に御幸された際に従駕したこと以外よくわかっていません。
◎41、43番には、次の「左注」が付いています。
左注:右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄<廣>肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位E上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮
注訓:右、日本紀ニ曰ク、朱鳥六年壬辰春三月丙寅ノ朔戊辰、浄広肆廣瀬王等ヲ以テ、留守官ト為ス。是ニ中納言三輪朝臣高市麻呂、其ノ冠位カガフリヲ脱キテ、朝ニササゲテ、重ネテ諌メテ曰ク、農作ナリハヒノ前、車駕以テ動スベカラズ。辛未、天皇諌ニ従ハズシテ、遂ニ伊勢ニ幸シタマフ。五月乙丑朔庚午、阿胡行宮ニ御ス。
巻1‐0050: やすみしし我が大君高照らす日の皇子.......(長歌)
標題:藤原宮之役民作歌
標訓:藤原の宮営(つくり)に役(たて)る民のよめる歌
原文:八隅知之 吾大王 高照 日<乃>皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
万葉集 巻1-0050
作者:役民(えきみん)
よみ:やすみしし、我(わ)が大君(おほきみ)、高(たか)照(て)らす、日の皇子(みこ)、荒栲(あらたへ)の、藤原(ふぢはら)が上(うへ)に、食(を)す国を、見したまはむと、みあらかは、高(たか)知(し)らさむと、神(かむ)ながら、思(おも)ほすなへに、天地(あめつち)も、寄(よ)りてあれこそ、石走(いはばし)る、近江(あふみ)の国の、衣手(ころもで)の、田上山(たなかみやま)の、真木(まき)さく、桧(ひ)のつまでを、もののふの、八十宇治川(やそうぢがは)に、玉藻(たまも)なす、浮(う)かべ流(なが)せれ、其(そ)を取ると、騒(さわ)く御民(みたみ)も、家(いへ)忘(わす)れ、身もたな知らず、鴨(かも)じもの、水に浮(う)き居(ゐ)て、我(わ)が作る、日の御門(みかど)に、知らぬ国、寄(よ)し巨勢道(こせぢ)より、我が国は、常世(とこよ)にならむ、図(あや)負(お)へる、くすしき亀(かめ)も、新代(あらたよ)と、泉(いづみ)の川に、持ち越せる、真木(まき)のつまでを、百(もも)足(た)らず、筏(いかだ)に作り、泝(のぼ)すらむ、いそはく見れば、神(かむ)ながらにあらし
意訳:我が大君、日の皇子(みこ)様が、藤原の地で国内をごらんになるとして、宮を高くおつくりになろうと、神であるままにお考えになると、天地も従っているので、近江(おうみ)の国の田上山(たなかみやま)の檜(ひのき)を宇治川(うじがわ)に美しい藻のように浮かべて流しています。それを取ろうと働く人々も、家のことも忘れて、自分のことも考えないで、鴨(かも)でもないのに水に浮かんでいます。私たちが造る宮に、知らない国も従わせ、巨勢道(こせぢ)からわが国が理想的な国になるという、めでたい模様のある霊験(れいけん)あらたかな亀(かめ)も新しい時代だと示しています。泉川(いずみがわ:現在の木津川)に運んだ檜(ひのき)の丸太をいかだに組んで、川を上っているのでしょう。人々が一生懸命に働いているのを見ると、神でいらっしゃる大君の思いのままのようです。
左注:右日本紀曰 朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地 八年甲午春正月幸藤原宮 冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮
注訓:右、日本紀ニ曰ク、朱鳥七年癸巳秋八月、藤原ノ宮地ニ幸ス。八年甲午春正月、藤原宮ニ幸ス。冬十二月庚戌ノ朔乙卯、藤原宮ニ遷リ居ス。◎滋賀県の田上山(たなかみやま)で伐採(ばっさい)した木材を筏(いかだ)に組んで、琵琶湖から宇治川へ、そして木津川へ運んだのですね。そして木津からは陸路など(運河も造られたとの事です)で藤原の地へ運ばれたようです。
◎亀(かめ)の甲羅(こうら)の六角形の模様は吉兆(きっちょう:良いことの知らせ)を示すと考えられてきました。
巻1‐0072: 玉藻刈る沖へは漕がじ敷栲の枕のあたり忘れかねつも
※藤原宇合(ふじわらのうまかい、694~737年)
奈良初期の政治家です。不比等(ふひと)の三男。母は右大臣蘇我武羅自古(そがのむらじこ)の女(むすめ)娼子(しょうし)。式家(しきけ)の祖です。馬養とも書きます。716年(霊亀2)遣唐副使となり従(じゅ)五位下に叙されます。717年(養老1)多治比県守(たじひのあがたもり)らと渡唐、翌年10月帰国しました。その後常陸守(ひたちのかみ)を経て式部卿(しきぶきょう)に任ぜられます(式家の名のおこり)。724年(神亀1)蝦夷(えみし)の反乱に際し、持節大将軍としてこれを討ち、翌年勲二等を与えられました。また726年から知造(ちぞう)難波宮事(なにわぐうじ)として難波宮の造営にあたり、731年(天平3)参議、畿内(きない)副惣管(そうかん)、さらに翌年には西海道(さいかいどう)節度使に任命され大宰帥(だざいのそち)を兼ねました。734年正三位(さんみ)となったが、737年8月全国的に流行した天然痘のために没しました。文武両道に通じ、家集二巻を残しています。
sechin@nethome.ne.jp です。
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