63年前の宮場広場
今日は8月15日、63回目の敗戦記念日。
商業ベースに乗せられたとしか言いようのないオリンピック。同じ場面を何回も何回もしつこく放映するテレビ。大げさなコメンテータの決まり文句。高校野球だって、プロ野球選手養成の機関と化していると見られるふしもある。まあ、平和とはこんなものなのじゃろう。
8月15日にあわせた各局の特集番組というのが毎年毎年放映される。もっともらしく戦争の悲惨さをかもし出して、その鎮魂歌として平和番組とやらを垂れ流ししているようじゃ。悲惨な戦争の傷を癒すどころか、じつは、戦争被害者の傷に塩を擦り込むような、そこには独善的傲慢さが内在しているとはいえないのじゃろうか。平和番組の美名の下に行われている欺瞞、平和を主張する権利は吾にありといわんばかりの思い上がったテレビ局の姿が垣間見られるのではないじゃろうか。
爺もかつては、そうであったが、平和主義者は戦争の原因について深く理解していないで平和を論じている場合が多く見られるようじゃ。戦争はその形態や主体によって様相が異なる複雑な政治現象であり、その原因は近代的な国家間の国益に関わる問題だけでなく、国内的な紛争である内戦においてすらも宗教や民族、歴史などが重層的に組み合わされている。これらの政治的、経済的、社会的、民族的、歴史的な問題についての無知が平和主義の楽観主義的な啓蒙思想の源泉のひとつとなっているのではなかろうか。これが平和ボケを生むひとつの要因となっているんじゃろうなぁ。はたして、戦争をしていないから、平和といえるのだろうか?
雇用はあっても働かない若者が多い。毎日ゲームに明け暮れている。不安を抱えて自殺するものが増えている。いやいや無差別殺人なんていうのも流行しているらしい。これでも平和といえるのだろうか。
世の爺・婆どもは怒って文句ばかり言っている。そのくせ、誰よりも平和を享受している様だ。まあ、文句が言えるだけ幸せというべきじゃろう。
いやはや、この爺の頭も平和ボケで怒る気力も消え失せた。この63年間一体何を求めてきたというのじゃろう。まあ、日本はそれほど平和であったというべきじゃのう。
白鬚橋を過ぎた所で
西詰渡り口
墨田区側上流テラスで
水神大橋は、西岸・汐入公園(荒川区南千住8丁目)と東岸・東白鬚公園(墨田区堤通2丁目)を結ぶ橋である。橋の名前は東岸・東白鬚公園内にある隅田川神社(水神宮)に因んだもの。
平成元(1989)年3月竣工。橋の組み立てを陸上で行い、橋桁を台船に載せて干満の差を利用して橋脚に載せるという方法を利用したということじゃ。
汐入公園も東白鬚公園も東京都の防災拠点として位置づけられており、双方を繋ぐ連絡橋として、この上流にある千住汐入大橋とともに計画され、当初は歩行者専用橋で、接続した道路の整備の完了した平成8(1996)年より自動車道路供用が始ったそうじゃ。全長157m、全幅17mということ。
鳥越神社
下町まちしるべ
鳥越神社説明板
昨日は、散髪が終ってから徘徊ということで、松屋のすぐ北側にある理髪店に開店(午前8時45分)と同時に行ったが、3台での散髪に、先客が8人もいた。いやはや、先に徘徊をと、鳥越神社を回って、蔵前橋を渡り、テラスを通って、吾妻橋にでる。再び理髪店に着いたが、先客が4人いた。1時間ほど待って、散髪を終えて帰宅したのは、正午近くであった。
桜橋を過ぎたあたりから
テラスへの降り口から
西詰め(台東区)から
西詰め(荒川区)から
墨田区テラスから
テラス昇り口階段から
東詰め(川上)より
東詰め(川下)より
テラスより
「名にしおば いざ言問はん都鳥 わが思ふ人は ありやなしや」
言問橋は、爺の家のすぐ近くに架かっているが、在原業平が東下りの折りに隅田川越えをして詠んだとされる場所は、この白鬚橋の辺りだったということである。
橋名の「しらひげはし」は、髭(口ひげ)でも髯(頬ひげ)でもなく、あごひげを表す鬚を用いて「白鬚橋」と書くのが正しいという。この場所はもともとは「橋場の渡し」があったところで、橋場の地名は台東区側に残る。大正2年に木橋が作られたのが最初で、墨田区側にある白鬚神社に因んだ命名である。
現在の橋は昭和6年の竣工で、全長168m、全幅23mという。今朝の撮影はこの白鬚橋を中心にした。
江戸時代はお江戸の市域と郊外の境界を「朱引」といった。振袖火事(明暦3年、1657年)をきっかけに江戸の市域は拡大した。今まで代官支配地の橋場村であったのが、思川(現、明治通)に朱引して、南側を市域にいれて、町奉行の管轄となった。橋場は江戸時代から根岸と並んで風流で雅趣に富んだ土地柄で、大名や大店の寮(別荘)が隅田川河岸に並んでいた。江戸名所図絵にも「都鳥ノ名所ナリ」と描かれ、付近の浅茅が原には水鶏(くいな)が多く棲んでいた。また今戸から橋場にかけては有名な料理屋が多く。橋場の柳屋、今戸橋の有明楼、吉野橋の八百善などは高級料理屋として、華族や文人などが出入りしていたという。
桜橋をくぐるポンポン船
高速6号線下でご来光
爺は夕飯のときは決まって時代劇を見る。今は、午後6時からの中村梅之助の「伝七捕物帖」をみている。
灯篭流しの現場
灯篭を手に順番を待つ人々
伝七捕物帖が終って、隅田公園の灯篭流しを観に行こうということになった。どうやら、雷門から水上バス乗場までのお練は終っているだろうからと、言問橋の袂の階段からテラスに降りて、水上バス乗場の方へ歩いた。川にはすでに屋形船が浮かび、灯篭流しが始っているようである。水上バス乗場の近くまで行ったが、人でごったがえしている。灯篭流しの順番を待つ人の列が長く続いている。テントの中では式典が行われているのか、読経の声が聞こえてくる。
灯篭流しは浅草観光連盟の肝いりで3・4年前から設けられたらしいが、これも夏の風物詩に加えられるのであろう。7時半には家に帰り着いた。
8時に我家を出発。都営地下鉄浅草線で、一路泉岳寺へ。何でこの時期に泉岳寺にと言われるかもしれないが、別に理由はない。この時期が一番すいているのではないかと思ったから。
大石良雄銅像
泉岳寺は浅野家の菩提寺だと思っていたが、寛永の大火で芝からこの地に移転した際に、幾つかの大名家が3代将軍家光さんの命でこの造営に携わり、浅野家もそのなかに選ばれてからの関わりだということじゃ。
境内も猫の額ほどなので、観て回るのにそれほど時間は掛からない。
高輪大木戸跡
帰宅したのは正午過ぎであった。Mr.Checkは16900歩を指していた。
吾妻橋東詰めの橋下
30年も昔のことになろうか、当時塾生だった方々はみなんご存知のはずだが、塾の近辺に有名なる自由人がござらっしゃった。他人からのただの施しを拒否し、家の周りを掃除して歩いていた。塾生達はこれを「ターザン」と呼んで親しんだ。北九州で高校の教師をしているS・A氏がこの爺の家を訪ねてくれて、浅草の町を案内していたとき、偶々この「ターザン」と出遭った。S・A先生、爺の話をヒントに詩を書いてくれた。
ほんに、今日は長崎に原爆が落とされた日。ほんに「浅草のターザン」のような人ばかりなら戦争なんて考えられないのだが???
建設中のマンション
対岸テラスの青シート御殿は減るどころか増えているようにも思える。
ほんに日本はおかしな国じゃわいのう。
5日、桜橋より上流を望む
一昨日、5日はガスってるなかを桜橋まで行くと、ポツリと降って来るようす。急いできたくすると、豈はからんや振らずじまい。またしても、空模様に騙された。
昨日は、広島に原爆が落とされて63年目だという。爺はこの日お昼近くになって、廿日市駅のホームで被災者の地獄絵を見た。一文ぐらいはかけそうに思うのだが、いざ書き始めると何もかけなくなる。今はすべて忘れ去りたい。テレビ報道も空絵事に見える。
結局、2日間ブログをお休みしたわけ。
テラスで釣りを楽しむ人
今日は、5時過ぎに家を出た。桜橋をわたり夏の青空につられて、水神大橋まできたが、首筋を照りつける太陽が肌に痛い。テラスでは釣りを楽しむ人がいる。
白鬚橋まで下り、例の剃刀堤防の道で警邏中のお巡りさんに出会ったのでカメラに収めさせていただいた。
桜橋の手前で爺の名前を呼ぶ人がいる。一瞬どこの何方か思いつかない。太陽が眩しくそれに熱気のためお頭(つむ)が少々呆けていたと見える。「貴方どちらさんでしたっけ?」「Yです。こちらは3男のMです」あろうことか、トールちゃん夫人とその3男坊のM君である。もっともトールちゃんの3人の息子さんは総てMがつくので、トリプルM兄弟なのである。トールちゃんは只今カナダに出張中で、奥様が愛犬コアラを連れての散歩ということであった。
ここのところ、毎日のように猛暑が続いている。今日は検診日で朝飯は抜きになるので徘徊は1時間程度で切り上げた。爺は少々の事では医者にかかるのはごめんであった。ところが、ここ2年ばかり、血圧が高いということで、4週間に1度近くのA医院で定期健診を受けることになった。
爺は採血は苦手
半年に2度ほどレントゲン・心電図・血液検査など精密検査をしていただくことになっており、今日はその日に当たっていたのである。
詳しい結果は1週間ほどかかるが、血圧も正常だし血糖値も60台で、ビールぐらい飲んでも構わないということである。
マイチと爺
マイチと婆
ダブル M
姉と弟の間に割り込んで
昨日の午後、マイチが訪ねてくれた。橋場に母方の叔母さんを見舞いに来たということであった。しばらく話していると、マイチの携帯に電話が入り、マイチの姉さんのM・Fさんも叔母さんを見舞ったということで、我が家によっていただき、久し振りにお話できた。この姉弟、兼愛塾の臨海学校の初期の頃一方ならぬお世話になり、話もその頃の思い出話が中心となる。
駒形橋を背にT氏と
厩橋を背に爺婆
蔵前神社
蔵前神社由緒書き
鼠小僧見参
今日は日曜日、通常ならば「うろつき・どんたく」の日であるのじゃが、どうにもこうにもこの暑さでは日中の遠出は思いやられる。朝の涼しいうちに近所を徘徊しようと、婆さんと連れ立って吾妻橋からテラスを歩くことにした。久し振りに厩橋袂でT氏とであう。駒形橋と厩橋をバックに写真を撮らせてもらい、厩橋を渡り、春日通りを西進。途中標識板に従って蔵前神社に立ち寄る。国際通りから、雷門通りそしてすしや横丁を通り、伝法院通りに入る。オレンジ通りに差し掛かる所で、千両箱を抱えた鼠小僧が今しも塀を乗越えようとしていた。
薪能のチラシ
本堂裏手の広場は会場に
浅草寺本堂裏手の境内では8月5日(水)の薪能の準備が着々と進められていた。
昨日も何時ものように徘徊に出掛けたが、特に変ったことはない。白鬚橋のリバーサイド隅田の広場の前から白鬚橋を望むと、毎朝のように出会う地蔵坂にお方が橋を渡っていらっしゃるのでシャッターを切った。ズームをいっぱいに利かせたが、写りはどうだろう。隅田グラウンドのところまで来ると、下のテラスから何やら大声で叫んでいるのが聞こえてくる。何のチームかは判らないが、少年達が1人ずつ川面に向って大声で「おはようございます」と叫ばされていた。まあ、声出しトレーニングとでもいうのかな。6時半まで少々時間があるようなので、山谷堀の方位石塔をカメラに収め、公園内をぶらついて、聖天公園に行く。これで、ラジオ体操も終わりということらしい。
みんなの体操祭東京大会
今日は土曜日、桜橋西渡り口のところで、O夫妻に出会ったので、カメラのシャツターを切らせてもらった。
昨日は横着を決め込んだので、2日分纏めて記しました。
sechin@nethome.ne.jp です。
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