瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
ここ2・3日台風や雨にたたられて、徘徊がお預けになっていたような気がする。今朝は、やっと天気が快復したようだ。今日は旧暦八月廿四日、秋分の日である。爺の餓鬼の頃はこの日は秋季皇霊祭といい、歴代の天皇の神霊をお祀りする日だと聞かされていた。
仏教上では、お彼岸といわれ、お墓参りをする日と聞かされた。彼岸(ひがん)とは、煩悩をを脱した悟りの境地をいうのであって、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸ということで「彼岸」と名付けられたらしい。
「彼岸会(ひがんえ)」は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のことをいうのじゃ。爺が餓鬼の頃は祖母(ばあ)さまやお袋さんが炊いた糯(もちごめ)をすり鉢に入れて、半殺しにしたものに餡子を塗りたくってご馳走してくれた。仏様の供え物として作るもので、「ぼたもち」または「おはぎ」とよんだ。名前の興りは「牡丹餅」(春)と「お萩餅」(秋)なんだそうじゃ。餡子を塗るかわりに黄粉やすり胡麻を塗りたくったものもある。日蓮が鎌倉幕府によって龍ノ口の刑場に引き立てられて行った時、急を聞いた尼さんがなにか最後の供養と考えたが、餡をつくる時間がなく、黄粉と胡麻をまぶした「半殺し糯」を作り日蓮に献上したのが始まりじゃという。
水神大橋のレリーフ
太極拳
瑞光橋とガスタンク
東京の日の出は5時29分。桜橋を渡り、足は東白鬚公園へ向かう。水神大橋を渡るとき、橋柱のバルコニーになっている所の欄干に水神をあらわすレリーフがあった。おそらく伊弉諾・伊弉冉をイメージしたものであろう。汐入公園は最近散策する人がとみに増えたようだ。広場では何人かが集まって太極拳をしているグループがあった。太極拳は緩やかで流れるようにゆったりとした動きが特徴であり、健康、長寿にも良いとされ、朝の公園などで集まって練習している姿が見られるようになった。武術が持つ一般的な激しいイメージとは対照的に、コントロールされたゆっくりとした動きを多く含む。 日本国内でも、太極拳の愛好者は年々増えつつあり、自治体単位で太極拳を推進しているところもあると聞く。右手に大きな球上のガスタンクを臨みながら、いつも危険と隣り合わせにある都会であることを感じながら、瑞光橋を渡り、件(くだん)の落書き通りを通って、帰宅した。
仏教上では、お彼岸といわれ、お墓参りをする日と聞かされた。彼岸(ひがん)とは、煩悩をを脱した悟りの境地をいうのであって、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸ということで「彼岸」と名付けられたらしい。
「彼岸会(ひがんえ)」は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のことをいうのじゃ。爺が餓鬼の頃は祖母(ばあ)さまやお袋さんが炊いた糯(もちごめ)をすり鉢に入れて、半殺しにしたものに餡子を塗りたくってご馳走してくれた。仏様の供え物として作るもので、「ぼたもち」または「おはぎ」とよんだ。名前の興りは「牡丹餅」(春)と「お萩餅」(秋)なんだそうじゃ。餡子を塗るかわりに黄粉やすり胡麻を塗りたくったものもある。日蓮が鎌倉幕府によって龍ノ口の刑場に引き立てられて行った時、急を聞いた尼さんがなにか最後の供養と考えたが、餡をつくる時間がなく、黄粉と胡麻をまぶした「半殺し糯」を作り日蓮に献上したのが始まりじゃという。
水神大橋のレリーフ
東京の日の出は5時29分。桜橋を渡り、足は東白鬚公園へ向かう。水神大橋を渡るとき、橋柱のバルコニーになっている所の欄干に水神をあらわすレリーフがあった。おそらく伊弉諾・伊弉冉をイメージしたものであろう。汐入公園は最近散策する人がとみに増えたようだ。広場では何人かが集まって太極拳をしているグループがあった。太極拳は緩やかで流れるようにゆったりとした動きが特徴であり、健康、長寿にも良いとされ、朝の公園などで集まって練習している姿が見られるようになった。武術が持つ一般的な激しいイメージとは対照的に、コントロールされたゆっくりとした動きを多く含む。 日本国内でも、太極拳の愛好者は年々増えつつあり、自治体単位で太極拳を推進しているところもあると聞く。右手に大きな球上のガスタンクを臨みながら、いつも危険と隣り合わせにある都会であることを感じながら、瑞光橋を渡り、件(くだん)の落書き通りを通って、帰宅した。
今日はI・K氏からの招待で、9月場所の中日を見学してきた。
折悪しく、午後から雨が降り出したが、2時半爺婆を小学2年の息子さんTちゃんと国技館の正面玄関で待っていてくれた。相撲博物館を見学して、席に案内してくれたが、審判部長の後(うしろ)の正面溜まり席であった。こんな近くで大相撲を見るのははじめてであったが、テレビでは味わえない熱気を感じた。
写真の方はなかなか難しく、好い勝負は見とれてシャッターを押すのを忘れるし、慌てて押したものはピンボケが多く、あまり上手く撮れなかった。
相撲博物館で
十両土俵入り
只今人気上昇中山本山

幕内土俵入り
朝青龍土俵入り
白鳳土俵入り

朝青龍はこのあと負けの判定物言いなし
弓取り式
ファミリーレストランで

帰りは回向院のすぐ近くのファミリーレストランで、夕食を共にした。外に出るとかなり激しい降りになっていた。K氏親子は両国からJRで上野桜木町まで帰ると言う。回向院前でタクシーに乗るとき、K氏から焼鳥のお土産まで頂いてしまった。
折悪しく、午後から雨が降り出したが、2時半爺婆を小学2年の息子さんTちゃんと国技館の正面玄関で待っていてくれた。相撲博物館を見学して、席に案内してくれたが、審判部長の後(うしろ)の正面溜まり席であった。こんな近くで大相撲を見るのははじめてであったが、テレビでは味わえない熱気を感じた。
写真の方はなかなか難しく、好い勝負は見とれてシャッターを押すのを忘れるし、慌てて押したものはピンボケが多く、あまり上手く撮れなかった。
相撲博物館で
幕内土俵入り
朝青龍はこのあと負けの判定物言いなし
帰りは回向院のすぐ近くのファミリーレストランで、夕食を共にした。外に出るとかなり激しい降りになっていた。K氏親子は両国からJRで上野桜木町まで帰ると言う。回向院前でタクシーに乗るとき、K氏から焼鳥のお土産まで頂いてしまった。
今朝は、台風の影響が残り雨のため徘徊できず。その時間は文天祥の「正気歌」探しと、その写し作りに費やした。
文天祥(1238~1282年)は、中国南宋末期の軍人、政治家。字は宋瑞(そうずい)または履善(りぜん)。号は文山(ぶんざん)という。滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ、何度も元に仕えるようにと勧誘されたが、忠節を守るために断って刑死したという人物。
文天祥
正気歌 原詩
正気歌 読み下し文

一旦は下野した文天祥であつたが、モンゴルの攻撃が激しくなると復職して元との戦いに転戦、1276年に右丞相兼枢密使となり、元との和約交渉の使者とされるが、元側の談判の後で捕らえられる。文天祥が捕らえられている間に首都・臨安(杭州)が陥落したが、宋は幼帝を奉じて抵抗を続けた。文天祥も元の軍中より脱出して、各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが、1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行されるのである。その後は死ぬまで獄中にあり、厓山に追い詰められた宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容なんだそうだ。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受けたのである。この時に文天祥はこの『正気の歌』(せいきのうた)を詠んだのじゃそうだ。何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかったらしい。朝廷でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めるしである。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、1282年、南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けたという。享年47。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。
正気歌 訳文 その1
正気歌 訳文 その2
文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれた。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎(あさみけいさい、1652~1712年)が『靖献遺言』に評伝を載せ、幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖だけでなく吉田松陰も、日露戦争時の広瀬武夫などもそれぞれ自作の『正気の歌』を作っているそうだ。
文天祥(1238~1282年)は、中国南宋末期の軍人、政治家。字は宋瑞(そうずい)または履善(りぜん)。号は文山(ぶんざん)という。滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ、何度も元に仕えるようにと勧誘されたが、忠節を守るために断って刑死したという人物。
文天祥
一旦は下野した文天祥であつたが、モンゴルの攻撃が激しくなると復職して元との戦いに転戦、1276年に右丞相兼枢密使となり、元との和約交渉の使者とされるが、元側の談判の後で捕らえられる。文天祥が捕らえられている間に首都・臨安(杭州)が陥落したが、宋は幼帝を奉じて抵抗を続けた。文天祥も元の軍中より脱出して、各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが、1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行されるのである。その後は死ぬまで獄中にあり、厓山に追い詰められた宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容なんだそうだ。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受けたのである。この時に文天祥はこの『正気の歌』(せいきのうた)を詠んだのじゃそうだ。何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかったらしい。朝廷でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めるしである。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、1282年、南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けたという。享年47。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。
正気歌 訳文 その1
正気歌 訳文 その2
今朝は、雨。朝食後、日が射すかに見えたが、以後ふったりやんだで、家に閉じ込められた。
9月13日(土)に、水戸下屋敷の墨堤に面した所にある藤田東湖の漢詩碑をカメラに収めたが、表面はかなり風化していてよく読めない。なんとしても、文面を知りたくて、方々を探してみた。
藤田東湖は安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50歳であったという。

天地正気の原文を見つけることが出来たが、見たこともない字が10字近くもあり、とうとう最後は「霧+金=かぶと」の字は探し出すことが出来なかった。ブログにはルビ振りは無理なので、ワードで打ち込んだものをプリント、さらにこれをスキャンしてなんとか収めた。まあ、読みもなんとかルビをつけたものの、正しいかどうかは解らない。意味までは手が回りかねるので、興味ある方はご自分でお調べくだされ。
9月13日(土)に、水戸下屋敷の墨堤に面した所にある藤田東湖の漢詩碑をカメラに収めたが、表面はかなり風化していてよく読めない。なんとしても、文面を知りたくて、方々を探してみた。
藤田東湖は安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50歳であったという。
9月3日(水)に塾友のIK氏からメールが入った。曰く、
「日高先生 いつもプログ拝見しています。ロシアンマフィア? のおかげで大揺れの相撲界ですが、今月9月21日(日)の席を2枚入手いたしました。ご都合よろしければ道子先生とご一緒にご覧になりませんか?
ご都合がよろしければ国技館前で待ち合わせし先生方をお席までご案内したします。私は別の席で観覧しますが、相撲がはねましたら席までお迎えにあがります。(後略)」
勿論、滅多にこんな機会はないので、快く好意を受けることにした。
はてさて、今朝は雨で徘徊にも行けず、この「ロシアンマフィア? 」――大相撲マリファナ汚染問題について、調べてみた。
「2008年9月3日(水)01:29 元幕内力士の大麻事件を受けて日本相撲協会が2日、十両以上の力士を対象に抜き打ちで尿検査をしたところ、西前頭3枚目の露鵬(28)=大嶽部屋=と東十両6枚目の白露山(26)=北の湖部屋=が大麻の陽性反応を示した。相撲協会は警視庁に通報し、警視庁は両力士から任意で事情を聴いた。また、大麻取締法違反(所持)容疑で両力士の所属部屋と自宅の計3カ所を家宅捜索した。
両力士はともにロシア出身で実の兄弟。相撲協会や警視庁の事情聴取に、「身に覚えがない」などと薬物の使用を否定している。捜索で、大麻や吸引具などは見つからず、押収物はなかったという。(Asahi com)」というものである。



横綱の白鵬が11日大島部屋で出げいこをこなした後に大相撲の一連の大麻騒動について話している。「若ノ鵬にはもう一度やらせてもいいんじゃないかという気持ちにもなる」と若の鵬に同情的な発言であった。
白鵬は解雇された若ノ鵬、露鵬、白露山の3人について、「一生懸命頑張っていたし、まだまだこれからだった。何場所か休ませる手(処分)はなかったのかな」と残念そうに語っている。
武蔵川新理事長は外国人力士に再教育を行う方針を打ち出しているが、白鵬は「外国から来て目立つこともある。一から出直す必要がある。初心に戻ることが大事」と謙虚に受け止めている。また、14日初日の秋場所に向けて、世間の力士に対する心象が悪化していることが懸念されるいたが、白鵬は「全員がそうではない。応援してくれている人は知っている。萎(い)縮せず、今まで通り良い相撲を取る。大丈夫です」と述べ、番付最上位である東の正横綱の自負にあふれていたようだ。
全く、白鵬の言うとおりで、「日本相撲協会よ、なにしちょる」と言いたくなる。好い事尽くめで相手を言いくるめて日本へ連れてきて、たった1度の過ちでポイ捨てはあまりにも可哀想だ。まあ、聞くところによると、マリファナは麻薬だとはいうが、酒や煙草とあまり違いはなさそうだ。
まあ、日本相撲協会よ、伝統をいうなれば、寛容こそ日本の最大の美徳ではなかったのか?
「日高先生 いつもプログ拝見しています。ロシアンマフィア? のおかげで大揺れの相撲界ですが、今月9月21日(日)の席を2枚入手いたしました。ご都合よろしければ道子先生とご一緒にご覧になりませんか?
ご都合がよろしければ国技館前で待ち合わせし先生方をお席までご案内したします。私は別の席で観覧しますが、相撲がはねましたら席までお迎えにあがります。(後略)」
勿論、滅多にこんな機会はないので、快く好意を受けることにした。
はてさて、今朝は雨で徘徊にも行けず、この「ロシアンマフィア? 」――大相撲マリファナ汚染問題について、調べてみた。
「2008年9月3日(水)01:29 元幕内力士の大麻事件を受けて日本相撲協会が2日、十両以上の力士を対象に抜き打ちで尿検査をしたところ、西前頭3枚目の露鵬(28)=大嶽部屋=と東十両6枚目の白露山(26)=北の湖部屋=が大麻の陽性反応を示した。相撲協会は警視庁に通報し、警視庁は両力士から任意で事情を聴いた。また、大麻取締法違反(所持)容疑で両力士の所属部屋と自宅の計3カ所を家宅捜索した。
両力士はともにロシア出身で実の兄弟。相撲協会や警視庁の事情聴取に、「身に覚えがない」などと薬物の使用を否定している。捜索で、大麻や吸引具などは見つからず、押収物はなかったという。(Asahi com)」というものである。
横綱の白鵬が11日大島部屋で出げいこをこなした後に大相撲の一連の大麻騒動について話している。「若ノ鵬にはもう一度やらせてもいいんじゃないかという気持ちにもなる」と若の鵬に同情的な発言であった。
白鵬は解雇された若ノ鵬、露鵬、白露山の3人について、「一生懸命頑張っていたし、まだまだこれからだった。何場所か休ませる手(処分)はなかったのかな」と残念そうに語っている。
武蔵川新理事長は外国人力士に再教育を行う方針を打ち出しているが、白鵬は「外国から来て目立つこともある。一から出直す必要がある。初心に戻ることが大事」と謙虚に受け止めている。また、14日初日の秋場所に向けて、世間の力士に対する心象が悪化していることが懸念されるいたが、白鵬は「全員がそうではない。応援してくれている人は知っている。萎(い)縮せず、今まで通り良い相撲を取る。大丈夫です」と述べ、番付最上位である東の正横綱の自負にあふれていたようだ。
全く、白鵬の言うとおりで、「日本相撲協会よ、なにしちょる」と言いたくなる。好い事尽くめで相手を言いくるめて日本へ連れてきて、たった1度の過ちでポイ捨てはあまりにも可哀想だ。まあ、聞くところによると、マリファナは麻薬だとはいうが、酒や煙草とあまり違いはなさそうだ。
まあ、日本相撲協会よ、伝統をいうなれば、寛容こそ日本の最大の美徳ではなかったのか?
一昨日の爺婆(じじばば)の日の徘徊はカメラ持参を忘れてしまった。途中ワンさん夫妻にも出会ったのだが、ブログをサボってしまった。昨日は朝から雨。というわけで、2日間続けてブログはお休みになった。
西空に十六夜の月が
浩養園跡説明板
明治の浩養園より

墨田区役所
本日は旧暦8月18日、駒形橋を渡り、吾妻橋に向う途中、後を振り向くと駒形橋上の西空に「十六夜月」と思しき月がかかっていた。吾妻橋を過ぎ、勝海舟の銅像の前を通って、墨田区役所の表玄関に出てみた。
この付近は幕末まで佐竹の庭・浩養園として知られていたらしい。枕橋茶屋の前から墨田区役所をカメラに収めてみた。

リバーサイド隅田前の広場から白鬚橋を見るとワンさん夫妻が見えたので、この広場で待つことにした。
白鬚橋をバックに2人をカメラに収めた。ワンさんが爺の徘徊姿をカメラに入れてくれた。しばし、話した後、白鬚橋を渡り、川沿いに桜橋まで南下して帰宅した。
西空に十六夜の月が
墨田区役所
この付近は幕末まで佐竹の庭・浩養園として知られていたらしい。枕橋茶屋の前から墨田区役所をカメラに収めてみた。
白鬚橋をバックに2人をカメラに収めた。ワンさんが爺の徘徊姿をカメラに入れてくれた。しばし、話した後、白鬚橋を渡り、川沿いに桜橋まで南下して帰宅した。
藤田東湖の漢詩碑
説明板
高速6号線の下でのご来光
前のお家のKちゃん
昨13日(土)は、何時もどおり、駒形橋を渡り枕橋を過ぎた所で、藤多東湖の「天地正大気」漢詩碑をカメラに収める。この碑は写真に撮るのは今回で何度目であろうか。随分何回もとったような気がする。傍らにある説明板も前のものとはかわったような気がする。高速6号線の下で見るご来光が、莫迦にはっきりと見えた。多分この朝は大いにガスっていた所為だろう。白鬚橋に近付いた所で、ワンさん夫妻とすれ違う。今日は土曜日でお勤めがお休みと見えて、前のお家のKちゃんもマラソン、白鬚橋ですれ違い、家の玄関先で再びすれ違った。
昔ながらのタイル張りの家
昭和2年の古家屋
用水用の古ポンプ
台東区美術展
朝のNHKテレビ「土曜すてき旅」に鳩の街が取り上げられていた。今年の春、桜橋で花見をしたとき、同期の爺どもで昔年とどのように変ったかと、探索した所である。
というわけで、本日14日(日)の婆様との「うろつきどんたく」は、鳩の街へ出掛けることになったんじゃ。墨堤通りから入り、昔のままのタイル張りの家、昭和2年に建ったと言う「鈴木荘」、テレビにも出た用水用のポンプなどもカメラに収めた。この辺りは、本日は牛島神社のお祭で、祭囃子が流れる水戸街道に抜け出た。桜橋通りから墨堤通りに入ると牛島神社を通り、吾妻橋を渡り墨田公園に入ると、水上バス乗場のすぐ近くにある地下ギャラリーで「台東区美術展」をやっていたので見学してきた。
木歩終焉の地の碑
木歩の挿絵
枕橋を渡ると水戸庭園の入り口のまえに、「富田木歩終焉の地」と書かれた碑が建っている。
富田木歩は、明治30(1897)年、東京本所区(現墨田区)向島小梅町に生まれた。本名は一(はじめ)。2歳のとき、病いにより歩行不能の体となった。加えて貧困のため、本人の強い希望にもかかわらず小学校教育も受けられなかった。文字は「いろはがるた」「軍人めんこ」などで覚えた。少年雑誌などを夢中で読む本好きの子供だったらしい。彼には4人の姉妹と兄、聾唖の弟がいたが、姉妹は貧困のゆえにことごとく遊郭に身を落とし、一人の妹と弟は結核で亡くなっている。木歩自身も、大正7年(21歳)ころから喀血するようになり、病臥の身となった。 彼の最期も無惨なものだった。関東大震災の猛火の中で死んだのである。享年数えでわずか27歳だった。
木歩と同い年の慶応の学生で浅草に住んでいた新井声風(1930~1972年)は、木歩の俳句を高く評価し木歩と親交を結んだ。大震災のときは木歩の元に駆けつけ、混乱の中で土手の上に妹たちと居る木歩を見つけた。浅草方面に逃げようと彼を背負って枕橋近くまで走ったが(言問橋、桜橋はこの当時なかった)、橋は燃え落ちまわりには火の手が迫りどうにもならなかったという。木歩と無言の握手の後、津波で普段の2倍にも水嵩を増し激流と化した隅田川に飛び込んだ声風は奇跡的に助かり、その後の人生を木歩の句集・文集の編纂をしたり、木歩に関する本や文をまとめるなど、木歩の業績を世に知らしめる為に尽力している。
三囲の大鳥居と竹屋の渡しの説明
境内の富田木歩の句碑


朝5時はまだ暗い。何時もとは逆回りで、例の落書通りを北上し、白鬚橋を渡ると、青色御殿通りを南下、桜橋を過ぎた所で、僕亭通りを渡り、三囲神社の裏参道にくると、鳥居の傍に「竹屋の渡し」の説明板があった。敷地に沿って表参道に出ると、境内に入ってみた。ここに木歩の句碑があると聞いたことがあるからじゃ。あったあった、句碑は本殿の真裏の銀杏の木の下につつましく佇んでいた。「夢に見れば死もなつかしや冬木風」 台座を入れても高さは1メートルにも満たない控えめな句碑であった。
駒形橋上で朝日を浴びて
枕橋をわたって、駒形橋まで下り橋を渡っていると、行き違いにトールちゃんが愛犬ココアを連れて、朝のお散歩。ここから桜橋を渡って帰宅するのだそうだ。ココア君なかなかカメラの方を向いてくれないので、トールちゃんがココアを抱いてカメラに収まってくれた。
富田木歩は、明治30(1897)年、東京本所区(現墨田区)向島小梅町に生まれた。本名は一(はじめ)。2歳のとき、病いにより歩行不能の体となった。加えて貧困のため、本人の強い希望にもかかわらず小学校教育も受けられなかった。文字は「いろはがるた」「軍人めんこ」などで覚えた。少年雑誌などを夢中で読む本好きの子供だったらしい。彼には4人の姉妹と兄、聾唖の弟がいたが、姉妹は貧困のゆえにことごとく遊郭に身を落とし、一人の妹と弟は結核で亡くなっている。木歩自身も、大正7年(21歳)ころから喀血するようになり、病臥の身となった。 彼の最期も無惨なものだった。関東大震災の猛火の中で死んだのである。享年数えでわずか27歳だった。
木歩と同い年の慶応の学生で浅草に住んでいた新井声風(1930~1972年)は、木歩の俳句を高く評価し木歩と親交を結んだ。大震災のときは木歩の元に駆けつけ、混乱の中で土手の上に妹たちと居る木歩を見つけた。浅草方面に逃げようと彼を背負って枕橋近くまで走ったが(言問橋、桜橋はこの当時なかった)、橋は燃え落ちまわりには火の手が迫りどうにもならなかったという。木歩と無言の握手の後、津波で普段の2倍にも水嵩を増し激流と化した隅田川に飛び込んだ声風は奇跡的に助かり、その後の人生を木歩の句集・文集の編纂をしたり、木歩に関する本や文をまとめるなど、木歩の業績を世に知らしめる為に尽力している。
三囲の大鳥居と竹屋の渡しの説明
朝5時はまだ暗い。何時もとは逆回りで、例の落書通りを北上し、白鬚橋を渡ると、青色御殿通りを南下、桜橋を過ぎた所で、僕亭通りを渡り、三囲神社の裏参道にくると、鳥居の傍に「竹屋の渡し」の説明板があった。敷地に沿って表参道に出ると、境内に入ってみた。ここに木歩の句碑があると聞いたことがあるからじゃ。あったあった、句碑は本殿の真裏の銀杏の木の下につつましく佇んでいた。「夢に見れば死もなつかしや冬木風」 台座を入れても高さは1メートルにも満たない控えめな句碑であった。
駒形橋上で朝日を浴びて
四五年ぶりの九州行きになるが、以前のように方々立ち寄る気力もない。この爺、どこといって悪い所があるわけではないが、最近とみに何をするのも億劫になってきた。まあ、高校時代の同期の連中に会えば、後は兄貴と姉貴に会って、帰京するつもりじゃ。
朝晩は随分涼しくなった。今朝は外は肌寒いほどであった。いつも通る道なのに気付かずにいたが、枕橋の袂に由来碑が立っている。褐色の石に枕橋の由来が彫られていて、白く埋め込みがされているのだが、大変に読み辛い。曰く、
「寛文2年(1662年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。またその北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。/その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治8年、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。/現在の枕橋は昭和3年に架け替えられたものである。昭和63年、本橋は東京都著名橋に指定された。/平成4年3月」
気をつけてみないと判らないが、よく観ると枕橋の渡り口の欄干の下に「隅田八景 枕はし夜雨」のレプリカが掘り込んである。二代 広重 画 と記されている。とある芋きん屋の包み紙に隅田八景が描かれている。
枕橋由来碑
例の青色御殿通りでワンさん夫妻とすれ違う。
明治天皇海軍漕艇展覧玉座跡の碑
「恭しく惟みるに明治天皇夙に叡慮を帝國海軍の発達に労し給い明治元年3月親しく大阪に幸して諸艦を天保山に関せられ爾来屢艦船部隊官衛学校等に行幸あらせ給い殊に海軍短艇競漕の隅田川に行はるるや、玉座は設けて、ここに在り親しく天覧を賜うこと前後4次に及べリ、明治15年には11月21日に、同16年には6月3日、同27年には4月2日に臨御あらせられ是は皇后亦行啓せられ、同29年には12月18日を以って親閲あらせ給へり其の間25年には6月19日を以って皇后竝皇太子の行啓を辱せり参加の将士齊しく恐擢感激して勇躍技を競い行事最も盛大を極わめリ斯の如きは皆是し震慮の深きに井で帝國海軍の無上なる光栄にして牢記すべき所なり只恐る。
当年玉座の聖蹟星移り物替りて滄桑の変を経成は湮晦に貴せんことを是し本会が天皇親臨のこの尊ぶべきの地を永遠に顕彰し奉り、永く聖徳の至大なるを仰がんことを期し帝國海軍及朝野の諸彦と謀りて、昭和16年の明治節日をとし一碑を玉座の趾に勤し之を不朽に伝える。
紀元2601年11月3日 隅田川聖蹟顕彰会」
ひろきをおのが心ともがな
「朝みどり 澄み渡りたる大空の ひろきをおのが 心ともがな」
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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