東京の日の出は5時30分頃である。まだ暗い隅田公園を抜け、吾妻橋にかかる頃からようよう白け始め、都営浅草線の本所吾妻橋駅手前の浅草通りに入る頃になって、あたり一面が明るくなり、東の空が朝焼けに染まり始める。
浅草通りが大横川を渡るところが業平橋(なりひらばしである。業平橋)は『伊勢物語』の主人公であるとされている平安時代の歌人・在原業平に因んでいる。川は橋のある部分も含めて部分的に埋め立てられたが、橋は残っている。また、隅田川に架かる吾妻橋の別称とも言われているということじゃ。この橋のこの辺いったいの地域も業平と呼ばれている。おなじ名前の橋が埼玉県にもあるが、奈良県・兵庫県にもある。埼玉県の業平橋は同じ由来を持つものであるが、兵庫県のものは在原業平が芦屋市に住んでいたことから、また奈良県のものは八尾市に伝わる『業平の高安通い』に因むものであるそうじゃ。
業平橋
東武橋
業平駅
東武橋と東部ビル
東武橋上より亀戸方向を撮る
東京スカイツリーの工事現場
業平橋を渡って直ぐの通りの左手に東武橋がある。北十間川の4番目の橋が「東武橋」で、かつて、源森川(現・北十間川の隅田川から東武橋の間)は、ここで南に曲がり「業平橋(なりひらばし)」を経て大横川(現・大横川親水公園)に流れていたという。また、歌川広重の「小梅堤」(9月29日のブログ「小梅橋」参照)の題材になった曳舟川(現・曳舟川通り)も、ここから流れていたということじゃ。東武橋を渡ると東武伊勢崎線のガードがあり、その右手に業平橋駅がある。ちょうど、上り浅草行きの電車が出発するところであったので、カメラに収めた。この東武橋と次の京成橋の間に東京スカイツリー(新東京タワー)が出来るのだという。事業主体は、東武鉄道が出資する「東武タワースカイツリー株式会社」。2008年7月14日すでに着工しており、順調に進めば2011年12月竣工の予定という。
桜橋を潜る達磨船
東武橋から引き返し、北十間川の北側を源森橋迄進み、三つ目通りを北上、途中から水戸庭園を抜けて何時もの隅田川の遊歩道に出た。桜橋手前で、親船に曳かれて行く達磨船が桜橋を通過するところであった。桜橋を渡ると、言問橋までの遊歩道を南下し、隅田公園を抜けて、帰宅した。
インターネットの毎日jpから次の記事を見つけた。
卒業証書:戦後63年目の卒業式、7人が出席へ 門司高「最後の機会」
◇「右ハ昭和二十年三月三十一日本校ノ課程ヲ卒ヘタリ仍テ之ヲ證ス」
戦時中、学徒動員などで卒業式に出席できなかった旧制門司中学校(北九州市門司区、現在の県立門司高校)の卒業生に来月7日、卒業証書が手渡される。「右ハ昭和二十年三月三十一日 本校ノ課程ヲ卒ヘタリ 仍テ之ヲ證ス」。戦後63年目にして初めて手にする卒業証書。大半が80代の卒業生たちは「証しがほしかった」と感慨を深くしている。
門司高80年史によると、戦況の切迫で1944年5月から同校生徒も通年動員となり、8月からは1年生を除き軍需工場に動員された。翌45年3月に卒業式は開かれたが、多くが出席できなかった。
同窓会などで卒業証書を受け取っていない人の話題が度々出る中、門司北高との統合で今年度で閉校となる門司高が「最後の機会」と企画。連絡可能な167人に案内状を送ったところ7人が出席することになった。
柳田豊さん(80)=福岡県福津市=は40年に門司中に入学。4年生のころから飛行場建設などに駆り出され、5年生になってからは小倉の陸軍造兵廠で働き、一度も登校しなかった。その後、海軍に入り、終戦は神奈川県横須賀市で迎えた。
卒業証書のことはずっと心残りだった。「お国のために働き、学校に行かなかったのではなく、行けなかった。あきらめていたが、門司中を出たんだという証しがほしかった」。既に亡くなった友人も多い。「代表という気持ちで受け取りたい」と語る。
10月7日の「卒業式」には、最後の在校生となる3年生195人も列席する。出席者の一人で、戦後は母校・門司高教員として12年間勤めた久木田益さん(81)=山口県下関市=は「戦争末期は本当に悲惨だった。平和に勉学できる素晴らしさを今の子が分かってくれればいい」と話している。【佐藤敬一】(毎日新聞 2008年9月27日 西部夕刊)
この記事の久木田益(すすむ)はこの爺の実兄なのじゃ。写真は海兵合格記念にとったもので、旧制の中学5年生(今でいえば高校2年生)のもの。
昨日も今日も朝から雨。今日の徘徊は諦めたものの午後から雨も上がり薄日さえ射してきた。今日は都民の日で百花園は無料で入場できるし、萩も見ごろに違いないと、午後4時過ぎに家を出て百花園へと足を伸ばした。ハギを竹の柵にそわせてトンネル状にした園路は百花園の名物である。9月には全長約30mにわたって花のトンネルになるという。百花園に着いたのは4時半をすぎていて、園内には「七つの子」の曲が流れていて5時には閉園であることを知らせていた。
萩のトンネルの入り口で
秋の七草の碑
隅田川七福神の由来
ゆっくり秋の七草をカメラに収めようと思ったのだが、萩のトンネルを撮るのがやってであった。そばにいた中年の小母さんにシャッターを押してもらった。山上憶良の秋の七草の碑をカメラにおさめ、追い出されるように百花園を出ると入り口のところに隅田川七福神の由来の説明板があったので収めておいた。
鷲津毅堂碑
鷲津毅堂碑の説明板
墨多三絶の碑
墨多三絶の碑の説明板
百花園を出て白鬚神社の境内を通ると鷲津毅堂碑と「墨多三絶」の碑をカメラに収めた。
墨堤通りを横切り、リバーサイド隅田の南側を通って件の青色御殿通りに出て、桜橋を渡って帰宅した。
今日は10月1日(水)で都民の日である。1952年に東京都が制定した記念日なんだそうじゃ。勿論東京都立および都内各市区町村立の学校は休校となる。また、都内に所在する一部の私立学校も休校となる。
1956年には東京開都500年(1457年に江戸城が築城された年を基準として500年目に相当)を記念して、都民の日に「大東京祭」が催された。その後は毎年恒例となり、1982年からは「ふるさと東京まつり」と改称された。大東京祭以降、東京都は毎年都民の日を記念したバッジを発売した。当初は彫刻家の朝倉文夫がデザインしていたそうじゃが、1959年からは漫画家の清水崑によるカッパをモチーフとしたデザインとなった。カッパが採用された理由としては、隅田川にカッパの巣が多くあったとする伝承によるのだそうじゃ。その後、バッジのデザインは漫画家の小島功に引き継がれ、カッパのモチーフもそのまま受け継がれることになった。
東京都シンボルマーク選考委員会が候補作品20点の中から一つを選定し、平成元年6月1日に、東京都のシンボルマークを制定した。このシンボルマークは、東京都の頭文字「T」を中央に秘め、三つの同じ円弧で構成したもので、色彩は鮮やかな緑色を基本とする。これからの東京都の躍動、繁栄、潤い、安らぎを表現したものなのだそうじゃ。
昭和59年6月、「都の花選考会」で東京都の花が正式に決定された。ソメイヨシノは、江戸末期から明治初期にかけ、染井村(現在の豊島区駒込)に住んだ植木職人がヤマザクラの品種を改良したといわれ、満開時の見事さ、散りぎわの花吹雪は格別じゃが、爺の幼少期には軍国教育に利用されたので爺にとってサクラのイメージは好いものでなかった。爺になってから、これは何もサクラの所為ではないことに気が付いた。
東京の木選定委員会で決定した三種の候補の木 (ケヤキ、イチョウ、ソメイヨシノ)について住民の一般投票を行ったそうじゃ。委員の大多数はケヤキに賛成であったそうじゃが、都民投票のとおりイチョウに決定した。昭和41年からイチョウが東京都の木となったのじゃ。イチョウは古代植物の生き残りといわれ、日本と中国の一部だけに現存している木で、公害や火にも強いため、街路樹としても使われている。
鳥獣保護及び狩猟に関する法律の規定に基づき樹立した東京都鳥獣保護事業計画の都民の鳥の指定により昭和40年10月1日「ユリカモメ」に決定した。羽は白く、嘴と足が朱色の「カモメ」で、東京付近では、10月下旬から11月上旬にシベリア東北部、カムチャッカ方面から渡来して4月頃まで東京湾、隅田川、多摩川などに群れをなしてみられる。その姿は美しく、古来から詩歌や絵画の題材となっているが、とくに爺の住む直ぐそばの言問橋の謂れの在原業平の和歌の中に詠み込まれていることは有名じゃ。ミヤコドリの通称で知られ、他のカモメ類と同様に雑食性で、小魚類や、水棲昆虫などを採食している。
雨降りにて、外にも出掛けられず、その間「都民の日」について考えてみた。
今朝は土曜日に続けて、北十間川の3番手の橋である「小梅橋」を回った。
北十間川は、江戸時代に人の手によって掘られた人口の河川で、もともとは源森川の一部であったが、洪水によって水害が発生したことを機に、寛永12~3年に堰きとめられて以来、現在の東武本社の近くの業平橋(江戸時代からあった橋)から旧中川までの水を通じていない川であったという。 一方、源森川は、隅田川から業平橋のあたりで分断されて南に曲がり、大横川につながっていたということじゃ。大横川は、現在では”大横川親水公園”になってる。その後、明治18年に堰を取り除き閘門(こうもん)ができるようになって、隅田川から旧中川まで水が通じるようになったということじゃ。この後、源森川という名称はなくなり、隅田川から旧中川までを、北十間川とよぶようになったんじゃろうな。 いまでも、堰があった部分は、東京都の浄水施設があり普通に川が流れているわけではない。東武橋から小梅橋までは川が処理場のなかを流れていて、ここに処理場があることも、当時北十間川を堰きとめていた歴史の名残なのであろう。
「小梅橋」は、新しいもので江戸時代や明治時代の地図にも出てこない。また、現在でも普通の地図では名前が書かれていない可哀そうな橋なんじゃと。江戸時代に描かれた隅田川向島絵図によると、現在の小梅橋を渡ったあたりのところに「小倉庵」(古地図で○で囲んで置いた)という料理屋があったらしい。江戸時代には、「今戸で大七 有明桜、小梅でおしるこ 小倉庵」とうたわれたほど有名だったそうです。 はじめておしるこを料理として出したのも小倉庵だそうですよ。“隅田川向島絵図”で、“小倉庵”の表記を見ることができます。ただ、残念なことに、幕末に旗本の青木弥太郎(やたろう・家禄二百石、元勘定衆)と強盗を働いた一味の一人に、この小倉庵の跡取り息子の長次郎がいたそうで、いろいろあって今では跡形もありません。古地図の右側の大きな川が、隅田川。地図の一番上を横に流れているのが、北十間川(きたじゅっけんがわ)。北十間川は業平橋(なりひらばし)のあたりで堰きとめられていたんじゃ。古地図の上の部分に「小梅村」と横に書かれているところが、新タワーの建設予定地なんじゃ。
いやはや小梅橋上で写真を撮っていると、ぽつりぽつりと雨が落ちだした。北十間川と浅草通りの間のみちを枕橋方向に進むと、源森橋の袂から路地の間から雲固様が黄色に輝いていた。急いで枕橋まで来ると、何時ものコースを桜橋まで進んだが、どうやら本格的に降ってきそうなので、桜橋をわたると、例の屋外プール脇の凸面鏡に写った長袖姿の己をカメラに収めると、そそくさと帰宅した。
朝飯の時のNHKテレビで、工事に取り掛かった東京スカイツリーの現場のヘリコプターからの撮影が映っていた。間もなくして、そのヘリコプターの騒音が我家の今に流れ込んできた。今日からはじまる新しい朝ドラは、宍道湖の蜆とり漁師の娘と、祇園の舞妓の話らしい。双子の姉妹「佳奈・茉奈」が演じるのだそうじゃ。
Mr.Mは小さいながらも、塗装屋の社長さんだということである。両親は保険勧誘の仕事をしているらしい。なんでもMihoちゃんとMr.はメールをとおして知り合ったらしい。
雷門の交番横にて
宝蔵門にて全員で
浅草寺境内で
Mr.MとMihoちゃん
むつみにて
正午に雷門で待ち合わせて、浅草寺を1巡して、釜飯屋「むつみ」で昼食をとった。日本食ブームで今は何処にでも日本料理を食わす店があるそうじゃ。てんぷらやすき焼きは今は異国の人にとって珍しいものではないという。まさか、どぜう鍋というわけにもいかないので、釜飯ということになった。昼食後、Mr.Mのお袋さんが料理が趣味だということで、台所用品が見たいということで合羽橋に行きたいということである。Mihoちゃんの従姉にあたる前のお家のTちゃん夫妻と家の婆さまで案内することになり、爺は一足先に帰宅した。合羽橋を回って家に再度案内するということなので、家で待っている間に本日撮った写真を整理し、ブログを書くことにした。
北十間川
源森橋由来
北十間川というのは江東区亀戸付近にて旧中川と分かれ、ほぼ東から西へ伸びて墨田区向島付近にて隅田川とつながる、延長3.24kmの荒川水系の一級河川である。江戸時代初期に運河として開削され、川幅が10間(約18.18m)で本所(墨田区南部の商工業地区)の北を流れることから北十間川と呼ばれた。
このほとりに新しく東京スカイツリーが建設されるという。NHKと民放五社が計画を呼びかけてから五年、熾烈な誘致合戦を経て建設予定地の決定が下されてから三年、地上610メートル、事業総予算650億円のプロジェクトが三年半後2011年12月の竣工に向かって動き出した。7月14日、まずは午前、建設予定地である墨田区押上一丁目にて、「安全祈願祭」が行われ、午後は錦糸町駅前の東武ホテルに地元関係者が招ねかれ「記念式典」が開かれたそうじゃ。
源森橋南詰め
橋上より枕橋と水門を臨む
源森橋北詰
隅田公園を抜けると何となく、吾妻橋を渡り、そのまま墨田区役所の表玄関前に出て、枕橋手前を右折すると、そこは源森橋であった。橋口に由来碑が立っている。
牛島神社
水戸庭園よりの区役所
桜橋辺りから北の朝焼けを望む
源森橋を渡り、水戸屋敷庭園を抜けて牛島神社前から言問橋袂の墨堤通りを横断し、何時もの遊歩道に入った。桜橋近辺から見る北方面は朝焼けで綺麗だ。そのまま白鬚橋まで北上し、何時もどおり白鬚橋を渡り、件の落書き通りを通って帰宅した。
『最近 ホームシックでね。だから1週間だけ日本へ行く事にしました。きっと「誰かの」ブログのせいかと思いますが、、、 日本着は3日(金)。週末は海へ行く予定ですが、平日の予定は まだ殆どありませんので是非伺います。塾友中心で集まるなら、日程を決めましょう!』
昨夜、マイチに電話したけど、爺は10日には九州ゆきじゃ。6,7,8日の3日のうちに何とか集まれればよいのだが。あれやこれや考えているうちに、今朝は写真撮影をすっかり忘れてしまった。
白鬚橋を渡り、隅田公園に入ると、何となく言問橋から公園に入ってすぐの築山を写真に納めた。この築山こそかつて「蟻の街」のあったところなんじゃ。
築山 かつて蟻の街のあった所
第二次世界大戦後、職もなく、住む家もない人々が隅田川の言問橋の近くに集まって、「蟻の会」という共同体を作り、廃品回収で生計を立てていた。人々はここを「蟻の街」とよんだ。大学教授の娘で、恵まれた家庭に育った北原怜子(さとこ)というカトリックの女性はゼノという修道士から蟻の町の話を聞き、そこに出かけるようになり、献身的に蟻の町の子どもたちの世話をした。怜子は次第に持てる者が持たない者を助けるという姿勢に疑問を抱くようになり、自ら「バタ屋」となって廃品回収を行うようになったのじゃ。怜子はいつしか結核を患い、静養のために蟻の町を去ったそうじゃ。東京都はいく度となく、蟻の会に立ち退きを求めた。蟻の町を存続させるために、当時の蟻の会の人々は、教会を建てると言って、建物の屋根に十字架を取り付け、新聞にも取り上げられた。怜子の名は「蟻の町のマリア」として知られるようになっていたんじゃ。有名になった蟻の町に対して、都は代替地として「8号埋立地」を提示したが、都が示した条件は蟻の会にとっては厳しいもので、交渉は難航した。
一時蟻の町を離れて、病気療養をしていた怜子は病状が悪化し、これ以上治療方法がないと分かったとき、蟻の町に戻ることを希望した。十字架が立った建物に近い小部屋に住み、蟻の町のためにひたすら祈り続けたということじゃ。1958年1月19日、怜子の祈りが神に通じたかのように、都が蟻の会の要求を全面的に認め、蟻の町の「8号埋立地」への移転が決定し、その直後北原怜子は1月23日に28歳の若さで息を引き取ったということじゃ。
ガード下のまくらばし茶屋
待乳山聖天の天狗坂
上流
朝早くからの太極拳
木母寺の裏玄関
秋空に聳えるリバーサイド隅田
ワンさん夫妻の後姿
sechin@nethome.ne.jp です。
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