瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[369] [370] [371] [372] [373] [374] [375] [376] [377] [378] [379]
 先日10月1日文化の日に白鬚神社で江戸の漢詩人佐羽淡斎(さば たんさい) が隅田川について詠んだ七言絶句を、大窪詩仏が記したという「墨多三絶之碑」を見た。1.5メートルほどの高さの自然石の表面に、3つの漢詩が刻まれていた。佐羽淡斎は、桐生の豪商で、江湖社市河寛斎(1749~1820年、儒学者で詩人)の孫弟子、大窪詩仏の弟子であり、文化文政期に漢詩や南画をよくした知識人であったという。その説明板によれば「この碑(草書)は三囲神社の『本松斎一得翁之碑(隷書)』、隅田川神社の『無琴道人墓銘(楷書)』の両碑を加えて、大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。」とあった。
ab88c2f4.jpg
06531417.jpg こんなことが少々頭に残っていたので、今朝の徘徊は桜橋から青色御殿通りを抜けて、白鬚公園内にある隅田川神社へと向った。夜が明けて明るくなったのは白鬚橋に出た頃であった。先だって隅田川神社で岸田吟香翁碑を訪ねたときは直ぐに判ったのであるが、鳥居を潜って丹念に調べてみたが、並んでいる碑の中には該当するものがない。本殿の横の木陰に隠れてひっそりと鎮座ましましていた。最後の部分は辛うじて「文化二年 亀田興撰 大窪行書 廣群鶴刻」と読める。白鬚神社の説明板には、楷書と記されているのに「大窪行書(ぎょうしょ)」とは、どうなっているんだ。よくよく調べてみると大窪詩仏(1767~1837年)は幕末の漢詩人で、書画もよくし、名は行(こう)、字(あざな)はは天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく),痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)といっぱいあったようじゃ。これで「大窪行書」は(大窪行が書いた)という意だということが判った。しかし、書いてある内容に付いては殆ど判らない。無琴道人が如何なる人物かも全く不明である。
783a3549.jpg
013fb23b.jpg 隅田川神社から木母寺の裏を通って、水神大橋に出た。今日は、橋の上流側の歩道を歩くことにした。橋の東詰め見る限り、曙町団地はどうやら出来上がったらしい。橋の上からは旧堤防の残滓がのぞまれた。汐入公園の遊歩道を通り、明治通りを横切って件の落書き横丁を通り、帰宅した。

 東京の日の出は5時30分頃である。まだ暗い隅田公園を抜け、吾妻橋にかかる頃からようよう白け始め、都営浅草線の本所吾妻橋駅手前の浅草通りに入る頃になって、あたり一面が明るくなり、東の空が朝焼けに染まり始める。
 浅草通りが大横川を渡るところが業平橋(なりひらばしである。業平橋)は『伊勢物語』の主人公であるとされている平安時代の歌人・在原業平に因んでいる。川は橋のある部分も含めて部分的に埋め立てられたが、橋は残っている。また、隅田川に架かる吾妻橋の別称とも言われているということじゃ。この橋のこの辺いったいの地域も業平と呼ばれている。おなじ名前の橋が埼玉県にもあるが、奈良県・兵庫県にもある。埼玉県の業平橋は同じ由来を持つものであるが、兵庫県のものは在原業平が芦屋市に住んでいたことから、また奈良県のものは八尾市に伝わる『業平の高安通い』に因むものであるそうじゃ。
業平橋
bd384776.jpg東武橋
4f4537a1.jpg業平駅
742d499a.jpg





東武橋と東部ビル
84bf12d4.jpg東武橋上より亀戸方向を撮る
80f7114e.jpg東京スカイツリーの工事現場
d1e33355.jpg

 

 

 

 業平橋を渡って直ぐの通りの左手に東武橋がある。北十間川の4番目の橋が「東武橋」で、かつて、源森川(現・北十間川の隅田川から東武橋の間)は、ここで南に曲がり「業平橋(なりひらばし)」を経て大横川(現・大横川親水公園)に流れていたという。また、歌川広重の「小梅堤」(9月29日のブログ「小梅橋」参照)の題材になった曳舟川(現・曳舟川通り)も、ここから流れていたということじゃ。東武橋を渡ると東武伊勢崎線のガードがあり、その右手に業平橋駅がある。ちょうど、上り浅草行きの電車が出発するところであったので、カメラに収めた。この東武橋と次の京成橋の間に東京スカイツリー(新東京タワー)が出来るのだという。事業主体は、東武鉄道が出資する「東武タワースカイツリー株式会社」。2008年7月14日すでに着工しており、順調に進めば2011年12月竣工の予定という。
桜橋を潜る達磨船
f3e35674.jpg 東武橋から引き返し、北十間川の北側を源森橋迄進み、三つ目通りを北上、途中から水戸庭園を抜けて何時もの隅田川の遊歩道に出た。桜橋手前で、親船に曳かれて行く達磨船が桜橋を通過するところであった。桜橋を渡ると、言問橋までの遊歩道を南下し、隅田公園を抜けて、帰宅した。

 インターネットの毎日jpから次の記事を見つけた。
 卒業証書:戦後63年目の卒業式、7人が出席へ 門司高「最後の機会」
 ◇「右ハ昭和二十年三月三十一日本校ノ課程ヲ卒ヘタリ仍テ之ヲ證ス」
 戦時中、学徒動員などで卒業式に出席できなかった旧制門司中学校(北九州市門司区、現在の県立門司高校)の卒業生に来月7日、卒業証書が手渡される。「右ハ昭和二十年三月三十一日 本校ノ課程ヲ卒ヘタリ 仍テ之ヲ證ス」。戦後63年目にして初めて手にする卒業証書。大半が80代の卒業生たちは「証しがほしかった」と感慨を深くしている。
 門司高80年史によると、戦況の切迫で1944年5月から同校生徒も通年動員となり、8月からは1年生を除き軍需工場に動員された。翌45年3月に卒業式は開かれたが、多くが出席できなかった。
93650dca.JPG 同窓会などで卒業証書を受け取っていない人の話題が度々出る中、門司北高との統合で今年度で閉校となる門司高が「最後の機会」と企画。連絡可能な167人に案内状を送ったところ7人が出席することになった。
 柳田豊さん(80)=福岡県福津市=は40年に門司中に入学。4年生のころから飛行場建設などに駆り出され、5年生になってからは小倉の陸軍造兵廠で働き、一度も登校しなかった。その後、海軍に入り、終戦は神奈川県横須賀市で迎えた。
 卒業証書のことはずっと心残りだった。「お国のために働き、学校に行かなかったのではなく、行けなかった。あきらめていたが、門司中を出たんだという証しがほしかった」。既に亡くなった友人も多い。「代表という気持ちで受け取りたい」と語る。
 10月7日の「卒業式」には、最後の在校生となる3年生195人も列席する。出席者の一人で、戦後は母校・門司高教員として12年間勤めた久木田益さん(81)=山口県下関市=は「戦争末期は本当に悲惨だった。平和に勉学できる素晴らしさを今の子が分かってくれればいい」と話している。【佐藤敬一】(毎日新聞 2008年9月27日 西部夕刊)
 この記事の久木田益(すすむ)はこの爺の実兄なのじゃ。写真は海兵合格記念にとったもので、旧制の中学5年生(今でいえば高校2年生)のもの。
 

 昨日も今日も朝から雨。今日の徘徊は諦めたものの午後から雨も上がり薄日さえ射してきた。今日は都民の日で百花園は無料で入場できるし、萩も見ごろに違いないと、午後4時過ぎに家を出て百花園へと足を伸ばした。ハギを竹の柵にそわせてトンネル状にした園路は百花園の名物である。9月には全長約30mにわたって花のトンネルになるという。百花園に着いたのは4時半をすぎていて、園内には「七つの子」の曲が流れていて5時には閉園であることを知らせていた。
萩のトンネルの入り口で
c479b087.jpg秋の七草の碑
8212e581.jpg隅田川七福神の由来
a0823b2a.jpg

 

 

 


 ゆっくり秋の七草をカメラに収めようと思ったのだが、萩のトンネルを撮るのがやってであった。そばにいた中年の小母さんにシャッターを押してもらった。山上憶良の秋の七草の碑をカメラにおさめ、追い出されるように百花園を出ると入り口のところに隅田川七福神の由来の説明板があったので収めておいた。
鷲津毅堂碑
412af9ac.jpg鷲津毅堂碑の説明板
2ccee48c.jpg墨多三絶の碑
ec4fff75.jpg








墨多三絶の碑の説明板
53a1d3f7.jpg 百花園を出て白鬚神社の境内を通ると鷲津毅堂碑と「墨多三絶」の碑をカメラに収めた。
 墨堤通りを横切り、リバーサイド隅田の南側を通って件の青色御殿通りに出て、桜橋を渡って帰宅した。

 昨日は一日中雨。今朝もまだ降っている。
 今日は10月1日(水)で都民の日である。1952年に東京都が制定した記念日なんだそうじゃ。勿論東京都立および都内各市区町村立の学校は休校となる。また、都内に所在する一部の私立学校も休校となる。
1956年には東京開都500年(1457年に江戸城が築城された年を基準として500年目に相当)を記念して、都民の日に「大東京祭」が催された。その後は毎年恒例となり、1982年からは「ふるさと東京まつり」と改称された。大東京祭以降、東京都は毎年都民の日を記念したバッジを発売した。当初は彫刻家の朝倉文夫がデザインしていたそうじゃが、1959年からは漫画家の清水崑によるカッパをモチーフとしたデザインとなった。カッパが採用された理由としては、隅田川にカッパの巣が多くあったとする伝承によるのだそうじゃ。その後、バッジのデザインは漫画家の小島功に引き継がれ、カッパのモチーフもそのまま受け継がれることになった。
7c2d0226.JPG このバッジは都営施設の無料入場を認める際の目印として用いられ、都内窓口で一般販売を行った他、都内の小中学校などでも組織購入が行われた。このため、1960年代から1990年代ごろまでの間に都内で幼少期を過ごした世代には、カッパバッジとして広く親しまれることになったのじゃ。しかし、無料公開される施設が減少するなどバッジの目的が薄れたため、1997年の都民の日を最後にバッジの販売は行われなくなったそうじゃ。 全国的に販売が行われたわけではない東京ローカルのバッジのために都民以外にはまるで知られていなかったが、漫画「こちら葛飾区亀有公園前は出所」に登場したことで昭和にかつて存在した東京文化として広く知られるようになったのだそうじゃ。
0248d709.JPG あの水道局のマークと見違える東京都の紋章は昭和18年の東京都制施行の際、東京市のマークを受け継いだもので、このマークは、明治22年の東京市会で決定されたらしい。紋章の意味は東京の発展を願い、太陽を中心に6方に光が放たれているさまを表し、日本の中心としての東京を象徴しているのじゃそうだ。
 東京都シンボルマーク選考委員会が候補作品20点の中から一つを選定し、平成元年6月1日に、東京都のシンボルマークを制定した。このシンボルマークは、東京都の頭文字「T」を中央に秘め、三つの同じ円弧で構成したもので、色彩は鮮やかな緑色を基本とする。これからの東京都の躍動、繁栄、潤い、安らぎを表現したものなのだそうじゃ。
 昭和59年6月、「都の花選考会」で東京都の花が正式に決定された。ソメイヨシノは、江戸末期から明治初期にかけ、染井村(現在の豊島区駒込)に住んだ植木職人がヤマザクラの品種を改良したといわれ、満開時の見事さ、散りぎわの花吹雪は格別じゃが、爺の幼少期には軍国教育に利用されたので爺にとってサクラのイメージは好いものでなかった。爺になってから、これは何もサクラの所為ではないことに気が付いた。
 東京の木選定委員会で決定した三種の候補の木 (ケヤキ、イチョウ、ソメイヨシノ)について住民の一般投票を行ったそうじゃ。委員の大多数はケヤキに賛成であったそうじゃが、都民投票のとおりイチョウに決定した。昭和41年からイチョウが東京都の木となったのじゃ。イチョウは古代植物の生き残りといわれ、日本と中国の一部だけに現存している木で、公害や火にも強いため、街路樹としても使われている。
 鳥獣保護及び狩猟に関する法律の規定に基づき樹立した東京都鳥獣保護事業計画の都民の鳥の指定により昭和40年10月1日「ユリカモメ」に決定した。羽は白く、嘴と足が朱色の「カモメ」で、東京付近では、10月下旬から11月上旬にシベリア東北部、カムチャッカ方面から渡来して4月頃まで東京湾、隅田川、多摩川などに群れをなしてみられる。その姿は美しく、古来から詩歌や絵画の題材となっているが、とくに爺の住む直ぐそばの言問橋の謂れの在原業平の和歌の中に詠み込まれていることは有名じゃ。ミヤコドリの通称で知られ、他のカモメ類と同様に雑食性で、小魚類や、水棲昆虫などを採食している。
 雨降りにて、外にも出掛けられず、その間「都民の日」について考えてみた。

 今朝は土曜日に続けて、北十間川の3番手の橋である「小梅橋」を回った。
北十間川は、江戸時代に人の手によって掘られた人口の河川で、もともとは源森川の一部であったが、洪水によって水害が発生したことを機に、寛永12~3年に堰きとめられて以来、現在の東武本社の近くの業平橋(江戸時代からあった橋)から旧中川までの水を通じていない川であったという。 一方、源森川は、隅田川から業平橋のあたりで分断されて南に曲がり、大横川につながっていたということじゃ。大横川は、現在では”大横川親水公園”になってる。その後、明治18年に堰を取り除き閘門(こうもん)ができるようになって、隅田川から旧中川まで水が通じるようになったということじゃ。この後、源森川という名称はなくなり、隅田川から旧中川までを、北十間川とよぶようになったんじゃろうな。 いまでも、堰があった部分は、東京都の浄水施設があり普通に川が流れているわけではない。東武橋から小梅橋までは川が処理場のなかを流れていて、ここに処理場があることも、当時北十間川を堰きとめていた歴史の名残なのであろう。
89ffe9a2.jpg
1678b39d.jpg
1718c67d.jpg





86540bba.jpg


680e64a8.JPG
3b243794.JPG







 「小梅橋」は、新しいもので江戸時代や明治時代の地図にも出てこない。また、現在でも普通の地図では名前が書かれていない可哀そうな橋なんじゃと。江戸時代に描かれた隅田川向島絵図によると、現在の小梅橋を渡ったあたりのところに「小倉庵」(古地図で○で囲んで置いた)という料理屋があったらしい。江戸時代には、「今戸で大七 有明桜、小梅でおしるこ 小倉庵」とうたわれたほど有名だったそうです。 はじめておしるこを料理として出したのも小倉庵だそうですよ。“隅田川向島絵図”で、“小倉庵”の表記を見ることができます。ただ、残念なことに、幕末に旗本の青木弥太郎(やたろう・家禄二百石、元勘定衆)と強盗を働いた一味の一人に、この小倉庵の跡取り息子の長次郎がいたそうで、いろいろあって今では跡形もありません。古地図の右側の大きな川が、隅田川。地図の一番上を横に流れているのが、北十間川(きたじゅっけんがわ)。北十間川は業平橋(なりひらばし)のあたりで堰きとめられていたんじゃ。古地図の上の部分に「小梅村」と横に書かれているところが、新タワーの建設予定地なんじゃ。
9a09e91a.jpg
de0fd780.jpg いやはや小梅橋上で写真を撮っていると、ぽつりぽつりと雨が落ちだした。北十間川と浅草通りの間のみちを枕橋方向に進むと、源森橋の袂から路地の間から雲固様が黄色に輝いていた。急いで枕橋まで来ると、何時ものコースを桜橋まで進んだが、どうやら本格的に降ってきそうなので、桜橋をわたると、例の屋外プール脇の凸面鏡に写った長袖姿の己をカメラに収めると、そそくさと帰宅した。
 朝飯の時のNHKテレビで、工事に取り掛かった東京スカイツリーの現場のヘリコプターからの撮影が映っていた。間もなくして、そのヘリコプターの騒音が我家の今に流れ込んできた。今日からはじまる新しい朝ドラは、宍道湖の蜆とり漁師の娘と、祇園の舞妓の話らしい。双子の姉妹「佳奈・茉奈」が演じるのだそうじゃ。
 

 オーストラリアはシドニーに行っている婆さんの姪のMihoちゃんがホームステイ先のMr.Mとその両親を連れて、一時帰国した。すでに何日か前に来日して、京都・大阪・奈良・鎌倉見物を済ませて、明日は関空からオーストラリアに帰国するのだそうだ。
 Mr.Mは小さいながらも、塗装屋の社長さんだということである。両親は保険勧誘の仕事をしているらしい。なんでもMihoちゃんとMr.はメールをとおして知り合ったらしい。
雷門の交番横にて
37066fde.jpg宝蔵門にてMr.MとMihofa8cff41.jpg
宝蔵門にて全員で
fe77c41d.jpg





浅草寺境内で
6bf0af65.jpgむつみにてMr.の両親2d17f0d1.jpg
Mr.MとMihoちゃん
6337577e.jpg






むつみにて
44913c9c.jpgむつみにて両親を挟んで
ac4b2dcb.jpgこれから合羽橋へ
20d354c8.JPG





 正午に雷門で待ち合わせて、浅草寺を1巡して、釜飯屋「むつみ」で昼食をとった。日本食ブームで今は何処にでも日本料理を食わす店があるそうじゃ。てんぷらやすき焼きは今は異国の人にとって珍しいものではないという。まさか、どぜう鍋というわけにもいかないので、釜飯ということになった。昼食後、Mr.Mのお袋さんが料理が趣味だということで、台所用品が見たいということで合羽橋に行きたいということである。Mihoちゃんの従姉にあたる前のお家のTちゃん夫妻と家の婆さまで案内することになり、爺は一足先に帰宅した。合羽橋を回って家に再度案内するということなので、家で待っている間に本日撮った写真を整理し、ブログを書くことにした。

北十間川
1d9c37f7.JPG源森橋由来
d31b7bf2.JPG 北十間川というのは江東区亀戸付近にて旧中川と分かれ、ほぼ東から西へ伸びて墨田区向島付近にて隅田川とつながる、延長3.24kmの荒川水系の一級河川である。江戸時代初期に運河として開削され、川幅が10間(約18.18m)で本所(墨田区南部の商工業地区)の北を流れることから北十間川と呼ばれた。
このほとりに新しく東京スカイツリーが建設されるという。NHKと民放五社が計画を呼びかけてから五年、熾烈な誘致合戦を経て建設予定地の決定が下されてから三年、地上610メートル、事業総予算650億円のプロジェクトが三年半後2011年12月の竣工に向かって動き出した。7月14日、まずは午前、建設予定地である墨田区押上一丁目にて、「安全祈願祭」が行われ、午後は錦糸町駅前の東武ホテルに地元関係者が招ねかれ「記念式典」が開かれたそうじゃ。
源森橋南詰め
f9ff9523.jpg橋上より枕橋と水門を臨む
22d4bc9e.jpg源森橋北詰
e00b35d1.jpg





 隅田公園を抜けると何となく、吾妻橋を渡り、そのまま墨田区役所の表玄関前に出て、枕橋手前を右折すると、そこは源森橋であった。橋口に由来碑が立っている。
牛島神社
fdc9eec9.jpg水戸庭園よりの区役所75b78fda.jpg
桜橋辺りから北の朝焼けを望む
4e11eda0.jpg




 源森橋を渡り、水戸屋敷庭園を抜けて牛島神社前から言問橋袂の墨堤通りを横断し、何時もの遊歩道に入った。桜橋近辺から見る北方面は朝焼けで綺麗だ。そのまま白鬚橋まで北上し、何時もどおり白鬚橋を渡り、件の落書き通りを通って帰宅した。
 

 10月3日にアラリンが来日すると言う。爺とマイチ宛のメールに曰く、
『最近 ホームシックでね。だから1週間だけ日本へ行く事にしました。きっと「誰かの」ブログのせいかと思いますが、、、 日本着は3日(金)。週末は海へ行く予定ですが、平日の予定は まだ殆どありませんので是非伺います。塾友中心で集まるなら、日程を決めましょう!』
昨夜、マイチに電話したけど、爺は10日には九州ゆきじゃ。6,7,8日の3日のうちに何とか集まれればよいのだが。あれやこれや考えているうちに、今朝は写真撮影をすっかり忘れてしまった。
 白鬚橋を渡り、隅田公園に入ると、何となく言問橋から公園に入ってすぐの築山を写真に納めた。この築山こそかつて「蟻の街」のあったところなんじゃ。
築山 かつて蟻の街のあった所
a516119b.jpgかつての蟻の街教会
b5eb02bc.JPG自らバタ屋になって
c48a7b96.JPG






 第二次世界大戦後、職もなく、住む家もない人々が隅田川の言問橋の近くに集まって、「蟻の会」という共同体を作り、廃品回収で生計を立てていた。人々はここを「蟻の街」とよんだ。大学教授の娘で、恵まれた家庭に育った北原怜子(さとこ)というカトリックの女性はゼノという修道士から蟻の町の話を聞き、そこに出かけるようになり、献身的に蟻の町の子どもたちの世話をした。怜子は次第に持てる者が持たない者を助けるという姿勢に疑問を抱くようになり、自ら「バタ屋」となって廃品回収を行うようになったのじゃ。怜子はいつしか結核を患い、静養のために蟻の町を去ったそうじゃ。東京都はいく度となく、蟻の会に立ち退きを求めた。蟻の町を存続させるために、当時の蟻の会の人々は、教会を建てると言って、建物の屋根に十字架を取り付け、新聞にも取り上げられた。怜子の名は「蟻の町のマリア」として知られるようになっていたんじゃ。有名になった蟻の町に対して、都は代替地として「8号埋立地」を提示したが、都が示した条件は蟻の会にとっては厳しいもので、交渉は難航した。
一時蟻の町を離れて、病気療養をしていた怜子は病状が悪化し、これ以上治療方法がないと分かったとき、蟻の町に戻ることを希望した。十字架が立った建物に近い小部屋に住み、蟻の町のためにひたすら祈り続けたということじゃ。1958年1月19日、怜子の祈りが神に通じたかのように、都が蟻の会の要求を全面的に認め、蟻の町の「8号埋立地」への移転が決定し、その直後北原怜子は1月23日に28歳の若さで息を引き取ったということじゃ。
東武浅草駅のホーム
1b307c26.jpg朝まだきの浅草松屋
84128904.jpg 隅田公園で、なにやら冷たいものがポツリと落ちてきた。暗いので空模様はよく判らない。まあ、降ってきたら、言問橋か桜橋を回って帰ればよいと、そのまま歩を進めることにした。花川戸の入り口のところから東武伊勢崎線浅草駅が丸見えだ。どうやら雨模様らしいので、駒形橋まで足を伸ばすのはやめて、吾妻橋を渡る。

ガード下のまくらばし茶屋
61f5f4d7.JPGまくらばし茶屋の位置
a2201f0b.JPG お彼岸の日の昼飯時にワイドスクランブルで、最近出来たまくらばし茶屋を取り上げていたのを思い出し、東武伊勢崎線のガード下にある「まくらばし茶屋」をカメラに収めたが、まだ朝が明けきっていないのでうまく撮れなかった。ここは今度できる東京スカイツリーと浅草繁華街の中間地点に当たり、なんでも墨田区の町おこしプロジェクトが組まれているらしい。
待乳山聖天の天狗坂
1bbd3e30.jpg 墨田区側の遊歩道辺りで、どうやら雨になるような空模様であったのでそのまま桜橋を渡って、帰宅した。待乳山聖天の天狗坂は毎日のように見ている景色であるが、まだカメラに収めていないはずなので、撮らせていただいた。今は階段になっているところは昔は急な坂道であったのじゃろう。

朝まだきの隅田川 下流
72cb02e7.JPGかすかに浮かぶリバーサイド隅田
 上流
cc433b0e.JPG朝焼けに映える水神大橋
3e0b4565.jpg




 朝早くからの太極拳
d880e3cb.JPG 東京の夏至の日の出は4時25分、秋分の日の出は5時29分であるから、1時間の違いがある。朝5時はまだ暗い。隅田グラウンドのテラス降り口で隅田川の朝まだきの写真を撮ってみたが、爺の安デジカメでうまく写るや否や。白鬚橋にかかるころには、あたり一面の景色がみえるようになる。明治通りを横切って、汐入公園の遊歩道に入る頃、東の空は朝焼け、水神大橋のブルーが映えて見える。昨日とは逆のコースをとったので、例の太極拳のグループは少しの人数しか集まっていなかったが、先生について練習に余念がない。
木母寺の裏玄関
cf5c3236.jpgとある区議の顕彰碑
24ffd342.jpg2つの石碑
9ea2a085.jpg







 秋空に聳えるリバーサイド隅田
67719ab7.jpg 水神大橋をわたると、東白鬚公園と高速6号線の間に道が通っている。初めてであるが、ここを歩いてみることにする。木母寺の裏手に出た。『日露戦役従軍記念碑』『大正震火災横死者追悼之碑』と並んで松野緑之助(墨田区議会議員)の顕彰碑が立っている。この道は隅田川神社のところで、公園に通じている。公園内の遊歩道を何時もとは逆方向に歩いたわけだが、澄み切った秋空にリバーサイド隅田のビルが一際高く聳え立っている。
ワンさん夫妻の後姿
27add118.JPG 明治通りを横切り、白鬚橋の手前から青色御殿を何時もとは逆方向に歩いていた。ふと振り返るとワンさん夫妻が同じ方向に歩いてくるのが見える。爺に追いつくと、しばらく爺の歩みに合わせて歩いてくれた。桜橋手前で、先に行っていただいた。爺はそのまま桜橋を渡って帰宅した。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
02 2025/03 04
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/