瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昼飯前に昨日と同じ道筋をもう1度歩いてみた。
ゲゲさんの整骨院
00c92c58.jpg 本性寺を過ぎて、間もなく出山寺がある。この寺は義弟の眠る寺であるが、境内に采女塚がある。門扉が閉ざされていたので、そのまま素通りして、清川1丁目と2丁目の堺の通りを渡って、ふと見ると塾友のゲゲさんがやっている整骨院が目に入った。先日の忘年会でちらりと聞いてはいたが、はじめてゲゲさんの店を確かめることが出来た。丁度忙しい時刻だと思ったので、訪ねることはせずにそのまま素通りした。
平賀源内の墓を示す碑
2df13598.jpg平賀源内の墓所
410ea2fb.jpg源内の墓所の説明板
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源内の墓と肖像画
c168a791.JPG 一旦明治通りに出て白鬚橋方向に歩くと、「史蹟平賀源内先生之墓」という碑が目に入った。ここから再び南に路地を入ったところに、墓所があったが、ここも門が閉ざされていて中に入ることは出来なかった。ここは、総泉寺といい室町以来、江戸絵図にも出てくる禅宗の古刹であったが、昭和4年に板橋区に移転して今はない。この寺は当初浅草橋場にあり、京都の吉田惟房の子梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため庵を結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得、弘治年間(1555~1558年)千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣(1570~1633年)によって再興され、江戸時代には青松寺、泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった。1923年の関東大震災で罹災したため、昭和3年に現在地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至っている。
平賀源内(ひらがげんない、17281780)については、承知のように天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残し、また平賀焼などの焼き物を作成したり、多彩な分野で活躍した。男色家であった為、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、2代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名。『解体新書』を翻訳した杉田玄白(17331817年)をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや(貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬとき位は畳の上で普通に死んで欲しかった。)とあるそうで、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。酔って記憶があいまいだったとは言え、勘違いで人を殺してしまった源内、安永8(1779)年1121日、小伝馬町の牢獄につながれ、刑が確定しないまま、1218日に死亡してしまったそうじゃ。破傷風だったとも、自殺だったとも言われているそうじゃ。有名人の源内が殺人を犯し、牢獄で死亡… しばらくの間、江戸ではこの話で持ちきりだったそうじゃ。田沼意次が事件の黒幕だという小説が出たり、牢を抜け出し蝦夷に渡ってアイヌの英雄になったという噂がでたりもしたということじゃ。科学者としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布の開発がある。一説には竹とんぼの発明者とも言われ、これを史上初のプロペラとする人もいる。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたと言われる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。『エレキテル』は、故障していたオランダ製のものを修復したものであり、その原理については源内自身はよくわかっていなかったとする説が有力である。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告が元との説が文政5年(1822年)の『明和誌』にある。また、明和6年(1769年)にはCMソングとされる、歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永41775)年には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらを以て日本におけるコピーライターのはしりとも評される。浄瑠璃作家としては福内鬼外の筆名で執筆。時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝(17491823年)の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764(明和元年) に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。鈴木春信(1725?1770年)と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会『東都薬品会』が開催されたということじゃ。爺達が文章の「起承転結」を説明する際によく使われる、「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す」の作者は源内である聞いたことがある。

 昼飯前に今戸から清川、石浜辺りを徘徊した。
清川町にある本性寺
5bf1ee02.JPG境内に立つ日蓮辻説法の像
005fe23f.jpg 清川1丁目の本性寺に立ち寄った。本性寺は池波正太郎の「剣客商売」で、秋山小兵衛の亡妻で大治郎の実母・お貞と、同門の剣客・嶋岡礼蔵の墓があることになっている。法華宗の当山がなぜ秋山家の菩提寺になったのだろうか。小兵衛がまだ青年時代の頃、悪質の痔疾に苦しんだ酒問屋の主の岡田某が、剃髪して当山で唱題修行に励んだがその甲斐なく遷化、法号を「秋山(しゅうざん)自雲」とした。池波正太郎先生 がこの自雲の掲示に目をとめ、「おや、秋山(あきやま)。これもなにかの縁」と小兵衛の女房で、大治郎の実母であるお貞をこの寺に葬ったのに違いあるまい。
亀田鵬斎の詩碑
560bcd9d.jpg詩碑の拓本
f4a0ef4b.JPG 石浜神社の境内に亀田鵬斎(ぼうさい)の詩碑があるというので立ち寄った。全面に隅田渡津の歴史を詠んだ七言律詩二首と稲垣成斉による建碑の由来を刻む
 亀田鵬斎については、前にも書いたと思うが、谷文晁(1763~1841年)、酒井抱一(1761~1829年)らとともに江戸時代後期を代表する儒学者で、宝暦2(1752)年、江戸神田に生まれた(異説では群馬県上五箇村が出生地という)。名は翼(よく)といい、のち長興といった。折衷学者井上金峨(きんが、1732~1784年)に学び、山本北山(1752~1812年)とともに荻生徂徠(そらい、1666~1728年)の古文辞学を排撃し、朱子学を批判したために、寛政異学の禁では異端の筆頭と目されていた。書をよくし、草書は近世を通じての名手といわれている。晩年は下谷金杉に暮らし、「金杉の酔先生」と呼ばれて親しまれた。文政9(1826)年、75歳で没したということじゃ。
 

 昼飯後、桜橋を渡り、水戸街道に出た。水戸街道を明治通りの向けて歩くと、路地の間から神社らしい建物があるので、立ち寄ってみた。墨田区向島4丁目にも秋葉神社があった。
 秋葉神社(あきばじんじゃ。地方によっては「あきはじんじゃ」とも読まれる。)は日本全国に点在する神社で、神社本庁(秋葉山本宮秋葉神社。浜松市天龍区春野町領家にある神社。秋葉大権現という)傘下だけでも約400社あるという。神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、殆どの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない。祠の場合は火伏せの神でもあるため、燃えにくい石造りの祠などが見かけられる。小さな祠であることが多く、一つの町内に何箇所も設置されている場合もある。台東区松が谷にある秋葉神社は、電機街「秋葉原」の名称の由来として知られている。
向島秋葉神社
0216ab14.jpg秋葉神社由緒75ddc1f9.jpg
秋葉大神
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    石灯籠
1deb8185.jpg石灯籠説明板72ce5721.JPG 
 ここ向島の秋葉神社は由緒は説明板にある通りだが、「石灯籠」の説明にあるように、秋葉神社の紅葉は江戸中になりひびいていた。また境内に諸々の病に効く神泉が湧き出るとして多くの人が神泉をもらいに来ていたという。
東部橋から見た建設現場
5a7c7178.jpg 小布施牛乳はいかが
0713ff10.jpg 東武伊勢崎線の業平橋駅から曳船駅までは曳船川通りで一直線なのだが、小梅通りは曳船川通りとわずか家一軒か二軒隔てて平行した水戸街道寄りの裏通りである。この小梅通りを南下して東武橋上に出た。この業平橋駅と京成の押上駅の間が東京スカイツリーの建設地である。東武橋の上から見る限り、作業はまだそんなに進んでいる様子ではなかったが、土砂を積んだトラックの出入りが激しいようじゃ。
 北十間川の南側の沿道を通って枕橋に出た。枕橋を渡ると、枕橋茶やの女将さんが大声を上げて小布施牛乳を売っていた。挽きたてコーヒーを飲み、牛乳1パックを買って、言問橋を渡り帰宅した。
 郵便局に立ち寄り、先日来木母寺にあるという「題隅田堤桜花」の碑を探しに木母寺の境内に行った。
 途中汐入公園は北から吹きつける風が冷たかったが、陽だまりの堤防の上でユリカモメが日向ぼっこをしていた。
ユリカモメの日向ぼっこ
bda11ec1.jpg身代わり地蔵
4b8869b7.JPG題隅田堤桜花f0a1c892.JPG







 梅若堂の直ぐそばに「身代わり地蔵」ある。説明板は墨が剥れ、よく読めないので、書きとめておいた。
 碑はすぐに見つけることが出来たが、9歳の清水孝なる坊やが書いたというのだが、この坊や何処の誰かは皆目わからない。
蛇身弁天
7670b3d6.jpg 本堂の裏手の方に回ると蛇身女頭の像があった。どうやらこれは弁天様ということだ。
弁天は、古代インドにおける川の神(女神)でSaraswati(サラスヴァティ)といい、水神、農業神として崇拝されたという。仏教の守護神として日本に入ってきた当初は、8本の腕に宝珠・剣・弓矢・金剛杵等を持った姿(八臂像)だったが、鎌倉時代になると2本の腕(二臂)で膝を立て琵琶を弾く姿(像)が一般化し、芸能の神様ともいわれるようになった。弁天は、学問・弁舌・音楽・除災・財宝・至福を与える神で、農業神・海上神・福徳神などとして人々の願いを聞きとどけてくれる女神と信じられている。江戸時代には、当初の弁才天から、より現世利益の「財」を強調した弁財天と呼ばれて、七福神の一神ともされた。 神道では、天照大神との誓約(ウケイ)の際に須佐之男命の剣から生まれた三女神(宗像三女神=海上交通安全の神)、特に、そのうちの一人、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)を弁財天として祀る。さらに、弁天は日本神道古来の神である宇賀神(日本で中世以降信仰された民間信仰の神)とも習合して一体化し、弁天の頭上に宇賀神が載っている像やここ木母寺のように蛇身の弁天像もあるという。宇賀神は日本固有の神で、老人の頭を持ち身体は白蛇(人頭蛇身)の姿をしていて、農業・食物・財福の神とされるいうことじゃ。
 昨日は1日中雨。N兄に頼んでいた、みなと外誌のゲラ校正が届いたので、1日中プリンターのかけっぱなし。
 今朝は朝から良い天気で、日当たりに出るとポカポカの小春日和。昼食後、浅草寺の羽子板市に行った。江戸時代から現代に至るまで浅草寺では12月17~19日までの3日間「羽子板市」が開催されており、毎年大勢の客が訪れることで有名である。押絵羽子板の産地としては埼玉県春日部市とさいたま市岩槻区(旧岩槻市)が有名。
まずは、浅草寺にお参り
a891f13f.jpg豪華絢爛羽子板市
44f57464.jpgミニチュア飾り羽子板を購入
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 羽子板がお正月の遊戯や贈り物に用いられたのは室町時代という。当時の「看聞御記(看聞日記、伏見宮貞成親王の日記、1416~1449年の33年間にわたる日記、54巻)という書物には、永亨4年(1432年)に宮中で、「こぎの子勝負」という羽根突きが催されたことが記録されている。公卿や女官が羽根つきをし、負けた組が酒を振舞ったという。中国の14世紀頃に硬貨をつけ錘とした羽根を蹴る遊びがあり、室町時代にこれが日本へ伝来、これが羽根つきの起源であろうとされているのじゃ。戦国時代から羽根つきに厄払いの想いがあり、江戸時代は年末に邪気よけとして羽子板を贈ったということじゃ。
凧を専門に売っている店もある
36ae61a3.jpgミニチュア羽子板専門の店
23d219ff.jpgガサ市
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 羽子板(はごいた)は、長方形で柄のある板で、羽根突きに用いる競技用の羽子板と、飾り羽子板に分別(分  別)できる。当初は羽根突きの道具として用いられたが、徐々に厄払いとしても使われるようになり、魔除けとして正月に女性に贈る習慣も出来たとされている。江戸時代に入ると、歌舞伎役者などをかたどった教え羽子板が流行し、現代では東京の伝統工芸品に指定されているという。また、羽子板市では株式会社久月が、その年に話題となった有名人を素材にした変わり羽子板を作成、出展している。
 奥山風景も、平成中村座も取り払われ、この跡地で12月15~27日にはガサ市が開かれている。業者はこのガサ市で品物を取りそろえ、 大晦日が近づくと町角に店を出して一般の人に売り出す。品物にワラなどが多く、箱からの出し入れに「ガサガサ」と音を立てるところからこの名がついたという。
 一昨日15日(月)は、賀状作りに1日を費やした。
 2・3日前に船橋に住むチャボから電話が入り、Kと浅草で「関西風」おでんを食いたいのだがというが、おでんの発祥はもともと関東。我々関東以西育ちのものは幼少時は「関東煮」と呼んでいた。はて? 関西風のおでんとは? 考えていると、電話の向こうで、「いつかお前に連れて行ってもらった店があるじゃないか?」という。「ああ、『ひょうたんなべ』か」ということで、その場所をメールで送っておいた。
チャボとK
be7bbaa5.jpg3人で、シャッターお願い
911be08e.jpg お嬢さん方も忘年会
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 メールで写真お送りしますよ
02adbafb.jpg 14日(日)に、この爺も一緒に合流しないかということでチャボから電話が入り、16日(火)、雷門交番前で待ち合わせ、「ひょうたんなべ」に立ち寄った。隣の席に4人連れの客があったが、そのうちの女性の1人にデジカメのシャッター押しを頼んだ。チャボが「お礼に写真を撮って、送って上げたら? 」というので、写真2枚を写し、メールアドレスの入った名刺を戴いた。2時間ばかり経って何時もの「鉢の木」に行ってみたが、7時前というのに閉店、一寸先の喫茶も7時に閉店するという。じゃ、神谷バーで呑み直そうと、神谷バーまで行くがここも休業日で閉まっている。
友路有の入り口
124ec334.JPG昭和のブレンドコーヒー
449ae0e9.jpg 7時10分のいわれ6c0cf522.jpg






 マスター「はい、チーズ」
6a58f99f.jpg というわけで、観音通りから新仲見世に入ると、チャボとKが待ち合わせ前に立ち寄ったという喫茶店に行こうということで方々捜し歩いて、舟和の手前にある「友路有(トゥモロー)」という喫茶店に入った。ここの時計全て7時10分で止まっている。女の子にその謂れを聞いてみたら、貼紙をさしながら説明してくれたが、よく判らない。その貼紙をデジカメに納め、7時10分を指した時計も入れておこうと、チャボ・K・女の子3人をいれて写真を撮ろうとしていると、マスターがでてきて、4人と時計を入れてシャッターを押してくれた。東武線浅草駅の前で2人と別れて、家に着いたのは午後8時であった。
浅草は17・18・19日と羽子板市。その所為でもあるまいが、早仕舞いの店が多い。
 昨夕は、塾友会の忘年会。
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e12aa625.JPG(1)MN君、爺のパソコンの先生。90歳になる母上が入院されたばかりで、会に出席はできないが顔見世に立ち寄ったとのことで、早々に帰宅。
 (2)JN君、通称ナルちゃん。奥さんも塾友。 (3)HO君、介護関係の仕事をしているらしい。 (4)YH君、(1)のMN君とは同期。 (5)TS君、通称セキちゃん。 (6)TKさん。通称タマちゃん。勤務先等不明。あまりしゃべりたがらない。 (7)KKさん、(4)のYH君の姉上。旦那は現在中国に出向中。 (8)HM君。毎年横浜から夫婦して自家用車で参加。帰途は爺婆を家まで送ってくれる。 (9)TN君、通称ナベちゃん、保険会社勤務。 (10)TK君、大手不動産会社勤務 (11)SK君、通称クリちゃん。臨海学校「仁科の海」の作曲者。埼玉では有名なM百貨店の重役さんになったとか。 (12)TS君、奥さんは家の婆様と体操教室で一緒らしい (13)YM君、通称マイチ。(9)のナベちゃん、(11)のクリちゃんと同期の花の二八組の中心的人物 (14)TY君、自性院さん。通称トールちゃん。現在幼稚園勤務。只今愛犬ココアに夢中。 (15)KH君、永年勤務したヤマケイも、来年は還暦で定年だそうだ。 (16)KK君、通称コウちゃん。東松山市立病院の外科部長さん。 (17)WO君、医王院さん。通称ワンさん。 (18)AKさん、今も看護師さんの仕事をしているらしい。 (19)MH、言わずと知れた爺のカミサン。 (20)KYさん、通称カヨちゃん。習字塾をしていたはずだが、いまもしているのかな? (21)CKさん、通称チエちゃん。(9)のナベちゃんのカミサン。 (22)MOさん、(19)のワンさんのカミサン。 (23)YMさん、(8)HM君のカミサン。 (24)この爺さん、このブログの管理者。
以下、忙しい中にもかかわらず、遅れて参加した方
(25)HI君、通称イケさん。IBM勤務。 (26)KM君、通称ゲゲさん。清川で整骨院の院長さん。 (27)KS君、通称コーシ。ディズニーランドでケーキ作りに専念している職人さん。 (28)MN君、通称チャキちゃん。市立リハビリテーション病院の院長さん。(1)のMN君の兄上。
「学は以って已むべからず、青はこれを藍より取って藍より青く、氷は水これをなして水よりも寒し」(荀子・勧学編)というが、爺は何も先生らしいことはしなかったのに、この瘋癲爺のところに、これだけの錚錚たるメンバーが集まってくれるのはありがたいこっちゃ。
 TAKEYAさん、どうもありがとうございました。
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 今日ポカポカの小春日和、朝食を済ませると石浜通北上、汐入公園から水神大橋を渡り、木母寺へ。ここは何時も通る道なのであるが、朝早くは門が閉まっていて境内に入れない。
梅若橋
ed5cbb01.jpg梅若橋より木母寺を望む
2cb97646.jpg境内入口の碑の説明板
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 入口に「境内の諸碑」という説明板が掲示されていた。
華笠文京翁之碑
ff52947f.jpg 華《花》笠 文京(1785~1860年、仮名垣魯文の師匠)の碑は梅若堂の直ぐそばにあった。幕末期に活動した狂言作者 兼 戯作者である。江戸に生まれ、四世鶴屋南北に師事。別名に花笠魯助(魯介)、代作屋大作がある。弟子に仮名垣魯文がいる。1811年市村座の「厳島雪官幣」で狂言作者・花笠魯助の名が確認できるという。
天下之糸平之碑
ff2c61aa.jpg 田中平八(1834~1884年)は、天保5年7月11日、信州赤穂(長野県駒ヶ根市)に藤島卯兵衛の第三子として生まれた。生家は資産家であったが、米と綿相場で失敗し、没落。飯田の田中安兵衛の娘・田中はると結婚し、田中姓となる。慶応元年、横浜南仲通三丁目で、糸屋平八商店を開業し、両替商と生糸・茶などの輸出をはじめる。一時藤田小四郎らの筑波山挙兵に参加し、獄に在ったが、再び生糸・為替・洋銀・米相場で巨利を得る。明治の花柳界で遊び上手として、「糸屋の平八」「天下の糸平」の名は知られたという。どうして木母寺の境内にこんな碑があるのか、訊ねてみたが詳細は良く判らないらしい。

三遊塚 右は浄瑠璃塚
af6e1e97.jpg歌曲「隅田川」の碑
7c995a35.jpg 三遊亭円朝(1839~1900年)が明治22(1889)年に建立したという三遊塚があって、三遊派一門43名を集め、師匠である初代・2代円生の追福を祈念して建てたものだと伝えられている。この碑と並んで、浄瑠璃塚の碑も立っている。元落語教会会長であった三遊亭円歌は「三遊亭の謂れは?」と訊ねられて、「それは、飲む・打つ・買うに決まってるじゃないか」と応えるのを聞いたことがある。
この他歌曲「隅田川」の碑などもあったが、説明板にあった亀田鵬斎の「題隅田堤桜花」の碑が見つからない。また日を改めて探してみることにしよう。
現代美術製作所
39f976fd.jpg熱心な鑑賞者
e44f2e46.jpg 枕橋茶やのK氏との約束もあるので、12月7日(日)、現代美術製作所に撮影会を見学に行った。会場は若い人ばかりで、年寄りはこの爺と婆だけであった。その所為もあるのか、一般に理屈っぽくで爺婆には判りづらいことばかりであったが、その中にあって「ふと木歩という名をおもう」は秀逸であった。Sさんという30歳前後の新進女流作家の作品であるが、とても判りやすく、見事な作品であった。枕橋茶やのK氏夫妻のナレーターも一段と冴えていた。他の作品が理解しにくいものであっただけに、余計にそう思ったのかもしれない。
 昨日は、N兄推奨のNHK ドラマ「最後の戦犯」を見た。まあ、作品の中で断ってある通り、フィクションを交えてのことであろうが、我々の世代の心の琴線に響くドラマであった。
 今日は風邪気味。一寸動くと鼻水がダラダラ。徘徊も止めた。
 昼から徘徊に出かけた。
 枕橋茶やに立ち寄り、コーヒーを飲む。
枕橋茶やの路地琴
09d37d1d.jpg冨田木歩の版画
d0dd3848.JPG 茶やの旦那が、路地琴を置いたので、聞いてくれという。百花園にある水琴窟を据え置き型にしたもので、上から柄杓で水を入れると、壷の中で反響・共鳴してキーン・コーンときれいな音色を奏でる。
 明日は、この枕橋茶やのKさん夫妻が声の出演をするという「ふと木歩という名を思う」という映像作品の上映があるという。約20分の上映で、場所も東武線東向島駅の近くというから、徘徊もこれにあわせて、立ち寄ってみようと思う。
人力車の一団
2ca47c01.jpg 吾妻橋を渡り隅田公園を抜けていると、人力車の一団とすれ違った。最近は若い女性のお客さんが多いようだ。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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