瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 今日ポカポカの小春日和、朝食を済ませると石浜通北上、汐入公園から水神大橋を渡り、木母寺へ。ここは何時も通る道なのであるが、朝早くは門が閉まっていて境内に入れない。
梅若橋
ed5cbb01.jpg梅若橋より木母寺を望む
2cb97646.jpg境内入口の碑の説明板
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 入口に「境内の諸碑」という説明板が掲示されていた。
華笠文京翁之碑
ff52947f.jpg 華《花》笠 文京(1785~1860年、仮名垣魯文の師匠)の碑は梅若堂の直ぐそばにあった。幕末期に活動した狂言作者 兼 戯作者である。江戸に生まれ、四世鶴屋南北に師事。別名に花笠魯助(魯介)、代作屋大作がある。弟子に仮名垣魯文がいる。1811年市村座の「厳島雪官幣」で狂言作者・花笠魯助の名が確認できるという。
天下之糸平之碑
ff2c61aa.jpg 田中平八(1834~1884年)は、天保5年7月11日、信州赤穂(長野県駒ヶ根市)に藤島卯兵衛の第三子として生まれた。生家は資産家であったが、米と綿相場で失敗し、没落。飯田の田中安兵衛の娘・田中はると結婚し、田中姓となる。慶応元年、横浜南仲通三丁目で、糸屋平八商店を開業し、両替商と生糸・茶などの輸出をはじめる。一時藤田小四郎らの筑波山挙兵に参加し、獄に在ったが、再び生糸・為替・洋銀・米相場で巨利を得る。明治の花柳界で遊び上手として、「糸屋の平八」「天下の糸平」の名は知られたという。どうして木母寺の境内にこんな碑があるのか、訊ねてみたが詳細は良く判らないらしい。

三遊塚 右は浄瑠璃塚
af6e1e97.jpg歌曲「隅田川」の碑
7c995a35.jpg 三遊亭円朝(1839~1900年)が明治22(1889)年に建立したという三遊塚があって、三遊派一門43名を集め、師匠である初代・2代円生の追福を祈念して建てたものだと伝えられている。この碑と並んで、浄瑠璃塚の碑も立っている。元落語教会会長であった三遊亭円歌は「三遊亭の謂れは?」と訊ねられて、「それは、飲む・打つ・買うに決まってるじゃないか」と応えるのを聞いたことがある。
この他歌曲「隅田川」の碑などもあったが、説明板にあった亀田鵬斎の「題隅田堤桜花」の碑が見つからない。また日を改めて探してみることにしよう。
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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