瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昼飯前に山谷堀公園の吉野橋から北上し、地方橋通の1つ先の路地を入ったところにある春慶院を訪ねた。



ここには2代目高尾太夫の墓がある。この高尾太夫は世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説を生んだ。細部にまで意匠をこらした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ1.5m、正面に紅葉紋様があり、中央から下に楷書で「為転誉妙身信女」、その下に「万治二年己亥」、左に十二月五日」と戒名.忌日が刻まれている。右面に遺詠、「寒風にもろくもくつる紅葉かな」と刻む。巷説に、仙台の大名、のちの伊達騒動の悲劇の主人公になる伊達綱宗とのロマンスがあり、高尾の綱宗にあてた手紙の一節、「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいま駒形あたりほととぎす」の句が伝えられている。

春慶院と背中合わせに路地1つを隔てて東禅寺がある。この寺の正面に銅像地蔵菩薩坐像がある。宝永7(1710)年、江戸六地蔵の2番目に奥州街道の旅人の安全を祈願して建立されたものだという。

再び吉野通に出ると、昨日通ったあさひ会商店街を抜けると、左折して明治通に出る。白鬚橋を左に台東区側の遊歩道を南下。この道は午前中は陽だまりとなっていてポカポカと暖かい。桜橋脇のテニスコートはテニスをする人で賑わっているし、山谷掘水門の脇では何処かの保育園の園児達が保母さんに見守られながら元気良く楽しそうに遊んでいた。テレビの天気予報では今日は3月上旬の陽気だという。もう春なのだ。
ここには2代目高尾太夫の墓がある。この高尾太夫は世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説を生んだ。細部にまで意匠をこらした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ1.5m、正面に紅葉紋様があり、中央から下に楷書で「為転誉妙身信女」、その下に「万治二年己亥」、左に十二月五日」と戒名.忌日が刻まれている。右面に遺詠、「寒風にもろくもくつる紅葉かな」と刻む。巷説に、仙台の大名、のちの伊達騒動の悲劇の主人公になる伊達綱宗とのロマンスがあり、高尾の綱宗にあてた手紙の一節、「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいま駒形あたりほととぎす」の句が伝えられている。
今日は「建国記念の日」。昭和20(1945)年までは四方拝・天長節・明治節とともに紀元節と呼ばれ、四大節(しだいせつ)の一つであった。
今朝は、山谷掘公園を抜けて、地方橋通り→吉野通り→アサヒ会商店街を通り、白鬚橋を渡り、川沿いの遊歩道(青御殿通り)を南下、桜橋を渡って帰宅した。



今戸橋から公園に入り、聖天橋、吉野橋から吉野通り突ききって公園はまだ続く。明治2年、新鳥越町(元の鳥越町の替え地として新鳥越町が出来た)は吉野町と町名変更になった。この町名は、この辺り一面は野原であったので、野の上にめでたい吉の字を冠して付けたもので、同時に山谷橋も吉野橋に改称されたそうじゃ。江戸時代は、浅草橋.蔵前.浅草.千住と続く奥州街道であり山谷堀の今戸橋から3つ目、吉野橋をまたいで南北に走り北進して日光街道(旧奥州裏街道)と合流する通りである。
さらに、正法寺橋・紙洗橋・地方橋から地方橋通りを進むと再び吉野通に出る。
浅草紙(あさくさがみ)は、江戸(現東京)の浅草・山谷・千住などで製造された漉(す)き返しの紙、今でいう再生紙である。墨が付いた屑紙(故紙・廃紙・反故《反故》紙、今の古紙)を水に浸し、叩いて砕き、漉く程度の、非常に簡単なもので、墨などがよく除かれていないため鼠(ねずみ)色をしており、よく見ると紙全体にムラが多く、文字が書かれたままの紙片や、人の髪の毛なども混じっていることもあったという。悪紙(わるがみ)とも言われ、粗悪で下等の紙質であったが安価な塵紙で、江戸庶民に親しまれ、主に鼻紙や落し紙(今のトイレットペーパー)などに常用されたと言われます。また、浅草紙は江戸の名産品の一つとなり、後に漉き返しによる質の悪い紙の代名詞ともなり、漉き返し紙を代表する総称にまでなったものじゃ。
「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」(喜多村信節著、文政13(1830)年刊)は江戸時代の百科事典であるが、そこには「ひやかし」の語源について、「山谷にはすきかえし紙を製するもの多く、紙のたねを水に漬けおき、そのひやくる迄に、廓中のにぎはひを見物して帰るより出でる詞《ことば》なり)と解説されている。



吉野通りを北上し、アサヒ会通を西に進み、橋場に入る頃アサヒ会通の西端入口時計は午前7時を指そうとしていた。橋場にはいって、2つ目の路地に「お化け地蔵」が見えた。この地蔵は普通の地蔵の2倍もある大きさで、こんなに大きな地蔵は珍しいと地元の人たちは自慢するそうじゃ。確かに大きい点でもお化けだが、白井権八がこの地蔵の陰に隠れて辻斬りをやり、地蔵に向かって「知らんふりをしろ」といったら「お前こそ人に言うではないぞ」と地蔵が答えたというので、さずがの権八も度肝を抜かれたという伝説もある。



明治通りに出て白鬚橋を渡り、昔隅田川を行く船の燈台の役目をしたという常夜灯の付近で「あみ清」の釣り船? が上流を目指していた。ふと道端に可憐に咲く菜の花を見つけた。
桜橋を渡り、帰宅への道をたどったとき、桜橋から川を上る釣り船と下る荷役船がすれ違う所であった。
今朝は、山谷掘公園を抜けて、地方橋通り→吉野通り→アサヒ会商店街を通り、白鬚橋を渡り、川沿いの遊歩道(青御殿通り)を南下、桜橋を渡って帰宅した。
さらに、正法寺橋・紙洗橋・地方橋から地方橋通りを進むと再び吉野通に出る。
浅草紙(あさくさがみ)は、江戸(現東京)の浅草・山谷・千住などで製造された漉(す)き返しの紙、今でいう再生紙である。墨が付いた屑紙(故紙・廃紙・反故《反故》紙、今の古紙)を水に浸し、叩いて砕き、漉く程度の、非常に簡単なもので、墨などがよく除かれていないため鼠(ねずみ)色をしており、よく見ると紙全体にムラが多く、文字が書かれたままの紙片や、人の髪の毛なども混じっていることもあったという。悪紙(わるがみ)とも言われ、粗悪で下等の紙質であったが安価な塵紙で、江戸庶民に親しまれ、主に鼻紙や落し紙(今のトイレットペーパー)などに常用されたと言われます。また、浅草紙は江戸の名産品の一つとなり、後に漉き返しによる質の悪い紙の代名詞ともなり、漉き返し紙を代表する総称にまでなったものじゃ。
「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」(喜多村信節著、文政13(1830)年刊)は江戸時代の百科事典であるが、そこには「ひやかし」の語源について、「山谷にはすきかえし紙を製するもの多く、紙のたねを水に漬けおき、そのひやくる迄に、廓中のにぎはひを見物して帰るより出でる詞《ことば》なり)と解説されている。
吉野通りを北上し、アサヒ会通を西に進み、橋場に入る頃アサヒ会通の西端入口時計は午前7時を指そうとしていた。橋場にはいって、2つ目の路地に「お化け地蔵」が見えた。この地蔵は普通の地蔵の2倍もある大きさで、こんなに大きな地蔵は珍しいと地元の人たちは自慢するそうじゃ。確かに大きい点でもお化けだが、白井権八がこの地蔵の陰に隠れて辻斬りをやり、地蔵に向かって「知らんふりをしろ」といったら「お前こそ人に言うではないぞ」と地蔵が答えたというので、さずがの権八も度肝を抜かれたという伝説もある。
明治通りに出て白鬚橋を渡り、昔隅田川を行く船の燈台の役目をしたという常夜灯の付近で「あみ清」の釣り船? が上流を目指していた。ふと道端に可憐に咲く菜の花を見つけた。
桜橋を渡り、帰宅への道をたどったとき、桜橋から川を上る釣り船と下る荷役船がすれ違う所であった。
今日は、どうしたわけか隅田川を往来する荷役船や曳舟が多いように思える。毎年のことながら会計の年度末で、予算を使い切るための公共事業が活発化しているのかもしれない。加えて、隅田川の上流を迂回する水上バスとも出会った。台東区側のテラスではホームレスの小父さん達が、あちこちに屯(たむろ)して日向ぼっこをしている。
今日は日曜日、朝食後亀戸天神周辺を散策してみようということになり婆様と一緒に出掛けた。外は快晴ではあるが、北風が冷たい。花川戸公園を突き切り、浅草小学校の横の道を通っていると、いままで気付かずにいた「嬉の森稲荷」というのが目に付いた。馬道を横切りメトロ通りを抜けて、雷門通りに出る。雷門前のからくり時計が午前10時を知らせていた。
浅草雷門前からバスで亀戸天神前へ出る。風が冷たいせいもあってか、日曜日とはいえ参詣者は少なく、境内を漫(そぞ)ろ歩くには丁度良かった。梅は満開とはいかないまでもあちこちに綺麗な花を好い香りをはなっていた。境内に菅原道真五歳の像やうそ替え神事の石碑があるのは当然。歌川豊国(1769~1825年)の碑があり、説明板に「幹はみな老いを忘れて梅の花」の句が書かれているのも納得できるが、なんで国産マッチの製造者清水誠の顕彰碑があるのだろう。
東武橋を渡り、曳舟川通りを北上、昨日の朝に通った道と同じ道を歩いた。水戸街道と交わる角の蕎麦屋で昼食を食い、桜橋を渡って帰宅した。
徘徊の道すがら口ずさむことがある。
君の行く道は 果てしなく遠い/だのになぜ 歯をくいしばり/君は行くのか そんなにしてまで(フォークソング「若者たち」)
また、道すがら吟じることがある。
僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守ることをせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため(高村光太郎『道程』)

老子さまはその巻頭で、「道の道とすべきは常の道にあらず」と仰る。ものの根源をたずねる哲学的な本質的な質問である。
そも「道」とは恐るべき字で、異族の首を携えて行くことを意味するという。金文(青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字)の道の字は「導」の形にかかれ、首をてに持つ象(かたち)であるという。道は道路の意に過ぎないが、これを仁義・道徳のように実践倫理の意とするのは、字義を内面化したものなのである。「行路」の行が人の行為の義になるとの同じである。「道」を道徳的な実践に結びつけた用義例は金文には現れていないという。道を存在への認識の仕方、さらには実践そのものとする形而上学に発展させたのは老荘の徒だという。荘子大宗師篇に「夫れ道は情有り信有り。爲す无(な)く形无(な)く、受くべきも傳ふべからず。得べきも見るべからず。自ら本となり自ら根となり、未だ天地有らざるも、古へより以て固(もと)より存す」とある。道は感情もあり、信もあるが、無為無形なのである。体得することは出来てもその姿を目で見ることはできない。何ものからも生れず、何ものにも依存しない。根源的な存在であり、天地開闢以来太古から存在するものなのであろう。

道と同じく首を一部に持つ「眞」も、おどろおどろしき字なのである。
真とは顚(たお)れたるひとであり、道傍死者ををいう。この枉死者(おうししゃ)の霊は瞋恚(しんい)に満ちており、これを板屋(ばんおく、殯宮)に寘(お)き、これを道傍に塡(うず)め、その霊を鎭(しず)めなければならない。その怨霊が再び現れてわざわいなからしめること、それが鎮魂なのである。この厭わしくも思われる眞という字を、こともあろうに真実在の世界の表象に用いたのも荘子である。生は有限であるが、有限であるが故に無限への可能性を持つ。永遠とは死を超えることであると荘子先生は考えたのである。
荘子以前の文献にはこの字が見られないというのは、その本来の字義が示すように、人間の最も異常な状態を言う語であったからであろう。究極的な悟りを言う真人・真知というような高い形而上学的意味を与えうるものは死霊の世界に何らかの意味で関与する宗教者でなくてはならない。そのような宗教者の観想が枉死者の死を本然に復(かえ)させ、その絶対否定を通じて永遠なる生への転換をなさしめたのである。
「古への眞人は生を悅ぶことを知らず、死を惡むことを知らず。其の出づるに訴(よろこ)ばず、其の入るに距まず。翛然(しゅくぜん)として往き、翛然として來るのみ。其の始まる所を志(し)らず、其の終る所を求めず、受けて之を喜び、忘れて之を復(かへ)す。是を之れ心を以て道を揖(あやつ)らず、人を以て天を助けずと謂ふ。是を之れ眞人と謂ふ(荘子・大宗師篇)」
道に合して、天とともにあるものが眞人なのである。顛死者より永遠の生としての眞なるものへという大転換のうちには、弁証法的止揚がはたらいているといわねばならない。
天満宮は受験生に大変人気のある神社であり、そこでは、菅原道真は学問の神様になっているのだが、天満宮ができるまでは、道真の怨霊は凄かったらしい。その怨霊を鎮めるために北野天神社ができたという。ともあれ、道真さん学者先生であったとはいうが、この「道」「眞」の字義については恐らくご存じなかったのであろう。
君の行く道は 果てしなく遠い/だのになぜ 歯をくいしばり/君は行くのか そんなにしてまで(フォークソング「若者たち」)
また、道すがら吟じることがある。
僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守ることをせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため(高村光太郎『道程』)
そも「道」とは恐るべき字で、異族の首を携えて行くことを意味するという。金文(青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字)の道の字は「導」の形にかかれ、首をてに持つ象(かたち)であるという。道は道路の意に過ぎないが、これを仁義・道徳のように実践倫理の意とするのは、字義を内面化したものなのである。「行路」の行が人の行為の義になるとの同じである。「道」を道徳的な実践に結びつけた用義例は金文には現れていないという。道を存在への認識の仕方、さらには実践そのものとする形而上学に発展させたのは老荘の徒だという。荘子大宗師篇に「夫れ道は情有り信有り。爲す无(な)く形无(な)く、受くべきも傳ふべからず。得べきも見るべからず。自ら本となり自ら根となり、未だ天地有らざるも、古へより以て固(もと)より存す」とある。道は感情もあり、信もあるが、無為無形なのである。体得することは出来てもその姿を目で見ることはできない。何ものからも生れず、何ものにも依存しない。根源的な存在であり、天地開闢以来太古から存在するものなのであろう。
真とは顚(たお)れたるひとであり、道傍死者ををいう。この枉死者(おうししゃ)の霊は瞋恚(しんい)に満ちており、これを板屋(ばんおく、殯宮)に寘(お)き、これを道傍に塡(うず)め、その霊を鎭(しず)めなければならない。その怨霊が再び現れてわざわいなからしめること、それが鎮魂なのである。この厭わしくも思われる眞という字を、こともあろうに真実在の世界の表象に用いたのも荘子である。生は有限であるが、有限であるが故に無限への可能性を持つ。永遠とは死を超えることであると荘子先生は考えたのである。
荘子以前の文献にはこの字が見られないというのは、その本来の字義が示すように、人間の最も異常な状態を言う語であったからであろう。究極的な悟りを言う真人・真知というような高い形而上学的意味を与えうるものは死霊の世界に何らかの意味で関与する宗教者でなくてはならない。そのような宗教者の観想が枉死者の死を本然に復(かえ)させ、その絶対否定を通じて永遠なる生への転換をなさしめたのである。
道に合して、天とともにあるものが眞人なのである。顛死者より永遠の生としての眞なるものへという大転換のうちには、弁証法的止揚がはたらいているといわねばならない。
今朝も、朝飯前に徘徊に出掛けた。
今朝は昨日とは逆に桜橋から台東区側の遊歩道を抜けて、白鬚橋を渡るとそのまま明治通りを真っ直ぐに突き切る。水戸街道との交差点近くに東武伊勢崎線の東向島駅がある。東武線のガードを潜り2つほど信号標識を抜けると、曳舟川通りである。曳舟川通りを南下、桜橋通りに入ったところが都立本所高校である。
1月27日付けで台東ケーブルからメールが入っていた。曰く、
「このたび、J:COM 台東の発足を記念といたしまして、平成21年2月23日「月」と2月25日「水」の2日間、『楽しいウォーキング』教室を開催いたします。ウォーキングの基礎から楽しく歩くための秘訣、そして健康への意識を高めるため、社団法人日本ウオーキング協会の主任指導員の西田富美子さんをお迎えして開催いたします。名所旧跡の多い台東区を楽しく歩いてみませんか。ご近所のお知り合いの方と一緒にふるってご応募ください」
【募集人員】の項目に 「60歳以上の男女各4名 計8名程度 *応募者多数の場合は抽選となります。」 とあったが、爺・婆のどちらかでもあたればと、メールで、申し込んでおいた所、昨日午後に電話があり、爺・婆とも参加できるとのこと、スケジュールは来週中にお知らせするとのことである。
こういう無料の催物にはあまり当たったことも無いのに、爺婆とも当たるとはほんに珍しいことである。






今朝は午前6時、朝飯前の徘徊にしてみた。まだ、暗く東の空がぼんやりと白んで見える。それに川風は冷たく、肌をさす。公園内を通って駒形橋まで出るころに、やっと明るくなり、歩いたせいか、体が温まってくる。墨田区側を遊歩道に沿って北上、白鬚橋をわたり、隅田川沿いに台東区側の遊歩道を我が家まで歩いた。白鬚橋を渡るころには、朝日も出て、背中が汗ばんでくる。
サクラはまだ堅いが、しっかりと沢山の花芽を付けている。桜橋近辺では見知らぬキク科らしい花が咲いていた。帰宅後、図鑑で調べると「ユリオプスディジー」という花で、12月から5月にかけて開化する花の時期の長い草花ということである。台東区の屋外プールから現在改装中のスポーツセンターにかけて、白木蓮の並木があるが、これはもうビロード上の花芽を沢山付けている。3月にはいればサクラに先駆けて大型の白い花を咲かせることだろう。
梅園の梅はもう満開に近く、好い香りを放っている。
「このたび、J:COM 台東の発足を記念といたしまして、平成21年2月23日「月」と2月25日「水」の2日間、『楽しいウォーキング』教室を開催いたします。ウォーキングの基礎から楽しく歩くための秘訣、そして健康への意識を高めるため、社団法人日本ウオーキング協会の主任指導員の西田富美子さんをお迎えして開催いたします。名所旧跡の多い台東区を楽しく歩いてみませんか。ご近所のお知り合いの方と一緒にふるってご応募ください」
【募集人員】の項目に 「60歳以上の男女各4名 計8名程度 *応募者多数の場合は抽選となります。」 とあったが、爺・婆のどちらかでもあたればと、メールで、申し込んでおいた所、昨日午後に電話があり、爺・婆とも参加できるとのこと、スケジュールは来週中にお知らせするとのことである。
こういう無料の催物にはあまり当たったことも無いのに、爺婆とも当たるとはほんに珍しいことである。
今朝は午前6時、朝飯前の徘徊にしてみた。まだ、暗く東の空がぼんやりと白んで見える。それに川風は冷たく、肌をさす。公園内を通って駒形橋まで出るころに、やっと明るくなり、歩いたせいか、体が温まってくる。墨田区側を遊歩道に沿って北上、白鬚橋をわたり、隅田川沿いに台東区側の遊歩道を我が家まで歩いた。白鬚橋を渡るころには、朝日も出て、背中が汗ばんでくる。
サクラはまだ堅いが、しっかりと沢山の花芽を付けている。桜橋近辺では見知らぬキク科らしい花が咲いていた。帰宅後、図鑑で調べると「ユリオプスディジー」という花で、12月から5月にかけて開化する花の時期の長い草花ということである。台東区の屋外プールから現在改装中のスポーツセンターにかけて、白木蓮の並木があるが、これはもうビロード上の花芽を沢山付けている。3月にはいればサクラに先駆けて大型の白い花を咲かせることだろう。
梅園の梅はもう満開に近く、好い香りを放っている。
今日は、立春。爺の77回目の誕生日である。
暦の上では「春」になるが、実際には余寒が厳しく、大寒とともに最も寒い時節でもある。
立春から数えて88日目を八十八夜、210日目を二百十日、220日目を二百二十日と呼ぶ。また、立春以降初めて吹く南よりの強風を春一番と呼ぶ。このように立春は暦の基準の日とされる。



朝のうちは曇り空で、風も少々あったが、桜橋をわたり、東白鬚公園をぬけて、水神大橋から汐入公園方面に足を伸ばしてみた。風は冷たいが、方々に水仙や三色すみれが咲き誇り、山茶花も赤い花を付けている。
「さざんか/さざんか/さいたみち たきびだ/たきびだ/おちばたき 『あたろうか』『あたろうよ』 しもやけ/おててが/もうかゆい」なんていう童謡があったっけ。
ガラにも無く「重いコート脱いで 出かけませんか もうすぐ春ですね 恋をしてみませんか」こんな歌詞をつぶやいていた。
川面も何となく春らしく思えるから不思議だ。
暦の上では「春」になるが、実際には余寒が厳しく、大寒とともに最も寒い時節でもある。
立春から数えて88日目を八十八夜、210日目を二百十日、220日目を二百二十日と呼ぶ。また、立春以降初めて吹く南よりの強風を春一番と呼ぶ。このように立春は暦の基準の日とされる。
「さざんか/さざんか/さいたみち たきびだ/たきびだ/おちばたき 『あたろうか』『あたろうよ』 しもやけ/おててが/もうかゆい」なんていう童謡があったっけ。
ガラにも無く「重いコート脱いで 出かけませんか もうすぐ春ですね 恋をしてみませんか」こんな歌詞をつぶやいていた。
川面も何となく春らしく思えるから不思議だ。
今年は本日2月3日が節分。節分というのは立春・立夏・立秋・立冬の前日のことをいうのであるが、特に立春が1年の初めと考えられることから春の節分が最も重視されており、一般には単に「節分」といえば春の節分を指すものとなっている。これは立春を新年と考えれば大晦日に相当する訳で、そのため前年の邪気を全て祓ってしまうための追儺(ついな)の行事が行われる。その代表が「豆まき」なのである。

テレビのニュースなどで賑やかな節分会の風景は、今も昔も変わりないが、日本での行われるようになったのは室町時代以降だといわれている。浅草寺は先進的なお寺だったらしく、大がかりな節分会(せつぶんえ)を行ったのは、関東で最初だったと伝えられているそうじゃ。浅草寺に倣って豆まきの風習がだんだん江戸庶民に広まったのは、江戸の中期以降のことだという。
浅草寺では『鬼は外』とは言わない。観音様の前には、もともと鬼などはいないから言う必要がないとの考えからである。『福は内』で十分というわけなのである。『江戸名所図会』では、「お札まき」の様子を紹介している。「豆」も「お札」もまいたが、現在は豆だけだ。
節分には柊の針で鬼の眼を刺し、イワシを焼く激しい煙と臭いで邪気を追い払うのである。“イワシの頭も信心から”(意味:イワシの頭のようなつまらないものでも信仰の対象にしている人には、尊い神仏と同じように霊験あらたかに思われるということ。)ということわざもこの風習からきている。
節分の夜にその年の恵方(歳徳神の在する方位、今年は東北東)に向かって目を閉じて一言も喋らず、願い事を思い浮かべながら太巻きをまるかじり(近畿方言ではでは「まるかぶり」)するのが習わしとされている。
元々、節分とは“節変わり”といって、立春・立夏・立秋・立冬の前夜をいいましたが、室町時代の頃より寒い冬から暖かい春になる立春の前日が重要視され、現在に至っているようじゃ。
浅草寺では『鬼は外』とは言わない。観音様の前には、もともと鬼などはいないから言う必要がないとの考えからである。『福は内』で十分というわけなのである。『江戸名所図会』では、「お札まき」の様子を紹介している。「豆」も「お札」もまいたが、現在は豆だけだ。
節分には柊の針で鬼の眼を刺し、イワシを焼く激しい煙と臭いで邪気を追い払うのである。“イワシの頭も信心から”(意味:イワシの頭のようなつまらないものでも信仰の対象にしている人には、尊い神仏と同じように霊験あらたかに思われるということ。)ということわざもこの風習からきている。
節分の夜にその年の恵方(歳徳神の在する方位、今年は東北東)に向かって目を閉じて一言も喋らず、願い事を思い浮かべながら太巻きをまるかじり(近畿方言ではでは「まるかぶり」)するのが習わしとされている。
元々、節分とは“節変わり”といって、立春・立夏・立秋・立冬の前夜をいいましたが、室町時代の頃より寒い冬から暖かい春になる立春の前日が重要視され、現在に至っているようじゃ。
お元気ですか
HNです。娘EがJICA(Japan International Cooperation Agency)の採用サイトの広告塔になっています。
暇なときに見てください。
> お父さん
> えりが採用ページに載ってるからみてみてね。
> > http://www.jica.go.jp/recruit/shokuin/staff/staff_03c.html
まあ、爺の甥坊ながら娘をここまで育てあげたのだから大したものだ。つい、自慢したくなってブログに書き込んでしまった。
皆さんも見てやって頂戴。URLをクリックすれば見れるよ。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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