瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 今日は朝から雨、順延の場合は電話するとのことであったが、9時になっても連絡がないので、こちらから電話で問い合わせると、予報によれば27日は今日よりも天候が悪いらしいので、本日強行するとの事。
 タクシーで駆けつけ、15分前に到着。午前中は、いろいろとウォーキングの講義があり、昼食を食べて、室内で準備体操。どうやら、雨も小降りになり、普通の服装で出掛けることができた。
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fba874ff.jpg 昨日は野のものとも山のものとも判断がつきか、少々戸惑うこともあったが、今日はリラックスして参加できた。雨も止み、雨後の空気は澄んでいてうまかった。途中、速さを変えての歩行練習、階段の昇り降りの歩き方などの実地講義があり、その度に心拍数の測定記入を行った。
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8d0314d4.JPG 上野公園は何回も来た所ではあるが、精養軒脇の時の鐘のそばの小高い大仏丘に関東大震災前まで大仏があったことを初めて知った。上野公園も念入りに見て回るとまだまだ知らない所があるようだ。
 午後3時公園を跡に、朝の集合地に戻り、ストレッチ体操をした後、解散となった。
 2日間のウォーキング教室の様子は、3月27日から「台東下町チャンネル」で放映されるという。30分に編集され、以後20数回放映されるとのことである。
 昨日は、ウォーキング教室に参加した。浅草文化観光センター3階に集合。初めに、参加者各人のインタビューがあり、西田富美子先生の講義が始る。
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 いやはや、ウォーキングとやらも立派なスポーツでウォーキング理論が成り立つらしい。ストレッチ体操とやらで、準備体操・中間体操・整理体操とても、この爺には荷が重過ぎる。まあ、準備体操も整理体操もまして中間のストレッチ体操なんてやったことのない爺には全て初めて、とてもじゃないが覚え切れない。歩き方についてもいろいろ聞かされたが、今までの身についた悪癖はそうそう直るものでもあるまい。まあ、出来ないことは自分流でやるしかない。
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 昼飯後雨の中を、隅田公園・浅草寺境内をぐるりと回った。台東テレビで、ビニールのレインコートを準備してくださったが、爺は体が蒸れそうなので、そのままの服装で傘をさしての参加とした。水上バスステーションを過ぎたところで親水テラス遊歩道に降り、冷たい横殴りの小雨を受けながら桜橋まで歩いた。桜橋の上まで来て、少し小雨になったところで、ストレッチング。隅田公園の梅園を通り、我が家前の車横丁を横目で見ながら、花川戸の東参道から花川戸公園前を通り、浅草寺の境内に、三社様前で10分の休憩。影向堂(ようごどう)にお参りして、花やしき通りの揚げパン屋でパンの買い食い。爺は婆様の買ったパンを一口だけ御相伴。後は再び伝法院通りから仲見世通りを通り、文化観光センターに戻り、ここでクールダウンストレッチングを習い、解散と相成った。
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 解散時のインタビューでは「楽しかった」とは答えたものの、まあ、瘋癲の拙痴无には今までのうろつき徘徊が一番似合っているのかもしれない。
 今日はウォーキング教室の第一日目。10時30分に浅草文化観光センター3階に集合となっている。外は生憎の雨のようだが、第一日目は決行されるらしい。
dee0afa2.JPG 第二日目は、北上野の偕楽ビル9階に集合となる。第二日目に備えて北めぐりん利用で偕楽ビルまでに行く経過時間を調べるべく、一昨日の土曜日に婆様と一緒に出掛けた。
 9時47分発、北めぐりん③隅田公園停留所から乗車、入谷駅口で下車。10時7分の予定が、渋滞で15分ほど遅れている。ここから徒歩で昭和通を南下、偕楽ビル前に着いたのが丁度10時30分。当日は隅田公園を9時32分発に乗車しなければなるまい。
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53eb614c.jpg  かっぱ橋本通りに出ると、上野学園前停留所から今度は東西めぐりんで雷門通りに出る。ウォーキング教室のパンフに「靴:運動靴で、ひも付きお願いします」とあるが、爺は紐付きなんていう面倒なものは持っていない。伝法院通りの靴屋で、紐付きのスポーツシューズを求めると、足慣らしにそれを履き、ファスナー式の履きなれた古い靴をビーニル袋にいれて, 隅田公園を歩いて梅園を回って帰宅した。
 昨日の日曜日は、我が家の前は道路工事1日中家に閉じ篭り。本日はこれからウォーキング教室に出掛ける。雨は小降りになったが未だ降り続いている。
 今日は朝から雨であったが、昼過ぎになってどうやら止んだので、出掛けることにした。
 昨日、台東ケーブルテレビの「楽しいウォキーング教室」のカリキュラムが届いたが、2日目の集合場所J:COM台東旧社屋のある偕楽ビル(北上野2-7-5)が何処にあるか判らないので、確かめておくことにした。
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c807ae17.jpg 14時に家を出て、馬道通りから伝法院通りに入ると最近新設された白浪五人男の板絵が目に入った。ここを国際通りに向けて西進、国際通りを横切るとかっぱ橋本通りに入った。この商店街を昭和通に向けて西進する。途中店先にある東河童の像を見ながら、一名かっぱ寺で知られる曹源寺を過ぎると松が谷2・3丁目。
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 この辺りが台東区の中心、まあいうなればお臍に当たるらしい。臍を出した河童の像とその標識が置かれている。この辺りは区画整理が行われるまでは松葉町と呼んだらしい。
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0f16f80d.jpg 昭和通で右折して北上する。昭和通りは関東大震災の復興事業として計画、建設された道路である。当時東京市長だった後藤新平(1857~1929年)の原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められ昭和3(1928)年に完成した。昭和通は江戸橋~入谷間は州都高速道路1号上野泉の高架下を走るが、この付近では慢性的な渋滞が起こりやすく、そのために首都高で迂回する車も見られる。また、江戸通りとの交差点から国道4号に属す。直進し明治通りとの交差である東京都台東区の大関横丁交差点から先は日光街道と接続している。偕楽ビルはすぐに見つかった。ここからは、上野駅なら7分、入谷駅でも7分、稲荷町駅からなら8分の所だという。まあ、我が家から来るには北めぐりんの入谷駅で降りれば、30分ぐらいで到着できそうだ。
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1edb4f0d.jpg 言問通りに出るとここを東進して我が家に向う。言問通りは文京区本郷・弥生の本郷弥生交差点から、隅田川にかかる台東区言問橋に至る道路の通称である。西側は文京区小石川まで続き、東側は水戸街道(国道6号)・三つ目通りと接続する。この言問通りを江戸通り、言問橋西詰めまで出て、帰宅した。
45e0828f.jpg 先日の日曜日にヨドバシカメラのポイントカードに溜まったポイントで求めた万歩計omronの表示によると7615歩、4.1km(1歩=55cmに設定してある)となっていた。

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93213828.jpg 今朝は少々寒く、それに風もあったが、午前6時家を出て今戸神社前を通る。まだ完全には明けきらぬ境内に桜らしきものが満開に近く咲き誇っていた。境内に入ってみると「河津桜」であることが判った。いつも通る道の1つ大川寄りの道を北に向かって歩くと妙亀塚にでた。ここを北上し明治通りに出る。
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92704827.jpg 白鬚橋を渡り、墨堤通りを横切り明治通りをそのまま進むと、右手に寺らしき建物が目に入ったので、それを目指して路地をあっちうろうろ、こっちうろうろ法泉寺に辿り着く。門は閉まっていて境内には入れなかったが、ここは葛飾北斎も「寺島法泉寺詣」という摺物を描いている。百花園では梅まつりが催されているが、開門前ではあるが、中に入らなくても囲いの隙間からでも少しは梅見が出来るだろうと、園を1周してみたが、写真に撮るような構図を見つけることは出来なかった。
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3a2357f5.jpg 明治通りを水戸街道で右折するとすぐに都立隅田川高校のグラウンドがある。高校の正門は地蔵坂通りにあるらしい。初めて、地蔵坂通りを歩いてみることにした。


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6d9a1863.jpg 墨堤通りに出るとここを南下、桜橋を抜けてリバーサイドスポーツセンターの横を通る。白木蓮の花が花芽を破って白い花びらを見せようとしている。もう2・3日もすれば咲き始めるかもしれない。朝早く撮った河津桜がまだ薄暗い時刻だったので旨く撮れているかどうか気になったので、再度今戸神社前まで立ち戻り河津桜を撮ると引き返して帰宅した。
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0df17f07.jpg 朝食後、隅田公園を通ると言問橋と東武線の鉄橋の間にある大寒桜が3分咲きに花を付けていた。先日日曜日には上野公園の大寒桜はかなり開花していたが、ここは大川の川風を受けていくらか気温が低いと見える。
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 雷門通りを横切り昨日と同じように、大江戸線蔵前駅から森下駅へ、さらに東京メトロ新宿線で聞く川駅に出た。ここから、三つ目通りを北上、三之橋から竪川(たてかわ)沿いに両国橋へ向けて進む。竪川は、東京都の墨田区と江東区の境をを流れる人工河川で、江戸城に向かって縦(東西)に流れることからこの名称がついたということじゃ。旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河で、全区間で上空を首都高速道路7号小松川線に覆われる状態になっている。水面よりかなり高い位置に高架があるので、陽射しが全く無いというわけではない。西側の隅田川との合流域には首都高速7号線と6号線が合流する両国ジャンクションがある。
三之橋の南側は徳右衛門町といい、神田柳原和泉橋際にあった町が、明暦の大火にともない火除地として公収されたため寛文元年(1661年)に本所に越してきたものだという。お稲荷さんも元(もと)徳右衛門町の稲荷ということで元徳稲荷と称したということじゃ。
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28572e1c.jpg 竪川の北沿いの道のもう一つ北の道を馬車通りといい、ここには烏亭焉馬(うてい えんば、1743~1822年)が住んでいたところだというので、それらしき跡を探してみたが見つけることは出来なかった。烏亭 焉馬は江戸時代後期の戯作者・浄瑠璃作家。江戸の大工の棟梁の子として生れ、本名を中村英祝という。 和泉屋和助、立川焉馬、立川談州楼とも。俳諧や狂歌を楽しむ一方、芝居も好きで自ら浄瑠璃を作るほどであった。五世市川団十郎を後援する三升連(みますれん)を結成し、また「咄の会」も主催していた。式亭三馬や柳亭種彦などを庇護し、落語中興の祖とも言われる。牛嶋神社には「いそかすは」の狂歌碑がある。小林一茶もここに住んだことがあるらしく、説明柱が立っていた。
 講談や芝居・浪花節等で知られる塩原太助もこの近くで薪炭商をしていたらしく、塩原橋の由来になったという。塩原橋を渡り川の南側の道を進むと一之橋へ出るところに江島杉山神社があった。
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e866511a.jpg 一之橋を渡り隅田川に近い道を歩くと「ぶらり両国街かど展実行委員会」というのが立てた説明板が並んでいる。江戸の町・赤穂浪士・両国物語等について説明されている。
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 両国橋東から親水テラスに降りて久し振りに吾妻橋まで歩いた。隅田川に架かる橋は既に老朽化した橋が多い。両国橋もその1つであるが、現在橋桁の補強工事が行われている。
水上バスの浅草ステーションの改装のための、仮設船着場は殆んど完了している。そのうちいよいよ改装工事が始るのじゃろう。我が家のすぐ近くの隅田公園梅園は月末の梅まつりを控え、準備が進んでいるようである。梅園の俳句の木札が立てられていた。
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d25d31d1.jpg 日曜日に眼鏡を取り替えるべく注文しておいた。本日出来上がるとのことで、花川戸の日産メガネ店に行った。新しい眼鏡を掛けて、そのまま江戸通りを南下、春日通りで何となく大江戸線に乗ることにした。森下駅で乗り換え、菊川まで行った。菊川駅のA3出口に、墨田区教育委員会の「長谷川平蔵・遠山金四郎の住居跡」の説明板があった。池波正太郎の鬼平犯科帳では平蔵の私邸は目白台にあることになっているが、実際にはこの地に私邸があったらしい。
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d1d43b2c.jpg 新大橋通りを東進するとすぐに墨田区を南北に流れる大横川となり、菊川橋が架かる。その北西側のたもとにある菊川児童遊園内に、夢違(ゆめたがえ)之地蔵尊がある。昭和20(1945)年の東京大空襲で菊川橋は、本所区でも最も大勢の人が集中して亡くなった場所のひとつだという。この小さな橋の上で3000人が亡くなったのだという。このような悪夢の消滅を願い、善夢が導かれるように、昭和58(1983)年3月10日、遺族や関係者によって夢違之地蔵尊が建立されたのだと言う。
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dc9d96bf.jpg 大横川に沿って北上する。大横川が竪川と交差する所から親水公園となる。公園としては1993年に開園されたもので、河川の多くは埋め立てられ、せせらぎや樹木などが新たに生まれ、親水公園として大きく変わった。面積は約63,343m²になり、北は北十間川と合流していた付近まで続く。
竪川の北側に架かっていた撞木橋は万治2(1659)年当時の本所奉行徳山五兵衛、山崎四郎左衛門両名によって墨田区江東橋一丁目より、同緑四丁目の大横川に架けられたという。最初は長さ10間、幅2間の木橋であったが、その後、幾度となく架け替えられ、昭和5年7月には、銅橋(トラス)になったが、大横川親水河川整備事業により、その役目を終えて昭和62年に撤去されたということじゃ。なお、ここは竪川・大横川の交差辻なので、北辻橋、南辻橋、新辻橋などが架けられたが、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきたという。その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われる。
 北斎通りに架かる北中之橋は、大横川を挟んで長崎町と津軽中屋敷側をつないでいた橋であったという。元禄10(1697)年に橋架されたそうで、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と呼ばれたということじゃ。
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 現在この公園は整備中で、所々で遮断され通行できなくなっている。何とか、浅草通りから東武橋まで辿り着いた。東武橋からみる東京スカイツリーは、先だって2月8日(日)に亀戸天神の帰りに見たときよりはさらに工事が進んでいるようであった。ここから総武線に沿って源森橋までくると、右折して言問通り出る。ここからは、言問橋を渡って、帰宅した。我が家の前は現在工事中で1日中騒音に悩まされている。仕事部屋に入ると婆様がいたので、新しい眼鏡をかけた写真を撮ってもらった。
 昨日は日曜日。曇り空ではあったが、家の傍を通っている「めぐりん」バスを利用して出掛けることにした。
 台東区北めぐりんの③停留所『隅田公園』発、午前10時17分発に乗車。⑬停留所「三ノ輪駅」で下車。
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0ec0a944.jpg ここから金杉通りを南下しながら、左(東)側に下谷、右(西)側に根岸の町並みを見ながらゆっくりと歩いた。金杉通り沿いには、明治から昭和初期に建てられた古い町家が多く残っていて、金杉通りの北側にほぼ並行する通りは、大正10年に三業地(芸妓置屋、待合、料亭の営業が許可される区域のこと、行政用語であった)の許可が下った遊里だったところで、大正15年には、芸妓置屋40軒、芸妓139人、待合30軒があったと聞く。しかし、今はほとんどマンション化して古い町家や待合風・置屋風の家屋をを見つけるのは難しい。
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49e47b07.jpg 途中、三島神社に立ち寄る。縁起によると、弘安の役の勇将、河野通有の発願によりその一族が伊豫国越智郡に鎮座する日本総鎮守大山積命を武蔵国豊島郡に勧請して金杉村上野山内の自宅に奉斎し、この地方一帯の守護神と定め社殿を建立したのに始まるといわれる。
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b2a0f2dd.jpg 路地越しに厳(いかめ」しい造りの寺が見えたので立ち寄ってみる。真言宗豊山派鐡砂山世尊寺。本堂は、現代風なデザインのコンクリート造りで、綺麗に整備されていて、かなり古い福智六地蔵尊が、古いお堂の中に奉られている。その前には珍しい石仏群があるが、謂れなどは判らない。
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5258d132.jpg 2・3日前に金美館通りを歩いたときに立ち寄った小野照崎神社に、再び立ち寄った。2・3日に立ち寄ったときには早朝でもあり、折角撮った説明板もよく読めなかったので、再度説明板を写すことにした。
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1eda1af0.JPG 金美館に通じる道を隔てて下谷七福神の大黒天を祀る英信寺がある。今年の正月は浅草七福神と谷中七福神を巡った。下谷七福神と小石川七福神も回るつもりでいたが、ついつい億劫になり、止めてしまった。来年は是非回ってみたいものだ――あれまあ、鬼に笑われそう。
 言問通りに出たところに長寿庵という蕎麦屋があったので、早昼飯に天麩羅蕎麦を食って、さらに入谷口通りを通って上野に出る。
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 東西めぐりん上野公園口停留所まで来ると、公園入口の交番横の桜が早や開花している。カメラを翳(かざ)す人達で賑わっていたので仲間に入れてもらった。この桜は「大寒桜(おおかんざくら)」という品種であった。東西めぐりんで浅草松屋前にでて、江戸通りを北上、帰宅した。
 今日は土曜日、バレンタインデー。朝のうちは雨がばらついていた。
8524e0c9.JPG ローマ帝国皇帝Claudius Gothicus(クラウディウス・ゴティクス、在位:268~270年)は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、ローマでの兵士の婚姻を禁止したといわれる。キリスト教司祭だったValentinus(ウァレンティヌス、?~269年、英語ではValentine《バレンタイン》)は秘密裡に兵士を結婚させたが、これが露顕するところとなり捕らえられて、処刑されたという。処刑の日は、Juno(ユノ、ローマ神話の女神)の祭日であり、Lupercalia(ルペルカリア)祭(結婚の女神Junoを崇拝する祭)の前日である2月14日が敢えて選ばれた。ValentinusはLupercalia祭に捧げる生贄(いけにえ)とされたのだという。このためキリスト教徒にとっても、この日は祭日となり、恋人たちの日となったというのが通説になっている。
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6e2093a5.jpg 昼近くになってポカポカ陽気。飯前に隅田公園を一周りする。我が家から道路一つ隔てた公園内にピンクの幟が立った。2/29・3/1に行われる梅祭りのもよおしがおこなわれるとのことじゃ。春というより初夏を思わせるような陽射しである。言問橋の下ではユリカモメが漂い群れている。
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f7d5b286.JPG 枕橋茶やに立ち寄ってみる。今年になってはじめて立ち寄ったのであるが、2匹のワンちゃんは箱の中でおねんね。若女将が「こんなお酒があるのご存知ですか」と『隅田川諸白』の瓶を持ち出してきてくれた。
 江戸の地誌を記した『御府内備考』という本によると、浅草並木町(現・台東区雷門二丁目内)の「山屋半三郎」という造り酒屋が、江戸時代前期の寛永年中(1624~44年)に、隅田川の水を汲んで酒を造り、浅草観音様(浅草寺)の本坊である伝法院の僧正の所へ持って行くと、僧正はご満悦で『隅田川諸白』という名を授けられたという。「諸白」は「清酒」のことをいうのだそうじゃ。
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2d4c743f.jpg 婆様に牛すじ饅とぶた饅を買って、茶やを出ると水戸庭園の前を通り言問橋を渡って帰宅した。言問橋は春の陽射しを受けて手摺欄干が熱くなっている。春というより初夏でとうとうジャンパーを脱ぎ、上シャツ1枚で還った。
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 今朝は隅田川から離れて、西の上野方面に向けて歩くことにした。まだ、明けやらぬ吉野通りを左折して。小松橋通りを西に進む。馬道通り、千束通りを横切り、国際通りに出る。国際通りを北上、最初の信号で「金美館通り」の標識が目に入り、ここを歩いてみることにする。
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a703eebe.jpg 入谷金美館通りは地下鉄入谷駅北口から千束方面に向かう延長300mの通りで入谷一、二丁目に位置している。この通りは坂本から吉原へ通じる道として古くからあったという。現在の道路は震災後の区画整理で完成、同時に入谷寄りにこの通りの由来ともなった金美館という映画館が出来、近隣から多くの映画ファンを集めたらしい。大型店としては、平成12年新装改築オープンした区設入谷市場、第一食品、エチゴヤなどがある。飲食関係のお店が多いが、なかでも甘味店が多いのが特色であるという。安売りの店が多く、千束方面の主婦に人気があると聞くが、特に11月の酉の市の時は、入谷駅から鷲神社間を熊手を持った大勢の人で賑わう。
 この通りに面して区立大正小学校があり、昭和通りをわたると、そこは下谷二丁目である。金杉通りに出るところに小野照﨑神社がある。小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として著名な小野篁(たかむら、802~853年)である。創祀の年代は不明だが次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、小野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿2(852)年篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永2(1625)年忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することになり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷したというものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4(1691)年頃に遷座したのではないかともいうそうじゃ。
 小野照崎神社の裏に、富士山をかたどった築山がある。室町末期に始まった富士山信仰は江戸中期に盛んになり、多くの講中が組織された。講中は神仏参詣のために組織した団体で、神仏に詣でながら、おしゃべりを楽しんだのだそうじゃ。江戸時代には富士講、大山講が盛んであったが、富士講は富士山信仰の団体なのじゃ。富士登山は容易ではない、講中は江戸各地に模造富士を築いて登った。しかし今に伝わる富士塚は少なく、ここの富士塚は富士の溶岩で覆われ原型が良く保存されているということで、昭和54年5月、国の重要有形民俗文化財の指定を受けたそうじゃ。6月30日と7月1日には、山開きが行われるという。
2803933a.jpg 今の昭和通りは昭和初年に開通した。旧道は上野山下から入谷口通りを経由、昭和通りと並行して東北に延び三ノ輪で昭和通りと合流する。この道を俗に「金杉通り」と呼ぶのじゃが、昔はこの街道を奥州街道裏道と言ったそうじゃ。金杉の地名は、鎌倉時代に金曽木彦三郎という人物がいて、地名を姓にしたと考えられるので、初めは金曽木といい、それが金杉に訛ったものとされている。金曽木は現在、小学校の名前で残っている。金杉は江戸時代以前からあった地名で、奥州裏街道沿いに金杉上.下町が出来た。この町並の裏側は田畑で、金杉村になっていた。その村域は広く、台東.荒川両区にまたがり、根岸は金杉村南部の小字であった。根岸3丁目から5丁目にかけての道の両側が金杉一丁目(江戸時代は金杉上町)であった。この辺りには土蔵づくりの家が数多くあったが年々姿を消して、後にはマンションが立ち並ぶようになったというが、日を改めて金杉通りをゆっくりと散策してみたいもの。
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 言問通りを東進して、入谷鬼子母神(法華宗本門流の寺院で真源寺という)の前をとおり、昭和通り、左衛門橋通り、かっぱ橋道具街通り、国際通り、馬道通りを横切り江戸通りに出て、帰宅した。
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2b28dd7c.jpg 東京の町並みでは、時々小さなお稲荷さんや地蔵尊にぶち当たるが、ここ言問通りでも観音裏の辺りに道引長太郎地蔵尊がある。「江戸期、将軍綱吉の生類憐れみの令で野良犬が増え、見かねた浅草寺の住職は使用人の長太郎に命じ、犬を集め隅田川に流してしまった。このことが発覚し、住職は逃亡、その住職が死んだと思い込んだ長太郎は自害してしまう。後に彼を偲んで地蔵が立てられた」という言い伝えがあるそうじゃ。だが、一般的にはあまり知られていない「地蔵尊」である。8月には「みきびきまつり」が行われるということじゃ。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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