瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[356] [357] [358] [359] [360] [361] [362] [363] [364] [365] [366]
bcaa9e7a.jpg
2f7c5f02.jpg 昨日は隅田川の(下流に向かって)右岸を歩いたので、今日は左岸を歩くべく、隅田公園を南下。吾妻橋上で、高速6号向島線の下にご来光を見た。吾妻橋東袂の昇降口からテラスに降りて、下流に向って南下する。
厩橋の袂で何時ものようにT氏がクラブを振っていらっしゃる。テラスから蔵前橋を見上げると欄干に芸妓・力士のレリーフがはっきりと見て取れる。
2de1011e.jpg
edd197fb.jpg 両国橋を過ぎると前方に高速6号(向島線)と高速7号(小松川線)が上下線合わせて4本で両国ジャンクションを形成し、複雑に交錯しているのがわかる。まあ、この先6号線は隅田川の左岸沿いを、7号線は竪川の真上を走り、それぞれの景観を壊しているようだ。尤も、こんな景色が近代的でとても好いというお方もいらっしゃるらしい。竪川で隅田川の親水テラスは一旦遮断される。水門の傍まで行ってカメラに収めるが、生い茂った樹木のため水門の左半分は旨く収められなかった。
8d10a677.jpg
e5b75a78.jpg 昇降口からテラスを上り、一之橋を渡り、再びテラスに降りる。前方に新大橋を見ていると、ついついその先まで行ってみたくなり、新大橋を潜って芭蕉記念館の下を通り、萬年橋に出た。テラスから万年橋を撮影しようとしたが、朝日をまともに受けて、逆光でどうも旨く撮れそうにない。万年橋の上流に小名木川の水門が見えるが、これも逆光で写真に収めることが出来なかった。
39dc1ce3.jpg
2db77987.jpg
bfc9b303.jpg




  萬年橋(まんねんばし)は、小名木川にかかる橋で第一橋梁であるという。北岸は江東区常盤一丁目、南岸は江東区清澄一丁目と二丁目を分かつ。当橋のすぐ西側で小名木川は隅田川と合流、東側には新小名木川水門が設置されている。萬年橋が架橋された年代は定かではないが延宝8(1680)年の江戸地図には「元番所のはし」として当所に橋の記載があるという。
7760ef2e.jpg
e61ee0b7.jpg 萬年橋を渡り、小名木川の南岸に並行する道を東進していると、小名木川南岸の遊歩道に出る道があったので、次の高橋まで、遊歩道を歩いた。後ろを振り返ると小名木川の水門が見えたが、遊歩道に植えてある並木が生い茂っていて全景は見えない。遊歩道を上がり、高橋を渡ったが、この高橋と並行して、青パイプの専用橋(水道か、電気関係か、ガスかなにの専用橋かよく判らない)が走っているので邪魔になり、撮影は取りやめにする。高橋の北詰辺りは2代目中村芝翫(1796~1852年)が住んでいたところだという。
d400ff59.jpg
5fa21168.jpg 高橋を渡った森下2丁目に「高橋のらくろーど」というのがあって商店街の入り口にのらくろの絵が描いてあったが、今日は素通りした。大橋通りに出ると、此処から東に向かって菊川橋を渡り、住吉に出た。菊川橋は大横川に架かる橋で、橋の上から猿江橋が見える。その下流に架かるのが昨日渡った扇橋である。住吉からは東京メトロ半蔵門線で押上まで乗車、昨日と同じく桜橋を渡って帰宅した。本日の記録は15215歩、9.8kmで、昨日と大差なかった。
 江戸通りを南下。春日通りを通り過し、蔵前橋通りから、榊神社そして柳橋へと何時ものコースを通って両国橋の架かる靖国通りに出る。橋の西袂から親水テラスに降りて、新大橋のに向けて歩く。
f066531f.jpg
5a6592d0.jpg この間上流から東京湾に向う何艘かの釣り船に追い越された。どの釣り船にも4・5人の釣り人らしき人を乗せている。ここの親水テラスは一部両国ジャンクションの下になっている。高架線の隙間から明治座が朝日を浴びているのが見える。
12eb4130.jpg 新大橋を渡るつもりが、清洲橋まで足を伸ばすことにする。新大橋を過ぎた付近でひと休みしている警備員さんがいたので、カメラを向けるとそのうちの無帽でいた一人が「ちょっと待ってください」と、あわてて制帽をかぶって、3人仲良くカメラに納まってくれた。
e14ad4f1.jpg
0694bca2.jpg 前方に西岸の日本橋中洲と東岸の清澄町を結ぶ清洲橋が見える。この橋は「震災復興の華」と呼ばれた優雅デザインで、当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあった大吊り橋(第2次世界大戦で破壊されて現在はつり橋ではない)をモデルにしているという。清洲橋下のテラスから前方を見ると高速深川線と隅田川大橋があり、その間から遠く永代橋が見え、その後方に佃島の大川端リバーシィのビル街も見える。
e34c2b03.jpg
70c456d7.jpg 川下の昇降口から清洲橋通りに上がると西袂に説明板があるが、この橋を設計した方でもなく、作った人でもないのに、ここにどうして東京都知事の名前を入れなくてはならないのだろう。このお方は物書きあがりで、悪筆で知られているお方であるが、こうして説明板の表題として書かれた字をみると芸術的筆跡に見えるから不思議である。まあ、人間どうしてこうまでして名前を残したがるのだろう。
44e500d0.jpg
14424b14.jpg 清洲橋通りを昨日の四つ目橋まで西進。途中大横川に架かる扇橋を渡る。この大横川は北十間川近くでは殆んど干からびて公園となっているが、この辺りでは川一面に水を湛えている。
e7d2f320.JPG
cb1cec2d.jpg 四つ目通りに入り、昨日通った小名木川橋を渡ったが、下流の小松橋にかけて凄い群れのユリカモメが游んでいた。橋の欄干には江戸名所図会の小名木川の五本松のレリーフが飾られている。
 このまま、四つ目通りを北上。昨日と同じように住吉からは地下鉄半蔵門線に乗車、押上で降りると、桜橋通りを通り、桜橋を渡って帰宅した。
 今日は少々調子付いて歩き過ぎたようだ。omron万歩計は15113歩、9.8kmを記録。
 本日は昭和の日。2007(平成19)年から加わった、現在のところ最も新しい国民の祝日である。
7bffdb13.jpg
c4f104cb.jpg 昨日徘徊した横十間川のさらに南を探索すべく、昨日と同じコースを取る。天神橋と錦糸橋の丁度中間辺りに「亀戸銭座跡」のモニュメントを見つけた。寛文8年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルに作成したもので、レリーフには、(銭座絵巻)(享保13 《1728》 年)より銭座で行われていた銅貨製造工程のうち、平研(銅貨の表面を磨く)作業をしている図(日本銀行貨幣博物館所蔵)の絵を参考にしたものが描かれている。江戸時代に銅銭が本格的に鋳造されたのは、寛永13《1636》年に始まるという。そのため、幕末までに造られた銅銭は全て寛永通宝と称し、「寛永通宝」の文字が打ち出されている。錦糸橋の袂に「うるおいの木かげ道路」のレリーフが作られていた。
9cdd9936.jpg 横十間川の水際が遊歩道になっていて、公園を形成している。松代橋(まつしろばし) 全長39.2m・幅40mで、国道である京葉道路を通すこともあって国の管理 となっていて、 江東橋四丁目と江東区亀戸一丁目を結ぶ橋。現在の橋は昭和44年に架けられたものであるという。橋の名はこの辺が本所松代町と呼ばれていたので、付けられた。松代町は、江東区高橋辺に松代藩真田家の控え屋敷があった町で、公用地となつて竪川の北、今の江東橋四丁目に移ってきた。明治13年までは、元の地名の深川を入れて、深川北松代町と云っていたという。
01184e0d.jpg 旅所橋 (たびしょばし)は全長42.1m・幅12mで墨田区管理だという。松代橋と同じく江東橋四丁目から江東区亀戸一丁目に架かる橋。創架は万治2(1659)年で現在の橋は昭和51年製という。本所開拓のため、この横十間川が掘られたが、その時墨田区内はこの旅所橋と天神橋そして柳島橋の三本だけが架けられていた。 はじめこの橋の名は無かったのだが、寛文年間(1660~70年代)に東詰めに亀戸天神のお旅所(かりや)が出来たときに旅所橋と名付けられたという。お旅所とは、祭礼の時に御神輿が本宮から渡御して仮に暫く留まる所を云うのだそうで、本所二丁目の若宮公園には今なお、牛島神社のお旅所があるという。この橋の墨田区側の上流部には都立墨東病院がある。
911cbb18.jpg
67fa489d.jpg
6b61e311.jpg





67979ef8.jpg 高速小松川線の通る下が竪川になっている。向こうに松本橋が見える。この通りは、墨田区側は墨東病院に突き当り、左右に分かれます。江東区側は猿江恩賜公園に突き当り、左右に分かれている。清水橋、本村橋の下を潜り、とうとう小名儀側まで来てしまった。
ad1091ea.jpg
acd1ac73.jpg
57eae500.jpg





 横十間川と小名木川の合流地点にはクローバー橋が架かっており、おそらく四葉のクローバからとった名称だと思うが、4地点から架けられ交差する橋の中心部で結合しているいわばスクランブル橋である。
 小名木川に並行する南岸の道を西に四つ目通りまで歩くと、このあたりは扇橋と言い、KYさんは確かこの辺りに住んでいることを思い出した。四つ目通りに出るとそこは小名木川橋であった。
8dcd2a52.jpg
37628a5d.jpg
10f9877a.jpg





e30e7c7a.jpg 小名木川橋は橋の幅も広く、 橋上に植え込みもある綺麗な橋である。橋のそばには五本松の石碑と松、五百羅漢の道標があり、欄干には五本松と小名木川を描いたレリーフがあるが、逆光なのでカメラには納められなかった。五本松は、江戸時代この付近から東(上流方向)にかけて小名木川の河畔に老松があり、 綾部藩(京都府)九鬼家の屋敷から水面に伸びた松を観て、徳川家光が感嘆したことから有名になり、地名となったという。 「江戸名所図会」に描かれ錦絵などにも取材されが、 明治時代になって枯れてしまったということじゃ。
a4d54645.jpg 四つ目通りを新大橋通りまで北上すると、東京メトロ半蔵門線の住吉駅から乗車して押上まで地下鉄で来た。A3出口から東武伊勢崎線に沿って業平橋までの間は線路越しに東京スカイツリーの建設現場である。言問橋通りから言問橋を渡り帰宅した。
 本日の行程、12841歩、8.3kmを記録していた。
8922bf90.jpg
50d5988e.jpg 本日は妙に肌寒い。ジャンパーをつっかけて出かけることにする。コースは昨日と同じコースを取るべく言問橋を渡る。昨日、言問橋から2機のクレーンが見えると書いたが、よく見ると3機のクレーンであった。東武橋を渡ると、北十間川の南沿いの道を十間橋まで歩き、浅草通りに出る。柳島橋から横十間川に沿って南へ下る。本日は亀戸天神は素通りで、天神橋まで下った。蔵前橋を通って帰宅しようと思ったが、行く手に総武線の電車が千葉方面に走るのを見て、錦糸町まで出てみる気になった。
3281b192.jpg
e29de78b.jpg 江東区には「うるおいの木かげ道路」というのがいくつかあるらしいが、此処天神橋~錦糸橋の間のそれが一番初めに設けられたものらしい。錦糸橋の上から南側を見ると横十間川はまだまだ続くようである。横十間川は東京都江東区亀戸と墨田区業平の境界で北十間川から分かれ南へ流れる。ここから竪川が交差する点に至るまで、川の真ん中を墨田区と江東区の区境が走る。竪川を交差し、さらに小名木川と交差する。そこにはX字の小名木川クローバー橋が架かる。さらに仙台堀川と交差した下流で西に流路を変え、江東区東陽で大横川に合流する。江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことから付けられた名前で、別名の天神川はという。亀戸天神の横を流れることに由来する。
fbce50d6.jpg
c2f0c5f9.jpg 錦糸橋を渡るとそこは北斎通りである。途中錦糸公園を通って四つ目通りに出た。これを真っ直ぐ北上。京成橋を渡って、押上商店街に出る。ここから、東武伊勢崎線の踏切を渡って、桜橋通りに出る。水戸街道を過ぎて、見番通りに近い所に「三太郎」という飲み屋があるが、その店の横に黄色の花房を垂らした藤の花が咲いていた。
8a51cc46.jpg 桜橋を渡って帰宅した。白鬚橋を通り過ぎ、今しも桜橋にかかろうかという荷役船が大川を下ってきた。山谷堀の水門前広場では犬の運動場であることに変わりない。本日の記録11009歩、7.1km。
68ee3c1d.jpg 午前5時家を出て、言問橋を渡る。橋の上では上流方向にご来光がみられた。進行真正面に2本のクレーンが見える。その場所を確かめるべく、言問通りを東に進む。東武橋に来て、クレーンが東京スカイツリーの工事現場のものであることが判る。東武橋からみる工事現場は明るい朝の光りを浴びてカメラを向けても逆光で旨くカメラに納まりそうにない。北十間川の南沿いの道を京成橋まで進み、橋の南詰めから現場写真を納めた。
5c82d68c.jpg
f536b0b6.JPG41317eef.JPG 浅草通りに出て、さらに東に進むと横十間川にかかる柳嶋橋。橋の袂に葛飾北斎が信仰したという法性寺(ほっしょうじ)がある。法性寺はここ墨田区業平5丁目7−7業平ハイツにある日蓮宗の寺院である。山号は妙見山、院号を玄和院と号す。通称「柳島妙見さま」と呼ばれる。本尊は久遠実成釈迦牟尼佛(大曼荼羅)を祀る。法性寺縁起によると、治承四年(1180年)伊豆の石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、再起して上総から下総へ入り、柳島に陣をしき、そこにあった松の大木(星降りの松)に源氏の白旗を掲げた。すると戦局は一転、やがて天下を統一し征夷大将軍に任ぜられたことからこの松を、「鎌倉殿旗上げの松」とも呼ぶことになったという。明応元年(1492年)法性房日遄上人がこの松の大木の前で、北辰妙見大菩薩降臨の奇瑞を受け法性寺を建立した。その後、戦国時代の武将である北条氏康や、徳川家康などの名将をはじめ、葛飾北斎、歌川豊国などの画伯、中村仲蔵、市川左団次、六代目菊五郎などの名優など多くの人々が柳島妙見さまのご利益を受けて吉運を開いたと伝えられる。『江戸名所図会』や広重の名所江戸百景にも描かれている。
83be50b6.jpg
59e9ea92.jpg
64bd39a8.jpg






 昭和36年。東京都柳島の妙見山法性寺境内の地下から、「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛。長州萩之家臣杉森某の男なり。賜笏六位云々」という、江戸時代の石碑が忽然と地下から現われたという。というわけで、境内には近松門左衛門の碑と葛飾北斎の顕彰碑が並んで建っている。
44d8a090.jpg 柳島橋の上から横十間川をカメラに納めようとしたが、すく側を並行して水道局のデカ青色パイプが邪魔になるので、川に沿って南に下り、次神明橋の上から横十間川を納めた。



1a4f8757.jpg
dbacd33f.jpg
5e093079.jpg




 次の栗原橋と天神橋の間の路地を入ると、突き当りが亀戸天神である。何度も来たところであるが、我が家から意外に近いことが判った。藤が盛りの頃は境内はいつもいっぱいだというが、朝が早いので境内はガラガラ。それに温暖化のお蔭か藤はかなり丈を伸ばしていた。太鼓橋の付近の藤棚の下を散歩していた老夫婦がカメラで写真を撮っていたので、2人並んだところをカメラに納めてあげたら、この爺のデジカメにこの爺の呆けた姿を入れてくれた。早寝早起き3文の得というけれど、ゆっくりと境内が散策できた。
a92caabc.jpg 亀戸天神を出ると栗原橋まで引き返し、春日通りを西に進み、四つ目通りを北上、再び京成橋迄来たので、橋の上から、北十間川とスカイツリーの工事現場をカメラに納めておいた。
 押上駅前を通り、東武伊勢崎線の踏切を渡って、桜橋通りに出るとそのまま曳舟川通り・小梅通り・水戸街道・見番通りを横切って、桜橋を渡り帰宅した。本日の記録は9896歩、6.4km。亀戸天神は我が家からそんなに遠くはなく今後徘徊のコースに入れることが出来る。
7f8cd413.jpg 今日も長袖1枚で家を出たが、昨日より気温は低く引き返して上っ張りをとも思ったが、面倒で、そのうち何とかなるだろうと、そのまま件(くだん)の落書き横丁を北上。白鬚橋西から汐入公園の遊歩道に入ると、対岸の防災住宅の上から今しもご来光。
a09e8214.jpg
66098d5b.jpg 最初の昇降口からテラスに降りて、千住汐入大橋までぶらぶら。対岸の高速6号線の下にかかる綾瀬橋が見える。ここは旧綾瀬川が隅田川に入る所で、鐘ヶ淵とよばれ隅田川は北から南の流れが、西から東への流れに変わるところで大きく彎曲し、昔から難所とされていたという。汐入公園は出来たばかりの公園で、樹木もまだ茂っていないが、かなり広々とした川ッぷちの公園である。
2caeef67.jpg
58f96506.jpg
1b52c07d.jpg
6e855c43.jpg







3851208d.jpg 千住汐入大橋を渡り、新しく出来たイニシア曙町のビルの横合いの路地を通って、墨堤通りに出た。イニシアのビルの裏手の川沿いにはテラスも設(しつら)えてあり、満開の芝桜が植わっていた。現在入居者応募中で、このテラスには未だ入れないらしい。表に回ると、広場には色々な樹木が植えてあり、木の幹には説明票が取り付けてあるので、植物の名称や原産地などがすぐに解るようになっている。
f7ead4e4.jpg
af057910.jpg このイニシア曙町を通り抜けると、綾瀬橋を渡り、北ゲートから東白鬚公園に入る。梅若橋を渡った所の木母寺の前ではラジオ体操が行われていた。今戸公園や牛嶋神社などでも1年を通してラジオ体操が行われているが、概してお年寄りが多い。子供は学校、若者は勤め、主婦は家事とあるから、まあラジオ体操もご隠居さんの健康配慮なのだろう。
8b390b59.jpg
df81d2c2.jpg 公園の南ゲートに近いところに隅田区立堤小学校がある。この前に先日の新宿御苑で見たほど立派ではないが、コデマリが白い花を付けていた。南ゲートでは早や、鯉のぼりが泳いでいた。早いもので、あと1週間もすれば5月。世の中、大型連休などと浮ついているが、爺は年を取るだけ。どこに出かける予定もない。行き当たりバッタリのお休み。
d6be2d2d.jpg
3b473bcc.jpg 明治通りと墨堤通りの交差点から、白鬚橋の方を見ると、新緑の銀杏(いちょう)並木の下にピンクの躑躅が鮮やかに咲いている。墨堤通りの歩道の脇に蒲公英がさいていた。先日、福岡市在住の甥坊が舞鶴城付近の関西タンポポの写真を送ってくれたので、外来種か在来種かは解らないが、カメラに納めてみた。
e684a12b.jpg 桜橋を渡って帰宅したが、橋の上で言問橋を潜り抜けて、上流を目指す釣り船があった。東京湾で夜釣りでもしての帰りなのかな?
本日の記録は12492歩、8.4kmとあった。


a0743594.jpg
6530798a.jpg 昨日より、少し気温が低いようであったが、長袖1枚で出掛けた。江戸通りを南下、蔵前警察署の横から榊神社に出ると、道をジグザクに取り、柳橋を渡り、両国橋に出る。隅田川に沿う浜町のビルが朝日にてらされて、一段と明るい。回向院前から、国技館通りを北上し、総武線鉄橋下のテラス昇降口からテラスに下りる。
6dbc1471.jpg
5b2d7fea.jpg 蔵前橋の下付近は近頃整備されたらしく、江戸時代にあったという両国の百本杭のイミテーションが作られていた。花壇も少々作りかえられたようである。
 厩橋を過ぎたところで、クラブを振るT氏と数分話し、何時ものように吾妻橋東の昇降口から遊歩道へ出る。このまま、吾妻橋を渡って帰宅しようかとも思ったが、まだ6時10分。そのまま北上し、枕橋を渡り、桜橋へ向う。言問橋の手前で、今日はお一人のワンさんに出会う。桜橋を渡って、帰宅。本日の記録――11511歩、7.4km。
 昨日はK・D君から、東のセッチンの所に西のセッチャンの関門マラソン出場の写真が送られてきた。西のセッチャンは同じセツオでも、医者になるほどの秀才であり、少年時代から同輩や後輩から尊敬されていたから「セッチン」などと呼ばれたことはあるまい。西のセッチンは小学校の頃からヘルニアで、小柳式の脱腸帯をあてがわれ、体操は殆んどお休み、その上成績も下の下、クラスでは虐めの対象にされ、「セッチン」「セッチンムシ」「ダッチョ」その上「ヘッタカ ヘッタカ 屁を日高(ヒッタカ)」と馬鹿にされどおし。
 そも、雪隠(せっちん)とは「その昔、雪竇禅師(せっちょうぜんし)が中国浙江省の雪竇山霊隠寺で便所の掃除をつかさどった」という故事から便所のこと云う様になったといい、鎌倉時代に禅宗とともに日本に入ってきた言葉だという。
81d202e1.jpg
4d0ee697.JPG 今朝は吾妻橋の際の公衆便所でひと垂らしすると、妙に雪隠に取り付かれ、駒形の公衆便所や枕橋際の公衆便所までデジカメに納める始末。雪隠考を書いてみる気になった。
 厠(かわや)とは「川屋」でいわば、自然の水洗トイレということ。弥生時代の遺跡には下水道のような構造が見られることから遅くともこの辺りには便所を造り使われ始めていたとされる。
2ad33c79.JPG 文献に現れるのは古事記の中つ巻の五、景行天皇・成務天皇「倭健の命の西征」の項が初見であるという。平安貴族は樋箱というおまるを使用していた。また 平安時代の草紙などには野外で糞便する光景が描かれているというから庶民には便所というものがなかったのだう。
 「手水(ちょうず)」とは手や顔を洗う手水(てみず)がなまったもので、「手水場(ちょうずば)」という。「手水所(ちょうずどころ)」となると、神仏を拝むときに手や顔を清め口をすすぐ所。
 「御手洗(おてあらい)」は今では一番よく用いられている語で「トイレ(もともとは化粧室の意)」とトップを争っているようだ。何々「御手洗団子(おてあらいだんご)」とは、いかにも不味そうな団子のように思えるが、これは「みたらしだんご」と読むのだそうだ。「御手洗(みたらし)」とは、「手水所(ちょうずどころ)」と同じく、神社で手や口を清める所で、京都の下鴨神社の境内には御手洗川が流れている。そしてここ糺の森で売っている団子が御手洗(みたらし)団子なのである。今は全国的に行き渡り、1串に3~5個の団子が刺してあり、醤油で味付けした葛餡がまぶしてあるもので、元々は下鴨神社の御手洗池の水泡を模して作られたものだという。
 禅寺のトイレが僧堂の後ろに後ろに設けた洗面所のそばにあったことから、トイレを「後架」と呼ぶようになった。「総後架」とは共同トイレのことである。
559a6195.JPG 共同トイレといえば江戸時代の長屋では戸別にトイレがあったわけではなく、長屋の中央に「総後架」が設けられていたという。京橋は柳町の39戸の長屋には6つのトイレしかなかったというから随分とふべんなことであったろう。北斎漫画にも厠ユーモラスに描かれている。
 「御不浄(ごふじょう)」「憚(はばかり)」については、今や爺婆が知っているだけで、若者にとっては死語になりつつある。
 われわれも時にトイレを「哲学の部屋」など称して、トイレで思考を凝らすことがあるが、戦国の武将かの武田信玄は「山」に行ってくるといって、小半刻(こはんどき)もトイレで作戦を練ることがあったそうな。何ゆえトイレを「山」といったのだろう。その心は「草木(臭き)多き所」という訳。
60ff9289.JPG JICA(Japan International Cooperation Agency)に勤務する甥(福岡市在住)の娘Eが、自ら望んで、この6月からアフリカはスーダンに赴任することになったという。昨夜10時に放映されたNHKのプロフェショナルという番組をビデオに録画しておいた。
 中東やアフリカなどの紛争地に赴き、DDR(武装解除・動員解除・社会復帰)と呼ばれる国家規模の武装解除を担う、NGO日本紛争予防センター事務局長・瀬谷ルミ子(32)氏。兵士から武器を回収、治安を回復させ、国を復興へと導く。
82e75534.JPG この10年、瀬谷氏は、国連職員や外務省職員などの立場でシエラレオネ、アフガニスタン、コートジボアールなどのDDRに関わってきた。今はその経験を生かし、フリーの専門家として仕事を請け負う。
 この2月、アフリカ・スーダンで18万人を扱う史上最大のDDRプロジェクトがスタート。国連からの要請を受け   参加する瀬谷氏は、国連や政府に提言する際、徹底して現地調査を行う。目の前の一人一人の声に耳を傾け、現実の中から答えを見つけ出す。
 とにかく、映像で見る限り、スーダンという国は大変な処らしい。よくもこんな所に行く気になったものだ。「Eちゃんは向こう見ずなところがあるからね」という人もいるが、いやいや、どうしてどうして立派なものだと考える。
6f877b66.jpg
60a2de02.jpg 昨日の予報では今朝は雨のはずであったが、どうやら止んだらしい。気温も初夏並みで、長袖1枚で徘徊に出かけた。隅田公園のテラス上の遊歩道を南下していると、目の前に言問橋修復工事のデカ桟橋が目に入った。桟橋の上に工事現場が設えてあり、飯場も見られた。吾妻橋の袂、水上バスステーション(現在改装中)の前の公衆便所でひと垂れして、雷門通りを横切り、江戸通りと並行する裏道を通って駒形橋に出る。
8764767c.jpg
b3ca135b.jpg ここ示現堂の裏手にも公衆便所があり、何となくデジカメに入れると、便所についていろいろと考えていた。駒形橋を渡り、墨田区側の遊歩道を北上して、吾妻橋の信号までくると、真上に雲固の切れ端が聳え立っている。いやはや、尾篭(びろう、烏滸《おこ》の当て字)なる沙汰を考えていたので、折角の炎のオブジェも尾篭なる舞台に見えたらしい。いやいや、これは日常生活では1日たりとも欠かすことの出来ぬこと、別項目「雪隠考」を設けて書いてみようか。
60483b69.jpg
957e37e2.jpg 雨天のはずの天候が、陽が射し始めた。白鬚橋が躑躅の埋め込みの向こうに輝いて見える。明治通りに沿って墨堤通りまで下ると、明治通りを横切り、今度はこの通りを逆に登って、白鬚橋の上流側の歩道を通る。リバーサイド隅田のビルの上のほうはもう青空になっている。
c51ec816.jpg
64f89dcf.jpg 再び明治通りを横切り、件の隅田川沿いの遊歩道に出た。最初の昇降口からテラスに降りて歩いてみる。昨夜の雨でここはかなり荒れたようで、どの青色御殿も布団干や濡れ物の始末で大童のようだ。テラスの橋場から今戸に入るあたりに憩い場に這わせた藤のがあるが、まだ4月というのにもう花盛り。これも異常気候のせいなのかな? 桜橋から遊歩道に昇ったところに銀杏が新緑の新しい葉を付けている。何時ものように山谷堀の水門広場を抜けて帰宅した。本日の記録は10651歩、6.9kmとあった。
f3010521.JPG
51fde17f.JPG 朝のニュースで歌手で女優の清水由貴子の自殺が報じらていた。蔵前中学出身、同期の連中の多くが兼愛塾に通っていた。かなり前の話であるが、「わたくしの初恋の人」という番組で、H・M君がテレビに引き出されたことがあったっけ。いつも明るい笑みを湛えた感じのよいタレントで、みんなから羨ましがられる程のタレントであったが、人間の一生なんて解らないものである。冥福を祈る。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
02 2025/03 04
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/