瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
厩橋の袂で何時ものようにT氏がクラブを振っていらっしゃる。テラスから蔵前橋を見上げると欄干に芸妓・力士のレリーフがはっきりと見て取れる。
萬年橋(まんねんばし)は、小名木川にかかる橋で第一橋梁であるという。北岸は江東区常盤一丁目、南岸は江東区清澄一丁目と二丁目を分かつ。当橋のすぐ西側で小名木川は隅田川と合流、東側には新小名木川水門が設置されている。萬年橋が架橋された年代は定かではないが延宝8(1680)年の江戸地図には「元番所のはし」として当所に橋の記載があるという。
江戸通りを南下。春日通りを通り過し、蔵前橋通りから、榊神社そして柳橋へと何時ものコースを通って両国橋の架かる靖国通りに出る。橋の西袂から親水テラスに降りて、新大橋のに向けて歩く。

この間上流から東京湾に向う何艘かの釣り船に追い越された。どの釣り船にも4・5人の釣り人らしき人を乗せている。ここの親水テラスは一部両国ジャンクションの下になっている。高架線の隙間から明治座が朝日を浴びているのが見える。
新大橋を渡るつもりが、清洲橋まで足を伸ばすことにする。新大橋を過ぎた付近でひと休みしている警備員さんがいたので、カメラを向けるとそのうちの無帽でいた一人が「ちょっと待ってください」と、あわてて制帽をかぶって、3人仲良くカメラに納まってくれた。

前方に西岸の日本橋中洲と東岸の清澄町を結ぶ清洲橋が見える。この橋は「震災復興の華」と呼ばれた優雅デザインで、当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあった大吊り橋(第2次世界大戦で破壊されて現在はつり橋ではない)をモデルにしているという。清洲橋下のテラスから前方を見ると高速深川線と隅田川大橋があり、その間から遠く永代橋が見え、その後方に佃島の大川端リバーシィのビル街も見える。

川下の昇降口から清洲橋通りに上がると西袂に説明板があるが、この橋を設計した方でもなく、作った人でもないのに、ここにどうして東京都知事の名前を入れなくてはならないのだろう。このお方は物書きあがりで、悪筆で知られているお方であるが、こうして説明板の表題として書かれた字をみると芸術的筆跡に見えるから不思議である。まあ、人間どうしてこうまでして名前を残したがるのだろう。

清洲橋通りを昨日の四つ目橋まで西進。途中大横川に架かる扇橋を渡る。この大横川は北十間川近くでは殆んど干からびて公園となっているが、この辺りでは川一面に水を湛えている。

四つ目通りに入り、昨日通った小名木川橋を渡ったが、下流の小松橋にかけて凄い群れのユリカモメが游んでいた。橋の欄干には江戸名所図会の小名木川の五本松のレリーフが飾られている。
このまま、四つ目通りを北上。昨日と同じように住吉からは地下鉄半蔵門線に乗車、押上で降りると、桜橋通りを通り、桜橋を渡って帰宅した。
今日は少々調子付いて歩き過ぎたようだ。omron万歩計は15113歩、9.8kmを記録。
このまま、四つ目通りを北上。昨日と同じように住吉からは地下鉄半蔵門線に乗車、押上で降りると、桜橋通りを通り、桜橋を渡って帰宅した。
今日は少々調子付いて歩き過ぎたようだ。omron万歩計は15113歩、9.8kmを記録。
本日は昭和の日。2007(平成19)年から加わった、現在のところ最も新しい国民の祝日である。

昨日徘徊した横十間川のさらに南を探索すべく、昨日と同じコースを取る。天神橋と錦糸橋の丁度中間辺りに「亀戸銭座跡」のモニュメントを見つけた。寛文8年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルに作成したもので、レリーフには、(銭座絵巻)(享保13 《1728》 年)より銭座で行われていた銅貨製造工程のうち、平研(銅貨の表面を磨く)作業をしている図(日本銀行貨幣博物館所蔵)の絵を参考にしたものが描かれている。江戸時代に銅銭が本格的に鋳造されたのは、寛永13《1636》年に始まるという。そのため、幕末までに造られた銅銭は全て寛永通宝と称し、「寛永通宝」の文字が打ち出されている。錦糸橋の袂に「うるおいの木かげ道路」のレリーフが作られていた。
横十間川の水際が遊歩道になっていて、公園を形成している。松代橋(まつしろばし) 全長39.2m・幅40mで、国道である京葉道路を通すこともあって国の管理 となっていて、 江東橋四丁目と江東区亀戸一丁目を結ぶ橋。現在の橋は昭和44年に架けられたものであるという。橋の名はこの辺が本所松代町と呼ばれていたので、付けられた。松代町は、江東区高橋辺に松代藩真田家の控え屋敷があった町で、公用地となつて竪川の北、今の江東橋四丁目に移ってきた。明治13年までは、元の地名の深川を入れて、深川北松代町と云っていたという。
旅所橋 (たびしょばし)は全長42.1m・幅12mで墨田区管理だという。松代橋と同じく江東橋四丁目から江東区亀戸一丁目に架かる橋。創架は万治2(1659)年で現在の橋は昭和51年製という。本所開拓のため、この横十間川が掘られたが、その時墨田区内はこの旅所橋と天神橋そして柳島橋の三本だけが架けられていた。 はじめこの橋の名は無かったのだが、寛文年間(1660~70年代)に東詰めに亀戸天神のお旅所(かりや)が出来たときに旅所橋と名付けられたという。お旅所とは、祭礼の時に御神輿が本宮から渡御して仮に暫く留まる所を云うのだそうで、本所二丁目の若宮公園には今なお、牛島神社のお旅所があるという。この橋の墨田区側の上流部には都立墨東病院がある。



高速小松川線の通る下が竪川になっている。向こうに松本橋が見える。この通りは、墨田区側は墨東病院に突き当り、左右に分かれます。江東区側は猿江恩賜公園に突き当り、左右に分かれている。清水橋、本村橋の下を潜り、とうとう小名儀側まで来てしまった。



横十間川と小名木川の合流地点にはクローバー橋が架かっており、おそらく四葉のクローバからとった名称だと思うが、4地点から架けられ交差する橋の中心部で結合しているいわばスクランブル橋である。
小名木川に並行する南岸の道を西に四つ目通りまで歩くと、このあたりは扇橋と言い、KYさんは確かこの辺りに住んでいることを思い出した。四つ目通りに出るとそこは小名木川橋であった。



小名木川橋は橋の幅も広く、 橋上に植え込みもある綺麗な橋である。橋のそばには五本松の石碑と松、五百羅漢の道標があり、欄干には五本松と小名木川を描いたレリーフがあるが、逆光なのでカメラには納められなかった。五本松は、江戸時代この付近から東(上流方向)にかけて小名木川の河畔に老松があり、 綾部藩(京都府)九鬼家の屋敷から水面に伸びた松を観て、徳川家光が感嘆したことから有名になり、地名となったという。 「江戸名所図会」に描かれ錦絵などにも取材されが、 明治時代になって枯れてしまったということじゃ。
四つ目通りを新大橋通りまで北上すると、東京メトロ半蔵門線の住吉駅から乗車して押上まで地下鉄で来た。A3出口から東武伊勢崎線に沿って業平橋までの間は線路越しに東京スカイツリーの建設現場である。言問橋通りから言問橋を渡り帰宅した。
本日の行程、12841歩、8.3kmを記録していた。
横十間川と小名木川の合流地点にはクローバー橋が架かっており、おそらく四葉のクローバからとった名称だと思うが、4地点から架けられ交差する橋の中心部で結合しているいわばスクランブル橋である。
小名木川に並行する南岸の道を西に四つ目通りまで歩くと、このあたりは扇橋と言い、KYさんは確かこの辺りに住んでいることを思い出した。四つ目通りに出るとそこは小名木川橋であった。
本日の行程、12841歩、8.3kmを記録していた。
昭和36年。東京都柳島の妙見山法性寺境内の地下から、「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛。長州萩之家臣杉森某の男なり。賜笏六位云々」という、江戸時代の石碑が忽然と地下から現われたという。というわけで、境内には近松門左衛門の碑と葛飾北斎の顕彰碑が並んで建っている。
次の栗原橋と天神橋の間の路地を入ると、突き当りが亀戸天神である。何度も来たところであるが、我が家から意外に近いことが判った。藤が盛りの頃は境内はいつもいっぱいだというが、朝が早いので境内はガラガラ。それに温暖化のお蔭か藤はかなり丈を伸ばしていた。太鼓橋の付近の藤棚の下を散歩していた老夫婦がカメラで写真を撮っていたので、2人並んだところをカメラに納めてあげたら、この爺のデジカメにこの爺の呆けた姿を入れてくれた。早寝早起き3文の得というけれど、ゆっくりと境内が散策できた。
押上駅前を通り、東武伊勢崎線の踏切を渡って、桜橋通りに出るとそのまま曳舟川通り・小梅通り・水戸街道・見番通りを横切って、桜橋を渡り帰宅した。本日の記録は9896歩、6.4km。亀戸天神は我が家からそんなに遠くはなく今後徘徊のコースに入れることが出来る。
本日の記録は12492歩、8.4kmとあった。
厩橋を過ぎたところで、クラブを振るT氏と数分話し、何時ものように吾妻橋東の昇降口から遊歩道へ出る。このまま、吾妻橋を渡って帰宅しようかとも思ったが、まだ6時10分。そのまま北上し、枕橋を渡り、桜橋へ向う。言問橋の手前で、今日はお一人のワンさんに出会う。桜橋を渡って、帰宅。本日の記録――11511歩、7.4km。
昨日はK・D君から、東のセッチンの所に西のセッチャンの関門マラソン出場の写真が送られてきた。西のセッチャンは同じセツオでも、医者になるほどの秀才であり、少年時代から同輩や後輩から尊敬されていたから「セッチン」などと呼ばれたことはあるまい。西のセッチンは小学校の頃からヘルニアで、小柳式の脱腸帯をあてがわれ、体操は殆んどお休み、その上成績も下の下、クラスでは虐めの対象にされ、「セッチン」「セッチンムシ」「ダッチョ」その上「ヘッタカ ヘッタカ 屁を日高(ヒッタカ)」と馬鹿にされどおし。
そも、雪隠(せっちん)とは「その昔、雪竇禅師(せっちょうぜんし)が中国浙江省の雪竇山霊隠寺で便所の掃除をつかさどった」という故事から便所のこと云う様になったといい、鎌倉時代に禅宗とともに日本に入ってきた言葉だという。

今朝は吾妻橋の際の公衆便所でひと垂らしすると、妙に雪隠に取り付かれ、駒形の公衆便所や枕橋際の公衆便所までデジカメに納める始末。雪隠考を書いてみる気になった。
厠(かわや)とは「川屋」でいわば、自然の水洗トイレということ。弥生時代の遺跡には下水道のような構造が見られることから遅くともこの辺りには便所を造り使われ始めていたとされる。
文献に現れるのは古事記の中つ巻の五、景行天皇・成務天皇「倭健の命の西征」の項が初見であるという。平安貴族は樋箱というおまるを使用していた。また 平安時代の草紙などには野外で糞便する光景が描かれているというから庶民には便所というものがなかったのだう。
「手水(ちょうず)」とは手や顔を洗う手水(てみず)がなまったもので、「手水場(ちょうずば)」という。「手水所(ちょうずどころ)」となると、神仏を拝むときに手や顔を清め口をすすぐ所。
「御手洗(おてあらい)」は今では一番よく用いられている語で「トイレ(もともとは化粧室の意)」とトップを争っているようだ。何々「御手洗団子(おてあらいだんご)」とは、いかにも不味そうな団子のように思えるが、これは「みたらしだんご」と読むのだそうだ。「御手洗(みたらし)」とは、「手水所(ちょうずどころ)」と同じく、神社で手や口を清める所で、京都の下鴨神社の境内には御手洗川が流れている。そしてここ糺の森で売っている団子が御手洗(みたらし)団子なのである。今は全国的に行き渡り、1串に3~5個の団子が刺してあり、醤油で味付けした葛餡がまぶしてあるもので、元々は下鴨神社の御手洗池の水泡を模して作られたものだという。
禅寺のトイレが僧堂の後ろに後ろに設けた洗面所のそばにあったことから、トイレを「後架」と呼ぶようになった。「総後架」とは共同トイレのことである。
共同トイレといえば江戸時代の長屋では戸別にトイレがあったわけではなく、長屋の中央に「総後架」が設けられていたという。京橋は柳町の39戸の長屋には6つのトイレしかなかったというから随分とふべんなことであったろう。北斎漫画にも厠ユーモラスに描かれている。
「御不浄(ごふじょう)」「憚(はばかり)」については、今や爺婆が知っているだけで、若者にとっては死語になりつつある。
われわれも時にトイレを「哲学の部屋」など称して、トイレで思考を凝らすことがあるが、戦国の武将かの武田信玄は「山」に行ってくるといって、小半刻(こはんどき)もトイレで作戦を練ることがあったそうな。何ゆえトイレを「山」といったのだろう。その心は「草木(臭き)多き所」という訳。
そも、雪隠(せっちん)とは「その昔、雪竇禅師(せっちょうぜんし)が中国浙江省の雪竇山霊隠寺で便所の掃除をつかさどった」という故事から便所のこと云う様になったといい、鎌倉時代に禅宗とともに日本に入ってきた言葉だという。
厠(かわや)とは「川屋」でいわば、自然の水洗トイレということ。弥生時代の遺跡には下水道のような構造が見られることから遅くともこの辺りには便所を造り使われ始めていたとされる。
「手水(ちょうず)」とは手や顔を洗う手水(てみず)がなまったもので、「手水場(ちょうずば)」という。「手水所(ちょうずどころ)」となると、神仏を拝むときに手や顔を清め口をすすぐ所。
「御手洗(おてあらい)」は今では一番よく用いられている語で「トイレ(もともとは化粧室の意)」とトップを争っているようだ。何々「御手洗団子(おてあらいだんご)」とは、いかにも不味そうな団子のように思えるが、これは「みたらしだんご」と読むのだそうだ。「御手洗(みたらし)」とは、「手水所(ちょうずどころ)」と同じく、神社で手や口を清める所で、京都の下鴨神社の境内には御手洗川が流れている。そしてここ糺の森で売っている団子が御手洗(みたらし)団子なのである。今は全国的に行き渡り、1串に3~5個の団子が刺してあり、醤油で味付けした葛餡がまぶしてあるもので、元々は下鴨神社の御手洗池の水泡を模して作られたものだという。
禅寺のトイレが僧堂の後ろに後ろに設けた洗面所のそばにあったことから、トイレを「後架」と呼ぶようになった。「総後架」とは共同トイレのことである。
「御不浄(ごふじょう)」「憚(はばかり)」については、今や爺婆が知っているだけで、若者にとっては死語になりつつある。
われわれも時にトイレを「哲学の部屋」など称して、トイレで思考を凝らすことがあるが、戦国の武将かの武田信玄は「山」に行ってくるといって、小半刻(こはんどき)もトイレで作戦を練ることがあったそうな。何ゆえトイレを「山」といったのだろう。その心は「草木(臭き)多き所」という訳。
中東やアフリカなどの紛争地に赴き、DDR(武装解除・動員解除・社会復帰)と呼ばれる国家規模の武装解除を担う、NGO日本紛争予防センター事務局長・瀬谷ルミ子(32)氏。兵士から武器を回収、治安を回復させ、国を復興へと導く。
この2月、アフリカ・スーダンで18万人を扱う史上最大のDDRプロジェクトがスタート。国連からの要請を受け 参加する瀬谷氏は、国連や政府に提言する際、徹底して現地調査を行う。目の前の一人一人の声に耳を傾け、現実の中から答えを見つけ出す。
とにかく、映像で見る限り、スーダンという国は大変な処らしい。よくもこんな所に行く気になったものだ。「Eちゃんは向こう見ずなところがあるからね」という人もいるが、いやいや、どうしてどうして立派なものだと考える。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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