瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昨日は雨で徘徊はお休み。今日は、一昨日と同じく言問橋の上流側の歩道を通る。橋の下の土手沿いの遊歩道はここで行き止まりになるが、一昨日はこの土手の遊歩道行き止まりの処で、10数名の男女若者が茣蓙を敷いて屯していた。夏休みに入った何処かの大学生のキャンプ代わりのお遊びと思っていたが、今朝は土手からシートを掛けてテント代わりにしてござらっしゃる。シートの隙間から若者たちのごろ寝の姿が丸見えだ。一昨日からの滞在となるとなにか目的があってのことなのか。どうみてもホームレスとは思えない。明後日は隅田川の花火大会が予定されているが、もしかしたら大学の写真のクラブの合宿代わりにここを拠点に花火の場所取りなのかもしれない。昨日の悪石島の日蝕観測ではないが、準備万端整った所で雨でも降ればお流れにもなりかねないのにご苦労なこった。
言問橋を渡って、東武業平橋駅前を通り、大横川に沿う東側の道を北斎通りまで南下する。北斎通りに来た頃、空から冷たいものが落ち始めたが、まあたいしたことはあるまいと、北斎通りを西に長崎橋を渡って、2つ目の信号を左折すると其処は墨田区立竪川小学校。校門の南角に『山岡鉄舟旧居跡』の史跡説明板がある。曰く「江戸末期の幕臣(将軍直属の家来)で剣術家、維新後に無刀流の創始者ともなり、侍従も勤めた山岡鉄舟の生家小野家が竪川中学校の正門あたりにありました。鉄舟は天保7 (1836) 年、御蔵奉行だった旗本小野朝右衞門高福(たかとみ)の五男として生まれ哲太郎と名付けられました。安政4 (1857) 年頃、槍術で知られる旗本山岡静山の妹婿となり山岡高歩(たかゆき)、号は鉄舟(本名の他につける名)を名乗りました。鉄舟の義兄ともなった槍の名手精一郎は旗本高橋家に入婿し、後に泥舟と号するようになります。勝海舟も含めてこの三人は《幕末の三舟》として知られています。慶応4 (1868) 年、江戸城総攻撃に先立ち鉄舟は西郷隆盛と接触し、勝海舟と協力して江戸城無血開城への道を開きました。明治維新後、静岡県や茨城県などで参事や県令(知事)となり、明治4 (1871) 年より明治天皇の侍従として厚い信頼を得ましたが、同21 (1888) 年53歳で死去し、台東区谷中の全生庵に葬られました。鉄舟は書家一楽斎としても有名ですが、区内木母地の境内にある《三遊塚》の碑文は鉄舟(表)、泥舟(裏)の筆になります。平成19年11月 墨田区教育委員会」



竪川中学校の前をさらに南下して総武高架線を潜るとすぐに永倉稲荷神社がある。永倉稲荷神社は大正2(1913)年に本所区永倉町(現在の墨田区亀沢辺り)にあった菓子商宅から出火し、永倉町始まって以来の大火災となったが、鎮火後焼け跡から稲荷の社跡が発見され、占ったところ、この火災は稲荷大神の災とご宣託があったので有志で社を建立し、火厄よけの神として、奉斎したことから始まったという。その後昭和20(1945)年に、戦災で社殿を消失したため、現在の墨田区緑四丁目に新しい社殿・社務所を建立したということである。敷地は約17坪(約56㎡)、氏子155世帯と非常に小さな神社だが、火厄よけの神として、地域を守っているという。
永倉稲荷神社から総武線にそって三つ目通りに出る。一昨日と同じ道を通るのも能がないので、北斎通りを西進し、区役所通りを北上することにした。北斎通りから区役所通りに入ってすぐのところに「河竹黙阿弥終焉の地」の案内柱が立っている。木阿弥は幕末から明治に掛けて活躍した狂言作者で、主人公は泥棒が多く、自らを「白浪作者」と称したほど、登場人物は大抵悪人なのである。黙阿弥作品では、その「悪」までが絵画的に美化されるのである。
区役所通りをそのまま北上すると淺草通りからの清澄通りへの基点のなるところに出る。淺草通りを通って、吾妻橋を渡るころは雨は本降りになっていた。雨の中を隅田公園を通って帰宅した。9279歩、6.0㎞が本日の記録。
永倉稲荷神社から総武線にそって三つ目通りに出る。一昨日と同じ道を通るのも能がないので、北斎通りを西進し、区役所通りを北上することにした。北斎通りから区役所通りに入ってすぐのところに「河竹黙阿弥終焉の地」の案内柱が立っている。木阿弥は幕末から明治に掛けて活躍した狂言作者で、主人公は泥棒が多く、自らを「白浪作者」と称したほど、登場人物は大抵悪人なのである。黙阿弥作品では、その「悪」までが絵画的に美化されるのである。
区役所通りをそのまま北上すると淺草通りからの清澄通りへの基点のなるところに出る。淺草通りを通って、吾妻橋を渡るころは雨は本降りになっていた。雨の中を隅田公園を通って帰宅した。9279歩、6.0㎞が本日の記録。
竪川中学校の前をさらに南下して総武高架線を潜るとすぐに永倉稲荷神社がある。永倉稲荷神社は大正2(1913)年に本所区永倉町(現在の墨田区亀沢辺り)にあった菓子商宅から出火し、永倉町始まって以来の大火災となったが、鎮火後焼け跡から稲荷の社跡が発見され、占ったところ、この火災は稲荷大神の災とご宣託があったので有志で社を建立し、火厄よけの神として、奉斎したことから始まったという。その後昭和20(1945)年に、戦災で社殿を消失したため、現在の墨田区緑四丁目に新しい社殿・社務所を建立したということである。敷地は約17坪(約56㎡)、氏子155世帯と非常に小さな神社だが、火厄よけの神として、地域を守っているという。
区役所通りをそのまま北上すると淺草通りからの清澄通りへの基点のなるところに出る。淺草通りを通って、吾妻橋を渡るころは雨は本降りになっていた。雨の中を隅田公園を通って帰宅した。9279歩、6.0㎞が本日の記録。
永倉稲荷神社から総武線にそって三つ目通りに出る。一昨日と同じ道を通るのも能がないので、北斎通りを西進し、区役所通りを北上することにした。北斎通りから区役所通りに入ってすぐのところに「河竹黙阿弥終焉の地」の案内柱が立っている。木阿弥は幕末から明治に掛けて活躍した狂言作者で、主人公は泥棒が多く、自らを「白浪作者」と称したほど、登場人物は大抵悪人なのである。黙阿弥作品では、その「悪」までが絵画的に美化されるのである。
区役所通りをそのまま北上すると淺草通りからの清澄通りへの基点のなるところに出る。淺草通りを通って、吾妻橋を渡るころは雨は本降りになっていた。雨の中を隅田公園を通って帰宅した。9279歩、6.0㎞が本日の記録。
本日は榎稲荷神社を目当てに歩いたが、期せずして3つの稲荷と1つの地蔵尊に出会ったわけである。後は三之橋を渡り、三つ目通りを北上。言問橋東詰にでて、橋を渡って帰宅した。橋の上で小雨がパラつきだしだが、たいしたことはなかった。omron万歩計は10788歩、7.0㎞を記録していた。
元徳稲荷については、写真の「神社略記」を超える詳細記事は今のところ見当たらず。
昨日は日曜日。寝坊してしまった。何となく出そびて、朝食後は気温が上がって、出掛けるのが億劫になった。
今朝は、気がつくと桜橋の上にいた。今しもご来光、時計を見ると4時50分。いつしか、押上商店街を抜けて四つ目通りを歩いている。昨日は別にして、ここ4・5日は、四つ目通りを南下し、三つ目通りを北上して帰宅というパターンを繰り返しているようだ。

四つ目通りが北斎通りと交差する、錦糸公園の南西の端っこに千種稲荷があった。千種稲荷は徳川四代将軍家綱の時(寛文~延宝)に治水工事が行われその後、柳島村の守護神として祭られたと伝えられているそうだ。明治時代になっても、この稲荷神社は保護されて郷土の守護神として残されたという。その後陸軍糧秣廠(りょうまつしょう、陸軍の将兵の食糧や軍馬の秣を蓄えた役所)本所倉庫をこの地に建設した際、敷地内にあった稲荷神社を取り払ったところ再三火災が発生したそうな。そこでもとの位置に稲荷社を再建して祀ったところ不思議にもその後火災はまったく起こらなかったという。大正12(1923)年の関東大震災はもちろん、昭和20(1945)年の東京大空襲にもなんの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を逃れたという。現在は錦糸公園の南西の端、北斎通りに面したところに祀られている。
北斎通りを西に向って、三つ目通りまでくると、ここを北上し、言問橋を渡って、帰宅した。夏休みに入って7月31日まで、待乳山聖天公園でラジオ体操をやるというチラシが回って来たのを思い出し、公園に行ってみると、誰もおらず,閑散としたもの。どうやら今日は「海の日」という祭日でお休みということらしい。
北斎通りを西に向って、三つ目通りまでくると、ここを北上し、言問橋を渡って、帰宅した。夏休みに入って7月31日まで、待乳山聖天公園でラジオ体操をやるというチラシが回って来たのを思い出し、公園に行ってみると、誰もおらず,閑散としたもの。どうやら今日は「海の日」という祭日でお休みということらしい。
錦糸公園内にあるという千種稲荷を訪ねて昨日と同じコースを取った。桜橋通りから四つ目通りを南下、錦糸公園に来た。錦糸公園の内部をあちこちと探して歩くが、千種稲荷らしきものは見当たらない。公園内は総合体育館の建設中で、きっとこのために千種稲荷は廃社になったのだろうと、早合点して探すのを諦めて蔵前橋通り三つ目通りまで西に進む。三つ目通りを北上し、春日通りと交差する角地に和風の御茶屋がある。一応名前の知られた通りの角地という所は大抵大きな店舗が買い占めていてビルになっているのが普通であるが、こうした風景は珍しい。源森橋まで来ると東京スカイツリーが眼に入ったので、デジカメに収めた。今日の徘徊は11007歩、7.1㎞となっていた。



帰宅後、インターネットで調べてみると、錦糸公園の南西の端っこにあるという。まあ、また訪ねてみればよいだろう。
帰宅後、インターネットで調べてみると、錦糸公園の南西の端っこにあるという。まあ、また訪ねてみればよいだろう。
昨日訪ねようとした田螺稲荷を家にある地図帳で調べたが、「町の内伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるだけあって、稲荷なんて掃いて棄てるほどあるらしく、どの地図帳にも出ていない。ないとなるとどうしても訪ねてみたいというのが人情。こんなことを考えながら家を出た。
まだ、薄暗い隅田公園の山谷堀水門の前に来ていた。桜橋越しに日の出前の朝焼けが綺麗だ。いつの間にか昨日と同じ桜橋通りを歩いていた。東武伊勢崎線の踏み切り近くになって、驟雨がやって来た。先ほどの桜橋の朝焼けはどうしたのだろう? 引き返そうかとも思ったが、家に帰った途端に「止んだ」では口惜しいので、夏場だし張子の虎じゃあるまいし、濡れたってどうということはないので、そのまま四つ目通りを南下する。蔵前橋通りにかかるころに雨は一旦小降りになったが、錦糸町駅東にある京葉道路に横切る歩道橋を渡っているとまた降り出した。ずぶ濡れになりながら、万歩計とカメラが濡れてはとちょっと気になる。

四之橋北詰に来ると、昨日は馬車通りとダービー通りを行ったり来たりしたのであるが、今日は竪川沿いの道から歩いてみた。この辺りには妖しげなキャバクラ紛いの店舗や連れ込み宿がならんでいて、朝も早いというのに、店の中からはバンドの演奏と男女の嬌声が響いてくる。あったあった在りました。道に面して鳥居がありその前をバイクが塞いでいる。鳥居を潜ると、ビルの谷間の奥まった所に田螺稲荷の小祠があり、前をお狐様が見護っている。辺りを見回してみたが、何処にも説明板らしきものは見当たらない。かなりの雨が降ってはいたが、構わずに取り敢えずデジカメに収めておくことにした。
田螺稲荷は元の名は田中稲荷といい、大火でお稲荷さんが類焼しそうになった時、社(もり)の池から田螺が続々と這い出してお稲荷さんの壁に張り付き、守ったということから「火防せ」の神様として崇められているということである。
竪川沿いの道の1つ北側の馬車通りを西に三つ目通りまで進んだ。大横川に架かる「北辻橋」が昭和63年に撤去された跡に「時の鐘」の記念碑が建っている。昨日と同じく、三つ目通りを北上し、言問橋を渡って帰宅した。本日は11955歩、7.7㎞の徘徊であった。
田螺稲荷は元の名は田中稲荷といい、大火でお稲荷さんが類焼しそうになった時、社(もり)の池から田螺が続々と這い出してお稲荷さんの壁に張り付き、守ったということから「火防せ」の神様として崇められているということである。
桜橋を渡ると、桜橋通りを西に取り、押上商店街に出た。京成橋から四つ目通りを下りながら、この通りが竪川と交わる四之橋の北に田螺稲荷というのがあることなので訪ねてみようと考えた。

四つ目通りを南下して四之橋の北詰まで来たが、路地をあちこちと訪ねているうちに、天台宗の江東寺というのがあった。山号は五徳山と号し、通称江東観音と呼ばれるという。本尊は千手観世音菩薩を祭り、昭和15(1940)年坂東三十三観世音十六番札所水澤観世音(群馬県伊香保市)の別院として建立されたという。錦糸町駅から近いこともあって、錦糸町の観音様として親しまれているという。狭い境内の中に清昌稲荷というのがあるが、江東寺の門扉は閉ざされていて境内には入れない。門扉の鉄柵の間にカメラを突っ込んで何とか写真を収めた。
目的の田螺稲荷は見つからず、京葉道路に出て西に三つ目通りまで来た。ここを北上、蔵前橋通り、春日通り、淺草通りを横切って源森橋から言問い通り東詰めに出る。ここから言問橋を渡って帰宅した。本日は11889歩、7.7㎞の徘徊となっていた。
目的の田螺稲荷は見つからず、京葉道路に出て西に三つ目通りまで来た。ここを北上、蔵前橋通り、春日通り、淺草通りを横切って源森橋から言問い通り東詰めに出る。ここから言問橋を渡って帰宅した。本日は11889歩、7.7㎞の徘徊となっていた。
日光街道に戻ると、千住大橋を引き返し、昨日通ったコツ通りを南下し、方々で仕事にあぶれた労務者が屯している吉野通りを通って帰宅した。本日の徘徊は11987歩、7.7㎞。
日吉(日枝)・山王信仰の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)といわれる。「咋」は「杭」と同義で、山に杭(くい)を打って「ここは私の所有地だよ」とすることを意味する。つまり、この神は山の所有者という訳である。しかし、ここは千住の日枝神社は1316年に建てられたと伝えられる千住宿の鎮守であったということで、江戸時代には山王社と呼ばれていたそうで、その他の詳細は不明。案内板にある清兵衛の小祠も何処にあるか判らなかった。江戸時代に浅草の日本堤以北に拡大していった地域を守る塩入土手が千住宿を起点にして此処の南を通っている。
素盞雄神社からもと来たコツ通りを引き返し、一つ目の信号を左折して、最近若い人たちの間で評判のLaLaテラスに出る。ここから真っ直ぐに西に進むと西白鬚ポンプ場へ出る。ここから何時もの道を瑞光橋を渡り、橋場・今戸の街中を通って帰宅した。本日の記録は10519歩、6.8km。
素盞雄神社(飛鳥神社)の祭神は素盞雄命、事代主命(飛鳥大神)、大己貴命(おほなむち、大国主の若い頃の名前)で、境内には稲荷神社・菅原神社などいくつかの併社がある。当社の縁起由来では、「開祖の黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、延暦14(795)年4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、『吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん』と神託を授け、黒珍は一祠を建て鄭重に祀り、当社が御創建された」とある。スサノオ大神の御社殿を西向きに、アスカ大神の御社殿を南向きにそれぞれ造営し、神霊を遷したが、享保3(1718)年類焼による両社炎上のため、同12年に相殿(あいどの:一つの御社殿)として二柱を祀る御殿(瑞光殿:ずいこうでん)を新たに建築し奉斎したという。
江戸名所図絵による社伝縁起では、「延暦年中に比叡の黒珍師が東国での布教の途中に当地に至った。小塚があり、夜な夜な小塚が瑞光を現し、白衣を着た2人の翁が石の上に降臨し、我は素盞鳴尊の和魂大己貴命なり、またひとりの翁が我は事代主命なりと名乗った」とある。隅田川周辺の社の縁起からも、出雲系の人々の小集落がここにもあって、その子孫が先祖を祀っていたとおもわれる。
新編武蔵風土記では、飛鳥権現牛頭天王合社とあり、別当は能円坊・神翁寺(本山派修験)である。(風土記は1822年で権現、図絵は1836年で明神… はてさてどこで違いがでたのだろうか?)
だれかが、大己貴命の祭祀であったところに、素盞鳴尊(牛頭天王)を習合させるために和魂の考え方を持ち込んだのではないだろうか? それがいつかは解らないが、少なくとも名所図絵の著者にはそれが混じり込んできたものであろう。往古では大己貴命と事代主命を祀る社であったものが、いつの時代からか牛頭天王が習合され、明治にはいって牛頭天王が素盞鳴尊となったのだろうと考えられる。僧侶らしき人物の前に素盞鳴尊(牛頭天王)が現れる縁起は、蔵前の須賀神社や牛島神社に類例がある。年代的にも類似であり、この頃に密教僧が各地で布教活動を行い、地元にあった祭祀に神仏習合を行っていたことが窺える。
三圍神社も天台系僧侶(三井寺)が縁起に登場しており、こちらでは稲荷となった。牛頭天王(疫病退散)も稲荷も現世での御利益を得ることが主眼とみえ、それをもって流布されていったことが推定される。なお、本山派修験は京都の聖護院を中心とする天台密教系の修験で開祖を役行者として平安末期に確立している。園城寺(三井寺)にはその修行僧が多く登場したようである。修験には当山派もあり、こちらは真言密教系で金峰山など山岳寺院を中心としていて本山派より少し遅れて登場している。当社縁起の比叡の黒珍なる人物が延暦年間であれば、天台の密教僧か修験の黎明期の人物ではないかと思われる。
隅田川岸に出るとテラスに降りて、吾妻橋まで北上、吾妻橋を渡り、隅田公園を抜けて帰宅した。
本日の記録は10821歩、7.0㎞とあった。
「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽大名、炭や塩原」と言われた弘前藩津軽家の下屋敷の跡である。屋敷内に祀られていた稲荷神社のため、津軽稲荷神社と呼ばれているという。説明板にある津軽四郎為信(1550~1608年)は弘前藩の初代藩主である。津軽氏は、元は大浦氏といい、南部氏の支族であったといわれているが、初代藩主となる為信は、南部家の混乱に乗じて独立し、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して大名の地位を公認され、その後、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が津軽地方を治めた。こうした経緯から、南部藩と津軽藩の間で争いが絶えず、文化5年(1808年)には、南部藩士の下斗米秀之進(かとべひでのしん、1789~1822年)が津軽寧親(つがるやすちか、1765~1833年、津軽藩9代藩主)の暗殺を計画したいわゆる「相馬大作事件」が引き起こされたこともあったのである。
東武伊勢崎線の踏切を渡って、四つ目通りを南下。京成橋から見る東京スカイツリーもだいぶ工事が進んだようである。淺草通りを西進し、業平橋を渡ってすぐの道を左折、春日通まで南下する。春日通を西に進み、清澄通りを南下していると、蔵前橋通りの手前のところに目指す徳之山稲荷神社があった。
蔵前橋を渡り、江戸通りにでる手前の所に楫取稲荷神社というのがある。なんだか、今日はお稲荷さんに憑かれた朝であった。花火の鉄柵取り付け工事が進んでいる隅田公園をぬけて帰宅した。万歩計は11771歩、7.6kmを記録していた。
徳之山稲荷神社は旧幕臣徳山五兵衛重政の邸内社であったのでこの名がある。重政は三河譜代の幕臣で亀戸に天満宮を勧請、深川長慶寺を中興した人である。万治3(1660)年に山崎四郎佐衛門重政ととも初代本所築地奉行(二人重政といわれた)となり、本所・深川の都市計画と埋め立て、掘り割り開削、架橋を行う(現在の墨田区、江東区にみられる整然とした碁盤の目状の街路網はこれを基本としている)、本所開拓に功績があった。寛文4(1664)年、その功によって本所築地小屋に屋敷を賜ったのがこの社地の所在地であったという。重政の孫の重舊(しげとも)は、先手御鉄砲頭から後に火付盗賊改方に就任し、盗賊日本左衛門の捕縛に功績を挙げたという。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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