瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨日は雨で徘徊はお休み。今日は、一昨日と同じく言問橋の上流側の歩道を通る。橋の下の土手沿いの遊歩道はここで行き止まりになるが、一昨日はこの土手の遊歩道行き止まりの処で、10数名の男女若者が茣蓙を敷いて屯していた。夏休みに入った何処かの大学生のキャンプ代わりのお遊びと思っていたが、今朝は土手からシートを掛けてテント代わりにしてござらっしゃる。シートの隙間から若者たちのごろ寝の姿が丸見えだ。一昨日からの滞在となるとなにか目的があってのことなのか。どうみてもホームレスとは思えない。明後日は隅田川の花火大会が予定されているが、もしかしたら大学の写真のクラブの合宿代わりにここを拠点に花火の場所取りなのかもしれない。昨日の悪石島の日蝕観測ではないが、準備万端整った所で雨でも降ればお流れにもなりかねないのにご苦労なこった。
988557ce.jpg 言問橋を渡って、東武業平橋駅前を通り、大横川に沿う東側の道を北斎通りまで南下する。北斎通りに来た頃、空から冷たいものが落ち始めたが、まあたいしたことはあるまいと、北斎通りを西に長崎橋を渡って、2つ目の信号を左折すると其処は墨田区立竪川小学校。校門の南角に『山岡鉄舟旧居跡』の史跡説明板がある。曰く「江戸末期の幕臣(将軍直属の家来)で剣術家、維新後に無刀流の創始者ともなり、侍従も勤めた山岡鉄舟の生家小野家が竪川中学校の正門あたりにありました。鉄舟は天保7 (1836) 年、御蔵奉行だった旗本小野朝右衞門高福(たかとみ)の五男として生まれ哲太郎と名付けられました。安政4 (1857) 年頃、槍術で知られる旗本山岡静山の妹婿となり山岡高歩(たかゆき)、号は鉄舟(本名の他につける名)を名乗りました。鉄舟の義兄ともなった槍の名手精一郎は旗本高橋家に入婿し、後に泥舟と号するようになります。勝海舟も含めてこの三人は《幕末の三舟》として知られています。慶応4 (1868) 年、江戸城総攻撃に先立ち鉄舟は西郷隆盛と接触し、勝海舟と協力して江戸城無血開城への道を開きました。明治維新後、静岡県や茨城県などで参事や県令(知事)となり、明治4 (1871) 年より明治天皇の侍従として厚い信頼を得ましたが、同21 (1888) 年53歳で死去し、台東区谷中の全生庵に葬られました。鉄舟は書家一楽斎としても有名ですが、区内木母地の境内にある《三遊塚》の碑文は鉄舟(表)、泥舟(裏)の筆になります。平成19年11月 墨田区教育委員会」
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 竪川中学校の前をさらに南下して総武高架線を潜るとすぐに永倉稲荷神社がある。永倉稲荷神社は大正2(1913)年に本所区永倉町(現在の墨田区亀沢辺り)にあった菓子商宅から出火し、永倉町始まって以来の大火災となったが、鎮火後焼け跡から稲荷の社跡が発見され、占ったところ、この火災は稲荷大神の災とご宣託があったので有志で社を建立し、火厄よけの神として、奉斎したことから始まったという。その後昭和20(1945)年に、戦災で社殿を消失したため、現在の墨田区緑四丁目に新しい社殿・社務所を建立したということである。敷地は約17坪(約56㎡)、氏子155世帯と非常に小さな神社だが、火厄よけの神として、地域を守っているという。
81874767.jpg 永倉稲荷神社から総武線にそって三つ目通りに出る。一昨日と同じ道を通るのも能がないので、北斎通りを西進し、区役所通りを北上することにした。北斎通りから区役所通りに入ってすぐのところに「河竹黙阿弥終焉の地」の案内柱が立っている。木阿弥は幕末から明治に掛けて活躍した狂言作者で、主人公は泥棒が多く、自らを「白浪作者」と称したほど、登場人物は大抵悪人なのである。黙阿弥作品では、その「悪」までが絵画的に美化されるのである。
 区役所通りをそのまま北上すると淺草通りからの清澄通りへの基点のなるところに出る。淺草通りを通って、吾妻橋を渡るころは雨は本降りになっていた。雨の中を隅田公園を通って帰宅した。9279歩、6.0㎞が本日の記録。
 永倉稲荷神社から総武線にそって三つ目通りに出る。一昨日と同じ道を通るのも能がないので、北斎通りを西進し、区役所通りを北上することにした。北斎通りから区役所通りに入ってすぐのところに「河竹黙阿弥終焉の地」の案内柱が立っている。木阿弥は幕末から明治に掛けて活躍した狂言作者で、主人公は泥棒が多く、自らを「白浪作者」と称したほど、登場人物は大抵悪人なのである。黙阿弥作品では、その「悪」までが絵画的に美化されるのである。
 区役所通りをそのまま北上すると淺草通りからの清澄通りへの基点のなるところに出る。淺草通りを通って、吾妻橋を渡るころは雨は本降りになっていた。雨の中を隅田公園を通って帰宅した。9279歩、6.0㎞が本日の記録。
6d759b22.jpg 言問橋を渡り、東武橋に来ると東京のスカイツリーが目立つようになっていた。本日は榎稲荷神社を目当てに歩くことにした。東武橋から大横川に沿う東側の道を京葉道路まで南下する。江東橋を渡ると緑4丁目の信号を左折してすぐのところに、五柱稲荷神社というのがあった。境内には由来書らしきものは見当たらなかった。何でも子供の虫下しにご利益があるらしい。此処をさらに竪川まで南下、立川に架かる菊花橋を渡ると、右手に菊川小学校があり、その南に隣接して菊川公園がある。この菊川公園をひと回りしてみるとの南西の隅に目指す榎稲荷神社があった。由来書の石碑が立っていたが、黒光りしてカメラを向けると反射してよく撮れない。同じ境内地に地蔵尊が立っており、地蔵尊について説明板が掲示してあった。何でもこの辺りも昭和20年3月10日の東京大空襲では大きな被害を受けたところらしく、稲荷神社の名称の由来であった榎も今は焼夷弾に焼かれて枯死した姿を晒すのみである。竪川まで北上して、川に沿って西一つ目の橋が三之橋である。この三之橋の南詰に元徳稲荷というのがあった。道に面して、小さな字の神社略記があったので読めるかどうかは判らないが一応カメラに収めておいた。
 本日は榎稲荷神社を目当てに歩いたが、期せずして3つの稲荷と1つの地蔵尊に出会ったわけである。後は三之橋を渡り、三つ目通りを北上。言問橋東詰にでて、橋を渡って帰宅した。橋の上で小雨がパラつきだしだが、たいしたことはなかった。omron万歩計は10788歩、7.0㎞を記録していた。
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c6444006.jpg 五柱(ごはしら)稲荷神社は、稲荷神社だから主祭神は宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)。神社の由緒に拠れば、『享保13(1716)年3月3日中御門天皇、徳川八代将軍吉宗公の世代に植村土佐守正朝(1669~1729年)が伏見より奉祀し、その後朝廷より華蔵院の称号を賜り、御神徳広大無辺にして、明治13年公認神社(内務省の管轄)、昭和21年6月宗教法人神社認証』とあるそうな。「五柱」の社号は伏見稲荷の稲荷五社大明神に由来するものであろう。伏見稲荷大社の祭神は、①宇迦之御魂大神(下社)、②佐田彦大神(さたひこのおおかみ、中社)、③大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ、上社)、④田中大神(たなかのおおかみ、下社摂社)、⑤四之大神(しのおおかみ、中社摂社)の稲荷五社大明神であるという。これらの神々は渡来氏族である秦氏の氏神、あるいは空海に東寺の守護を約束した土地の神などと伝えられる。宇迦之御魂大神の「宇迦」は「うけ」(食物)の古形で、食物を主宰する神の保食津神(うけもちのかみ)、御饌津神(みけつのかみとも混同されているが、須佐之男命が大山津見の娘、大市比売を妻にして生んだ神の名であり、漢字で倉稲魂と表わされることもある。稲に宿った神であり、「稲を荷う」「稲の成る」神、つまり五穀豊穣の神とされている。佐田彦大神は、海陸の道路を守る神であり、通商貿易の事にも万事を善き方に導く神とされる。皇城巽(京都の東南)方向にある鎮護神(都を護る神)また熊野御幸の道中守護の神として、朝廷からも尊崇されていた。大宮能売大神は神座舞踏の始祖であり、歌舞音曲の神として、さらに寿命の延長を守り、愛敬の神として一家の和合商売繁盛を守護する神とされる。稲荷社は、愛法の神、女性の出世栄達の神としても崇敬された。「愛法」とは、元来は真理に対する愛、つまり執着のことだが、転じて愛を獲得する呪法の神とされた。田中大神、四之大神は後年に加えられた神で由来は不詳であり土産神でないかと推測されている。
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a6081c6e.jpg 榎稲荷神社は江戸時代は大久保紀伊守(旗本?)の邸内社であって、土手地の内に鎮座していたことから土手稲荷と通称し、また社地に大榎があったので榎稲荷といったという。境内の「榎稲荷神社由緒書」の石碑には『当社鎮座ノ年月ハ不詳ナレドモ傍ラ二菊川ト云フ川アリ 元禄九年二此ノ川ノ名ヲ取リ町名トセシニ ソレ以前 天和癸亥三年二月二当社ヲ堤ノ内二建立セシト伝フ ソノ川ノ畔二遊女ノ宿アマタ散在シテ行人ノ足ヲ留メ多クノ人ドヨメキ集ヒテ詣デタリシト云フ 土手ノ内二アリシ故土手稲荷ト尊称ス 小祠ナリシガ宝暦年中二中風流行シタリシニ土人当社二ソノ病ノ平癒ヲ祈願シ欝蒼ト茂ル榎ノ皮ヲ取リ帰ル二不思議トソノ効著ルシク近在ノ諸人踵ヲ接シテ祈願ヲコメリト云フ 祈願ノ遂ゲラレシ人多カリシ故ソノ諸人講中ヲ作リ己ガ浄財ヲ出シテ又 人ヲ誘ヒテ義損ヲトトノヘ造営セシ二崇厳ナル社殿完成シタリ ソノ後如何ナル故二カ現在ノ地二移居シタリ旧幕時代ニハ大久保紀伊守ノ邸内社トナシガ一農家ノ之ヲ守護シタリシガ不始末二カ立退ク事トナリ長ク秘蔵セシト伝フ宝剣一振ヲ附近ノ人二託シ何方ヘカ退居セリ ソレ以来ハ町内一同二テ修理ヲ加へ礼賛シタリト云フ 天保六年ニハ町内の名ヲ以テ石鳥居ヲ献シ更二安政七年ニハ漱水盤ヲ献納シ国家ノ安寧ヲ願ヒシモ忽ち改元アリテ万延ノ世ト改マリヌ 当時ハ社畔二幸衞門ガ店二鳩居セシ氷川大乗院配下本山修験吉祥院トイヘルモノ町民二カワリテ大切二守護ス然シテ又何時ノ頃ヨリカ境内二多数林立セシ榎ノ欝蒼タルヲ見テ誰謂フトナク榎稲荷大明神トタタへ奉リソレヨリハ榎稲荷神社ト唱へ祈願二参ル人跡絶ユル事ナシ (文献二依ル) 明治十一年十一月二日本所区菊川一丁目ト称シ大正十二年九月一日ノ関東大震災ニテ焼失ソノ後区画整理ニテ現在地二移転シ昭和七年町名変更ニテ竪川四丁目ト成ル 昭和二十年三月十日第二次世界大戦ノ際東京空襲ニテ再度焼失シタル二当町在住ノ石黒善次氏復旧シ奉安申シ上ゲテ居リ昭和二十八年玉垣ヲ当時町会長立松慶助氏発起ニテ建設致シ昭和四十年五月町内有志相計リ戦災二十周年ヲ記念二鉄筋コンクリート造リノ社殿二復興申シ上ゲ今日二至ル  昭和四十年五月 内田雙硯謹書』とある。同じ境内内にある竪川地蔵尊については説明板の写真を参考にされたし。
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 元徳稲荷については、写真の「神社略記」を超える詳細記事は今のところ見当たらず。
 昨日は日曜日。寝坊してしまった。何となく出そびて、朝食後は気温が上がって、出掛けるのが億劫になった。
06f46cd8.jpg 今朝は、気がつくと桜橋の上にいた。今しもご来光、時計を見ると4時50分。いつしか、押上商店街を抜けて四つ目通りを歩いている。昨日は別にして、ここ4・5日は、四つ目通りを南下し、三つ目通りを北上して帰宅というパターンを繰り返しているようだ。
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10c24e76.jpg 四つ目通りが北斎通りと交差する、錦糸公園の南西の端っこに千種稲荷があった。千種稲荷は徳川四代将軍家綱の時(寛文~延宝)に治水工事が行われその後、柳島村の守護神として祭られたと伝えられているそうだ。明治時代になっても、この稲荷神社は保護されて郷土の守護神として残されたという。その後陸軍糧秣廠(りょうまつしょう、陸軍の将兵の食糧や軍馬の秣を蓄えた役所)本所倉庫をこの地に建設した際、敷地内にあった稲荷神社を取り払ったところ再三火災が発生したそうな。そこでもとの位置に稲荷社を再建して祀ったところ不思議にもその後火災はまったく起こらなかったという。大正12(1923)年の関東大震災はもちろん、昭和20(1945)年の東京大空襲にもなんの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を逃れたという。現在は錦糸公園の南西の端、北斎通りに面したところに祀られている。
 北斎通りを西に向って、三つ目通りまでくると、ここを北上し、言問橋を渡って、帰宅した。夏休みに入って7月31日まで、待乳山聖天公園でラジオ体操をやるというチラシが回って来たのを思い出し、公園に行ってみると、誰もおらず,閑散としたもの。どうやら今日は「海の日」という祭日でお休みということらしい。

 錦糸公園内にあるという千種稲荷を訪ねて昨日と同じコースを取った。桜橋通りから四つ目通りを南下、錦糸公園に来た。錦糸公園の内部をあちこちと探して歩くが、千種稲荷らしきものは見当たらない。公園内は総合体育館の建設中で、きっとこのために千種稲荷は廃社になったのだろうと、早合点して探すのを諦めて蔵前橋通り三つ目通りまで西に進む。三つ目通りを北上し、春日通りと交差する角地に和風の御茶屋がある。一応名前の知られた通りの角地という所は大抵大きな店舗が買い占めていてビルになっているのが普通であるが、こうした風景は珍しい。源森橋まで来ると東京スカイツリーが眼に入ったので、デジカメに収めた。今日の徘徊は11007歩、7.1㎞となっていた。
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 帰宅後、インターネットで調べてみると、錦糸公園の南西の端っこにあるという。まあ、また訪ねてみればよいだろう。

 昨日訪ねようとした田螺稲荷を家にある地図帳で調べたが、「町の内伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるだけあって、稲荷なんて掃いて棄てるほどあるらしく、どの地図帳にも出ていない。ないとなるとどうしても訪ねてみたいというのが人情。こんなことを考えながら家を出た。
4c997d7d.jpg まだ、薄暗い隅田公園の山谷堀水門の前に来ていた。桜橋越しに日の出前の朝焼けが綺麗だ。いつの間にか昨日と同じ桜橋通りを歩いていた。東武伊勢崎線の踏み切り近くになって、驟雨がやって来た。先ほどの桜橋の朝焼けはどうしたのだろう? 引き返そうかとも思ったが、家に帰った途端に「止んだ」では口惜しいので、夏場だし張子の虎じゃあるまいし、濡れたってどうということはないので、そのまま四つ目通りを南下する。蔵前橋通りにかかるころに雨は一旦小降りになったが、錦糸町駅東にある京葉道路に横切る歩道橋を渡っているとまた降り出した。ずぶ濡れになりながら、万歩計とカメラが濡れてはとちょっと気になる。
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abd060c7.jpg 四之橋北詰に来ると、昨日は馬車通りとダービー通りを行ったり来たりしたのであるが、今日は竪川沿いの道から歩いてみた。この辺りには妖しげなキャバクラ紛いの店舗や連れ込み宿がならんでいて、朝も早いというのに、店の中からはバンドの演奏と男女の嬌声が響いてくる。あったあった在りました。道に面して鳥居がありその前をバイクが塞いでいる。鳥居を潜ると、ビルの谷間の奥まった所に田螺稲荷の小祠があり、前をお狐様が見護っている。辺りを見回してみたが、何処にも説明板らしきものは見当たらない。かなりの雨が降ってはいたが、構わずに取り敢えずデジカメに収めておくことにした。
 田螺稲荷は元の名は田中稲荷といい、大火でお稲荷さんが類焼しそうになった時、社(もり)の池から田螺が続々と這い出してお稲荷さんの壁に張り付き、守ったということから「火防せ」の神様として崇められているということである。
7d6184d1.jpg 竪川沿いの道の1つ北側の馬車通りを西に三つ目通りまで進んだ。大横川に架かる「北辻橋」が昭和63年に撤去された跡に「時の鐘」の記念碑が建っている。昨日と同じく、三つ目通りを北上し、言問橋を渡って帰宅した。本日は11955歩、7.7㎞の徘徊であった。
 桜橋を渡ると、桜橋通りを西に取り、押上商店街に出た。京成橋から四つ目通りを下りながら、この通りが竪川と交わる四之橋の北に田螺稲荷というのがあることなので訪ねてみようと考えた。
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a6d1ec20.jpg 四つ目通りを南下して四之橋の北詰まで来たが、路地をあちこちと訪ねているうちに、天台宗の江東寺というのがあった。山号は五徳山と号し、通称江東観音と呼ばれるという。本尊は千手観世音菩薩を祭り、昭和15(1940)年坂東三十三観世音十六番札所水澤観世音(群馬県伊香保市)の別院として建立されたという。錦糸町駅から近いこともあって、錦糸町の観音様として親しまれているという。狭い境内の中に清昌稲荷というのがあるが、江東寺の門扉は閉ざされていて境内には入れない。門扉の鉄柵の間にカメラを突っ込んで何とか写真を収めた。
目的の田螺稲荷は見つからず、京葉道路に出て西に三つ目通りまで来た。ここを北上、蔵前橋通り、春日通り、淺草通りを横切って源森橋から言問い通り東詰めに出る。ここから言問橋を渡って帰宅した。本日は11889歩、7.7㎞の徘徊となっていた。
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f8d862b9.jpg 隅田川沿いの落書き遊歩道を北上。明治通りを横切り、石濱霊園の脇道に入ると、汐入本通りという道に出た。ここを北上し、瑞光橋公園、産業技術高専、汐入公園の前を通って、3・4日前に通ったばかりの胡録神社前に来た。ここから西に進み、常磐線のガードを抜けて、最初の信号を右折すると、そこに小さな古ぼけた日枝(ひえ)神社があった。案内板によれば山王清兵衛というお方が歯痛に耐えかねて切腹し、歯痛の神様になったとか。
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e221df69.jpg さらに西進すると、千住大橋に出た。最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が入府して間もない文録3(1594)年11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸(とら)の渡し《戸田の渡し》」とよばれる渡船場があった古い街道筋にあたる場所と思われる。架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次(1550~1610年)。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家であった伊奈忠次でも難工事であったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれるほどであった。
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6e6d9ecc.jpg 日光街道を横切ってのすぐの路地を右折すると、そこに熊野神社があった。案内板にもあるように、この熊野神社はこの地に栄えた材木商の信仰を集めたという。荒川の水運を利用して上流の秩父辺りから良質の材木がこの辺りに集められ、沢山の材木商人達が往き来したという。
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e9b08d2f.jpg 千住大橋を渡って足立区に入ってみた。橋を渡ってすぐの路地を左折すると突き当たりに橋戸稲荷神社がある。この稲荷の拝殿は土蔵造りで、その扉の内側に伊豆の入江長八(いりえちょうはち、1815~1887年)製作の狐の鏝絵(こてえ)が描かれているという。入江長八は伊豆の松崎町の生まれで、松崎町には長八美術館がある。
 日光街道に戻ると、千住大橋を引き返し、昨日通ったコツ通りを南下し、方々で仕事にあぶれた労務者が屯している吉野通りを通って帰宅した。本日の徘徊は11987歩、7.7㎞。
 日吉(日枝)・山王信仰の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)といわれる。「咋」は「杭」と同義で、山に杭(くい)を打って「ここは私の所有地だよ」とすることを意味する。つまり、この神は山の所有者という訳である。しかし、ここは千住の日枝神社は1316年に建てられたと伝えられる千住宿の鎮守であったということで、江戸時代には山王社と呼ばれていたそうで、その他の詳細は不明。案内板にある清兵衛の小祠も何処にあるか判らなかった。江戸時代に浅草の日本堤以北に拡大していった地域を守る塩入土手が千住宿を起点にして此処の南を通っている。
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6842c9e1.JPG 熊野神社は江戸名所図会によれば伊弉諾尊一坐のみを祀り、源義家の奥州征伐のときここに至って河を渡るときに霊瑞があり、鎧櫃にいれていた紀州熊野権現の神幣をここに留めて祀ったとされる。江戸名所図会に、「当社や南の飛鳥明神(素盞鳴尊神社)はいずれも紀州熊野であり、両社がここにあるのはなにかの謂れがあると思われるが伝記がいろいろあって詳しくはわからない」と記されている。小さな社殿がぽつんとあるのみであるが、千住宿の東側には1316年創建とされる日枝社があり、この付近が鎌倉~戦国時代の要の地であったことが窺がえる。
b5a8cfc5.JPG 橋戸稲荷神社の祭神はお稲荷さんだから倉稲魂神(うかのみたまのかみ)。案内板にあるように、この付近の半農半漁の開拓民が祀っていたようで、創建は延徳4(1490)年である。千住の渡し場の小高い丘に小さい社があり近在の農民や荒川(入間川)の船頭の信仰を集めていたという。文禄3(1594)年に千住大橋がかけられ、江戸時代にはいると上流からの物資輸送など人馬の通行が多くなったようである。延徳5年(1490)に本殿、文久2年(1862)に拝殿が建立され、現在の本殿は土蔵造りで扉の内側に伊豆長八による雄雌の狐の鏝絵(1863年)が描かれているというが、早朝だからだろうか扉がしまっていて観ることは出来なかった。
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a3a9c13d.jpg 吉野通りを北上、常磐線の歩道橋を渡ると、この辺りは江戸の2大刑場として知られる小塚原の刑場のあった所である。回向院は最近新装したばかりであるが、新装後の境内には未だ入ったことがない。JR南千住駅の西に位置し、日光街道へと続く「山谷通り」は、通称「コツ通り」とも呼ばれ、かつては両側に畑が広がり、富士山を望むこともできたというが、現在は商店が立ち並んでいる。「コツ」の名の由来は、『小塚原(こつかっぱら)を略した』『小塚原刑場にあった火葬場に因んで骨(こつ)と付けられた』などの説がある。コツ通りをさらに北上。日光街道と出会う所に素盞雄神社(飛鳥神社)がある。早朝のことで、門扉が閉まっていて境内には入れない。
 素盞雄神社からもと来たコツ通りを引き返し、一つ目の信号を左折して、最近若い人たちの間で評判のLaLaテラスに出る。ここから真っ直ぐに西に進むと西白鬚ポンプ場へ出る。ここから何時もの道を瑞光橋を渡り、橋場・今戸の街中を通って帰宅した。本日の記録は10519歩、6.8km。
 素盞雄神社(飛鳥神社)の祭神は素盞雄命、事代主命(飛鳥大神)、大己貴命(おほなむち、大国主の若い頃の名前)で、境内には稲荷神社・菅原神社などいくつかの併社がある。当社の縁起由来では、「開祖の黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、延暦14(795)年4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、『吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん』と神託を授け、黒珍は一祠を建て鄭重に祀り、当社が御創建された」とある。スサノオ大神の御社殿を西向きに、アスカ大神の御社殿を南向きにそれぞれ造営し、神霊を遷したが、享保3(1718)年類焼による両社炎上のため、同12年に相殿(あいどの:一つの御社殿)として二柱を祀る御殿(瑞光殿:ずいこうでん)を新たに建築し奉斎したという。
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7caf77c5.JPG この地は日光道中と奥州道中の合流地点にあり、日光道中は東照宮参拝用に新設された上野寛永寺の東麓を北上する街道である。往古の奥州道は隅田川沿いに北上し橋場から東へ下総側へ渡る道であったが、千住大橋(1594年)の完成で現在の言問橋の西から分かれて北上するのが奥州道中(吉野通り)であった。江戸から北へ向かう最初の宿として千住宿が置かれ、水運の拠点としても栄え、近隣に熊野社、山王社(日枝社)、橋戸社が並ぶのも江戸時代での興隆を示すものであろう。
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afc5a0cc.JPG 江戸名所図絵での社名は「飛鳥明神社」のみであり、世人は混じて箕輪の天王と称していたとある。祭神は大己貴命、事代主命の2座だけで、素盞鳴尊はない。
江戸名所図絵による社伝縁起では、「延暦年中に比叡の黒珍師が東国での布教の途中に当地に至った。小塚があり、夜な夜な小塚が瑞光を現し、白衣を着た2人の翁が石の上に降臨し、我は素盞鳴尊の和魂大己貴命なり、またひとりの翁が我は事代主命なりと名乗った」とある。隅田川周辺の社の縁起からも、出雲系の人々の小集落がここにもあって、その子孫が先祖を祀っていたとおもわれる。
新編武蔵風土記では、飛鳥権現牛頭天王合社とあり、別当は能円坊・神翁寺(本山派修験)である。(風土記は1822年で権現、図絵は1836年で明神… はてさてどこで違いがでたのだろうか?)
だれかが、大己貴命の祭祀であったところに、素盞鳴尊(牛頭天王)を習合させるために和魂の考え方を持ち込んだのではないだろうか? それがいつかは解らないが、少なくとも名所図絵の著者にはそれが混じり込んできたものであろう。往古では大己貴命と事代主命を祀る社であったものが、いつの時代からか牛頭天王が習合され、明治にはいって牛頭天王が素盞鳴尊となったのだろうと考えられる。僧侶らしき人物の前に素盞鳴尊(牛頭天王)が現れる縁起は、蔵前の須賀神社や牛島神社に類例がある。年代的にも類似であり、この頃に密教僧が各地で布教活動を行い、地元にあった祭祀に神仏習合を行っていたことが窺える。
三圍神社も天台系僧侶(三井寺)が縁起に登場しており、こちらでは稲荷となった。牛頭天王(疫病退散)も稲荷も現世での御利益を得ることが主眼とみえ、それをもって流布されていったことが推定される。なお、本山派修験は京都の聖護院を中心とする天台密教系の修験で開祖を役行者として平安末期に確立している。園城寺(三井寺)にはその修行僧が多く登場したようである。修験には当山派もあり、こちらは真言密教系で金峰山など山岳寺院を中心としていて本山派より少し遅れて登場している。当社縁起の比叡の黒珍なる人物が延暦年間であれば、天台の密教僧か修験の黎明期の人物ではないかと思われる。
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b2f325b3.jpg 昨日の徳之山稲荷神社に続き、津軽稲荷神社を訪ねて見ようと思う。言問橋を渡り、東詰めから三つ目通りを南下。源森橋にかかる手前でビルの並びの中にしもた屋風の家を発見。こういう風景は東京では殆んど見られなくなった。淺草通りを東進、業平橋西からは東京スカイツリーの建設現場がよく見える。工事は順調に進んでいるようである。平川橋から大横川親水公園にはいり、長崎橋まで南下。ここ錦糸1丁目9番地に津軽稲荷神社がある。
b7570df0.jpg 北斎通りを西進、東京江戸博物館脇の遊歩道を西に進み、国技館横に出る。ここに本所御蔵跡の案内板を発見した。この辺りは戦後風俗小説「雪夫人絵図」などで流行作家になった船橋聖一(1904~1976年)が生れ、6歳頃まで育った地だという。生来の相撲好きで横綱審議委員をつとめたこともうなづける。
 隅田川岸に出るとテラスに降りて、吾妻橋まで北上、吾妻橋を渡り、隅田公園を抜けて帰宅した。
 本日の記録は10821歩、7.0㎞とあった。
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 「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽大名、炭や塩原」と言われた弘前藩津軽家の下屋敷の跡である。屋敷内に祀られていた稲荷神社のため、津軽稲荷神社と呼ばれているという。説明板にある津軽四郎為信(1550~1608年)は弘前藩の初代藩主である。津軽氏は、元は大浦氏といい、南部氏の支族であったといわれているが、初代藩主となる為信は、南部家の混乱に乗じて独立し、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して大名の地位を公認され、その後、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が津軽地方を治めた。こうした経緯から、南部藩と津軽藩の間で争いが絶えず、文化5年(1808年)には、南部藩士の下斗米秀之進(かとべひでのしん、1789~1822年)が津軽寧親(つがるやすちか、1765~1833年、津軽藩9代藩主)の暗殺を計画したいわゆる「相馬大作事件」が引き起こされたこともあったのである。
a109f74b.jpg 昼前に都議会議員の選挙に行く。午後K夫妻が訪ねてくれた。娘さんはJ大学の3年になるというが、この夏は将来に具えてケニアに2週間の旅行に行くという。親にしてみれば、心配なことではある。
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b24d8d51.jpg 桜橋を渡り、桜橋通りを東に進む。水戸街道を過ぎて本所高校の前に向島ハイツというのがあって、その入口にお稲荷さんの小祠がある。墨田区・台東区辺りではこのようなお稲荷さんが方々にある。料亭の玄関先などではもっと小型のお稲荷さんを見かけることもある。石原町に徳之山稲荷神社というのがあることを思い出して、訪ねてみることにした。
 東武伊勢崎線の踏切を渡って、四つ目通りを南下。京成橋から見る東京スカイツリーもだいぶ工事が進んだようである。淺草通りを西進し、業平橋を渡ってすぐの道を左折、春日通まで南下する。春日通を西に進み、清澄通りを南下していると、蔵前橋通りの手前のところに目指す徳之山稲荷神社があった。
 蔵前橋を渡り、江戸通りにでる手前の所に楫取稲荷神社というのがある。なんだか、今日はお稲荷さんに憑かれた朝であった。花火の鉄柵取り付け工事が進んでいる隅田公園をぬけて帰宅した。万歩計は11771歩、7.6kmを記録していた。
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 徳之山稲荷神社は旧幕臣徳山五兵衛重政の邸内社であったのでこの名がある。重政は三河譜代の幕臣で亀戸に天満宮を勧請、深川長慶寺を中興した人である。万治3(1660)年に山崎四郎佐衛門重政ととも初代本所築地奉行(二人重政といわれた)となり、本所・深川の都市計画と埋め立て、掘り割り開削、架橋を行う(現在の墨田区、江東区にみられる整然とした碁盤の目状の街路網はこれを基本としている)、本所開拓に功績があった。寛文4(1664)年、その功によって本所築地小屋に屋敷を賜ったのがこの社地の所在地であったという。重政の孫の重舊(しげとも)は、先手御鉄砲頭から後に火付盗賊改方に就任し、盗賊日本左衛門の捕縛に功績を挙げたという。
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e65b0d5f.jpg 浅草の蔵前2丁目にある楫取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)の祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)・御年神(としがみ)・豊受姫神(とようけひめのかみ)。由緒は説明板にもあるように、その創始は、慶長年間に江戸に幕府が開かれ、米蔵を造営するために用いる石を、遠く肥後国(現在の熊本県)熊本より運搬することになったが、遠州灘の沖において船がしばしば遭難に遭った。ある時、稲荷の神の示現を得て、それ以後は、航海安全に石を運ぶことが出来た。その神徳奉賽のため、稲荷の社を浅草御蔵の中に祀ったという。社名の「楫取」は、神徳に因んで付けられたもので、船の楫取をした稲荷の神の社という意味である。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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