瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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adcbfc18.jpg 一昨日の6月30日は夏越大祓いの日。白鬚神社、隅田川神社、石濱神社など何処も茅の輪くぐりが行われ、今日もなお茅の輪が設えられたままになっている。


9a35aa28.JPG 本日は7月2日、元旦から数えて183日目。1年365日のちょうど真ん中の日。立ったこの間元旦だと言っていたのにもう1年の半分が過ぎてしまった。暦の上では夏至から11日目にあたり、雑節で半夏生という日で夏至から11日目にあたるという。烏柄杓(中国名では半夏《はんげ》)という薬草が生えるころということである。また、半夏生(半化粧)という植物の花が咲く頃からその名がつけられたという。
関西ではこの時期は雨が多いので農作物がタコの吸盤のように大地にはいつき、しっかり根付くようにという願いと、これから夏にむけて体力・精力をつけるという意味で、この時期の旬である蛸を食べるようになったという。7月2日は日本記念日協会で認定された「蛸の日」ということだ。何だか節分の巻き寿司、バレンタインデーのチョコレートと同じ商人の陰謀くさい臭いがしないでもない。
cad8085b.jpg ともあれ、桜橋を渡ると墨堤通りを東白鬚公園の北ゲートまで北上する。東白鬚公園を通って、都立リハビリテーション病院の前から水神大橋に出て隅田川沿いの遊歩道を南下、明治通りを横切ると何時もの橋場・今戸の遊歩道を通って桜橋に出るが、この遊歩道剃刀堤防は落書きだらけで、かつて爺はここを落書き通りと呼んでいたのだが、いつの間にか落書きは殆んど消されていた。10209歩、6.63㎞の徘徊であった。

80f9ff9e.jpg 梅雨空の隅田川遊歩道を桜橋から水神大橋まで北上する。今朝は家を出るのが遅かったのが、遊歩道から見ると水神大橋の上高くの梅雨空に太陽が顔を覗かせている。水神大橋を渡ると墨堤通りを横切って鐘ヶ淵通りに入る。


cd673526.jpg 東武鐘ヶ淵駅の踏み切りの西端に西町買い物通りというのがあるが、ここを入ってすぐ左に「園公・とと」という飲み屋がある。爺の住いの上の階に住むMさん夫妻が営まれているお店だと聞く。園公とは「淺草生まれの、淺草育ち」すなわち淺草っ子のことという。旦那は淺草小学校の出身だと聞く。
 淺草の奥山は大道芸人が集住していたが明治の初年、上地され、浅草寺・同火除地とともに浅草公園地第1区~6区となった。浅草っ子を “エンコ生まれ”というのはこの「公園」をひっくり返した言葉だという。
 この西町買い物通りを行けば水戸街道に出るだろうと進むが途中で道に迷ってしまう。裏道で標識版もなく、マンションの入口にあった簡単な標識板で東向島駅に見当をつけてやっと大正通りに出た。ここを西進して、墨堤通りに出ると何時ものように南進して、桜橋を渡って帰ってきた。10627歩、6.9kmの徘徊であった。
 徘徊から帰宅して、昨日雨で退屈紛れにパソコンに入れた菊池寛の短編を横浜のN氏と藤沢のY氏に添付送信した。今朝のウェブニュースから。
 大嶽親方離婚へ 民放各局で“ざんげ” ―― 野球賭博問題で解雇以上の懲戒処分を受けることが決まっている大嶽親方(元関脇貴闘力)が元横綱・大鵬の三女である妻と離婚することが30日、分かった。民放テレビ各局のインタビューに応じ、「嫁と相談して決めました。(婿)養子でいることも恥ずかしい」と自ら明かした。大鵬の婿養子でもある大嶽親方は「(自分が)アホだから」と自らを責め、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら頭を垂れた。
  ◇  ◇
a184f29c.JPG 一度、手を染めた野球賭博が、今までの地位も名誉も、そして家族さえも失う結果となった。/大嶽親方は94年に元横綱大鵬の三女と結婚し、婿養子となっていた。フジテレビ・関西系の「とくダネ!」のインタビューでは「親方(元横綱・大鵬、現在は親方ではない)の養子でいることも恥ずかしい。嫁と相談して離婚することにしました」と“親”の顔に泥を塗ったことに対するケジメの決断を下したことを明かした。/「子どもも15歳になったら、相撲取りになって、強くなって大鵬親方の記録を抜きたいという気持ちになっているのに、おれみたいなのがいてもしようがない」と涙。それまで野球賭博にいたる経緯などを気丈に話していたが、家族の話になると気持ちを抑えることができなかった。/2週間ぶりに公の場に姿を見せた大嶽親方は民放テレビ各局を“謝罪行脚”した。「最初は1~2万(円)だったのがだんだん、マルが一つ多くなった」と最初は軽い気持ちで賭博に手を染めたことを明かした。暴力団との関係は「まったくありません」と強く否定した。/あくまで仲間内での賭博という認識だったとし、“仲間”の1人、大関・琴光喜に対しては「わたしがアホだから悪い。もう一度チャンスをあげてほしい」と繰り返して擁護した。/今後は7月4日の理事会で正式処分が下される大嶽親方。TBS・MBS系の「ひるおび」では涙と鼻水を垂らしながら「みんな人生かかってるんですよ」と強い口調で訴えたが、賭博行為の代償はあまりに高くついてしまった。  (デイリースポーツオンライン、2010年7月1日)
 

 早朝は雨、朝食後は気温が上昇し出掛けるのが厭になった。
 今日は朝から南アフリカで行われているW杯サッカーで日本がパラグワイに惜敗したとの報道ばかり、時たま相も変わらず大相撲の野球賭博汚染の報道ばかり、特別調査委員会というのどういことちゃ? はや方針変更して謹慎の力士や親方衆の名古屋行きを認めたことで、処分ははや骨抜きになったようだ。ギャンブルというのは仲介者が入らない限り、差しの勝負では勝ち負けの確率は1/2、丸裸になることは早々ありえない。賭博でスッテンテンになるのは、中間搾取者が介在しているからに他ならない。
6b001f47.JPG 爺も若い頃はトランプ(ポーカー)、花札(六百間、おいちょかぶ、こいこい)、マージャン、パチンコなど、やるにはやったが、賭けるったって高が知れていた。競馬、競輪、競艇などの公営ギャンブルは中間搾取者がはいるのでやったことはない。宝くじも同じ理由でやらない。爺になってからは殆んど勝負事はやっていない。
 今回の大相撲の野球賭博汚染した、力士や年寄りまだ若く彼ら自身が勝負師であってみれば然(さ)もありなん。まあ、若気の至りともう少し妥当な処分で済まないのだろうか。やれ解任だ、除名だと少々厳しすぎる。どうも相撲協会の意図が理解できない。力士の処分より、暴力団のあぶり出しの方が咲きなのではなかろうか。
ff82d1bf.JPG 確率論の教科書には、確率論の生みの親はギャンブルで、Chevalier De Mere(シュバリエ・ド・メレ)の問題とそれに関連する諸問題について交わした、Pierre de Fermat(ピエール・ド・フェルマー、フランスの数学者、1607or8~1665年)とBlaise Pascal(ブレーズ パスカル、フランスの数学者・哲学者、1623~1662年)の往復書簡が、今日の確率論の出発点であると書かれている。
 Siméon Denis Poisson(シメオン・ドニ・ポアソン、フランスの数学者、1781~1840年) は「賭け事に関する一つの問題が、一人の俗人から厳格なヤンセン教徒に提出されたが、それが確率論の起源であった」と述べている。 この厳格なヤンセン教徒がパスカルであり、俗人はギャンブラーでその名をChevalier De Mereといった。
 俗人ギャンブラー Mereは賭博に関するある疑問を友人であるパスカルに伝えて曰く、「とBとの間である賭けをしていた。その賭けは最終的に買った方が全ての賭け金をもらえるギャンブルである。もしも、このゲームを途中で止めたとき、中間結果を見て賭け金をどのように配分すればよいのだろうか。」
 この疑問を具体的に考えてみよう。「例えば、AとBとの間でコインの裏表にかける賭けをしていたとしましよう。お互いに10万円を出し合って、先に3勝した方が勝ちであるとす。(つまり、20万円が得られる。)勝負が進み、Aが2勝、Bが1勝したところでゲームが中断されるとする。このとき、賭け金であった20万円はAとBにどのような割合で分配したらよいか」というのである。
 一つの考え方として、まだ、勝負はついていないのだから、10万円ずつ、A、Bそれぞれにキャッシュバックするという考え方がある。だがこれでは、2勝しているAの方から不満が出ることは必至であろう。また、Aが2勝、Bが1勝しているので、2:1で分けるという考えも浮かぶ。けれど、これでは、Bが0勝だったとき、Bの分け前が0になってしまうので適切とはいえない。
 そこで、パスカルはこの問題を解くのに確率と期待値の概念を導入し、鮮やかに問題を解決したのである。
 この場合、A、Bが一回毎の試行で勝つ確率はそれぞれ1/2ずつになります。勝負が続行されたとして、次の勝負でAが勝てば3勝1敗でAの勝ちとなる。また、次の勝負でAが負けた場合、AとBとは2勝ずつになるので、この後にAが勝てば、3勝2敗でAの勝ち、Bが勝てば2勝3敗でBの勝ちである。つまり、Aが負けた場合には、その次の勝負で必ず、勝負がつくことになる。
 Aが最初に負けて次の勝負で勝つ確率は1/4であり、Aが最初に負けて次も負ける確率も1/4である。従って、Aが2勝1敗の段階で、Aが最終的に賭けに勝つ確率は、1/2+1/4=3/4であり、Bが最終的に勝つ確率は1/4になる。よって、Aが2勝1敗の段階では、Aが3/4の確率、Bが1/4の確率で勝利することが予想されるため、Aが得られるお金の期待値は
 EA=20×3/4=15万円、EB=20×1/4=5万円になり、Aに15万円、Bに5万円支払うのが、妥当だという結論になるのである。
パスカルはその後、フェルマとの手紙の交換を行い、確率論をさらに発展させる。その議論が現在へと受け継がれ、今日の確率論が築かれたといわれている。

26c9a670.jpg 小雨のしょぼ降る中、傘もささず花川戸遊歩道を南下し、吾妻橋~白鬚橋間の隅田川をひと回りしてきた。「雨は降る降る 隅田の川に …」白秋の替え歌が口を突いて出る。雨の川辺の徘徊もまた風情がある。
18bf67c1.jpg 先日、区立堤通公園に新設された、向島艇庫村跡の説明板を紹介したので、水戸庭園前の遊歩道にある「明治天皇海軍漕艇天覧玉座趾の碑」をカメラに納めてきた。碑文に曰く、「恭しく惟みるに明治天皇夙に叡慮を帝國海軍の発達に労し給い明治元年3月親しく大阪に幸して諸艦を天保山に関せられ爾来屢艦船部隊官衛学校等に行幸あらせ給い殊に海軍短艇競漕の隅田川に行はるるや、玉座は設けて、ここに在り親しく天覧を賜うこと前後4次に及べリ、明治15年には11月21日に、同16年には6月3日、同27年には4月2日に臨御あらせられ是は皇后亦行啓せられ、同29年には12月18日を以って親閲あらせ給へり其の間25年には6月19日を以って皇后竝皇太子の行啓を辱せり参加の将士齊しく恐擢感激して勇躍技を競い行事最も盛大を極わめリ斯の如きは皆是し震慮の深きに井で帝國海軍の無上なる光栄にして牢記すべき所なり只恐る。/当年玉座の聖蹟星移り物替りて滄桑の変を経成は湮晦に貴せんことを是し本会が天皇親臨のこの尊ぶべきの地を永遠に顕彰し奉り、永く聖徳の至大なるを仰がんことを期し帝國海軍及朝野の諸彦と謀りて、昭和16年の明治節日をとし一碑を玉座の趾に勤し之を不朽に伝える。/紀元2601年11月3日/隅田川聖蹟顕彰会」
41ddb607.jpg 桜橋を過ぎた長命寺さくら餅店の前の堤防の上で小蟹が1匹雨に濡れながら徘徊していた。今日は歩く量を控えめにしたつもり。8310歩、5.4㎞の徘徊であった。

1264ec03.JPG 今朝の新聞も1面は大相撲の野球賭博汚染の記事で埋められていた。特別調査委員会の座長さんって言うのはどんな人なんだろう。テレビで見ると何だか喋りすぎで軽はずみな感じがする。「琴光喜は(処分を)当然やるよ。一番のクビだよな、だって…」と理由を言いかけたところ、「伊藤委員長、伊藤委員長」と横にいた委員からストップがかかり、慌てて「しゃべっちゃだめか。いまのは取り消し」
キャスターが「調査委員会の伊藤座長という先生は、どういう先生なんですかね」と聞くし、慶応の先生が「建築とか都市工学の分野で有名な先生です」と説明をしたが、「何か口走って、止められて、忘れて下さいって言われても忘れられませんね」 大相撲レポーターと称するご婦人が「忘れられないことをいっぱいおっしゃる先生なんです」と助け舟か皮肉かひと言。ウェブニュースの産経ニュースに拠れば、親父殿はあの「チャターレー夫人の恋人」翻訳で有名な伊東整先生のご子息で、一昨年10月に協会の外部理事に就任。外界に閉ざされた協会としては、異例の人選だったという。相撲に関しては「普通に相撲を見て興奮してきた生涯」という。そんな“素人”が調査委を切り盛りできたのは、物事を一刀で切り下げる手腕に、武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)が全権を託したからだといわれるとある。しかし、こんな話を聞くと特別委員会と理事会馴れ合いもいい所と感じる。日本における賭博の歴史について調べてみた。
 射倖心は運分天分に支配される部分のある、つまりある程度の確率による変動を伴う事柄において、良い結果が得られた時の高揚感を表す言葉である。倖の意味は「努力を必要としない」言うなれば、予期せずに訪れた幸せという意味である。射の意味も弓矢を射ることであり、当たり外れが技量に左右されるとはいえ、確率による変動があるため、その結果に一喜一憂する。弓矢は世界でも日本でも生活に欠かせないものであった。日々の糧を得るにも、周囲との諍いが大規模になれば戦となり、その弓矢の当たり外れの一つ一つが積み重なって戦況となっていった。その結果がその後の暮らしのを、どのように左右するのかは重大であった。このようなことから射幸心という言葉が生まれ、今日においては、弓矢や当たり外れの当たりだけでなく、人生においての偶然による、禍福の良い結果が訪れた時の高揚感を表す言葉になったという。
 賭博は人の射倖心をくすぐり、時に中毒的な依存状態から破産や人格崩壊に至り、果てには自殺、殺人に及ぶ場合もある。また、違法賭博が暴力団の資金源になるなど社会問題も多く内包する。
「博打」(ばくち)という語は博(ばく)と呼ばれたボードゲーム《盤双六》のことで、それに金品をなげうつこと、「博を打つ」から「博打」と言う語ができたという。
 賭博は「賭事」と「博技」の合成語である。「賭事」とは、(賭ける人間が介入し得ない)偶然に賭ける種類のギャンブルで、公営競技、サイコロ、札、野球、富くじなどが挙げられる。「博技」とは、賭ける人間の技量が勝敗を決する種類のギャンブルで、賭け麻雀、賭けゴルフなどが挙げられる。
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54e29e3c.JPG 賭博は我が国では古くから存在しており、「日本書紀」には、我が国で最も古い賭博に関する記事があり、「(持統三年)十二月(しはす)の己酉(つちのとのとり)朔丙辰(ひのえたつのひ)に、雙六(すごろく)を禁め断む」《持統三年十二月八日に、双六を禁止された》とある。ここにいう双六とは正倉院に紫檀木画の局(つくゑ)、紫檀金銀画の筒・象牙の骰(さい)、宝石類の馬など双六一揃いある。筒から2個の骰を振り出し、その目で局のうえの黒白各15個の馬を進めて勝負するもので、起源は古代エジプトで遊ばれたセネトという遊びであるとされるが、後の盤双六の原型と呼べるものはローマ帝国で遊ばれた12×2マスの遊戯盤とされている。これがシルクロードを経由して中国に入ってきた。東大寺正倉院に納められているものは生前の聖武天皇が遊んだとされるいる。後世において広く遊ばれた盤双六は中世以後に中国の盤双六を取り入れて改良されたものであると言われている。
長忌寸意吉麻呂(ながのいみのおきまろ、生没年未詳)は柿本人麻呂・高市黒人(たかいちのくろまろ)などと同じ頃、宮廷に仕えた下級官吏であったらしい。万葉集に行幸の際の応詔歌、羇旅歌、宴席で物名を詠み込んだ即興歌などを十四首を残しているが、その中に「双六の頭(さえ)を詠める歌」というのがある。
 一二(ひとふた)の目のみにあらず五つ六つ三つ四つさへあり双六(すごろく)の采(さえ)(万16-3827)
 「人間の目なら二つまでだが、一・二の目ばかりでない、五・六・三・四の目さえあるよ、双六の賽には」というほどの意味であろう。
さいころを2個振り、双方とも最大値である6のゾロ目がいかに出るかが形勢を左右したゲームであったため、「雙六」あるいは異字体として「双六」という字が当てられるようになり、その名の由来になったといわれている。
こうした賭博~賭け事が庶民階級にも広く浸透していったのが平安初期で、その頃すでに博徒が発生したといわれている。さらに、こうした博徒が次第に組織化されていったのが、江戸時代前期といわれ、江戸時代中期になると、それ以前の半農博徒とか宿場博徒、中間博徒などと呼ばれていたものが階梯的組織をもつ集団を形成していったといわる。
 江戸時代後期になると、幕府や武士階級の力が弱まるにつれ、都市や農村を問わず、常設賭博場が各地に出現し、博徒集団も、親分子分の擬制の血縁関係で更に強く組織化され、槍や鉄砲などで重武装化した多くの集団が各地で跳梁し、手のつけられないような状態になる。この時期、幕末から明治維新にかけて、講談や浪曲などでお馴染みの、清水の次郎長、国定忠治、黒駒の勝蔵、会津の小鉄、新門辰五郎、勢力富五郎など著名な博徒の大親分が出現する。講談や浪曲の世界では、彼らは仁義に厚い庶民の味方として美化し語られているが、その実像はそれとは正反対で、義理や人情も弁えない庶民泣かせの凶暴な親分衆であった。
明治維新以降も博徒集団は依然として存続し、維新直後こそ新体制の障害になるものとして、博徒の活動は強制的に抑えられたが、明治10年頃になると政府の取締りもゆるみ、博徒の活動が再び盛んになる。明治17年に太政官布告による「賭博犯処分規則」が施行されて、取締が強化され、「大刈込」といわれた博徒の大量検挙なども行われたが、明治22年に「賭博犯処分規則」が廃止されると、博徒集団は息を吹き返し、大規模な縄張り争いを繰り返すなど、その活動は再び降盛となり、浅草では700~800人もの子分を擁した親分も出現したという。その頃は「オイチョカブ」、「ホンビキ」などの花札賭博が大流行した時期でもあったという。
日清、日露の戦争を経て、我が国の社会経済の急激な発展は、博徒稼業の質を変化させ、賭博専業の博徒から、歓楽街、興業界、土建業、港湾荷役、炭鉱地区等に進出する複雑な形態に移って行くが、賭博を本業とするその本質には変化はなかった。彼らは一方では、当時の右翼政治活動との繋りを強め、時の政治に癒着しながら、組織の存続強化を図って行ったふしもある。
 昭和20年代の戦後の混乱期になると暴力集団として、青少年不良集団である「愚連隊」が出現し、それまでの博徒、的屋などの利権が荒されるようになり、これら新・旧勢力間の利権をめぐる対立抗争が激化する一方、組織の離合集散の結果、渾然として、各々の組織的色分けが次第につかなくなって行くと同時に、各々の組織は利益になるものは何でもするようになり、現在では、賭博を本業とする暴力団はほとんど見当らなくなったのである。しかし、現在の暴力団にも賭博を稼業として嗜好する体質は濃厚に残っており、また、賭博は彼らの有力な資金源ともなっているところから、暴力団と賭博は、今でも切り離せないものとなっているのだろう。

9603108d.jpg まだ、明けきらない小雨の残る山谷堀公園に出ると、スカイツリーの上の方は雨雲に隠されているが、北の空には雲の切れ間から青空が覗いている。墨堤通りを北上東白鬚公園を通る頃には辺りもすっかり明るくなり、背後から追い越してくる風が心地よい。気がつくと梅若橋を越えて、綾瀬橋に向っている。
3fcd7656.jpg 綾瀬橋はどうやら塗装改装中らしい。工事は10月末日までかかるらしい。イニシア千住曙町の隅田川沿いの遊歩道を抜けて千住汐入大橋を渡る。荒川区立汐入小学校前をとおり汐入公園内の桜橋をわたる。この橋を渡りきった所にバーベキュー広場があり、いつも地元の爺婆が太極拳を披露なさっている。
f32e99bf.jpg 川沿いの遊歩道に出ると白鬚橋までこの道を南下、明治通りを横切ると、川沿いの遊歩道を通って帰宅した。スカイツリーはまだ雨雲に巻かれていた。11817歩、7.68㎞を歩いていた。


 本日のウェブニュースから。
 大相撲:野球賭博・特別調査委「協会に迫力の勧告」――
◇社会の理解得るため
9f003762.JPG 「非常に厳しい条件をつけて名古屋場所開催を可とする」。日本相撲協会の特別調査委員会(座長=伊藤滋・早稲田大特命教授)は27日、5日間にわたる力士などへの聴取の結果、こう結論付けた。大関・琴光喜関(佐渡ケ嶽部屋)ら3人は懲戒処分、力士ら16人、親方12人は謹慎処分。前早大総長の奥島孝康委員は「相撲界の閉鎖性や過去に起きた問題への対応を考慮した時、こうした措置でしか社会の理解は得られない」と厳しい勧告となった背景を説明した。/会見には全10委員のうち9人が参加。冒頭、賭博に関与したとされる力士などからの聴取を取りまとめた弁護士の村上泰委員が「賭博を行ったのは計27人。いずれも仲間同士の賭けで、暴力団関係者が出てきたものは全くなかった」と、淡々と報告書を読み上げた。こう判断した理由については「素直に聴取に応じており『負け金』回収の際に脅されたような事実もない」と説明した。ただそのうえで「背後に暴力団関係者が隠れている可能性はある」とも述べた。/続いて伊藤座長が「大嶽親方(元関脇・貴闘力)、時津風親方(元前頭・時津海)、琴光喜関の懲戒処分」「力士15人と床山1人の計16人の名古屋場所謹慎」など9項目に上る協会理事会への勧告骨子を読み上げた。/質疑では、元力士ら4人が仲介役となり、1割の手数料を取って賭けを取りまとめる構図だったことや、最も長い力士は06年ごろから賭博を行っていたことが明らかにされた。一方で仲介役への聴取については「真実を話さない」とし、実施について明言を避けた。/協会が開催条件を了承する可能性を問われると、伊藤座長は「協会側には相当の迫力で勧告を提出する」と語気を強め、協会の弁護士でもある望月浩一郎委員は「これをしないと相撲協会の明日はなくなる」と厳しい表情で答えた。/条件付き開催を可とした判断については賛否があったという。奥島委員は「相撲部屋は閉鎖的な社会で、それが今日の事態を生んだ」と角界の体質改善の必要性に言及。日本プロスポーツ協会副会長の山口弘典委員は「暴力団が関与していないことには安堵(あんど)する」と理解を示した。/会見の最後に、望月委員が「厳しい条件を付けてでも場所を開いてほしいということ」と述べると、伊藤座長ら複数の委員は大きくうなずいた。
◇大嶽親方、部屋に戻らず
 特別調査委員会から解雇以上の処分が妥当という厳しい判断を突き付けられた大嶽親方(元関脇・貴闘力)は27日深夜まで、東京都江東区の大嶽部屋に戻らなかった。/3階建ての部屋には人の出入りもほとんどなく、部屋関係者は「今日は帰ってこないと思う」とだけ話した。
◇大嶽親方の立件検討 ―― 警視庁
0ab693da.JPG 警視庁は、賭け金の多寡や常習性の有無などを重点に裏付け捜査をし、悪質性の高い力士らについては単純賭博罪で立件する方針。日本相撲協会の特別調査委員会から賭博への関与が突出していたと指摘された大嶽親方(42)=元関脇・貴闘力=についてもその対象になる可能性が高い。/一方、警視庁は角界の野球賭博の実態解明には賭博の胴元の特定が不可欠とみており、力士らを胴元に取り次いだ仲介役に対する事情聴取を重ねている。/これまで仲介役は阿武松(おうのまつ)部屋の床山(29)▽同部屋の元幕下力士(34)▽横綱・白鵬関(25)らと契約していたトレーナー(42)―― の3人が判明しているが、琴光喜関への恐喝容疑で逮捕された古市満朝容疑者(38)の弟で阿武松部屋の現役幕下力士(34)も同部屋内でプロ野球の勝敗予想を取りまとめていた疑いが浮上している。警視庁は少人数の賭博グループが複数存在したとみている。/関係者によると、警視庁から任意の聴取を受けた力士の中には、日本相撲協会に過少申告していた力士も多い。このため、警視庁は申告内容にとらわれず、捜査を進めている。
◇特別調査委員会、メンバーは10人
 特別調査委員会の伊藤滋座長(78)は工学博士で、都市計画や都市防災の専門家。早稲田大の特命教授を務める。大麻問題を受けて日本相撲協会が武蔵川理事長体制に刷新された08年9月から、協会外部理事も務めている。ほかのメンバーは、村山弘義(元東京高検検事長)▽吉野準(元警視総監)▽奥島孝康(前早大総長)▽野呂田芳成(元農相)▽山口弘典(日本プロスポーツ協会副会長)▽山本浩(法大教授)▽長尾敏成(弁護士)▽村上泰(同)▽望月浩一郎(同)。
◇特別調査委員会による勧告の骨子◇
1 名古屋場所について、厳しい条件のもとで開催を可とする。この条件が満たされない場合は開催を不可とする。
2 懲戒処分に言及して謹慎をさせる親方と力士(大嶽、時津風の両親方と琴光喜関。大嶽親方については解雇以上の懲戒処分も可能である)。
3 謹慎をさせる力士は、三役以上1名(琴光喜関)、幕内7名、十両5名、幕下以下3名(うち1人は床山)。氏名の公表は理事会にしていただくように勧告する。※阿武松部屋については部屋全体を謹慎とする。
4 執行部体制
 (1)師匠としての責任を明らかにすべきである。自身の部屋から謹慎をすべき力士を出した理事・
執行部については、当面謹慎する(武蔵川、出羽海、九重、陸奥、八角、尾車の各親方)。
 (2)武蔵川理事長が謹慎となるので、理事長代行を置く。国民の目線で事態の解決にあたること
ができ、かつ反社会的勢力に対応するために、ふさわしい理事を代行とする。
5 自身の部屋から野球賭博で出場辞退となった力士のいる親方については謹慎(佐渡ケ嶽、境川、春日野、宮城野、木瀬の各親方)。
6 維持員席
 (1)反社会的勢力との関係について実態調査をただちに行う。
(2)対策について継続して検討する。
7 今後の予定
 (1)野球賭博などの問題について、全協会会員を対象にした実態調査をただちに実施する。7月
2日までに実態をまとめ、問題がある協会員が明らかになった場合は名古屋場所謹慎を検討す
る。
(2)協会外の関係者についても聴取を検討する。
8 懲戒処分
 調査の内容を見極めて、処分の時期、内容は改めて決定する。
9 長期的な課題
 秋場所までに、外部の改革委員会を立ち上げて、日本相撲協会の全般的な問題について抜本的に
改革する。    (毎日新聞 2010年6月28日 東京朝刊)

 早朝から雨。テレビで報道番組を見る。時々選挙運動車のがなり声がテレビからの音を掻き消してしまう。参議院の選挙運動が始ったようだ。日本において戸別訪問が禁止されていることから、自動車による候補者の氏名の連呼による選挙運動が行われていることが大きな特徴といえよう。まあ、当分の間あの五月蝿い騒音を我慢するしかない。こんな選挙運動でどの候補者を選べというのだろうか。新聞の記事を読んでも、テレビの政治討論会を聞いても解らないことが多すぎる。
b395f3fd.JPG 劉安(BC179~122年)の支配した淮南(わいなん)国は、戦国以来の秦漢帝国の統一政権に完全には一度も統治されることのなかった広大な独立王国であった。荊楚の地の旧文化は保ち続けられ独自に栄えた。文人や任侠の士は帝国体制を逃れてこの地に参集し国王はそれを喜んだ。時の推移は強幹弱枝策(地方の豪族を中央の都や周辺の陵邑に強制的に移民させる政策)をとった漢帝国にとって,その動向を容認しがたいものにしていった。帝国の強健にこの特殊地域は滅ぼされてしまうことになるのであるが、この淮南王劉安が学者を集めて編纂させた思想書が「淮南子」である。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。
49bdd472.JPG この淮南子の『斉俗訓(せいぞくくん)第十一』に曰く、「天下の是非は定まれることなし。世の人みな己の是とするを是とし、己の非とするを非とする。それぞれの是と非とは、それぞれに異なる。いずれも己を是とし、他を非とするがゆえ。されば己に適えばとて、本来是なりとはかぎらず、己に逆らえばとて本来非なりとはかぎらず。すなわち是を求めるというのは、道理を求めるにはあらず、己に適うを求めるなり。非を退けるというも、邪悪を排するにはあらず、己に逆らうを退けるなり。己に逆らえばとて、他に適わずとはかぎらず、己に適うとても、世に退けられるとはかぎらず。至極の是とは、これを非とするもののなきこと、至極の非とは、これを是とするもののなきこと、これぞ真の是非。/いま、此処(ここ)に是なれど彼処(かしこ)に非なり、またここに非なれど彼処に是なり、というごときもの、これを一是・一非(=一是非部分真理)という。この一是非は、片すみのもの、かの真の是非は宇宙大のもの。/人みな、みずから是を選んでそこにとどまり、非を選んでこれを退けんとする。はて、世のいわゆる是非、いずれが是やら、いずれが非やら。/老子曰く《大国を治めるには、小魚を烹(に)るがごとくに》と。寛大なるものは、《余りに民をしめつけるな》といい、苛酷なものは《甘さと辛さを区別せよという》」
 現実の権力者は、革命や大改革など大きな事をしたくなる。英雄になりたがる。時には戦争をする。往々にしてこういう指導者がマスコミから褒めそやされ人気者になる。そして多くの国民が不幸になる。権力者が感情的になり興奮して暴走すると、社会は混乱し、人民大衆は不幸になる。権力者はつねに控え目に慎重に行動し、権力の抑制に努めるべきである。これは権力者が守るべき原理であり原則であるというべきである。
 

 墨堤通りを北上。地蔵坂通り入口前の区立堤通公園にいつの間にか新しい説明板が立っていた。
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ad23982d.JPG 説明版には『向島艇庫村跡/所在地 墨田区堤通一丁目(区立堤通公園)/明治から昭和にかけて、隅田川ではレガッタ(ボートレース)が盛んに行われました。この辺りには競技用のボートを収納するための艇庫が立ち並び、親しみを込めて「艇庫村」とも呼ばれていました。/レガッタはイギリスで発達し、明治10年(1877)頃から日本の学生たちの間に広まり始めました。明治15年(1882)、日本人の主催による初のレガッタが隅田川で開催されました。これは海軍に拠るものでしたが、明治17年(1884)には東京帝国大学(現在の東京大学)によって初の学生レガッタも行われました。/明治20年(1887)、ここから約700メートル南の川沿い、現在の向島五丁目に、日本で初めてとなる東京大学の艇庫が建設されました。その後、各校が向島に艇庫を建てるようになり、やがて堤通一丁目には独特の風景が形づくられました。レガッタと学生たちの練習風景は隅田川の風物詩となり、大会の開催字には多くの人々が応援や見物に集まりました。/しかし昭和35年(1960)頃から、隅田川の水質悪化や高速道路建設などのため、多くの艇庫が他の地区へと移りました。最後まで残っていた一橋大学の艇庫も昭和42年(1967)に移転し、向島艇庫村の風景はなくなりました。/その後、水質改善の努力が続けられた結果、昭和53年(1978)には早慶レガッタが復活しました。また昭和56年(1981)からは、「水の週間」を記念したウォーターフェア隅田川レガッタが開催されるようになり、現在も続けられています。/平成22年3月/墨田区教育委員会』とある。
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ad48b7d2.jpg 東白鬚公園を抜けると水神大橋を渡り、橋場からテラスに降りて桜橋まで南下、帰宅した。本日の記録は9623歩、6.25km。




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2f29d35d.JPG 今朝のウェブニュースより
 菅首相、サミットで外交デビュー カナダ、独首相と会談 ――  【トロント=船津寛】菅直人首相は25日午前(日本時間同日夜)、主要国首脳会議(ムスコカ・サミット)の開幕に先立ち、サミット会場内で、カナダのハーパー首相、ドイツのメルケル首相とそれぞれ会談した。外国での首脳会談は就任後、今回が初めて。首相はサミットの大舞台で外交デビューを果たした。/菅首相は両首相との会談で、日本政府が財政運営戦略や新成長戦略を発表したことを紹介。安全保障分野では、北朝鮮による韓国哨戒艦撃沈事件に関して、国連安全保障理事会に問題提起した韓国を支持する考えを伝え、メルケル首相には「主要8カ国(G8)が北朝鮮を非難する明確なメッセージを出すことが重要だ」と強調した。/ハーパー首相は参院選情勢について質問。菅首相は「56議席を得ることで与党は過半数を確保できる。非常に厳しい戦いだが、全力を尽くしたい」と応じた。  (産経ニュース、2010.6.26 00:49)

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 隅田公園を抜けると駒形橋まで南下。隅田川に沿って遊歩道を北上。白鬚橋手前で久し振りにワンさんとすれ違う。白鬚橋を渡って帰宅する。万歩計の記録に拠ると8952歩、5.8㎞の徘徊。
b7b55262.JPG 今朝のテレビ報道は、どの局もサッカーのワールドカップ(W杯)南アフリカ大会、1次リーグE組の日本対デンマーク戦で、3-1と日本が快勝した報道で専ら。日本はE組2位となり、決勝トーナメント進出を果たしたという。いやはや、それにしてもあの熱狂振り・大騒ぎはなんなのだろう。アナウンサーまでがはしゃいでいる。爺にはその心理がよくわからない。まあ、日本はそれだけ平和なんだろう。
 今朝のウェブニュースから。
9ea796fb.JPG 菅首相:サミットきょう開幕 「財政再建」強調へ、安保は「守り」 ―― 日米欧露の先進国による主要8カ国首脳会議(G8サミット)が25、26日、カナダ・ムスコカで開かれる。26、27日は、トロントに場所を移し、新興国を含めた主要20か国・地域首脳会議(G20サミット)が続く。菅直人首相はサミットで、世界経済の回復に向け「経済成長と財政再建の両立」への決意を強調する一方、初の日米首脳会談を通じ米軍普天間飛行場移設問題でぎくしゃくした両国関係の再構築を図る方針だ。内政課題での積極姿勢に対し、外交課題は首脳同士の信頼回復を優先する「守り」の外交デビュー戦になる。
 首相は24日夜、政府専用機で羽田空港を出発した。今回のサミットは、経済分野ではユーロ危機への対応が焦点になる。このために首相が準備したのが「財政運営戦略」と「新成長戦略」。閣議決定で、20年度まで平均3%超の名目成長を果たし、国と地方の基礎的財政収支(プライマリーバランス)を黒字化する目標を設けた。/首相は24日夜、首相公邸前で記者団に対し「経済成長と財政再建は両立できる。日本がそれをやろうとしていると(各国に)伝え、参考にしてもらえればいい」と語り、サミットに向け自信を示した。外務省幹部は「両戦略とも財務相時代に首相自身が事実上、作り上げたもの。国際会議の経験もあり、心配ない」と指摘する。/ただ、内政面での歯切れの良さに反し、外交は守りの姿勢が目立つ。サミットは外交・安全保障分野で、イランの核開発と韓国海軍の哨戒艦沈没事件を巡る北朝鮮への対応が焦点になる見通し。普天間問題を抱える首相は米国との信頼回復を最優先する構え。首相は24日夜、記者団に「オバマ大統領とこれからの日米関係、アジア太平洋地域の平和と安全という大きな方向性が共有できればいい。個人的な信頼関係が作れればいいと思っている」と述べ、27日に予定される日米首脳会談に期待する考えを示した。/「経済を両国関係の基軸に、もっと連携する努力をしよう」。ルース駐日米大使は今月14日、首相に近い議員と会食しメッセージを伝えた。サミットは24日公示された参院選に重なる。日米関係の再構築に加え、財政立て直しを急ぐ各国との協調をいかに演出するか。首相にとって外交の初舞台は、選挙結果と政権の行方を左右することにもなりそうだ。  (毎日新聞 2010年6月25日 東京朝刊)
 

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0df95f35.jpg 眼が覚めた時は既に5時を過ぎていた。距離を短くして、吾妻橋を渡り、墨田区側の隅田川遊歩道を北上、白鬚橋を渡り台東区側の遊歩道を橋場・今戸と南下して帰宅した。万歩計に拠れば7964歩、5.1kmと記録されていた。白鬚橋を渡る頃はスカイツリーの上の方を雨雲が彷徨っていたが、桜橋辺りまで来ると薄日が射してきた。予報では本日は晴れで気温も可なりまで上昇するとのこと。
 本日のウェブニュースによると、どうやらアフガン駐留米軍司令官が更迭されたらしい。
86ebf406.JPG アフガン駐留米軍司令官解任、政権高官を批判 ――    【ワシントン=黒瀬悦成】オバマ米大統領は23日、米誌「ローリング・ストーン」でアフガニスタン政策に関与するオバマ政権高官を批判したアフガン駐留米軍のスタンリー・マクリスタル司令官を解任し、後任にデビッド・ペトレイアス中央軍司令官を充てると発表した。/大規模増派に慎重姿勢を示した大統領への批判を含む一連の発言の責任を取らせた更迭人事だ。アフガン安定化に向けた作戦を取り仕切ってきたマクリスタル司令官の更迭は、2011年の米軍撤収開始を目指すオバマ政権のアフガン出口戦略に支障をきたす可能性もある。/大統領は、ホワイトハウスで記者会見し、司令官による一連の発言は、「民主主義の根幹である文民統制を脅かすものだ。(アフガン戦略をめぐる)議論は歓迎するが、分裂(を招く発言)は容認しない」と厳しく批判した。大統領はまた、「今は戦時下にある。戦いは厳しい」と指摘し、アフガン戦争の完遂に向け関係者が一致団結するよう要請した。/司令官は、対テロ戦闘など特殊作戦の専門家として知られ、昨年6月、更迭されたデビッド・マキャナン司令官に代わり、「アフガン安定化の切り札」として就任。旧支配勢力タリバンの掃討による治安回復、民生支援による安定した統治の確立を目指す政権の戦略を、現場で遂行してきた。今夏以降に本格化する南部カンダハルの攻略作戦など、今後の作戦指導に影響が出る恐れも指摘されている。  (2010年6月24日10時27分 読売新聞)
 

48d72a08.jpg 玄関を出ると、雨が降り出していた。まあ、大したことはあるまいと、傘も持たずに隅田公園を南下して、水上バスステーションの建設現場辺りまで来ると、どうやら本降りになりそうなので、吾妻橋を渡って、墨田区役所前に出る。枕橋から見るスカイツリー ―― 第一展望台(350m)の組み立てを完了してまもなく400mになろうとしている ―― が小雨に烟(けぶ)っている。
a14fe574.jpg 桜橋までくると、とうとう本降りになってきたので、徘徊を諦め、桜橋を渡って帰宅した。東京湾で夜釣りにでも出掛けたのだろうか? 小さな釣り船が言問橋を潜って隅田川を溯って来る。思わず雨のなか立ち止まってデジカメのシャッターを切った。

 ウェブニュースから、先週土曜日(6/19)の毎日新聞朝刊に掲載された参議院選立候補者の記事を拾い出して転載しておく。
風はどこへ:’10参院選 東京選挙区 20人超乱立、情勢見えず ――
◇民主の支持率回復、野党に危機感
 「2番じゃだめなんですよ。1番ですよ」。国会閉会後の16日夜、東京都新宿区の日本青年館で東京選挙区(改選数5)から再選を目指す蓮舫氏=民主党=の決起集会が開かれた。陣営の選挙対策本部長を務める海江田万里氏が、事業仕分けで有名になった蓮舫氏のせりふをもじって締めくくると会場は笑いに包まれた。/菅内閣発足で支持率が「V字回復」したこともあり、立ち見も出た会場は明るいムードに包まれた。新政権発足直前、都連幹部が「かつてない厳しさ」「大逆風だ」と青ざめていたのがうそのようだ。/高い知名度の蓮舫氏が浮動票を大量に集めて全体の当選ラインを下げ、3期目を目指す小川敏夫氏が労組など組織票を固めて2議席を維持するというのが民主の戦略だ。支持率回復がこの戦略を後押しするが、菅直人首相が、消費税率10%に言及したことで、追い風がいつまで続くか懸念する声もある。
◇民主の支持率回復の直撃を受けたのがみんなの党だ。新人の松田公太氏の16日の事務所開きでは、柿沢未途衆院議員が約100人の支持者を前に「風向きは大きく変化をしてきている。(好調だった)5月の風は6月には吹いていない」と危機感をあらわにした。選対幹部は「どれだけの人が民主支持に戻ってしまうのか……」と焦りを募らせた。
◇菅首相が国会で指名された直後の5日。自民党の中川雅治氏の総決起大会が行われた。約2000人の聴衆に、石原伸晃都連会長は「中川先生は政策マンであると広めてほしい」と大蔵官僚出身で政策に強い中川氏をアピールした。/表向きは、組織票を固めて中川氏の1議席を確保、新人の東海由紀子氏が浮動票を集めて2議席目を狙う役回りとしている。だが、守りの選挙を余儀なくされているのが実情だ。
◇新人の竹谷とし子氏を立てて1議席死守を図る公明党。知名度の高い小池晃氏を比例代表から転出させ議席奪還を目指す共産党。次々に誕生した新党に加え、諸派、無所属と立候補者が20人を超える見込みの東京選挙区。無党派層の動向に加え乱立がその情勢を読みにくくする。
◇予想される顔ぶれ
9b2fffa6.JPG 小川敏夫 62 弁護士(2)民現/蓮舫 42 行政刷新相(1)民現/中川雅治 63 元環境次官(1)自現/東海由紀子 42 元外資会社員 自新/竹谷とし子 40 公認会計士 公新/小池晃 50 党政策委員長(2)共現/江木佐織 57 社団法人理事 国新/海治広太郎 48 翻訳家 改新/森原秀樹 37 元衆議員秘書 社新/小倉麻子 31 弁護士 た新/松田公太 41 飲食業創業者 み新/矢内筆勝 48 幸福党役員     諸新/佐野秀光 39 新党本質代表 諸新/阪彰敏 61 あきつ新党首 諸新/姫治けんじ 58 政治団体代表 諸新/又吉光雄 66 政治団体代表 諸新/山田宏 52 日本創新党首 諸新/和合秀典 68 政治団体代表 諸新/新井徹夫 70 元会社員 無新/石原結實 61 医師 無新/小川昇志 44 経営コンサル 無新/佐藤清次 62 税理士 無新/沢田哲夫 78 印刷会社社長 無新/田中博子 58 写真家 無新/松本実 63 経営コンサル 無新  (毎日新聞 2010年6月19日 東京朝刊)
  本日の昼のテレビ番組、朝日【ワイドスクランブル】の夕刊キャッチアップで、「菅総理の替え歌が永田町で流行っている」という記事を取り上げていた。佐々木アナ曰く「東京スポーツ17面でありますが、まー菅さん、菅総理。永田町で早くもですね、替え歌が流行しているんだとの事なんですねぇ。何の替え歌かと言うとですね、元歌をまずお聞きいただきましょう。高峰秀子さんの〔銀座カンカン娘〕であります。」
9cfc831e.JPG 高峰秀子が歌う「銀座カンカン娘」が流れる中、紹介された替え歌は『野党攻めるよ カンカン直人~/経済分からず イライラ カンカ~ン/絶対多数で強行採決/国民 野党は怖くはないぜ/これが~ 民主のイラ菅直人~』 
 いやはや、今回の参院選は民主党の大勝でおわるのだろうか??
 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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