瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
キャスターが「調査委員会の伊藤座長という先生は、どういう先生なんですかね」と聞くし、慶応の先生が「建築とか都市工学の分野で有名な先生です」と説明をしたが、「何か口走って、止められて、忘れて下さいって言われても忘れられませんね」 大相撲レポーターと称するご婦人が「忘れられないことをいっぱいおっしゃる先生なんです」と助け舟か皮肉かひと言。ウェブニュースの産経ニュースに拠れば、親父殿はあの「チャターレー夫人の恋人」翻訳で有名な伊東整先生のご子息で、一昨年10月に協会の外部理事に就任。外界に閉ざされた協会としては、異例の人選だったという。相撲に関しては「普通に相撲を見て興奮してきた生涯」という。そんな“素人”が調査委を切り盛りできたのは、物事を一刀で切り下げる手腕に、武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)が全権を託したからだといわれるとある。しかし、こんな話を聞くと特別委員会と理事会馴れ合いもいい所と感じる。日本における賭博の歴史について調べてみた。
射倖心は運分天分に支配される部分のある、つまりある程度の確率による変動を伴う事柄において、良い結果が得られた時の高揚感を表す言葉である。倖の意味は「努力を必要としない」言うなれば、予期せずに訪れた幸せという意味である。射の意味も弓矢を射ることであり、当たり外れが技量に左右されるとはいえ、確率による変動があるため、その結果に一喜一憂する。弓矢は世界でも日本でも生活に欠かせないものであった。日々の糧を得るにも、周囲との諍いが大規模になれば戦となり、その弓矢の当たり外れの一つ一つが積み重なって戦況となっていった。その結果がその後の暮らしのを、どのように左右するのかは重大であった。このようなことから射幸心という言葉が生まれ、今日においては、弓矢や当たり外れの当たりだけでなく、人生においての偶然による、禍福の良い結果が訪れた時の高揚感を表す言葉になったという。
賭博は人の射倖心をくすぐり、時に中毒的な依存状態から破産や人格崩壊に至り、果てには自殺、殺人に及ぶ場合もある。また、違法賭博が暴力団の資金源になるなど社会問題も多く内包する。
「博打」(ばくち)という語は博(ばく)と呼ばれたボードゲーム《盤双六》のことで、それに金品をなげうつこと、「博を打つ」から「博打」と言う語ができたという。
賭博は「賭事」と「博技」の合成語である。「賭事」とは、(賭ける人間が介入し得ない)偶然に賭ける種類のギャンブルで、公営競技、サイコロ、札、野球、富くじなどが挙げられる。「博技」とは、賭ける人間の技量が勝敗を決する種類のギャンブルで、賭け麻雀、賭けゴルフなどが挙げられる。
長忌寸意吉麻呂(ながのいみのおきまろ、生没年未詳)は柿本人麻呂・高市黒人(たかいちのくろまろ)などと同じ頃、宮廷に仕えた下級官吏であったらしい。万葉集に行幸の際の応詔歌、羇旅歌、宴席で物名を詠み込んだ即興歌などを十四首を残しているが、その中に「双六の頭(さえ)を詠める歌」というのがある。
一二(ひとふた)の目のみにあらず五つ六つ三つ四つさへあり双六(すごろく)の采(さえ)(万16-3827)
「人間の目なら二つまでだが、一・二の目ばかりでない、五・六・三・四の目さえあるよ、双六の賽には」というほどの意味であろう。
さいころを2個振り、双方とも最大値である6のゾロ目がいかに出るかが形勢を左右したゲームであったため、「雙六」あるいは異字体として「双六」という字が当てられるようになり、その名の由来になったといわれている。
こうした賭博~賭け事が庶民階級にも広く浸透していったのが平安初期で、その頃すでに博徒が発生したといわれている。さらに、こうした博徒が次第に組織化されていったのが、江戸時代前期といわれ、江戸時代中期になると、それ以前の半農博徒とか宿場博徒、中間博徒などと呼ばれていたものが階梯的組織をもつ集団を形成していったといわる。
江戸時代後期になると、幕府や武士階級の力が弱まるにつれ、都市や農村を問わず、常設賭博場が各地に出現し、博徒集団も、親分子分の擬制の血縁関係で更に強く組織化され、槍や鉄砲などで重武装化した多くの集団が各地で跳梁し、手のつけられないような状態になる。この時期、幕末から明治維新にかけて、講談や浪曲などでお馴染みの、清水の次郎長、国定忠治、黒駒の勝蔵、会津の小鉄、新門辰五郎、勢力富五郎など著名な博徒の大親分が出現する。講談や浪曲の世界では、彼らは仁義に厚い庶民の味方として美化し語られているが、その実像はそれとは正反対で、義理や人情も弁えない庶民泣かせの凶暴な親分衆であった。
明治維新以降も博徒集団は依然として存続し、維新直後こそ新体制の障害になるものとして、博徒の活動は強制的に抑えられたが、明治10年頃になると政府の取締りもゆるみ、博徒の活動が再び盛んになる。明治17年に太政官布告による「賭博犯処分規則」が施行されて、取締が強化され、「大刈込」といわれた博徒の大量検挙なども行われたが、明治22年に「賭博犯処分規則」が廃止されると、博徒集団は息を吹き返し、大規模な縄張り争いを繰り返すなど、その活動は再び降盛となり、浅草では700~800人もの子分を擁した親分も出現したという。その頃は「オイチョカブ」、「ホンビキ」などの花札賭博が大流行した時期でもあったという。
日清、日露の戦争を経て、我が国の社会経済の急激な発展は、博徒稼業の質を変化させ、賭博専業の博徒から、歓楽街、興業界、土建業、港湾荷役、炭鉱地区等に進出する複雑な形態に移って行くが、賭博を本業とするその本質には変化はなかった。彼らは一方では、当時の右翼政治活動との繋りを強め、時の政治に癒着しながら、組織の存続強化を図って行ったふしもある。
昭和20年代の戦後の混乱期になると暴力集団として、青少年不良集団である「愚連隊」が出現し、それまでの博徒、的屋などの利権が荒されるようになり、これら新・旧勢力間の利権をめぐる対立抗争が激化する一方、組織の離合集散の結果、渾然として、各々の組織的色分けが次第につかなくなって行くと同時に、各々の組織は利益になるものは何でもするようになり、現在では、賭博を本業とする暴力団はほとんど見当らなくなったのである。しかし、現在の暴力団にも賭博を稼業として嗜好する体質は濃厚に残っており、また、賭博は彼らの有力な資金源ともなっているところから、暴力団と賭博は、今でも切り離せないものとなっているのだろう。
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