瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 早朝から雨。テレビで報道番組を見る。時々選挙運動車のがなり声がテレビからの音を掻き消してしまう。参議院の選挙運動が始ったようだ。日本において戸別訪問が禁止されていることから、自動車による候補者の氏名の連呼による選挙運動が行われていることが大きな特徴といえよう。まあ、当分の間あの五月蝿い騒音を我慢するしかない。こんな選挙運動でどの候補者を選べというのだろうか。新聞の記事を読んでも、テレビの政治討論会を聞いても解らないことが多すぎる。
b395f3fd.JPG 劉安(BC179~122年)の支配した淮南(わいなん)国は、戦国以来の秦漢帝国の統一政権に完全には一度も統治されることのなかった広大な独立王国であった。荊楚の地の旧文化は保ち続けられ独自に栄えた。文人や任侠の士は帝国体制を逃れてこの地に参集し国王はそれを喜んだ。時の推移は強幹弱枝策(地方の豪族を中央の都や周辺の陵邑に強制的に移民させる政策)をとった漢帝国にとって,その動向を容認しがたいものにしていった。帝国の強健にこの特殊地域は滅ぼされてしまうことになるのであるが、この淮南王劉安が学者を集めて編纂させた思想書が「淮南子」である。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。
49bdd472.JPG この淮南子の『斉俗訓(せいぞくくん)第十一』に曰く、「天下の是非は定まれることなし。世の人みな己の是とするを是とし、己の非とするを非とする。それぞれの是と非とは、それぞれに異なる。いずれも己を是とし、他を非とするがゆえ。されば己に適えばとて、本来是なりとはかぎらず、己に逆らえばとて本来非なりとはかぎらず。すなわち是を求めるというのは、道理を求めるにはあらず、己に適うを求めるなり。非を退けるというも、邪悪を排するにはあらず、己に逆らうを退けるなり。己に逆らえばとて、他に適わずとはかぎらず、己に適うとても、世に退けられるとはかぎらず。至極の是とは、これを非とするもののなきこと、至極の非とは、これを是とするもののなきこと、これぞ真の是非。/いま、此処(ここ)に是なれど彼処(かしこ)に非なり、またここに非なれど彼処に是なり、というごときもの、これを一是・一非(=一是非部分真理)という。この一是非は、片すみのもの、かの真の是非は宇宙大のもの。/人みな、みずから是を選んでそこにとどまり、非を選んでこれを退けんとする。はて、世のいわゆる是非、いずれが是やら、いずれが非やら。/老子曰く《大国を治めるには、小魚を烹(に)るがごとくに》と。寛大なるものは、《余りに民をしめつけるな》といい、苛酷なものは《甘さと辛さを区別せよという》」
 現実の権力者は、革命や大改革など大きな事をしたくなる。英雄になりたがる。時には戦争をする。往々にしてこういう指導者がマスコミから褒めそやされ人気者になる。そして多くの国民が不幸になる。権力者が感情的になり興奮して暴走すると、社会は混乱し、人民大衆は不幸になる。権力者はつねに控え目に慎重に行動し、権力の抑制に努めるべきである。これは権力者が守るべき原理であり原則であるというべきである。
 

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