瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
史記 孟子・荀卿列伝 第十四 より
是以騶子重於齊。適梁、惠王郊迎、執賓主之禮。適趙、平原君側行撇席。如燕、昭王擁彗先驅、請列弟子之座而受業、筑碣石宮、身親往師之。作主運。其游諸侯見尊禮如此、豈與仲尼菜色陳蔡、孟軻困於齊梁同乎哉!笔武王以仁義伐紂而王、伯夷餓不食周粟;衛靈公問陳、而孔子不答;梁惠王謀欲攻趙、孟軻稱大王去邠。此豈有意阿世俗茍合而已哉!持方枘欲內圜鑿、其能入乎?或曰、伊尹負鼎而勉湯以王、百里奚飯牛車下而繆公用霸、作先合、然後引之大道。騶衍其言雖不軌、儻亦有牛鼎之意乎? 自騶衍與齊之稷下先生、如淳于髡、慎到、環淵、接子、田駢、騶奭之徒、各著書言治亂之事、以干世主、豈可勝道哉!
〈訳〉
かくて、騶衍は斉で重んぜられた。梁におもむくと恵王は国都の郊外に出迎えて、主客対等の礼を行い、賓客として待遇した。趙におもむくと、平原君は極めて敬虔な態度で接し、彼の側につきそって歩行し、彼の坐席を自分の衣服で払ってやるほどであった。燕におもむくと、昭王は箒を手にして道を清めて先駆し、弟子の座に連なって学業を受けたいと請い、碣石宮を築いて、水から出向いて彼に師事した。騶衍はそこで「主運篇」を作述した。騶衍が諸侯の間に遊歴して尊敬礼遇されたのは以上のようであって、仲尼(ちゅうじ)が陳・蔡で飢えて青白くなり、孟軻(もうか)が斉・梁で苦しんだのとは、同日の談ではない。むかし、周の武王は仁義の故に殷の紂王を伐って天下の王者となったが、伯夷は武王を非として、餓死しても周の扶持米を受けようとはしなかった。衛の霊公が軍陣の法を問うたが、孔子は答えなかった。梁の恵王が趙を攻めたいと相談したが、孟軻は周の大王(古公亶父、武王の曾祖父)が民を思って邠(陝西省)を去ったことを称揚した。この伯夷・孔子・孟軻の態度は、世俗に阿(おもね)ったり、ただ相手に気に入られようとする心からは決して生まれない。四角な柄を円い孔に入れようとしても、入るはずがない。ある人は言った。
「伊尹(いいん)は、はじめ鼎を背負った料理人として殷の湯王に近づき、後に湯王を激励して王者たらしめた。百里奚(ひゃくりけい)は牛を車の下で飼って秦の繆公(ぼく)に認められ、繆公は百里奚のお陰で覇者となった。この二人は、まず相手に近づく手段を講じておいて、それから相手を大道に引き入れたのである。騶衍は、その言説は不軌であったが、あるいは牛を飼った百里奚、鼎を背負った伊尹のような意があったのではなかろうか」
騶衍をはじめ、斉の稷下先生(斉の威王・宣王の時代に、斉の国都臨菑〔りんし〕の城門である稷門付近に集まった学者たち)、たとえば淳于髠(じゅんうこん)・慎倒・環淵・接子(しょうし)・田駢(でんへん)・騶奭(すうせき)の徒のごときまで、各々の書を著し、治乱を論じて、時の君主に仕官をもとめた。その数は非常に多くて、すべてに言及することはできない。
是以騶子重於齊。適梁、惠王郊迎、執賓主之禮。適趙、平原君側行撇席。如燕、昭王擁彗先驅、請列弟子之座而受業、筑碣石宮、身親往師之。作主運。其游諸侯見尊禮如此、豈與仲尼菜色陳蔡、孟軻困於齊梁同乎哉!笔武王以仁義伐紂而王、伯夷餓不食周粟;衛靈公問陳、而孔子不答;梁惠王謀欲攻趙、孟軻稱大王去邠。此豈有意阿世俗茍合而已哉!持方枘欲內圜鑿、其能入乎?或曰、伊尹負鼎而勉湯以王、百里奚飯牛車下而繆公用霸、作先合、然後引之大道。騶衍其言雖不軌、儻亦有牛鼎之意乎? 自騶衍與齊之稷下先生、如淳于髡、慎到、環淵、接子、田駢、騶奭之徒、各著書言治亂之事、以干世主、豈可勝道哉!
〈訳〉
かくて、騶衍は斉で重んぜられた。梁におもむくと恵王は国都の郊外に出迎えて、主客対等の礼を行い、賓客として待遇した。趙におもむくと、平原君は極めて敬虔な態度で接し、彼の側につきそって歩行し、彼の坐席を自分の衣服で払ってやるほどであった。燕におもむくと、昭王は箒を手にして道を清めて先駆し、弟子の座に連なって学業を受けたいと請い、碣石宮を築いて、水から出向いて彼に師事した。騶衍はそこで「主運篇」を作述した。騶衍が諸侯の間に遊歴して尊敬礼遇されたのは以上のようであって、仲尼(ちゅうじ)が陳・蔡で飢えて青白くなり、孟軻(もうか)が斉・梁で苦しんだのとは、同日の談ではない。むかし、周の武王は仁義の故に殷の紂王を伐って天下の王者となったが、伯夷は武王を非として、餓死しても周の扶持米を受けようとはしなかった。衛の霊公が軍陣の法を問うたが、孔子は答えなかった。梁の恵王が趙を攻めたいと相談したが、孟軻は周の大王(古公亶父、武王の曾祖父)が民を思って邠(陝西省)を去ったことを称揚した。この伯夷・孔子・孟軻の態度は、世俗に阿(おもね)ったり、ただ相手に気に入られようとする心からは決して生まれない。四角な柄を円い孔に入れようとしても、入るはずがない。ある人は言った。
「伊尹(いいん)は、はじめ鼎を背負った料理人として殷の湯王に近づき、後に湯王を激励して王者たらしめた。百里奚(ひゃくりけい)は牛を車の下で飼って秦の繆公(ぼく)に認められ、繆公は百里奚のお陰で覇者となった。この二人は、まず相手に近づく手段を講じておいて、それから相手を大道に引き入れたのである。騶衍は、その言説は不軌であったが、あるいは牛を飼った百里奚、鼎を背負った伊尹のような意があったのではなかろうか」
1 「陰陽説」: 世界は「陰」と「陽」、「男」と「女」、「天」と「地」のように、2つのものに分かれ、それらがうまく混じりあって万物が「調和」しているのだ、という考え。
2 「五行説」: 陰と陽から「木」「火」「土」「金」「水」の五つの要素がうまれ、またその5つの要素から万物が生まれていくという考え。
これら2つを総称して「陰陽五行説」と呼ぶ。
史記 孟子・荀卿列伝 第十四 より
齊有三騶子。其前騶忌、以鼓琴干威王、因及國政、封為成侯而受相印、先孟子。其次騶衍、后孟子。騶衍睹有國者益淫侈、不能尚德、若大雅整之於身、施及黎庶矣。乃深觀陰陽消息而作怪迂之變、終始、大圣之篇十餘萬言。其語閎大不經、必先驗小物、推而大之、至於無垠。先序今以上至黃帝、學者所共術、大并世盛衰、因載其禨祥度制、推而遠之、至天地未生、窈冥不可考而原也。先列中國名山大川、通谷禽獸、水土所殖、物類所珍、因而推之、及海外人之所不能睹。稱引天地剖判以來、五德轉移、治各有宜、而符應若茲。以為儒者所謂中國者、於天下乃八十一分居其一分耳。中國名曰赤縣神州。赤縣神州內自有九州、禹之序九州是也、不得為州數。中國外如赤縣神州者九、乃所謂九州也。於是有裨海環之、人民禽獸莫能相通者、如一區中者、乃為一州。如此者九、乃有大瀛海環其外、天地之際焉。其術皆此類也。然要其歸、必止乎仁義節儉、君臣上下六親之施、始也濫耳。王公大人初見其術、懼然顧化、其后不能行之。
〈訳〉
斉に三騶子がいた。最初の騶忌〈すうき〉は琴を弾くのがうまいという理由で、威王に仕官を求め、それをきっかけにして国政にあずかり、封ぜられて成侯となり、宰相の印綬を受けた。時代は孟子より先である。
「儒者のいわゆる中国は、全天下においては八十一分の一にすぎない。中国を名付けて赤県神州という。この赤県神州の内に、おのずから九州がある。禹が整理した九州がこれで、これは州の数には入らない。中国の外に赤県神州と同様のものが九つあって、これがいわゆる九州である。小海があって九州の一つ一つを取り巻いており、人民禽獣は互いに交流することが出来ず、それぞれ一つの区域を形成しているわけで、それが一州である。そのような大きな州が九つあって、大海がその外を取り巻いている。これが天地の際限である」
騶衍の述べるところは、みなこの類である。しかし、その帰するところを要約すれば、必ず仁義・節倹を強調しているのであって、君臣・上下・六親(父母兄弟妻子)の間に施し行うべき道である。ただ、始めが虚誕でつかみどころがないだけである。王侯・貴人ははじめてその説に接すると、驚いてひきつけられるが、その後、実行することは出来なかった。
史記 列伝 管・晏列伝 第二 より
太史公曰:吾讀管氏牧民、山高、乘馬、輕重、九府、及晏子春秋、詳哉其言之也。既見其著書、欲觀其行事、故次其傳。至其書、世多有之、是以不論、論其軼事。
管仲世所謂賢臣、然孔子小之。豈以為周道衰微、桓公既賢、而不勉之至王、乃稱霸哉?語曰“將順其美、匡救其惡、故上下能相親也”。豈管仲之謂乎?
方晏子伏莊公尸哭之、成禮然後去、豈所謂“見義不為無勇”者邪? 至其諫說、犯君之顏、此所謂“進思盡忠、退思補過”者哉! 假令晏子而在、余雖為之執鞭、所忻慕焉。
(訳)
太子公曰く ――
わたしは、管仲の著作である牧民・山高・乗馬・軽重・九府の諸篇および晏子の著作である『晏子春秋』を読んだが、その立論はじつに精密である。
著書を見おわると、行ないを観察したいという思いがつのったので、その伝を述べてみた。二人の著書は世間に多く流布されているので論じないことにして、その逸事を論じたのである。
管仲は世にいわゆる賢臣であるが、孔子は小人物だとした。それは、周の政道が衰微していた状況下で、桓公が賢人であったにもかかわらず、大いに励まして王者にまでしたてずに、覇を称(とな)えさせるにとどまったと考えたからであろうか。古語(『孝経』)に、
「君主の美点を助長し、欠点を矯正する臣下であるから、君臣がよく相親しむのだ」
とあるが、まさに管仲のごときを言ったのであろうか。
崔杼に弑殺された荘公の屍に伏して、これを哭礼して立ち去った晏子は、いわゆる「義を見てせざるは勇なき」ものであろうか。君主に面と向かって強諌した晏子は、いわゆる「進んでは忠を尽くそうと思い、退いては過ちを補おうと思う」ものであろうか。もし、いま晏子が生存しているなら、わたしはその御者としてでも仕えたい、とまで慕っている。
太史公曰:吾讀管氏牧民、山高、乘馬、輕重、九府、及晏子春秋、詳哉其言之也。既見其著書、欲觀其行事、故次其傳。至其書、世多有之、是以不論、論其軼事。
管仲世所謂賢臣、然孔子小之。豈以為周道衰微、桓公既賢、而不勉之至王、乃稱霸哉?語曰“將順其美、匡救其惡、故上下能相親也”。豈管仲之謂乎?
方晏子伏莊公尸哭之、成禮然後去、豈所謂“見義不為無勇”者邪? 至其諫說、犯君之顏、此所謂“進思盡忠、退思補過”者哉! 假令晏子而在、余雖為之執鞭、所忻慕焉。
(訳)
太子公曰く ――
わたしは、管仲の著作である牧民・山高・乗馬・軽重・九府の諸篇および晏子の著作である『晏子春秋』を読んだが、その立論はじつに精密である。
著書を見おわると、行ないを観察したいという思いがつのったので、その伝を述べてみた。二人の著書は世間に多く流布されているので論じないことにして、その逸事を論じたのである。
管仲は世にいわゆる賢臣であるが、孔子は小人物だとした。それは、周の政道が衰微していた状況下で、桓公が賢人であったにもかかわらず、大いに励まして王者にまでしたてずに、覇を称(とな)えさせるにとどまったと考えたからであろうか。古語(『孝経』)に、
「君主の美点を助長し、欠点を矯正する臣下であるから、君臣がよく相親しむのだ」
とあるが、まさに管仲のごときを言ったのであろうか。
史記 世家 斉太公世家 第二 より
六年、初、棠公妻好、棠公死、崔杼取之。莊公通之、數如崔氏、以崔杼之冠賜人。待者曰:“不可。”崔杼怒、因其伐晉、欲與晉合謀襲齊而不得閒。莊公嘗笞宦者賈舉、賈舉復侍、為崔杼閒公以報怨。五月、莒子朝齊、齊以甲戌饗之。崔杼稱病不視事。乙亥、公問崔杼病、遂從崔杼妻。崔杼妻入室、與崔杼自閉戶不出、公擁柱而歌。宦者賈舉遮公從官而入、閉門、崔杼之徒持兵從中起。公登臺而請解、不許;請盟、不許;請自殺於廟、不許。皆曰:“君之臣杼疾病、不能聽命。近於公宮。陪臣爭趣有淫者、不知二命。”公踰墻、射中公股、公反墜、遂弒之。晏嬰立崔杼門外、曰:“君為社稷死則死之、為社稷亡則亡之。若為己死己亡、非其私暱、誰敢任之!”門開而入、枕公尸而哭、三踴而出。人謂崔杼:“必殺之。”崔杼曰:“民之望也、捨之得民。”
丁丑、崔杼立莊公異母弟杵臼、是為景公。景公母、魯叔孫宣伯女也。景公立、以崔杼為右相、慶封為左相。二相恐亂起、乃與國人盟曰:“不與崔慶者死!”晏子仰天曰:“嬰所不(獲)唯忠於君利社稷者是從!”不肯盟。慶封欲殺晏子、崔杼曰:“忠臣也、捨之。”齊太史書曰“崔杼弒莊公”、崔杼殺之。其弟復書、崔杼復殺之。少弟復書、崔杼乃捨之。
(訳)
(荘公の)六年のことである。――これより先、斉の大夫の棠公(とうこう)の妻は美人であった。棠公が死んで、崔杼(さいちょ、?~BC546年)がこれを娶った。荘公はこれと密通し、しばしば崔杼の邸宅に通い、崔杼の冠を持ち出して、人に与えたりした。侍者が
「そのようなことをなされてはなりません」
と言ったが、荘公は聞き入れなかった。崔杼は怒って、斉が晋を伐つのにかこつけて晋と謀を打ち合わせ、荘公を襲撃使用としたが、その隙を捕えることができなかった。また、荘公はかつて宦者の賈挙(かきょ)を鞭打ったことがある。賈挙はそれからも、君側にじしていて、崔杼のために荘公の隙をうかがい、怨みを報じようとした。――この年の五月に、莒(きょ)の君主が斉に来朝した。斉は甲戌(こうじゅつ)の日にこれを饗応した。崔杼は病気と称して出席しなかった。乙亥(いつがい)の日に、崔杼の病気を慰問し、崔杼の妻と淫楽しようとした。崔杼の妻は、崔杼とともに部屋にこもって、戸を閉じて出てこなかった。荘公は呼び出そうとして、柱を抱いて歌った。宦者の賈挙が、荘公の従者を遮り留めて、ひとり屋内に入り、門を閉じた。崔杼の家臣が、武器を持って邸内から蜂起した。荘公は台(うてな)にのぼって和解して欲しいと請うたが、崔杼の家臣は許さなかった。宗廟で自殺したいと請うたが許さなかった。そして口々に言った。
「わが斉君の臣下である崔杼は、現在重病で、君命を聞くことが出来ない。この邸は宮廷に近い。われら陪臣は、主人である崔杼の命をうけて、至急淫蕩な奴を討とうとしているのだ。われらは主人の命のみを聞くのだ」
荘公は牆(かき)をこえて脱れようとしたが、崔杼の家臣の矢が股にあたって、こちら側に落ちた。崔杼はの家臣はついに荘公を弑殺した。晏嬰が駆けつけて、崔杼の邸の門外に立って言った。
「わが君が、公儀をもって国家のために死亡なさったのなら、私もお供をして死にもしよう。国家のために逃亡なさったのなら、私もお供をして逃亡もしよう。もし、だが私欲のために死亡し、または逃亡なさるのなら、君公がひそかになじまれたものでなくては、だれがお供をしようか!」
そして、門が開くと中に入り、荘公の屍に枕させて哭泣し、礼式通り三踊の礼(三度哀悼して足ずりをする礼)をして退出した。ある人が崔杼に言った。
「かならず殺してしまいなさい」
崔杼が言った。
「晏嬰には人望がある。このまま生かしておいて民心を得よう」
丁丑(ていちゅう)の日に、崔杼は、荘公の異母弟の杵臼(しょきゅう)を立てた。これが景公である。景公の母は魯の叔孫宣白(しゅくそんせんはく)の女(むすめ)である。景公が立って、崔杼を右相に任じ、慶幇(けいほう)を左相に任じた。二相は、乱が起こるのを恐れて、国人と盟って言った。
「崔氏・慶氏にくみしないものは、死刑にしょする」
晏嬰は天を仰いで、
「嬰は、したがうことはできない。ただ、わが君に忠に、国家に利益をもたらすものにしたがおう」
と言って、ついに盟約することを承諾しなかった。慶封は晏嬰を殺そうと望んだ。崔杼は
「忠臣である」
と言って、晏嬰をそのままにした。
崔の史官が書いた。
「崔杼、荘公を弑す」
崔杼は、これを殺した。その弟がまた書いた。崔杼はまた殺した。その末弟がまた書いた。崔杼はついにこれをそのままにした。
六年、初、棠公妻好、棠公死、崔杼取之。莊公通之、數如崔氏、以崔杼之冠賜人。待者曰:“不可。”崔杼怒、因其伐晉、欲與晉合謀襲齊而不得閒。莊公嘗笞宦者賈舉、賈舉復侍、為崔杼閒公以報怨。五月、莒子朝齊、齊以甲戌饗之。崔杼稱病不視事。乙亥、公問崔杼病、遂從崔杼妻。崔杼妻入室、與崔杼自閉戶不出、公擁柱而歌。宦者賈舉遮公從官而入、閉門、崔杼之徒持兵從中起。公登臺而請解、不許;請盟、不許;請自殺於廟、不許。皆曰:“君之臣杼疾病、不能聽命。近於公宮。陪臣爭趣有淫者、不知二命。”公踰墻、射中公股、公反墜、遂弒之。晏嬰立崔杼門外、曰:“君為社稷死則死之、為社稷亡則亡之。若為己死己亡、非其私暱、誰敢任之!”門開而入、枕公尸而哭、三踴而出。人謂崔杼:“必殺之。”崔杼曰:“民之望也、捨之得民。”
丁丑、崔杼立莊公異母弟杵臼、是為景公。景公母、魯叔孫宣伯女也。景公立、以崔杼為右相、慶封為左相。二相恐亂起、乃與國人盟曰:“不與崔慶者死!”晏子仰天曰:“嬰所不(獲)唯忠於君利社稷者是從!”不肯盟。慶封欲殺晏子、崔杼曰:“忠臣也、捨之。”齊太史書曰“崔杼弒莊公”、崔杼殺之。其弟復書、崔杼復殺之。少弟復書、崔杼乃捨之。
(訳)
(荘公の)六年のことである。――これより先、斉の大夫の棠公(とうこう)の妻は美人であった。棠公が死んで、崔杼(さいちょ、?~BC546年)がこれを娶った。荘公はこれと密通し、しばしば崔杼の邸宅に通い、崔杼の冠を持ち出して、人に与えたりした。侍者が
「そのようなことをなされてはなりません」
と言ったが、荘公は聞き入れなかった。崔杼は怒って、斉が晋を伐つのにかこつけて晋と謀を打ち合わせ、荘公を襲撃使用としたが、その隙を捕えることができなかった。また、荘公はかつて宦者の賈挙(かきょ)を鞭打ったことがある。賈挙はそれからも、君側にじしていて、崔杼のために荘公の隙をうかがい、怨みを報じようとした。――この年の五月に、莒(きょ)の君主が斉に来朝した。斉は甲戌(こうじゅつ)の日にこれを饗応した。崔杼は病気と称して出席しなかった。乙亥(いつがい)の日に、崔杼の病気を慰問し、崔杼の妻と淫楽しようとした。崔杼の妻は、崔杼とともに部屋にこもって、戸を閉じて出てこなかった。荘公は呼び出そうとして、柱を抱いて歌った。宦者の賈挙が、荘公の従者を遮り留めて、ひとり屋内に入り、門を閉じた。崔杼の家臣が、武器を持って邸内から蜂起した。荘公は台(うてな)にのぼって和解して欲しいと請うたが、崔杼の家臣は許さなかった。宗廟で自殺したいと請うたが許さなかった。そして口々に言った。
「わが斉君の臣下である崔杼は、現在重病で、君命を聞くことが出来ない。この邸は宮廷に近い。われら陪臣は、主人である崔杼の命をうけて、至急淫蕩な奴を討とうとしているのだ。われらは主人の命のみを聞くのだ」
「わが君が、公儀をもって国家のために死亡なさったのなら、私もお供をして死にもしよう。国家のために逃亡なさったのなら、私もお供をして逃亡もしよう。もし、だが私欲のために死亡し、または逃亡なさるのなら、君公がひそかになじまれたものでなくては、だれがお供をしようか!」
そして、門が開くと中に入り、荘公の屍に枕させて哭泣し、礼式通り三踊の礼(三度哀悼して足ずりをする礼)をして退出した。ある人が崔杼に言った。
「かならず殺してしまいなさい」
崔杼が言った。
「晏嬰には人望がある。このまま生かしておいて民心を得よう」
丁丑(ていちゅう)の日に、崔杼は、荘公の異母弟の杵臼(しょきゅう)を立てた。これが景公である。景公の母は魯の叔孫宣白(しゅくそんせんはく)の女(むすめ)である。景公が立って、崔杼を右相に任じ、慶幇(けいほう)を左相に任じた。二相は、乱が起こるのを恐れて、国人と盟って言った。
「崔氏・慶氏にくみしないものは、死刑にしょする」
晏嬰は天を仰いで、
「嬰は、したがうことはできない。ただ、わが君に忠に、国家に利益をもたらすものにしたがおう」
と言って、ついに盟約することを承諾しなかった。慶封は晏嬰を殺そうと望んだ。崔杼は
「忠臣である」
と言って、晏嬰をそのままにした。
崔の史官が書いた。
「崔杼、荘公を弑す」
崔杼は、これを殺した。その弟がまた書いた。崔杼はまた殺した。その末弟がまた書いた。崔杼はついにこれをそのままにした。
史記 世家 孔子世家 第十七 より
孔子年三十五、而季平子與郈昭伯以鬬雞故得罪魯昭公、昭公率師擊平子、平子與孟氏、叔孫氏三家共攻昭公、昭公師敗、奔於齊、齊處昭公乾侯。其后頃之、魯亂。孔子適齊、為高昭子家臣、欲以通乎景公。與齊太師語樂、聞韶音、學之、三月不知肉味、齊人稱之。
景公問政孔子、孔子曰:“君君、臣臣、父父、子子。”景公曰:“善哉! 信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸!”他日又復問政於孔子、孔子曰:“政在節財。”景公說、將欲以尼谿田封孔子。晏嬰進曰:“夫儒者滑稽而不可軌法;倨傲自順、不可以為下;崇喪遂哀、破產厚葬、不可以為俗;游說乞貸、不可以為國。自大賢之息、周室既衰、禮樂缺有閒。今孔子盛容飾、繁登降之禮、趨詳之節、累世不能殫其學、當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗、非所以先細民也。”后景公敬見孔子、不問其禮。異日、景公止孔子曰:“奉子以季氏、吾不能。”以季孟之閒待之。齊大夫欲害孔子、孔子聞之。景公曰:“吾老矣、弗能用也。”孔子遂行、反乎魯。
〈訳〉
孔子が三十五歳のときに、季平子(魯の大夫、?~BC505年)が郈昭伯(魯の大夫、生没年不詳)と闘鶏を行ったために、魯の昭公に罰せられた。昭公は軍を率いて平子を撃った。平子は孟氏・叔孫氏と組んで、三家そろって昭公を攻めた。昭公は軍敗れて斉に出奔した。斉は昭公を乾侯(河北省)に居住させた。その後しばらく経って、魯が乱れた。孔子は斉におもむいて、斉の大夫の高昭子の家臣となり、意を景公に通じようと望んだ。斉の太師(音楽官)と音楽を語り、韶(しょう、帝舜の音楽)の音を聞いて、これを学び、その盛美にうたれて、三ヶ月のあいだ肉の味も知らなかった。斉の人々はこのことを称揚した。
景公が政治を景公に問うた。孔子は答えた。
「君が君であり、臣が臣であり、父が父であり、子が子であることです」
景公は言った。
「よろしい! まことに、もし君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなかったら、いくら米粟があったところで、わしは安閑とそれを食っておれようか」
後日、また政治を孔子に問うた。孔子は答えた。
「政治の要諦は材用を節約することです」
景公は喜んで、尼谿(じけい、斉の地
)の田を与えて孔子を封じようとした。すると晏嬰がすすみでていった。
「儒者というものは多弁でありまして、そのいうところを法則とすることはできません。また、傲慢不遜で自らの意に沿いますので、下位につけることはできません。喪に服することを崇び、どこまでも悲哀の情をとげ、家産をやぶってまでも葬儀を手厚くしますから、人民の風俗とすることは出来ません。大賢(文王・周公など)が絶えてから、周室はすでに衰え、礼楽が不完全なものになって久しく経ちました。ところが、いま、孔子は、義容の修飾を盛大にし、登降・歩行の礼節を煩雑に致しました。世を重ねてもその学を究めつくすことは出来ず、当今、その礼を究めることもできません。わが君がこれを用いて斉の風俗を改めようとのぞまれることは、細民の先頭に立って、民を指導する所以ではございません」
その後、景公はなお敬意を以って孔子に会ったが、礼を問うことはなかった。また、後日景公が孔子を引き止めていった。
「そなたに季氏(魯の上卿)と同等の俸禄を与えることは出来ない。季氏と孟氏(魯の下卿)の中間で待遇しよう」
また、斉の大夫が孔子を殺害しようとした。孔子はこのことを聞き知った。
景公が言った。
「わしは老いた。そなたを登用することはできない」
孔子は、ついに斉を去って魯に帰った。
孔子年三十五、而季平子與郈昭伯以鬬雞故得罪魯昭公、昭公率師擊平子、平子與孟氏、叔孫氏三家共攻昭公、昭公師敗、奔於齊、齊處昭公乾侯。其后頃之、魯亂。孔子適齊、為高昭子家臣、欲以通乎景公。與齊太師語樂、聞韶音、學之、三月不知肉味、齊人稱之。
景公問政孔子、孔子曰:“君君、臣臣、父父、子子。”景公曰:“善哉! 信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸!”他日又復問政於孔子、孔子曰:“政在節財。”景公說、將欲以尼谿田封孔子。晏嬰進曰:“夫儒者滑稽而不可軌法;倨傲自順、不可以為下;崇喪遂哀、破產厚葬、不可以為俗;游說乞貸、不可以為國。自大賢之息、周室既衰、禮樂缺有閒。今孔子盛容飾、繁登降之禮、趨詳之節、累世不能殫其學、當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗、非所以先細民也。”后景公敬見孔子、不問其禮。異日、景公止孔子曰:“奉子以季氏、吾不能。”以季孟之閒待之。齊大夫欲害孔子、孔子聞之。景公曰:“吾老矣、弗能用也。”孔子遂行、反乎魯。
〈訳〉
孔子が三十五歳のときに、季平子(魯の大夫、?~BC505年)が郈昭伯(魯の大夫、生没年不詳)と闘鶏を行ったために、魯の昭公に罰せられた。昭公は軍を率いて平子を撃った。平子は孟氏・叔孫氏と組んで、三家そろって昭公を攻めた。昭公は軍敗れて斉に出奔した。斉は昭公を乾侯(河北省)に居住させた。その後しばらく経って、魯が乱れた。孔子は斉におもむいて、斉の大夫の高昭子の家臣となり、意を景公に通じようと望んだ。斉の太師(音楽官)と音楽を語り、韶(しょう、帝舜の音楽)の音を聞いて、これを学び、その盛美にうたれて、三ヶ月のあいだ肉の味も知らなかった。斉の人々はこのことを称揚した。
景公が政治を景公に問うた。孔子は答えた。
「君が君であり、臣が臣であり、父が父であり、子が子であることです」
景公は言った。
「よろしい! まことに、もし君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなかったら、いくら米粟があったところで、わしは安閑とそれを食っておれようか」
後日、また政治を孔子に問うた。孔子は答えた。
「政治の要諦は材用を節約することです」
景公は喜んで、尼谿(じけい、斉の地
「儒者というものは多弁でありまして、そのいうところを法則とすることはできません。また、傲慢不遜で自らの意に沿いますので、下位につけることはできません。喪に服することを崇び、どこまでも悲哀の情をとげ、家産をやぶってまでも葬儀を手厚くしますから、人民の風俗とすることは出来ません。大賢(文王・周公など)が絶えてから、周室はすでに衰え、礼楽が不完全なものになって久しく経ちました。ところが、いま、孔子は、義容の修飾を盛大にし、登降・歩行の礼節を煩雑に致しました。世を重ねてもその学を究めつくすことは出来ず、当今、その礼を究めることもできません。わが君がこれを用いて斉の風俗を改めようとのぞまれることは、細民の先頭に立って、民を指導する所以ではございません」
その後、景公はなお敬意を以って孔子に会ったが、礼を問うことはなかった。また、後日景公が孔子を引き止めていった。
「そなたに季氏(魯の上卿)と同等の俸禄を与えることは出来ない。季氏と孟氏(魯の下卿)の中間で待遇しよう」
また、斉の大夫が孔子を殺害しようとした。孔子はこのことを聞き知った。
景公が言った。
「わしは老いた。そなたを登用することはできない」
孔子は、ついに斉を去って魯に帰った。
晏子春秋 内篇 雑下六 より
靈公好婦人而丈夫飾者。國人盡服之。公使吏禁之曰、女子而男子飾者、裂其衣斷其帶。裂衣斷帶、相望而不止。晏子見。公問曰、寡人使吏禁女子而男子飾、裂斷其衣帶、相望而不止者何也。晏子對曰、君使服之於内、而禁之於外。猶懸牛首于門而賣馬肉於内也。公何以不使内勿服。則外莫敢爲也。公曰、善。使内勿服。踰月而國莫之服。
〈訳〉
斉の霊公は男装を好み宮廷内の女性に男装をさせていた。するとこれが国内の民衆にまで広まってしまった。 霊公は之を禁じて御触れを出した。女子にして男子の飾りをする者は、その衣を裂きその帯を断つ、と。実際に衣を裂かれ帯を断たれる者が続出したがそれでも止むことがなかった。そこに晏子が謁見した。困っていた霊公は晏子に問うた。
「我は官吏に女子にして男子の飾りをするを禁ずる御触れを出させた。そして実際に違反した者の衣帯を裂断した。それにも関わらず、一向に止むことがないのはどういうわけだろうか」と。
晏子が答えて云う。
「君は内では之を許し、外では之を禁じています。例えるならば、牛首を門に懸けて馬肉を売っているようなものです。なぜ内に男装を禁じないのでしょうか。そうでなければ外に禁ずるなどはできません」と。
霊公は善し、と言って宮廷内の男装も禁止した。すると一ヶ月にして国内に男装する者はいなくなったという。
史記 列伝 管・晏列伝 第二 より
晏平仲嬰者、萊之夷維人也。事齊靈公、莊公、景公、以節儉力行重於齊。既相齊、食不重肉、妾不衣帛。其在朝、君語及之、即危言;語不及之、即危行。國有道、即順命;無道、即衡命。以此三世顯名於諸侯。
越石父賢、在縲紲中。晏子出、遭之涂、解左驂贖之、載歸。弗謝、入閨。久之、越石父請絕。晏子懼然、攝衣冠謝曰:“嬰雖不仁、免子於緦何子求絕之速也?”石父曰:“不然。吾聞君子詘於不知己而信於知己者。方吾在縲紲中、彼不知我也。夫子既已感寤而贖我、是知己;知己而無禮、固不如在縲紲之中。”晏子於是延入為上客。
晏子為齊相、出、其御之妻從門閒而闚其夫。其夫為相御、擁大蓋、策駟馬、意氣揚揚甚自得也。既而歸、其妻請去。夫問其故。妻曰:“晏子長不滿六尺、身相齊國、名顯諸侯。今者妾觀其出、志念深矣、常有以自下者。今子長八尺、乃為人仆御、然子之意自以為足、妾是以求去也。”其后夫自抑損。晏子怪而問之、御以實對。晏子薦以為大夫。
〈訳〉
晏平仲嬰(平は諡、仲は字、嬰は名)は萊(山東省)の夷維(いい)の人である。斉の霊公・荘公・景公に仕え、節倹・力行の人として斉で重んぜられた。斉の宰相になってからも、食事のときも肉は一種類であり、その妾は帛(きぬ)を着なかった。朝廷に出仕していて、君公が下問すると言葉を尽くして答え、下問されないときには、正しく行動するようにつとめた。国政に道義がたもたれ国内がきちんとしているときには、天命にしたがって行動し、そうでないときには、慎重に天命を推し測って行動した。このようなわけで、霊公・荘公・景公の三代の間、晏嬰の名は諸侯の間でゆうめいであった。
越石父(えつせきほ)は賢人であったが、どうした訳か囚人になっていた。晏子は外出して途でこれにあい、乗っていた三頭立ての馬車の左方の馬を解いて、それで越石父を贖(あがな)った。そして、馬車に同乗させて帰宅し、挨拶もせずに部屋に入った。しばらくすると、越石父は絶交したいと申し出た。晏子はびっくりして、衣冠をただしてその申し出をしりぞけて言った。
「私は人徳のない人間ではあるが、あなたを災厄から解放してあげた。それなのに、どうして、あなたは性急にぜっこうしたいというのか」
越石父は言った。
「私は『君子たるものは、自分を理解してくれないものには才能をしめそうとしないが、自分を理解してくれるものには志を明らかにして大いに能力を振るう』と聞いております。私が囚人であったときには、周囲の者は私を理解しておりませんでした。ところが、あなたはお感じになるところがあって、私を贖ってくださいました。これは、私を理解してくださったのです。理解してくださっていながら礼遇していただけないのでは、囚人として獄に繋がれていた方がましです」
そこで、晏子は越石父をひきいれて、上客にした。
晏子が斉の宰相になってからのことである。ある時外出しようとすると、その御者の妻が門の隙間から夫の様子を窺った。夫は宰相の御者として、馬車の大蓋を頭上にいただき、四島立ての馬に鞭をくれ、意気揚々として甚だ得意げであった。やがて帰ってくると、その妻は離縁したいと思った。夫がその理由を問うと、妻は言った。
「晏さまは身長が五尺にも足りませんが、斉国の宰相となり、その名は諸侯の間にかくれもありません。いま、私がその外出のお姿を観察いたしますと、思慮深い様子で、しかも謙虚さを湛えておられます。ところが、あなたは六尺ゆたかの大男でありながら、人の御者となり、しかも満足しておられる様子です。ですから、私はあなたのもとを去りたいと思うのです」
そののち、御者はみずからおさえて謙虚にしていた。晏子がいぶかしく思ってそのわけを問うと、御者はありのままに答えた。晏子は御者を推薦して大夫にした。
晏平仲嬰者、萊之夷維人也。事齊靈公、莊公、景公、以節儉力行重於齊。既相齊、食不重肉、妾不衣帛。其在朝、君語及之、即危言;語不及之、即危行。國有道、即順命;無道、即衡命。以此三世顯名於諸侯。
越石父賢、在縲紲中。晏子出、遭之涂、解左驂贖之、載歸。弗謝、入閨。久之、越石父請絕。晏子懼然、攝衣冠謝曰:“嬰雖不仁、免子於緦何子求絕之速也?”石父曰:“不然。吾聞君子詘於不知己而信於知己者。方吾在縲紲中、彼不知我也。夫子既已感寤而贖我、是知己;知己而無禮、固不如在縲紲之中。”晏子於是延入為上客。
晏子為齊相、出、其御之妻從門閒而闚其夫。其夫為相御、擁大蓋、策駟馬、意氣揚揚甚自得也。既而歸、其妻請去。夫問其故。妻曰:“晏子長不滿六尺、身相齊國、名顯諸侯。今者妾觀其出、志念深矣、常有以自下者。今子長八尺、乃為人仆御、然子之意自以為足、妾是以求去也。”其后夫自抑損。晏子怪而問之、御以實對。晏子薦以為大夫。
〈訳〉
晏平仲嬰(平は諡、仲は字、嬰は名)は萊(山東省)の夷維(いい)の人である。斉の霊公・荘公・景公に仕え、節倹・力行の人として斉で重んぜられた。斉の宰相になってからも、食事のときも肉は一種類であり、その妾は帛(きぬ)を着なかった。朝廷に出仕していて、君公が下問すると言葉を尽くして答え、下問されないときには、正しく行動するようにつとめた。国政に道義がたもたれ国内がきちんとしているときには、天命にしたがって行動し、そうでないときには、慎重に天命を推し測って行動した。このようなわけで、霊公・荘公・景公の三代の間、晏嬰の名は諸侯の間でゆうめいであった。
越石父(えつせきほ)は賢人であったが、どうした訳か囚人になっていた。晏子は外出して途でこれにあい、乗っていた三頭立ての馬車の左方の馬を解いて、それで越石父を贖(あがな)った。そして、馬車に同乗させて帰宅し、挨拶もせずに部屋に入った。しばらくすると、越石父は絶交したいと申し出た。晏子はびっくりして、衣冠をただしてその申し出をしりぞけて言った。
「私は人徳のない人間ではあるが、あなたを災厄から解放してあげた。それなのに、どうして、あなたは性急にぜっこうしたいというのか」
越石父は言った。
「私は『君子たるものは、自分を理解してくれないものには才能をしめそうとしないが、自分を理解してくれるものには志を明らかにして大いに能力を振るう』と聞いております。私が囚人であったときには、周囲の者は私を理解しておりませんでした。ところが、あなたはお感じになるところがあって、私を贖ってくださいました。これは、私を理解してくださったのです。理解してくださっていながら礼遇していただけないのでは、囚人として獄に繋がれていた方がましです」
そこで、晏子は越石父をひきいれて、上客にした。
「晏さまは身長が五尺にも足りませんが、斉国の宰相となり、その名は諸侯の間にかくれもありません。いま、私がその外出のお姿を観察いたしますと、思慮深い様子で、しかも謙虚さを湛えておられます。ところが、あなたは六尺ゆたかの大男でありながら、人の御者となり、しかも満足しておられる様子です。ですから、私はあなたのもとを去りたいと思うのです」
そののち、御者はみずからおさえて謙虚にしていた。晏子がいぶかしく思ってそのわけを問うと、御者はありのままに答えた。晏子は御者を推薦して大夫にした。
『管子(かんし)』は、管仲に仮託して書かれた法家の書物で、管仲の著書だと伝えられてはいるが、実際にはその中に管仲よりも以後のことがしばしば書かれていることからも自著でないことは確かである。管子の思想内容は豊富であり、一見雑然としている。成立についても戦国から漢代の長い時期に徐々に完成されたと考えられ、戦国期の斉の稷下の学士たちの手によって著された部分が多いと考えられている。
三計(さんけい)
管子 権修 より
上恃龜筮、好用巫醫、則鬼神驟祟;故功之不立、名之不章、為之患者三:有獨王者、有貧賤者、有日不足者。一年之計、莫如樹穀;十年之計、莫如樹木;終身之計、莫如樹人。一樹一穫者、穀也;一樹十穫者、木也;一樹百穫者、人也。我苟種之、如神用之、舉事如神、唯王之門。
〈訳〉
君主が占いに頼り、呪い師を好んで用いるならば、鬼神が祟りをする。だから功績が成就せず、名声が顕れないのには、その原因が三つある。賢臣を用いず、すべて独裁するという場合がある。国が貧しく君主の値打ちがなくなるという場合がある。政治が煩雑で日も足りないという場合がある。一年の計は穀物を植えるのに及ぶものがない。十年の計は木を植えるのに及ぶものはない。終身の計は人を植えるのに及ぶものがない。一度植えて一度収穫があるのは穀物である。一度植えて十度収穫があるのは木である。一度植えて百度収穫があるのは人である。われわれがしばしば人を植えるならば、その効果は神の作用のようである。事を行って神のようであること、これぞ王者への門である。
虚に拠り影を搏(う)たしむ
管子 兵法 より
利適、器之至也。用敵、教之盡也。不能致器者、不能利適。不能盡教者、不能用敵。不能用敵者窮、不能致器者困。遠用兵、則可以必勝。出入異塗、則傷其敵。深入卮之、則士自修。士自修、則同心同力。善者之為兵也、使敵若據虛、若搏景。無設無形焉、無不可以成也。無形無為焉、無不可以化也。此之謂道矣。若亡而存、若後而先、威不足以命之。
〈訳〉
敵に勝つのは、兵器の精巧なためである。敵を我に役立てるのは、兵士の教化が行き届いているからである。兵器を精巧にすることにできないものは敵に勝つことはできない。教化をゆきとどかせることのできない者は、敵を役立てることはできない。敵を役立たせることのできない者は行き詰まり、兵器を精巧にできない者は苦しむ。
速やかに軍隊を用いるならば、必勝することができる。出没するのにその場所を色々変えるならば、敵国に損害を与える。深く敵地に侵入して部下を危険にさらすならば、兵士はみずから備えをする。兵士が自ら備えをするならば、心を一つにして力を合わせる。じょうずな者の用兵の仕方は、敵軍を暖簾と腕押しし、影と相撲をとるような目に合わせる。こちらには何の定まった設備もなく、何の定まった形もないのであるから、何事も成功できないことはないのである。こちらは何の定まった形も泣く、何の行動も取らないのであるから、なにものも感化できないことはないのである。これを「道」という。無いようであって存在し、遅れているようであって先にいる。われわれはこれをどう名付けてよいかわからない。
三計(さんけい)
管子 権修 より
上恃龜筮、好用巫醫、則鬼神驟祟;故功之不立、名之不章、為之患者三:有獨王者、有貧賤者、有日不足者。一年之計、莫如樹穀;十年之計、莫如樹木;終身之計、莫如樹人。一樹一穫者、穀也;一樹十穫者、木也;一樹百穫者、人也。我苟種之、如神用之、舉事如神、唯王之門。
君主が占いに頼り、呪い師を好んで用いるならば、鬼神が祟りをする。だから功績が成就せず、名声が顕れないのには、その原因が三つある。賢臣を用いず、すべて独裁するという場合がある。国が貧しく君主の値打ちがなくなるという場合がある。政治が煩雑で日も足りないという場合がある。一年の計は穀物を植えるのに及ぶものがない。十年の計は木を植えるのに及ぶものはない。終身の計は人を植えるのに及ぶものがない。一度植えて一度収穫があるのは穀物である。一度植えて十度収穫があるのは木である。一度植えて百度収穫があるのは人である。われわれがしばしば人を植えるならば、その効果は神の作用のようである。事を行って神のようであること、これぞ王者への門である。
虚に拠り影を搏(う)たしむ
管子 兵法 より
利適、器之至也。用敵、教之盡也。不能致器者、不能利適。不能盡教者、不能用敵。不能用敵者窮、不能致器者困。遠用兵、則可以必勝。出入異塗、則傷其敵。深入卮之、則士自修。士自修、則同心同力。善者之為兵也、使敵若據虛、若搏景。無設無形焉、無不可以成也。無形無為焉、無不可以化也。此之謂道矣。若亡而存、若後而先、威不足以命之。
〈訳〉
敵に勝つのは、兵器の精巧なためである。敵を我に役立てるのは、兵士の教化が行き届いているからである。兵器を精巧にすることにできないものは敵に勝つことはできない。教化をゆきとどかせることのできない者は、敵を役立てることはできない。敵を役立たせることのできない者は行き詰まり、兵器を精巧にできない者は苦しむ。
速やかに軍隊を用いるならば、必勝することができる。出没するのにその場所を色々変えるならば、敵国に損害を与える。深く敵地に侵入して部下を危険にさらすならば、兵士はみずから備えをする。兵士が自ら備えをするならば、心を一つにして力を合わせる。じょうずな者の用兵の仕方は、敵軍を暖簾と腕押しし、影と相撲をとるような目に合わせる。こちらには何の定まった設備もなく、何の定まった形もないのであるから、何事も成功できないことはないのである。こちらは何の定まった形も泣く、何の行動も取らないのであるから、なにものも感化できないことはないのである。これを「道」という。無いようであって存在し、遅れているようであって先にいる。われわれはこれをどう名付けてよいかわからない。
史記 列伝 管・晏列伝 第二より
管仲既任政相齊、以區區之齊在海濱、通貨積財、富國彊兵、與俗同好惡。故其稱曰:“倉廩實而知禮節、衣食足而知榮辱、上服度則六親固。四維不張、國乃滅亡。”下令如流水之原、令順民心。故論卑而易行。俗之所欲、因而予之;俗之所否、因而去之。其為政也、善因禍而為福、轉敗而為功。貴輕重、慎權衡。桓公實怒少姬、南襲蔡、管仲因而伐楚、責包茅不入貢於周室。桓公實北征山戎、而管仲因而令燕修召公之政。於柯之會、桓公欲背曹沫之約、管仲因而信之、諸侯由是歸齊。故曰:“知與之為取、政之寶也。”
管仲富擬於公室、有三歸、反坫、齊人不以為侈。管仲卒、齊國遵其政、常彊於諸侯。后百餘年而有晏子焉。
〈訳〉
管仲は、政治を任されて斉の宰相になった。姓は微小な国で、しかも海に面した辺鄙に地であったが、貨物を流通させて蓄財し、国を富ませ兵力を強大にし、衆俗の好悪にしたがって大衆を導いた。それ故にその言説(『管子』牧民篇)にいう。
「人は、米倉が充実して初めて礼節を知り、衣食が充足して始めて栄辱を知る。上の行うところが法度にかなえば、六親(父・母・兄・弟・妻・子)は相親しんで堅固な状態になる。四維(国を治める四つの大綱。礼・義・廉・恥)が張り詰めていないと国はめつぼうする」
精霊を下す場合には、水が水源から流れて次第に低きにつくがごとくに、民心に順応するようにした。それ故に、論議は卑近で実行しやすかった。衆俗の望むところはこれを与え、よく禍をきっかけにして福とし、失敗を転じて成功に導き、また、何事においてもその軽重をみきわめて慎重に釣り合いが取れるようにした。たとえば、実情は桓公が少姫(蔡の姫で、桓公の夫人)を怒って蔡を襲撃したのだが、管仲はそれをきっかけにして楚を伐ち、楚から周室に献上していた包茅(祭祀に用いる青茅のつつみ)が、楚の怠慢によっていつのまにか周室に入貢されなくなったのを責めている。また、実情は桓公が北のかた山戎を征伐したのであるが、管仲はそれをきっかけにして、燕(えん)にその祖である召公の善政を修めさせている。また、柯(か)の会盟(柯は地名、山東省。斉の桓公と魯の荘公との会盟)のときに、桓公は曹沫(そうばつ、生没年不詳、魯の将)との約束にそむこうとしたが、管仲は桓公を諌めて信を守らせている。このようなわけで、諸侯は斉に帰したのである。その故に、その言説(『管子』牧民篇)にいう。
「人に与えることが、実はやがて取ることになる――これを知るのが、政治の要諦なのだ」
管仲の富は斉の公室に比肩するほどであり、三帰・反坫(三帰は台、反坫は盃をのせる道具で元来、諸侯の所有すべきもの)もあった。しかし、斉の人々は管仲の功労を多とし、かれが奢っているとは思わなかった。管仲が死んでからも、斉はその施政にしたがい、つねに諸侯の間において強盛であった。管仲の死後、百余年経って晏子(晏平仲嬰)があらわれた。
管仲既任政相齊、以區區之齊在海濱、通貨積財、富國彊兵、與俗同好惡。故其稱曰:“倉廩實而知禮節、衣食足而知榮辱、上服度則六親固。四維不張、國乃滅亡。”下令如流水之原、令順民心。故論卑而易行。俗之所欲、因而予之;俗之所否、因而去之。其為政也、善因禍而為福、轉敗而為功。貴輕重、慎權衡。桓公實怒少姬、南襲蔡、管仲因而伐楚、責包茅不入貢於周室。桓公實北征山戎、而管仲因而令燕修召公之政。於柯之會、桓公欲背曹沫之約、管仲因而信之、諸侯由是歸齊。故曰:“知與之為取、政之寶也。”
管仲富擬於公室、有三歸、反坫、齊人不以為侈。管仲卒、齊國遵其政、常彊於諸侯。后百餘年而有晏子焉。
〈訳〉
「人は、米倉が充実して初めて礼節を知り、衣食が充足して始めて栄辱を知る。上の行うところが法度にかなえば、六親(父・母・兄・弟・妻・子)は相親しんで堅固な状態になる。四維(国を治める四つの大綱。礼・義・廉・恥)が張り詰めていないと国はめつぼうする」
精霊を下す場合には、水が水源から流れて次第に低きにつくがごとくに、民心に順応するようにした。それ故に、論議は卑近で実行しやすかった。衆俗の望むところはこれを与え、よく禍をきっかけにして福とし、失敗を転じて成功に導き、また、何事においてもその軽重をみきわめて慎重に釣り合いが取れるようにした。たとえば、実情は桓公が少姫(蔡の姫で、桓公の夫人)を怒って蔡を襲撃したのだが、管仲はそれをきっかけにして楚を伐ち、楚から周室に献上していた包茅(祭祀に用いる青茅のつつみ)が、楚の怠慢によっていつのまにか周室に入貢されなくなったのを責めている。また、実情は桓公が北のかた山戎を征伐したのであるが、管仲はそれをきっかけにして、燕(えん)にその祖である召公の善政を修めさせている。また、柯(か)の会盟(柯は地名、山東省。斉の桓公と魯の荘公との会盟)のときに、桓公は曹沫(そうばつ、生没年不詳、魯の将)との約束にそむこうとしたが、管仲は桓公を諌めて信を守らせている。このようなわけで、諸侯は斉に帰したのである。その故に、その言説(『管子』牧民篇)にいう。
「人に与えることが、実はやがて取ることになる――これを知るのが、政治の要諦なのだ」
管仲の富は斉の公室に比肩するほどであり、三帰・反坫(三帰は台、反坫は盃をのせる道具で元来、諸侯の所有すべきもの)もあった。しかし、斉の人々は管仲の功労を多とし、かれが奢っているとは思わなかった。管仲が死んでからも、斉はその施政にしたがい、つねに諸侯の間において強盛であった。管仲の死後、百余年経って晏子(晏平仲嬰)があらわれた。
史記 列伝 管・晏列伝 第二 より
管仲夷吾者、潁上人也。少時常與鮑叔牙游、鮑叔知其賢。管仲貧困、常欺鮑叔、鮑叔終善遇之、不以為言。已而鮑叔事齊公子小白、管仲事公子糾。及小白立為桓公、公子糾死、管仲囚焉。鮑叔遂進管仲。管仲既用、任政於齊、齊桓公以霸、九合諸侯、一匡天下、管仲之謀也。
〈訳〉
管仲夷吾(仲は字、夷吾は名)は、頴水のほとりの人である。若い頃、常に鮑叔芽と交友した。鮑叔は管仲の賢才を知っていた。管仲は貧しくて生活に苦しみ、いつも鮑叔をあざむいたが、鮑叔は終始好意を持って遇し、欺かれたことについてとやかく言わなかった。その後、鮑叔は斉の公子小白(しょうはく)に仕え、管仲は公子糾(きゅう)に仕えた。小白が立って桓公となるにおよんで、これと争った公子糾は死んで管仲は囚われの身となった。ときに、鮑叔は桓公に管仲を推薦した。こうして、管仲は登用されて斉の政治に当たり、桓公は覇者となった。斉が諸侯を九合して天下の政治を正したのは、管仲の謀に依ったのである。
管仲曰、“吾始困時、嘗與鮑叔賈、分財利多自與、鮑叔不以我為貪、知我貧也。吾嘗為鮑叔謀事而更窮困、鮑叔不以我為愚、知時有利不利也。吾嘗三仕三見逐於君、鮑叔不以我為不肖、知我不遭時也。吾嘗三戰三走、鮑叔不以我怯、知我有老母也。公子糾敗、召忽死之、吾幽囚受辱、鮑叔不以我為無恥、知我不羞小睗而恥功名不顯于天下也。生我者父母、知我者鮑子也。”鮑叔既進管仲、以身下之。子孫世祿於齊、有封邑者十餘世、常為名大夫。天下不多管仲之賢而多鮑叔能知人也
〈訳〉
管仲はいった。
「私が貧乏だった頃、鮑叔と共同で商売をしたことがある。利益を分けるときに自分が多く取るようにしたが、鮑叔は私を貪欲だとは思わなかった。それは、私が貧乏であることを知っていてくれたからである。私はかつて、鮑叔のためにあることを謀ってやって、より以上の苦境に落ちたことがあるが、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。それは、時に利と不利とがあることを知っていてくれたからである。私はかつて、三度仕官して三度とも君主からお払い箱になったが、鮑叔は私を不肖者とは思わなかった。それは、私が時勢にあわないだけなのを知っていてくれたからである。私はかつて三度戦って三度とも逃げたが、鮑叔は私を卑怯者とは思わなかった。それは、私に老母があることを知っていてくれたからである。公子糾が敗れたとき、私とともにその大夫であった召忽〈BC685年没、死に際し、管仲に対して「子は生臣となれ、忽、死臣とならん」と言ったという〉は討ち死にした。私は捕えられて獄に投ぜられ、辱めを受けたが、鮑叔は私を恥知らずだとは思わなかった。それは、私が小さな節操を守らないことを恥としないで、功名が天下に顕れないことを恥としているのを知っていてくれたからである。まことに、私を生んでくれたのは父母であるが、私を真に理解してくれたのは鮑叔である」
鮑叔はすでに管仲を推挙すると、自らその下位についた。その子孫は代々斉の禄を賜り、十余代にわたって封邑を保ち、常に名大夫であった。天下の人々は、管仲の賢才を称揚するよりは、鮑叔がよく人物を理解していたことを高く評価した。
管仲夷吾者、潁上人也。少時常與鮑叔牙游、鮑叔知其賢。管仲貧困、常欺鮑叔、鮑叔終善遇之、不以為言。已而鮑叔事齊公子小白、管仲事公子糾。及小白立為桓公、公子糾死、管仲囚焉。鮑叔遂進管仲。管仲既用、任政於齊、齊桓公以霸、九合諸侯、一匡天下、管仲之謀也。
〈訳〉
管仲夷吾(仲は字、夷吾は名)は、頴水のほとりの人である。若い頃、常に鮑叔芽と交友した。鮑叔は管仲の賢才を知っていた。管仲は貧しくて生活に苦しみ、いつも鮑叔をあざむいたが、鮑叔は終始好意を持って遇し、欺かれたことについてとやかく言わなかった。その後、鮑叔は斉の公子小白(しょうはく)に仕え、管仲は公子糾(きゅう)に仕えた。小白が立って桓公となるにおよんで、これと争った公子糾は死んで管仲は囚われの身となった。ときに、鮑叔は桓公に管仲を推薦した。こうして、管仲は登用されて斉の政治に当たり、桓公は覇者となった。斉が諸侯を九合して天下の政治を正したのは、管仲の謀に依ったのである。
管仲曰、“吾始困時、嘗與鮑叔賈、分財利多自與、鮑叔不以我為貪、知我貧也。吾嘗為鮑叔謀事而更窮困、鮑叔不以我為愚、知時有利不利也。吾嘗三仕三見逐於君、鮑叔不以我為不肖、知我不遭時也。吾嘗三戰三走、鮑叔不以我怯、知我有老母也。公子糾敗、召忽死之、吾幽囚受辱、鮑叔不以我為無恥、知我不羞小睗而恥功名不顯于天下也。生我者父母、知我者鮑子也。”鮑叔既進管仲、以身下之。子孫世祿於齊、有封邑者十餘世、常為名大夫。天下不多管仲之賢而多鮑叔能知人也
〈訳〉
「私が貧乏だった頃、鮑叔と共同で商売をしたことがある。利益を分けるときに自分が多く取るようにしたが、鮑叔は私を貪欲だとは思わなかった。それは、私が貧乏であることを知っていてくれたからである。私はかつて、鮑叔のためにあることを謀ってやって、より以上の苦境に落ちたことがあるが、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。それは、時に利と不利とがあることを知っていてくれたからである。私はかつて、三度仕官して三度とも君主からお払い箱になったが、鮑叔は私を不肖者とは思わなかった。それは、私が時勢にあわないだけなのを知っていてくれたからである。私はかつて三度戦って三度とも逃げたが、鮑叔は私を卑怯者とは思わなかった。それは、私に老母があることを知っていてくれたからである。公子糾が敗れたとき、私とともにその大夫であった召忽〈BC685年没、死に際し、管仲に対して「子は生臣となれ、忽、死臣とならん」と言ったという〉は討ち死にした。私は捕えられて獄に投ぜられ、辱めを受けたが、鮑叔は私を恥知らずだとは思わなかった。それは、私が小さな節操を守らないことを恥としないで、功名が天下に顕れないことを恥としているのを知っていてくれたからである。まことに、私を生んでくれたのは父母であるが、私を真に理解してくれたのは鮑叔である」
鮑叔はすでに管仲を推挙すると、自らその下位についた。その子孫は代々斉の禄を賜り、十余代にわたって封邑を保ち、常に名大夫であった。天下の人々は、管仲の賢才を称揚するよりは、鮑叔がよく人物を理解していたことを高く評価した。
プロフィール
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目高 拙痴无
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93
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1932/02/04
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