瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昨夕5時過ぎに、突然テレビ画面が地震情報に変わった。と同時にかなり長い間の揺れを感じた。テレビはそのままどの局も通常放送を切り換え、地震情報オンリーになった。
今朝のウェブニュースより
東北で震度5弱 石巻・鮎川で津波1㍍ 沿岸に避難指示 ―― 7日午後5時18分ごろ、東北地方で震度5弱の地震があった。東日本大震災の余震とみられる。震源地は三陸沖北で、震源の深さは約10キロ。地震の規模はマグニチュード(M)7.3と推定される。気象庁によると、宮城県石巻市の鮎川で1メートル、仙台港、福島県相馬で40センチ、岩手県久慈港、大船渡で20センチの津波を観測した。/気象庁は、宮城県に津波警報、青森県太平洋沿岸、岩手県、福島県、茨城県に津波注意報を出したが、約2時間後に全て解除した。
気象庁は、東日本大震災の余震で、海溝の外側が震源となる「アウターライズ地震」との見解を示した。津波警報が出たのは昨年4月7日以来。東北で震度5弱を観測したのは、宮城県沖を震源とする地震で石巻市で5弱を観測した10月25日以来だった。/青森、岩手、宮城各県の沿岸自治体は避難指示や勧告を出した。岩手県では、釜石市、大船渡市、陸前高田市など計7市町村が避難勧告を出し、554人が避難所に身を寄せた。/宮城県では、仙台市や石巻市など8市6町が沿岸部の住民らへ避難指示や避難勧告を発令。避難所計23カ所に一時、計約3400人が避難した。/名取市で2歳男児と70代の女性2人が軽傷。石巻市では75歳女性が転倒し膝をけがした。/仙台空港は津波警報発令後、乗降客やスタッフら約1200人が一時足止めされた。午後7時45分現在、17便の欠航が決まった。/ 東北電力によると、同社の女川原発(宮城県女川町、石巻市)と東通原発(青森県東通村)に被害はなく、周辺の放射線量を測定するモニタリングポストの数値にも異常はなかった。原子力規制委員会によると、東京電力福島第1、福島第2の各原発に異常はない。/東北電によると、地震発生後、八戸市と青森県五戸町の一部地域で計223戸が停電した。午後6時半現在、110戸が停電している。/JR各社によると、東北新幹線と上越新幹線が全線で、東海道新幹線は東京-小田原間の上下線で、それぞれ一時運転を見合わせた。
◎1週間は警戒必要/仙台管区気象台震度4余震の恐れ:宮城県や岩手県で7日夕、震度5弱を観測した地震に関し仙台管区気象台は記者会見し、草野富二雄地震情報官は「震源域の活動は依然として活発で、今回のような津波を伴う地震が発生する可能性はあり、引き続き注意が必要だ」と警戒を呼び掛けた。/余震として、今後1週間程度はマグニチュード(M)6.0程度、震度4程度の地震が発生する可能性を示した。/今回の地震は、日本海溝の東側で発生する正断層型の「アウターライズ地震」とみられるとも説明。震源は比較的浅い場所で、津波は大きくなりやすいとされる。/沖合20キロにある衛星利用測位システム(GPS)波浪計でも20センチの津波を観測した。/本震の後、午後5時31分にM6.2の地震が発生したのをはじめ、震度1以上の余震を2回観測した。/東北で津波を観測したのは、今年5月20日(久慈港で11センチ)以来。M7を超える余震は昨年7月10日以来、1年5カ月ぶりだった。 〔河北新報 2012年12月08日土曜日〕
北朝鮮:ミサイル発射予告 藤村官房長官「ミサイルさっさと上げて」 後で撤回・陳謝 ―― 藤村修官房長官は7日、衆院選の公示後、初めて地元の大阪府吹田市に入った。次回の地元入りの可能性を記者団に問われ、「北朝鮮のミサイルがいつ上がるかですわ。さっさと月曜日(10日)に上げてくれるといいんですけど」と語った。政府は北朝鮮に長距離弾道ミサイル発射を自制するよう求めており、藤村氏はこの後、発言を撤回し陳謝した。/藤村氏は選挙戦で不振が伝えられるなか、思わず本音が漏れたとみられ、この後、別の場所で記者団に「舌足らずで誤解が生じるなら訂正、おわびしたい」と述べた。/自民党の安倍晋三総裁は徳島市での街頭演説で「早く打ってもらった方がいいなんて発言をする官房長官は辞めてもらわなければならない」と批判した。/官邸に戻った藤村氏は、安倍氏の辞任要求について記者団に「それは当たらない。訂正会見もしている」と否定した。/首相は7日夜のテレビ朝日番組で「言葉足らずのことがあり、きちんと弁明し、おわびしながら訂正している」と述べ、問題視しない考えを示した。 〔毎日新聞 2012年12月08日 東京朝刊〕
今朝のウェブニュースより
東北で震度5弱 石巻・鮎川で津波1㍍ 沿岸に避難指示 ―― 7日午後5時18分ごろ、東北地方で震度5弱の地震があった。東日本大震災の余震とみられる。震源地は三陸沖北で、震源の深さは約10キロ。地震の規模はマグニチュード(M)7.3と推定される。気象庁によると、宮城県石巻市の鮎川で1メートル、仙台港、福島県相馬で40センチ、岩手県久慈港、大船渡で20センチの津波を観測した。/気象庁は、宮城県に津波警報、青森県太平洋沿岸、岩手県、福島県、茨城県に津波注意報を出したが、約2時間後に全て解除した。
気象庁は、東日本大震災の余震で、海溝の外側が震源となる「アウターライズ地震」との見解を示した。津波警報が出たのは昨年4月7日以来。東北で震度5弱を観測したのは、宮城県沖を震源とする地震で石巻市で5弱を観測した10月25日以来だった。/青森、岩手、宮城各県の沿岸自治体は避難指示や勧告を出した。岩手県では、釜石市、大船渡市、陸前高田市など計7市町村が避難勧告を出し、554人が避難所に身を寄せた。/宮城県では、仙台市や石巻市など8市6町が沿岸部の住民らへ避難指示や避難勧告を発令。避難所計23カ所に一時、計約3400人が避難した。/名取市で2歳男児と70代の女性2人が軽傷。石巻市では75歳女性が転倒し膝をけがした。/仙台空港は津波警報発令後、乗降客やスタッフら約1200人が一時足止めされた。午後7時45分現在、17便の欠航が決まった。/ 東北電力によると、同社の女川原発(宮城県女川町、石巻市)と東通原発(青森県東通村)に被害はなく、周辺の放射線量を測定するモニタリングポストの数値にも異常はなかった。原子力規制委員会によると、東京電力福島第1、福島第2の各原発に異常はない。/東北電によると、地震発生後、八戸市と青森県五戸町の一部地域で計223戸が停電した。午後6時半現在、110戸が停電している。/JR各社によると、東北新幹線と上越新幹線が全線で、東海道新幹線は東京-小田原間の上下線で、それぞれ一時運転を見合わせた。
◎1週間は警戒必要/仙台管区気象台震度4余震の恐れ:宮城県や岩手県で7日夕、震度5弱を観測した地震に関し仙台管区気象台は記者会見し、草野富二雄地震情報官は「震源域の活動は依然として活発で、今回のような津波を伴う地震が発生する可能性はあり、引き続き注意が必要だ」と警戒を呼び掛けた。/余震として、今後1週間程度はマグニチュード(M)6.0程度、震度4程度の地震が発生する可能性を示した。/今回の地震は、日本海溝の東側で発生する正断層型の「アウターライズ地震」とみられるとも説明。震源は比較的浅い場所で、津波は大きくなりやすいとされる。/沖合20キロにある衛星利用測位システム(GPS)波浪計でも20センチの津波を観測した。/本震の後、午後5時31分にM6.2の地震が発生したのをはじめ、震度1以上の余震を2回観測した。/東北で津波を観測したのは、今年5月20日(久慈港で11センチ)以来。M7を超える余震は昨年7月10日以来、1年5カ月ぶりだった。 〔河北新報 2012年12月08日土曜日〕
北朝鮮:ミサイル発射予告 藤村官房長官「ミサイルさっさと上げて」 後で撤回・陳謝 ―― 藤村修官房長官は7日、衆院選の公示後、初めて地元の大阪府吹田市に入った。次回の地元入りの可能性を記者団に問われ、「北朝鮮のミサイルがいつ上がるかですわ。さっさと月曜日(10日)に上げてくれるといいんですけど」と語った。政府は北朝鮮に長距離弾道ミサイル発射を自制するよう求めており、藤村氏はこの後、発言を撤回し陳謝した。/藤村氏は選挙戦で不振が伝えられるなか、思わず本音が漏れたとみられ、この後、別の場所で記者団に「舌足らずで誤解が生じるなら訂正、おわびしたい」と述べた。/自民党の安倍晋三総裁は徳島市での街頭演説で「早く打ってもらった方がいいなんて発言をする官房長官は辞めてもらわなければならない」と批判した。/官邸に戻った藤村氏は、安倍氏の辞任要求について記者団に「それは当たらない。訂正会見もしている」と否定した。/首相は7日夜のテレビ朝日番組で「言葉足らずのことがあり、きちんと弁明し、おわびしながら訂正している」と述べ、問題視しない考えを示した。 〔毎日新聞 2012年12月08日 東京朝刊〕
いよいよ総選挙。今日から10日間余り、ダブル選挙で街宣車が行き交い騒がしい毎日が続きそうだ。今朝のウェブニュースより
衆院選:「原発」最大の争点 4党首、福島で第一声 ―― 現憲法下で23回目となる第46回衆院選が4日公示され、16日の投開票に向け選挙戦に突入した。民主党政権の継続か、自民、公明両党が政権に復帰するかが焦点。原発や経済対策、外交・安保政策などで民主、自民両党が激しい論争を繰り広げ、日本未来の党や日本維新の会など第三極の各党も独自の主張を展開している。主要政策の違いは大きく、選挙後の政権の枠組みにも影響を与えそうだ。
野田佳彦首相(民主党代表)、自民党の安倍晋三総裁、未来の嘉田由紀子代表、社民党の福島瑞穂党首は4日、第一声の場として東京電力福島第1原発事故のあった福島県を選んだ。今回は昨年3月の東日本大震災後、初めての本格的な国政選挙。4党首の動きは、「脱原発」が選挙戦の大きな争点であることを印象づけた。
首相は「原発ゼロを目指してほしいというのが国民の声だ。30年代に原発ゼロを目指す。あらゆる政策資源を総動員すると閣議決定した」と強調した。「卒原発」を訴える嘉田氏は「原発ゼロの社会を目指したい」と表明。福島氏と共産党の志位和夫委員長は「即時ゼロ」を訴えた。
ただ、代替エネルギーの確保にめどがつかなければ、電気料金の上昇などを招きかねず、国民生活にも悪影響が出かねない。安倍氏は「原発ゼロが理想だが、生活に直結する。選挙目当てのスローガンに掲げるつもりはない」と脱原発に慎重な姿勢を示した。自民党が第1党になれば連立を想定する公明党は脱原発を主張している。
エネルギー政策を巡り、維新は石原慎太郎代表と橋下徹代表代行ら幹部の間で違いが表面化している。第一声でも主張が割れ、石原氏は「原発が動かなくなって、例えば20%電気料金が上がったら、日本経済は全滅する」と維持を主張。一方、橋下氏は「なくす方向でできるならやっていこう」と語った。
消費増税では、税と社会保障の一体改革法を成立させた民主、自民、公明3党が、増税を進める方針。首相は「社会保障はただではできない。将来世代に頼ってはならない」と理解を求めた。これに対し、未来、みんなの党は増税凍結を訴え、共産は消費増税中止を主張する。維新は消費税率を11%に引き上げ、税収を地方財源に充てる方針。 〔毎日新聞 2012年12月04日 21時24分(最終更新 12月05日 00時48分)〕
【都知事選】公示で埋没心配… 衆院候補と並んで演説も ―― 衆院選が公示された4日、10日以上にわたり選挙戦が重なる東京都知事選の陣営からは、「場所取りが難しくなる」「衆院候補と混同されないか」など“埋没”を心配する声が上がった。一方で衆院選候補と並んで演説するなど、この機を逆に“活用”する陣営もいる。
元神奈川県知事の松沢成(しげ)文(ふみ)氏(54)は多摩地域を遊説。元民主党衆院議員だが、特に元同僚らと活動することはなかった。陣営は「政党談合にNO、がわれわれのスタンス。多くの都民に支持を訴える活動を粛々とやる」とする。
ただ陣営は「どこへ行っても誰かの選挙カーがいる。演説などの場所取りは難しい」と顔をしかめる。
豊島区巣鴨の商店街練り歩きや中野駅前での演説などを行った元自民党総務会長の笹川堯(たかし)氏(77)も、衆院選候補との活動は特になし。「あくまで別の選挙。独自に自分の力でやる」との姿勢を強調した。一方で選挙カー内から「衆院選では自民党を応援してやってください」などと、“古巣”への愛着を語った場面もあった。
政党幹部や衆院候補らと活動した陣営も:
元日弁連会長の宇都宮健児氏(66)は新宿駅西口で、共産党の志位和夫委員長の第一声に同席。マイクを握って脱原発や反貧困などを訴えた。別の場所では、たまたま合流した未来の候補者と一緒に街頭で演説する場面もあった。
ただ、後半戦では「混み合う街頭活動よりも、有権者に近い小規模集会を地道にやりたい」(同陣営)とする。
前副知事の猪瀬直樹氏(66)は小泉純一郎元首相の応援を西新宿の事務所で受けた。「猪瀬さんなしに道路公団民営化はなかった。ムダ削減で右に出る人はいない」と激励され「小泉さんから学んだのはぶれないこと。言ったことは必ずやる」と決意を新たに。
支援を受けている自民の選挙区候補らの街頭演説にも出向いた。 〔産経ニュース2012.12.4 22:04 〕
衆院選:「原発」最大の争点 4党首、福島で第一声 ―― 現憲法下で23回目となる第46回衆院選が4日公示され、16日の投開票に向け選挙戦に突入した。民主党政権の継続か、自民、公明両党が政権に復帰するかが焦点。原発や経済対策、外交・安保政策などで民主、自民両党が激しい論争を繰り広げ、日本未来の党や日本維新の会など第三極の各党も独自の主張を展開している。主要政策の違いは大きく、選挙後の政権の枠組みにも影響を与えそうだ。
野田佳彦首相(民主党代表)、自民党の安倍晋三総裁、未来の嘉田由紀子代表、社民党の福島瑞穂党首は4日、第一声の場として東京電力福島第1原発事故のあった福島県を選んだ。今回は昨年3月の東日本大震災後、初めての本格的な国政選挙。4党首の動きは、「脱原発」が選挙戦の大きな争点であることを印象づけた。
首相は「原発ゼロを目指してほしいというのが国民の声だ。30年代に原発ゼロを目指す。あらゆる政策資源を総動員すると閣議決定した」と強調した。「卒原発」を訴える嘉田氏は「原発ゼロの社会を目指したい」と表明。福島氏と共産党の志位和夫委員長は「即時ゼロ」を訴えた。
ただ、代替エネルギーの確保にめどがつかなければ、電気料金の上昇などを招きかねず、国民生活にも悪影響が出かねない。安倍氏は「原発ゼロが理想だが、生活に直結する。選挙目当てのスローガンに掲げるつもりはない」と脱原発に慎重な姿勢を示した。自民党が第1党になれば連立を想定する公明党は脱原発を主張している。
エネルギー政策を巡り、維新は石原慎太郎代表と橋下徹代表代行ら幹部の間で違いが表面化している。第一声でも主張が割れ、石原氏は「原発が動かなくなって、例えば20%電気料金が上がったら、日本経済は全滅する」と維持を主張。一方、橋下氏は「なくす方向でできるならやっていこう」と語った。
消費増税では、税と社会保障の一体改革法を成立させた民主、自民、公明3党が、増税を進める方針。首相は「社会保障はただではできない。将来世代に頼ってはならない」と理解を求めた。これに対し、未来、みんなの党は増税凍結を訴え、共産は消費増税中止を主張する。維新は消費税率を11%に引き上げ、税収を地方財源に充てる方針。 〔毎日新聞 2012年12月04日 21時24分(最終更新 12月05日 00時48分)〕
【都知事選】公示で埋没心配… 衆院候補と並んで演説も ―― 衆院選が公示された4日、10日以上にわたり選挙戦が重なる東京都知事選の陣営からは、「場所取りが難しくなる」「衆院候補と混同されないか」など“埋没”を心配する声が上がった。一方で衆院選候補と並んで演説するなど、この機を逆に“活用”する陣営もいる。
元神奈川県知事の松沢成(しげ)文(ふみ)氏(54)は多摩地域を遊説。元民主党衆院議員だが、特に元同僚らと活動することはなかった。陣営は「政党談合にNO、がわれわれのスタンス。多くの都民に支持を訴える活動を粛々とやる」とする。
ただ陣営は「どこへ行っても誰かの選挙カーがいる。演説などの場所取りは難しい」と顔をしかめる。
豊島区巣鴨の商店街練り歩きや中野駅前での演説などを行った元自民党総務会長の笹川堯(たかし)氏(77)も、衆院選候補との活動は特になし。「あくまで別の選挙。独自に自分の力でやる」との姿勢を強調した。一方で選挙カー内から「衆院選では自民党を応援してやってください」などと、“古巣”への愛着を語った場面もあった。
政党幹部や衆院候補らと活動した陣営も:
元日弁連会長の宇都宮健児氏(66)は新宿駅西口で、共産党の志位和夫委員長の第一声に同席。マイクを握って脱原発や反貧困などを訴えた。別の場所では、たまたま合流した未来の候補者と一緒に街頭で演説する場面もあった。
ただ、後半戦では「混み合う街頭活動よりも、有権者に近い小規模集会を地道にやりたい」(同陣営)とする。
前副知事の猪瀬直樹氏(66)は小泉純一郎元首相の応援を西新宿の事務所で受けた。「猪瀬さんなしに道路公団民営化はなかった。ムダ削減で右に出る人はいない」と激励され「小泉さんから学んだのはぶれないこと。言ったことは必ずやる」と決意を新たに。
支援を受けている自民の選挙区候補らの街頭演説にも出向いた。 〔産経ニュース2012.12.4 22:04 〕
リンドパピルスはスコットランドの弁護士で、鼓物研究家であるAlexander Henry Rhind 〔アレックス ヘンリー リンド、1833~1863年〕がエジプトで購入したパピルスで、紀元前17世紀古代エジプトのHyksos(ヒクソス)王の頃の数学の本である。この中で以下のように書かれている部分がある。
「七軒の家で、七匹ずつネコを飼っている。ネコは七匹ずつネズミをとる。ネズミはムギの穂を七本ずつ食べる。ムギの穂からは七ますずつのムギがとれる。これらの数を合わせるといくつになるか?」
数字のパズルとしては、これが世界最古のものだろう。答えは図のように19607となる。
しかし、驚いたことにそれから約3000年たった1202年に、Leonardo Fibonacci〔レオナルド・フィボナッチ、1170?~1250年頃、中世で最も才能があったと評価されるイタリアの数学者〕が著した『算盤の書』に、これとよく似た問題が出てくるのである。曰く、「七人の老婦人が、ローマに旅行した。婦人はおのおの七ひきのラバを持ち、ラバはそれぞれ七個の袋を運ぶ。それぞれの袋には七個のパンがあり、そのパンには七挺のナイフがあり、それぞれのナイフには七個のさやがある。ここに数え上げたすべての名称の和はいくらか?」 答 137256 〔小倉金之助訳『カジョリ初等数学史』より〕
だが、現在まで伝承されているMother Goose〔マザー・グース、イギリスの伝承童謡〕の中にも、次に示すような同系のものがあるのはもっと興味のあるところである。右の図はこの童謡を描いたアイルランド製の絵はがきである。曰く、「セント・アイブスへの道すがら、七人の妻を連れた男に出会った。/どの女も袋を七つ持ち、どの袋にもネコが七ひき、どのネコにも小ネコが七ひき。小ネコとネコと袋と女、セント・アイブスに向かうのは、あわせていくらか答えてごらん。」
ただし、これはなぞなぞであって、パズルではないことに注意していただきたい。答は一人である。つまり、セント・アイブスへ向かっているのは私だけで、「七人の妻を連れた男」はセント・アイブスからやって来て、私とすれ違ったのである。
なお、中国や日本にも類似のものがあるが、西洋のもののキー・ナンバーが7であるのに、こちらの方はなぜか9である。日本の問題は次のようなもので、塵劫記にあり「からす算」と呼ばれている。曰く、
「からす九百九十九わある時、九百九十九浦にて、一わのからす九百九十九こゑづゝなく時、此こゑ合何ほどぞと云。合九億九千七百令令二千九百九十九こゑ。法に、九百九十九に九百九十九をもって二度掛くれば高しれ申候也。」(大矢真一校注・岩波文庫版。底本は寛永二十年(1643年)版)
要約すると「九九九羽のからすが、九九九箇所の浜で、九九九声ずつ鳴いたとすると、全部で何声鳴いたことになるだろうか。」 答は 99700299声である。
※からす算のネタ元について:古代中国の『孫子算経』(中国南北朝期、3~4世紀頃の作、著者不明、兵法で有名な孫子とは別人の)に次のような問題がある。
「今有出門望見九隄。隄有九木、木有九枝、枝有九巢、巢有九禽、禽有九雛、雛有九毛、毛有九色。問各幾何。」
〔今、門を出て9つの堤を望み見る。堤に9つの木があり、木に9つの枝があり、枝に9つの巣があり、巣に9つの禽(トリ)があり、禽に9つの雛があり、雛に9つの毛があり、毛に9つの色がある。それぞれいくつか。〕
「答曰:木八十一。枝七百二十九。巢六千五百六十一。禽五萬九千四十九。雛五十三萬一千四百四十一。毛四百七十八萬二千九百六十九。色四千三百四萬六千七百二十一。」
「術曰:置九隄、以九乘之、得木之數。又以九乘之、得枝之數。又以九乘之、得巢之數。又以九乘之、得禽之數。又以九乘之、得雛之數。又以九乘之、得毛之敷。又以九乘之、得色之數」
この問題が千年以上たって、『算法統宗』(1593年刊行、塵劫記の模範となった本)の次のような問題に形を変えて出ているという。
「諸葛孔明には8人の将がいて、将ごとに8箇の営に分かれ、営ごとに8つの陣があり、陣ごとに8人の先鋒、先鋒ごとに8つの旗頭、旗頭ごとに8隊、隊ごとに8箇の甲、甲頭ごとに8箇の兵。答えは、19173385人。」 数値は、原文のまま標記したものであるが、この計算は次のように考えることがわかる。
将は8人、営は8×8=64、陣は8×64=512、先鋒は8×512=4096人、旗頭は8×4096=32768人、隊は8×32798=262144人、甲頭は8×262144=2097152人、兵は8×262144=16777216人。このうち、営と陣が人ではなく、残りが人であるから、合計は8+4096+32768+262144+2097152+16777216=19173384人。これでは1人足りなくなる。しかし、諸葛孔明を足せばちょうどになるのである。
いずれにしても、これらをネタにして、塵劫記の烏算が出来上がったものと思われる。
「七軒の家で、七匹ずつネコを飼っている。ネコは七匹ずつネズミをとる。ネズミはムギの穂を七本ずつ食べる。ムギの穂からは七ますずつのムギがとれる。これらの数を合わせるといくつになるか?」
数字のパズルとしては、これが世界最古のものだろう。答えは図のように19607となる。
しかし、驚いたことにそれから約3000年たった1202年に、Leonardo Fibonacci〔レオナルド・フィボナッチ、1170?~1250年頃、中世で最も才能があったと評価されるイタリアの数学者〕が著した『算盤の書』に、これとよく似た問題が出てくるのである。曰く、「七人の老婦人が、ローマに旅行した。婦人はおのおの七ひきのラバを持ち、ラバはそれぞれ七個の袋を運ぶ。それぞれの袋には七個のパンがあり、そのパンには七挺のナイフがあり、それぞれのナイフには七個のさやがある。ここに数え上げたすべての名称の和はいくらか?」 答 137256 〔小倉金之助訳『カジョリ初等数学史』より〕
だが、現在まで伝承されているMother Goose〔マザー・グース、イギリスの伝承童謡〕の中にも、次に示すような同系のものがあるのはもっと興味のあるところである。右の図はこの童謡を描いたアイルランド製の絵はがきである。曰く、「セント・アイブスへの道すがら、七人の妻を連れた男に出会った。/どの女も袋を七つ持ち、どの袋にもネコが七ひき、どのネコにも小ネコが七ひき。小ネコとネコと袋と女、セント・アイブスに向かうのは、あわせていくらか答えてごらん。」
ただし、これはなぞなぞであって、パズルではないことに注意していただきたい。答は一人である。つまり、セント・アイブスへ向かっているのは私だけで、「七人の妻を連れた男」はセント・アイブスからやって来て、私とすれ違ったのである。
なお、中国や日本にも類似のものがあるが、西洋のもののキー・ナンバーが7であるのに、こちらの方はなぜか9である。日本の問題は次のようなもので、塵劫記にあり「からす算」と呼ばれている。曰く、
「からす九百九十九わある時、九百九十九浦にて、一わのからす九百九十九こゑづゝなく時、此こゑ合何ほどぞと云。合九億九千七百令令二千九百九十九こゑ。法に、九百九十九に九百九十九をもって二度掛くれば高しれ申候也。」(大矢真一校注・岩波文庫版。底本は寛永二十年(1643年)版)
要約すると「九九九羽のからすが、九九九箇所の浜で、九九九声ずつ鳴いたとすると、全部で何声鳴いたことになるだろうか。」 答は 99700299声である。
※からす算のネタ元について:古代中国の『孫子算経』(中国南北朝期、3~4世紀頃の作、著者不明、兵法で有名な孫子とは別人の)に次のような問題がある。
「今有出門望見九隄。隄有九木、木有九枝、枝有九巢、巢有九禽、禽有九雛、雛有九毛、毛有九色。問各幾何。」
〔今、門を出て9つの堤を望み見る。堤に9つの木があり、木に9つの枝があり、枝に9つの巣があり、巣に9つの禽(トリ)があり、禽に9つの雛があり、雛に9つの毛があり、毛に9つの色がある。それぞれいくつか。〕
「答曰:木八十一。枝七百二十九。巢六千五百六十一。禽五萬九千四十九。雛五十三萬一千四百四十一。毛四百七十八萬二千九百六十九。色四千三百四萬六千七百二十一。」
「術曰:置九隄、以九乘之、得木之數。又以九乘之、得枝之數。又以九乘之、得巢之數。又以九乘之、得禽之數。又以九乘之、得雛之數。又以九乘之、得毛之敷。又以九乘之、得色之數」
この問題が千年以上たって、『算法統宗』(1593年刊行、塵劫記の模範となった本)の次のような問題に形を変えて出ているという。
「諸葛孔明には8人の将がいて、将ごとに8箇の営に分かれ、営ごとに8つの陣があり、陣ごとに8人の先鋒、先鋒ごとに8つの旗頭、旗頭ごとに8隊、隊ごとに8箇の甲、甲頭ごとに8箇の兵。答えは、19173385人。」 数値は、原文のまま標記したものであるが、この計算は次のように考えることがわかる。
将は8人、営は8×8=64、陣は8×64=512、先鋒は8×512=4096人、旗頭は8×4096=32768人、隊は8×32798=262144人、甲頭は8×262144=2097152人、兵は8×262144=16777216人。このうち、営と陣が人ではなく、残りが人であるから、合計は8+4096+32768+262144+2097152+16777216=19173384人。これでは1人足りなくなる。しかし、諸葛孔明を足せばちょうどになるのである。
いずれにしても、これらをネタにして、塵劫記の烏算が出来上がったものと思われる。
油、酒、醤油のようなものを、与えられた容器だけを用いて等分する問題が、「油分け算」である。吉田光由の著した『塵劫記』に、こんな問題がある。
「斗桶に油が1斗(=10升)ある。これ二人で分けるのだが、7升ますと3升ますしかない。この二つだけで、5升ずつ等分してほしい。」
そのやり方としては、まず3升ますで3杯7升ますへ入れると、3杯目は3升ますに2升残る。そこで、7升ますの油を斗桶に戻し、3升ますに残った2升を7升ますに移す。そうしてから、もう1回斗桶から油を3升ますに入れ、これを7升ますに加えれば、7升ますと斗桶に5升ずつあることになり、これで等分されたことになる。
この油分け算は、『塵劫記』以前の日本の文献には見当たらないし、中国の文献にも見当たらない。しかし西洋には古くからあるので、キリスト教の宣教師が伝えた可能性もあるが、これと同一の問題が見当たらないので、断定はできない。あるいは何かがヒントになって、日本で作り出されたのかもしれない。
西洋には、13世紀の中頃にはすでにこの種の問題があったといわれている。Claude-Gaspard Bachet 〔クロード=ガスパール バシェー、1581~1638年、フランスの数学者〕の著した『数学遊戯問題集』(改訂増補版、1624)には、8パイントのワインを、5パイントと3パイントの容器で等分する問題が載っている。また、16バイントを9パイントと7パイントの容器で、同じく16を11と6の容器で、42を27と12の容器で等分する問題も載っている。そして、いずれも解法が2つずつしめされている。西洋の問題は、いずれもワインや精油を等分する問題になっている。
油分け算を解く一般的なルールは次の通りである。A、B、C、3種類の容器があって、A>B>Cだとすると、
(1)Bが空なら、Aの油をBに満たす。
(2)Bに油が入っていたら、次のどちらかを行う。
(イ)Cが一杯でなければ、Bの油でCを満たす。
(ロ)Cが一杯なら、それをAにあけてから、(イ)を行う。
以上の操作を繰り返せば自然に解が得られる。
油分けの問題について、1939年、Tweedie(ツイーディー)という人が、《Mathematical Gazette》誌で、グラフを用いる巧妙な方法を紹介している。図(左)は『塵劫記』の問題をグラフにしたもので、х軸は3升ます、у軸は7升ます、斜め方向に書かれている数は、斗桶に入っている油の量を示している。出発点はx=0、y=0の点、つまりDであり、目的地はx=0、y=5の点(○印)である。
1回の移動は直線状を行けるところまで行くこととし、途中で止まることは出来ない。まずDからAへ動かし、次にx=0、y=3の点へ、さらにx=3、y=3の点へ動かす。このようにして、目的地に到達するまでのコースを示したのが、図(右)である。この結果は塵劫記にある結果と一致する。
最初DからACに行かずCに行くコースも当然考えられる。これによって別解を得ることが出来る。
「斗桶に油が1斗(=10升)ある。これ二人で分けるのだが、7升ますと3升ますしかない。この二つだけで、5升ずつ等分してほしい。」
そのやり方としては、まず3升ますで3杯7升ますへ入れると、3杯目は3升ますに2升残る。そこで、7升ますの油を斗桶に戻し、3升ますに残った2升を7升ますに移す。そうしてから、もう1回斗桶から油を3升ますに入れ、これを7升ますに加えれば、7升ますと斗桶に5升ずつあることになり、これで等分されたことになる。
この油分け算は、『塵劫記』以前の日本の文献には見当たらないし、中国の文献にも見当たらない。しかし西洋には古くからあるので、キリスト教の宣教師が伝えた可能性もあるが、これと同一の問題が見当たらないので、断定はできない。あるいは何かがヒントになって、日本で作り出されたのかもしれない。
西洋には、13世紀の中頃にはすでにこの種の問題があったといわれている。Claude-Gaspard Bachet 〔クロード=ガスパール バシェー、1581~1638年、フランスの数学者〕の著した『数学遊戯問題集』(改訂増補版、1624)には、8パイントのワインを、5パイントと3パイントの容器で等分する問題が載っている。また、16バイントを9パイントと7パイントの容器で、同じく16を11と6の容器で、42を27と12の容器で等分する問題も載っている。そして、いずれも解法が2つずつしめされている。西洋の問題は、いずれもワインや精油を等分する問題になっている。
油分け算を解く一般的なルールは次の通りである。A、B、C、3種類の容器があって、A>B>Cだとすると、
(1)Bが空なら、Aの油をBに満たす。
(2)Bに油が入っていたら、次のどちらかを行う。
(イ)Cが一杯でなければ、Bの油でCを満たす。
(ロ)Cが一杯なら、それをAにあけてから、(イ)を行う。
以上の操作を繰り返せば自然に解が得られる。
油分けの問題について、1939年、Tweedie(ツイーディー)という人が、《Mathematical Gazette》誌で、グラフを用いる巧妙な方法を紹介している。図(左)は『塵劫記』の問題をグラフにしたもので、х軸は3升ます、у軸は7升ます、斜め方向に書かれている数は、斗桶に入っている油の量を示している。出発点はx=0、y=0の点、つまりDであり、目的地はx=0、y=5の点(○印)である。
1回の移動は直線状を行けるところまで行くこととし、途中で止まることは出来ない。まずDからAへ動かし、次にx=0、y=3の点へ、さらにx=3、y=3の点へ動かす。このようにして、目的地に到達するまでのコースを示したのが、図(右)である。この結果は塵劫記にある結果と一致する。
最初DからACに行かずCに行くコースも当然考えられる。これによって別解を得ることが出来る。
江戸時代の初め1627〔寛永4〕年、京都の角倉氏の一族である吉田光由〔1598~1672年〕が「塵劫記」という数学書を著した。中国の「算法統宗〔1593年〕」を手本として作られたもので、算盤(そろばん)に拠る計算法が説明されている。著者の光由は生前絶えずこの書の増訂新版を発行し、後人またその名を借りて類書を出版しているので、《○○塵劫記》あるいは《塵劫記○○》の表題を持つ通俗数学書は明治時代の半ばまでに数百種に及ぶという。
書名の『塵劫記』は天竜寺の長老玄光がつけたものといわれ、法華経の「塵点劫」(この世の土を細かく砕いて粉にしたものを千の国を通るたびに一粒ずつ落としていき、その砂がなくなるまでに通る国の数のことで、数えきれないくらい大きな数のたとえ。法華経の「化城喩品(けじょうゆほん)第七」などにその記述がある)に由来しており、「(永遠に等しいほど)長い時間経っても変わることのない真理の書」という意味が込められているという。
本書は初めに大数、小数および各種の計量単位の名称を表示、続いて算盤に拠る乗除の方法を詳細に図解し、次に当時通用の貨幣の換算、利息・租税・売買の計算から始めて、諸種の形の面積・体積の求め方、土木事業に関する計算など、日常生活に必要なあらゆる計算にわたって懇切に説明している。その説明は数学的に極めて巧みで、後生の数学者の中で、この書によって数学を独習したといわれる者も少なくない。後に和算の大家となった関孝和〔1642~1708年〕や儒学者の貝原益軒〔1630~1714年〕なども、若いころ『塵劫記』で数学を独習していたといわれる。また学者のみならず、懇切丁寧な説明と非常に多い挿絵のおかげで、民衆にも広く愛された。
なお、本書の最後の部分には、「継子立て」「鼠算」「日々倍増し」など、種々の興味ある数学遊戯が載せてあり、これが本書を有名にした原因となったともいわれている。
例:ねずみざんの事:正月にねずみ、父母いでて、子を十二ひきうむ、親ともに十四ひきに成也。此ねずみ二月には子も又子を十二匹ずつうむゆえに、親ともに九十八ひきに成。かくのごとく、月に一度ずつ、親も子も、まごもひこも月々に十二ひきずつうむとき、十二月の間になにほどに成ぞといふときに、二百七十六億八千二百五十七万四千四百二ひき。
訳:正月に、ネズミのつがいがあらわれ、子を12匹産む。そして親と合わせて14匹になる。このネズミは、二月に子ネズミがまた子を12匹ずつ産むため、親と合わせて98匹になる。この様に、月に一度ずつ、親も子も孫もひ孫も月々に12匹ずつ産む時、12ヶ月でどれくらいになるかというと、276億8257万4402匹となる。
※吉田 光由〔よしだ みつよし、1598~1673年〕:江戸時代前期の和算家である。京都の豪商角倉家の一族。久庵と号す。角倉了以〔すみのくらりょうい、1554~1614年、戦国期の京都の豪商〕は外祖父にあたる。初の和算家毛利重能〔もうりしげよし、生没年不詳、江戸時代前期の和算家で、現在知られている中では最も古い〕に師事した。のち一族の角倉素庵のもとで中国の数学書『算法統宗』の研究を行い、それをもとに1628年(寛永5年)、著書『塵劫記』を出版した。晩年には失明し、75歳で没したという。
※算法統宗(さんぽうとうそう):中国、明の万暦年間に活躍した民間数学者程大位(字は汝思)の著述で、1592年(万暦20)のころに刊行された。詳しくは《新編直指算法統宗》といい、17巻より成る。巻三~六および巻八~十二の9巻は古算書《九章算術》の篇目に従って問題を配列し、巻十三~十六の〈難題〉は詩歌の形式で問題を書いている。明代に流行した庶民数学の代表作であるが、とくに巻二は算盤(そろばん)による計算法を詳説している。数学に関心を持つ人々はこれを虎の巻として大切にしたといわれ、明・清時代にかけベストセラーとして流行し、たびたび版を重ねるとともに、多くの異版が出版された。
書名の『塵劫記』は天竜寺の長老玄光がつけたものといわれ、法華経の「塵点劫」(この世の土を細かく砕いて粉にしたものを千の国を通るたびに一粒ずつ落としていき、その砂がなくなるまでに通る国の数のことで、数えきれないくらい大きな数のたとえ。法華経の「化城喩品(けじょうゆほん)第七」などにその記述がある)に由来しており、「(永遠に等しいほど)長い時間経っても変わることのない真理の書」という意味が込められているという。
本書は初めに大数、小数および各種の計量単位の名称を表示、続いて算盤に拠る乗除の方法を詳細に図解し、次に当時通用の貨幣の換算、利息・租税・売買の計算から始めて、諸種の形の面積・体積の求め方、土木事業に関する計算など、日常生活に必要なあらゆる計算にわたって懇切に説明している。その説明は数学的に極めて巧みで、後生の数学者の中で、この書によって数学を独習したといわれる者も少なくない。後に和算の大家となった関孝和〔1642~1708年〕や儒学者の貝原益軒〔1630~1714年〕なども、若いころ『塵劫記』で数学を独習していたといわれる。また学者のみならず、懇切丁寧な説明と非常に多い挿絵のおかげで、民衆にも広く愛された。
なお、本書の最後の部分には、「継子立て」「鼠算」「日々倍増し」など、種々の興味ある数学遊戯が載せてあり、これが本書を有名にした原因となったともいわれている。
例:ねずみざんの事:正月にねずみ、父母いでて、子を十二ひきうむ、親ともに十四ひきに成也。此ねずみ二月には子も又子を十二匹ずつうむゆえに、親ともに九十八ひきに成。かくのごとく、月に一度ずつ、親も子も、まごもひこも月々に十二ひきずつうむとき、十二月の間になにほどに成ぞといふときに、二百七十六億八千二百五十七万四千四百二ひき。
訳:正月に、ネズミのつがいがあらわれ、子を12匹産む。そして親と合わせて14匹になる。このネズミは、二月に子ネズミがまた子を12匹ずつ産むため、親と合わせて98匹になる。この様に、月に一度ずつ、親も子も孫もひ孫も月々に12匹ずつ産む時、12ヶ月でどれくらいになるかというと、276億8257万4402匹となる。
※吉田 光由〔よしだ みつよし、1598~1673年〕:江戸時代前期の和算家である。京都の豪商角倉家の一族。久庵と号す。角倉了以〔すみのくらりょうい、1554~1614年、戦国期の京都の豪商〕は外祖父にあたる。初の和算家毛利重能〔もうりしげよし、生没年不詳、江戸時代前期の和算家で、現在知られている中では最も古い〕に師事した。のち一族の角倉素庵のもとで中国の数学書『算法統宗』の研究を行い、それをもとに1628年(寛永5年)、著書『塵劫記』を出版した。晩年には失明し、75歳で没したという。
※算法統宗(さんぽうとうそう):中国、明の万暦年間に活躍した民間数学者程大位(字は汝思)の著述で、1592年(万暦20)のころに刊行された。詳しくは《新編直指算法統宗》といい、17巻より成る。巻三~六および巻八~十二の9巻は古算書《九章算術》の篇目に従って問題を配列し、巻十三~十六の〈難題〉は詩歌の形式で問題を書いている。明代に流行した庶民数学の代表作であるが、とくに巻二は算盤(そろばん)による計算法を詳説している。数学に関心を持つ人々はこれを虎の巻として大切にしたといわれ、明・清時代にかけベストセラーとして流行し、たびたび版を重ねるとともに、多くの異版が出版された。
昨日の夫婦河渡りの問題でボートの定員が2人の場合に夫婦が4組になると渡河不能になることを述べたが、その後、川の中に島がある問題に進展した。ボートの定員が2人で夫婦4組の場合でも、川の中に島があって、そこを中継地点に利用できるなら、4組でも川を渡ることができるのである。Henry Ernest Dudeney〔ヘンリー・アーネスト・デュードニー、1857~1930年、イギリスのパズル作家・数学者〕が1917年の著書で示した解を示すと、付図のようになる。
河渡り問題はこうして種々の変種を生んだが、中でも特に有名なのが、「宣教師と人食い人種の問題」である。これも100年くらい前の印刷物にも見ることができるというもので、結構古いパズルである。これもバリエーションがあるが、その一つを紹介しよう。
3人の宣教師と3人の人食い人が川にさしかかったが、2人乗りの舟が1そうあるだけである。ところで、いかなる時でも、宣教師の数がそこにいる人食い人より数が少なくなると、彼らに食い殺されしまう。どうしたら無事に渡れるだろうか。
河渡り問題はこうして種々の変種を生んだが、中でも特に有名なのが、「宣教師と人食い人種の問題」である。これも100年くらい前の印刷物にも見ることができるというもので、結構古いパズルである。これもバリエーションがあるが、その一つを紹介しよう。
3人の宣教師と3人の人食い人が川にさしかかったが、2人乗りの舟が1そうあるだけである。ところで、いかなる時でも、宣教師の数がそこにいる人食い人より数が少なくなると、彼らに食い殺されしまう。どうしたら無事に渡れるだろうか。
河渡りの問題は、東洋では西暦紀元前からあったといわれ、西洋でも8世紀のA.Alcuin(アルクイン)までさかのぼることができるので、きわめて古いパズルであるといえる。
※Alcuin(アルクィン、735?~ 804年)はイングランドのヨーク出身の修道士、神学者である。/アングロ・サクソン人で長年ヨークにある学校の教師として勤めたのち、カール大帝のフランク王国の教会制度と教育制度の相談役を務めた。769年からはトゥールの司教となり、聖マルティヌス(サン・マルタン)修道院の院長であった。
アルクインの問題は次のようなものである。
オオカミとヤギを連れ、キャベツの籠を持った男が、川を舟で渡ろうと思った。しかし、舟には男以外にどれか一つしか積むことができない。ところが、男がいないとオオカミはヤギを食うし、ヤギはキャベツを食べてしまう。どうしたら無事に渡れるだろうか。
この解は2通りあるが、その一つをしめすと、
(1)ヤギを渡す。(2)男だけ戻ってくる。(3)オオカミを渡す。(4)ヤギを連れて戻る。(5)キャベツの籠を渡す。(6)男だけ戻ってくる。(7)もう1度ヤギを渡す。以上7回河を渡ることで目的が達せられる。
この問題を、さらに複雑にしたのは16世紀のTartaglia〔タルターリア、1500~1557年頃〕である。
※Tartaglia〔タルターリア、1499か1500~1557年〕はルネサンス期イタリアの数学者、技術者。少年期に口に受けた傷によって、どもりを意味するイタリア語に由来するニックネーム、タルターリアを与えられた。正式の教育はほとんど受けなかったが、持ちまえの勤勉さで数学的知識をものにした。数学上の独創的業績としては、1535年の三次方程式の解の発見が第1にあげられる。
彼は嫉妬深い夫婦の河渡り問題を提起した。曰く、「3組の夫婦が河を舟で渡ろうと思った。舟には一度に2人しか乗ることができない。ところが、かれらはきわめて嫉妬深く、妻は自分の夫が対でない他の夫人と一緒にいることは我慢がならない。夫の方も自分の妻が対でない他の男と一緒にいることは許さない。どうしたらトラブルなしに河を渡ることができるだろうか。」
これは11回河を渡る必要がある。3組の夫をA、B、Cで、その妻をa、b、cで表すと、付図の解はその一例である。
河渡りが無事に出来るかどうかは、夫婦の組み数と舟の定員によって決まってくる。舟の定員が夫婦のくみ数が何組あっても河渡りは可能である。つまり、一組の夫婦が船頭役になって、他の夫婦を対岸に送り届けれはよいからである。
M.kraitchik(クライチック)という人がその著書の中で、これを付表のようにまとめている。この表で判るように、ボートの定員が2名である場合に可能なのは3組までで、4組になるとこの条件では渡ることができない。
※Alcuin(アルクィン、735?~ 804年)はイングランドのヨーク出身の修道士、神学者である。/アングロ・サクソン人で長年ヨークにある学校の教師として勤めたのち、カール大帝のフランク王国の教会制度と教育制度の相談役を務めた。769年からはトゥールの司教となり、聖マルティヌス(サン・マルタン)修道院の院長であった。
アルクインの問題は次のようなものである。
オオカミとヤギを連れ、キャベツの籠を持った男が、川を舟で渡ろうと思った。しかし、舟には男以外にどれか一つしか積むことができない。ところが、男がいないとオオカミはヤギを食うし、ヤギはキャベツを食べてしまう。どうしたら無事に渡れるだろうか。
この解は2通りあるが、その一つをしめすと、
(1)ヤギを渡す。(2)男だけ戻ってくる。(3)オオカミを渡す。(4)ヤギを連れて戻る。(5)キャベツの籠を渡す。(6)男だけ戻ってくる。(7)もう1度ヤギを渡す。以上7回河を渡ることで目的が達せられる。
この問題を、さらに複雑にしたのは16世紀のTartaglia〔タルターリア、1500~1557年頃〕である。
※Tartaglia〔タルターリア、1499か1500~1557年〕はルネサンス期イタリアの数学者、技術者。少年期に口に受けた傷によって、どもりを意味するイタリア語に由来するニックネーム、タルターリアを与えられた。正式の教育はほとんど受けなかったが、持ちまえの勤勉さで数学的知識をものにした。数学上の独創的業績としては、1535年の三次方程式の解の発見が第1にあげられる。
彼は嫉妬深い夫婦の河渡り問題を提起した。曰く、「3組の夫婦が河を舟で渡ろうと思った。舟には一度に2人しか乗ることができない。ところが、かれらはきわめて嫉妬深く、妻は自分の夫が対でない他の夫人と一緒にいることは我慢がならない。夫の方も自分の妻が対でない他の男と一緒にいることは許さない。どうしたらトラブルなしに河を渡ることができるだろうか。」
これは11回河を渡る必要がある。3組の夫をA、B、Cで、その妻をa、b、cで表すと、付図の解はその一例である。
河渡りが無事に出来るかどうかは、夫婦の組み数と舟の定員によって決まってくる。舟の定員が夫婦のくみ数が何組あっても河渡りは可能である。つまり、一組の夫婦が船頭役になって、他の夫婦を対岸に送り届けれはよいからである。
M.kraitchik(クライチック)という人がその著書の中で、これを付表のようにまとめている。この表で判るように、ボートの定員が2名である場合に可能なのは3組までで、4組になるとこの条件では渡ることができない。
人間はそもそもの初めから迷路と深いかかわりを持ちながら生活してきたに違いない。ハンガリーの神話学者のKarl Kerenyi〔カール・ケレーニイ、 1897~1973年、神話学者、宗教史学者。ハンガリー・テメシュヴァール(現ルーマニア・ティミショアラ)に生まれる。ギリシア神話や古代宗教の研究に大きな足跡を残した〕によると、古代の彫刻などに見られる渦巻模様は、大なり小なり迷路をイメージして作られているという。
人間や動物の内臓も脳も、古代人にとっては迷路であった。迷路は死の象徴であり、それを抜け出すことで復活を意味し未来を表したのである。また迷路によって特別の力が得られると考えられ多分に呪術的に意味を持っていたのであろう。
ヨーロッパには、古くから迷路の形に踊ったり、迷路を走り抜けたりする民俗的な行事があったという。北欧の石積みの迷路[図1]やイギリスの芝生の迷路は代表的な例であって、各所にその跡が残っているという。やがて教会にも積極的に取り入れられるようになり、大聖堂の床面に迷路を埋め込んだり[図2]、壁面に描いたりした。その古いものは4世紀のものもあるといわれるが、盛んに作られるようになったのは12世紀初めからだといわれる。これらの迷路は歴史的には興味深いものでも、そのほとんどがただくねくねしているだけでパズル的要素はほとんどなかったという。ところが、宗教改革以降になると、もっと娯楽的なパズル的な色彩の強い迷路が現れるようになる。庭園の中に生け垣で迷路を作ることの流行によって、数多くの迷路が作られた。中でもイギリスのハンプトン・コート宮殿にある迷路[図3]はその代表的なもので、これは1690年にウイリアム三世のために作られたものであるという。こうした庭園迷路は、ひところ大流行した巨大迷路の前身といってもよい。
このような庭園迷路は、紙に描いたものを見れば、容易に中央に達したり、通り抜けたりできるが、実際に辿ってみるとなかなか厄介なものである。その簡単な脱出法としては、片手を壁に触れたまま壁に沿って歩いていくやり方があり、ハンプトン・コートのこの方法で中央に達し、再び出てくることが可能である〔図3〕。もしこの方法で堂々巡りをするようなら、その場で回れ右をして、今度は反対の壁に沿っていく。平面的な迷路であれば、右手法を使うと必ず出口にたどり着く。しかし、迷路のスタートないしゴールが迷路の中にあったり、あるいは迷路が立体的だったりした場合は、右手法の結果スタート地点に戻ってしまう事もありうる〔図4〕。
しかしパズルとしては、紙に描かれた迷路で楽しまれるケースが多く、1972年、ロシア生まれの画家V.Koziakin〔V.コズイアキン〕という人がデザイン的におもしろい迷路を発表したことにより、ひところ迷路の本が爆発的に流行したという。紙に書いた迷路の場合は、三方を壁で囲まれた袋小路をすべて塗りつぶし、それによって生じた袋小路も順に塗りつぶしていくと、最後に進路だけが白く残る[図5]。
人間や動物の内臓も脳も、古代人にとっては迷路であった。迷路は死の象徴であり、それを抜け出すことで復活を意味し未来を表したのである。また迷路によって特別の力が得られると考えられ多分に呪術的に意味を持っていたのであろう。
ヨーロッパには、古くから迷路の形に踊ったり、迷路を走り抜けたりする民俗的な行事があったという。北欧の石積みの迷路[図1]やイギリスの芝生の迷路は代表的な例であって、各所にその跡が残っているという。やがて教会にも積極的に取り入れられるようになり、大聖堂の床面に迷路を埋め込んだり[図2]、壁面に描いたりした。その古いものは4世紀のものもあるといわれるが、盛んに作られるようになったのは12世紀初めからだといわれる。これらの迷路は歴史的には興味深いものでも、そのほとんどがただくねくねしているだけでパズル的要素はほとんどなかったという。ところが、宗教改革以降になると、もっと娯楽的なパズル的な色彩の強い迷路が現れるようになる。庭園の中に生け垣で迷路を作ることの流行によって、数多くの迷路が作られた。中でもイギリスのハンプトン・コート宮殿にある迷路[図3]はその代表的なもので、これは1690年にウイリアム三世のために作られたものであるという。こうした庭園迷路は、ひところ大流行した巨大迷路の前身といってもよい。
このような庭園迷路は、紙に描いたものを見れば、容易に中央に達したり、通り抜けたりできるが、実際に辿ってみるとなかなか厄介なものである。その簡単な脱出法としては、片手を壁に触れたまま壁に沿って歩いていくやり方があり、ハンプトン・コートのこの方法で中央に達し、再び出てくることが可能である〔図3〕。もしこの方法で堂々巡りをするようなら、その場で回れ右をして、今度は反対の壁に沿っていく。平面的な迷路であれば、右手法を使うと必ず出口にたどり着く。しかし、迷路のスタートないしゴールが迷路の中にあったり、あるいは迷路が立体的だったりした場合は、右手法の結果スタート地点に戻ってしまう事もありうる〔図4〕。
しかしパズルとしては、紙に描かれた迷路で楽しまれるケースが多く、1972年、ロシア生まれの画家V.Koziakin〔V.コズイアキン〕という人がデザイン的におもしろい迷路を発表したことにより、ひところ迷路の本が爆発的に流行したという。紙に書いた迷路の場合は、三方を壁で囲まれた袋小路をすべて塗りつぶし、それによって生じた袋小路も順に塗りつぶしていくと、最後に進路だけが白く残る[図5]。
歳末総選挙で、東京都知事選の方は全くボヤケてしまっているようだ。今朝のウェブニュースより
ドッチラケ都知事選 猪瀬直樹副知事 楽々当選という絶望 これで都政の私物化はますます深刻化 ―― 東京都知事選がドッチラケの展開になってきた。民主党などが立候補を要請していた舛添要一・新党改革代表(63)が「総選挙の対応に専念する」として出馬を見送ったからだ。衆院選に出る東国原英夫・前宮崎県知事(55)なんかはどうでもいいとして、松沢成文・前神奈川県知事(54)、宇都宮健児・日弁連前会長(65)、笹川尭・元科技担当相(77)など、既に立候補表明しているメンメンは、事前の世論調査では全然ダメだ。で、このままでは、猪瀬直樹副知事(65)が、ラクラク当選しそうなのである。/「先週末に自民党が行った情勢調査では、猪瀬が支持率40%でダントツでした。東国原は10%、宇都宮6%、松沢6%。メディアの調査でも同じ傾向です。自民党は党本部が猪瀬を推したが、都議団は難色を示していた。でも、こんな数字が出たことで、押し切られそうです」(都政記者)/猪瀬は来週中に出馬を正式表明する見通し。石原慎太郎の太陽の党、みんなの党、公明党も猪瀬を支援するという。投票日が総選挙とのダブルになったことで、各党は都知事選どころではなくなり、「もう猪瀬で決まり」という空気だ。/しかし、本当にそれでいいのか。猪瀬は石原都政の継承者だから、五輪招致や新銀行東京といった石原の“負の遺産”にスパッと見切りをつけることは絶対にできない。それどころか、都政をブン投げた石原から子飼いの特別秘書2人を「専門委員」として押し付けられても文句も言わず、黙認しているのだ。専門委員の報酬は月額33万5000円。たかり老人の公私混同で都民の税金が消えていくこんなデタラメにストップをかけられない猪瀬が新知事なんて、絶望的だ。ジャーナリストの横田一氏がこう言う。/「猪瀬さんは、東電批判やエネルギーシフトは主張しているものの、脱原発ではない。八ツ場ダムについても、当初『都の需要予測はあまりに過大ではないか』と言っていたが、結局、石原氏のダム推進を見過ごした。著書の『日本国の研究』では公共事業のムダを指摘していたのに、変節です」/そもそも、石原はなぜ知事を辞めたのか。新銀行で失敗し、五輪招致がほぼ絶望になり、尖閣という“オモチャ”も国有化され、居座っても非難の的になるだけなのが分かったからだ。しかし、まったく新しい知事では旧悪をバラされてしまう。だから身内の猪瀬にすべく、突然、ブン投げ、“後継指名”で流れをつくったのである。/こういうことを政治の私物化という。猪瀬知事では、都政の私物化がますます深刻化することになる。 〔日刊ゲンダイ 2012年11月16日 掲載〕
「継承」「刷新」構図固まる 猪瀬氏「石原さんとのコンビ続く」―― 東京都の石原慎太郎前知事の辞職に伴う知事選で、都副知事で作家の猪瀬直樹氏(66)が二十一日、都庁で記者会見し、無所属で立候補することを正式に表明した。石原氏から後継指名を受け、都政を「継承」する猪瀬氏に対し、ほかの立候補予定者たちが「刷新」を訴えるという選挙の構図が固まった。/猪瀬氏は「都民の安全と安心を守るため、日本の国を東京から支えるために、重責を担う決心をした」と説明。石原氏との関係について「石原さんと僕のコンビは続いていく。国政で彼がやり、都政で僕がやる。話がつきやすい」と蜜月ぶりをアピールした。/公約として、老朽化した火力発電所を最新鋭の天然ガス火力に置き換える電力エネルギー改革のほか、東京メトロと都営地下鉄の経営一元化、二〇二〇年夏季五輪の東京招致推進など、石原都政の主な政策を掲げた。/経営再建中の新銀行東京の存廃については「重要な争点ではないと思う」とし、「現状を改善することに尽きる」と述べた。/猪瀬氏は石原氏に請われて〇七年六月に都副知事に就任。石原氏の辞職後は、知事の職務代理者を務めている。今月二十九日の告示まで副知事にとどまる見通し。/猪瀬氏をめぐっては自民、公明が支持を決め、日本維新の会とみんなの党も支援の方針を明らかにしている。/都知事選では、前神奈川県知事の松沢成文氏(54)、前日本弁護士連合会会長の宇都宮健児氏(65)、元自民党総務会長の笹川尭(たかし)氏(77)らが出馬を表明している。 〔東京新聞 2012年11月22日 朝刊〕
ドッチラケ都知事選 猪瀬直樹副知事 楽々当選という絶望 これで都政の私物化はますます深刻化 ―― 東京都知事選がドッチラケの展開になってきた。民主党などが立候補を要請していた舛添要一・新党改革代表(63)が「総選挙の対応に専念する」として出馬を見送ったからだ。衆院選に出る東国原英夫・前宮崎県知事(55)なんかはどうでもいいとして、松沢成文・前神奈川県知事(54)、宇都宮健児・日弁連前会長(65)、笹川尭・元科技担当相(77)など、既に立候補表明しているメンメンは、事前の世論調査では全然ダメだ。で、このままでは、猪瀬直樹副知事(65)が、ラクラク当選しそうなのである。/「先週末に自民党が行った情勢調査では、猪瀬が支持率40%でダントツでした。東国原は10%、宇都宮6%、松沢6%。メディアの調査でも同じ傾向です。自民党は党本部が猪瀬を推したが、都議団は難色を示していた。でも、こんな数字が出たことで、押し切られそうです」(都政記者)/猪瀬は来週中に出馬を正式表明する見通し。石原慎太郎の太陽の党、みんなの党、公明党も猪瀬を支援するという。投票日が総選挙とのダブルになったことで、各党は都知事選どころではなくなり、「もう猪瀬で決まり」という空気だ。/しかし、本当にそれでいいのか。猪瀬は石原都政の継承者だから、五輪招致や新銀行東京といった石原の“負の遺産”にスパッと見切りをつけることは絶対にできない。それどころか、都政をブン投げた石原から子飼いの特別秘書2人を「専門委員」として押し付けられても文句も言わず、黙認しているのだ。専門委員の報酬は月額33万5000円。たかり老人の公私混同で都民の税金が消えていくこんなデタラメにストップをかけられない猪瀬が新知事なんて、絶望的だ。ジャーナリストの横田一氏がこう言う。/「猪瀬さんは、東電批判やエネルギーシフトは主張しているものの、脱原発ではない。八ツ場ダムについても、当初『都の需要予測はあまりに過大ではないか』と言っていたが、結局、石原氏のダム推進を見過ごした。著書の『日本国の研究』では公共事業のムダを指摘していたのに、変節です」/そもそも、石原はなぜ知事を辞めたのか。新銀行で失敗し、五輪招致がほぼ絶望になり、尖閣という“オモチャ”も国有化され、居座っても非難の的になるだけなのが分かったからだ。しかし、まったく新しい知事では旧悪をバラされてしまう。だから身内の猪瀬にすべく、突然、ブン投げ、“後継指名”で流れをつくったのである。/こういうことを政治の私物化という。猪瀬知事では、都政の私物化がますます深刻化することになる。 〔日刊ゲンダイ 2012年11月16日 掲載〕
「継承」「刷新」構図固まる 猪瀬氏「石原さんとのコンビ続く」―― 東京都の石原慎太郎前知事の辞職に伴う知事選で、都副知事で作家の猪瀬直樹氏(66)が二十一日、都庁で記者会見し、無所属で立候補することを正式に表明した。石原氏から後継指名を受け、都政を「継承」する猪瀬氏に対し、ほかの立候補予定者たちが「刷新」を訴えるという選挙の構図が固まった。/猪瀬氏は「都民の安全と安心を守るため、日本の国を東京から支えるために、重責を担う決心をした」と説明。石原氏との関係について「石原さんと僕のコンビは続いていく。国政で彼がやり、都政で僕がやる。話がつきやすい」と蜜月ぶりをアピールした。/公約として、老朽化した火力発電所を最新鋭の天然ガス火力に置き換える電力エネルギー改革のほか、東京メトロと都営地下鉄の経営一元化、二〇二〇年夏季五輪の東京招致推進など、石原都政の主な政策を掲げた。/経営再建中の新銀行東京の存廃については「重要な争点ではないと思う」とし、「現状を改善することに尽きる」と述べた。/猪瀬氏は石原氏に請われて〇七年六月に都副知事に就任。石原氏の辞職後は、知事の職務代理者を務めている。今月二十九日の告示まで副知事にとどまる見通し。/猪瀬氏をめぐっては自民、公明が支持を決め、日本維新の会とみんなの党も支援の方針を明らかにしている。/都知事選では、前神奈川県知事の松沢成文氏(54)、前日本弁護士連合会会長の宇都宮健児氏(65)、元自民党総務会長の笹川尭(たかし)氏(77)らが出馬を表明している。 〔東京新聞 2012年11月22日 朝刊〕
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