瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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  継子立ての物語は、「塵劫記」によれば、次のようにある。
6f453e35.jpeg 子供を30人持った母親がいたが、子のうち15人は継子(先妻の子)だった。ある日、母親はこの子らを円形に並ばせて、10番目、10番目にあたるものを除いていって、一番最後に残ったものにこの家を継がせると言った。いざ数えてみると、継子ばかり除かれていって、継子の最後の一人も覗かれることになった。そこで継子の最後の一人が、「これではあまりにも不公平ではありませんか。これ以後は私から数え始めて見て下さい。」と言った。言い分が尤もなので、母親もやむなくその通りにすると、今度は実子ばかり除かれて、最後にその継子が残ったという。
28b90a99.jpeg この配列を示したのが図1で、白丸が実子、黒丸が継子を表わしており、甲から時計回りに数え始める。乙が最後に残った継子の位置である。
 継子立ては我が国では古くから知られていたらしい。一説には藤原道憲の作ともいわれている。通憲は博学多才の人として知られており、継子立ての作者として似つかわしい人物ではあるが、その根拠がはっきりしない。古い文献で「継子立て」の名が出てくるのは『徒然草』137段「花の盛りに…」の条(くだり)で、人の死を継子立てに譬えている。『徒然草』には継子立ての名前が出てくるだけであるが、鎌倉時代末期に書かれたと見られる『二中礫』には
〈二一三五二二四一一三一二二一〉と塵劫記の配列と同じ配列が示されている。(図1参照)
 また、「一説云 一々三二一三二々三二」と記されており、20人の場合の継子立ても古くから知られていたことが判る。
acad0ae1.jpeg※藤原通憲〔みちのり、〕:1106-1160、平安時代後期の公家、学者。嘉承(かじょう)元年生まれ。藤原実兼(さねかね)の長男。少納言で官途に見切りをつけ出家。鳥羽(とば)上皇、後白河天皇に近侍し、保元(ほうげん)の乱に勝利して政治的手腕をふるった。のち藤原信頼と対立、平治(へいじ)の乱で信頼方に捕らえられ、平治元年12月13日殺された。54歳。博学多才で、編著に「本朝世紀」「法曹類林」など。法名は信西(しんぜい)。本年のNHK大河ドラマ「平清盛」で、阿部サダヲが演じていた。
※二中歴:二中歴(にちゅうれき)は、鎌倉時代初期に成立したとされる事典である。/その内容は、平安時代後期に成立した「掌中歴(しょうちゅうれき)」と「懐中歴(かいちゅうれき)」の内容をあわせて編集したものとされている。現代では「掌中歴」の一部が現存するのみとなっており、二中歴がこれらの存在を知る手がかりとなっている。/掌中歴と懐中歴は三善為康〔1049~1139年、平安時代後期の貴族・算道家〕の手による、平安時代後期のものと推定されているが、二中歴の編纂が誰によるものであるかは不明である。現代には尊経閣文庫本と呼ばれる、加賀・前田家に伝わる古写本が残されているのみで、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての、後醍醐天皇のころに作られたと考えられている。/尊経閣文庫本には順徳天皇の御代に編纂されたとあり、1210年~1221年頃の成立であると考えられている。
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