瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 以前横浜に在住のIN氏の息子さんが、慶応大学医学部を卒業後、国立感染症研究所に勤務しているということを聞いたことがあります。50年ほど昔に兼愛塾の臨海学校を手伝っていただいたNO氏とたまたま同じ研究所でご一緒だということを聞いて、不思議な因縁を感じたことがあります。IN氏は息子さんのことを「何だか解らないけど何でもアマゾン川流域当たりの風土病について研究しているらしいよ。」と言っていましたが、宝塚市のKS氏によると、「臨床医ではなくてそんな地味な研究をコツコツやっているというからには将来のノーベル賞候補かもしれないね」なんて言っていました。IN氏のご子息TN氏は現在は国立感染症研究所寄生動物部部長を務められているようです。また、国立大学法人筑波大学大学院生命環境科学研究科教授も務めていらっしゃるようです。


 いやはや、昨夕のテレビによるニュースでは、IN氏と同じような研究をされている北里大学特別栄誉教授のノーベル医学生理学賞の受賞が決まったようです。まさしく、宝塚市在住のKS氏の言は当たらずとも遠からずかもしれません。


 今朝のウェブニュースより


ノーベル賞:大村氏、医学生理学賞 毎年3億人を救う こだわった独創性 ――  今年のノーベル医学生理学賞受賞が決まった大村智(さとし)・北里大特別栄誉教授(80)は、自然界から役に立つ化学物質を見つけ出して数々の抗生物質の開発に結びつけ、アフリカなどの毎年約3億人を感染症の危機から救っている。70年前の1945年にペニシリンの発見で同じ賞を受賞したアレクサンダー・フレミングをはじめ著名な科学者を輩出してきたこの分野で、大村氏の上げた成果は質量ともに世界で類を見ない。輝かしい実績の背景には、「オリジナリティー」への大村氏のこだわりと、積極的な産学連携があった。


 大村氏が自然界に存在する抗生物質の探索に本格的に乗り出したのは、米国留学から帰国して北里研究所に研究室を持った1973年。翌年、静岡県内で採取した土から新種の放線菌を発見し、菌が生み出す未知の抗生物質を見つけた。79年に学会で発表した「エバーメクチン」はその後、寄生虫が引き起こす家畜の感染症の特効薬となり、アフリカや中南米で毎年3億人を超える人々を感染症から救うことになった。


 大村氏は、オリジナリティー(独創性)にこだわり、画期的な化学物質の発見を引き寄せた。研究室を開いた際、大村氏は「動物薬の開発を目指す」と宣言。当時、家畜用薬はヒト用の使い古しで専用薬はほとんどなく、「普通の方法では世界に太刀打ちできない。動物薬の開発は、ヒトと共通する病気の動物実験を同時にできる」と考えた。


 そこで、大村氏は、抗生物質の研究で傍流だった「マクロライド系」の追跡を選んだ。既に市場に出ていたペニシリン、ストレプトマイシンなどと系列が異なり、働き方が分かっていなかった。だが、「オリジナリティーを追求するのが科学」という信念が研究を後押しし、それまでの研究で「副作用が少なく、多くの機能があるようだ」という直感も当たった。


 一方、土壌から抗生物質を取り出すには、高い技術が必要だ。有機合成化学の世界的権威の竜田邦明・早稲田大栄誉フェローは「大村さんは北里研で化学の基礎を徹底的に学び、物質ふるい分けの高い技術や、化学反応の解析力にも優れていた」と話す。


 抗生物質の研究はもともと、みそや酒など微生物を利用した発酵技術が進んでいた日本の得意分野だ。微生物化学研究所を創設した梅沢浜夫・元東京大教授(191486年)は「カナマイシン」の発見で世界的に知られ、大村氏の指導者でもあった秦藤樹(とうじゅ)・元北里大学長(19082004年)は「ロイコマイシン」や「マイトマイシン」の発見でがん治療を大きく進展させた。大村氏の受賞は、この分野の日本の貢献に改めて光を当てた。


 ◇産学連携先取り


 「生涯に一つでも薬にできる成分を見つけられた研究者は幸運」と言われるほど、化学物質を発見し、実用化することは難しい。大村氏らが発見した化学物質は、26種類が医薬品や農薬などになった。この抜きんでた実績の原動力に、製薬企業などとの積極的な「産学連携」があった。


 米ウェスレーヤン大(コネティカット州)留学中、マックス・ティシュラー教授の研究室にいた大村氏は「研究費は自分で集める」という、当時の日本の科学界になかった姿勢を学んだ。「米国レベルの仕事をするには、あてがわれた研究費だけでは足りない。企業からの資金が必要」と考え、帰国前に米製薬大手のメルク社から年間8万ドル(当時のレートで約2500万円)の提供を3年間受ける契約を結んだ。


 帰国した大村氏の研究室(大村研)が有用な化学物質を探し、医薬品の開発と販売はメルク社が独占的に担う。特許は共有し、特許料が入れば研究室の人件費や設備投資に回す仕組みだった。「国から金をもらう国立大の研究者と違い、うちは自分で稼がねばならない。研究成果を社会に還元しなければならないという気持ちの強さが違った」と大村氏は振り返る。一方、「企業の下請けにはならない。研究室の根幹は自分たちで決めていた」という。


 日本で産学連携が本格化したのは1990年代後半からで、大村氏は時代を20年以上先取りする産学連携の草分けだ。取り組みは米国でも注目され「大村方式」と呼ばれた。メルク社との共同研究で巨額の特許料収入を得た大村研は、独立採算制を敷いて研究の幅を広げ、さらに産学連携を進めて成果を上げた。


 光触媒の研究で世界をリードし、自身も産学連携に取り組む藤嶋昭・東京理科大学長は「基礎研究を応用し、人類の役に立たせるのには産学連携が不可欠。そういう意味で、大村先生は『産学連携のかがみ』と言える」と高く評価する。  (毎日新聞 20151006日 東京朝刊)


  今日は、これから先日の大腸ポリープ切除後の検査結果を聞きに、三井記念病院に出かけます。ギリシア神話はお休みします。


Kolchísコルキス)王Aiētēs(アイエーテース)は、Iāsōn(イアーソーン)に金羊毛皮を渡すつもりはなく、逆に罠にはめようと画策して、Arēs(アレース)の持ち物だという青銅の足を持ち、火を吐く牡牛を駆って土地を耕し、そこに竜の歯をまくようにイアーソーンに依頼するのでした。


※ 竜の歯:Kadmo(カドモス、Thēbai〈テーバイ〉の建設者。Delphoi〈デルフォイ〉の神託によって白牛に導かれてBoeotia〈ボイオティア、アッティカの西北に位置した一地方〉に着き,泉を守る怪竜を殺し,その歯を抜いて地に植えると戦士が地中からとび出してきて、テーバイの建設を助けたといいます)がテーバイで播いた残りの半分をアイエーテースがAthēnā(アテーナー)から貰ったものであったといいます。


アイエーテースにはMēdeia〈メーデイア〉という魔法を操る王女がいまして、このときイアーソーンに一目惚れしてしまいます。メーデイアの恋心は、Hērā(ヘーラー)の要請によってAphrodītē(アプロディーテー)が吹き込んだ偽りのものであったといわれます。メーデイアは密かにイアーソーンと会い、自分との結婚を条件に父を裏切ってイアーソーンを助ける約束をするのでした。


 


メーデイアはイアーソーンの体に炎でも剣でも傷つかない魔法をかけ、イアーソーンは牡牛を従わせることに成功します。耕した土地に竜の歯をまくと、そこから次々にSpartoi(スパルトイ)が生まれてきてイアーソーンに襲いかかりましたが、イアーソーンがメーデイアに教えられたとおり大石を投げ込むとスパルトイたちは同士討ちを始めるのでした。さらにメーデイアはイアーソーンを金羊毛皮のある場所に案内します。イアーソーンは見張りの竜(大蛇)にのみこまれますが、メーディアは竜を魔法で眠らせてしまい、イアーソーンを吐き出させます。


 


こうしてイアーソーンは目的の金羊毛皮を手に入れることができたのです。

 中天の下弦の月に照らされながら、今朝もいつもの桜橋~蔵前橋間を一回りして帰宅しました。


 


Jason(イアーソーン)はこの難題に挑戦するために、女神Athēnā(アテーナー)の助言を受けて、Phrixos(プリクソス)の子で船大工のArgos(アルゴス)に50の櫂を持つ巨船を建造させ、船名をアルゴスの名から「Argo(アルゴー、《快速》の意)」としました。アテーナーは、Dodon(ドードーナ)のoak(オーク、樫)からものを言う材木をアルゴーの船首につけました。イアーソーンが船員を募ると、ギリシア中から


Hēraklēs(ヘーラクレース、半神半人の英雄)、


双子のKastōr(カストール)とPolydeukēs(ポリュデウケース、剣術とボクシングの名手で、神の血を受け継ぎ不死身でしたが、人間だった兄が戦死してしまい、神に慈悲を乞って兄とともに天にいることを許されたといいます。これが双子座であるといわれています))、


Lynkeus(リュンケウス、「大山猫の眼を持つ者」という意味であり、その名にふさわしい並はずれた視力を持ち、夜目が利くだけでなく、地面の下まで見通すことができたといいます)、


Pēleus(ペーレウス、海の女神Thetis〈テティス〉の夫で、Achilleus〈アキレウス〉の父)、


Orpheus(オルペウス、女魔物Seirēn〈セイレーン〉に歌合戦を挑み一座を鼓舞、無事に海峡を渡ります)ら50人の勇者たちが集まりました。


 


こうしてアルゴー船に乗り組んだ勇者をArgonautes(アルゴナウテース)、総称としてArgonautai(アルゴナウタイ)といいます。


アルゴナウタイは、女神アテーナーの祝福を受けて出発、Lêmnos島(レームノス島、Egéo〈エーゲ〉海北部にある島)で歓待を受けますが、Khíos(キオス、エーゲ海東部にある島)ではヘーラクレースが従者Hylās(ヒュラース)を攫われて一行から離脱してしまいます。Bebryces(ベブリュクス)での拳闘試合ではポリュデウケースが活躍し、Trakya(トラーキア)では怪鳥Harpuia(ハルピュイア、顔から胸までが人間の女性で、翼と下半身が鳥という伝説の生物)たちを追い払って盲目の予言者Phīneus(ピーネウス)を救い、Bosporus(ボスポラス)海峡では絶え間なくぶつかり合う二つの大岩、Symplegades(シュムプレーガデス)岩の間をくぐり抜けるなど、各地での冒険を経てKolchís(コルキス)に到着しました。


 アルゴナウタイの航海については、また後日詳しく扱うつもりです。

 一昨日・昨日と朝から雨で早朝徘徊はお休みしました。今日は桜橋~蔵前橋間を一回りして帰宅しました。


 お約束の通り、今日から英雄Jason(イアーソーン)のお話に移ります。


 


Jason(イアーソーン)はThessalía(テッサリアー、ギリシア中部の地域名)のIolkós(イオールコス)王Aeson(アイソーン)の子ですが、アイソーンが死んだ時にイアーソーンがまだ幼かったため、叔父に当たるPeliās(ペリアース)が王位を継ぎ、イアーソーンはKentauros(ケンタウロス、半人半獣の種族)の賢者Cheirōn(ケイローン、Apollōn〈アポローン〉から音楽、医学、予言の技を、Artemis〈アルテミス〉から狩猟を学んだといわれています)に預けられました。


一説には、ペリアースに王権を奪われて幽閉されたアイソーンがイアーソーンを助けるためにケイローンのところに送ったともいわれています。このころからイアーソーンには女神Hērā(ヘーラー)の加護があったとされます。やがて成人したイアーソーンはイオールコスに戻って王権の回復を求めるのでした。この若者をイアーソーンと知らないペリアースは、若者がサンダルを片方しか履いていないことに気づきます。


実はペリアースは以前に、サンダルを片足だけ履いたものに王位が奪われるであろう、という神託を受けていたのです。そこで王位を手放したくないペリアースは一つの条件を示しました。その条件とは、黒海の果てKolchis(コルキス)にあるという伝説の黄金の羊の毛皮を持ち帰ることでした。


 


伝説の黄金の羊の毛皮とはギリシア神話に出てくる秘宝のひとつで、翼を持つ金色の羊の毛皮のこと。Boeotia(ボイオーティア)王のAthamās(アタマース)はNephelē(ネペレー)と結婚し、Phrixo(プリクソス)とHellē(ヘレー)をもうけまが、Kadmos(カドモス)の娘Īnō(イーノー)に恋をし、彼女と再婚します。アタマースの後妻イーノーの企みによって、プリクソスはZeus(ゼウス)への犠牲として殺されそうになりますが、Nephelē(ネペレー)がHermēs(ヘルメース)から授かった金毛羊を連れて来ましたので、プリクソスはその背に乗ってヘレーとともに脱出します。一説には単にネペレーが金毛羊を2人に授けたとも、あるいはゼウスが2人に金毛羊を送ったともいいます。しかしヘレーは途中で海に落ちて「Hellesponts(ヘレースポントス)」(ヘレーの海)、現在のDardanelles(ダーダネルス)海峡の名前の由来となりました。


プリクソスはCaucasus(コーカサス)地方のコルキスに達しました。この地の王Aiētēs(アイエーテース)はプリクソスを迎え入れ、娘のChalkiope(カルキオペー)をプリクソスの妻として与えました。プリクソスは金毛の羊をゼウスに捧げ、その皮をアイエーテースに贈りました。アイエーテースは、金羊毛をArēs(アレース)の社にある樫の木に打ち付け、眠らない竜(ドラゴン)に守らせました。金羊裘(きんようきゅう)、金色の羊毛、黄金の羊毛、金色羊の革、ゴールデン・フリース(golden fleece)など、さまざまな表記があります。

 今朝も桜橋~蔵前橋間を一回りしてきました。


 今日で、9月もおしまい明日から10月。ギリシア神話のテーセウスの物語も昨日で終わりましたので、10月以降はアルゴ―探検隊を集めて金色の羊の革を手に入れたイアーソンのお話に移ります。今後とも御贔屓に願います。


 


 途中長い入院があったので、朝ドラの「まれ」は途中からあまり見る気がしませんでした。9月28日(月)から新しく、『あさが来た』が始まりました。明治を代表する女性実業家広岡浅子をモデルにしたドラマといいます。


 ウェブニュースより


 新・朝ドラ『あさが来た』王道回帰 ―― きょう28日よりNHK連続テレビ小説『あさが来た』(月~土 前800 総合ほか)がスタートする。女優の波瑠が主演する同作は、連続テレビ小説としてはもっとも古い時代、史上初の幕末から始まる物語。激動の時代をはつらつと生きた女性の一代記という朝ドラの王道が帰ってくる。


 


 ヒロインの名は「あさ」。幕末、京都の豪商の次女に生まれ、女性に参政権すらなかった時代に実業家として才覚を発揮し、日本初の女子大学の設立にも関わった教育者としても名を残す。 ヒロインのモデルは、広岡浅子さん。浅子さんの生涯をつづった『小説 土佐堀川』(潮出版社)を原案に、『風のハルカ』(2005年)以来、2度目の登板となる大森美香氏が脚本を担当。フィクションとして、「いまより少しでも皆が幸せな世の中の実現」のため奮闘するあさと、あさを陽気に支え続けたボンボン夫・新次郎やあさの応援者との温かな交流、そしてあさの姉・はつの人生を絡めた物語を紡いでいく。


 あさを演じる波瑠のほか、夫・新次郎に玉木宏、姉・はつに宮崎あおいが出演。第1週「小さな許嫁(いいなずけ)」では、あさの少女時代を子役の鈴木梨央が演じる。


 物語は、あさが11歳の頃、幕末の京都から始まる。豪商今井家の次女あさ(鈴木)は、相撲が大好きな女の子。清楚な姉のはつ(守殿愛生)とは正反対。そんな姉妹には、生まれた時から許婚がいた。あさの許婚(いいなずけ)は、大阪の大きな両替屋・加野屋の次男、新次郎(玉木)。はつの許婚(いいなずけ)は、老舗両替屋・山王寺屋の惣兵衛(柄本佑)。あいさつの席で姉妹は、遊び好きなボンボンの新次郎と態度の冷たい惣兵衛を見て不安になってしまう。


 「自分の道は自分で決めたい」と学問をはじめる、あさ。しかし母・梨江(寺島しのぶ)は「女に学問は必要ない」と叱る。あさはしつこく「なんでどす?」と問い続け、納得がいかずに押入れに籠城。そこに突然、新次郎が現れる。新次郎は「あさちゃんの好きにしたらええ」と、ある贈り物を渡す。思いがけない贈り物を見つめ、ドキドキするあさ。月日は流れ、相変わらずおてんばな15歳のあさ(波瑠)と慎ましい女性に成長した姉のはつ(宮崎)は、結婚を約束した年を迎えるのだった。


 第1週、波瑠の出番は第1回(28日)の冒頭と、第6回(103日)の最後のみ。代わりにこあさ役の鈴木が「おてんばで元気いっぱいのあさを一生懸命頑張りました。皆さんがあさを見て、笑顔になっていただけたら、とてもうれしいです」と熱演。波瑠も「2週目以降、どんどん人物も増えて、すごく盛り上がっていきますので楽しみにしていただければ」とアピールしている。  (Asahi Shinbun Digital 2015年9月28日)


広岡浅子とは



日本の実業家、教育者、社会活動家。18491018日、山城国京都(現・京都府京都市)の豪商・三井高益の4女として生まれる。67年、17歳で大坂の豪商「加島屋」の次男・広岡信五郎に嫁いだ。同年11月の大政奉還により、加島屋は大名への貸し金総額900万両(4500億円相当)を無にするところだったが、浅子は諸藩に出向き返済を迫ったという。明治維新の動乱期からは実業家として尽力、鉱山の再建に携わり、加島銀行や大同生命も創業、加島屋を財閥に育て上げた。教育者としても力を注ぎ、大阪に梅花女学校を設立していた成瀬仁蔵らと各界の有力者に働きかけ、1901年に東京都文京区目白台に「日本女子大学校」(現日本女子大学)を設立させた。02年に夫が死去すると、一人娘に養子を迎え実業界から引退。11年、洗礼を受け日本キリスト教中央委員となり、遊郭の女性救出を始めとした社会活動を行う。19114日、死去。享年70151月、浅子を主人公とした『小説 土佐堀川女性実業家・広岡浅子の生涯』(古川智映子著、潮出版社)を原案とし、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」が同年後期より放映されることが発表された。


 今朝も桜橋~蔵前橋間を一回りして帰宅しました。途中スーパームーンが見られるということで楽しみにしていましたが、生憎雲の合間に時々見えるという状態で、カメラを向けても旨く撮影できませんでした。


 ウェブニュースより、


 「スーパームーン」くっきり 地球に接近、満月の時期と重なる ―― 月が最も地球に近づいて、満月の時期と重なる「スーパームーン」が28日、世界各地で観測され、国内でも普段よりも一回り大きな月がくっきりと姿を現した。


 


 東京スカイツリー(東京・墨田)周辺では、午後6時ごろから東の夜空にスーパームーンが浮かんだ。同区の男子高校生(17)は「赤みがかった大きな月がとてもきれいだ」と笑顔で語った。/国立天文台によると、月は楕円の軌道で地球の周りを回っている。28日夜の満月は今年最も小さかった3月6日と比べ直径が1.14倍に見え、明るさは3割ほど増した。  (日本経済新聞 2015/9/28 19:42)


 


 ある日、Peirithoos〈ペイトリオス、テーセウスの盟友〉はAthēnai(アテーナイ)の牛の群れを奪おうと、Marathn(マラトン)の丘に侵入します。すぐ防衛に駆けつけたThēseus(テーセウス)を見た瞬間、ペイトリオスはその姿に敬服してしまいます。ペイトリオスが「私が悪かった。どんな刑罰をも受けよう」というと、「君の友情をくれ!」テーセウスは即答します。以後二人は盟友となったのです。


 Phaidrā(パイドラー、テーセウスの妻)の死と同じ頃、ペイリトオスも妻Hippodameia(ヒッポダメイア)を亡くしていました。二人は大神Zeus(ゼウス)の娘を妻にしようと相談しました。テーセウスは幼いHelenē(ヘレネー、Īlios〈イーリオス〉の王子Paris〈パリス〉に攫われ、Troia〈トロイア〉戦争の原因となった)を選び、ペイトリオスはなんと冥界の女王Persephonē〈ペルセポネー〉を選びました。


 


 二人はSpártā(スパルタ)にいたヘレネーを攫い、アテーナイまで連れて帰ることに成功。いずれスパルタがヘレネー捜索に動きだすので、戦争を避けたいテーセウスは、ヘレネーを母Aithrā(アイトラー)にゆだね、アテーナイから離れた場所に隠しました。


その後、テーセウスとペイトリオスは冥界へおりていき、ペルセポネーの夫で冥界の王Hādēs(ハーデース)にその目的を話してしまいます。内心呆れはてたハーデースは、二人に椅子に座るよう勧めました。この椅子は「忘却の椅子」と呼ばれ、座ると身動きできなくなり、記憶をも失ってしまいます。ぼ〜っとした二人は、そのまま冥界に捕われれの身となったしまいます。


 やがて、Hēraklēs(ヘ-ラクレ-ス、ギリシア神話の半神半人の英雄)が、「Kerberos(ケルベロス、冥界の番犬)の試練」で冥界にやってきた時、テーセウスだけは助けられましたが、ペイトリオスは助けだされず、その運命のままにゆだねられました。


 テーセウス達が冥界にいる間に、ヘレネーは発見されスパルタに連れ戻され、アテーナイの王位も奪われてしまいました。彼はSkyros(スキューロス)島の王Lukomēdēs(リュコメーデースのもとに身を寄せましたが、テーセウスが自国の民や臣下の人気を獲得し、彼の王座を奪うことを畏れてテーセウスを裏切り殺しました。テーセウスに友誼を示しつつ、彼を誘って崖の頂きまで行き、そこよりテーセウスを突き落として殺したとされます。Apollodoros(アポロドーロス、古代ローマ時代のギリシャの著作家で、1世紀から2世紀頃の人物と推定されていいます。『Biblioteke〈ビブリオテーケー、ギリシア神話〉』の編纂者)は、崖とは述べず、深い穴に突き落として殺害したと記しています。また別の説では、テーセウスは殺されたのではなく、食後の散歩の途中、誤って崖から落ちて死んだとされます。


 後年、アテーナイの将軍Kimōn(キモーン)はテーセウスの遺骸を発見すると、アテーナイに連れて帰り、テーセウスは彼のために建てられた社に納められることになりました。

 今朝の早朝徘徊は昨日と同じく桜橋~蔵前橋間を一回りして帰宅しました。


 


父Aigeus(アイゲウス)王の自殺の後、Thēseus(テーセウス)はAthēnai(アテナイ)の王に即位します。彼はAmazōn(アマゾン、ギリシア神話に登場する女性だけの部族)に遠征し、王女Antiopē(アンティオペー、Hippolyte〈ヒッポリュテー〉と姉妹)を攫い、妻としました。
※ 一説には、テーセウスが妻としたのは、ヒッポリュテーだといいます。

 アンティオペーはテーセウスの妻となり、Hippolytos(ヒッポリュトス)を生みますが、後にテーセウスはKrētē(クレーテー)島の王Mīnōs(ミーノース)の娘でAriadnē(アリアドネー)の妹Phaidrā(パイドラー)と結婚しました。このためアンティオペーはアマゾーンを率いて結婚式を襲いますが、結婚式の出席者たちは扉を閉めてアンティオペーたちを殺したとも、テーセウスに殺されたとも、あるいはHēraklēs(ヘーラクレース)に殺されたとも、またあるいはMolpadia(モルパディアー、アマゾンの一人)に殺されたともいいいます。
 アリアドネーの妹パイドラーを妻とし、幸せに暮らしていましたが、女神Aphrodītē(アプロディーテー)の策略により、パイドラーは義理の息子ヒッポリュトスを愛してしまうのです。
 魅力と美徳をかねそなえた前妻の息子ヒッポリュトス ―― 新妻パイドラーはこの義理の息子に好意を抱くようになりました。が、ヒッポリュトスは継母の恋をはねつけたのです。恋は憎悪に変わり、彼女は「ヒッポリュトスに辱めを受けた」と遺書を残し自殺してします。怒ったテーセウスは、息子に災いがくだるよう、海神Poseidōn(ポセイドーン)に祈りました。
 ヒッポリュトスが二輪車に乗り、Troizḗn(トロイゼーン、古代ギリシアの都市国家)のSalonika(サロニカ)湾岸を戦車で走っていたとき、Poseidōn(ポセイドーン)が遣わした怪物(あるいは雄牛)が海から現れました。戦車を牽いていた馬はそれに驚き暴れ、ヒッポリュトスは戦車から落ち、暴走した馬に轢かれて死亡してしまいます。

※ Lawrence Alma-Tadema(ローレンス・アルマ=タデマ):イギリス、ヴィクトリア朝時代の画家。古代ローマ、古代ギリシア、古代エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵を数多く残し、ハリウッド映画の初期歴史映画などに多大な影響を与えたと言われる。

 Eurīpidēs(エウリーピデース、BC480年頃~406年頃、ギリシア悲劇における三大悲劇詩人の1人)によれば、ヒッポリュトスは手綱に絡まり瀕死となりながら父テーセウスの前まで引きずられてきました。Artemis(アルテミス)が真相を話すとテーセウスは後悔してヒッポリュトスを許し、ヒッポリュトスは父の腕の中で死んだといいます。
 アルテミスはヒッポリュトスの死を悼み、Asklēpios(アスクレーピオス、ギリシア神話に登場する名医の一人)を説き伏せてヒッポリュトスを復活させたといいます。しかし死すべき人間を復活させたことにJuppiter(ユーピテル、ローマ神話の主神、ギリシア神話ではZeus〈ゼウス〉にあたります)は激怒し、アスクレーピオスを雷で打ち殺した(あるいは冥界に落とした)といわれています。その後、ヒッポリュトスはイタリアでEgeria(エーゲリア)というニンフに保護されたといいます。

 ローマ神話では、復活したヒッポリュトスはユーピテルの目から逃れるため、Diāna(ディアーナ、アルテミスに相当するローマ神話の女神)により、ローマに近いNemi(ネーミ(あるいはAricia〈アリキア〉)にあるニンフのEgeria(エーゲリア)の洞窟に隠され、老人の姿に変えられ、森のディアーナ信仰の神Virbius(ウィルビウス)になったといいます。

 早朝徘徊は2日続けてお休みしたので、今朝は蔵前橋まで足を伸ばしました。携帯の万歩計の記録は、141379.7㎞とありました。


 


Mīnōs(ミーノース)王はMīnōtauros(ミーノータウロス)の食料としてAthēnai(アテーナイ)から9年毎に7人の少年、7人の少女を送らせることとしたのです。その事を知って強い憤りを感じたThēseus(テーセウスは、Krētē(クレーテー)島に乗り込んでミーノータウロスを退治するため、父王Aigeus(アイゲウス)の反対を押し切り、自ら進んで生贄の一人となるのです。ミーノース王の娘Ariadnē(アリアドネー)がテーセウスに恋慕してしまい、テーセウスを助けるため、彼に赤い麻糸の鞠と短剣をこっそり手渡したのです。アリアドーネは無事に脱出するための方法として糸玉を彼にわたし、迷宮の入り口扉に糸を結び、糸玉を繰りつつ迷宮へと入って行くことを教えたのです。3度目の生贄を運ぶ船も、国民たちの悲しみを表す印として黒い帆が張られていました。テーセウスは他の生贄たちと共にその船に乗り込み、クレーテー島へ向かいました。


 
※ Herbert Draper(ハーバート・ドレイパー):ロンドン生まれのラファエル前派の画家です。

 テーセウスはlabyrinthos(ラビュリントス、迷宮)に侵入しアリアドネーからもらった毬の麻糸の端を入口の扉に結び付け、糸を少しずつ伸ばしながら、他の生贄たちと共に迷宮の奥へと進んでいきました。そして一行はついにミーノータウロスと遭遇できたのです。皆がその恐ろしい姿を見て震える中、テーセウスはひとり勇敢にミーノータウロスと対峙し、迷宮の一番端にいたミーノータウロスを見つけ、アリアドネーからもらった短剣で見事ミーノータウロスを討ち果たしたのです。脱出不可能と言われたラビュリントスからはミーノース王の娘アリアドネーからもらった糸玉によって脱出できたのです。糸玉からの糸を伝って無事、迷宮から脱出することができたのです。そして、アリアドネーは彼とともにクレーテー島を脱出したのです。

 ミーノータウロスはDante(ダンテ、1265~1321年、イタリア都市国家Firenze〈フィレンツェ〉出身の詩人、哲学者、政治家)の『神曲』では「地獄篇」に登場し、地獄の第六圏である異端者の地獄においてあらゆる異端者を痛めつける役割を持つものと記述されています。
 この怪物の起源はかつてクレーテー島で行われた祭りに起源を求めるとする説があり、その祭りの内容は牛の仮面を被った祭司が舞い踊り、何頭もの牛が辺り一帯を駆け巡るというもので、中でもその牛達の上を少年少女達が飛び越えるというイベントが人気であったそうです。また、古代のクレーテー島では実際に人間と牛が交わるという儀式があったとされています。

 しかし、彼は帰路の途中、Naxos(ナクソス)島(エーゲ海中部・Kyklades〈キクラデス〉諸島に属するギリシャ領の島)に寄った際に、アリアドネーと離別してしまいます。これは、アリアドネーに一目惚れしたDionȳsos(ディオニューソス)が彼女をLímnos(レームノス)島(エーゲ海北部にある島)に攫ってしまったために、行方が分からなくなり、止むを得ず船を出港させたとも、薄情なテーセウスがアリアドネーに飽きたため、彼女を置き去りにしたとも言われています。  
 テーセウスは生贄の一人としてクレーテー島へ向かう時、無事クレーテー島から脱出できた場合には喜びを表す印として船に白い帆を掲げて帰還すると父王アイゲウスに約束していました。しかし、テーセウスはこの約束を忘れてしまい、出航時の黒い帆のまま帰還したのです。これを見たアイゲウスは、テーセウスがミーノータウロスに殺されたものと勘違いし、絶望のあまり海へ身を投げて死んでしまいます。その後、アイゲウスが身を投げた海は、彼の名にちなんでEgéo(エーゲ)海と呼ばれるようになったといいます。

今朝も雨、早朝徘徊はお休みです。

 神話によるとMīnōs王(ミーノース王、Krētē〈クレーテー〉島の王)は後で返すという約束でPoseidōn(ポセイドーン)に願って海から美しい白い雄牛(一説では黄金)を得ます。しかし、雄牛の美しさに夢中になった王は、ポセイドーンとの約束を違え、白い雄牛を生け贄に捧げず、代わりの雄牛を生け贄として捧げ、白い雄牛を自分の物にしてしまいます。これに激怒したポセイドーンはPāsiphaë(パーシパエー、ミーノースの妻)に呪いをかけ、后は白い雄牛に性的な欲望を抱くようになります。Daidalos(ダイダロス、ギリシア神話に登場する有名な大工、工匠、職人、発明家です。「聡明な働き手」という意)に命じて雌牛の模型を作らせた彼女は、自ら模型の中へと入り雄牛の身近へと訪れるのでした。結果、パーシパエーはMīnōtauros(ミーノータウロス)を産むこととなったといいます。星、雷光を意味するAsterios(アステリオス)と名づけらますが、「ミーノース王の牛」を意味するMīnōtauros(ミーノータウロス)と呼ばれました。


 


ミーノータウロスは成長するにしたがい乱暴になり、手におえなくなったミーノース王はダイダロスに命じてlabyrinthos(ラビュリントス、迷宮)を建造させ、そこに彼を閉じ込めてしまいます。


 Apollodoros(アポロドーロス、ギリシャの著作家で、『Biblioteke〈ビブリオテーケー、ギリシア神話〉』の編纂者として知られます。1世紀から2世紀頃の人物と推定されています)によると、Androgeōs(アンドロゲオース、ミーノース王の子)はアテーナイを訪れて、Panathēnaia(パンアテーナイア)祭(全アテーナイの祭り)の競技で全ての参加者に勝利しました。そこでアテーナイの王Aigeus(アイゲウス)はアンドロゲオースにMarathn(マラトーン)の牡牛(クレーテーの牡牛、ポセイドーンがクレーテー島の王ミーノースの王権を保証するために海中から送った牡牛で、アッティカのマラトーンに行って暴れ、人々を苦しめました。)の退治を依頼しましたが、アンドロゲオースは牡牛に殺されてしまいます。あるいはThēbai(テーバイ)の競技に参加する途中、他の参加者に嫉妬されて殺されたといいます。


アンドロゲオースの死を知ったミーノース王はAthēnai(アテーナイ)と戦争を始め、さらにアイゲウスの兄弟のNisosz(ニーソス)が支配するMégara(メガラー)を攻め落としましたが、アテーナイを攻め落とすことができませんでした。ミーノース王はアテーナイに罰が下ることをZeus(ゼウス)に願います。するとアテーナイでは飢饉や疫病といった災いが起こり、アテーナイ人はこの災いから逃れる術を見い出せなかったので、神託に従ってアンドロゲオースの死に対するミーノースの要求を受け入れることになりました。そしてミーノースはアテーナイ人に、ミーノータウロスの生贄をKrētē〈クレーテー〉島に送ることを要求したといわれます。



画家Pablo Picasso(パブロ・ピカソ)は、1933年頃から作品のモチーフに好んでミーノータウロスを取り上げています。男を嬲り殺し、女を陵辱し快楽の限りを貪るこの怪物に、ピカソは共犯者意識を持ちつつも、倒されねばならぬ絶対悪の役割を与えました。自分の辿った総ての道を集約するなら、それはミーノータウロスに繋がるとの趣旨の言葉すら残しているのです。


 


※ 画家Pablo Picasso(パブロ・ピカソ):スペインのMálaga(マラガ、地中海に面し、スペイン第6位の都市)に生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。正式な妻以外にも何人かの愛人を作りました。生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作ります。1927年、ピカソは17歳のMarie-Thérèse Walter(マリー・テレーズ・ワルテル)と出会い、密会を始めます。ピカソは妻のOlga(オルガ)と離婚しようとしますが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止します。ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続きました。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘Maia(マイア)が生まれます。1977年、ピカソがMougins(ムージャン、地中海から6㎞離れた、フランス南部の都市)で亡くなった4年後に、69歳のマリーは自殺をとげています。娘のマイアは「母は父の面倒をみなければならないと思い込んでいました。死んだあとまでも――。母は父が独りで寂しそうにしているのが耐えられなかったのです」と語っています。

 昨夕から雨、今朝も降り続いています。早朝徘徊はお休みしました。


 大相撲秋場所は12日目にして、全勝の照ノ富士に土が付くという波乱がありました。今朝のウェブニュースより


照ノ富士、栃煌山に敗れ初黒星 大相撲秋場所12日目 ―― 大相撲秋場所12日目(24日・両国国技館)全勝で単独トップの大関照ノ富士が関脇栃煌山に寄り切られて初黒星を喫した。栃煌山は7勝目。横綱鶴竜は大関琴奨菊を上手投げで下し、2敗をキープした。2敗目を喫した平幕の勢とともに1差で照ノ富士を追う。琴奨菊は4敗目。/他の大関は稀勢の里が関脇妙義龍を押し倒して9勝目を挙げ、豪栄道は6勝6敗と星を五分に戻した。/十両は松鳳山が1敗で単独トップに立った。 〔2015/9/24 18:53 共同〕


 


Thēseus(テーセウス)が陸路で討ち果たした山賊や怪物とは、


Epídauros(エピダウロス、Pelopónnisos〈ペロポネソス〉半島東部に位置する古代ギリシアの港湾都市)ではPeriphētēs(ペリペーテース、別名をCorynētēs〈コリュネーテース、棍棒使い〉ともいう)を、


Korinthos(コリントス、ペロポネソス地方にある都市)地峡ではSinis(シニス、怪力の盗賊で旅人にひどい乱暴をしていました)を、


Crommyon(クロミュオーン)ではPhaia〈パイア〉と呼ばれた猪(クロミュオーンの猪、ギリシア神話の怪物、あるいは女性)を、


Mégara(メガラ、Attik〈アッティカ〉西部にあった都市国家)ではSkeirōn(スケイローン、スケイローン岩に陣取り、旅人に無理やり自分の足を洗わせて、旅人が洗っている最中に海に投げ込み、岩の下の海中に棲む大きな海亀のえさにしていました)を、


Eleusis(エレウシース、アテーナイに近い小都市)ではKerkyōn(ケルキュオーン、旅人にレスリングの試合を強い、負けた者を殺していました)を、


Hermaeus(ヘルメウス、アッティカの小都市)では山賊Procrūstēs(プロクルーステース)を倒しました。


残虐な方法で人を殺めていたこの者達に対し、テーセウスはいずれも同じ目に遭わせて殺したのです。


 


道中、テーセウスが倒したプロクルーステースは「プロクルーステースのベッド(寝台)」(Procrustean bed)の逸話で有名です。この山賊は旅人に寝台を勧め、大きな寝台より背が小さければ、旅人の手足を無理やり引っ張ることで殺してしまったのです。また、小さな寝台から手足がはみ出せば、旅人の手足を切り落として殺してしまいました。そこから「無理矢理、基準に一致させる」という意味になったそうです。


 


 コルキスの王女Mēdeia(メーディア)は冥界の女神であるHekátē(ヘカテー、ギリシア神話の女神の1人)の神殿に仕える女神官で、ヘカテーの魔術に長(た)け、イアーソーン率いるアルゴナウタイの冒険を成功に導いたといいます。このメーデイアはAthēna(アテーナイ)を訪れたとき、アテーナイのAigeus(アイゲウス)王は喜んで迎え、魔女Mēdeia(メーデイア)と結婚したといいます。


テーセウスがアテーナイについたとき、アイゲウスの妻になっていた魔女メーデイアは自分の権勢を奪われることを恐れて、テーセウスを毒殺しようとしますが、テーセウスはこの陰謀から逃れ、身に着けていた剣とサンダルによって身の証しを立て、アイゲウスから息子と認められ、メーデイアはアテーナイから追放されるのです。

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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