瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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今朝のウェブニュースより


「あさが来た」モデル、広岡浅子ゆかりの資料1万点発見 ――  NHKの連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデル、広岡浅子(18491919)が嫁いだ大阪の豪商・加島屋(かじまや)が幕末に各地の藩に貸した金の借用書や、浅子の手紙など約1万点の資料が、奈良県橿原市の民家で見つかった。加島屋の分家を切り盛りしていた浅子が、新政府との交渉に向けて旧藩の借用書の整理を手がけた可能性もあるという。


 見つかったのは江戸時代以来、奈良県で山林経営をしている岡橋家。加島屋の10代当主・広岡正直の娘が嫁いでおり、太平洋戦争の際に広岡家が加島屋関係の古文書を「疎開」させたものという。


 借用書は仙台、長州など藩別に封筒に入れられて整理されていた。明治政府は旧藩の借金を新設の県に引き継がせる際、金を貸した両替商らに借用書などの提出を求めており、その際に整理したとみられる。中津藩(今の大分県中津市)の借用書には、大阪の蔵屋敷に勤めていた福沢諭吉の父、百助(ひゃくすけ)が署名したものもあった。


 加島屋では、本家の親戚の「分家」や奉公人が独立した「別家」の債権も、すべて本家に集めて整理。浅子は、夫が継いだ分家の経営を仕切っていたと自伝に記していることから、宮本又郎(またお)・大阪大名誉教授とともに資料を調べた神戸大経済経営研究所の高槻泰郎(やすお)・准教授は「浅子も債権整理に関わった可能性が高い」とみる。また、浅子が義弟の妻にあてた「浅」の署名がある手紙も見つかった。


 明治政府は1843年以前の旧藩の借金を帳消しとしたため、大阪の両替商は大打撃を受けたとされてきたが、両替商らは水面下では借金の扱いを交渉していたことも明らかになりつつある。高槻さんは「大阪の両替商が明治維新で受けた打撃の実態がつかめるかも」と期待する。


 資料は9日、神戸大である公開講座「豪商たちの近世・近代」(すでに受け付けは終了)で報告される。


 


 〈広岡浅子〉 京都の三井家の出身で、加島屋8代目当主広岡久右衛門の次男、信五郎と結婚。明治維新後に危機に陥った加島屋の経営を立て直し、筑豊の炭鉱経営も手がけた。日本初の女子大、日本女子大学校(現在の日本女子大)の創設にも尽力した。座右の銘は「九転十起」。


(朝日新聞DIGITAL 20151151139分)

Hēraklēs(ヘーラクレース)の第4の難行はArcadia(アルカディア)地方Erymanthos(エリュマントス)に棲む猪を生け捕りにすることでした。この猪は山から下りてきてはPsophis(プソピス)町に害を与えていたのです。 ヘーラクレースは途中でアルカディア西部にあるPholoe(ポロエ)山を通ったとき、Pholos(ポロス)と知り合い世話になります。 彼はSeilēnos(セイレノス)とトリネコの木のNymphē(ニュンペー)Melias(メリアス)との子といわれ、Kentauros(ケンタウロス)族でした。

※ Kylix(キュリックス):二つの大きな取っ手のついた平らな皿の下に脚台をつけた杯

 ケンタウロス族は生肉を食べる習慣だったのですが、わざわざヘーラクレースのために肉を焼いて接待してくれました。酒癖のよくないヘラクレスは、気分が良くなってくると、わがまま放題に酒が呑みたいと騒ぎ出すのでした。
「酒のフタをあけると他のケンタウロスたちがやってくるから、止めたほうがいいですよ。」
「ケンタウロスがなんでぇ~い。」
「ケンタウロスを甘く見ないほうがいいですよ。ホントに彼らは酒を飲むとタチ悪くなりますから。」
「大丈夫だって、ちょっとだけちょっとだけ。」
 そういって勝手にふたを開けて酒を飲み始めたヘーラクレースでしたが、案の定、酒の匂いにつられて他のケンタウロスたちが集まってきました。
「なんだ、お前は。なに勝手にここで酒を飲んでいるんだ。」
「まあそういきり立つなよ。俺はヘーラクレースだ。お前は?」
「Anchios(アンキオス)だ。」
「Agrios(アグリオス)という。それは俺達の酒だぞ。ポロスも勝手にこんな人間に俺達の酒を出すなよ!」
「ケチくせーやつらだな。うるせぇからあっちに行けよ。」
 ヘーラクレースは燃え木を彼らに投げつけたのです。そして大喧嘩が始まってしまいました。 しかしどれだけの人数をしてもヘーラクレースにはかないません。ケンタウロスたちはMalea(マレア、Pelopónnisos〈ペロポネーソス〉半島南部)方面に逃げ出します。

※ Odilon Redon(オディロン・ルドン):19世紀~20世紀のフランスの画家。印象派の画家たちと同世代てすが、その作風やテーマは大いに異なっています。光の効果を追求し、都会生活のひとこまやフランスのありふれた風景を主な画題とした印象派の画家たちに対し、ルドンはもっぱら幻想の世界を描き続けたといいます。
 マレアには、Pelion(ペリオン)山を出てそこに居を構えていた賢人Cheirōn(ケイローン)がいるのです。 ヘーラクレースが追いながら射た矢がElatos(エラトス)の腕を射抜き、 そのままCheirōn(ケイローン)の膝に刺さってしまいました。
「先生、大丈夫ですか!?」
 当惑しながらヘーラクレースはケイローンの元へ走りより、急いで矢を抜きます。そしてケイロンの持っていた傷薬を塗ったのですが、全く効き目はありません。 ヘーラクレースが以前倒したHydrā(ヒュドラー)の血は強力で、 医術に長けているケイローンでさえ治すのは不可能だったのです。
 ケイローンはあまりの激痛に死を望みますが、彼自身が不死身の体でしたので死ぬことすらできません。 そのため、この能力をPromētheus(プロメーテウス)に与えてこの世から去り、苦痛から逃れることができたのでした。この時にケイローンの不死の力を受け入れてもらうために、ヘーラクレースがカウカーソス山に縛り付けられていたプロメーテウスを解放したとされています。この後、ケイローンの死を惜しんだゼウスは、彼を射手座にしたということです。
 結局ケンタウロスたちはこのマレア山に居座ることになり、Poseidōn(ポセイド-ン)の庇護を受けてEleusis(エレウシス)山中に住まうものもいました。 他のNessos(ネッソス)はヘラクレスを怨みつつEuēnos(エウエノス)河で川渡しをして生計を立てることにし、Eurytion(エウリュティオン)はポロエ山に戻りました。 あとを追ってきたポロスは毒矢を取り上げてしげしげとながめていたのですが、つい手が滑って自分の足に刺して命を落としてしまいます。 ヘーラクレースは彼をポロエに葬り、エリュマントスへ向かいます。
 エリュマントスに到着したヘーラクレースはさっそく猪を発見。まず大声を出して茂みからおびき寄せて追いかけました。 深い雪の中で足を取られた人食いの怪物大猪は、瞬く間にヘーラクレースに捕らえられてMykēnai(ミュケナイ)に連れて行かれたのでした。

ヘーラクレースのattribute(アトリビュート)
 添付の甕の絵はギリシャ神話においてヘーラクレースが猪を生け捕りにして、Eurystheus(エウリュステウス)へ献上したというエピソードに由来します。ヘーラクレースが猪を担いでいるモチーフです。同じようにライオンや牡牛もヘーラクレースのアトリビュートとされることがあります。本作品では、右の男性が甕の中に入っていますが、これはヘーラクレースが猪をエウリュステウスに献上した際に、王がおびえて青銅の甕の中に逃げ込んだということが由来となっているのです。

attribute(アトリビュート):西洋美術において伝説上・歴史上の人物または神話上の神と関連付けられた持ち物。その物の持ち主を特定する役割を果たします。持物(じぶつ)ともいいます。

 Hēraklēs(ヘーラクレース)の第3の難行はCeryneian(ケリュネイア)の鹿を生け捕りにすることでした。Achaia(アカイア)地方のケリュネイアの鹿は、ギリシア神話に登場する巨大な雌鹿で、女神Artemis(アルテミス)の聖獣でもあります。その鹿はOinoe(オイノエ)に生息し、黄金の角と青銅の蹄(ひずめ)を持っており、矢よりも素早く動くことができたといいます。この鹿は、Artemis(アルテミス)がLykaion(リュカイオン)山中で草を食べているのを見つけ、自ら捕まえた鹿で、全部で5頭おり、内4頭はアルテミスが自分の戦車に繋ぎました。残りの1頭は脚が速すぎる為、狩猟の神でもあるアルテミスでも捕まえることができなかったというものです。その後、Hērā(ヘーラー)の命令でその鹿はHēraklēs(ヘーラクレース)を試すために、ケリュネイアの山中に放されたのです。


 ヘーラクレースは前の2つの功業(ネメアーの獅子退治とヒュドラー退治)を成し遂げたので前回よりも難しい3番目の試練を考え出すのには多くの時間を費やさねばなりませんでした。その為、Eurystheus(エウリュステウス)は大いに腹を立てたのですが、エウリュステウスは第3の試練をケリュネイアの鹿を捕らえさせることに決めたのです。しかしこの鹿はアルテミスの捧げ物なので生け捕りにすること、とされました。


ケリュネイアの鹿はあまりにも足が速かった為、ヘーラクレースはまる1年間もギリシア、Thracia(トラーキア、バルカン半島南東部の歴史的地域名)、Istria(イストリア、アドリア海の奥に位置する三角形の半島)、Hyperboreios(ヒュペルボレイオス、Cthulhu〈クトゥルフ〉神話に登場する架空の地名)を通って徒歩で雌ジカを追い続けるのでした。そして1年後ヘーラクレースはやっと雌ジカがLādōn(ラードーン)川の水を飲むために止まったときに矢(この矢にはHydrā〈ヒュドラー〉の血が塗ってある)で脚を射て、捕らえることができました。


 


エウリュステウスはアルテミスの聖獣を捕まえるという試練を課すことによって、アルテミスを激怒をさせることを望み、ヘーラクレースにこの試練を与えたのですが、雌ジカを捕らえ、家路を急いでいるとヘーラクーレスは偶然、アルテミスの双子の兄、Apollōn(アポローン)に遭遇しました。アルテミスとアポローンは鹿が殺されていると思い込み、激怒したのですが、これがエウリュステウスの命令であり罪は彼の方にあること、ヘーラクレースが苦行の一環として鹿を捕らえねばならなかったこと、まだ鹿が生きていることを説明しアルテミスに鹿を絶対返すことを約束するとアルテミスの怒りは静まったといいます。こうして、アルテミスにヘーラクレースを罰させるエウリュステウスの計画は挫かれたのでした。 その後ヘーラクレースは無事Mykēnai(ミュケーナイ)につき、第3の試練も無事終了しました。その後、この鹿はアルテミスに返されたといいます。


 


amphora(アンポラ):陶器の器の一種で、2つの持ち手と、胴体からすぼまって長く伸びる首を持ちます。アンポラは最初、紀元前15世紀ごろのレバノンからシリアの海岸に現れて古代世界に広まり、古代ギリシア・ローマにおいては、ブドウ、オリーブ・オイル、ワイン、植物油、オリーブ、穀物、魚、その他の必需品を運搬・保存するための主要な手段として用いられました。

Hēraklēs(へーラレース)の第2の難行はLerna(レルネ)の水蛇Hydrā(ヒュドラ)を退治することでした。


 ヒュドラーはTyphon(テューポーン)とEchidna(エキドナ)の子で、Hērā(ヘーラー)がヘーラクレースと戦わせるために育てたとされます。草食恐竜のような巨大な胴体と9つ(5から100までの異説がある)の首を持ち、一本の首を切り落としても、すぐにそこから新しい2本の首が生えてくる。絵画などでは前足と後ろ足、翼を持った姿で表される事もあります。


 ヒュドラーは、Lerna(レルネー)の沼に住み、触れただけで全生命体を絶命させる宇宙最強の猛毒を有していました。ヘーラクレースはヒュドラーの吐く毒気にやられないように口と鼻を布で覆いながら戦わねばならなかったのです。

※ Gustave Moreau(ギュスターヴ・モロー):フランスの象徴主義の画家です。パリに生まれパリで亡くなりました。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られます。印象派の画家たちとほぼ同時代に活動したモローは、聖書やギリシャ神話をおもな題材とし、想像と幻想の世界をもっぱら描きました。彼の作品は19世紀末のいわゆる『世紀末』の画家や文学者に多大な影響を与え、象徴主義の先駆者とされています。

 ヘラクレスは助っ人として、甥のIolāos(イオラーオス、双子の兄弟Īphiklēs〈イーピクレース〉の子)を連れて行きました。

 そしてAmȳmōnē(アミュモネ)の泉でヒュドラを発見します。まず火矢を放って、そこからヒュドラー追い出します。しかしヒュドラはヘーラクレースの片足にまきついてきます。 ヘーラクレースは棍棒で頭を勝ち割ったが、2つに分裂しただけでした。 またそこにはヘーラーが送り込んだ大カニも潜んでいて、思い切りヘラクレスの足をはさんでヒュドラを援助します。 しかしカニはヘーラクレースに踏み潰されて、あっけなく昇天してしまいました。その後かに座となったのだといいます。
 ヘーラクレースは始め、ヒュドラーの首を切っていきましたが、首を切っても切っても埒の明かないヒュドラ相手に、ヘーラクレースはイオラーオスの援護を求めました。 ヘーラクレースが切った首の切り口に、イオラーオスが松明で焼いて再生を不可能にしたのです。

lekythos(レキュトス)とは、油の貯蔵に使われた古代ギリシアの陶器の一種で、特にオリーブ油を貯蔵しました。

 こうして首を全て切り取り、残るは不死身の首1本になりました。ヘーラクレースは首の上に重い大岩を乗せて、永遠に動けないように押さえつけたのでした。 またヒュドラの体を裂いて、自分の矢じりにヒュドラの血を塗りたくりました。この後ヘーラクレースはヒュドラーの猛毒を矢に塗って使うようになったといいます。
 最後に残った不死の頭は岩の下に埋め、見事ヒュドラーを退治しました。そしてヒュドラーはうみへび座となったいいます。
 Eurystheus(エウリュステウス)は、従者から助けられたことを口実にして、功績を無効としたため、難業が1つ増えることになったのだといいます。

 本日より、ヘーラクレースの12の功業(難行)の1つずつについてみていくことにしましょう。


 


 Nemea(ネメアー、ペロポネソス半島北東部)の谷に住み着き、人や家畜を襲ったとされる獅子は、母はEchidna(エキドナ、上半身は美女で下半身は蛇で背中に翼が生えた姿をしている怪物。「蝮の女」がその名の意味です)、父はその子Orthros(オルトロス、テューポーンとエキドナの子で、姿は黒い双頭の犬で、鬣〈たてがみ〉一本一本と尻尾が蛇になっているといいます)とも、Tȳphōn(テューポーン、ギリシア神話に登場する神、あるいは怪物たちの王。体躯は宇宙に到達するほど巨大とされ、地球を焼き払い、天空を破壊し、灼熱の火炎と共に暴れ回って全宇宙を崩壊させた。その力は神々の王ゼウスに比肩するほどであるといいます)ともいわれています。


 皮は分厚く、さらにその皮膚の下に筋肉が変化して出来た甲羅があるといわれます。ヘーラクレースの12の難行のうち、最初の難行がネメアーの獅子を倒す事でありました。ヘーラクレースはネメアーの森にライオンを探しに行きましたが、皆ライオンに食べられてしまって、 ライオンのことを知る人に出会うことが出来ず、 ヘラクレスは20日以上もネメアの森をさ迷いました。ある日ヘラクレスはKleonai(クレオーナイ、Mykēnai〈ミュケーナイ〉の一地域)の日雇い人Molorchos(モロルコス)の客となりました。 彼は自分の子供をライオンに食べられた貧乏人でした。 モロルコスはヘラクレスを歓迎して1頭しかいないメスの羊を殺して接待しようとしたとき、 ヘラクレスはそれを止めてこう言いました。

※ Andrea Mantegna(アンドレア・マンテーニャ):イタリアルネサンス期の画家。ゴシック期、ルネサンス期のイタリアの絵画は、都市ごとに独自の発達をとげ、シエナ派、ヴェネツィア派などと都市の名を冠して分類されます。マンテーニャはパドヴァ派の代表格と見なされる画家です。

「30日の間にネメアのライオンを退治できたらこの羊はゼウスに捧げて下さい。 もし30日たって私が帰らなかったら、死者(ヘーロース)として私に供えて下さい。こうしてヘラクレスは旅立ち、ついにライオンを見つけたのです。
 ヘラクレスはライオンに向って矢を放ちましたが2本とも跳ね返ってしまい、 3本目を射ようとしたとき、ライオンは猛然と襲い掛かってきました。 ヘラクレスは棍棒で人食いライオンに殴り掛かかったのですが、 なんと棍棒は真っ二つに折れてしまいました。
 しかしライオンは堪らず2つ穴のある洞穴に逃げ込んだのです。 ヘラクレスは片方の穴を大岩で塞ぎ、もう一方の穴から入り 無双の腕力で3日3晩ライオンの首を絞めて窒息させました。

※ Francisco de Zurbarán(フランシスコ・デ・スルバラン):バロック期のスペインの画家。スペイン絵画の黄金時代と言われる17世紀前半に活動した画家であり、宗教画、静物画に優れていました。

 その後、ヘーラクレースによって、あらゆる武器を弾く毛皮は獅子の爪で引き裂かれて加工されて、ヘーラクレースは皮を頭からかぶり、鎧として用いたといいます。または獅子の肉はヘーラクレヘスによって食べられたといいます。
 モロルコスは30日経ってもヘラクレスが戻らないので、 ライオンに殺されてしまったと諦めて、 死んだヘラクレスに羊の捧げ物をする準備を始めておりました。 丁度そこにヘラクレスが帰ってきてライオンを退治したことをモロルコスに告げたので、 羊はゼウスに捧げられました。
 ライオンを退治してきたヘーラクレースを市民は歓喜の声で迎えました。 ヘーラクレースがライオンを退治してきたことを聞いたEurystheus(エウリュステウス)王は、 ヘラクレスの恐ろしい力を知り、殺されてはたまらないと、 鍛冶屋に命じて頑丈な青銅の壷を作りヘーラクレースがやってくるとその中に逃げ込み、 ヘラクレスを王宮に入れることを許さないで、 命令は使者を通じて言い渡すようになりました。

 その後、ネメアーの獅子の魂は、ゼウスによって星座の一つである『獅子座』になったと言われています。獅子が英雄のシンボルになったのもこのためだといわれいます。
 一説によると、ヘラクレスを憎むゼウスの妻Hērā(ヘーラー)は、よくぞヘラクレスを苦しめてくれたと、 このライオンを星座にしたという事です。

 人の子として地上に生まれたHēraklēs(ヘーラクレース)でしたが、その父は、最高神Zeus(ゼウス)です。Árgo(アルゴス)の王女であった彼の母は、夫に化けたゼウスに誘惑され、騙されて彼を身ごもったために、彼の肉体は半分は神となったのです。ゼウスが彼を人として誕生させたのは、来るべきGigantes(ギガンテス)との戦いに備えてのことでした。オリュンポス神族を滅ぼすためにガイアが遣わしたこの怪物は、「神には殺せぬ」身体をもっていたのです。実際、ヘーラクレースは成長後、これを撃退し、父の期待に応えています。


 が、「Hērē(ヘーラー)の栄光」を意味する彼の名が、自分を称えているにも関わらず、ゼウスの正妻ヘーラーは、夫の不貞の証である彼を憎んだのでした。


 


ヘーラクレースはThēbai(テーバイ)とOrchomenos(オルコメノス)王Erginos(エルギーノス)との戦争でエルギーノスを討ち取り、オルコメノスの軍勢を潰走させました。さらにテーバイはオルコメノス王Klymenos(クリュメノス)を殺した賠償として、20年間の貢物を課されていましたが、ヘーラクレースはオルコメノスにテーバイに対してその2倍の貢物を支払うことを認めさせたのです。これらの功績がKreon(クレオーン)に認められ、Megarā(メガラー)はヘーラクレースの妻として与えられたのです。


ヘーラーは、ヘーラクレースが最初の妻メガラーと幸福な家庭を築いたそのときを見計らって、彼を狂わせ、彼自身に妻子を惨殺させてしまいます。正気に戻った彼は、自らの行為におののき、絶望したといいます。
 メガラーについては異説が多く、メガラーとヘーラクレースの子供の数は2人、8人とも言われています。彼女の子供たちは気が狂ったヘーラクレースによって殺されますが、その死はヘーラクレースの12の難行以前とも、難行後であると言われ、特に前者の場合は12の難行および、ヘーラクレースがOichalia(オイカリアー)王Eurytos(エウリュトス)を滅ぼすきっかけとなっています。一方、後者の説ではメガラーも子供たちと一緒に殺されたことになっています。
 


 そんな彼に「12の功業」を遂げることで罪を贖うよう助言したのは、太陽神Apollōn(アポローン)でした。ヘーラクレースはそれに従い、9頭の水蛇Hydrā(ヒュドラ)、黄金の角を持つ大鹿、怪鳥Stymphālos(ステュンパーロス)、冥府の番犬Kerberos(ケルベロス)など、数々の怪物と戦い、功業を積んでゆきます。そして12年をかけて、彼はすべての功業を達成、晴れて自由の身となったのです。


 紀元前472年から456年にかけてOlympia(オリンピア)に建設されたZeus(ゼウス)神殿の装飾は、ペルシア戦争直後のギリシア彫刻を活気付ける新しい才気を反映していますが、これらmetope(メトープ、建築用語の浮彫石板)はCrete(クレタ)島の牡牛捕獲などのヘラクレスの12の功業を描いています。


 


 その後、2番目の妻Dianeira(デーイアネイラ)を娶り、束の間の平和を得たヘーラクレースでしたが、それも長くは続きませんでした。妻は彼の敵に騙されて、毒を塗った下着を彼に着せてしまうのでした。ヘーラクレースは自らを火葬に臥し、壮絶な死を遂げます。そのとき、彼の半神の部分が、ゼウスによって召し上げられ天上に引き上げられます。


 


天上で彼は、ついにへーラーと和解し、彼女の娘Hēbē(へべ)を3番目の妻として迎え、以後、正式に神となったといわれています。

 昨日は、浅草寺病院で定期健診の日でした。区の無料検診も受けましたし、インフルエンザワクチンも打ってきました。


 


 Hēraklēs(ヘーラクレース)はAmphitryōn(アムピトリュオーン)から戦車の扱いを、Autolykos(アウトリュコス)からレスリングを、Eurytos(エウリュトス)から弓術、Kastōr(カストール)から武器の扱いを、Linos(リノス)から竪琴の扱いを学びました。リノスはヘーラクレースの覚えの悪いのに業をにやして彼を打擲しますが、反対に大石で打ち殺されたともいわれています。また、Kentauros(ケンタウロス)族のCheirōn(ケイローン)に武術を師事して、剛勇無双となりました。Kithairon(キタイローン)山のライオンを退治し、以後ライオンの頭と皮を兜・鎧のように身につけて戦うようになります。


ヘーラクレースは義父アムピトリュオーンが属するThēbai(テーバイ)を助けてOrchomenos(オルコメノス)の軍と戦い、これを倒しました。テーバイはオルコメノス王Klymenos(クリュメノス)を殺した賠償として、20年間の貢物を課されていましたが、ヘーラクレースはオルコメノスにテーバイに対してその2倍の貢物を支払うことを認めさせたのです。これらの功績がKreon(クレオーン、テーバイ王妃イオカステーの実弟であり、後のテーバイ王。8月30日のブログ「Oidipūs(オイディプース)王」を参照)に認められ、クレオーン王は娘Megarā(メガラー)を妻としてヘーラクレースに与えました。二人の間には3人の子供が生まれます。


しかし、Hērā(ヘーラー)がヘーラクレースに狂気を吹き込み、ヘーラクレースは我が子とĪphiklēs(イーピクレース)の子を炎に投げ込んで殺してしまい、これを悲しんだメガラーも自殺してしまいます。正気に戻ったヘーラクレースは、罪を償うためにDelphoi(デルポイ)に赴き、Apollōn(アポローン)の神託を伺ったのです。神託は、「Mykēnai(ミュケーナイ)王Eurystheus(エウリュステウス)に仕え、10の勤めを果たせ」というものでした。


ヘーラクレースはこれに従い、本来なら自分がなっているはずのミュケーナイ王に仕えることになったのです。「ヘーラクレースの選択」といえば、敢えて苦難の道を歩んでいくことをいいます。


 


 Annibale Carracci(アンニーバレ・カラッチ、15601609年)の絵画に英雄ヘーラクレースが岩の上に座り、「美徳」と「悪徳」を擬人化した二人の立ち姿の女性の間で、どちらに従うべきか迷っている様子を描いているものがあります。


 左側の地味な服装をした女性は「美徳」の象徴で、足元には月桂冠の冠を戴き書物を持つす詩人の姿も描かれています。彼女が指し示す方向は、岩だらけの狭い道が続いていますが、これを頑張って登れば、名声を象徴する有翼のPēgasos(ペーガソス)が待っていると示しています。一方、右側の薄い衣を身にまとった女性は「悪徳」の象徴で、足元に置かれた仮面は「欺瞞、淫欲」、楽器は「地上的な快楽」の象徴として描かれています。彼女の示す道はなだらかで、その先は陽の当たる牧場に至り、池では裸の男女が遊び戯れています。


双方の言葉に耳を傾けた後、神の子ヘラクレスがどちらの女性の手を取ったかは言うまでもありません。


 


Annibale Carracci(アンニーバレ・カラッチ):バロック期のイタリアの画家です。イタリア美術における初期バロック様式を確立した画家の一人であり、イタリア北部のBologna(ボローニャ、イタリア共和国北部にある都市)を中心に活動したボローニャ派の代表的画家です。アンニーバレを中心とするカラッチ一族の門下からは多くの著名画家が育っており、後世への影響も大きいものがあります。

 一昨日、インターネットのウェブニュースで次のような記事を見つけました。


 


東京都・浅草で"夜の公園"をとり続ける写真家・山下晃伸氏の個展 ―― 東京都・浅草のGallery HATCHでは、写真家・山下晃伸氏の個展「山下晃伸展 -moving still life-」を開催している。会期は11月1日まで。開場時間は16:00~20:00(土・日・祝日は14:00~)。入場無料。


 


 同展は、限定したモチーフで夜光写真を撮り続ける写真家・山下晃伸氏の個展。夜の公園のオブジェを中心に撮り続けた作品「-moving still life-」が展示されている。


 また、10月31日 12:00~15:00には、同氏の世界で塗り絵を行う「夜光性静物に塗り絵しよう」と、同氏の作品から夜の公園のイメージを広げてスクラッチで絵を描く「夜の公園を描こう」といった、ふたつのワークショップが開催される。どちらも幼児から大人を対象とし、会場はHATCH EKIMISE(浅草駅直結の駅ビル エキミセ7階)。 ワークショップの参加費は500円。


 なお、山下晃伸氏は1984年東京生まれ。2013年東京工芸大学 大学院 芸術学研究科メディアアート専攻 博士後期課程 修了・博士号(芸術学)取得。日本写真学会会員・日本写真芸術学会会員。    [マイナビニュース 2015/10/27]


 


 Gallery HATCHの場所を調べてみますと、我が家より吉野通りを隔てたバス停「隅田公園」の所です。昨夕4時早速女房と一緒に訪ねてみました。こんな近くにgalleryがあるということも気が付かなかったほどの狭くて、一般商店の店構えの2階で開催されていました。狭くて急な階段を上り会場に入って、ニュースにあった写真を見ていると、丁度居合わせた撮影者の山下晃伸(やましたあきのぶ)氏が近づいて来て、丁寧に写真の説明をして下さいました。


 来年のカレンダー「moving still life~夜光性静物観察記~」を買い求めて帰宅しました。
 いやはや、デジカメに山下晃伸氏と撮った写真もこのブログに載せようと思ったのですが、いつものような操作を繰り返し行いましたが、旨くパソコンに移すことができません。残念。
 ここのところ、メールの送信ができなかったり、今回の写真の取り込み不能などパソコンのトラブルが多くて困ったことではあります。またまた、塾友にMN氏に助けをお願いしなくてはならないのでしょうか。


 Hēraklēs(ヘーラクレース)はZeus(ゼウス)とAlkmēnē(アルクメーネー、ペルセウスの孫に当たる)の子です。アルクメーネーを見初めたZeus(ゼウス)は、様々に言い寄ったが、アルクメーネーはAmphitryōn(アムピトリュオーン)との結婚の約束を守り、決してなびきませんでした。そこでゼウスはアムピトリュオーンが戦いに出かけて不在のおり、アムピトリュオーンの姿をとって遠征から帰ったように見せかけ、ようやく思いを遂げ、1夜を3倍にして楽しんだ。アルクメーネーは次の日に本当の夫を迎え、神の子ヘーラクレースと人の子Īphiklēs(イーピクレース)の双子の母となったのです。


アルクメーネーが産気づいたとき、Zeus(ゼウス)は「今日生まれる最初のPerseus(ペルセウス)の子孫が全Argos(アルゴス)の支配者となる」と宣言しました。それを知ったゼウスの妻Hērā(ヘーラー)は、出産を司る女神Eileithyia(エイレイテュイア)を遣わして双子の誕生を遅らせ、もう一人のペルセウスの子孫でまだ7カ月のEurystheus(エウリュステウス)を先に世に出しました。こうしてヘーラクレースは誕生以前からヘーラーの憎しみを買うことになったのです。


 ゼウスは、自分とアルクメネの子のヘラクレスを不死身にするために、女神ヘーラーの母乳をヘーラクレースに飲ませようとしていました。しかし、嫉妬深いヘーラーはヘーラクレースを憎んでいたため母乳を飲ませようとはしませんでした。一計を案じたゼウスはヘーラーに眠り薬を飲ませ、ヘーラーが眠っているあいだにヘーラクレースに母乳を飲ませました。ヘーラクレースが乳を吸う力が強く、痛みに目覚めたヘーラーは赤ん坊を突き放します。このとき飛び散った乳が天の川(galaxy〈ギャラクシー〉は「乳のサイクル」、Milky Wayは「乳の道」)になったといいます。



※ Peter Paul Rubens(ピーテル・パウル・ルーベンス):バロック期のフランドルの画家、外交官。祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残しました。



  これを恨んだヘーラーは密かに二匹の蛇を双子が寝ている揺り籠に放ちます。赤ん坊のイーピクレースは蛇を見て、逃げ出しますが、ヘーラクレースは素手でこれを絞め殺したといいます。




 ギリシア神話の英雄伝に話を戻します。暫くはギリシア神話に登場する最大にして最強のヘーラクレースの英雄譚が続くものとご承知下さい。


 


Hēraklēs(ヘーラクレース)はギリシア神話の半神半人の英雄であり、ギリシア神話に登場する多くの英雄たちの中でも最大最強の存在です。腕力だけで山脈や大陸を破壊したり、銀河が散りばめられた天空を持ち上げたりするなど、神々にも引けを取らぬ宇宙規模の怪力を誇りました。のちにÓlimpos(オリュンポス)の神々の一員になったとされます。Perseus(ペルセウス)の子孫であり、Mykēnai(ミュケーナイ)王家の血を引くといいます。幼名をアルケイデース(Alkeidēs)といい、祖父の名のままAlkaios(アルカイオス)とも呼ばれてもいます。


 


後述する12の功業を行う際、Tiryns(ティーリュンス、ペロポネソス半島あるミケーネ文明の遺跡)に居住するようになった彼をDelpho(デルポイ)の巫女が 「Hērā(ヘーラーの栄光)」を意味するヘーラクレースと呼んでからそのように名乗るようになりました。Cynosarges(キュノサルゲス)等、古代ギリシア各地で神として祀られ、古代ローマに於いても盛んに信仰されました。その象徴は弓矢、棍棒、獅子の毛皮であります。


 


Cynosarges(キュノサルゲス):アテーナイの城壁の外に隣接し、Ilios(イリッソス)川の南の丘にあった公共のgymnasion(ギュムナシオン、体育場)です。名称は cynos(キュノス) と argos(アルゴス) に由来し、「白い犬」または「すばしこい犬」を意味します。伝説によれば、Athēnai(アテナイ)のDidymos(ディディモス) がたくさんの生贄を捧げていたとき、白い(またはすばしこい)犬が現れて捧げ物を盗んで逃げた。ディディモスが驚いていると神託があり、その犬が捧げ物を落とした場所にヘーラクレースの神殿を建てよ、と告げたといいます。


Hēródotos(ヘロドトス、BC484425年、古代ギリシアの歴史家で、今日まとまった形で伝承された最初の歴史書『歴史』により「歴史の父」とも呼ばれます)によれば、紀元前490年ごろにはそこに神殿があり、それがヘーラクレースの有名な聖地となり、その母Alkmēnē(アルクメーネー)、妻Hebe(ヘーベー)、ヘーラクレースを助けたIolāos(イオラーオス)も祀られていたといいます。そこにギュムナシオンが建設されたのでしょう。


 


Jean-Jacques-François Le Barbier(ジャン=ジャック・フランソワ・ル・バルビエ):フランスの歴史作家であり、イラストレーター、画家でもありました。彼の最も有名な作品は、人間と市民の権利を表現した人権宣言であり、彼は芸術家の父と言われました。


 


キュノサルゲスは主に私生児 nothoi(ノトイ) のためのギュムナシオンとされたといいます。また、キュノサルゲスはCynicos(キュニコス)派(Socrates〈ソクラテス、BC469年頃 - 紀元前399年〉 の弟子であるAntisthenes〈アンティステネス、BC444365年〉を祖とするHellenism〈ヘレニズム〉期の古代ギリシアの哲学の一派)のアンティステネスが講義をした場所と言われており、キュニコス派という名称の由来の1つとされています。


ローマ神話でのラテン語名は Hercules (ヘルクーレス)で、星座名のヘルクレス座はここから来ています。英語名はギリシア神話ではHeracles(ヘラクリーズ)、ローマ神話ではラテン語名と同形ですが 「ハーキュリーズ」 というように発音されます。

 昨夜、エウリピデスの『メディア』〈中村善也訳〉を読み上げました。


 『メディア』はギリシア神話に登場するコルキス王女メディア(メーデイア)の晩年におこったとされるコリントスでの逸話、すなわち夫イアソン(イアーソーン)の不貞に怒り、復讐を果たして去っていく話を劇化したものです(108日のブログ「イアーソンの末路」を参照)。


 あらすじ:


 コルキスの王女メディアは夫イアーソーンと共に互いの故郷を捨てコリントスで暮らしていました。だが、コリントス王クレオンが自分の娘婿にイアーソーンを望み、権力と財産に惹かれたイアーソーンは妻と子どもたちを捨て、この縁組みを承諾します。


怒りと悲しみに暮れるメディアの元に、クレオンから国外追放の命令が出ます。一日の猶予をもらったメディアはイアーソーンとクレオン父娘への復讐を決意します。


アテナイ王アイゲウスを口説き落として追放後の擁護を約束させたメディアは、猛毒を仕込んだ贈り物をクレオンの娘の元に届けさせ、王と王女を殺害します。更には苦悩と逡巡の果てに、自身の幼い息子二人をも手にかけるのです。すべてを失って嘆き悲しむイアーソーンを尻目に、メディアは息子たちの死体を抱き、竜車に乗って去っていくのであります。

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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