瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ウェブニュースより
 
金田正一さん死去 86歳 プロ野球400勝左腕 ――プロ野球国鉄(現ヤクルト)と巨人で活躍し、前人未到の400勝投手として知られる金田正一(かねだまさいち)さんが六日、急性胆管炎による敗血症のため東京都内の病院で死去した。八十六歳。愛知県出身。通夜・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は長男賢一(けんいち)氏。後日「お別れの会」を行う予定。
 
 
愛知・享栄商高(現享栄高)から一九五〇年に国鉄に入団。左腕からの快速球と落差の大きいカーブを武器に入団2年目から3年連続で最多奪三振のタイトルを獲得した。五八年の巨人との開幕戦(後楽園)で当時、鳴り物入りの新人として注目された長嶋茂雄氏から4打席連続三振を奪い、話題をさらった。
 
六五年にはフリーエージェント制度の前身に当たるB級10年選手制度を行使して巨人へ移籍。ライバルとしてしのぎを削った長嶋氏とチームメートになり、同年から始まったリーグ九連覇の礎を築いた。六九年には球界史上初となる通算400勝を達成。同年限りで現役を引退した。
 
 
七三年からロッテの監督に就任。七四年にはリーグ優勝を飾り、日本シリーズでは巨人のセ・リーグ「V10」を阻んだ中日に勝って日本一に導いた。七八年に監督を退いたが、九〇年に復帰し、2年間務めた。
 
八八年に野球殿堂入り。シーズン20勝以上14度、14年連続20勝以上は現在もプロ野球記録。現役時代の通算成績は、400298敗、防御率2.34。最多勝3度、最多奪三振10度、最優秀防御率3度。年間を通じて活躍した先発完投型の投手に贈られる栄誉「沢村賞」にも3度輝いた。
 
ロッテの監督としての通算成績は47146872分け。
◆直球かすりもせず
 
<張本勲さん(元プロ野球東映、巨人、ロッテ外野手)の話> カネさんと最後に会ったのは今年の6月。その時はお元気で、その後、具合を悪くして入退院を繰り返しているというような話を聞いていた。初めて対戦したのは私が20歳のとき、川崎球場のオールスター戦だった。初球の真っすぐを空振りしたら、マウンドを下りてきて「ハリ、もう1球同じ球いくで」と予告。イチ、ニ、サンで振りにいったけど、バットにかすりもしなかった。3球目は2階から落ちてくるようなカーブだった。私の中では世界一の大投手。いつかあの世で対戦して、あの真っすぐを打ちたい。   (東京新聞 2019107日 朝刊)

 
貴ノ富士謹慎も部屋に戻らず 親方の電話にも出ない ――日本相撲協会は7日、先月926日の理事会で、付け人の序二段力士に対し暴行を振り、差別的発言を繰り返したため自主的な引退を促す決議をした西十両5枚目の貴ノ富士(22=千賀ノ浦)に関する、これまでの経過を公表した。
 
 
それによると、理事会翌日に都内の文部科学省で記者会見を開き、理事会決議を受け入れられず現役続行の意思を示した貴ノ富士側は、代理人弁護士と連絡を取り合うよう同協会側に要望があったという。その上で双方が日程をすり合わせ、10月3日に弁護士同席で貴ノ富士の意思確認の面談を行うことが決まった。
 
その面談に先立ち、弁護士側から同協会に対し、再発防止策について現状の考え方を回答するよう要望があった。面談予定前日の2日に協会側は要望書に答える形で、再発防止策などについて文書で回答。だが、面談予定の3日午後3時半の約1時間半前に、弁護士側からファクシミリで「要望書に対する回答になっていない」と断りの連絡が入り、面談は実現しなかった。
 
ただ弁護士側は、貴ノ富士の意向については、1011日までに文書で回答する旨の連絡があったという。同協会側は「現在は11日までに送られてくるという文書を待っている状況」と静観の構えでいる。
 
またこの日、同協会広報部が発表した報告では、先月26日の理事会でのやりとり、その後の経過についても説明している。理事会では自主引退を促す決議を、八角理事長(元横綱北勝海)が念押しするように「自主的に引退することを受け入れるか、師匠にも相談して、しっかりと考えてください。その間は、師匠の支持で部屋での謹慎を続けてください」と確認。貴ノ富士は「はい」と答えたものの、27日以降、千賀ノ浦部屋に戻っておらず、30日以降は師匠からの電話にも出ない状況が続いているという。これについて芝田山広報部長(元横綱大乃国)は「組織の一員として社会通念上、決まり事は守らなければならない」と述べた。
 
また貴ノ富士の意思を確認する目的で「30日午後2時に師匠と貴ノ富士がそろって協会へ来るように」と千賀ノ浦親方に前日の29日伝えた。だが貴ノ富士は同親方に携帯電話のショートメールで「弁護士が対応するから自分は行かない」旨の通知をしたため、その面談も実現には至らなかったという。担当する2人の弁護士から代理人受任通知などの文書が同協会へファクシミリで送られてきたのは、930日だったという。   [日刊スポーツ 20191072350]

 
藤井聡太七段「足りないところ出た」豊島名人に黒星 ――将棋の最年少プロ、藤井聡太七段(17)が7日、大阪市の関西将棋会館で指された第69期大阪王将杯王将戦挑戦者決定リーグ2回戦で豊島将之名人(29)に敗れて初黒星を喫し、対戦成績は11敗となった。

 
これで公式戦は豊島に4連敗。藤井は「自分の足りないところが出てしまった結果です。これからそういうところを改善していきたい」と振り返った。
 
将棋界の頂点に立つ名人を相手に、中盤までは互角に渡り合った。一進一退の攻防は、最終盤で豊島が抜け出した。終盤、藤井が一時、優勢との声もあったが「終盤は分からなかったです」と声のトーンを落とした。豊島はリーグ対戦成績21敗となった。
 
7人総当たりで行われる今期のリーグは、豊島の他に久保利明九段(44)、広瀬章人竜王(32)、羽生善治九段(49)、三浦弘行九段(45)、糸谷哲郎八段(31)とトップ棋士がひしめく。藤井以外の6人はいずれもタイトル獲得経験者だ。渡辺明王将(棋王・棋聖=35)への挑戦権獲得に向け、負けられない戦いが続く。同リーグの次戦は18日、藤井は糸谷と対戦する。「次戦も全力を尽くしたい」と意気込んだ。   [日刊スポーツ 20191072143]


 

其六 無縫塔(むはうとう)
 
 
蒲原郡河内谷(かはちだに)陽谷寺(やうこくじ)門外、溪流數十尋(すじうじん)の渕(ふち)囘(めぐ)りて、百歩ばかりの間(あいだ)、岸、平かに、亂石(らんせき)、磊落(らいらく)たり。此寺、住僧入寂三年の前、必、此渕より墓所の印(しるし)となせる石一ツ、岸の上に上ぐることなり。其石、常躰(つねてい)の石に異なるにもあらねど、自然にして來徃(らいわう)の人、誰(たれ)云ふとなく、「是こそ無縫塔なり」と。衆目の指す所、皆、一(いつ)なり。其奇怪、如何なることとも量りがたし。一トたび、衆人の名付(なづく)るより、其石、幾度(いくたび)、渕に抛入(なげいる)れども、一夜(いちや)にして、また、もとの所に上げ置く、となり。先年、住職の和尚、其石を渕に投入(なげいれ)て曰、「我、大願あり。いまだ死すべからず」とて、其場より、寺を出(いで)て、再び歸らざりしに、命(いのち)恙(つゝが)なく、長壽なりし、と云へり。其奇、甚(はなはだ)し。予此所に到りて、寺の墳墓を見るに、已に其石、十四、五、並(なら)べり。余(よ)は常の無縫塔、人作(じんさく)なり。信州四部(しぶ)の温泉寺(をんせんじ)、此奇と相同じと云へ[やぶちゃん注:ママ。]傳ふ。予いまだ其地に至らず。知る人に詳しく聞得(きゝえ)しに、水底(すいてい)より無縫塔の形を ★ 作りなして上ぐると云へり。甚(はなは)タ、訝(いぶか)し。追(おつ)て考ふべし。只し、此一奇は怪と云ふべきのみ。
※ ★ の所には下記の画像が入ります。
 
注釈
 
「蒲原郡河内谷(かはちだに)陽谷寺(やうこくじ)」現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある曹洞宗雲栄山永谷寺(ようこくじ)の誤りである。
 
ブログ「新潟県北部の史跡巡り」の「おぼと石/五泉市」で、この寺を本話の舞台としておられ、その淵から揚がる石を「おぼと石」と呼ぶとある。本歩柑子は大高興氏なる方の「北越奇談」の現代語訳から引用をされており、その冒頭は『中蒲原郡河内谷、陽(永)谷寺門外の渓流数』十『尋(ひろ)』(七十メートルほど)『のふちを回って、百歩ばかりの間は平になっていて、岩石がうず高く積っております』。『この寺の住僧が死ぬ』三『年前までは、必ず毎年ふちから墓印のついた石が一つずつ岸に上がります』(以下略)とあるから間違いない)。そこに画像で示された現地の説明板「オボト石」によれば、雷城(いかずちじょう:新潟県五泉市雷山(いかづちやま)に築かれた中世の山城。築城時期・築城主ともに不明。戦国時代には越後と会津蘆名氏との領界の城として重視され、天正一七(一五八九)年に蘆名氏が伊達氏に滅ぼされると同時に廃城となっている)落城の際、城主の一人娘菊姫が東光院淵に身を投じたが、永谷寺の大潮和尚の功徳によって成仏し、淵の龍神と化したという(「成仏」して「龍神」というのは私にはやや解せぬ)。それに感謝し(感謝して死を告げるというのも私には解せぬ)、歴代の住職が亡くなる七日前になると、淵から墓石となる丸い石を届けるようになったという。村人達はこの石を「オボト石」と呼び、毎年、般若会には見知らぬ女性が法会の席に座っており、これは菊姫の化身がお参りに来ると伝えられているとある(「越後村松 桜藩塾」という署名が最後にある)。「おぼといし」は「むほうとう」と発音が似ている。
 
 
「數(す)十尋(じん)」水深としての一尋(ひろ)ならば六尺で約一・八メートルであるが、これでは深過ぎる。淵の周囲の距離としておこう。百八メートル前後か。永谷寺の西方山下には早出川というが川が流れてはいる。
 
「磊落」原義使用で、石が多く積み重なっているさま。
 
「已に其石、十四、五、並(なら)べり。余(よ)は常の無縫塔、人作(じんさく)なり」ということは、人が彫った無縫塔以外に、そうでない自然石に見えるものが、十四、五も卵塔場(この場合は住職その他のその「陽谷寺」関連の僧侶の墓所という狭義の意で用いた。一般に寺僧の墓は墓所の中でも一定区画に纏められてある)に存在したと崑崙は言っているのである。しかし、この寺の創建が古いものであったとすれば、古えの僧の無縫塔が風化して自然石のように見えたとも解釈可能ではある。粗悪な砂岩などを用いれば、風雨にさらされれば短期で崩落してしまうからである。
 
「信州四部(しぶ)の温泉寺(おんせんじ)」現在の長野県下高井郡山ノ内町(まち)にある渋温泉の横湯山温泉寺。嘉元三(一三〇五)年、京の臨済宗東福寺の虎関師練国師が草庵を建てて温泉の効能を教え、弘治二(一五五六)年に佐久曹洞宗貞祥寺から節香徳忠禅師を招いて開山、武田信玄が永禄七(一五六四)年に伽藍を寄進し、寺の紋を武田菱とした。川中島の戦いの折りには武田方の湯治場となっていた。


 

其五 胴鳴(ほらなり)
 
 
胴鳴りは秋晴(しうせい)の日、風雨ならんとする時、必、是を聽く。例へば、雲中(うんちう)より雷(らい)の轟き落(おつ)るごとく、雪の高山(かうざん)より雪崩れ落(おつ)るがごとき聲ありて、何處(いづ)くとも定めがたし。頸城郡には黑姫嶽(くろひめだけ)と云へ、蒲原古志の邊(ほとり)には蘇門山(そもんざん)淡ケ嶽(あはがたけ)とも云ふ。又、岩船郡(いはふねごほり)には村上(むらかみ)外道山とも云へり。其響(ひゞき)、更に遠近(えんきん)なし。俗の諺に、昔、奧州阿部の族徒、黑鳥兵衞(くろとりひやうゑ)と云へる者あり。八幡太郎義家のために討(うた)れ、其頭(かしら)と胴(どう)と兩斷して埋(うづ)む、と【今、蒲原郡鎧潟の辺、黑鳥村八幡の神社あり。其下、時々震動して、此音をなす。】然(しか)るに、其胴、其頭と合(がつ)せんことを欲して此鳴動をなせりと云へ傳ふ。一笑すべし。今は、此奇、稀に聞(きく)ことなり。只し、黑鳥の村、二、三里の間(あいだ)は、今、猶、此動鳴(どうめい)ありて、其方角、紛ふべくも在ず、黑鳥八幡の社地なり、と云へり。又、黑鳥村の人は、前々(ぜんぜん)より、更に此鳴動を聞こと、なし。他(た)に出るときは、即(すなはち)、聞(きく)。是、又、一奇なり。予近頃、丙寅(へいゐん)の秋、米山(よねやま)より西北の海邊(かいへん)にて聞(きゝ)しは、山の鳴るにあらず、海潮の響、地に接して、此動鳴をなすなるべし。是を以(もつて)按ずるに、頸城郡の海は能登の北涯(ほくがい)を外(はづ)れ、佐州の南浦(みなみうら)を離(はな)れて、大洋數(す)千里の海潮、玆(こゝ)に、的(てき)する所なれば、此響(ひゞき)をなす、と覺ゆ。是、即、數(す)千里の外(ほか)、風雨氣(き)ざし起こる時は、其氣、海上を走りて、地に徹接(てつせつ)する所、即、其氣、地を押し、山谷(さんこく)に徹して、鳴動す。凡(およそ)、氣を以つて氣を製するとは、此理(り)にして、方(まさ)に風(かぜ)ならんとする時は、窓戸(そうこ)先(まづ)ツ鳴り、雨ならんとする時は、煤(すゝ)、自然に落(おつ)。頭(かしら)痒く、氣鬱(きうつ)し、魚(うを)、躍(おど)り、猫兒(びようじ)獨り、狂ふ。是、自然にして、其氣、先(まづ)ツ押至(おしいた)るものなり。されば、晴天、波(なみ)風、靜かなる折にも、浦々(うらうら)、胴鳴(どうめい)する時は、必、風雨あり。胴鳴(どうめい)と云へるは、胴(どう)に響(ひゞき)て鳴るゆへに名付(なづけ)しならん。此義を以つて擦(さつ)すれば、越後にのみ限るいはれ、なし。他邦、いまだ穿鑿の至らざる所か。只し、地勢によるか、黑鳥の一奇か。
注釈
 
崑崙も疑義を挟んでいるように(崑崙は最終的に「海鳴」と同じ現象と断じ、それが陸の山地地形によって増幅されたものと考えているようである)、「海鳴」との差異が明確でない。
 
「頸城郡には黑姫嶽(くろひめだけ)」新潟県糸魚川市にある黒姫山(くろひめやま)。標高千二百二十一メートル。
 
「蒲原古志の邊(ほとり)には蘇門山(そもんざん)淡ケ嶽(あはがたけ)」先の河内の記載から、守門岳(すもんだけ:新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る標高千五百三十七・二メートルの山)と粟ケ岳(あわがたけ:新潟県加茂市と三条市の境で新潟県のほぼ中央にある標高千二百九十三メートルの山)と判明。
 
「岩船郡(いはふねごほり)には村上(むらかみ)外道山」原典では「外道山」のルビが黒く抜け落ちている。やはり、先の河内氏の記載から新潟県村上市山辺里(さべり)にある下渡山(げどやま)と判明。標高二百三十七・八メートル。なお、以上の山の位置も河内氏のページの地図に総て示されてある。
 
 
「奧州阿部」安倍貞任(さだとう 寛仁三(一〇一九)年~康平五(一〇六二)年)及びその弟宗任(むねとう 長元五(一〇三二)年~嘉承三(一一〇八)年:鳥海柵の主として「鳥海三郎」とも称された)の一族。兄貞任は前九年の役で源頼義・義家父子と戦って敗死し、弟宗任は降服、義家によって都へ連行され、四国の伊予国に配流、治暦三(一〇六七)年には筑前国宗像郡筑前大島に再配流させられた。
 
「黑鳥兵衞(くろとりひやうゑ)」『越後国の伝説上の人物』とする。『伝説によれば、平安時代の後期、安倍貞任の残党であった黒鳥兵衛は越後国へ入ると』、『悪逆非道の限りを尽くし、朝廷の討伐軍をも打ち破った』。『困り果てた朝廷は、佐渡国へ配流となっていた源義綱』(?~長承三(一一三四)年?:頼義の子で義家の同母弟。後三年の役には下向せず、以後義家に代わって朝廷に重用された。天仁二(一一〇九)年に実子義明が源義忠暗殺の嫌疑で殺害されたのに怒り、出京したが、追捕され、佐渡に配流となった。歴史的には帰京後に自殺したとされている)『を赦免し(あるいは源義家とも言う)黒鳥兵衛の討伐に当たらせた』。『黒鳥兵衛は妖術を使って抵抗するが、次第に追い詰められ、現在の新潟市南区味方の陣に立てこもった。当時、このあたり一帯は泥沼で、容易に歩ける場所ではなく、攻めるに難しい陣であった』。『攻めあぐねていた源義綱は、ある日、一つがいの鶴が木の枝をくわえて来ると、それを足に掴んで沼の上を歩くのを見た。「これこそ神の御加護」と、かんじき(竹などで作った輪状又はすのこ状の歩行補助具で、足に着け、雪上や湿地などで足が潜らないようにする。)を作り、兵に履かせて一気に攻め込んだ。不意を突かれた黒鳥兵衛は、ついに討ち取られ、首をはねられた』。「かんじき」発明の始祖とされ、『かんじきの緒を立てた場所が現在の新潟市西区黒鳥緒立』とされた。以下の地名もこの周辺に集まっている。『黒鳥兵衛の斬られた首の落ちた所が現在の新潟市西区黒鳥である』と伝え、『これが、黒埼という地名の起源となった』という。『黒鳥兵衛の首は塩漬けにされ、埋めた場所に首塚が造られ』、『この地に鎮護のために建てた祠が緒立の八幡神社である』とされる。
 
 
『塩漬けの首により、塩分を含んだ水が地中から湧き出している』とされ、これが現在の緒立温泉(鉱泉)であるという。ここに本記載の内容が出、時折、『空に轟音が轟くことがあるという。人々は、首を切られた黒鳥兵衛の胴が首を求めて咆哮すると言い、「胴鳴り」と呼んで恐れた』とある。『このように、黒鳥兵衛の伝説は越後国一帯を舞台とする壮大な軍記物で、伝説ゆかりの地は、新潟市黒埼地区を初め、新潟県北部に広く分布する。緒立からは緒立遺跡や的場遺跡といった古い住居跡が見つかっているが、黒鳥兵衛伝説は史実に基づくものではなく、後世の創作と見られている』とある。
 
「蒲原郡鎧潟」現在の新潟市西蒲区鎧潟にあったかつてあった面積約九平方キロメートルの潟。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に長岡藩によって干拓が始められ、明治末期までに半分が耕地となった。但し、ここは先の黒鳥地区からは南南西に十一キロも離れていから、「黑鳥村八幡の神社あり」というのはちょっと解せない。現在、新潟市県新潟市西蒲区巻甲(鎧潟の南西近く)に八幡宮(といっても、ただの小さな石の祠。)はあるにはあるが、新しい(刻印は昭和五(一九三〇)年七月という)。これは潟の完全干拓後に移されたものと考えてよいように思われるが、にしても黒島と鎧潟の距離は如何ともしがたい。
 
「丙寅(へいゐん)」文化三年丙寅(ひのえとら)はグレゴリオ暦一八〇六年。
 
「米山(よねやま)」既出既注。
 
「佐州の南浦(みなみうら)」前に「能登」半島を指してあるから、佐渡島の小佐渡の本土側を広域に指していよう。
 
「的(てき)する」目指す。対馬海流の中の本土側の流れは能登を舐めて富山湾沖を回って佐渡海峡を北上する。
 
「徹接(てつせつ)する」野島出版脚注に『つきさゝる』とある。
 
「此理(り)にして」「此」は強調の「これ」であろう。
 
「風(かぜ)ならん」後の「雨ならん」とともに、プレの状態(風が吹かんとしている直前、雨が降ろうとしている直前)を指している。
 
「先(まづ)ツ」以前にもあったが、これは以降にもまま見られるから、これは例えばこの場合、「まづ」の積りで「先ツ」と本文を刻印したにも拘わらず、ルビだけを集中して後から彫った結果、ダブった、結果的に衍字となってしまったものであろうは推測する。以後に出ても注記はしない。
 
「頭(かしら)痒く」原典・野島出版版ともに「痒く」は「かゆく」と平仮名。推定して漢字化した。
 
「猫兒(びようじ)」子猫。ここまでは、大気圧や気温・湿度の変化を、人の器官や心理及び動物が事前に察知(予兆)すること(それを崑崙は「其氣、先(まづ)ツ押至(おしいた)る」と言っているのである)を示している。
 
「胴鳴(どうめい)と云へるは、胴(どう)に響(ひゞき)て鳴るゆへに名付(なづけ)しならん」崑崙先生に諸手を挙げて賛同する。黒島の胴体が鳴るというのは洒落にもならない、あまりに牽強付会の駄解釈である。


 

其四 海鳴(うみなり)
 
 
晴天と雖も、雨ならんとする時、已ニ海潮の響(ひゞき)、五、六里に聞へ渡りて、南にあり。風雨の日も晴んとする時は、北に聞ゆ。是を以つて、國人(くにうど)、陰晴(いんせい)を占ふ。今、九州灘ニ是と類(るい)する所ありと云へり。然(しか)れども、予が國、此(この)奇、先達(さきだつ)て有(ある)により、今、好事の者、九州灘の中に聞出せりと覺ゆ。予是を按ずるに、數十里の海潮、大山(たいさん)の插(さしはさ)むところ、必ず、汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし。然(しか)れども、陰晴(ゐんせい)に、其氣、自然と南北すること、北越の海に限る、と云へり。故に以(もつて)、奇となすか。唯、享徳年間の舊記に此奇を擧げたるを見る。
注釈
 
激しい上昇気流や逆転層などの海域の大気上の変化によって、通常は聴こえない遠くの岩礁や暗礁或いは岩礁性海岸にぶつかる波濤の音が、ごく近くで聴こえる現象のように思われる。
 
 
遠雷の可能性を挙げる方もおられようが、崑崙は「海鳴」「海潮」「汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし」等、完全に海の波の砕ける音として述べており、「雷の音」と思われるような記載は一切していないことから、それは排除されると思う。また、天候が悪化するのは上昇気流につきものである。高山の山頂で下界の市街の音がびっくりするほどすぐそこのように聴こえるのを何度か経験することあるが、概ね、その後に雨雪となる。
 
「九州灘」玄界灘のことか。後の「汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし」辺りからは周防灘とも思われなくもない。
 
「享徳」一四五二年から一四五四年。足利義政の治世。
 
「舊記」不詳。 


ウェブニュースより
 
姫野!姫野!に地元でW杯初トライ「愛されている」 ――<ラグビーワールドカップ(W杯):日本3819サモア>◇1次リーグA組◇5日◇愛知・豊田スタジアム
 
日本代表NO8姫野和樹(25=トヨタ自動車)が、地元愛知で成長を刻み込んだ。ボール争奪戦で相手の反則を誘発して得点を演出し、後半13分にはW杯初トライを記録。会場は「姫野コール」に包まれ、若き成長株が故郷に錦を飾った。

        
◇    ◇    ◇
 
歓喜の輪の中心で姫野が笑った。1912の後半14分。ラインアウトからモールを押し込み、FWの奮闘をW杯初トライで形に残した。「姫野! 姫野!」と沸く大歓声に包まれ「地元から愛されているんだ」と自分だけの感情に浸った。
 
特別な一戦だった。「慣れ親しんだ場所。多くの地元ファンが見てくれる安心感があった」。名古屋市で生まれ、中学で始めたラグビーに「相手をはじき飛ばしたり、タックルであおむけにする。この体を最大限生かせることがうれしかった」とのめり込んだ。3年で身長は185センチ。地元の春日丘(現中部大春日丘)高ではFWながらキックも容認され、自由に育った。
 
転機は高2だった。宮地真監督(54)との進路相談で、家庭の事情を考慮し「地元に残りたい」と訴えた。だが、日本代表入りを確信していた恩師は認めなかった。「それは違う。能力があるんだから伸ばせ。後から親孝行すればいい」。腹をくくり、進んだ強豪帝京大。日本人離れした才能に知識が加わり、トヨタ自動車入りで地元に戻った。
 
4年前と世界観は変わっていた。社会人1年目から所属先で主将を務め、代表でもリーダー陣に名を連ねた。同じFW第3列のリーチを「超えなきゃいけない人。ライバルなんですけれど、僕が一番好きな人間であり、一番尊敬している選手。彼を超えられたら確実に成長できる」とあえて意識してきた。練習中、隣で走れば1秒でも先着することを意識した。フィジカルが強いサモアに対しても「負けない自信があります。そこは仕事」と意気込んだ通り、体をぶつけ続けた。
 
大一番のスコットランド戦へ、その誓いは力強くなる一方だ。「必ず勝ちます。全勝で良い流れを保って、決勝トーナメントに行きたい」。今の姫野は、立ち止まらない。
◆姫野和樹(ひめの・かずき)1994年(平6)7月27日、名古屋市生まれ。愛知・春日丘高1、2年時に花園出場。帝京大で大学選手権8連覇などに貢献。17年にトヨタ自動車に加入し、1年目から主将。同11月のオーストラリア戦で日本代表デビュー。ポジションはロック、フランカー、NO8。趣味は温泉。187センチ、108キロ。   [日刊スポーツ 201910604]


 

其三 白兎(しろうさぎ)
 
 白兎の
諸州共に是ありと雖も、他邦の白兎は、即(すなはち)、其質(しつ)にして、生(むま)るゝより、白く、冬・夏ともに相同じ灰色なるは、その常なりと。越國(ゑつこく)に産する所は、春の末より秋の終りまでは盡(ことごと)く灰毛(はいげ)にして、白は絶(たへ)て、なし。冬は、即、淸白(せいはく)に雪の凝(こ)れるがごとし。春・秋も尚、斑(まだら)なるものだに見ず。去(さんぬ)ル安永年中、古志郡(こしごほり)の内(うち)より、黑頭(くろかしら)の白兎を出(いだ)せしことあり。近世に至ては、奧羽、又、信州・加賀・越中・佐州などにも、白兎、予が國のごとしと云へり。然(しか)れども、「年代實記」に、『寶龜五甲寅從二越國一獻白兎』とあり。此國、他邦に先立(さきだ)ちて、奇と稱すること、如此(かくのごとし)。凡(およそ)三奇、今、猶、諸州に同類出ると雖も、證書(しようしよ)、明(あきらか)なるを以(もつて)、他邦の産は盡(ことごと)く越國(ゑつこく)の余流と云ふべし。
注釈
 
冬季に雪深い越後なれば、そこに棲息する野兎(哺乳綱ウサギ目ウサギ科ノウサギ属ニホンノウサギ Lepus brachyurus)の体得した保護色に過ぎないと思われる。
 
 
「安永」一七七二年~一七八一年。
 
「古志郡」旧越後国の同郡は現在の長岡市の一部・小千谷市の一部・見附市の一部に当たる。 「佐州」は佐渡国。
 
「年代實記」不詳。野島出版脚注にも『この名の本は明らかでない』とある。幾つかの文字列の組み合わせで試してみたが、ネット上でも掛かってこない。
 
「寶龜五甲寅從二越國一獻白兎」「寶龜五甲寅(きのえとら)、越國より白兎(はくと)を獻ず」。


 

其二 燃水(もゆるみづ)
 
 
草生津(くさふづ)の油(あぶら)、即(すなはち)、臭水(くさみづ)の油なり。頸城郡(くびきごほり)、凡(およそ)六ケ所。然れども、その大なるものは、蒲原郡草生津村、同新津(にいつ)村、同柄目木(からめき)村、同黑川館村(くろかはたてむら)等(とう)なり。出雲崎の上蛇崩(かみじやくづれ)と云ふ所、海中に出(いづ)ツ。如此(かくのごとく)、所々(しよしよ)、水中(すいちう)より、油、混じはりて、沸出(わきいづ)るを、草(くさ)にしみ付(つけ)、採ること也。然(しか)れども、如何なる油なることを知らず。水の臭きが故に「くさ水の油(あぶら)」と稱す。張華が「博物志」ニ『石泉脂石漆(せきせんしせきしつ)』、李時珍が「本艸(ほんさう)」に『石腦油(せきのうゆ)』又『石油(せきゆ)』『山(さん)油』、「酉陽雜記(ゆうようざつき)」ニ『石脂水』と云へる、皆、此類(たぐひ)か。今、此邦(くに)の醫(ゐ)、是を「石腦油」に當(あて)、用(もちゆ)るに、甚だ効ありと云へり。予是を按ずるに、これも又、焚土(えんど)のごとく、數(す)千年前(ぜん)、松柏(しようはく)の古木大材(こぼくたいざい)、土中に落入(おちいり)たる、松脂(まつやに)の腐水(ふすい)と覺ゆ。其故は、甚(はなはだ)、油煙(ゆえん)多く、松の匂ひあり【或人云、「松脂は茯苓となり、琥珀となる、何ぞ油となるの理あらん、是は只、土中の油なるべし」と。然らず。松脂、其樹より自然に滴り落(おち)、土中に凝塊するもの、化して茯苓・琥珀ともなるべし。これは土中に含みたる松脂にして、水土の底に腐爛せるものなればなり。只、「土中自然の油(あぶら)」と云はんも暗愚の説と云ふべし。】。殊に、上古、北越は、如何なる山谷水土の変ありにしや、所々(しよしよ)、水底(すいてい)・沼田の下(した)、多く埋木(まいぼく)の大なるものを出(いだ)すこと、はかりがたし。近頃、圓淨湖水(えんじようこすい)の底、樋(ひ)、掘り拔きの所、數(す)丈の土中より、立木(たちき)のまゝなる埋木(まいぼく)數(す)十を出すと云へり。何(いづ)れ、其奇、可察(さつすべし)。此二奇(にき)、即(すなはち)、『可代二薪油一(しんにかゆべき)』ものなり。
注釈
 
「蒲原郡草生津村」旧新潟県古志郡草生津町(くそうづまち)内。現在の新潟県長岡市草生津。
 
「新津(にいつ)村」現在の新潟市秋葉(あきは)区新津本町周辺であろう。「柄目木(からめき)村」新潟市秋葉区柄目木(がらめき)。新津の南東直近。
 
「黑川館村(くろかはたてむら)」現在の新潟県胎内市のこの附近か。
 
「出雲崎の上蛇崩(かみじやくづれ)」現在の新潟県三島郡出雲崎町勝見に「蛇崩丘(じやくずれおか)」という場所を見出せる。古く或いは近くに大きな崩落のあった場所には「蛇崩」の名が各地でつく。地中を巨大な蛇が移動したと考えられたり、激しい帯状の崩落の跡が蛇のように見えたからであろう。
 
『張華が「博物志」』晋の政治家文人張華(二三二年~三〇〇年)が撰した博物書。散逸しているが、恐らくは次の「本草綱目」の記載(張華「博物志」載、『延壽縣南山石泉注爲溝、其水有脂、挹取著器中、始黃後黑如凝膏、燃之極明、謂之石漆。』からの半可通な孫引きではなかろうか?
 
『李時珍が「本艸」』明の本草学者李時珍(一五一八年~一五九三年)の著した「本草綱目」。以下は、「金石之三」に「石腦油」として項立てされてある。
 
その「釋名」では「石油」「石漆」「猛火油」「雄黃油」「硫黃油」を挙げるが、ここで崑崙が示す「山油」という異名は出ない。
 
「酉陽雜記」唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる主に怪異記事を集録した博物学的大著「酉陽雜俎(ゆうようざっそ)」の誤り。
 
「卷十 物異」の以下。
 
石漆。高奴縣石脂水、水膩浮水上如漆。採以膏車及燃燈、極明。
 
自然流で訓読すると、
 
石漆(せきしつ)。高奴(かうど)縣の石脂水(せきしすい)、水の膩(あぶら)の水上に浮きて漆(うるし)のごとし。採りて以つて車に膏(あぶらさ)し、及び燈(ひ)に燃(も)さば、極(いみ)じく明(めい)たり。
 
 
これは確かに「石油」のことと考えよい。東洋文庫版の今村与志雄の訳注でもそう推定注されてあり、『現在、この地方に玉門油田(中華人共和国成立後、最初に開かれた油田)がある』ともある。「高奴縣」現在の陝西省延安市北東部を流れる延河北岸地域に相当する秦代の古い県名。後漢末には廃されている。この附近か。
 
「甚だ効あり」先のリンク先の「本草綱目」の「主治」を見ると、「小兒驚風」(小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当)・「瘡癬蟲癩」(疥癬や虫刺されによる皮膚の壊死をいうか)・「針箭入肉」(尖ったものが筋肉まで刺さって折れたもの状態を指すか)に処方するとある。
 
「松脂(まつやに)」主成分はテレビン油(C10H16)とロジン(アビエチン酸などの樹脂酸を主成分とする樹脂の総称)。因みに、石油の主成分の殆んどは炭化水素で、それに種々の炭化水素混合物が混じり、その他にも硫黄化合物・窒素化合物・金属類も含まれている。崑崙が拘るように松脂が石油になったわけではないが、構成元素は確かに同じ炭素と水素ではあるし、この反論した知ったか男の謂い方は確かにひどく気に食わない。
 
「茯苓(ぶくりょう)」は漢方薬に用いる生薬の一つ。茸の一種である松の根に寄生する松塊(まつほど:菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa)の菌核を乾燥させたもの。健胃・利尿・強心等の作用を持つ。

 
「琥珀」植物の樹脂が化石となったもの。黄褐色か黄色を呈し、樹脂光沢を持ち、透明か半透明。石炭層に伴って産出する。
 
「圓淨湖水(うえんじようこすい)」野島出版脚注によれば、正しくは「圓上寺湖」であるとし、『信濃川の悪水を円上寺より隧道によって寺泊町を横断して日本海に注ぐもの』とあるが、この湖(後掲するように「潟」)は現存しない。現在の新潟県長岡市寺泊下曽根附近)に存在した「円上寺潟」のことである。新潟県公式サイト内のこちらのページに、この附近は『下曽根地域付近に円上寺潟と称する』五百『ヘクタール余りの湖沼の低湿地が広がる水害常襲地帯』で、『また、地域を縦貫していた島崎川は、現在の燕市(旧分水町牧ヶ花)地先で西川と合流し、地域の用水源としても重要な機能を果たしてい』たものの、『梅雨や秋雨の頃になると』、『西川からの悪水が逆流し』、『一帯は湛水し、一大湖沼の様相を呈してい』た(これが、崑崙が「湖水」と表現した所以であろう)。『円上寺潟の干拓は』承応元(一六五二)年から『始まり、日本海への排水も計画され』『たが、丘陵地を通過すること、膨大な費用がかかることなどからその当時は、排水先を島崎川筋から西川に求めざるを得』ず、『その後、島崎川筋への排水路の整備を進め』ものの、『排水口にある村々の反対などに遭い、思うように工事が進』まなかった。そこで、寛政一〇(一七九八)年、『渡部村地内(旧分水町)から丘陵地を掘り抜き、野積村須走浜にて日本海に直接排水する計画』(排水路延長四千九十メートルの内、隧道部分は実に千百八十一メートルあった)『が再び立案され』、寛政一二(一八〇〇)年『より工事が始まり』、文化一二(一八一五)年『に竣工し』た。しかし、それでも『潟の完全な排水はできず』、その悲願は『明治以降の大河津分水路の完成まで』『待たなければなか』ったとある、その隧道のことをここで「湖水の底」に「樋(ひ)」を「堀り拔」いた、と言っているのだと読める。本書の刊行は文化九(一八一二)年であるから、この隧道掘削の時期と矛盾がないからである。
 
「數(す)丈」一丈は三・〇三メートル。


 

以下、「北越奇談」の原文のまま転写致します。
 
其一 燃土(もえるつち)
 
 
焚土(えんど)なり。米山(よねやま)の陽(みなみ)、西北の濱、潟町(かたまち)のほとり、鵜(う)の池・朝日の池、同ク柿崎(かきざき)の裏田(うらた)の沼より出(いづ)る。又、三島郡竹森(たけもり)と云(いへ)る所、用水の溜池及(および)田の沼より出づ。其外、所々に多し。是、謂ゆる、桑田江海(さうでんこうかい)の変、上古、艸根木葉(さうこんぼくよう/くさのねこのは深く落(おち)重なりて、數(す)千年を積み、泥土(でいど/どろつち)のごとくなりたる物也。是を田家(でんか)の人、切(きり)上げて、日に干(ほし)、焚(たく)時は、即(すなはち)、よく燃(もゆ)る。今尚、信州にも出(いで)、西國にもありと云へり。然れども、「日本書紀」に、『人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)五月、越國進二水土一可代二薪油一者』とあり。上古、已に予が國より此一奇を出すこと、明(あきらか)なり。今年、文化庚午(かうご)まで千百四十三年に及べり。
注釈
「焚土(えんど)野島出版脚注には、『「えんど」と振仮名がつけてあるが、正しくは「ふんど」又は「はんど」である』とある。
 
「米山(よねやま)の陽(みなみ)、西北の濱、潟町(かたまち)のほとり、鵜(う)の池・朝日の池」現在の新潟県上越市大潟区潟町。
 
「柿崎(かきざき)」前の潟町の東北の日本海沿岸にある現在の上越市柿崎区柿崎。
 
「三島郡竹森(たけもり)」先の柿崎より遙か東北の長岡市寺泊竹森。
 
「桑田江海(さうでんこうかい)の変」盛唐の詩人劉廷芝の名作「代悲白頭翁」(白頭(はくとう)を悲しむ翁(おきな)に代はる)の「已見松柏摧爲薪 更聞桑田變成海」(已に見る 松柏の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)と爲るを 更に聞く 桑田の變じて海と成るを)で知られる「滄海變じて桑田となる」(但し、実際には同じ盛唐の詩人儲光羲(ちょこうぎ)の詩「獻八舅東歸」(八舅(はつきう)の東歸するに獻ず)の最終句「滄海成桑田」(滄海も桑田と成る)を出典とすると言った方が正しいようである)の誤り。原義は「青海原が桑畑に変わるように、世の中の移り変わりが激しいこと」を言うが、ここはそうした想像を絶した物質変性を言っている。
 
「切(きり)上げて」地中から伐り出して地表に掘り上げて。
 
「人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)」六六八年。
 
「五月、越國進二水土一可代二薪油一者」原文に従って訓読すると「五月、越國(ゑつこく)、水土(すいど)を進(すゝ)めて可代二薪油(しんゆ)に代(か)ゆべき者(もの)」であるが、この叙述を載せる「日本書紀」の伝本の当該箇所を見出すことが出来ない。
 
「文化庚午(かうご)」文化七年。一八一〇年。崑崙の冒頭の凡例の前年。「千百四十三年」が数えの計算であるからおかしくない。


 

越後七不思議(または「越後の七不思議」)は、越後に伝わる多くの不思議な話から、特に七つの話を取り上げたものです。取り上げられる話の組み合わせは一通りではなく、何種類かの越後七不思議が存在します。その中でも、特に橘崑崙の書いた「北越奇談」にある「古の七奇」と親鸞聖人が関わっている「親鸞の越後七不思議」の二つが広く知られているようです。
 
古の七奇
 
『北越奇談』には「古の七奇」として、以下の七つの話が上げられています。
①燃土(もゆるつち)   燃える土。
②燃水(もゆるみず)   燃える水。石油の事。
 
③白兎 春から秋までは灰色、冬になると白くなる兎。
 
④海鳴 晴天が崩れて雨になる前に、南方の海上から聞こえてくる潮の遠鳴り。風雨から晴天に変わるときは北方から聞こえてくる。
⑤胴鳴(ほらなり)     晴天の秋空が風雨に変わるときに聞こえてくる雷のような音。
※④の海鳴りと似たようなもの、内陸部で起こります。
 
⑥無縫塔      蒲原郡河内谷の陽谷寺の和尚が亡くなるころに、淵から岸辺に揚がる石。このため「無縫塔(僧侶の墓塔として使われる石塔)」と呼ばれるようになった。淵に投げ入れても、翌日には元の場所に戻っている。
 
⑦火井(かせい)       天然ガスの吹き出る所。
 
 
次回の更新では、『北越奇談』の原文を紹介しましょう。


 

ウェブニュースより
 
藤井聡太七段、王将戦挑戦者決定リーグ白星発進!三浦九段に勝利 ―― 将棋の第69期大阪王将杯王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)は30日、東京都渋谷区の将棋会館で挑戦者決定リーグの1局を行い、リーグ初参加の藤井聡太七段(17)が三浦弘行九段(45)を下した。
 
https://www.youtube.com/watch?v=OMekOgkn0vM
 
渡辺明王将(35)への挑戦権がかかるリーグは7棋士の総当たりで争われ、この日で1巡目が終了。藤井のほか広瀬章人竜王(32)豊島将之名人(29)の3人が初戦白星スタートとなった。羽生善治九段(49)は抜け番で、初戦は1016日の豊島戦。
 
藤井の次戦は107日の豊島戦(大阪・関西将棋会館)、三浦の次戦は109日の広瀬戦(東京・将棋会館)。
 注
目の羽生―藤井戦は1021日に決まった。   [Sponichi Annex 2019930 19:43 ]

 
仲邑菫初段、プロ初本戦で万波奈穂四段に悔し敗戦 ――日本囲碁史上最年少の100カ月30日でプロになった仲邑菫初段(10)が30日、都内の日本棋院東京本院で打たれた、第23期ドコモ杯女流棋聖戦本戦1回戦で万波奈穂四段(34)と対局し、敗れた。
 
 
勝てば、藤沢里菜女流4冠(女流本因坊・女流立葵杯・女流名人、扇興杯女流最強戦=20)が、1344日の女流本因坊戦本戦1回戦で長島梢恵二段に中押し勝ちした際に記録した、現行の女流5棋戦の最年少勝利記録146カ月を大幅に更新したが、お預けとなった。
 
仲邑初段は、85日に名古屋市内の日本棋院中部総本部で打たれた同予選Aで、金賢貞(キム・ヒョンジョン)四段(40)との対局に勝ち、41日のプロ入りから公式戦3戦目、日数では4カ月4日、105カ月で本戦を決めた。現行の女流5棋戦におけるプロデビューから予選突破までの最年少記録は、藤沢女流4冠がプロ入り翌年の1238日の第31期女流本因坊戦予選で青木喜久代八段に勝った際の135カ月だったが、仲邑初段はその記録を3年更新した。
 
また女流5棋戦における、プロデビューから本戦に進出した日数の最短記録は、16年にプロ入りした上野愛咲美(あさみ)女流棋聖(17)が、プロ入りした16829日に行われた第20期女流棋聖戦予選で青木八段に勝った時の4カ月28日で、仲邑初段は最短日数記録も24日、更新した。
 
仲邑初段は、422日に大阪市の日本棋院関西総本部で打たれた、第29期竜星戦予選で公式戦デビューし、同期入段の大森らん初段に敗れた。公式戦2戦目として同所で打たれた78日のドコモ杯女流棋聖戦予選Bでは、田中智恵子四段に勝ち史上最年少の104カ月で初勝利を挙げると、8月の同予選Aで金四段に勝った。
 
16日には日本棋院関西総本部で打たれた第59期十段戦予選Cで、公式戦初の男性棋士との対局に臨み、古田直義四段に勝ち、初の七大棋戦の予選で初勝利を挙げた。23日には同所で打たれた第14回広島アルミ杯・若鯉戦予選1回戦で、同期入段の羽根彩夏初段に勝利し、公式戦4連勝を挙げたが、同日の準決勝では宮本千春初段に敗れ公式戦の連勝は4でストップしている。
 
仲邑初段が対局した万波四段は、姉の佳奈四段との姉妹棋士として知られ、06年に入段。18715日に滋賀県東近江市で打たれた第3期扇興杯女流最強戦で牛栄子二段に勝ち、女流公式棋戦で初タイトルを獲得し、同年に四段となった。
 
対局は、一進一退の序盤から、中盤以降は仲邑初段が押し気味に進めた。その中、仲邑初段が1手、誤ったタイミングを見逃さず、万波四段が攻め返し、そこから展開をひっくり返した。仲邑初段は対局後、感想を求められたが、悔しそうに碁盤を見詰めていた。   [日刊スポーツ 20199301734]


 

静岡県の伊豆半島に伝わる七つの不思議な物語のことです。
 
大瀬明神の神池(沼津市)
 
大瀬の海水浴場の奥、大瀬神社(引手力命神社)の境内にあり、天然記念物ビャクシンの森に囲まれています。なぜ七不思議と呼ばれるかは海までほんのわずかの距離なのに淡水の池であること。池には鯉や鮒、ナマズが多数生息しています。
 
古くからこの池を調べたり、魚や動植物を獲ったりすると祟りがあるとの言い伝えがあり、また池の透明度が低く、なぜこんな場所に淡水の池があるのか、未だに解明されていません。(富士山の伏流水の説などもあるようです)
 
海水浴で賑わう大瀬崎ですが、神池まで行く方は少なく、今日もひっそりと淡水を湛えていることでしょう。
 
堂ヶ島のゆるぎ橋(賀茂郡西伊豆町)
 
天平年間、堂ヶ島を根城にする海賊がいました。頭目は墨丸という名で、多くの族を従えて沖行く船を襲い、村々から略奪を行っていました。都への献納の砂金や鰹節の荷造りが終わり宴も終えんを迎えていた村に、墨丸率いる海賊が砂金目当てに押し入ってきました。村人も抵抗をしましたが、砂金は墨丸たち盗賊に奪い取られてしまいます。
 
海賊たちは奪った砂金とともに村の薬師堂の前の橋に差しかかったところ、橋は地震のように揺れ、海賊たちを渡らせません。終いには橋の下の川にもんどりうって落ちていく有様。最後に墨丸が砂金の袋を大事に抱え渡ろうとすると、仁王様が現れ、墨丸を薬師如来様の前に差し出しました。薬師如来様は墨丸に人の道を説き、墨丸はそれまでの悪行を悔い、以降このお堂の守護に尽くしました。
 
この後、薬師堂の前の橋は、心の汚れたものが渡るとゆれる「ゆるぎ橋」と呼ばれるようになりました。月日が流れ、その橋も薬師堂も今はありませんが、由来を書いた石碑がその場所で昔の物語を伝えています。
 
石廊崎権現の帆柱(賀茂郡南伊豆町)
 
昔、石廊崎の沖で嵐に遭った船主が、帆柱を石廊権現に奉納することを誓うと、その船は無事に目的地に着くことができました。
 
その帰り道、石廊権現との誓いを忘れて通り過ぎようとした時、急に船は進まなくなり、天候も急変して嵐になりました。約束を思い出した船主は斧で帆柱を切り倒すと、帆柱はひとりでに波に乗り石廊権現のある絶壁の30メートル付近まで、まるで供えたように打ち上げられました。すると不思議なことに風雨は収まり、船も無事に帰郷することができました。
 
帆柱は崖に突き刺さり、そこに石廊権現を祭る社が造られました。柱は社殿の柱として今も残っており、ガラス越しにそれを見ることができます。
 
手石の阿弥陀三尊(賀茂郡南伊豆町)
 
昔、手石の近くに七兵衛とい漁師がいました。妻を亡くし、三人の子供を抱え貧しい暮らしを送っていましたが、ある時、末子の三平が重い病気にかかってしまいます。近くの寺に朝夕お祈りをしていると、ある日、七兵衛の夢枕に観音様が現れ、「洞窟の海底にいるアワビを取って食べさせよ」とのお告げをうけました。
 
七兵衛は小舟で洞窟に漕ぎ入ると、奥から黄金の三体の仏様が現れました。目の眩んだ七兵衛は思わず船底にひれ伏し、恐るおそる目を上げると、舟の中にはたくさんのアワビが投げ込まれていました。これを食べた三平の病はやがて全快し、その霊験は日本全国に知られるようになりました。
 
この時の三体の仏像は、鳩穴から差し込んだ光の屈折がそう見せたと言われていますが、七兵衛の子を思う信心が起こした奇跡なのでしょうね。
 
河津の酒精進鳥精進(賀茂郡河津町)
 
昔、河津の里に杉鉾別命(スギホコワケノミコト)という武勇に優れた男神がいました。ある日のことミコトが酒に酔い野原の石にもたれ眠っていると、野火起こり、あっという間に周りを囲まれてしまいました。そこに無数の小鳥が飛んできて河津川から水を運び、ミコトは難を逃れたそうです。
 
この伝承に由来して、河津ではミコトが災いにあった1218日~23日の間、鳥を食べない、玉子も食べない、お酒も飲まないという「鳥精進・酒精進」が守られており、この禁を破ると火の災いにあうと伝えられてきました。今でも氏子たちによって守られ、この時期になると学校の給食メニューから鶏肉・玉子が外されるなど、その風習が続いているようです。
 
独鈷の湯(伊豆市修善寺)
 
弘法大師(空海が)が修善寺に訪れた時、病の父の体を桂川の水で洗う少年を見て、「川の水では冷たかろう」と仏具の独鈷で岩を打ち砕き霊泉を湧き出させたという伝説にちなんでいます。時は807年(大同2年)、これが伊豆最古の温泉と言われています。
 
現在の独鈷の湯は台風などで桂川の氾濫を引き起こす原因になりかねないとして20094月に19m下流に移設されました。
 
移設前の独鈷の湯では、回りから見えるのを平気で入浴する猛者もいましたが、現在は一般的に入浴は禁止されており、足湯として観光客で賑わっています。
 
函南のこだま石(田方郡函南町)
 
昔、平井の村におらくという母親が息子与一と二人で暮らしていました。夫は戦に駆り出され行方知れずで、たいへん貧しい暮らしをしていました。あるとき村の和尚の勧めで峠を越えた熱海の湯治場へ、商いに出かけるようになりました。峠道の途中に休むのに格好の大きな岩があり、二人はこの岩に腰掛け、一休みしながら語らい合いました。
 
母子の暮らしがようやく楽になりかけた頃、おらくは病に倒れ帰らぬ人となってしまいました。与一は悲しみのあまり、母とともに語らった大岩に向かい、声を限りに母の名を呼び続けたところ、岩の底から「与一よ、与一」と懐かしい母の声がこだましてきました。来る日も来る日も懐かしい母の声を聞きに行く与一に村人は心打たれ、この石を「こだま石」と呼ぶようになったそうです。


 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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