瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ホウレンソウ(菠薐草、学名:Spinacia oleracea)は、ヒユ科アカザ亜科ホウレンソウ属の野菜です。雌雄異株。高温下では生殖生長に傾きやすくなるため、冷涼な地域もしくは冷涼な季節に栽培されることが多い。冷え込むと軟らかくなり、味がよりよくなります。
 
原産地
 
ほうれん草は、カスピ海西部の西アジア付近を原産とする葉野菜です。自然のままの野生種は見つかっていません。栽培がはじまったのはペルシャ(今のイラン)で、かなり古くから作られていたと考えられています。また現在では、世界のほうれん草の約9割が中国で生産されています。
語源
 
ほうれん草を漢字で書くと「菠薐草」です。この「菠薐」は中国の唐代に「頗稜(ホリン)国」(ペルシャまたはネパールのことをさしている)から伝えられ、それを誤って「菠薐」と名付けたといわれています。中国(唐代)から入ってきたため、当時は「唐菜(からな)」とも呼ばれていた。ちなみに英語名「Spinach(スピナッチ)」は、ペルシャ語が語源になっているといいます。
 
ペルシャで栽培されていたほうれん草は、東西に分かれて長い期間をかけて広まり、ヨーロッパ方面で西洋種が、中国方面で東洋種が形成されていった。ヨーロッパへは12世紀に北アフリカから渡り、16世紀にはヨーロッパ全土に広まったと考えられている。東アジアへはシルクロードを通って広まり、7世紀頃に中国へ伝播。日本へは江戸時代に中国から入ってきた。江戸時代末期には日本にも西洋種が入ってきましたが、アクの強さからあまり好まれず、広まらなかったようです。
 
ほうれん草の起源はアフガニスタンやトルコ、イランなどの西アジア地域といわれ、そこから東西に分かれて広まりました。中国方面に伝わったものは「東洋種」で、ヨーロッパへ渡ったものは「西洋種」となり、それぞれ環境の違いにより形や風味が少しずつ変化していきました。
 
 
西洋種は11世紀頃にスペインで栽培が行われていたといわれ、16世紀にはヨーロッパ中に広まったと考えられています。東洋種は7世紀頃に中国へ伝わり、日本へは16世紀頃に中国から伝来。林羅山の「新刊多識編」(1631年)には「菠薐」「菠菜」「赤根菜」とほうれん草のことが記されています。
 
 
明治時代には欧米から西洋種も導入されましたが、西洋種はアクが強く土臭いことからあまり好まれませんでした。ほうれん草が現在のように注目されるようになったのは昭和になってからのこと。第二次世界大戦後にはアニメ「ポパイ」の影響もあり、品種改良も進んだことで栄養価の高い野菜として消費が急増しました。
 
昭和の初めくらいまではそれほど一般的ではなく、同じ葉野菜なら小松菜のほうが人気だったようです。日本でほうれん草の需要が伸びたのは第二次大戦後です。きっかけはアニメの「ポパイ」。主人公がピンチの時にほうれん草の缶詰を食べることから、「ほうれん草=パワーアップ」というイメージが日本でも広まり、一気に定番野菜の仲間入りをしました。品種改良が進み、栽培しやすく食べやすくなったことも要因でしょう。
 
 
日本では西洋種(葉が厚く、丸みを帯びている)と東洋種(葉が薄く、切り込みが多く、根元が赤い)の2種類が栽培されていますが、東洋種は病気と寒さに弱く、虫が付きやすいので栽培が難しいという理由により、ここ数十年の間に急速に西洋種もしくは西洋種の一代雑種に取って変わりました。現在国内のスーパーで見かけるほうれん草は大半が西洋種ですが、東洋種の味の良さが近年見直されつつあるそうです。


 昨日の忘年会の全員写真で、全員が入っているものがありましたので、添付しておきます。年代が離れ、名前の判らないという方もいますので、名前入りのもの添付しておきます。


一昨日127日(土)の夕刻は、例年の兼愛塾の忘年会でした。40名に近い出席者を得て、会は賑やかに催されました。
 
 
午後6時に、川鍋武治氏の司会で、会が始まりました。会に先立って、私の結婚60周年を記念して、花束が贈られました。
 家内は腰痛で出席がかなわないませんでしたが、家内ともども塾友の皆さんに厚く御礼申し上げます。
 
 
つづいて、永田雅章氏の音頭で乾杯、以後は自由に歓談と相成りました。
 
  以上写真撮影は成島淳一氏です。

 
今回の会では高山功一氏が初めて参加してくれました。高山氏は平成29年度の東京都優秀技能者(東京マイスター)知事賞を受けた優秀な漆工であります。




 

小松菜は、中国から伝来したカブを祖先にもつ、最も古い漬け菜のひとつです。濃い緑色の丸い葉と、しっかりした茎を持つこの野菜は、今では、全国のお店で見かけることができますが、関東地方では古くから栽培され、冬が旬の野菜として親しまれてきました。

 
江戸時代に、現在の江戸川区小松川の辺りで栽培されていたとされ、その地名が小松菜の名前の由来といわれています。
 
京都でも、すまし汁の具や、おひたし、和え物など日々のおかずとしても、すっかり身近な冬野菜として定着している小松菜。八百一では、小松菜の別口として、京都産小松菜も販売しております。同じ野菜とはいえ、栽培される地域によって、味も微妙に変わってきます。
 
京都盆地特有の冬の底冷えと、昼夜の温度差は、冬野菜の栽培にもぴったりで、寒くなるたびに、葉がふっくらとし、甘みが増していきます。
 
 
小松菜はもともと古事記にも記載があるほど古い野菜のひとつです。中国から直接、あるいは朝鮮半島経由で伝来したそうです。その地なりの品種が数多くある青菜の中でも、小松菜は全国に普及した野菜です。おもに関東で栽培されていましたが、今では全国で周年にわたって栽培されています。これは小松菜がハウス栽培、露地栽培のどちらにも向き、耕地面積が比較的少ない都市型農業にも適するので、生産しやすいという利点が理由としてあげられます。寒さに強く霜にあたると甘味が増しておいしくなります。
 
 小
松菜は、江戸時代、武蔵国葛飾郡小松川村(現在の東京都江戸川区小松川付近)で多く栽培されたことにちなむとされます。徳川綱吉(吉宗の説もあり)に献上された際、この地名から「小松菜」と名付けられたともいわれるが定かではない。小松菜の別名「鶯菜」は、3~4月に出荷されるため「鶯の鳴く頃の菜」の意味です。
 
 
小松菜(コマツナ)はチンゲンサイなどと同じアブラナ科アブラナ属の植物で、収穫せずにそのままにしておくととうが立ち、アブラナと同じ黄色い花を咲かせます。


 


 

ウェブニュースより
 
藤井聡太七段 7戦全勝で単独首位に 第78期名人戦順位戦C1組 ―― 将棋の藤井聡太七段(17)が3日、大阪市の関西将棋会館で指された第78期名人戦順位戦C17回戦で船江恒平六段(32)に78手で勝ち、7戦全勝とした。終局は午後1116分。
 
 
勝てば史上最年少でのタイトル初挑戦が決まる大一番、先月19日の大阪王将杯王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)の挑戦者決定リーグ最終局で、記憶に残る激闘の末に広瀬章人竜王(32)に敗れた藤井。それ以来、ちょうど2週間ぶりの対局となったが、普段通り落ち着いた表情で対局場に姿を見せた。
 
船江とは過去に一度対戦(昨年5月の竜王戦ランキング戦5組準決勝)し、その時は勝っている。この日は先手の船江が準備した相掛かりの戦型に。終盤、誤算があったという船江の手を逃さず、4筋に銀を切り込んで攻めに出て、そのまま押し切った。残す3戦に前期逃した昇級をかけるが、終局後は「残り3局も全力を尽くしたいと思います」と力を込めた。
https://www.youtube.com/watch?v=0Jk6ZFbhRMo
 
昇級2枠をかけて、6月から翌年3月まで計10局(毎月1局)を戦うC1組。今期これで7戦負けなしとし、対局前まで6勝無敗で並んでいた2人(佐々木勇気七段、石井健太郎五段)がこの日ともに敗れたため、単独首位に立った。
 
前期は91敗の好成績で終えながら、同じ勝敗で並んだ他の3人より順位(相撲の番付のようなもの)が下だったためB2組に昇級できる2人枠を逃した。その悔しさを晴らすまで残りの対局も負けられないところだ。
       
[Spinichi Annex 2019123 23:43 ]


 

シュンギク(春菊、Glebionis coronaria)は、キク科シュンギク属に分類される植物です。原産地は地中海沿岸です。春に花を咲かせ、葉の形がキク(菊)に似ていることから春菊と呼ばれています。葉に切れ込みの少ない大葉(おおば)が四国・九州で(また「おたふく」・「ろーま」とも呼ばれる)、切れ込みのある中葉(ちゅうば)がそれ以東でそれぞれ栽培されています。中葉はさらに、株立ち型と株張り型とに分かれます。香りと葉や花の形から、関西では菊菜(きくな)とも呼ばれます。稀に新菊(しんぎく)と表記されることもあります。
 
 
春菊の原産地はトルコやギリシャなどの地中海沿岸といわれています。ただ欧米では観賞用として用いられ、野菜として最初に利用したのは中国だそうです。現在でも食用としているのは日本や中国、東南アジアなど一部の地域だけのようです。
 
 
日本に渡来した時期は定かではありませんが、文献で春菊が登場するのは、15世紀後半の「尺素往来(せきそおうらい)」です。これには菫菜(スミレ)、躑躅(ツツジ)、春蘭(シュンラン)、杜若(カキツバタ)などとともに春菊が登場しますが、これは「野春菊」の深山嫁菜(ミヤマヨメナ)ではないかと指摘されています。別の文献では、「お湯殿の上の日記(1563年)」に春菊の別名である「高麗菊」(こうらいきく)と「しゆんきく」の2つの名前が記されています。どちらか一方(または両方)は春菊ではないかと考えられています。
 
 
いずれにしても春菊は室町時代までには伝わっていたとされ、江戸時代の農書「農業全書」や「菜譜」には栽培方法が記載されています。
 
春菊の種類
 
春菊の生産地としては、千葉と大阪が年間収穫量の1位と2位を競っています。作付け品種は、千葉・茨城・群馬などの関東エリアと、大阪・福岡の西日本エリアに大別できるでしょう。前者は株が立ち、葉が中位の大きさで切れ込みが多い「株立ち中葉」がメインです。後者は大阪が「中葉春菊」、福岡が「大葉春菊」と、共に茎が立たずに葉のみを食す春菊の特産地となっています。

 
福岡の「大葉春菊」は北九州市周辺に畑が多く、お隣の山口県下関市との関係性も大きいようだ。下関は有名なフグの産地。アクが少なく、さっと湯にくぐらせれば美味しくいただける大葉春菊は、フグちりには欠かせない食材とされてきました。
 
 
いずれの品種も通年出回るが、鍋物の出番が多くなる10月以降~3月頃までの冬場が旬です。冬季の代表的な緑黄色野菜として、鍋物やおひたしにと、日々の食卓で活躍します。


 

 由来:ユーラシア大陸原産
 学名:Arctium lappa L.
 英名:Burdock
 栽培:日本、中国、台湾
 効能:整腸、抗炎症、利尿、血糖改善効果(ハーブ大辞典、薬用植物辞典)
 歴史:平安時代後期に野菜化
 
 
「備荒草木図びこうそうもくず」に野山に自生するものは、葉をゆでて食べると良い」と書かれています。このようにごぼうは、根だけではなく、葉も薬草として利用されてきました。
 
 
平安時代後期には、重要野菜として記録が残されています。しゃきしゃきとした食感と香りが日本人に好まれ、健康にもよい野菜として定着してきました。
 
 
江戸時代の松江藩地方役(ジカタヤク)岸崎作久治が天和2(1682) 年に著した農政書「田法記」には、「牛蒡こそ田畑一の作りもの銀に積もりて並ぶものなし」とも記され、価値の高い野菜だったことが伺えます。
 
 
縄文時代の貝塚や三内丸山遺跡からも、牛蒡の種が発見されています。その歴史はとても深いのです。
 
 
ごぼうとは、キク科の二年草。ユーラシア大陸原産。細長い根は、きんぴらや煮物など食用にします。種子は漢方で浮腫の治療薬や解熱薬にします。
 
 
ごぼうは、古く薬草として中国から伝来したもので、漢語の「牛蒡」が語源です。ごぼうの歴史的仮名遣いは、「ゴバウ」です。
 
「牛蒡」の「牛」を「ゴ」と読むのは、呉音「グ」の慣用音「ゴ」で、中国では草木の大きなものに「牛」が冠されます。
 
「牛蒡」の「蒡」は、ごぼうに似た草の名に使われた漢字で、それらの植物より大きいことから「牛」が冠され「牛蒡」になったといいます。
 
古く、日本では「牛蒡」を「キタキス」「ウマフフキ(ウマフブキ)」ともいった。
 西
洋では牛蒡の若葉をサラダに使うことはありますが、根を食材とするのは日本と韓国くらいで、太平洋戦争中、苦労して採ってきたごぼうをアメリカ人捕虜に食べさせたところ、捕虜は木の根を食べさせられたと勘違いしたという話もあります。
 
 
太く短い大浦系の品種郡と、細く長い滝野川系の品種郡に分かれます。
 
滝野川-最も一般的なゴボウで細く長いゴボウの代表です。東京の滝野川で鈴木源吾と言う人が作りました。太さは2~4cmで長さは80cm程度。 長いものでは1.5mに達します。現在売られているゴボウのほとんどはこの滝野川を改良したものだそうです。
 
 
堀川-京都の特産。滝野川の系統ですが2年かける独特な栽培方で太く(8cm)、短く(長さ80cm)作ります。スが入ってしまいますが、中をくりぬいた管状にして詰め物料理に使います。
 
大浦-直径が10cm、重さが2~4kgに達する巨大なゴボウ。千葉の大浦で昔から作られていましたが、今では契約栽培のみで市販されていません。
 
葉ゴボウ-5~6月に出回る初夏の味。葉ゴボウといいますが、茎の部分を食べます。
 
山ゴボウ-観光地などでよく山ゴボウと称して味噌漬けなどが売られていますが、これは本当はアザミ属のモリアザミ"Cirsium dipsacolepis"などです。 本当のヤマゴボウは根に硝酸カリを含んでいて有毒です。
 
 
尚、牛蒡については2017年7月4日のブログでも取り上げています。
http://sechin.blog.shinobi.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/%E7%89%9B%E8%92%A1%EF%BC%88%E3%81%94%E3%81%BC%E3%81%86%EF%BC%89


 

甥のN doctorからメールが入りました。

ウェブニュースより
 
中曽根康弘元首相死去 101歳 改憲提唱、国鉄民営化 ―― 安倍、佐藤、吉田、小泉各内閣に次ぐ戦後第五位の長期政権を担い「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄(現JR各社)の分割・民営化を実現した元首相の中曽根康弘(なかそねやすひろ)氏が死去したことが二十九日、分かった。百一歳。群馬県出身。関係者によると、二十九日午前七時すぎ、東京都内の病院で亡くなった。
 
              ◇
 
旧東京帝大卒。内務官僚、海軍主計科士官を経て一九四七年、戦後第二回の衆院選で初当選。二〇〇三年に引退するまで連続二十回当選、在職五十六年に達した。
 
岸信介改造内閣で科学技術庁長官として初入閣。自民党内で頭角を現し河野派分裂後は中曽根派を形成し一派を率いる。
 
一九八二年、鈴木善幸首相退陣後の党総裁選では、党員の予備選で圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、首相に就任した。行革推進と「戦後政治の総決算」を掲げ、八七年までの長期政権を築いた。ただ、政権発足当初は、閣僚、党役員に当時の田中派の有力議員を大量に採用して「田中曽根内閣」「直角内閣」などとやゆされた。
 
日米関係では、ロナルド・レーガン大統領との間に親密な「ロン・ヤス」関係を築き、「不沈空母」発言などにより米国の信頼を得て日米安全保障体制を強化した。
 
内政では、専売公社、国鉄、電電公社の三公社民営化を断行。「死んだふり解散」による八六年の衆参同日選挙では衆院で三百議席を超える圧勝を収め、自民党で初の総裁三選を果たした。
 
その後、選挙中に導入しないと宣言していた売上税を導入しようとして支持率を落とすも同税撤回で復活し、八七年十一月、余力を残して退任。ニューリーダー三氏の中から、竹下登氏を後継に指名(中曽根裁定)した。
 
退任後はリクルート事件でいったん離党するも復党。衆院小選挙区比例代表並立制導入に当たっては比例代表での終身一位の保証を受ける。二〇〇三年、衆院比例代表への党の定年制導入に伴い、当時の小泉純一郎首相の説得を渋々受け入れ、同年の衆院選出馬を断念し引退した。
 
「自主憲法制定」をライフワークとして、以後も党新憲法起草委員会の前文小委員長を務めたり、小泉元首相が推し進める郵政民営化や靖国神社参拝などに異議を唱えるなど、非議員としての政治活動を続けた。
 
首相時代は、その変節ぶりから「風見鶏」とも言われたが、一九九七年に大勲位菊花大綬章を受けたことで、政界、とりわけ自民党内では象徴的な存在ともなった。
 
元外相の中曽根弘文参院議員は長男。   (20191129 1403分 東京新聞)

 
政治への情熱と執念 中曽根元首相、強い指導者像確立 ―― 「暮れてなお 命の限り 蝉(せみ)しぐれ」。日本の政界に一時代を築いた中曽根康弘元首相はこの句を好んで詠んだ。長い生涯を貫いていたのは、政治へのあくなき情熱と執念である。
 
 
首相就任以前の中曽根氏は「政界の風見鶏」「かんなくずのようにぺらぺら燃える男」などと世間の評価は芳しくなかった。首相に就任した中曽根氏はその手腕と実績で世評を一変させた。
 
従来の歴代首相とは異なり、自ら前面に出てリーダーシップを発揮する独特の「大統領型首相」の政治スタイルを確立し、内政・外交にわたって多くの足跡を残した。その裏には、政治家として不断の修練と努力の積み重ねがあった。
 
中曽根氏は生粋の政党人だが、旧制静岡高校―東京帝国大(現東大)法学部から旧内務省に入省したエリートである。エリートの座を捨てて戦後政界に打って出たのは、敗戦国日本の再建への強い情熱と使命感からである。
 
当選直後から「青年将校」と脚光を浴び、吉田茂長期政権のもとでは長く野党議員だったが、颯爽(さっそう)とした容姿と弁舌で論客ぶりを発揮した。早くから憲法改正論を唱え、「憲法改正の歌」を作って全国を行脚した。「右翼反動」などと批判されたが、ひるむことはなかった。
 
自民党では実力者・河野一郎の派閥に属し、河野死後に河野派の大半を継承して「新政同志会」を結成し、政権取りをめざした。中曽根派は保守傍流の少数派閥であり、政権への道のりは苦難の連続だった。少数派閥ゆえに自民党内の合従連衡に腐心し、「風見鶏」と揶揄(やゆ)されたのもこのころである。資金調達にも苦労し、殖産住宅事件では国会で証人喚問されたこともある。
 
同期当選組の田中角栄の支援を得て念願の首相の座に就いたのは1982年。そのとき、中曽根氏の手元には首相に就任したら何をやるべきか、どう振る舞うべきかについてびっしりと書き込んだ大学ノートがあった。
 
中曽根政権のハイライトは「増税なき財政再建」を掲げ、土光敏夫臨調会長と二人三脚で行政改革に取り組んだことである。その成果が国鉄、電電公社、専売公社の3公社民営化であり、今日のJRNTTJTとなった。英国のサッチャー改革、米国のレーガン改革に続く中曽根改革は当時の新自由主義の世界的潮流の象徴だった。
 
外交面ではレーガン米大統領と「ロン・ヤス」関係を結び、日米同盟関係を飛躍的に強化した。中国の胡耀邦総書記、韓国の全斗煥大統領とも個人的な信頼関係を結んで積極的なアジア外交を展開した。サミットの場で議論をリードし、日本の存在感を世界に示した手腕も卓越していた。
 
中曽根氏は首相在任中、靖国神社への公式参拝に踏み切った。このことで親日派の胡耀邦総書記が中国国内で苦境に陥ると1回限りで参拝取りやめを決断した。中曽根氏らしい「君子豹変(ひょうへん)」ぶりだった。
 
首相退陣後、リクルート事件で逼塞(ひっそく)していた時期もあったが、すぐに影響力を回復し、「大勲位」として元老のような存在感を示した。56年間の議員生活を終えてからも、中曽根氏の意欲は衰えず「憲法改正実現までは死んでも死にきれない」と執念を燃やしていた。憲法改正こそは中曽根氏の「見果てぬ夢」であった。
(日本經濟新聞 2019/11/30 2:00


 

ウェブニュースより
 仲邑菫初段が男性棋士に7連勝 馬場九段との61歳差対決制す ―― 囲碁の最年少棋士・仲邑菫初段(10)が28日、名古屋市の日本棋院中部総本部で打たれた第45期棋聖戦ファーストトーナメント2回戦の対局に臨み、馬場滋九段(71)に260手で白番中押し勝ちした。国内棋戦では男性棋士に負けなしの7連勝とした。
 
 風邪予防のためマスク着用での対局。馬場は中部総本部の棋士会長で40人余りの現役棋士を束ねる。弟子に7大タイトルの一つ、十段をかつて獲得した彦坂直人九段(57)、伊田篤史八段(25)らがいる中部圏の大御所だ。
 61歳年長との対戦はプロ18戦目で最大年齢差で、中盤は黒番の馬場が押し気味に進め、仲邑自身「最後の方は負けてるかなと思った」と振り返る劣勢だった。
 そこからの粘り腰について馬場は「しぶとかった。(自身の)黒が良かったが、最後は分からなかった。二転三転していた」と容易に土俵を割らない根性をたたえ、練習も含めて初対局の仲邑の将来性については「どんどん強くなるんじゃないですか?」と太鼓判を押した。仲邑は今月7日以来の連勝も自己最長タイの4に伸ばし、通算成績を13勝5敗とした。   [Sponichi Annex 2019年11月28日18:24 ]



仲邑菫初段 61歳年上相手に“貫禄”の対局 ――
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000170356.html
 
体の前で組んだ腕と顔の大部分を覆うマスクと眼鏡。すっかり大人びてしまった仲邑菫初段です。28日は、囲碁界の七大タイトルのなかでも最高位とされる棋聖戦の予選。笑顔はありません。

 
相手は61歳年上の馬場滋九段(71)。10歳ながら堂々たる仲邑初段に対して馬場九段はどこか申し訳なさそうにうつむき、頭をかく。一見、気弱なおじさまのようですが、しかし、約60人のプロ棋士を束ねる中部総本部棋士会の会長にして全国こども囲碁普及会の共同代表です。
 
年齢も、性別も、キャリアも、そのたたずまいもすべてが対照的な2人の対局。勝負の行方を見守る人は…。
 
対局を見守る人:「(Q.形勢は?)白(仲邑初段)がちょっと良いような気がする」
 
予選を勝ち進めば再来年、棋聖のタイトルをかけて七番勝負を戦うことになります。   [日テレNEWS 2019/11/28 20:30]



 





 

ネギ(葱/ねぎ)はユリ科なのかネギ科なのかは、植物の分類学上の違いで分かれますが、食べる私たちにとってはあまり関係なく、少なくともネギはみな同じ仲間だという事です。一般的に、関東は白ねぎ、関西は青ネギと言われてきたように、関西では青い葉の部分を好み、関東では盛り土をして白い部分を長くしたものを好んできました。でも今では料理によって使い分けるようになりました。

 
白ネギ(根深ネギ):白ねぎとは主に白い部分を食べる根深ねぎのことで、長ネギなどとも呼ばれ、根元に土寄せして白い部分が長くなるように育てたものです。「加賀ねぎ」、「千住ねぎ」、「下仁田ねぎ」「曲がりネギ」などがあります。
 
青ネギ:関西で多い青ネギとは葉ねぎとも言われ、主に京都発祥の「九条ねぎ」のことをさしています。福岡の特産になっている「万能ネギ」や「やっこねぎ」、一般に小ねぎと言われるものもこの一種になります。それ以外の地域にも広島の観音ネギなど青ネギが見られますが、観音ネギは九条ネギを品種改良した物で、それ以外に物も近縁種とみられています。 その他にはワケネギも青ネギの仲間と言えます。
 
その他:ねぎとたまねぎの雑種である「わけぎ」や、さらに細い「あさつき」、若取りの「芽ねぎ」などいろいろあります。これらは青ネギの部類に入ります。ヨーロッパには「ポワロ-ネギ(英:リーキ)」や「シブレット(英;チャイブ)」などがあります。
 
 
ねぎの原産地は諸説ありますが、中国の西部または西シベリア南部のアルタイ地方ではないかといわれています。中国では古代から栽培されていて、6世紀頃の書物には栽培法が記されているそうです。
 
ヨーロッパへは16世紀の終わり頃に伝わり、アメリカへは19世紀に入ったと考えられています。ただしヨーロッパでは西洋ねぎの「リーキ」が好まれたため、ねぎは普及しませんでした。ちなみにリーキの原種は古くから存在し、古代エジプトやギリシャ、ローマなどで栽培されていたといわれています。
 
 
日本へは西洋よりもだいぶ早くに伝わっていました。「日本書紀」(720年)に「秋葱(あきぎ)」という名前が出てくることから、かなり古い時代から存在したと考えられます。江戸時代にはすでに栽培法も確立し、日本各地で作られていました。
 
「怱」は正字「悤」で 屋根に開けた窓の象形+心(心臓)
①「慌てる、心があがる」
②「束ねる、集める」
③「まっすぐで筒抜けのもの」
④「聡明」         という意味があります。
 
「葱」は、この3番目の「筒抜けのもの」が「艹」の字の中でも「ネギ」にあてられた理由と思われます。ちなみに本来は「根葱(ねぎ)」です。「葱()」の「根」を食べる事から「根葱」となりました。
 
なお、2017年8月3日のブログでも「葱」を扱っています。
http://sechin.blog.shinobi.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/%E8%91%B1


 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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