今年の冬至は今日、12月22日です。
冬至とは、北半球において太陽の位置が1年で最も低くなり、日照時間が最も短くなる日。冬至はいつかというと、固定ではなく毎年変動し、12月21日頃にあたります。冬至の日の日照時間を、太陽の位置が1年で最も高くなる夏至(同様に6月21日頃)と比べると、北海道の根室で約6時間半、東京で約4時間40分もの差があります。
1年で最も日が短いということは、翌日から日が長くなっていくということ。そこで、冬至を太陽が生まれ変わる日ととらえ、古くから世界各地で冬至の祝祭が盛大に行われていました。太陰太陽暦(いわゆる旧暦)では冬至が暦を計算する上での起点です。
中国や日本では、冬至は太陽の力が一番弱まった日であり、この日を境に再び力が甦ってくることから、陰が極まり再び陽にかえる日という意の「一陽来復(いちようらいふく)」といって、冬至を境に運が向いてくるとしています。つまり、みんなが上昇運に転じる日なのです!
冬至は北半球において太陽の位置が1年で最も低くなる日(=1年で最も日が短い日)なので、日本以外でも当然冬至はあります。
冬至は英語で「the winter solstice」といいます。「Solstice」は至、至点という意味なので、「the winter solstice」はまさに冬至です。また、冬の中間点という意味で「midwinter」とも言います。もし「the winter solstice」「midwinter」がわからなかったら、「the shortest day of the year」(1年で最も日が短い日)でも、冬至だということを伝えることができます。
なお、南半球においては夏至なので、「the summer solstice」、「midsummer」、「 the longest day of the year」になります。
クリスマスは、太陽の復活を祝う古代ヨーロッパの祝祭とキリストの生誕が結びついたもので、その年の冬至が12月25日だったため、諸説あったキリストの降臨日が12月25日になったといわれています。
冬至には「ん」のつくものを食べると「運」が呼びこめるといわれています。にんじん、だいこん、れんこん、うどん、ぎんなん、きんかん……など「ん」のつくものを運盛り といい、縁起をかついでいたのです。運盛りは縁起かつぎだけでなく、栄養をつけて寒い冬を乗りきるための知恵でもあり、土用の丑の日に「う」のつくものを食べて夏を乗りきるのに似ています。
また、「いろはにほへと」が「ん」で終わることから、「ん」には一陽来復の願いが込められているのです。
かぼちゃは別名「なんきん」で運盛りのひとつですが、漢字では「南瓜」と書きます。前述のとおり、冬至は陰が極まり再び陽にかえる日なので、陰(北)から陽(南)へ向かうことを意味しており、冬至に最もふさわしい食べものになりました。
また、かぼちゃはビタミンAやカロチンが豊富なので、風邪や中風(脳血管疾患)予防に効果的です。本来かぼちゃの旬は夏ですが、長期保存が効くことから、冬に栄養をとるための賢人の知恵でもあるのです。
かぼちゃなどの運盛りのほかにも、冬至の日の食べ物には、小豆(あずき)を使った冬至粥があります。昔から小豆の赤は邪気を祓うと言われているので、冬至粥で邪気を祓い、翌日からの運気を呼び込もうというわけです。
冬至には小豆とかぼちゃを煮た「いとこ煮 」を食べるという地方もあります。なお、本来「いとこ煮」とは硬いものをおいおい(甥)入れて、めいめい(姪)炊き込んでいくことから「いとこ煮 」と名付けられた料理なので、小豆とかぼちゃ以外の場合もあります。
冬至にこんにゃくを食べる地方もありますが、これを「砂おろし」といい、こんにゃくを食べて体内にたまった砂を出すのです。昔の人は、こんにゃくを「胃のほうき」「腸の砂おろし」と呼び、大晦日や節分、大掃除のあとなどに食べていたことの名残りでしょう。
冬至に柚子湯に入ると風邪をひかずに冬を越せると言われています。
柚子(ゆず)=「融通」がきく、冬至=「湯治」。こうした語呂合せから、冬至の日にゆず湯に入ると思われていますが、もともとは運を呼びこむ前に厄払いするための禊(みそぎ)だと考えられています。昔は毎日入浴しませんから一陽来復のために身を清めるのも道理で、現代でも新年や大切な儀式に際して入浴する風習があります。冬が旬の柚子は香りも強く、強い香りのもとには邪気がおこらないという考えもありました。端午の節句の菖蒲湯も同様です。
また、柚子は実るまでに長い年月がかかるので、長年の苦労が実りますようにとの願いも込められています。
もちろん、ゆず湯(柚子湯)には血行を促進して冷え性を緩和したり、体を温めて風邪を予防したり、果皮に含まれるクエン酸やビタミンCによる美肌効果があります。さらに、芳香によるリラックス効果もありますから、元気に冬を越すためにも大いに役立ちます。
学名
Fortunella japonica
Fortunella : キンカン属 japonica : 日本の
Fortunella(フォーチュネラ)は、イギリスの学者で東洋に旅行した、Robert Fortuneの名前にちなみます。
キンカン(金柑)は、ミカン科キンカン属 (Fortunella) の常緑低木の総称です。別名キンキツ(金橘)ともいいます。
中国の長江中流域原産。俳句では秋の季語になっています。 英語などの「Kumquat」もしくは「Cumquat」は「金橘」の広東語読み「gam1gwat1 (カムクヮト)」に由来します。
カール・ツンベルクによりミカン属(Citrus)に分類され、1784年刊行の『日本植物誌』("Flora Japonica")においてCitrus japonicaの学名を与えられていましたが、1915年にウォルター・テニスン・スウィングルにより新属として分割され、ヨーロッパに紹介したロバート・フォーチュンヘの献名として新たな学名(Fortunella)を与えられました。 しかし近年の系統発生解析は、キンカンがミカン属の系統に含まれることを示唆しています。
日本における2010年の収穫量は3,732 トンであり、その内訳は宮崎県2,604 トン、鹿児島県873 トン、その他255 トンとなっています。
果実は果皮ごとあるいは果皮だけ生食します。皮の中果皮、つまり柑橘類の皮の白い綿状の部分に相当する部分に苦味と共に甘味があります。果肉は酸味が強いです。果皮のついたまま甘く煮て、砂糖漬け、蜂蜜漬け、甘露煮にします。甘く煮てから、砂糖に漬け、ドライフルーツにすることもあります。
果実は民間薬として咳や、のどの痛みに効果があるとされ、金橘(きんきつ)という生薬名でいうこともあります。果皮にはヘスペリジン(ビタミンP)を多く含みます。
観賞用として庭木として植えられることも多いです。剪定に強いので生垣や鉢植え、盆栽にもできます。広東省や香港では、旧正月を迎える際に柑橘類の鉢植えを飾ることが多く、キンカンも好まれます。
マルミキンカン
樹高は2mほどになります。枝は分岐が多く、若い枝には短い刺があることがあります。
葉は互生する。長さは5~7cm、長楕円形で厚みがあり周囲には浅い鋸状歯があります。葉が上側に反っていることが多い。葉柄には小さな翼があるがないものもあります。
夏から秋にかけて3-4回、2~3cmほどの白い五弁の花をつけます。雌しべは1本、雄しべは20本。花の後には直径2cmほどの緑色の実をつけます(初夏につけた花は実がならないことが多い)。晩秋から冬にかけて実は黄色く熟します。
ニンポウキンカン
日本への渡来は江戸時代の文政9年(1826年)のこと、現在の中国浙江省寧波(ニンポウ、当時・清)の商船が遠州灘沖で遭難し清水港に寄港しました。その際に船員が礼として清水の人に砂糖漬けのキンカンの実を贈りました。その中に入っていた種を植えたところ、やがて実がなり、その実からとった種が日本全国へ広まったといいます。
・たまたま - 宮崎県産。JAブランド。開花結実から約210日以上を経過し、糖度が16度、直径2.8 センチメートル以上のニンポウキンカンにつけられます。
・たまたまエクセレント - 宮崎県産。JAブランド。上記の「たまたま」の中でもさらに糖度18度、直径3.3 センチメートル以上のニンポウキンカンにつけられます。
・春姫 - 鹿児島県南西部産。JAブランド。開花結実から約210日以上を経過し、糖度が16度、直径2.8 センチメートル以上のニンポウキンカンにつけられます。
イチョウ(銀杏、公孫樹、鴨脚樹、学名:Ginkgo biloba)は、中国原産の裸子植物。食用(伝統中国食品)、観賞用、材用として栽培されています。
街路樹など、全国で普通に見かける樹木ですが、分類上は奇異な位置にあり、例えば広葉樹・針葉樹の区分では如何にも広葉樹に該当しそうですが、むしろ特殊な針葉樹に当たります。
世界古来の樹木の一つであり、イチョウ科の植物は中生代から新生代にかけて世界的に繁栄し、世界各地(日本では山口県や北海道など)で化石が発見されていますが、氷河期にほぼ絶滅し、イチョウは唯一現存する種です。現在イチョウは、生きている化石としてレッドリストの絶滅危惧IB類(ⅠA類ほどではないが、近い将来における野生での絶滅の危険性が高いもの)に指定されています。
種子は銀杏(ぎんなん、ぎんきょう)と呼ばれ食用として流通するなどしていますが、これは中毒を起こし得るもので死亡例も報告されており、摂取にあたっては一定の配慮を要します。
中国語で、葉の形をアヒルの足に見立てて 中国語: 鴨脚(拼音: yājiǎo イアチァオ)と呼ぶので、そこから転じたとする説があるが、定かではありません。
種子は銀杏(ギンナン)と呼ばれますが、これは中国の本草学図書である紹興本草(1159年)や、日用本草、本草綱目に記載されている銀杏(唐音の『ギン・アン』)に由来すると見られます。
一方、イチョウ綱が既に絶滅していたヨーロッパでは、日本誌の著者エンゲルベルト・ケンペルの『廻国奇観 (Amoenitatum exoticarum)』(1712年)で初めて植物学的な記述で紹介されたが、ケンペルが銀杏(ギンコウ)の音訳として、Gingkoと書くべきところを Ginkgoと記しました。この綴りが引き継がれて、カール・フォン・リンネは著書『Mantissa plantarum II』(1771年)でイチョウの属名をGinkgo としました。このほか、ゲーテも『西東詩集』(1819年)で Ginkgo の名を用いています。
Ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りで、しばしば gingko と記されています。植物命名規則に依れば、これは訂正されていません。
種小名 biloba はラテン語による造語で、「2つの裂片 (two lobes)」の意味です。葉が大きく2裂する点を指したものです。英語ではmaidenhair treeともいいます。
にんじんはカレーやシチュー、煮物、サラダ、洋食の添え物などさまざまな料理に使え、常備しておきたい野菜のひとつです。かつては子供が嫌いな野菜として名前があがっていましたが、にんじん特有のにおいや風味を抑えた品種が増えたことで、好きな野菜として名前があがるようになりました。
にんじんを大きく分けると「三寸」や「五寸」などを代表とする「西洋系」と、京都の「金時(京にんじん)」や沖縄の「島にんじん」を代表とする「東洋系」の2種類に分類されます。国内で一般的に流通しているのは西洋系のにんじんで、東洋系は普段あまり目にすることはありません。
にんじんの原産地は中央アジアのアフガニスタンで、現在のアフガニスタンに横たわる山脈「ヒンドゥークシュ(ヒンズークシ)」山麓で栽培されたのが始まりと考えられています。古代ギリシャでは薬用として栽培されていたようで、その頃のにんじんは根が枝分かれした刺激の強いものだったそうです。円錐形のにんじんは10世紀頃に現在のトルコ西部辺りで誕生したと推定され、12~15世紀頃ヨーロッパに広がりました。現在のようなオレンジ色のにんじんは17~18世紀頃にオランダで作り出されたものといわれています。
東洋系にんじんは12~13世紀頃に中国に伝わり、改良されて日本にも伝わりました。伝来時期は定かではありませんが、日本では「新刊多識編」(1631年)に「胡蘿蔔(セリニンジン)」と記されていますので、少なくともその頃には伝わっていたと考えられます。
現在主流の西洋系にんじんが日本にもたらされたのは江戸時代後期になってから。その頃に現在と同じ西洋系にんじんが伝わり、それが明治時代以降に普及しました。
全体がなめらかなオレンジ色で皮に張りのあるもの。肩の部分が緑がかったものは避けたほうがよいでしょう。葉の切り口の軸は小さいほうが果肉がやわらかい傾向にあります。切り口の軸が太いと芯の部分が太く果肉もかたい可能性があります。
にんじんとは、セリ科の越年草のことです。地中海沿岸地方原産で、根は黄橙色・紅赤色で、円錐形で太く、地中に伸びます。葉は羽状に細裂します。野菜として栽培されます。
にんじんは、その根に頭や足・手と、人のような形をしたものが最上とされ、「人参」と名付けられました。ただし、ここでいう「人参」の名は、奈良時代には渡来し、薬用として栽培されていたウコギ科の「朝鮮人参(オタネニンジン)」のことです。
野菜のにんじんは、地中海沿岸地方から中国を経て、16世紀に日本に渡来しました。根が朝鮮人参、葉がセリに似ていることから、当初は「セリニンジン」と呼ばれたのです。
その他、朝鮮人参と野菜のにんじんを区別するために、「菜人参(なにんじん)」「人参菜(にんじんな)」、畑に植えることから「畑人参(はたにんじん)」などとも呼ばれました。やがて、野菜のにんじんが主流となり、セリ科のにんじんを指すようになったのです。
数日前から、オーストラリアの森林火災を心配していましたが、どうやら無事のようで安心しました。
ウェブニュースより
オーストラリアの森林火災が拡大、各地に緊急警報 数万人が避難へ ―― 森林火災が続くオーストラリア南東部では、気温の上昇や強風により激しさを増している。ニューサウスウェールズ(NSW)州の全域で78カ所の火災が制御不能な状態にあり、12日午後までに14件の緊急警報が発令された。数万人の住民が避難した一方、火災が広がる勢いが激しく、消防当局は避難が間に合わない住民もいる恐れがあるとの懸念を示している。
同州の消防当局幹部は「天候はさらに悪化し、特に強風がさらに激しさを増すため、午後を通じて状況は悪化する一方だ」と警告した。
今回の森林火災では週末に3人が死亡し、住宅150戸が損壊した。
クイーンズランド州とニューサウスウェールズ州の当局は11日、火災により「壊滅的な」状況が予想されるとし、州全域に緊急非常事態宣言を発令した。これにより、7日間の期限付きで消防当局に住民への避難指示や道路封鎖などの幅広い権限が与えられる。
シドニーは有害な煙が上空を覆い、呼吸器に問題を抱える住民に対して保健当局が自宅内にとどまるよう呼びかけている。ニューサウスウェールズ州全体で600前後の学校が休校となった。
オーストラリアでは例年、夏の時期に気温が上がって乾燥が続き、森林火災や山火事が起きやすくなる。
クイーンズランド州とニューサウスウェールズ州の一部では3年にわたって乾燥した気候が続いており、気候変動がさらに追い討ちをかけていると指摘する専門家もいる。 (Newsweek 2019年11月12日(火)18時58分)
大規模森林火災の豪東部、有害な煙霧に覆われる ―― 【12月10日 AFP】大規模な森林火災が発生しているオーストラリアのシドニーは10日、有害な煙霧で覆われ、街中で煙感知器が鳴り響いた。同日には強風と高温が予想され、火災がさらに激しさを増す恐れがあると市民は警戒している。
森林火災の影響で、有害な粒子を大量に含んだ煙が商業施設に流れ込み、消防車はサイレンを鳴らしながらシドニー中心部のオフィスからオフィスへと駆け巡った。
最も近い火災発生場所から数キロしか離れていない地元消防本部は、避難を余儀なくされたという。マスクを着用した通勤者らは、鼻を突く濃煙の中をむせながら通り過ぎていった。
有名な「シドニー・ホバート・ヨットレース(Sydney Hobart yacht race)」に先立って開催されるのが恒例となっている港でのヨットレースの主催者は、「視界が非常に悪い」ためレース開催は危険過ぎるとの判断を示し、「各地の火災による煙の影響は同港では非常に深刻で、とにかく何も見えない」とコメントした。
一部の通勤用フェリーも、「濃い煙の影響で」欠航となった。大気汚染は「危険」とされるレベルをはるかに超え、学校では休み時間にも児童・生徒を屋内にとどまらせる措置が取られた。
10日早朝までに、ニューサウスウェールズ(New South Wales)州だけで100件近くの森林火災が発生しており、クイーンズランド(Queensland)州でも数十件の火災が確認された。
シドニー北西部では、数週間続いた複数の森林火災が合流して「メガ火災」になっており、国立公園を中心に既に31万9000ヘクタールが焼失している。(c)AFP/Andrew BEATTY, with Daniel de Carteret in Gosford
(AFP 2019年12月10日 21:04) 発信地:シドニー/オーストラリア [ オーストラリア アジア・オセアニア ]
山火事でコアラ数百頭犠牲か 豪ニューサウスウェールズ州 ――【シドニーAFP=時事】オーストラリアの野生動物保護当局は30日、同国東部の沿岸地域で制御不能となっている山火事で、コアラ数百頭が焼け死んだ可能性があると明らかにした。(写真は資料写真)
山火事は26日、シドニーから北へ約400キロ離れた地域で、落雷によって発生したとみられる。これまでに400キロ2000ヘクタール以上が焼き尽くされ、現在も延焼を阻止できていない。
ニューサウスウェールズ州北部の野生動物救助団体は、火災が発生した地域に生息する「非常に珍しい」コアラの群れ数百頭が犠牲になったのではないかと、強い懸念をあらわにした。
ポートマッコリー・コアラ病院のスー・アシュトン院長は「この地域のコアラには、遺伝的に非常に多様性が高いという特殊な重要性がある」と述べ、「比類がないだけに、このコアラの群れを失うことは国家の悲劇だ」と付け加えた。
長期的な森林伐採や土地開発により、木の上で生活するコアラの生息地は失われ、群れ同士のつながりが絶たれた一方で、同種のコアラが親近交配するケースが増えたため、コアラの遺伝的多様性が失われたという背景がある。
深刻な干ばつに見舞われているニューサウスウェールズ州では、現在も70件以上の山火事が続いている。 (jiji.com 2019年10月31日11時23分)
はすの花が咲いた後、実のはいった花もうが肥大します。これがハチ(蜂)の巣に似ているため、「蜂巣」、それがつまって「はす」になりました。
食用として利用されるものの原産地はエジプト、インドのなどの説がありますが中国ではないかというの説が有力となっています。大陸から渡ってきた歴史は古く「常陸風土記」(718年)「延喜式」(927年)に記されています。
また、1951年に千葉で大賀博士は2000年前のはすの実を掘り出しました。驚いたことにそれが芽をふき、花を咲かせるほどの生命力があります。
「常陸風土記」より「神世に、天より流れ来たりし水沼なり。生ふる所の蓮根は、味わいとことに、うまきこと他し所に絶れたり。病ある者、この沼の蓮を食へば早く差えて験あり」とあることから、今とかわらずれんこんはおいしい上に病気が早く治るというのような薬膳の効果があったようです。
花は7月~8月の盛夏に集中して開花します。20枚あまりの花弁が朝早くから開き始め、午後には閉じて、4日目には開いたまま散ってしまいます。
日本ではレンコンはおせち料理に欠かせない物となっていますが、それはレンコンの形状に理由があります。輪切りにした時に丸い空洞が並んでいて、向こうが良く見える事から、「先の見通しが良い」という縁起を担いで食べます。
今、市場に出荷されているものにはかなり昔に中国から伝えられた在来種と、明治時代以降に中国から入ってきた中国種があります。
中国種は、ずんぐりと太く肉厚で、病気に強く収穫量が多い。在来種は、ほっそりとして柔らかく味が良い。現在市場に出回っているもののほとんどは中国種が占めるそうです。
中国種群は明治時代初期に中国から導入した品種を改良したもので、現在流通しているレンコンの多くがこの分類に入ります。比較的多く栽培されているのは、ふっくらと丸い「金澄(かなすみ)」系や「だるま」系の品種です。金澄は中国種群と在来種群のレンコンを交配して誕生した「金澄1号」から「金澄37号」まであり、中でも「金澄20号」が多く普及しています。また徳島県や愛知県で多く栽培されている節間が細長い「備中種」や、石川県や山口県が主産地の「支那白花」などもあります。石川県産のものは「加賀れんこん」、山口県産のものは「岩国れんこん」とも呼ばれます。
在来種群は江戸時代以前に日本に伝わり各地で根付いたものが在来種群として分類されています。中国種に比べると細長く少し茶色がかった色をしていて、肉質は粘質でやわらかく味がよいとされています。しかし根が深くて生産量が少ないため、あまり流通はしていません。品種としては「天王」などがあります。
かぼちゃはウリ科に属するつる性の植物で、現在日本で栽培されているかぼちゃは、日本かぼちゃと西洋かぼちゃ、ペポかぼちゃの3種類に大別されます。特に、日本かぼちゃと西洋かぼちゃの2種類のかぼちゃは短期間に(栽培の記録としては1615年ごろから)各地に土着し、著しい品種分化を遂げました。
日本かぼちゃは主に中部以南で栽培され、低温に強い西洋かぼちゃは北海道や東北といった高冷地に発達してきましたが、西洋系の品種が主流となってきた現在では、西日本でも寒冷時期に西洋種をハウス栽培するようになっています。
日本への渡来は日本かぼちゃ系品種が最も古く、16世紀 天文年間(1532年~54年)に豊後(現在の大分県)に漂着したポルトガル船によってもたらされたことが日本におけるかぼちゃの起源とされ、これと前後して長崎にも入ってきたとされています。当時の豊後国の大名であった大友義鎮(宗麟)に献上されたことから、「宗麟かぼちゃ」と名づけられた。
今では日本各地で様々な品種が作られ、日本かぼちゃ群としては、「鹿ケ谷かぼちゃ」や「黒皮かぼちゃ」「菊かぼちゃ」などが知られている。
その後明治時代にアメリカ合衆国から新しい品種が導入されたのが、現在日本で最もよく食されている「西洋かぼちゃ」と呼ばれるものです。現在の品種の系統としては、「くりかぼちゃ」や「坊っちゃんかぼちゃ」が有名だ。
「糸かぼちゃ(錦糸瓜・そうめんかぼちゃ)」や「ズッキーニ」、ハロウィンで使われるオレンジ色のかぼちゃなどで知られる「ペポかぼちゃ」はその後さらに遅れて渡来することとなるのです。
「かぼちゃ」という日本名の由来は、「カンボジア産の野菜」や「カンボジア瓜」と呼ばれていたものがなまって「かぼちゃ」となったというのが主説となっています。そして、「かぼちゃ瓜」と呼ばれていたものから「瓜」がとれて「かぼちゃ」と呼ばれるようになったともいわれています。
かぼちゃは、他にも、「ボウブラ」、「南瓜(ナンキン)」、「唐茄子(トウナス)」と呼ばれることもありますが、伝来の中で品種などによってはじめ呼び分けられてきたものが、現在では、さまざまな呼び名は方言として一般的に認識されるケースも多く見受けられるようになっています。
そもそも、日本かぼちゃは伝来の歴史においても二つのグループに分かれていたとされており、ひとつは「ボウブラ」、もうひとつは「南京かぼちゃ」と呼ばれていたといわれています。ボウブラは、ウリ科の植物を意味するポルトガル語「abobora」に語源をもつ系統です。また、中国から伝来したかぼちゃは、中国の南京の港から持ち込まれるかぼちゃ、という意味で「南京かぼちゃ」「南瓜(ナンキン)」と呼ばれてきたようです。中国でも、かぼちゃは「南瓜」と呼ばれ、「南蛮渡来の瓜」を意味しているといわれています。
唐の国からやってきた茄子という意味から「唐茄子(トウナス)」という別名で呼ばれることもあります。
かぼちゃは世界各国で広く分布し、古くから原産地についても異説が多くあったのであるが、近年中南米の遺跡の研究が進み、紀元前7000年~5500年のメキシコの洞窟の地層からかぼちゃの種が発見されたことにより、かぼちゃの原産地はメキシコとグアテマラにあたる中南米地域であるという説に落ち着きました。
コロンブスが発見する前のアメリカ大陸(メソアメリカ)における主な農作物は、かぼちゃのほかに、トウモロコシ、インゲン、ヒマワリ、アカザなどであったといわれていますが、他の主要な農作物であるトウモロコシや豆などよりも先にかぼちゃの栽培が一般化されていたであろうという一部の地域が、発掘調査や研究により明らかとなっています。
また、昔の品種は現在の肉厚のかぼちゃとは違い、果肉部は薄く繊維質、水っぽく苦味も強く、食べられる部分が少なかったらしく、遺跡から出土した標本などからも、古代のメキシコ人は果肉部分ではなく種子を煎って食べていたような形跡がみえるといいます。
このころはまだ土器を作る技術がなかったため、大きな「ペポカボチャ」や「ミキスタカボチャ」のなかで、外果皮が厚くて固く強いものを水や食料を貯蔵するための容器として使っていたと推測されているようです。
その後、おそらく突然変異によってできた果肉の甘いかぼちゃをアメリカの原住民が栽培種へと発展させていくことで、現在のかぼちゃへと次第に変化していったと考えられています。
白菜と言えば、みずみずしい葉が幾重にも重なり合い、頭部の葉がキュッとまとまった円筒状の形を思い浮かべます。これがいわゆる結球白菜で、現在最も一般的な白菜のイメージです。実はこの結球白菜、その国産第一号は名古屋で生まれました。それが野崎白菜(愛知白菜)です。
鍋物や漬物など、白菜は日本の食生活には欠かせない野菜だけに、きっとたくさんの人が、白菜は和の食材だと思っているでしょう。でも、白菜の原産地は地中海沿岸で、中国を経て日本に伝来したのは明治時代、そして国内に広く普及したのは大正時代になってからと、その歴史は意外に浅いのです。
国産第一号の結球白菜の歴史は、明治8年(1875年)の東京博覧会に端を発します。博覧会には中国(清国)から根付きの山東白菜が3株出品されました。
これが日本に初めてお目見えした結球白菜です。この3株のうち2株を愛知県の植物栽培所が譲り受け、栽培を試みることになります。でも、2株の白菜から種を採って育てても最初の白菜とは似ても似つかぬ姿に…。そう、なかなか結球しないのです!約10年に渡って種を採種し、良さそうな株だけを残すという淘汰栽培法を繰り返しても、せいぜい半分ぐらいしか葉が閉じない半結球程度のものしかできなかったそうです。それは、白菜の交雑性の強さが原因です。白菜はもともと同じアブラナ科のカブとパクチョイの自然交雑したものと考えられています。そのせいか白菜はアブラナ科の野菜を近くで育てているとすぐに交雑し、形質が変わってしまうのです。
ここで登場するのが、愛知郡荒子村(現名古屋市中川区)で、熱心に園芸農業に取り組んでいた野崎徳四郎氏です。
かねてから舶来野菜に大きな関心を寄せていた徳四郎氏は、県から種を入手し、白菜開発に挑み始めます。川の畔に畑を開いて白菜を育て、一株一株に番号札を付けて観察し、株の大きさ、葉の形、頭部の葉の開き具合の違いによって細かく分類。そして、あらかじめ印を付けておいた出来映えの良い白菜だけを一カ所にまとめて植え、自然交配させるという方法を試みるのです。毎年毎年、この方法を根気よく続けると、徐々に頭部の葉が内側へ巻き込んだ、形の良い白菜に…。
そして遂に!明治28年、徳四郎氏が栽培を初めて10年、中国から日本に渡来して20年、日本の地で初めて結球白菜が誕生したのです!
品種改良はその後も進められ、大正6年には県から正式に新品種と認められ「愛知白菜」と命名。そして、さらに純度を高めた「野崎白菜2号」へと発展して行きます。
白菜の歴史は意外に浅く、初登場は明治8年(1875)、東京で開かれた博覧会に中国(当時の清)からの出品という形でお目見えしました。その後、日清戦争・日露戦争に従軍した日本の農村出身の兵士たちが、大陸でハクサイを食べ、種を持ち帰ったのが、全国に広まるきっかけとなったと云われています。
中央アジア、ロシア、モンゴル、チベット、中国東北部、華北、華中地帯や韓国をたどってきた、華北系大根。この系統は、根が中型や大型で肉質は厚くて硬く、多様な色素もあり耐寒性と貯蔵性が高い。辛味も強く、主に漬物や生食、薬味などに適しています。
輸入種子での栽培は成功しても、その白菜から種を採って植えても白菜は出来ませんでした!どれもが他の植物に化けてしまったのです。なぜそうなってしまったかは全く分かりませんでした。だから、大正時代になっても白菜の種子を中国から輸入するしかなかったのです。
白菜は、アブラナや漬け菜(小松菜・野沢菜)やカブと同じ「種」の植物。日本に以前からあったアブラナやカブの花粉が、ミツバチや蝶を介して白菜と交じり合ってしまい白菜にならなかったのです。このことに気づくまでに、実に20年以上の年月がかかりました。
そこに気付いたのが40年間の努力・仙台白菜の恩人とありますが、宮城県で白菜の研究をされていた沼倉吉兵衛さんです。沼倉さんは、媒介となるミツバチが海を渡れないことに気付きました。
松島湾にある離島で、他のアブラナ科の植物を全部排除した上で、白菜を栽培すれば、自然交雑が防げて優秀な品種が作りだせるのではないかと考えました。そうして、この「馬放島」(写真)というところで、日本で初めて交雑していない種子の生産に成功したのです。
こうした努力の甲斐あって、やがて中国の種に頼ることなく、白菜の種をとることが出来るようになったということです。
学名:Brassica Oleracea
英名:Cabbage
仏名:Chou
日本での呼び名:きゃべつ、甘藍。玉菜はは結球する性質に由来します。
植物学的特性:あぶらな科 野生種は1年草ですが、栽培種は2年草。
ヨーロッパの地中海、大西洋の沿岸が原産地です。栽培の歴史は古く、紀元前600年ごろにケルト人によって栽培された野生種のケールがキャベツのルーツで当時のキャベツは球を作らず、約1000年前に現在の葉が巻く形になりました。その後、ヨーロッパ各地に伝わりました。
日本では、江戸時代の末期から作られはじめ、明治時代になって本格的なキャベツの栽培が始まり、大正時代には広く食べられるようになりました。更に、昭和25年ごろから消費が急増し今では食卓に欠かせない野菜になりました。
作付面積、収穫量はだいこん、ばれいしょに次いで、私達にはとても身近な野菜です。
グリーンボールは、その名のとおり丸い形。これまでは扁平形のキャベツがよいものとされていたので、丸いキャベツはとうが立っていると誤解されましたが、グリーンボールの登場で、丸いキャベツも市民権を得ています。
キャベツの親戚には、花を食べるブロッコリーとカリフラワー、茎を食べるコールラビ、わき芽を食べる芽キャベツと色々あります。
また、葉ボタンもキャベツの一種で鑑賞に改良されたものです。
キャベツは種類による分類と作型による分類ができます。
作型による分類は春まき・夏まき・秋・冬まき栽培が基本で、更に細分化しています。
・ 春まき栽培 ・・・ 3~6月に播種し、7~10月に収穫する作型。
・ 夏まき栽培 ・・・ 6~8月に播種し、11~4月に収穫する作型。
・ 秋・冬まき栽培 ・・・ 9~10月に播種し、4~7月に収穫する作型。
幕末の1850年代に伝わり、明治にかけて横浜周辺の根岸、子安、生麦などで居留地の外国人向けとして栽培されましたが、一般の日本人が口にすることはありませんでした。
明治になると殖産興業の一環として栽培が奨励されました。1870年(明治2年)農学者の津田仙が築地外国人居留地の居住者むけに種を取り寄せました。
1872年(明治4年)、北海道開拓使により札幌で試験栽培が行われ、北海道開拓使が発行した『西洋蔬菜栽培法』に「キャベイジ」の名で記載されました。
1874年(明治7年)内務省勧業寮が後の三田育種場で、欧米から取り寄せた種子で栽培試験を行ったのが、本格的な生産の始まりとされます。この後、増えた種子を日本各地42府県に配布と試作を依頼しました。多くの地で栽培に成功し1893年(明治26年)には外国人避暑客のために、長野県北佐久郡軽井沢町でも栽培が始まりました。
また、1945年(昭和20年)頃まで、一般的に「かんらん(甘藍)」と呼ばれていた。大正時代に品種改良が進められ、寒冷地に適することから、栽培は北海道のほか、東北地方や長野県で拡大した。需要は洋食をとる人が限られた太平洋戦争前にはそれほど普及しませんでした。戦後、食料増産と食の洋風化が相まって生産量は急激に増加し、1980年代にはダイコンと並ぶ生産量となりました。
これ以前にも、江戸時代前期にオランダから持ち込まれ、一部で栽培されていたと見られる。貝原益軒が1709年(宝永6年)に出版した『大和本草』にはオランダナ(紅夷菘)として「葉は大きくて艶がなく白っぽい。花はダイコンに似る。おいしい。3年で花が咲き、カブの仲間である」と紹介されています。
しかし食用として広まることはなく、むしろ観賞用としてハボタンを生むこととなった。また、ハボタンがケールの品種であることから、渡来したのはキャベツではなくケールだったと考えられます。
ウェブニュースより
吉野彰氏にノーベル賞授与 環境社会へこれからも挑戦
【ストックホルム=福井健人】ノーベル化学賞を受賞した吉野彰・旭化成名誉フェローは10日夕(日本時間11日未明)、市内のコンサートホールで授賞式に臨み、スウェーデンのカール16世グスタフ国王からメダルと賞状を受け取った。授賞理由となったリチウムイオン電池の開発は、スマートフォンやパソコンを気軽に持ち歩ける「モバイル社会」の実現を後押しし、再生可能エネルギーを生かす環境社会への扉を開いた。最高の栄誉にふさわしい功績を世界がたたえた。
日本のノーベル賞受賞者は18年の本庶佑・京都大学特別教授に続いて27人目(米国籍を含む)。化学賞の受賞は9年ぶり。企業研究者としても歴史に名を残した。
授賞式は約1500人の招待客が見守った。吉野氏の家族や同僚らも参加した。吉野氏は緊張した表情で前に出ると、国王からメダルと賞状を手渡された。国王と固い握手を交わすと、緊張もほぐれたのかいつもの笑顔が戻った。深々と一礼をして感謝の気持ちを表すと、会場からは大きな拍手が湧き起こった。
今回の受賞は、過去の偉業を称賛するとともに新たな挑戦の原動力となる。吉野氏は授賞式前、「エネルギー革命の中心を担う」と語った。
志すのは、大容量のリチウムイオン電池を載せた電気自動車が走り回る「持続可能な社会」の実現だ。風力や太陽光でつくった再エネを電気自動車に充電。天候任せで不安定だった再エネを、日常生活や災害時に使いこなす。 (日本経済新聞 2019/12/11 1:43)
藤井七段が最年少タイトル戦へ前進、北浜八段を下す ―― 将棋の最年少プロ、藤井聡太七段(17)が10日、大阪市の関西将棋会館で指された第91期棋聖戦2次予選で北浜健介八段(43)を130手で破り、決勝トーナメント(T)進出まであと1勝に迫った。
藤井が屋敷伸之九段の持つ最年少タイトル挑戦記録(17歳10カ月)を更新するには今回の棋聖戦がラストチャンスとなる。
中盤にリードを広げた藤井は「序盤に少し誤算があり、自信のない展開になった。なんとか盛り返すことができた」と振り返った。
https://www.youtube.com/watch?v=miSuP7kL3yM
最年少タイトル挑戦の記録がかかった第69期王将戦の挑戦者決定リーグでは、挑戦権獲得まであと1勝に迫ったが、最終戦で敗れ、逃した。
棋聖戦の決勝Tはシード棋士を含む16人によるトーナメント戦。藤井は同棋戦で負けた時点で記録更新が消滅する。タイトル戦登場の最年少記録を更新するラストチャンスについて「まだまだそこまでは遠いです。まずは決勝トーナメント入りを目指して1局1局をがんばっていきたい」と話した。 [日刊スポーツ 2019年12月10日18時31分]
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