瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 今朝のウェブニュースより
7d93521c.JPG 民主16人造反、処分へ 11年度予算案が衆院通過 ―― 一般会計総額が過去最大の92兆4116億円となる2011年度予算案は1日未明の衆院本会議で、民主、国民新の与党の賛成多数で可決、参院に送付された。採決では民主党会派に離脱届を提出した16人全員が欠席。民主党執行部は「予算案での造反行為は重大」として処分する方針だが、菅直人首相の求心力低下は避けられない。/予算案は憲法の規定により参院送付後30日で自然成立するため予算の年度内成立が確定した。ただ参院で野党が過半数を占める「ねじれ国会」の下、赤字国債発行のための公債発行特例法案など重要な予算関連法案に野党の協力は得られない状況。野党は衆院解散を求め対決姿勢をさらに強める構えで、党内情勢と併せ首相の政権運営が行き詰まる可能性もある。/与党は2日にも参院予算委員会で、首相と全閣僚が出席し基本的質疑に入る考え。野党には予算案だけを先行処理し、歳入の裏付けとなる関連法案の参院送付を遅らせたことに反発もあるが、審議日程は妨げないとみられる。/予算案をめぐり2月28日中の衆院通過を目指した与党に対し、野党は中井洽衆院予算委員長(民主)の解任決議案や予算の組み替え動議を提出して抵抗。いずれも否決されたが、衆院本会議での予算案採決は1日未明にずれ込んだ。   (47NEWS、2011/03/01 06:07 【共同通信】)

 歐陽脩(欧陽 修、おうよう しゅう、1007~1072)は、北宋仁宗から神宗期の政治家、詩人・文学者、歴史学者。字は永叔(えいしゅく)、醉翁(すいおう)・六一居士と号す。謚号(しごう)は文忠。唐宋八大家の一人である。/吉州廬陵(現在の江西省吉安県)の比較的貧しい家庭に生まれ、4歳で父を失う。正規の教育によらず自学自習で、1030年(天聖8年)進士に及第、開封府尹の任に就く。高官への途が開けたが、この環境で培われた独立不羈の思想は、彼の特質のひとつであり続けた。以後、館閣校勘等を歴任するが、1036年(景祐3年)、改革派の范仲淹(はんちゅうえん、989~1052年)を越権してまでも弁護したため、夷陵県令に左遷された。/約10年の地方勤務後、中央に返り咲き諌官に任ぜられ、范仲淹らと慶暦の改革を進めるも、仁宗の不興を買い、1045年(慶暦5年)には誹謗されて滁州(安徽省)の知事に再び左遷された。/数年を経て、再び中央に返り咲き、翰林学士等要職を歴任。1057年(嘉祐2年)権知礼部貢挙に上り、科挙試験を監督、蘇軾を見いだす。その後、枢密副使・参知政事(副宰相)に至り、蘇洵や王安石を登用した。王安石の新法を早くから支持していたが、実際に新法が実施されてみると、逆に青苗法に対してきびしい論考を張るなど、最も強力な反対派の1人になり、そのまま政界を引退した。引退翌年の1072年(熙寧5年)、隠棲先である潁州(安徽省)にて没した。/散文においては韓愈の例に倣い、いわゆる古文復興運動をすすめた。滁州の自然や人々の生活を描写した「醉翁亭記」は、有名な作品のひとつであり、中国の紀行文の最高水準のひとつとして賞賛される。韻文では詩(漢詩)と詞をともに書き、気取らず、ユーモラスな作風である。詩は、晩唐の絢爛たる文体を避け、盛唐期の威風を残した無駄のない質実剛健なものである。
以下の「酔翁亭記」は滁州の知事に左遷された欧陽脩40歳の時の作である。
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3a7ec32c.JPG 滁州(じょしゅう、安徽省滁県)の周りはみな山である。その西南の峰々の、樹に覆われた谷間が取り分け美しく、遠く望めばこんもりと奥深く見えるのが、瑯琊(ろうや)の山々である。/山道を六、七里(三キロ余り)行くと、二つの峰の間からさらさら注ぎ出す水の音が次第に聞こえてくる。それが醸泉(じょうせん)だ。峰を廻(めぐ)り路を曲がると、泉のほとりに翼を拡げたようにして立つ亭(あずまや)がある。それが酔翁亭である。/亭を造ったのは誰か。山の僧、智僊(ちせん)という人である。名をつけたのは誰か。滁州の太守(州知事)たる私だ。太守は客人たちと来て、此処で飲む。少し飲むとすぐに酔う。しかも年が最年長。そこで自ら「酔翁」と号した。「酔翁」のつもりは、酒にはなく、山水の間にある。山水の楽しみは、心で捉えるものだが、これを酒に託(かこつ)けたのである。/さて、日の出には林の靄が開け、雲の帰る夕暮れには巌屋は真っ暗になる。暗く明るく速やかに変化するのが山間の朝夕である。野の花が咲いて、ゆかしい香りを放ち、立派な木々が聳えて、豊かな影をつくる。風は高く霜は厳しく、水は澄んで石が見える。これが山間の四季である。朝に出かけて夕暮れに帰れば、四季の景色はそれぞれ異なり、楽しみもまた極まりない。/さらに薪を背にした者が道々うたい、道行く人は木陰に憩い、先に往く者が呼ぶと、跡を往く者が答える。腰の曲がった老人や手を引かれた子供までが、絶えず行き来している。これが滁州の人々の行楽の姿だ。
 谷川に出かけて魚を取ると、谷が深いので魚は肥え、泉の水で酒を醸せば、泉の香りがして酒はすむ。山の肴に野の蔬菜、雑然と前に並んだのが、太守の宴会。宴たけなわの余興は、琴でもない笛でもない。的を射当て、碁をして勝てば、杯を取り交わし、投壺の矢が投げ交わされ、立ったり坐ったり大声で騒いでいるのは、客たちのはしゃいでいる姿。やつれた顔、白い髪。人々の間で形をくずして坐っているのは、太守の酔うた姿である。/やがて夕日が山に落ち、人影がまばらに散って行くのは、太守が帰り、客たちがお供をするのだ。木々の林がかげり始め、鳴き声があちこちで聞こえるのは、行楽の人が去った後、小鳥たちが楽しんでいるのだ。しかしながら小鳥たちは山林の楽しみを知って入るが、人の楽しみを知らぬ。人は太守の行楽のお供をする楽しみを知ってはいるが、太守が人の楽しそうなのを楽しんでいるのをしらぬ。酔えばその楽しみが分かち合え、醒めれば文章で述べるのは、太守である。太守とは誰のことが。盧陵の欧陽脩、この私である。
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瘋癲爺のセンスがよい
 京都大学入試の携帯投稿事件がショックでした。反面教師にしなければならないんですネ。
 ところで、わたしが中学二年生の時、勉強した欧陽脩の「酔翁亭記」を取り上げられたことなんて、さすが瘋癲爺はセンスがありますね。懐かしい名文なのです^^。
シン 2011/03/01(Tue) 編集
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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