葵(アオイ)と言えば、古代から中世までは、冬でも咲く冬葵(フユアオイ)でしたが、江戸時代の近世以降は、葵(アオイ)と言えば、立葵 (タチアオイ)のことを意味するようになったとされています。
タチアオイは以前は中国原産と考えられていましたが、今はビロードアオイ属のトルコ原産種と東ヨーロッパ原産種との雑種であるとする説が有力です。
中国では前漢(紀元前206~8年)の時代にはすでに栽培されていたらしく、紀元前二世紀頃に編まれた『爾雅(じが/中国最古の類語・語釈辞典)』に「蜀葵」の名で登場します。これは蜀の国(?~紀元前316年)から伝来したアオイということを表しています。
また、敦煌の壁画の一つである「楽庭壊夫人供養図」に一株のタチアオイらしいものが描かれてあるそうで、この植物がシルクロードに沿って西域から中国へと伝播したことを示唆しているのかもしれません。
どうして、「アオイ」と言うようになったのか? 諸説ありますが、そのうちの1つはこの植物が太陽の方に花や葉をを向けて、まるで、お日さまを仰ぐように咲くことから「仰日(アフヒ)」と呼ばれ、それが変化して「アオイ」になったという説があります。
「葵」の字が最初にあらわれるのは『万葉集』(7世紀後半~8世紀後半に成立)の第3834番の歌です。
梨棗 黍に粟嗣ぎ 延ふ田葛の 後も逢はむと 葵花咲く
(なしなつめ きみにあはつぎ はふくずの のちもあはむと あふひはなさく)
この歌には、 黍(きび)に粟(あは)つぎ ⇒ 君に逢はつぎ
葵(あふひ) ⇒ 逢う日
という掛詞にがつかわれています。「後(のち)も逢はむと 葵(あふひ)花咲く」から、「逢日(アフヒ)」に由来して、葵(アオイ)になったという語源の説があります。
さて、この万葉集で歌われたこの歌の葵とは、冬葵(フユアオイ)のことだとされていますが、「日本の植物学の父」と称された植物学者の牧野富太郎はこの万葉集で歌われた葵は立葵であると主張しています。
その後、918年ごろに成立したという『本草和名(ほんぞうわみょう/現存する日本最古の薬物辞典)』を見ると、「蜀葵」の和名として「加良阿布比」をあげており、これが今でいうタチアオイであると考えられています。つまり、平安時代(794~1185年頃)中期にはすでに渡来していたのです。
その後の特筆すべきこととしては、画材として注目されたということが挙げられます。室町時代(1336~1573年)の作品では、狩野派の画人が描いたとされるボストン美術館所蔵の名画「麝香猫(じゃこうねこ)図」に紅花と白花の見事なタチアオイが描かかれています。
そして江戸時代になると、多くの品種も作り出きれ、琳派の画人たちが好んでタチアオイを描きましたが、なかでも酒井抱一(ほういつ)が残した“十二か月花鳥図”の「立葵紫陽花に蜻蛉」の中のそれはとても優雅なものです。
この立葵の学名は Althaea rosea、 Althaeaは「アルテア属」で、roseaには、「バラのような」という意味で、Althaeaはギリシア語由来の古典ラテン語に由来し、ギリシア語「althaia」は「althaino」(治療)が語源です。Althaea roseaは、薬用の効果があるとされ、その立葵が日本に伝わった古くから薬草として伝わってきたといいます。その立葵は、梅雨が始まるころの6月上旬に咲き、梅雨明けのころの花の季節が終わるので、「梅雨葵」という別名があります。
家紋に使われる葵(徳川家の「三つ葉葵」、下鴨神社の「双葉葵」など)は別科であるウマノスズクサ科のフタバアオイの葉をデザインしたものです。
愛知県豊川市の伊奈城趾公園に、「葵の紋発祥の由来」という石碑と、「葵の紋発祥ゆかりの地」という説明パネルがあります。本多家の「立葵の紋」と徳川家の「三つ葉葵の紋」を示しています。
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