―③イタリア・ローマの古代競技場コロッセオ― も中世版と重なりますので、―④ヨルダンの古代都市遺跡群ペトラ―について調べました。
現代の世界七不思議④ヨルダンの古代都市遺跡群ペトラ
ヨルダン中南部に位置し、死海とアカバ湾の間にある渓谷に築かれた古代都市ペトラ。
砂漠地帯にこつ然と現れるこの巨大な遺跡は、ペルシャ語で「崖」を意味する名前の通り、高さ約60~100mにも及ぶ断崖絶壁と、「シーク」と呼ばれる岩の裂け目によってできた幅3mほどの細い道で構成されています。
この天然の要害ともいえる地形を利用して、紀元前2世紀頃、遊牧民族ナバテア人によって築かれました。
ナバテア人は、もともとペトラ周辺を拠点に活動していた遊牧民でしたが、砂漠を移動するキャラバン隊との貿易によって莫大な富を築くと、すでにペトラに住んでいた先住民エドム人を追いやって、この地で定住生活を営むようになったといいます。
ナバテア人は切り立つ断崖を削ることにより、ほかに類を見ない巨大な建築物を次々と生み出していきました。
同時にペトラはアラビア交易の中継地として栄え、最盛期には数万人ともいわれる人口を抱える大都市に発展。アラビアの北西一帯を支配するまでに至りました。
この砂漠の都市がここまで繁栄した理由のひとつに挙げられるのが、ナバテア人の治水技術の高さ。
ペトラ周辺は完全な岩礁地帯であるため、農業に不向きなうえ、雨が降ると、雨水が地面に吸収されることなく鉄砲水となって渓谷内を通過していくという過酷な土地でした。
そこでナバテア人はダムを作ることで鉄砲水を防ぎ、さらに街中に水道管を張り巡らせて砂漠地帯でも水が常に得られる給水システムを作り上げたのです。
遺跡には今も当時の水道管の跡などが残されていて、当時の技術の高さをうかがい知ることができます。
遺跡に残る主な建築物は、古代ギリシャ建築の影響を受けていますが、紀元前64年頃から古代ローマ帝国の将軍、ポンペイウスによってその支配下に置かれると、街にはローマ風の建築物が造られるようになっていきました。
しかしその後、たび重なる大地震などの影響で衰退の一途をたどったペトラは、ついに749年に滅亡。
1812年に発見されるまで、およそ1000年にわたって誰にも見つかることなく眠りについていたのです。
このため、「忘れられた都」とも呼ばれています。
ぺトラ観光のクライマックスは、いちばん初めにやって来ます。
それは、ペトラを象徴する建物「エル・カズネ」。
ペトラへと続く「シーク」は、人ひとりが通るのがやっとという狭さ。そして両脇には高さ約60~100mという圧倒されるほどの断崖がそびえ立ちます。
この細く暗い道を30分ほど進むと、突然視界が開けたところに「エル・カズネ」が現れるのです。
映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」の舞台としても知られるこの建物は、幅約30m、高さ約43mに及び、1世紀初め頃に造られたとされます。
「エル・カズネ」とは「宝物殿」という意味ですが、葬祭殿、霊廟、寺院など諸説あり、その使用目的は今もって謎とされています。
ペトラには数十もの遺跡があって、見所もたくさんあります。
たとえば、3000人もの収容人数を誇るローマ式の円形劇場、「王家の墓」と呼ばれる岩窟墳墓群、そして800段の石段を上り詰めた先にあるペトラ最大の遺跡「エド・ディル」(修道院)は、映画「トランスフォーマー / リベンジ」の舞台になったことでも知られています。
また、岩山の頂上にある「犠牲祭壇」は、ペトラ屈指のビューポイントとなっていて、眼下に広がる遺跡群と荒涼とした赤茶色の大地は一見の価値があります。
ちなみにペトラでは現在も発掘調査が行われていて、観光用に公開されている部分は、驚くべきことに遺跡全体の1%にすぎないとのことです。
残りの99%にいったいどんな謎が埋もれているのか、考えるとワクワクしてしまいますね!
無数のキャンドルが照らされた幻想的なペトラが見られるイベント、「ペトラ・バイ・ナイト」。
ふだんは昼間しか見られないペトラですが、このイベントでは真っ暗ななか、キャンドルの灯りを頼りに「シーク」を歩いて「エル・カズネ」まで行くことができ、さらなるアドベンチャー感を体験できます!
sechin@nethome.ne.jp です。
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