瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
自伝ともいうべき『論衡』自紀篇に拠れば、先祖は元々は魏郡元城の人だったが、従軍で功績があって会稽郡に陽亭として着任していた。そこで土地の者と諍いを起こし、難を逃れるために祖父の王汎のときに銭唐に移り住んだ。王家は銭唐で商売を営んでいた。王汎の子の王蒙・王誦のときにまたもや土地の人との間に争いを起こし、一家揃って上虞に移住した。王充は建武3(AD27)年に、王誦の子として生まれた。幼少のときから人に馬鹿にされることを嫌って子どもたちと遊ぶこともなく、8歳の頃から書館(学校)に出入りして勉強を始め、成人すると都(洛陽)に出て太学で班彪(『漢書』の著者の班固の父)に師事して学問を修めた。洛陽にいた頃は貧しくて書物を購入することができず、市場の書店で立ち読みして内容を暗記し、ついに諸子百家の学問に通じるようになったというエピソードも伝えられる。
学問を修めた後に郷里に戻って地方行政の下級官吏となったが、上司との意見が合わず、出世することはなかった。30歳代で官職を辞し、郷里の子弟に学問を教えながら、自身は書物・俗説の虚実を見極めようとし、著述に打ち込むようになった。「譏俗」「政務」などを著したものの満足せず、王充の目で見て合理的とはいえない讖緯説・陰陽五行説などが流行していたことを遺憾として、のちの『論衡』につながる著作を開始したとみられている。「譏俗」「政務」の書物は現存していないが、『論衡』と同じように批判精神に富んだ筆致であるか、あるいは『論衡』の中に収められている可能性もあるとみられている。
元和3(AD86)年には揚州刺史の董勤に召されて60歳で治中従事史となり、仕事のために著作の意志が弱まったようだが、章和2(AD88)年には辞任して隠棲することとなった。隠棲した後にも、同郷の友人の謝夷吾が和帝に上書して登用を薦めたが、王充はもはや病を得ており出仕することはなかった。この後に「養性」16編を著したというがこれも現存しておらず、あるいは『論衡』の中に収められている可能性もあるとみられている。こうして『論衡』の完成に情熱を注ぎいれ、永元年間(89~105年)に、病のために生涯を終えたという。
長い歳月の間に記されたものと考えられ、そのため書中では一貫性が欠けている面もみられるが、虚妄的な儒学の尚古思想を一蹴し、合理的に物事を究めようとする立場は当時の思想としては大胆かつ革新的なことであった。編述を終えた時点では100篇を超える構成であったというが、『後漢書』に挙げられた時点で85篇とされており、さらに巻15の「招致篇」44は散逸して篇名を伝えるだけとなっている。王充の死後に本書が世に出たのは2世紀末であり、蔡邕が呉(蘇州)で入手して人と語らう際の虎の巻としたことや、会稽太守となった王朗が同地で一本を発見したことによるという。一個人による百科全書的著作であり唐代までは大著として評価されてきたが、その記述姿勢が孔子・孟子に批判的であるという点から、宋代以降は無法の書として省みられなくなった。そのため、本文校訂も十分には進んでおらず、ようやく清末になって部分的注釈がなされ、中華民国時代になって詳細な注釈が完備した。1970年代の中華人民共和国での批林批孔運動(林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動)の際には孔子を批判していた先駆的な思想書として評価されたという。
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