敬譲語や丁寧語についで大きな特色のあるのは漢語の氾濫です。「此節のやうに新聞紙やうなものに迄もむずかしい字が沢山あっては私共には一向読みが下らず……」と投書欄に苦情が出るほど四角張った漢字で埋まったのです。もし、明治維新が、江戸市民で代表されるような真の市民革命だったら、俗語が中核となってもっとスッキリした近代日本語が出来上がっていたかもしれません。ともあれ、教育ある人々は漢語を作り、乱用したのです。たとえば、先の「欧州小説・黄薔薇」の中でも将来官途に就こうという人間が次のように叫んでいます。
然らば我輩から両人の懇願する次第を陳弁しますが、実は恥をお話し申さんぢやァ事情が明了しませんから其根源より申せば一体我輩等に大学予備門に入りて勉学の効を積み進んで大学科を修め業なるの後は国家有為の事業を起こすか官途に出身して行には自ら政権を執るの地位に陛り百般の政務を改良して旭日の光を全地球に輝かさんとの目的にて当初は誓ッて此目的を貫かん只管勉強してをりました……
それなら、私からお願いするわけをお話ししますが――と易しくやってもよさそうなのに、上のようにいかつい調子で雄弁を振るうのです。上のほか強壮・跋渉・嚢中・空隙・焦慮などかたぐるしい漢語が目立ちます。
横瀬夜雨編「明治初年の世相」に次のような記事があるのもこうした一面をよく物語っています。
芝居のいわゆる散切物をみますとこうした漢語がセリフの中にたくさんおり込まれています。
男女平等・専売特許・造化(造化機論)・因循・旧弊・曖昧・文明開化・失敬・権妻(妾のこと)・窮理(物理のこと)・演説などは明治前半の流行語として一世を風靡した漢語です。魚屋の小僧や下女までが因循や失敬を愛用したのです。
科学・学術語は江戸時代の蘭学者による翻訳語も考えねばなりませんが、〈絶対・形而上学・演繹・心理学〉などいずれも明治なにってからの新造語で、西周・井上哲次郎・福沢諭吉などそうした造語家のうちに数えられます。
なお、新漢語と関連して読み方の変わったものも注意されます。江戸時代で音声(おんじょう)が明治になってオンセイように。二、三例をあげますと、
言語 → ゲンゴ 利益 → リエキ 尊敬 → ソンケイ
男子 → ダンシ 決定 →ケッテイ
言うまでもなく後者が現代語になっているわけでして、漢音で統一されてくるのです。
最後に女性のコトバについて、触れておきましょう。
a、若旦那はどうなさいました あれぎりぢやァあんまりでスからモウ一ペン後生でごさいますヨ……さうたい今の若い芸者衆はふざけているわネ (「安愚樂鍋」茶屋女・芸者)
b、御母さん何の御用で御座います。お茶を召し上がりませんか。……お春モウ私は迚も長いことはあるまいお前は今梅次郎さんに逢たら其の面貌が分かるであろうか。……私も深谷さんの書きました物を持って居りますが……中々並の人とは思はれませんワ(「雪中梅」母と娘の会話)
c、今日はよく入っしゃられましたネ、態々お招待申しでましても未だ普請が漸と出来たばかりですから殺風景とやらで困りますワ。……何も大層お見事なご普請でございますヨ(右同、上流階級の令嬢とその友人)
aとb、cでは時代に15年の隔たりがありますが、それよりも注意されるのはデスが芸者や茶屋女の口から専ら聞かれたのが時代と共に一般的となりcのように令嬢までもが用いるようになったことです。cの女コトバに殺風景という単語も上流階級のインテリ女性の性格をしめしています。江戸末から明治にかけて、最も著しいのは〈デス〉でありますが、特殊語だったのが一般となり、標準的な東京語に定着するのです。bの母と娘の対話はほぼ当時の東京の中流家庭と考えてもよいでしょうから、これによってもゴザイマスが丁寧な言い方として標準的であり、デスはゴザイマスとダの中間的表現を受け持つという点で一般化していきます。~ワも江戸後期に既に見えるものですが明治に入って女性特有のひびきをつたえるものとして、一般的となるのです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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