コトバは人間の知恵を離れては存在しません。とすれば生活表現の一典型を諺(ことわざ)に求めることが出来ます。
特に書きコトバと縁の薄かった庶民階級は、自分たちの貴重な体験を、ただここの事実の多様性を知るに留めないで、一つの普遍的な学びとしてまとめます。それらが言語形式をとるとき、いわゆるコトワザが発生し、うたわれるのです。
コトワザの本来の意味は、辞書類にも説明されているように言技(コトワザ)で、一種の言語技術かも知れません。しかし、それはただ表れた形について後から説明を加えただけで本質的なものでありません。単に、話し方の技術ならば、それこそ〈巧言令色鮮仁(コウゲンレイショクスクナシジン)〉――お世辞たっぷりで口上手な人は仁が少ないという訳で、排斥される性質のものです。コトワザの本質は人間の日常生活の知恵が凝(こ)って作り上げられた尊いコトバということです。もちろん、現代から見れば生活体験を経ずに、ただ書物から抜き取った文句もあるでしょう。漢籍や仏典からそのまま切り取って我がものにしたものもあります。文字通り、学問のある人の口から、権威を以って語られるものには、それはそれとして尊い教えが込められていることでしょう。格言などと呼ばれるものの大半はそうしたものなのです。しかし、そこには上⇔下という関係での物言いが強く、時には一方的な強(し)い語りに終わるとが多いのです。コトワザの本質はそうしたところにあるのではありません。
もしコトワザが言語技術であるならば〈秀句、軽口、語呂合せ〉などと変わりありません。後者は言語遊戯であって一種の遊びです。コトワザが真剣な生活体験から生まれ出たのとは本質的な違いがあります。もっとも、共に言語作品であり、そのまとまった形においては多くの類似点もあります。短く、口調がいいこと、多くの比喩の形式が取られていること――など、すべて同じ服装を纏っています。しかし、外面的な服装に惑わされることがないように、その内容を説くと考えねばなりません。秀句や語呂合わせは、いわばコトバのためのコトバであり、コトワザは生活のためのコトバなのです。
コトワザが書物にあらわれるのは、遠く古事記の昔からです。「雉の頓使(ひたつかい)」=行ったきりで戻ってこない使い、「地(ところ)得ぬ玉作り」=當てにしたご褒美を得られない、「堅石も酔人を避く」=どんなに堅い石も 酔っぱらいは嫌いなので避ける、「海人なれや、己が物から泣く」=海人は新鮮な海の幸を扱っているので、早く処理しないと、腐ってしまって自分が泣くことになる……などのコトワザが記載されています。
コトワザは時代が下るにつれて多くなり、中世~近世にかけて次第に書物をにぎわせます。特に近世には、全くコトワザによってテーマのたてられている咄本や小説があります。ハムレットやドン・キホーテを見ればわかる通り、これは洋の東西を問わぬようです。
市井のおかみさんの口からも得意満面とコトワザが飛び出し、言技(コトワザ)に近い会話が現われてきます。とりわけ江戸っ子は言語遊戯に長けている所為か、内容をゆがめ、意味を曲解しても、形式的なコトバのリズムによって喋りまくります。公のことではなく、私的なことには必要以上に喋り散らす下司下郎の登場ともなるのです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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