明治から一足飛びに現代へととんでしまいますが、この爺が上京してきたころは人口もどんどん増えていく頃でしたが、東京の地域は年々郊外へ広がっていました。東京は全く得体のしれないマンモス都市へと化しつつありました。
コトバもこの例に漏れません。日本国中のコトバのはきだめが東京であったのです。テレビも余り普及していない頃でしたが、東京へ来れば日本国中の方言を聞くことが出来たのです。
新宿・池袋あたりの居酒屋や小料理店に行けば、メラシ(女・東北方言)が国コトバでサービスしてくれました。当時爺はこの方言集団の真っただ中にいました。下宿屋には各部屋に東北・北陸・近畿・中国・四国・九州から上京した学生が2・3人ずつ下宿していて、否応なしに○○弁を聞かされました。彼らは爺と話すときにはお互いに事務的に東京語というもので話しますが、同郷人同士ではハンカクセエ(青森・いやらしい)とかウディシィ(鹿児島・いやらしい)としゃべり続けます。この爺にはまるで外国語のように響きますが、爺たちは同郷の者たちとチョル言葉(北九州・~している)を連発していました。
こうした連中が故郷(くに)へ帰れば、自慢げに或いは知らず知らずのうちに東京語を流布させていました。
東京にも方言があります。今でこそ少なくなりましたが、ヒとシの区別のつかない人が可成りいました。爺が下宿した家の小母さんは爺のことを「シダカ(日高)さん」と呼んだし、潮干狩をシオシガリ、御姫様をオシメサマと言っていました。
アメリカへ行くと世界中の人種にお目にかかれると言い、各国語を耳にすることが出来ると言います。そういう点では東京もアメリカ並みでした。モナミ(仏、mon ami、わが友)という軽食堂では1個20円のおにぎりを売っていましたし、〈道草〉というトリスバーで一杯120円のジン・フィズ(英、Gin Fizz)を飲ませてくれました。音楽喫茶のラ・セーヌ(仏、Lasaine)ではマンボ・ジャズ・民謡、果ては軍歌まで聞かせてくれるといった具合でした。ザピーナッツとかペギー葉山とかいう合いの子めいた純粋の日本人がキスにサを挟んだ挟みコトバのような〈キサス、キサス、キサス(多分というスペイン語だそうです)〉を歌いまくっていました。国籍不明のコトバが通りから通りへと流れていました。まさにコトバのゲテモノの氾濫です。デンカ(電化)やアンポ(安保)などの略語も多く、コンヒマ族(今晩暇で一緒に遊んでくれる人)などそのうち語源も判らなくなるでしょう。
ともかく、東京語は長い風雪に耐えて生きてきたものなのです。
以上、江戸・東京のコトバについて、述べてきましたが、此れを以ってこの項をおしまいにします。次は何について書こうかな?
sechin@nethome.ne.jp です。
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