わびぬれば しひて忘れむと 思へども
夢と言ふものぞ 人頼めなる
藤原興風 古今集巻一二 569
宣長の説にしたがって、第二句を「しひて忘れなむ」できり、第三句を「と思へども」と読めば、第二句は「字余り」はなくなり、第三句の方が「字余り」になりますけれども、「とおもへども」と、句中に単独母音「お」を含むので、「字余り」の法則は犯されていません。
菅原道真の編と言われる『新撰万葉集』(893年成)には同じこの歌の第三句を「鞆倍鞆」と表記しています。トモヘドモとしか読みようのない文字です。助詞「と」が第三句の頭に位置していた有力な証拠といえます。
「ともへども」は「とおもへども」の「お」の脱落した形です。単独母音「あ」「い」「う」「お」は「字余り」の句の中にあって、しばしばこのような脱落をおこしました。あるいは、直前の音節の尾母音と融合して姿を消しました。この歌でも第四句の「夢といふものぞ」の字余りが、『興風集』などには「夢てふものぞ」という形で伝わっています。
年のうちに 春は来にけり ひととせを
こぞとや言はむ 今年とや言はむ
古今集巻一 0001
春きぬと 人は言へども うぐひすの
鳴かぬかぎりは あらじとぞ思ふ
古今集巻一 0011
上の2句で、 部はいずれも「字余り」となっていますが、これらをローマ字で書いてみると、
年のうちに → toshinouchini
今年とやいはむ → kotoshitoyaihamu
あらじとぞ思ふ → arajotozoomohu
のようになり、「字余り」の句の中には母音が2つ並んでいるということがわかります。
「字余り」の句中になぜ母音が2つ連続して現れるのか、その理由は日本語の母音の特性を知らなければ理解できません。
国文学者 橋本進吉はその論文の中で、日本語では語頭に母音を有する語が、他の語に結合して複合語または連語を作る時、
(1) その母音音節が脱落する。
ナガアメ(長雨)→ナガメ カリイホ(仮庵)→カリホ
タツノウマ(辰の馬)→タツノマ カタオモヒ(片思)→カタモヒ など
(2) その直前の音節の母音が脱落して、その音節を構成した字音と次の母音音節の母音が結合して新しい音節を作る。
アライソ(荒磯)→アリソ アラウミ(荒海)→アルミ
ニアリ(に在り)→ナリ ズアリ(ず在り)→ザリ など
と言っています。
どちらにしても、結局は単独の母音音節が姿を消してしまうわけですが、これは二つの母音が直接接触し合うのを避けようとしたものなのです。古代語において特に顕著に見られます。
とにかく母音音節が句の内部にあれば、六音又は八音の句でも五音又は七音の句と同等に取り扱われたいうことは、母音音節が前の音節の母音に接して現れる場合には一つの音節として十分の重みを持っていなかったことを示します。
sechin@nethome.ne.jp です。
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |