瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 聞く人に違和感を与えない「字余り」ならばそんなに気にしなくてもいい、どうしても「字余り」にしなければよい歌が出来ず、「字余り」となっても耳障りでない場合は幾文字余しても構わないとする歌学者もいました。
  染殿后のお前に、花瓶に桜の花をささせ給へるを見てよめる
   年ふれば 齢はおいぬ しかはあれど 
     花をしみれば 物おもひもなし(以上33字)
      前太政大臣(藤原良房:ふじわらのよしふさ)
      古今集・巻1・春歌上・0052 前太政大臣(藤原良房:ふじわらのよしふさ)

 題しらず
  ほのぼのと ありあけの月の 月かげに 
     紅葉吹きおろす 山おろしの風(以上34字)
       源信明(みなもとのさねあきら)
        新古今集・巻六 0591

 「いずれもすぐれたる歌なれば字の余りたるによりて悪くなるべきにはあらず」と、藤原為家の『詠歌一体』に述べられています。

 一字の字余りがかえって格段に効果を挙げた例として、細川幽斎(1534~1610年)は、
   月見れば 千々に物こそ 悲しけれ 
     我が身ひとつの 秋にはあらねど
       大江千里 古今集・巻四 193 
   (月を見ると、ものごとをあれこれ悲しく思ってしまうなあ……
    私一人だけの秋ではないのだけれど)
の歌、第五句は「秋にならねど」などと平板に詠むより、「秋にはあらねど」の方が断然優れている、まさに一字千金の「字余り」であると激賞しています。

 「字余り」の歌は何となく格調高い印象を与えます。その効果を狙って意図的に「字余り」歌を作る風潮が中世以後かなり盛んになります。「文字あまりの歌、好み詠むべからず」(飛鳥井正親『筆のまよひ』)とは、裏返せば「好み詠む」人が多かったことでしょう。順徳天皇の『八雲御抄』に「(歌ノ)長(たけ)を高からむ故に文字を余す事好む人多し。これも返す返す見苦しき異なり。これは西行などが言ひたきままに言ひたるを真似びて悪しくとりなすなり」とありますが、確かに西行法師の作品には「字余り」歌の異風が眼立ちます。

   ①春のほどは 我が住む庵(いほ)の 友になりて 
      古巣な出でそ 谷の鶯
    (春の間は自分が住んでいる庵の友となって、谷の鶯よ、
     古巣を出て里へ都へと移っていったりしないでくれ)
   ②思へ心 人のあらばや 世にも恥ぢむ 
      さりとてやはと 勇むばかりぞ
    (思え、心よ、こちらがその面前で恥ずかしくなるような
     人がいれば別だが、そんな人はいないし、
     かといって恥を知らずにいてよいというわけではないから、
     奮い立って精進するばかりだ)
 音数の制約に縛られず、必要に応じて自由な「字余り」の歌を作った西行は、あわせてまた漢語の愛用という点においても、(やまとうた)の伝統にとらわれない、文字通り型破りの歌人だったのです。
 西行の歌の「字余り」に関しては、本居宣長の「西行ナド殊ニ是ヲ犯セル歌多シ」(『字音仮字用格』)という指摘が重要な意味を持っているのです。宣長が「是ヲ犯セル歌多シ」と言い切った時、これは「中鈍病」であるとか、「しなしやうにて手づつなるが故に聞きにくきなり」(『詠歌一体』)などという伝統的歌学の基準とは完全に次元を異にしていました。これまでの歌学者が思いもつかなかった新しい角度から、「字余り」の現象を貫く語学的法則を発見し、その上に立って西行の「字余り」を裁断しているのです。
 宣長の法則に照らせば、上の①②のような西行の歌はことごとく「是ヲ犯セル歌」に属することになります。「古今集より金葉・詞花集ナドマデハ、此ノ格二ハヅレタル歌ハ見エズ」、「千載・新古今ノコロヨリシテ此ノ格ノ乱レタル歌ヲリヲリ見ユ。西行ナド殊ニ是ヲ犯セル歌多シ」「『字音仮字用格(じおんかなづかい)』」と宣長は言います。
 本居宣長の発見した「字余り」の法則とは次のような事実を指します。
 「歌ニ五モジ七モジノ句ヲ一モジ余シテ、六モジ八モジニヨムコトアル、是レ必ズ中(なから)ニ右ノあ・い・う・おノ音アル句ニ限レルコト也」〔『字音仮字用格(じおんかなづかい)』〕


 「字余り」の句中には必ず単独の母音「あ」「い」「う」「お」のいずれが含まれているという事実の発見でした。

 『古今集』の実例で当たってみましょう。
    年のうちに 春は来にけり 一年を 
      去年とやいはむ 今年とやいはむ

    年経れば よはひは老いぬ しかはあれど
      花をし見れば 物おもひもなし 
    (冒頭の前太政大臣藤原良房の歌)
 「年のちに」「今年とやはむ」「しかはれど」「ものもひもなし」の各句は、それぞれ六音・八音の「字余り」句中に「う」「い」「あ」「お」の単独母音を含んでいることが確認できます。後者の歌は『詠歌一体』が33字の歌ながら「すぐれたる歌なれば」と評して「字余り」を容認した歌でした。
 『古今集』大江千里の歌、
    月見れば 千々に物こそ 悲しけれ 
      我が身ひとつの 秋にはあらねど
の第五句は、細川幽斎が「いちじせんきん」と絶賛した「字余り」でしたが、「秋にはらねど」の句中には、宣長の「字余り」法則に指摘する単独母音「あ」の存在を確認できるのです。
 元永元(1118)年十月二日、内大臣藤原忠通の催した歌合に、
 源盛家が詠んだ歌
    神無月 三室の山の もみぢ葉も 
      色にいでぬべく 降る時雨かな 
に、判者の源俊頼は第四句に対して「五文字の六文字あり、七文字の八文字あるは常の事なり。それは聞きよきにつけて詠むなり。これはあらはに余りたりと聞こゆれば、いかがあるべからむ」と難を加えます。「聞きよきにつけ」「あらはに余りたり」という俊頼の基準はともかくとして、少なくとも宣長の「字余り」法則にはいささかも背馳しないくなのであります。句中の単独母音として「色にでぬべく」の「い」があります。


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