檜扇を詠める歌3
巻2-0199:かけまくもゆゆしきかも言はまくもあやに畏き.......(長歌)
題詞:高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短哥
題訓:高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(あらぎのみや)の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌
原文:桂文 忌之伎鴨(一云、由遊志計礼杼母) 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 神佐扶跡 磐隠座 八隅知之 吾大王乃 所聞見為 背友乃國之 真木立 不破山越而 狛釼 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜(一云、拂賜而) 食國乎 定賜等 鷄之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和為跡 不奉仕 國乎治跡(一云、掃部等) 皇子随 任賜者 大御身尓 太刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 齊流 鼓之音者 雷之 聲登聞麻弖 吹響流 小角乃音母(一云、笛乃音波) 敵見有 虎可叭吼登 諸人之 恊流麻弖尓(一云、聞惑麻弖) 指擧有 幡之靡者 冬木成 春去来者 野毎 著而有火之(一云、冬木成 春野焼火之) 風之共 靡如久 取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓(一云、由布乃林) 飃可毛 伊巻渡等 念麻弖 聞之恐久(一云、諸人、見惑麻弖尓) 引放 箭計久 大雪乃 乱而来礼 (一云、霰成 曽知余里久礼婆) 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相竟端尓(一云、朝霜之 消者消言尓 打蝉等 安良蘇布波之尓) 渡會乃 齊宮従 神風尓 伊吹惑之 天雲乎 日之目不合見 常闇尓 覆賜而定之 水穂之國乎 神随 太敷座而 八隅知之 吾大王之 天下 申賜者 萬代 然之毛将有登(一云、如是毛安良無等) 木綿花乃 榮時尓 吾大王 皇子之御門乎(一云、刺竹 皇子御門乎) 神宮尓 装束奉而 遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著 垣安乃 御門之原尓 赤根刺 日之盡 鹿自物 伊波比伏管 鳥玉能 暮尓至者 大殿乎 振放見乍 鶉成 伊波比廻 雖侍候 佐母良比不得者 春鳥之 佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 憶毛 未盡者 言右敞久 百濟之原従 神葬 ゞ伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神随 安定座奴 雖然 吾大王之 萬代跡 所念食而 作良志之 香未山之宮 萬代尓 過牟登念哉 天之如 振放見乍 玉手次 懸而将偲 恐有騰文
万葉集 巻2-0199
作者:柿本人麻呂
よみ:かけまくも ゆゆしきかも (一(ある)は云はく、ゆゆしけれども) 言(こと)はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真(ま)神(かみ)が原に ひさかたの 天つ御門(みかど)を 懼(かしこ)くも 定め賜ひて 神さぶと 磐(いは)隠(かく)り座(いま)す やすみしし 吾(わ)が大王(おほきみ)の 聞(き)こし食(め)す 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破(ふは)山越えて 狛剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あまも)り座(いま)して 天の下 治め賜ひ (一は云はく、掃(はら)ひ賜ひて) 食(を)す国を 定め賜ふと 鶏(とり)が鳴く 吾妻(あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 喚(め)し賜ひて ちはやぶる 人を和(やわ)せと 奉(まつ)ろはぬ 国を治めと (一は云はく、掃(はら)へと) 皇子ながら 任(よさ)し賜へば 大御身(おほみみ)に 大刀(たち)取り帯(をび)し 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を 率(あども)ひ賜ひ 斎(ととの)ふる 鼓(つつみ)の音は 雷(いかづち)の 声(おと)と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音(おと)も (一は云はく、笛の音は) 敵(あた)見たる 虎か吼(ほ)ゆると 諸人(もろひと)の 怖(おび)ゆるまでに (一云 聞き惑ふまで) 指(さ)し挙(あ)げる 幡(はた)の靡きは 冬こもる 春去(さ)り来れば 野ごとに 著(つき)てある火の (一は云はく、冬こもり 春野焼く火の) 風の共(むた) 靡くが如く 取り持てる 弓弭(ゆはず)の驟(さはき) み雪降る 冬の林に (一は云はく、木綿(ゆふ)の林) 旋風(つむぢ)かも い巻き渡ると 念(おも)ふまで 聞(き)きの恐(かしこ)く (一は云はく、諸人の 見惑ふまでに) 引き放(はな)つ 矢の繁けく 大雪の 乱れし来(きた)れ (一は云はく、霰なす 彼方(そち)より来(く)れば) 奉(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消(け)ぬべく 行く鳥の 相ふ竟端(けふたん)に (一は云はく、朝霜の 消(け)なば消(け)とふに 現世(うつせみ)と 争ふはしに) 渡会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見へず 常闇(とこやみ)に 覆(おほ)ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 吾が大王(おほきみ)の 天の下 申(まを)し賜へば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと (一は云はく、如(かく)しもあらむと) 木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 吾が大王(おほきみ) 皇子の御門を (一は云はく、刺す竹の 皇子の御門を) 神宮(かみみや)に 装(よそほ)ひ奉(ま)つりて 使(つかひ)遣(や)り 御門の人も 白栲(しろたえ)の 麻衣(あさころも)着て 垣安(かきやす)の 門(みかど)の原に 茜さす 日のことごと 鹿猪(しし)じもの い匍(は)ひ伏(ふ)しつつ ぬばたまの 夕(ゆうへ)になれば 大殿を 振り放(さ)け見つつ 鶉(うずら)なす い匍(は)ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひえねば 春鳥の 彷徨(さまよ)ひぬれば 嘆(なげ)きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)うへく 百済(くだら)の原ゆ 神葬(かみはふ)り 葬(はふ)りいまして 朝も吉 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高く奉(まつ)りて 神ながら 鎮(しづ)まりましぬ 然れども 吾(わ)が大王(おほきみ)の 万代(よろづよ)と 念(おも)ほし食(め)して 作らしし 香未山(かみやま)の宮 万代(よろづよ)に 過ぎむと念(おも)へや 天のごと 振り放(さ)け見つつ 玉(たま)襷(たすき) 懸(か)けて偲(しの)はむ 恐(かしこ)ありども
意訳:口にするのも憚れる、言葉でいうのも畏れ多い。明日香の真神の原に長久の天の王宮を尊くもお定めになって、今は神として岩戸に御隠れなされた天下をあまねく承知なされる我が大王の高市皇子尊が、お治めになる大和の背後にある美濃の国の立派な木が茂る不破山を越えて、高麗の剣の技を見せる、その和暫の原の仮宮に、神として降臨なされて、天下を承知なされ、そのご統治される国をお定めになるというので、鶏の鳴き朝が明ける東国の軍勢を呼び寄せなされて、荒々しい人々を従わせ、服従しない国々を統治せよと、日の御子ではありながら任じられなされると、皇子は御体に太刀を取り帯なされ、御手に弓を取り持って、軍勢を統率なされた。その軍勢を整える鼓の音は雷鳴の音と聞こえるようで、吹き渡る小角の音も敵を見た虎が吼えるのかと人々が思って恐れるまでに聞こえ、高く捧げた幡の靡くことは、冬も終わって春がやってきて、あちこちの野に付けた野火の風と共に靡くようで、兵士の手に取って持った弓の弭の動くざわめきは、み雪降る冬の林につむじ風が吹き巻き渡るかと思われるほど恐ろしく聞こえ、引き放つ矢がはげしく大雪の雪が乱れ来るのように飛んで来る。従わずに立ち向かって来た者は、露や霜が消えるなら解けて消えてしまうように、飛び行く鳥のように乱れ争うときに、度会の神を祭る宮の神風で賊軍を吹き惑わせ、天の雲で太陽の光も見せないまでに真っ暗に覆いなされた。神である大王が定めなされた瑞穂の国を神らしく承知なされ、天下をあまねく承知なされる我が大王が、その天下を治めなされると、万年にもこのようにあるだろうと王宮を寿ぐ木綿の花が栄える時に、我が大王、皇子の王宮を神の宮とお飾り申し上げて、皇子の手足としてお使えしていた御門の人々も白栲の麻の喪の衣をつけ、垣安の王宮の原が茜に染まる日の毎日、鹿や猪のように腹ばいになって伏して、漆黒の夜になると御殿を遠く見上げながら、鶉のように背を丸めてはいまわって、皇子の傍に侍しているけど皇子からお呼びがないので、春の鳥のようにあちこちと彷徨っていると、皇子を悼む嘆きが今でも嘆き過ぎないし、皇子への憶いも未だに尽きないが、言葉が通じない百済のその百済の原に神として葬り、葬り申し上げて、朝日が清々しい城上の宮を皇子の常宮として天高く奉じ、皇子は悠久の神でありながら常宮に鎮まりなされた。そうではありますが、我が大王が万代の王宮と思いなされて御作りになった香具山の宮。万代に時を過ごすと思う。その香具山の宮の御殿を天空のように仰ぎ見ながら。皇子送りの葬送の玉襷を懸けて、皇子を心に懸けて偲びましょう。恐れ多いことではあるが。
◎「万葉集」巻二、挽歌に、「万葉集」最長の長歌を載せています。その句数は何と149句もあります。短歌で5句だから、短歌に直せば、およそ30短歌分の分量になります。もちろん、作者は長歌の達人、柿本人麻呂です。
内容は、天武天皇の第一皇子、高市皇子を悼んだものです。高市皇子の没年は持統天皇十年(696年)十月七日とされます。他に巻二に、柿本人麻呂作歌の長歌は、日並皇子・泊瀬部皇女・明日香皇女・吉備津采女や自身の妻への挽歌などがあります。
この歌の最大の見所は、古代最大の政変であった壬申の乱の戦争の様子が詳細に詠われていることです。軍団は、掛け声を発しながら整列を組んで、太鼓を鳴らし笛を鳴らして軍団旗を掲げて進んだとあります。弓弭(ゆはず)とは、弓の両端の弦をかける部分のことで、その鳴り響く様は、雪の降る冬の林につむじ風がおし渡っていくようだと例えています。
戦争の描写がリアルであることから、作者の柿本人麻呂は、実際大海人軍の中にいたのではないかとする説があります。壬申の乱の後、柿本猨(さる)という人物が政界に登場し、同じ和邇氏に連なる粟田真人(あわたのまひと)なども重用されます。和邇氏は、5世紀に皇族に多くの后を入れていましたが、この頃には中央政界での勢力は衰えて、春日氏、柿本氏、粟田氏などに分れていました。ところが壬申の乱の後、突然柿本猨や粟田真人などが中央政界で重用されるようになり、このことは柿本氏や粟田氏が壬申の乱で大海人皇子側に積極的に加担して戦功をあげたからではないかと推測されています。人麻呂は、記紀に伝承のない人物ですが、柿本猨の息子あるいはその係累であったことは間違いがなく、壬申の乱では大海人軍の陣中にあって積極的に働いた可能性があります。柿本人麻呂は、持統朝において詩作の多くを行って代表作を生んでいますが、その頃を壮年と仮定すると、壬申の乱の頃には10代後半から20代前半の青年期であったことになります。
※高市皇子(たけちのおうじ、654~696年)
天武天皇の第1皇子です。母は胸形君徳善(飛鳥時代の福岡県宗像地方の豪族)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ) です。壬申の乱には,大海皇子 (天武天皇) のもとに走り、軍を統率して大いに活躍します。持統3(689)年皇太子草壁皇子が死ぬと、翌年太政大臣になります。持統天皇を助けて政治万般にあたり、藤原京の建設にも貢献しました。食封(じきふ)も5000戸に上り、香具山のふもとに広大な宮殿を営んだといいます。『万葉集』には十市皇女の死を哀傷した短歌3首が収められています。柿本人麻呂が、皇子の死をいたんだ挽歌は有名です。その墓所は明らかではありません。
sechin@nethome.ne.jp です。
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