春服の色教へてよ揚雲雀 太宰 治
■「太宰治と俳句」というと、エーッ? と思われるかもしれません。確かに、「太宰治全集(全13巻)」の第11巻「俳句」の項には、「旅人」と題した連句の発句を含めて太宰の句は16句しか掲出されていませんし、太宰の作と認められるのは33句ほどでしょうか。しかし、太宰の文体と俳句は密接な関係にあるのです。
■昭和2年に芥川龍之介が青酸カリを服毒して自殺した時、太宰は弘前高等学校の1年生で、いわゆる芥川の辞世の句「水洟や鼻の先だけ暮れのこる」を、ノートのあちこちに書き連ねています。太宰は芥川に心酔し、芥川を芸術至上主義の理想としていたのです。当時の太宰には、顎の下に手を添えた芥川と同じポーズをとった写真が多数見られますし、芥川になぞらえて、“芹川麟一郎”や“小川麟一郎”の筆名も考えていたようです。
■太宰は、やがて学業を放棄して、義太夫を習い、花柳界に出入りし、青森の料亭で15歳の芸妓紅子・小山(おやま)初代と知り合います。
■このころの太宰の俳句に、
大川端道化に窶〈やつ〉れ幇間の
幇間の道化窶れやみづつぱな
などがあります。これらは“衆二”の名で蔵書の表紙裏などに記されていたもので、中学から『蜃気楼』『細胞文芸』では、主に“辻島衆二”の名義を使っていました。その後は、『弘高新聞』や『猟騎兵』『座標』等に、“大藤熊太”や“小菅銀吉”の名義で左翼傾向の作品を書いています。
■ちなみに、“太宰治”の筆名の由来には、「高校の同級生太宰友次郎説」「ダダイズム説」「ダァ・ザイン(da sein =そこに存在すること)説」「堕罪説」など諸説がありますが、「友人と考えた」としか本人は語っていません。
■明治42年6月19日、津軽の大地主で、のちに貴族院議員となる父津島源右衛門、母タ子(たね)の第10子・六男として、太宰は青森県北津軽郡金木村に生まれました。長兄総一郎・次兄勤三郎の二人が夭折し、弟も早く亡くなり、芥川の境遇に似て、叔母のキヱ(きゑ)を実母のごとくにして育てられ、早熟で異常に感受性の強い子供でした。16歳のころから、同人雑誌に小説やエッセイを書きはじめています。太宰が14歳の時、父の源右衛門が病没し、三男の文治が家督を継ぎます。
■昭和4年12月、カルモチンを服用して、太宰は最初の自殺未遂を起こします。自分の出身階級に悩んでのことといわれていますが、太宰自身は、“微笑するだけ”で答えていません。翌年の4月、21歳で東京大学フランス文学科に入学、かねてから尊敬していた「山椒魚」の作者井伏鱒二に弟子入りします。青森から初代を呼び寄せ、同棲。11月24日に兄文治が小山家と結納を交わしますが、翌日、銀座のカフェの女給田部あつみ(シメ子・19歳)と出会い、3日間を共に過ごした後、神奈川県の小動崎(こゆるがさき)の岩の上で心中を図ります。シメ子は死亡、太宰は一命を取り留め、翌12月、青森で初代と仮祝言をあげます。
■しだいに左翼運動に傾倒し、昭和10年、太宰は授業料未納により大学を除籍、都新聞社の入社試験にも失敗し、3月16日、鎌倉八幡宮の山中で縊死を企てますが未遂におわります。その直後、盲腸炎から腹膜炎を併発し、入院先で鎮痛のために使用した麻酔剤(パビナール)をきっかけにして、薬物の中毒地獄に陥ります。
■太宰の自伝的な作品「東京八景」に昭和7年「朱鱗堂と号して俳句に凝つたりしてゐた」とあり、また、同年8月12日の沼津から青森の親戚・小館善四郎に宛てた書簡に、「一昨晩近所の俳句好きの青年たちと俳句に就いて語り合ひました」とあります。相当に俳句に入れ込んでいたことがわかります。
このころの太宰の句に、
旅人よゆくて野ざらし知らやいさ
今朝は初雪あゝ誰もゐないのだ
亀の子われに問へ春近きや
老ひそめし身の紅かねや今朝の寒
などがあり、孤独感が漂う、破調の句が目立ちます。
sechin@nethome.ne.jp です。
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