台東区立台東病院は旧東京都立吉原病院で、1911年2月1日、娼妓の治療をなすため、警視庁が吉原遊廓ほか5カ所に警視庁病院を設けたのが始まりです。これは明治43年勅令第310号「風俗上取締を要する稼業を為す者及行政執行法第3条の患者の治療施設に関する件」に根拠を有するもので、警視庁は「警視庁病院設置の件」を公布しました。1942年に東京府に経営移管され、1980年に台東病院と台東産院が合併、のちにスポーツ整形外科を新設したそうです。1996年に休止しましたが、二次医療圏における病床数が過剰であるため増床は見込めず、「旧都立台東病院あり方検討委員会」では、東京都保健医療公社による運営を考えるべきだとの答申が出されましたが、8年後の2004年3月に廃止となりました。跡地は台東区が取得し、2009年に東京都台東区立台東病院が建設されたのです。台東区は指定管理者制度を導入し、経営・運営を100%地域医療振興協会にゆだねているということです。
皆さんご存知の通り、吉原(よしわら)は、江戸時代に江戸郊外に作られた、公許の遊女屋が集まる遊廓(吉原遊廓)、およびその地域の名であります。現在の東京都台東区千束四丁目、および三丁目の一部にあたります。
江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生しました。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説があります(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けたといいます)。いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭があったのですが、吉原はその内五か丁を大御所家康亡き後に駿府から移したのが始まりであるといいます。庄司甚内へ5か条の許可の条件が示されましたが、徳川幕府は遊興にふけり犯罪を犯す者、浪人悪党の逮捕を考慮したものといわれています。
※庄司甚内(1575~1644年):江戸前期の町人で、通称は甚右衛門で、初め甚内といったそうです。もと小田原北条家の家臣で、主家没落後江戸に出て道三河岸で妓楼を営んだといいますが、出自には異説もあります。元和3(1617)年吉原開設とともに惣名主となり、江戸町1丁目で妓楼西田屋を営み,「おやじ」と呼ばれたそうです。子孫は代々名主職を継ぎ、同地で妓楼を経営しました。
明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田圃に移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。
周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる大溝があり、新吉原初期の頃には幅5間(約9m)、江戸末期から明治初期には縮小され幅2間(約3.6m)、明治36年頃には3尺(約90cm)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されていました。遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大店)から、路地裏にある小店までの序列があったそうです。
大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともあります。一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるようになったといいます。遊女や吉原風俗は浮世絵や黄表紙・洒落本等の題材にもなりました。吉原が女性を前借金で縛る人身売買の場所であったことは疑いもありませんが、文化の発信地という側面も持っていたのです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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