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藤井聡太2冠が豊島叡王破り最年少3冠に王手、第4局は22日 ―― 将棋の豊島将之叡王(竜王=31)に藤井聡太2冠(棋聖・王位=19)が挑戦する叡王戦5番勝負第3局が9日、名古屋市の老舗料亭「か茂免」で行われ、先手の藤井が豊島を破り、シリーズの対戦成績を2勝1敗とし、史上最年少3冠に王手をかけた。第4局は22日、名古屋市の「名古屋東急ホテル」で行われる。
1勝1敗のタイで迎えたシリーズの流れを大きく左右する一番。先手の藤井が角換わりを採用した。両者が得意とする戦型。藤井対豊島戦では5局連続しての「角換わり」となった。両者とも入念な研究手だったため、序盤からハイペースで進む。
65手目、ネットで解説を務めていたプロ棋士を驚かす藤井の一手が指された。先手8四角。受けの一手だが、プロもあまり指さない新感覚の一手だった。「角使いの名手」の藤井の本領発揮だった。
昼食休憩後は難解な中盤戦が続き、両者ともペースダウン。終盤にジリジリとリードを広げた藤井が、鮮やかに寄せ切った。
https://www.youtube.com/watch?v=X0AHn6b4CGo
初手合から6連敗だった「天敵」から直近5局で4勝1敗。3つ目のタイトル奪取へ大きく前進した。羽生善治九段(50)が持つ最年少3冠(22歳3カ月)の更新に王手をかけた。 [日刊スポーツ 2021年8月9日17時55分]
傷や苦しみ、あっての今 長崎被爆者代表の岡信子さん ――被爆者が傷つき、苦しみながら立ち上がってきたことを知って―。岡信子さん(92)は過去最高齢の被爆者代表として、長崎市の平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げた。思いの原点には被爆者の救護活動や、行方不明の父を捜す途中で見た惨状がある。
戦時中は学校の授業が受けられず、とにかく勉強がしたいと大阪にある日本赤十字の看護学校に入った。当時16歳。空襲のため帰郷していた1945年8月9日、長崎市の実家で被爆し、ガラス片で左半身を負傷した。
3日ほどして救護活動のため新興善国民学校に召集された。校舎はけが人であふれかえったが「治療らしい治療はできなかった」。薬品はほぼなく、煮沸した塩水で傷口に湧くうじを洗い流した。日中は他の救護所を歩いて回り、父を捜した。
道中、女性の遺体の陰部をがれきで隠してあげようとする男性を見掛けた。やけどで皮膚が垂れ下がっていたため救護所へ行こうと声を掛けたが「僕はもうだめだから」と断られた。帰りに通り掛かると、男性は女性の方へ手を差し伸べたまま息絶えていた。2人の関係は分からなかったが、まだ温かい手を女性の手に重ねてあげた。
戦後はひどい頭痛や吐き気に襲われ、勤務する病院のトイレで倒れていたこともある。だが当時を思い出すのも嫌で周りには被爆者だと明かさなかった。継承活動を始めたのは、約8年前の新聞社の取材がきっかけだ。
「証言など歴史の破片を一つ一つ集めることで、全体像に近づける」との思いで講演へ出向く。
体験記を昨年書き、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に寄せた。最後の段落に「可能ならば平和祈念式典に出席してみたい」とつづった。今回、自ら被爆者代表に応募したのは「人生最後の片付け」との思いからだ。
若い世代には、平和と思える今日の背景に多くの被爆者の死や苦労があることを忘れてほしくない。だからこそ原爆のむごさや核兵器廃絶を訴え続ける。「9日を最後と思わずに、これからもどこまでも行きます」〔共同〕 【日本經濟新聞 2021年8月9日 16:42 (2021年8月9日 21:37更新)】
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