瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
随分日が長くなった。東京の今日の日の出は5時14分、5時というともうすっかり明るくなっている。
隅田公園のソメイヨシノはその殆んどが花を散らしてしまっている。今日・明日の土曜・日曜で、花見の客も殆んどいなくなってしまうだろう。そのソメイヨシノの間に混じって、一際鮮やかなピンク色を映している紅豊(べにゆたか)という品種の桜が朝日に輝いている。
吾妻橋を渡り、左に折れて、親水テラスに降りる。おやおやこんな川の上流に桜の花びらに混じって、かなり多くのクラゲが漂っている。これも温暖化の所為なのであろうか? 厩橋のところでT氏がゴルフのクラブを振っておられる。昨日お会いしたのは7時前後であったから、毎日ここで1時間半以上川風に当たっておられるのだろう。
蔵前橋の上流で朝の陽射し受けて、ユリカモメが遊んでいる。もうすっかり頭が黒くなっているのが遠目かせでも認められる。両国橋の上流では、神田川の河口で柳橋をバックに群をなして游んでいる。この親水テラスは竪川の水門で切れる。
一旦テラスを上がり、一之橋を渡ると新大橋の先小名木川まで親水テラスは続くのであるが、この爺さん気紛れで竪川の南側を東進していた。竪川の真上には両国ジャンクションから分岐した高速7号線小松川線が走っている。
塩原橋・千歳橋・二之橋を過ぎ、さらに西竪川橋・竪川橋・新竪川橋から三之橋南で左折し、この橋を渡り、三つ目通りを北進する。馬車通り・総武線のガード・京葉道路・蔵前橋通り・春日通り・浅草通りを横切ると源森橋を渡る。
言問通りと交差する所から、三つ目通りは水戸街道となる。ここで左折して言問橋を渡り、西詰めの聖天町交番の前を通って帰るのだが、何時もは交番の前に立っているお巡りさんに「おはよう」の挨拶をして帰宅するのだが、今朝は交番のドアは閉められていた。ガラス戸の内部から「パトロール中です」の貼り札がしてあった。
Omron万歩計は12717歩、8.2㎞を示していた。
隅田公園のソメイヨシノはその殆んどが花を散らしてしまっている。今日・明日の土曜・日曜で、花見の客も殆んどいなくなってしまうだろう。そのソメイヨシノの間に混じって、一際鮮やかなピンク色を映している紅豊(べにゆたか)という品種の桜が朝日に輝いている。
吾妻橋を渡り、左に折れて、親水テラスに降りる。おやおやこんな川の上流に桜の花びらに混じって、かなり多くのクラゲが漂っている。これも温暖化の所為なのであろうか? 厩橋のところでT氏がゴルフのクラブを振っておられる。昨日お会いしたのは7時前後であったから、毎日ここで1時間半以上川風に当たっておられるのだろう。
蔵前橋の上流で朝の陽射し受けて、ユリカモメが遊んでいる。もうすっかり頭が黒くなっているのが遠目かせでも認められる。両国橋の上流では、神田川の河口で柳橋をバックに群をなして游んでいる。この親水テラスは竪川の水門で切れる。
一旦テラスを上がり、一之橋を渡ると新大橋の先小名木川まで親水テラスは続くのであるが、この爺さん気紛れで竪川の南側を東進していた。竪川の真上には両国ジャンクションから分岐した高速7号線小松川線が走っている。
塩原橋・千歳橋・二之橋を過ぎ、さらに西竪川橋・竪川橋・新竪川橋から三之橋南で左折し、この橋を渡り、三つ目通りを北進する。馬車通り・総武線のガード・京葉道路・蔵前橋通り・春日通り・浅草通りを横切ると源森橋を渡る。
言問通りと交差する所から、三つ目通りは水戸街道となる。ここで左折して言問橋を渡り、西詰めの聖天町交番の前を通って帰るのだが、何時もは交番の前に立っているお巡りさんに「おはよう」の挨拶をして帰宅するのだが、今朝は交番のドアは閉められていた。ガラス戸の内部から「パトロール中です」の貼り札がしてあった。
Omron万歩計は12717歩、8.2㎞を示していた。
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無題
4月8日花まつりの日に増上寺に行って来ました。勤務地が芝大門なので、昼休みに行かれます。毎年この時期に将軍のお墓が公開されます。桜満開でとてもいい感じです。和宮もあります。意外に狭いところにあり、集められています。いつも思うのですが、増上寺、延暦寺、東照宮は大きなお寺で、参拝客も多いのに、なぜ、寛永寺は小さくて、参拝客がほとんどいないのでしょうか?
とっても不思議です。もちろん、将軍のお墓も全く公開していません。まぁ、寛永寺の将軍のお墓はバラバラに安置されてはいますが。檀家のお墓が多いせいでしょうか?ほんとに不思議です。
とっても不思議です。もちろん、将軍のお墓も全く公開していません。まぁ、寛永寺の将軍のお墓はバラバラに安置されてはいますが。檀家のお墓が多いせいでしょうか?ほんとに不思議です。
ようこサンの疑問
明治元年5月15日(新暦6月7日)上野に立てこもった彰義隊は新政府軍の攻撃により一日で壊滅しやした。当時の寛永寺は現在の上野公園を含むお山一帯が境内した。壮大な伽藍は焼け残ったのですがお山を占領した政府軍の隊長サン(土佐藩士もしくは鳥取藩士)の命令により燃やされてしまいました。その後、広大な境内は公園やら動物園になり寛永寺は現在地に押し込められ地味なお寺さんになってしまいやした。寛永寺の檀家は徳川将軍家だけでしたが維新後、檀家を増やして現在に至っておりやす。明治以降の寛永寺に関するお話は三田村鳶魚「芝・上野と銀座」(中公文庫686)、矢田挿雲「江戸から東京へ(一)」(中公文庫H4)をご覧下さいまし。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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