昨日に続いて、今朝も早朝から雨模様です。
昨日の爺のブログを見て思いついたのでしょうか。篠山の姪から、メールが入りました。曰く、
2016年9月22日17時14分着信 題:彼岸について
今日は朝から雨で、家にじっとしております。
おはぎも食べず、今日も暮れゆく…。
さて、お彼岸がなぜ日本だけの風習かを考えると、やはり「太陽の道」を尊ぶ古代の風習があったせいかと思われます。
それと
【日想観】〘仏〙 西に沈む太陽を見て,その丸い形を心に留める修行法。極楽浄土を見る修行の一部で,観無量寿経に記される。
日想観修行の最古の例は延暦6年(787年)に行った真言宗の祖・空海とされる
などが、結び付いたかと。
以前、そんなNHKの番組を見て気になっていたので、調べた結果、折口信夫の文章に行き当たりました。
ご存知かもしれませんんが、コピペしておきます。
篠山には、日置という地名があり、日置さんという名字もあります。「日高」という名字も、古代信仰に由来するかもしれませんね。
ではまた。 Chisato
参考資料 青空文庫よりコピペ
「山越しの阿弥陀像の画因」折口信夫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/45498_26150.html
(前略)
昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀(ひまつり)をする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。
そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙)
又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、還って来る。
これを日の伴(ひのとも)と謂っている。
宮津辺では、日天様(にってんさま)の御伴と称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと謂う。
こうある。
何の訣(わけ)とも知らず、社日や、彼岸には、女がこう言う行の様なことをした。又現に、してもいるのである。
(中略)
さて、此日東の大きなる古国には、日を拝む信仰が、深く行われていた。今は日輪を拝する人々も、皆ある種の概念化した日を考えているようだが、昔の人は、もっと切実な心から、日の神を拝んで居た。
宮廷におかせられては、御代御代の尊い御方に、近侍した舎人たちが、その御宇御宇の聖蹟を伝え、その御代御代の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播した。
此が、日奉部(ひまつりべ又、日祀部)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。
この事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひき・へき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。後代算盤の上で、ある数にあたる珠を定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。
源為憲の「口遊(くゆう)」に、「術に曰はく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法である。
置くが日を計ることに関聯していることは、略、疑いはないようである。ただ「おく」なる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。
此様に、日を計ってする卜法が、信仰から遊離するまでには、長い過程を経て来ているだろうが、日神に対する特殊な信仰の表現のあったのは疑われぬ。其が、今日の我々にとって、不思議なものであっても、其を否む訣には行かぬ。
既に述べた「日の伴」のなつかしい女風俗なども、日置法と関聯する所はないだろうが、日祀りの信仰と離れては説かれぬものだということは、凡考えていてよかう。
其に今一つ、既に述べた女の野遊び・山籠りの風である。此は専ら、五月の早処女となる者たちの予めする物忌みと、われ人ともに考えて来たものである。
だが、初めにも述べた様に、一処に留らず遊歴するような形をとることすらあるのを見ると、物忌みだけにするものではなかったのであろう。
一方にこうした日かげを追う風の、早く埋没した俤を、ほのか乍らわせているというものである。
暑さ寒さも彼岸までと言いますが、ここ二三日ずい分涼しくなりました。このまま涼しい日が続くと良いのですがね。
今日は彼岸の中日です。
彼岸という言葉は仏教用語からできたもので、梵語〔ぼんご〕「波羅密多〔はらみた〕」の訳だと言われています。正しくは到彼岸〔とうひがん〕、つまり生死を繰り返す迷いの世界(生死輪廻〔しょうじりんね〕)である此岸(この世)を離れて苦しみの無い安楽(涅槃常楽〔ねはんじょうらく〕)な彼岸に至るという意味です。その内容にも仏教の影響が多く見られますが、他の仏教国には無い日本固有の信仰のようです。
延暦二十五年(806年)の2月の記録に、「毎年春分と秋分を中心とした前後7日間『金剛般若波羅蜜多経』を崇道(すどう)天皇のために転読させた(日本後紀)」とあり、これが日本の歴史上最初の彼岸法要の記録だそうです。崇道天皇とは、桓武天皇が弟の早良親王に贈った諡号です。
その後政権を争う戦いが長く続き、その不安から人々の間で“1052年に仏の教えが消滅してしまう”という「末法思想」が広まり、社会現象になり始めました。信者達は、現世で報われないのなら、せめて死んでから極楽浄土へいけるようにとすがるようになりました。初めは浄土宗の人たちだけの信仰だったようですが、あまりにも戦乱が長く続いたため一般の人にまで広がりました。
仏教の教えには、何でもほどほどが良いという「中道」という考え方があるようで、その考えと合致して出来たのが「彼岸」だといわれています。春分と秋分の日は昼夜の長さが同じになります。また、暑くも寒くもないほどほどの季節であり、 太陽が真西に沈む時期なので西方極楽浄土におられる阿弥陀仏を礼拝するのにふさわしいという考えから、次第に人々の生活に浄土をしのぶ日、またあの世にいる祖先をしのぶ日として定着していったようです。
ところで、お彼岸に良く見られる「ぼたもち」と「おはぎ」は、餅米とアンコで作られた同じ食べ物ですが、食べる時期が異なる為、それぞれの季節の花を意識して名前が変えられているのです。
春の彼岸にお供えする場合は「牡丹餅」と書き、一般的には漉し餡を使用します。一方、秋にお供えする場合は萩〔はぎ〕の花を意識して「お萩」と呼ばれ、餡は粒餡を使用します。あずきは赤い色をしていて古くから邪気を払う効果がある食べ物として食べられており、それが先祖の供養と結びついたのでしょうね。
IN氏のメールにあった「ローマ法王庁の番兵は伝統的にスイスの傭兵」について調べてみました。
ご承知のようにバチカン市国は、イタリアのローマ市内にある世界最小の主権国家です。バチカンの統治者はローマ教皇でローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の総本山なのだそうです。
バチカンでは、一切の軍事力は保持していませんので、スイスからの傭兵である「市国警備員(スイス人衛兵)」によってまかなわれているんだそうです。
スイス人傭兵は宮殿の入り口とかの警護に当っているそうで、神聖ローマ皇帝カール5世の時、プロテスタントの軍隊がローマを荒らした際に、命を賭けて法王を守ったのがスイス傭兵だったことが今でもスイス人を傭兵に招く主な理由とされているようです。
スイス人衛兵の制服は膨らんでゆったりした上下に、オレンジと青の縦縞――。シェークスピア劇の衣装と見まがいそうな制服は、あのミケランジェロがデザインとも言われているそうですが、実際は1914年に制定されたものといいます。スイス人衛兵たちは一応武器の携行はしているものの、本質的に儀仗兵です。1981年、ヨハネ・パウロ2世が襲撃された事件以来、教皇が公の場に出て行く時、スイス人衛兵たちは催涙スプレーを常時携行するようになったといいます。
IN氏からメールが入りました。曰く、
2016年9月20日11時18分 題:鄭和、ご教示ありがとう
日高節夫様
早速、鄭和の海外遠征? ご教示御礼。
鄭和が先かコロンブスが先か、みたいな大航海時代の先駆け論は一時棚上げさせてください。
愚妻が数日前から、風邪を引き、咳込がひどく、寝込みました。小生、好むと好まざるとにかかわらず、炊事担当に当たります。君と同じ状態になったわけだ。
愚妻の回復次第、インド洋の何とかいう小さな島を米英が取っ替えっこした、話を書きます。IN
福岡市にいる甥のHaruki君からメールが入りました。曰く、
2016年9月20日13時11分着 題:石鎚山
節夫叔父上様。
道子叔母様のお身体の具合はいかがでしょうか。
徐々によくなってきているとのブログの記事を拝見して、安堵しています。近日中にお見舞いに上京したいと思っています。
9月18,19日の連休に、高校時代の友人と四国の石鎚山1982mに登ってきました。天候不順の中、なんとか山頂までたどり着くことができました。ちょうど50年前の小倉高校1年の夏、学校から希望者約70名と一緒に登りました。当時は若かったからでしょうか、あまり苦しかったという記憶はありません。今回、息は上がるし、両足はがたがたで、這いつくばるようにして頂上までたどり着きました。日ごろのトレーニング不足を反省しています。残念ながら見晴らしは悪かったのですが、西日本最高峰の山に登ったという満足感には浸ることができました。
ではまたお会いする日を楽しみにしています。
早速、返信メールを出しました。曰く、
2016年9月20日 15時19分発信 Re: 石鎚山
メールと添付の写真有難う。
道子の具合は少しずつですが、良い方に向かっているようです。やっとリハビリの先生付きですが、外にも出かけられるようになったようです。(添付写真参考)
今日は下関のKeisuke君が訪ねてくれました。(添付写真参考)
町田にいる伯母さんの事でここの所何回か上京しているようです。下関の親父・お袋の話を沢山聞かせてくれました。兄貴(Keisuke君の親父)も眼が見えない、耳が聞こえない、付き添いがないと外に出かけられないと言いながらも日曜日には教会で子供たち相手に遊んでいるようで、適当に息抜きしているようです。少し安心しました。
私も全快とはいかないまでも、まあまあ元気で過ごしています。
貴兄の上京を楽しみに待っています。 節夫
昨日は、『敬老の日』でした。自分が高齢者になってみると、別に敬ってなんぞ貰いたくもありません。でも、高齢者虐めはして貰いたくありません。
東京など首都圏1都3県で急増すると予想される高齢者を地方へ移す日本版CCRC構想が、本格的に動きだしました。全国263の地方自治体が受け入れの意向を示し、新潟県南魚沼市、山梨県都留市など本格的な受け入れ準備を進めるところも出ていると聞きます。
受け入れを進める自治体は高齢者が安心して暮らせる「生涯活躍のまち」の建設を地方創生に結びつけたい考えだが、都会の高齢者を地方へ押しつける「平成の姥捨て山」と批判する声も少なくありません。日本版CCRC構想は地方に何をもたらすのでしょうね。
※CCRC:「Continuing Care Retirement Community」の略で、直訳すると「継続的なケア付きの高齢者たちの共同体」。米国発祥で、高齢者が元気なうちに地方に移住して社会活動に参加し、介護や医療が必要になった場合もケアを受けて暮らし続けることができる。政府は昨年、有識者会議で「日本版CCRC」構想をまとめた。高齢者の地方移住を促すことで首都圏の人口集中の緩和と地方の活性化を目指す。 (2016-04-12 朝日新聞 朝刊 都区内・2地方)
横浜のIN氏からメールが入りました。曰く、
2016年9月18日 題:美術館長はトマス・ホーヴィング
日高節夫様
次なる台風16号が来ているとかで、天気が悪いね。
さて、先日、ローマ法王庁の番兵は伝統的にスイスの傭兵だということを書いたが、その筆が滑って、腹巻の話になったね。その美術館長の名前がメモから分かった。
トマス・ホーヴィング氏(1931-2009)元・メトロポリタン美術館長で、「名画狩り」(1989)(「ミイラにダンスを踊らせて」(1994)の著書のどちらかでよんだはず。「読書メモ」には載っていないから、いよいよもって私の曖昧な記憶かもね。
このホーヴィング氏は2009.12.10ガンで死去したとネット情報に出ていた。
昨夕より今朝にかけてかなりの雨です。いよいよ台風16号のご入来でしょうか。
ウェブニュースより
台風16号、鹿児島・大隅半島に上陸 暴風や大雨警戒 ―― 非常に強い台風16号は九州の南西海上を東寄りに進み、20日午前0時すぎ、鹿児島県・大隅半島に上陸した。今後は列島の太平洋側を東進し、21日には日本の東で温帯低気圧に変わる見込み。気象庁は暴風や高波、大雨に警戒するよう呼び掛けた。
レーダーの解析では、愛知県岡崎市内で19日夕、1時間に約110ミリ、鹿児島県枕崎市では深夜に120ミリ以上の猛烈な雨が降ったとみられ、気象庁は記録的短時間大雨情報を発表。宮崎県高鍋町でもこの地点の観測史上最大となる1時間に110.0ミリの雨を記録し、静岡県富士市では70.0ミリの非常に激しい雨が降った。枕崎市では20日未明、瞬間風速44.5メートルの非常に強い風が吹いた。
台風16号は20日午前0時現在、鹿児島県・佐多岬付近を時速30キロで東北東に進んだ。中心気圧は945ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は45メートル、最大瞬間風速は60メートルで、中心から半径110キロ以内は暴風域となっている。
20日にかけて予想される最大瞬間風速は、九州南部60メートル、四国45メートル、九州北部と近畿、奄美35メートル、東海30メートル。波の高さは九州南部9メートル、四国と近畿7メートル、奄美と九州北部、東海6メートルと予想している。
21日午前0時までの24時間予想雨量は、いずれも多い所で四国と近畿300ミリ、九州と東海250ミリ、伊豆諸島200ミリ、北陸180ミリ、中国地方150ミリ、関東甲信120ミリ。 (日本經濟新聞 2016/9/20 1:52)
横浜のIN氏よりメールが入りました。曰く、
2016年9月16日11時36分 Re: 中国の海外進出のヒント
日高節夫様
空〈飛行機)に関する質問全部、ご教示ありがとう。
門司中学の校庭に暁部隊が掘った防空壕を狙った飛行機は、偵察機であるはずもないから君の言うように、あれはグラマン戦闘機だろうね。いまでもあのプロペラの回る音が耳に残っているよ。異常な金属音という言葉がふさわしい音でした。
今月の下旬に、航空自衛隊に売り渡される(アメリカから引き渡される)予定のステルス戦闘機F35は、いまの航空自衛隊の戦闘機部隊の主力がいる百里基地でなく、宮崎県の新田原(ニュータバル)基地でもなくて、米軍のお膝元、三沢基地に置かれるらしい。書店に売っていない『選択』という月刊誌に載っていた。
さて「グレイ産業、やがては日の目を見る」論。
グレイ? 産業が表街道に出てくることは、よくあること。
まだ日本では傭兵はいないだろうが、フランスの外人部隊に入って一時的に大金を設けた青年の話はよく聞いた。
ローマ法王庁は昔から、番兵はスイスの傭兵だと聞いている。
蛇足だけれど、バチカンの傭兵は、腹巻をするのが決まりだと、有名なアメリカの美術館長の本で読んだことがある。理由は「バチカンの建物はすべて石造りで、その中で勤務するから、おなかを冷やす。下痢をするので、そこで傭兵には腹巻を支給していて、その規則に違反した者には罰を加える。美術館の職員も環境は同じだが、腹巻は支給しない」と書いてあった。
その出典を明らかにしようと思うのだけれど、過去の読書抜き書き帳では見つからない。だから私のホラ話と思ってくれていい。
会社勤めをしているときに、一度だけ、ラブホテルにたった一人で泊まったことがある。
新宿西口支店に勤務しているときで交通ゼネストのある前夜のこと。
職掌柄、責任者は是が非でも、店を開けなければならないという日の前夜。
新宿地区の普通のホテルはみんな満員札止め。同僚の総務課長さんが、高校時代の友人がラブホテルのマネージャーをしているから、そこでよければ取れます」と言ってくれて、歌舞伎町に近い、西武新宿線の新宿駅近くだった。
周囲に鏡を張り詰めた部屋に布団が敷いてあって、あとの設備はホテルとそう違わなかった。
私が用心したのは、性病が移らないように浴槽はご遠慮して、シャワーだけで汗を流せば、周りが鏡であろうとなんであろうと、ぐっすりと寝た。起きてみたらストは払暁に解決して、電車はふつう通りに動いていた。職場の近くのパン屋で朝食の菓子パンを食って、出勤した。その経験から行くと、ラブホテルだろうと、ノン・ラブホテルであろうと、機能は同じだと思った。
あのラブホテル代は、社費で払ってもらったが、いま観光庁が、ホテル不足に対処しようと、ラブホテルに目をつけたのも、30年も前にわたしが選んだ宿探しも同じような対処方法だと思うね。
それはそうと、どうして民進党だけは、村田蓮舫と戸籍通りの名前で登録しないで済んでいるのだろうね。蓮舫で選挙に出ることは、私で言えば Ituro だけで世の中を歩くようなものと違うのだろうか。蓮舫ちゃんには、姓はいらないのかな。
今の世の中のことはもうどうでもいいのだけれど、ここ十数年、隣りの国の中国が海洋開発に目覚めて、考古学の古い陳腐な手を使って、古い陶器を証拠に「ここは昔から中国の土地だ」という主張をするようになった。このヒントはどこにあったのか?
わたしは明代の鄭和の大航海がヒントになっているのではなかろうかと思っています。
鄭和は、明の永楽帝の時代に何回も大艦隊を率いて海外遠征を試みた宦官だけれど、彼が死んだあと、あまりにも膨大な予算を使い過ぎ、国費に莫大な負担を強いたので、同じ時代の官僚、劉大夏(1436-1516)が、鄭和の遠征記録を焼却して、後の皇帝が二度と海外に目を向けないようにしたという資料が出てきたのではあるまいかと勘ぐっているのです。
官僚としてはありそうなことですが、資料はなくっても、今の時代、昔よりもっと島の地政学上での価値は高まっていますから、所有権を主張するのには、鄭和がどこの島に行ったのかを明らかにできれば、インド洋やオセアニアの島が中国領になる可能性もあるのでしょう。
中国の古典に詳しい君なら、鄭和の秘密が解けるのではないでしょうか。
ご教示のお礼と、次なる質問? IN
昨日取り上げた五柳先生ではないが、「書を読むことを好めども、甚解を求めず」と言います。判る範囲で鄭和について調べてみました。
中国ではしばしば明朝時代の鄭和の大航海の再来になぞらえられています。鄭和は大艦隊を率いて計七回にわたって遠征を行ない、南シナ海からマレー海峡を経てインド洋にまで至りましたが、その間、沿岸の様々な諸国に寄港し、最終的には中近東やアフリカ東岸の諸国にまで赴いたといいます。中国では7月11日が「航海の日」と定められているそうです。その日は鄭和の記念すべき第一回目の大航海の出発日とされているといいます。
コロンブスがアメリカに上陸し、バスコ・ダ・ガマがインドに到着する1世紀近く以前に、中国の艦隊は何をしたのでしょう。
明朝の永楽帝は、世界の国々を探検し、貿易を行うために、大艦隊を送り出しました。永楽帝が航海の司令官として選んだのが、宦官の最高職の太監であった鄭和でした。 鄭和は、およそ30年(1405~33年)にわたって、7度の西方への航海にでますが、その規模と範囲は、前例のないものでした。大艦隊は、南シナ海、インド洋、ペルシャ湾、そして、アフリカの東海岸にまで到達しました。これらの航海に使われた船は、考古学的な証拠によれば、全長が120メートルを超えており、コロンブスが大西洋を航海した船の何倍もの大きさだったといいます。これらの航海によって、明朝の力と富がいかんなく示されたのです。より重要なのは、これらの航海が、訪問国に長く続く影響を与えたということです。この地域のモスクには、鄭和と名付けられたものが数多くあり、鄭和の現地社会への貢献を讃えているといいます。
もし、歴史的な主張によって海洋の管轄権が決まるというのであれば、中国人は、600年前にこれらの海域を誰にも妨げられることなく航海した事実を指摘するでしょうね。
コロンブスと鄭和の艦隊を比べてみると、人数ではコロンブスは100人強であるのに対し、鄭和は3万人弱でした。船の大きさも鄭和は全長120mあり、コロンブスの約4倍でした。ただ、コロンブスが持ち帰った中南米原産のトウモロコシやジャガイモ、ほかにも性病の梅毒は、ヨーロッパを経由して世界に広がりました。これらの食物はヨーロッパで主食になり、18世紀の世界的な人口増加を支えたと言われています。これに対して、鄭和が持ち帰った目新しいものと言えば、アフリカのキリン、シマウマ、ライオンくらいで、その後の歴史に大きな影響を与えるものはありませんでした。
鄭和が航海をしていた当時、アジアではすでに活発に交易が行われていました。明朝には、物資は十分にあったと言われます。産業革命までは世界の基軸はアジアであり、生活水準もヨーロッパに比べ高かったことが判っています。これに対してヨーロッパは、海を渡って他国を侵略して食料や原料、市場を得なければ、自国の発展はありませんでした。自国の発展のために、さまざまな新しいものを持ち帰ったコロンブスと物質的に満たされていて新たなものを積極的には求めなかった鄭和の航海の目的の差が、歴史に与えた影響の差となっているのではないでしょうか。
陶淵明の小品「五柳先生伝」は、長らく陶淵明の自叙伝であると信じられてきました。五柳先生自体は架空の人物として設定されていますが、そこに陶淵明は自分自身を投影したのだと、後世の人々はこう考えたのでしょう。
蕭統(しょうとう)の『陶淵明伝』に「淵明、少(わか)くして高趣(こうしゅ)あり、……曾(かつ)て『五柳先生伝』を著して以って自(みずか)らに況(たと)う。時の人これを実録と謂(い)えり」とあります。
これは淵明が江州祭酒となる以前の、恐らく28歳ぐらいの頃の作だろうとする説があります。しかし、文中に酒食にも不自由するほどの貧困の状態を述べ、また文筆の老熟している点などから見て晩年の作と見たいものです。
五柳先生傳 幷賛 陶 淵 明
先生不知何許人也。 先生は何処(いずこ)の人なるかを知
亦不詳其姓字。宅 らざるなり。亦た其の姓字(せいじ)
邊有五柳樹。因以 も詳かにせず。宅辺に五柳樹有り、因
爲號焉。 って以って号と為す。
閑靖少言、不慕榮 閑静にして言少なく、栄利を慕わず。
利。好讀書、不求 書を読むことを好めども、甚解(じん
甚解。毎有會意、 かい)を求めず。意に会するもの有る
便欣然忘食。 毎に、便ち欣然として食を忘る。
性嗜酒、家貧不能 性、酒を嗜むも、家貧にして常には得
常得。親舊知其如 ること能わず。親旧、其の此の如くな
此、或置酒而招之、 るを知り、或いは置酒(ちしゅ)して
造飲輒盡。期在必 期すること必ず酔うに在り。既に酔い
醉。既醉而退、曾 て退き、之れを招く。造(いた)れば
不吝情去留。 飲みて輒(すなわ)ち尽くし、曾て情
を去留(きょりゅう)に吝(お)しまず。
環堵蕭然、不蔽風 環堵(かんと)蕭然として、風日(ふ
日。短褐穿結、箪 うじつ)を蔽(おお)わず。短褐(た
瓢屢空、晏如也。 んかつ)穿結(せんけつ)し、
常著文章自娯、頗 箪瓢(たんぴょう)屢〃空しきも、晏
示自己志、忘懷得 如(あんじょ)たり。常に文章を著し
失。以此終。 て自ら娯(たの)しみ、頗(いささ)か
己が志を示す。懐いを得失に忘れ、
此れを以って自ら終わる。
贊曰、黔婁之妻有 賛に曰く、黔婁(けんろう)の妻の言
言、不戚戚於貧賤、 える有り、「貧賤に戚戚(せきせき)
不汲汲於富貴。極 たらず、富貴に汲汲たらず」と。其の
其言、茲若人之儔 言を極わむるに、玆(こ)れ若(かく
乎。酣觴賦詩、以 のごと)き人の儔か。酣觴(かんしょ
樂其志。無懷氏之 う)して詩を賦(ふ)し、以て其の志
民歟、葛天氏之民 を楽しむ。無懐氏(むかいし)の民か、
歟。 葛天氏(かってんし)の民か。
※黔婁の妻:黔婁は春秋時代の斉の人で、清節の士として知られ、魯の恭公が粟三千鍾を贈って宰相に迎えようとしたが、就かなかった。のち斉王も黄金百斤を贈って大臣に迎えようとしたが応じなかった。(皇甫謐の『高士傳』による)
黔婁の妻の言葉は劉向の『列女傳』にみえる。
※無懐氏・葛天氏:いずれも古代伝説中の帝王の名。
訳) 先生ハ何処ノ出身カワカラナイ。マタソノ姓名モヨクワカラヌ。家ノソバニ五本ノ柳ガアッテ、ソレヲソノママ号トシテイル。
モノシズカデ口数スクナク、名誉ヤ富ヲノゾマヌ。読書ハ好キダガ、トコトンマデワカロウトハセヌ。タダコレダト思ウコトガアルト、モウウレシクテ食事モワスレルノガツネダッタ。
生マレツキ酒ガ好キダガ、家ガ貧乏デ、イツモ手ニ入レルワケニハユカヌ。親戚・旧友タチハソノ様子ヲ見テ,酒席ヲシツラエ、招待シテヤルコトガアッタ。出カケテユケバ、イッキニ飲ミツクシ、必ズ酔ッパラウノガ目的ダッタ。酔ッテシマウトヒキアゲ、思イキリワルクグズグズト居坐ルトイウコトハナカッタ。
セマイ家ハサビレテ、風ヨケ陽ヨケニモナラヌ。チンチクリンノ毛皮ノ上衣ハボロニナリ、オ椀ヤ湯呑ハカラッポノコトガ多カッタガ、平然トシテイタ。イツモ詩文ヲツヅッテハ、ヒトリ楽シミ、イササカオノガ主張をシメシタ。人生ノ損得ヲ気ニカケズ、カクテヒトリデ死ンデイッタ。
賛ノコトバ――
ムカシノ隠者黔婁ノ妻ノコトバニ「貧乏ヤ低イ身分ニクヨクヨセズ、財産ヤ高イ地位ニアクセクセヌ」トイウ。ソレハマッタク先生ノヨウナ人物ヲイウノデアロウ。酒ニ酔ウテハ詩ヲ作リ、オノガ心ヲ楽シマセタ。古代ノ帝王無懐氏ノ民デモアルカノヨウニ、マタ葛天氏ノ民デデモアルカノヨウニ――。
篠山にいる姪に久しぶりに電話してみました。
爺が食事の料理を作っていることから、姪の「カレーライスに卵を入れて食べたことある?」の質問に「そんなの食べたこともない」と答えると、自分は子供のころカレーに卵の黄身を入れて食べた記憶があるということから、そんな風習が西日本特に広島にあると聞いたので、広島で生まれた爺に訊ねてみたとのことでした。
そんなこんなで、爺が上京してからの自炊生活時代に家庭教師に入っていた家の奥さんからカレーの作り方を習ったことや、子供の頃の食べ物の話になり、親父の商売の関係でイタリアからスパゲティ(マカロニの記憶違い)が送られてきて、それをすき焼きに入れて食べたこと、当時この爺が穴の開いた饂飩と呼んでいたことなどを話しました。
電話が終わって、しばらくしてスパゲティとマカロニの違いに気が付き、携帯でメールを入れました。曰く、
2016年9月14日19時13分発信 題:先刻の話の訂正
さっきの話のなかでスパゲティといったのはマカロニの間違いでした。僕は穴の開いたうどんと言っていました。節夫
すぐに返信メールが入りました。曰く、
2016年9月14日19時28分着信 FW:ありがとうございます
パスタの総称としての「スパゲッティ」と理解しておりました。
長いマカロニは、太めをツィーテ(英名ロングマカロニ)、細めをブカティーニというそうです。
昭和初期に「オシャレ」ですね。
マカロニについて調べてみました。
イタリア語ではマッケローニmaccheroni(単数形はmaccherone)という。macaroniはイタリア語から借用の英語で、日本ではマッケローニではなくマカロニを借用している。以前はマカロニという名称でパスタ全般を意味することがあったが、パスタということばが普及してからは、マカロニは管状の乾燥パスタの一種という本来の意味になった。
語源は、古代ギリシア語のmakariaであるという説が有力である。マカロニの起源についてはいろいろな説がある。語源からみてギリシアに起源があるという説は、makariaが葬儀の宴に供される一種の聖なるパスタであったということに基づいている。シチリアに起源を置く人もいる。この場合、シチリア方言のtriaということばは「パスタを圧搾機で押し出し、大気で乾燥させた穴あきの細長いパスタ」を意味するが、これがマカロニの祖先であるという説である。マカロニのシチリア起源説は、パスタのアラブ起源説につながる。なぜなら、シチリア方言のtriaはアラビア語のitriyaからきているからで、1154年にアラブの地理学者が書いた本にパスタの一種としてitriyaのことを記述しているからである。
いずれにしても、マルコ・ポーロが中国の麺(めん)をみて伝えたというのは俗説であり、マカロニはもっと古い時代からすでに地中海世界に存在していたと考えるほうが正しい。はっきりイタリア語の文献にマカロニの名が現れるのは、ボッカチオの『デカメロン』(14世紀の中ごろ)のなかである。マカロニはそのなかで、ラビオーリと並んでたいへんな御馳走(ごちそう)として扱われている。しかし、『デカメロン』に出てくるマカロニは現在の管状のものと違い、ニョッキのようなものであったというのが定説になっている。 日本百科全書より
なお、『デカメロン』での表記は、「そこにはすっかりパルメザン・チーズのおろした粉でできた山があって、その上にはマッケローニとラヴィオリづくりの人がいて、せっせとつくっては去勢雄鶏のスープのなかで茹で、それを下へところがしていく」 (第八日第三話)
ここでころがっていくマッケローニは、小さなだんご状のニョッキです。乾燥パスタのマッケローニのほうは中流の人が購入したと考えられていますがが、マッケローニ/ニョッキのほうは、庶民が腹を満たす食べ物だったようです。
横浜のIN氏より、メールがありました。曰く、
2016年9月14日11時17分着信 題:大雨、ご様子如何?
日高節夫様
台風関連の大雨が次々と続きますが、ご夫妻の体調はいかがですか。
地震も相変らず活発で、最近は朝鮮半島の影響を受けて、対馬の震度3が、新羅の古都・慶州のとばっちりでした。地震も他国のとばっちりを受けるようになりましたね。
我が家二人の最近の体調は、相変らずで、足の痛い夫婦が、9年目の車検を済ませたおんぼろ車を慎重に運転しながら、時々スーパーに食料品を買いに行って、細々と暮らしています。
君に、メールで書きたいことは山ほどあるのですが、どうもあんまり君の役に立つようなものではないので、テーマだけ書いておきます。
①MRJ〈三菱リージョナル・ジェット機)はいつになったらアメリカの型式証明が取れるの?
②太陽光発電で世界一周を果たしたサウジ・アラビアがスポンサーの翼長機は、二年越しで目的を達成したが、お手本になる点は?
③門司中学の時に、ただ一回だけ受けた米空軍機機銃掃射はいつ? その機種は、グラマンだったか、ロッキードP38だったか?
④世の中、グレイな存在が、いつの間にか、本業、公認の商売を押しのけて、政府公認の存在になるものか?〈ラブホテルのホテル業公認)
⑤日本政府の政府専用機、間もなく買い替え。次の機種は何に?
このように分からないことがいっぱいです。
何はともあれご夫妻の健康が第一、どうぞお大事に、ご無理をなさらないようにお祈り申し上げます。 IN
爺の返信メールに曰く、
2016年9月15日10時42分発信 Re: 大雨、ご様子如何?
メールありがとう。
車の運転にはくれぐれも慎重に。お気を付け下さい。私は最近では自転車も使用していません。すべてテクシーで終わらせています。歩く速度も今ではすっかり落ちてしまいました。早朝徘徊もやめてしまって、毎日の買い物で1日3000歩程度の歩きしかしていません。
役に立つ立たないはともかく、この歳になっても何でも知ってやろうとする知識欲はお互い旺盛なようですね。
君の掲げた5つのテーマについても知りたいとは思うものの私の能力ではどうしようもありません。でも、インターネットをあちこち訊ね歩いて、色々と調べてみました。
添付写真をご覧ください。
以上、回答にならない写真を添付し、駄文を付け加えました。
まあ、お互いに生ある限り気楽にやりましょう。 日高節夫
以下は『Romeo and Juliet(ロミオとジュリエット)』のあらすじです。
ヴェローナの2つの名家、キャピュレット家とモンタギュー家は仇敵同士です。ところが、モンタギュー家の一人息子ロミオとキャピュレット家の一人娘ジュリエットとが互いに一目惚れしてしまいます。
神父のロレンス修道士は「この縁組」が両家の和解を導くこともあろうかと一肌脱いで二人をひそかに結婚させます。ところが、ロミオは喧嘩に巻き込まれて、ジュリエットの従兄弟ティボルトを殺し、ヴェローナを追放されます。
一方、ジュリエットは大公の親戚、パリス伯爵との結婚を両親に命じられます。修道士は一計を案じ、ジュリエットを薬で仮死状態にして葬らせ、蘇生後にロミオと駆け落ちさせようとします。ところがロミオは、その手はずを知らないまま、ジュリエットの死の知らせを受けると墓に駆けつけ、毒薬をあおって死んでしまいます。目覚めて彼の死を知ったジュリエットも短剣で自殺します。
シェークスピアの『ロミオとジュリエット』は悲劇とされ、シェークスピアの死後に刊行された全集の分類でも悲劇とされています。この作品が、『Hamlet(ハムレット)』と並んでシェークスピア作品の中でもずば抜けて有名であるにもかかわらず、シェークスピアの四大悲劇が『ハムレット』に加え『Othello(オセロ)』『Macbeth(マクベス)』『King Lear(リア王)』とされるのは、この作品が主題が異なるため、同じ恋愛悲劇である『Antony and Cleopatra(アントニ―とクレオパトラ)』などと並べて論じられるからです。
ロミオとジュリエットは男女間の悲恋を取り扱った物語であり、人間の愚かさや人間が持つ醜さを扱ったものではない。
悲劇とは、実らない恋愛でも人の死でもなく、人間だれしも持つ弱さが招いたその人自身の人生の破滅、さらにはその人の周りの人の人生の破滅を意味するといえるのでしょう。
シェークスピアの全戯曲のほとんどは、既存の物語やエピソード、詩などをベースに翻案したものであると言われていますが。シェイクスピアが『ロミオとジュリエット』を書くにあたって直接種本としたのは、Arthur Brooke(アーサー・ブルック)の物語詩『The Tragical History of Romeus and Juliet(ロミウスとジュリエットの悲しい物語)』(1562年、イギリス)と言われています。しかし、アーサー・ブルックについては、生没年はもとより不明なことが多いようです。
『ロミオとジュリエット』の物語の成立は、西欧の民間伝承やギリシアの古典物語に端を発しているともいわれています。中でも特に有名なのは、昨日の爺のブログで取り上げた、古代ローマの詩人オウィディウスがギリシアの神話に基づいて著した『Pyramus and Thisbe(ピュラモスとティスベ)』で、シェイクスピアは『A Midsummer Night's Dream(真夏の夜の夢)』の中でも『ピュラモスとティスベ』を劇中劇として取り上げています。
ロミオとジュリエットの物語は、対立する二つのグループと、それに翻弄され悲しい結末へ至る恋人達という、時代や文化背景を越えた、普遍性のあるドラマ的構図を含んでいます。それ故に、古代の民間伝承から中世のシェイクスピアに至るまでの間、何度も翻案をされ続けてきたのでしょう。
シェイクスピア作の『ロミオとジュリエット』は、彼の属する宮中の大臣一座の人気の演目として、観客達に受け入れられたと言います。その後の時代でも、欧米を中心に、様々な演出家、俳優達によって、多くの劇場で何度も上演されてきました。時にはオペラやバレエに翻案されることもあり、『ロミオとジュリエット』の種本が、戯曲化されて上演されることもあったようです。現代においては映画・テレビなどの分野でも、題材として取り上げられることが多々あります。
以下は、ギリシャ神話およびローマ神話の一つで、オウィディウスの『変身物語』に収録されている「ピュラモスとティスベ」の物語です(付図は除く)。
無類の美青年ピュラモスと、これも『東方』だいいちの美女ティスベ―–このふたりが、隣り合わせの家に住んでいたのです。セミラミス女王が高い煉瓦の城壁で囲んだという、あのバビュロンの都での話です。二人の馴れ初めは、家の近さが取り持ったということになりますが、時とともに、この恋がつのってゆきました。
親たちの反対さえなけれぱ、めでたく結ばれたふたりだったでしょう。でも、こればかりは、親たちにも反対のしようがありません。つまり、ふたりは、同じように気もそぞろで、恋の炎に身を焼かれていたのです。なかに立ってくれるような、腹心の友もありません。うなずきと目くばせが、語らいのすべてです。そして、つつめばつつむほど、炎は燃えたちます。
両家を境する壁に、細い裂け目がありました。むかし、建築ちゅうに出来たものでしょう。この孔(あな)は、長い歳月のあいだに、誰の目にもつかなかったのですが、この恋人たちが、はじめてこれを見つけました–何につけても目ざといのが、恋というものなのでしょう。ふたりは、この孔を、声の通路にしたのです。そして、いつも、うまいぐあいにこの孔から甘いささやきを送るのでした。ティスベがこちらに、ピュラモスがあちらに立って、たがいに相手の喘ぎをとらえあってから、しばしばこんなふうにいうのでした。
『嫉妬ぶかい壁よ、どうして恋人たちの邪魔をするのだ?わたしたちに、からだごと抱きあうことを許したとしても、いや、それがあんまりだというのなら、せめて口づけを交わせるほどの場所をあけてくれたとしても、それがどれほどのことだというのだろう?もっとも、わたしたちも感謝はしている。愛する耳もとへの言葉を送ることができるのも、おまえのおかげだとは認めている』
離れた場所から、むなしくこんなふうに語りあいながら、日暮れが近づくと、『さようなら!』といって、それそれが自分の側の壁に、しょせん向こうへはとどかない口づけを与えるのです。
あくる朝、曙(あけぼの)が星々を追い散らし、霜に濡れた草の葉が日差しに乾いたころ、ふたりはいつもの場所に寄って来ました。それから、つもる嘆きをか細いささやきに託したあと、ついにこんな取り決めを交わしました。夜のしじまが訪れたら、見張りの目をかわして、門の外へ抜け出すことにしよう。家を出たら、そのまま町はずれまで行こう。広い野原に出ることになろうが、そこではぐれたりはしないように、ニノス王の基で落ち合い、木の陰に隠れていることにしよう ―― そういうことにしたのです。じっさい、そこには、真っ白な実をいっぱいに垂らした木が–高い桑の木だったのです ―― 冷たい泉のそばに立っているのです。
ふたりは、このような約束をしました。いやに遅々とした足どりのように思えた太陽も、西の海に沈み、その同じ海から、夜の闇が寄せて来ます。
夜陰に乗じて、門へ蝶番(ちょうつがい)をはずしたティスベは、家の者に気づかれないで、うまく外へ出てゆきました。ヴェールで顔を隠して、墓までやって来ると、いわれた木の下に坐ります。恋が彼女を大胆にしていたのです。–その時です。一頭の雌獅子がこちらへやって来るではありませんか。牛を食い殺したばかりで、ロを血だらけにして、近くの泉の水で乾きをしずめようとしているのです。遠くから、月の光でその姿を認めたティスベは、ふるえる足で、暗い洞穴に逃げ込みました。逃げながら、背から落としたヴェールを、そこへ置き去りにしました。
獰猛な獅子は、たくさんの水で渇きをいやし、森へ帰ってゆく途中、たまたまちょうど、置き去りにされていた薄衣を見つけて、血だらけの口でそれを引き製いたのです。遅れて家を出たピュラモスは、積もった砂ぼこりのうえに、まぎれもないけものの足跡を認めて、顔一面が真っ青になりました。そのうえ、血に染ったヴェールさえも見つかったからたまりません。おもわず、こう叫びます。
『この同じ一夜に、恋人ふたりが死んでゆく。ふたりのなかでは、彼女のほうこそ、生きながらえるのにふさわしかったのに。悪いのはぼくだ。かわいそうに、ぼくがおまえを死なせたのだ。危険にみちたこの場所ヘ、夜歩きをさせて、させた本人が遅刻するなんて!ぼくのこのからだを、罪深いこのはらわたを、荒々しい牙(きば)でくいつくすのだ、おお、この崖(がけ)下に住む獅子たちよ!が、ロ先で死を願うのは、臆病者のしわざだ!』
ティスベのヴェールを取りあげ、約束の木陰まで持ってゆきます。見知ったそのヴェールに涙をそそぎ、口づけして、こういうのです。『今こそ、さあ、ぼくの血潮も吸ってくれるのだ!』
腰につけていた剣を、わき腹に突きたてました。そして、すぐに、焼けるように熱い傷ロから、それを引き抜きました。あお向けに地上に倒れると、血が高く噴きあげます。水道管が破れて、裂け目ができると、細い孔(あな)から、しゅうしゅうと音をたてながら高々と水が噴きあがって、空をつんざきます--そんなさまに変わりがないのです。そばの桑の実は、血しぶきを浴びて、どす黒い色に変わりました。根も血を吸って、垂れさがる実を赤く染めるのです。
このとき、いまだに恐怖を捨てきれないでいるものの、恋人にはぐれてもいけないと思ったティスベがもどって来ました。血まなこで、懸命に若者を探すのですが、自分がどれほどの危険を避けていたのかを知らせたい一心です。場所をさぐり当て、木の姿にも見おぼえはあるのですが、実の色が不審を呼びます。この木だったのかしら、と迷うのです。そんな疑念にとらえられているうちに、何やら人影がぴくぴくと、地上にうごめいているのが見えたのです。驚いて、あとじさりします。顔は、つげの木よりも青白くなって、からだはがくがくと震えます--そよ風に水面をなぶられて、ふるえ動く海原(うなばら)のように。
でも、しばらくあとで、それが自分の恋人だとわかると、罪もない腕を高らかに打ちたたいて、嘆きをほとばしらせます。髪を引きむしり一いとしいからだを抱いて、傷口を涙で埋めますと、その涙が血と混ざるのです。冷たい顔に口づけしながら、『ピュラモス!』と叫びました。『何という不運が、あなたをわたしから奪ったのでしょう? ピュラモス、答えてちょうだい!あなたの最愛のティスベが、あなたの名を呼んでいるのよ。間いてちょうだい!うなだれた顔を起こして!』
ピュラモスは、ティスベの名を間いて、死の眠りで垂くなった口をあげ、彼女を見てから、ふたたび目を閉じました。
ティスベは、白分のヴェールと、中身のからな象牙の剣鞘を見てとると、こういいます。『あなたの手と、そして愛が、あなたの生命を奪ったのね、不しあわせなかた!でも、わたしにも、その同じことをするための雄々しい手と、愛がありますわ。その愛が、みずからを傷つけるだけのカを与えてくれるのよ。あの世へおともをいたしましょう。あなたの死の哀れな原因でもあり、その道連れともいわれましょうよ。死によってのみわたしから引き離されることのできたあなたが、もう、死によってさえも引き離されることはできないのです。おお、わたしのお父さま、それにこのかたのお父さまも、どんなにお可哀そうなことか!
でも、あなたがたに、わたしたちふたりからのお願いがあるのです。確かな愛が、いまわの刻(とき)が、こうして結びつけてくれたわたしたちを、同じお墓に葬っていただきたいのです。それに、この桑の木にもお願いが・・・。今は、みじめなひとりのなきがらを、枝の下に隠しているけれど、もうすぐ、ふたりのからだを覆い隠してくれましょうね。これからは、わたしたちの死の形見に、いつも、嘆きにふさわしい黒い実をつけてほしいの。ふたりの血潮の思い出にね』
こういって、胸の下に刃(やいば)をあてがうと、血のぬくもりがまだ残っている剣のうえに、うつ伏せになりました。でも、彼女の願いは、神々によって、親たちによって、聞きいれられたのです。桑の実は、熟しきると、黒っぽい色になるのですし、焼け残った彼らの骨は、ひとつの壷に眠っているのですから。 オウィディウス 変身物語より、 中村善也訳
※ 中村善也(1925~1985年):古典古代文学者。 福井県生まれ。京都大学文学部卒。西京大学、京都府立大学助教授、教授。在職中に死去。
sechin@nethome.ne.jp です。
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