最近、ニュース番組を見ていても経済や政治や生活などの問題でとにかく不安を煽るような見せ方が強いような感じがしますが、皆さんは如何お考えですか。
まあ、爺などは鈍感な方ですから、「またか。世の中なるようにしかならなんじゃないか。」と聞き流してしまいますが、将来のある若い人たちはついつい取り越し苦労してしまうのではないでしょうか。こんなことがこの世の中にストレスを蔓延させているのでしょうね。
世説新語言語篇に次のような一文があります。
滿奮畏風。在晉武帝坐,北窗作琉璃屏,實密似疏,奮有難色。帝笑之。奮答曰:「臣猶吳牛,見月而喘。」
(書き下し文)
滿奮風を畏る。晉の武帝の坐に在り。北窻に琉璃屏(るりへい)を作る。實密にして疎なるに似たり。奮に難(はゞか)る色有り。帝之を笑ふ。奮荅へて曰く、臣猶ほ呉牛の月を見て喘ぐがごとしと。
(訳)
満奮は風が嫌いであった。ある時晋の武帝の座所に侍していたが、北の窓に瑠璃の扉をはめて風が入るのを防いであり,気密になっているのに、風を通すように見えた。満奮はこれを見て恐れをなしているようであった。武帝がこれを笑うと、満奮は言った。
「南方の暑さに懲りている呉の牛は月を見てさえも喘ぐ、と申しますが、私がそれです。」
ここから、思い過ごしや取り越し苦労することを「呉牛喘月(ごぎゅうぜんげつ)」という四字熟語が出来たといいます。同じような意味で「杞憂」という熟語はご存知だと思います。これは列子の天瑞篇から出来た熟語です。
杞國、有人憂天地崩墜、身亡所寄、廢寢食者。又有憂彼之所憂者。因徃曉之曰、天積氣耳、亡處亡氣。若屈伸呼吸、終日在天中行止。奈何憂崩墜乎。其人曰、天果積氣、日月星宿不當墜耶。曉之者曰、日月星宿亦積氣中之有光耀者。只使墜、亦不能有所中傷。其人曰、奈地壞何。曉者曰、地積塊耳。充塞四虚、亡處亡塊。若躇歩跐蹈、終日在地上行止。奈何憂其壞。其人舍然大喜、曉之者亦舍然大喜。
(書き下し文)
杞(き)の国に、人の天地の崩墜(ほうつい)して、身寄する所亡きを憂え、寝食を廃(はい)する者あり。又彼の憂うる所を憂うる者有り。
因って往きて之を暁(さと)して曰く、天は積気のみ、処として気亡きは亡し。屈伸呼吸の若(ごと)きは、終日天中に在りて行止(こうし)す。奈何(いかん)ぞ崩墜(ほうつい)を憂えんやと。
其(そ)の人曰く、天果たして積気ならば、日月星宿は当(まさ)に墜(お)つべからざるかと。之これを暁す者曰く、日月星宿も亦積気中の光耀(こうよう)有る者なり。只(たと)い墜ちしむるも、亦中(あた)り傷(やぶ)る所有る能わじと。
其の人曰く、地の壊(くず)るるを奈何(いかん)せんと。暁す者曰く、地は積塊(せっかい)のみ。四虚(しきょ)に充塞(じゅうそく)し、処として塊(かたまり)亡きは亡し。躇歩(ちょほ)跐蹈(しとう)するが若(ごとき)は、終日地上に在りて行止(こうし)す。奈何(いかん)ぞ其の壊(くず)るるを憂れえんと。
其の人舎然(せきぜん)として大いに喜び、之を暁す者も亦舎然として大いに喜ぶ。
(訳)
杞の国に、天地が崩れ落ち、身の置き所が亡くなるのを心配して、寝食を廃した男がいた。するとまた、その男の心配していることをさらに心配する男がいて、そのために出かけて行って彼に説得した。
――天は気の集まりでしかない。気は至る所に存在し、したがって人間が体を屈伸したり呼吸したりといった日常の動作も、一日中天の中で行っているのだ。それをどうして君は、天が崩れ落ちなどとしんぱいするか。
するとその男はたずねた。
――天がもし気の集まりであるとすれば、太陽や月や星は、きっと落ちないと言えるのか。
彼を説得する男が、「太陽や月や星も気の集まりの中で輝きを持つものにすぎない。たとい落ちてきたとしても人間に危害など加えっこないのだ」と応えると、その男はさらに「大地が壊れたらどうするのか」という。説得する男が、
――大地は土の塊でしかなく、世界の司法の果てまで充ちふさいでいて、いたるところが土の塊である。人間が立ち止まったり歩いたり、足で踏んづけるといった日常の動作も、一日中大地の上で行っているのだ。それをどうして君は、大地が壊れるなどと心配するのか。
というと、その男はさばさばした気持ちになってすっかり喜び、彼を説得した男もさばさばした気持ちになってすっかり喜んだ。
この話はなおも続き、最後に列子先生は笑いながら次のように結論付けるのです。
――天地が崩壊すると主張する者も間違っているし、天地が崩壊しないという者も間違っている。崩壊するかしないかは、己に分からないことだからだ。しかしながら、崩壊するというのも一つの見識であり、崩壊しないというのも一つの見識である。かくて、生きている者には死者のことは分からないし、死んだ者には生者のことは分からない。将来の人間には過去のことは分からず、過去の人間には将来のことは分からない。天地が崩壊しようと崩壊すまいと、そんなことに心を乱されない無心の境地こそ大切なのだ。
荘子の天下篇に、次のような一文があります。
堯觀乎華。華封人曰、嘻、聖人。請祝聖人、使聖人壽。堯曰、辭。使聖人富。堯曰、辭。使聖人多男子。堯曰、辭。封人曰、壽富多男子、人之所欲也。女獨不欲何邪。堯曰、多男子則多懼、富則多事、壽則多辱。是三者非所以養德也。故辭。
封人曰、壽富多男子、人之所欲也。女獨不欲何邪。
堯曰、多男子則多懼、富則多事、壽則多辱。是三者非所以養德也。故辭。
(読み下し文)
堯(ぎょう)、華(か)に観(あそ)ぶ。華の封人曰く、嘻(ああ)、聖人なり。請(こ)う、聖人を祝し、聖人をして寿(いのちなが)からしめん、と。尭曰く、辞す、と。聖人をして富しめん、と。尭曰く、辞す、と。聖人して男子多からしめん、と。尭曰く、辞す、と。
封人曰いわく、寿と富と男子多きとは、人の欲する所なり。女(なんじ)独り欲せざるとは何ぞや、と。
堯曰く、男子多ければ則(すなわ)ち懼(おそ)れ多く、富めば則ち事多く、寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し。是の三者は徳を養やしなう所以に非ざるなり。故に辞す、と。
(訳)
堯があるとき華という地方へ出かけた。その華の関守の役人が堯に言った。「おお、聖人よ、どうか私に聖人であるあなたを祝福させてください。聖人の長寿を祈りましょう」 すると堯は言った。「おことわりします」
「それでは聖人の富が増えるように祈りましょう」「いいえけっこうです」
「それでは聖人に男の子が多く恵まれるように祈りましょう」「それもおことわりします」
関守の役人は言った。「長寿を保つことと、富が増えることと、男の子が多く授かることは、人がみな望むことなのに、あなただけが望まれないのはいったいどういうわけなのですか?」
堯は言った。「男の子が多ければそれだけ心配の種も増え、富が増えればそれだけ面倒なことも多くなり、長寿を保てばそれだけ恥を残すことも多くなります。この3つのものは徳を養うにはなんの役にも立たないものです。だからお断りしたのですよ」
長生きをすれば、「恥」が多くなるのは止むを得ないことです。だからといって、自分の命は自分ではどうすることも出来ません。開き直って、長生きをすれば「恥」が多くなるのは当然のことだととらえて、一層前向きに生きていくことよりほかにしようがないのです。まっこと、恥さらしもいいところですね。
兼好法師も徒然草7段で次のように言っています。
あだし野の露きゆる時なく、鳥辺山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。
住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕の陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
訳)
あだし野の露が消える時なく、鳥辺山の煙がいつまでも上がり続けるように、人生が永遠に続くものならば、どうしてもののあはれなど、あるだろう。人生は限りがあるからこそ、よいのだ。
命あるものを見れば、人間ほど長生きするものは無い。かげろうが朝生まれて夕方には死に、夏の蝉が春や秋を知らない例もあるのだ。しみじみ一年を暮らす程度でも、たいそうのんびりした時を過ごせるものであることよ。
満足できない。もっともっとと思ったら、千年を過ぎても一夜の夢の心地がするだろう。どうせ永遠には生きられない世の中に、長生きした末に醜い姿を得て、それが何になるだろう。
長生きすると恥も多くなる。長くても四十未満で死ぬのが見苦しくないところだ。
そのあたりの年を過ぎると、醜い容貌を恥じる気持ちも無くなり、人に交わることを欲して、老いさらばえて子孫を愛して、子孫が立身出世する末を見届けるまでは生きよう、などと期待し、ひたすら世をむさぼる心ばかり深く、もののあはれもわからなくなっていく。あさましいことだ。
甥のHaruki君からメールが入りました。曰く、
2016年10月10日18時23分着信 題:子規庵
昨日は久しぶりにお会いすることができまして本当によかったです。お二人ともだいぶお元気になられたようで、安心しました。これからも大変と思いますが、ご本復を祈っております。
博多に帰る前に、根岸の子規庵に行き、俳句のお勉強をしてきました。上野、浅草にとても近い所にあり、俳句にもこれらの地名がよく出てくるのを納得です。書斎から彼が見たとおりに、糸瓜が棚からぶらさがり、鶏頭が咲いていました。俳句にでてくる景色をみて嬉しくなりました。
棚の糸瓜思う所へぶら下がり
鶏頭の十四五本もありぬべし (子規)
ここから子規が、近代日本に俳句文化を発信し続けたと思うと、感慨深いものがあります。俳句の聖地をよく保存してくれたと思いました。 HN
日曜日(10月9日)にHaruki君が来訪した際に四国に行った時の土産柚餅子(ゆべし)と福岡の銘菓柿大福を持参してくれたのを思い出し、柚餅子と大福の語源や由来について調べてみました。
柚餅子(ゆべし)は柚干(ゆびし)、柚圧(ゆべし)とも書きます。丸柚餅子が本来で、蒸し菓子の一種です。室町時代には柚醤(ゆびしお)、柚味噌(ゆみそ)などとともに酒席の佳肴(かこう)とされ、柚味噌釜(がま)とも称したそうです。1643年(寛永20)刊の『料理物語』によると、「柚味噌のごとく口をきり実をすて、味噌、生姜(しょうが)、胡椒(こしょう)などよくすりて、かや、ごま、あんにん、そのまま入まぜて、ふたを合わせからげ、よくむしてほし、あまにつり候てよし」とあります。この仕法が菓子に移行してからは、みそ、糯(もち)米粉、砂糖をこねたものを柚釜に詰め、蒸して乾燥させる製法にかわったといいます。保存のきく珍菓です。岡山県高梁(たかはし)市、石川県輪島市、長野県飯田(いいだ)市、奈良県吉野地方、和歌山県龍神温泉などに、ユズを原形のまま蒸して乾燥させる丸柚餅子が伝えられています。和菓子のなかではもっとも高価な菓子です。このほか柚餅子の名品には新潟市西蒲(にしかん)区福井に棹物(さおもの)柚餅子があります。糯米粉に柚汁(ゆじる)、砂糖、みそをあわせて蒸し上げた棹物で、1829年(文政12)に本間楢右衛門(ほんまならえもん)により完成したそうです。また東北地方には「くるみゆべし」などの平柚餅子が多いといいます。
江戸時代初期に生まれた鶉餅(うずらもち)が1771年(明和8年)に江戸・小石川の未亡人により小形化され、餡に砂糖を加えられたものが始まりとされるそうです。腹持ちがよいことから腹太餅(はらぶともち)、大腹餅(だいふくもち)と呼ばれていたものが、吉字を使った大福餅に変化したのだといいます。寛政の改革時には、行商が焼きながら売り歩く熱い大福が流行したそうです。
餅に豆やヨモギを加えたものや、餡の代わりにイチゴやカスタードクリームを入れたものなどさまざまなバリエーションが存在します。そのまま食べることが多いのですが、好みによって焼いたり、汁粉に入れたりすることもあります。大福を自宅で作る際は、餅に砂糖を混ぜておくと硬くなりにくいといいます。工場で生産され、流通経路を介して販売される製品も同様の傾向があります。
9日10日の連休を利用して、福岡の甥Haruki君が長女のEriちゃんを連れて婆様の見舞いに来てくれました。
福岡からわざわざ上京、浅草の今半の「すき焼き弁当」を土産の来訪でした。お持たせの「すき焼き弁当」で昼食にしながら話が弾みました。
今日は九十九髪の歌が出ている伊勢物語六十三をみてみましょう。
むかし、世心つける女、いかで心なさけあらむ男にあひ得てしがなと思へど、いひいでむもたよりなさに、まことならぬ夢がたりをす。子三人を呼びて語りけり。ふたりの子は、なさけなくいらへてやみぬ。三郎なりける子なむ、「よき御男ぞいで来む」とあはするに、この女、けしきいとよし。
こと人はいとなさけなし。いかでこの在五中将にあはせてしがなと思ふ心あり。狩し歩(あり)きけるにいきあひて、道にて馬の口をとりて、「かうかうなむ思ふ」といひければ、あはれがりて、来て寝にけり。
さてのち、男見えざりければ、女、男の家にいきてかいまみけるを、男ほのかに見て、
百年(ももとせ)に一年(ひととせ)たらぬつくも髪われを恋ふらしおもかげに見ゆ
とて、いで立つけしきを見て、うばら、からたちにかかりて、家にきてうちふせり。男、かの女のせしやうに、忍びて立てりて見れば、女嘆きて寝とて、
さむしろに衣かたしき今宵もや恋しき人にあはでのみ寝む
とよみけるを、男、あはれと思ひて、その夜は寝にけり、世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、この人は思ふをも、思はぬをも、けぢめ見せぬ心なむありける。
訳)昔、いい男と男女の関係になりたいと思っていた女が、どうにかして情の深い男と一緒になりたいものだと思っていたが、言い出すついでも無かったので、嘘の夢語りをする。子供三人を呼んで語った。二人の子はそっけなく答えて終わった。三男であった子が、「よい殿方があらわれるでしょう」と話をあわせたので、この女はたいそう機嫌がよくなった。
三男は思った。他の人はとても情が深いなどと言えない。どうにかして、例の在五中将と母を逢せてやりたいと心に思っていた。在五中将が狩をしてまわっている所に三男は行き合って、道で馬の口をひきとどめて「こういうふうに、貴方をお慕いしています」と言ったところ、在五中将は深い情を感じて、女の家に来て寝たのだった。
さてその後、男の訪れも絶えてしまったので、女は男の家に行って物の隙間から覗いてみると、男はちらっと女の姿を見て、
あと一歳で百歳という九十九歳のおばあさんが、私を恋い慕っているらしい。その姿が幻に見える。
と言って、女の家に出発する様子を見て、女は茨、からたちが引っ掛かるのも構わず、自分に家に帰ってうち伏せていた。男は女がしたように、こっそりと訪ねて行って物の隙間から覗いて見れば、女は嘆いて寝ようとして、
筵(むしろ)に衣の片方の袖だけをして、私は恋しい人に逢うこともなく、今夜も一人さびしく寝るのでしょうか。
と詠んだのを、男は哀れに思って、その夜は一緒に寝たのだった。男女の間の常として、自分を思う相手を思い、思わない相手を思わないものだが、この人は自分を思う相手も、思わない相手も、わけへだてなく扱う心を持っていたのだった。
「三和土」「長押」「上がり框」などは住まいに関する言葉です。仮に読めたとしてもそれが具体的にどの部分なのか、由来は? となると、頭をかしげてしまいます。
三和土:音を考えても字面を見てもなぜこれを「たたき」と読むのか判断できません。これは土間に塗る土の作り方を表しているのです。石灰・赤土・砂利の三つを和(あ)えた土に苦汁(にがり)を混ぜたものだから「三和土」と書くのです。それを「たたき」というのは、水で練って土間に塗りたたき固めるからです。玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置される板のことを「式台」と言いますが、元々は武家屋敷にて、来客者が地面に降りることなく、 かごに乗れるように設けられた板の間のことだったのです。
鴨居:引き戸・障子などを立てる、出入り口などの上の溝のある横木のことです。鴨居の由来にはいくつかありますが、これといって決まったものはありません。アイヌ語で神様を「カム」といいますが、神様が居るということで「カムイ」から名づけられたという説があります。「鴨」とは水鳥の総称で浮かぶ鳥を意味します。つまり床と天井の間に浮いたようにある水平材です。そして「居」ですが、これは人が潜る(くぐ・る)という意味です。同じような意味で使われているのが「鳥居」の居。神社の入口にありますよね。「鳥」とは一直線の道筋を意味します。神の社へ続く真っ直ぐな道の入口に建立したものが鳥居です。
長押:鴨居(かもい)の上や敷居の下などの側面に取り付けた,柱と柱の間をつなぐ横材のことをいいます。長押という言葉は、長い押材(へしざい)から来ているといいます。太い原木から何本もの材料を取るのではなく、適当な太さの樹木から一本だけ削りだした均整の取れた角材を押角といいます(この字は「へし角」とも「おし角」とも読まれる)。長押は和室の室内に太い水平線を引いて意匠を安定させる化粧、つまり飾りなので、場所によっては柱以上に目立ち、したがって水平性を強調するようなきれいな柾目(まさめ)を持つ押角を使われることが多いので、この名が生じたのだろうといいます。つまり、「おしあいへしあい」にも通じる「へし」の長い物「ながへし」がなまって「なげし」になったということですかね。武士の城館では討入られた場合の室内戦闘に使うために長押の上に小石を置き並べててそうで「投石(なげいし)」が「なげし」二なったという説もあるそうです。
上り框:床の間や縁側、土間から一段上がったゆかの一番手前にある化粧横木のことを「框(かまち)」といいます。建具のとびらの枠木も「かまち」と言うそうです。定義も曖昧なら語源も曖昧――端っこにかませるというあたりが由来になっているんでしょうか。上り框(あがりがまち/あがりかまち・上框)は、主に玄関の上がり口で履物を置く土間の部分と廊下や、玄関ホール等の床との段差部に水平に渡した横木をいいます。
しめ縄は、標縄、注連縄、七五三縄、など様々な表記があります。「標」は、皇室や貴人が占有し、一般の者の立ち入りを禁じた野が標野(しめの)と言われるように、「標」は「占める」の意味を以ているため、「標縄」と書くそうです。「標」は「占める」の意味を以ているため、「標縄」と書くそうです。「注連」は、中国では、人が死んで魂が外に出たとき、戻らないように水を注いで清め、縄を連ねることを注連(ちゅうれん)といい、その字を使って注連(しめ)と読むようになったようです。「七五三」は、今ではなかなかありませんが、昔は、しめ縄から、藁を七本、五本、三本と垂れさせていた為、七五三(しめ)という字を用いたそうです。
しめ縄は、本来「尻久米縄」(しりくめ縄)と云われ、古事記に記されたことが始まりなのです。すなわち、しりくめ縄が略されてしめ縄となったのです。古事記の天の岩戸の項に「……即ち布刀玉命(ふとたまのみこと)、尻くめ縄を以て其の御後方(みしりへ)に控(ひ)き度(わた)して、白(まお)して言ひしく、『此より以内(うち)に還り入ること得じ』といひき。」とあります。天の石屋に閉じ籠った天照大御神は、外の不思議な気配に身を乗り出し、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)に引きずり出され、後ろには布刀玉命によってしめ縄がかけられて戻れないようになりました。しめ縄は、標縄、注連縄と書かれ、シメは占有のしるしをいいます。神前に、不浄なものの侵入を禁ずるために張ったり、立ち入り禁止のしるしとして張り巡らせたりしました。今でも神社や神棚、地鎮祭に見られます。
七五三縄(しめなわ)のように数字のついた熟語にも本来の音からはとても想像もつかない読み方をするものがあります。たとえば、四阿(あずまや)は、日本庭園の小さな丘の上や池のほとりなどに設えた休憩用の壁のない小屋のことです。「阿」には庇(ひさし)という意味があり、四方に屋根を葺き下ろした建物なのでこのように書きますが、「東屋」「阿舎」と書くこともあります。「五月蠅い」という当て字を作ったのは夏目漱石で著書【坊ちゃん】の中で「五月蠅い」と表記したことからこの宛字が世に広まりました。五月になると蠅が出始めてうるさいというイメージから当てはめたのでしょうね。「九十九折(つづらおり」)は葛の蔓のように幾重にも折れ曲がった坂道のことで、葛折とも書きます。だからといって九十九髪は「つづらがみ」とは読みません。老女の白髪のことで、九十九は百に一足りないことから次百(つぎもも)といい、それがつづまって「つぐも」となりさらに濁点が清音化して「つくも」となり全体で「つくもがみ」となったといいます。また、百から一を取り去った白を意味するので、白髪を表すようになったといいます。伊勢物語に「百年(ももとせ)に 一年(ひととせ)足らぬ九十九髪 われを恋ふらし おもかげに見ゆ」という歌が載っています。
昨夕は、Sekiちゃんの父上の通夜でした。MN氏の一家が車で行くので同乗させてもらいました。沢山の塾友の方々が見えていました。日頃のSekiちゃんの付き合いによるものでしょう。心より父上のご冥福をお祈りいたします。
横浜のIN氏から、メールが入りました。曰く、
2016年10月7日12時19分着信 題: ディエゴガルシア島(三度目の正直)
日高節夫様
今日はいい天気になりました。
昨日は長い間、書く、書くと予告ばかりをしていた『ディエゴガルシア島』に手を染めたのに、家内から、携帯で駅まで迎えに来いという連絡があったために、書きかけのメール原稿を正しくない方法で一時保存をしてしまって、結局、それを復活できなくて、癇癪を起して「糞っ」と消してしまいました。
一晩寝て、理由を思い出してみるのですが、原因がよくわからないので、もう一回改めて初めから書くことにします。
………………………………………
『ディエゴガルシア島(消したり、書いたりの島物語)』(さしあたり副題を『鄭和はディエゴガルシアを知っていたか』とします。)
初めは『ウイキペディア』の丸写しですから私の知識ではありません。
ディエゴガルシア島
面積 36㎢
最高峰 25m
所在海域 インド洋
所属諸島 チャゴス諸島
所属国・地域 イギリス領インド洋地域
宗主国のイギリス政府によって、島全体がアメリカ合衆国に貸与されており、同国の海軍基地がある。インド洋にあるアメリカ軍最大の拠点であり、湾岸戦争やアフガニスタン攻撃、イラク戦争の際に、B52戦略爆撃機、B2ステルス爆撃機などが、ここから出撃した。アメリカの軍事戦略上の要衝。
16世紀の初期にポルトガル人によって発見され、「ディエゴ・ガルシア島」と名付けられた。当時は無人島で、その後18世紀にフランス人が入植して黒人奴隷を使ってのココヤシ栽培とコブラ生産のプランテーション経営を始めた。
1814年にイギリスが占領し、モーリシャスの一部として統治していたが、1965年にモーリシャスから分離され新たに画定された、イギリス領インド洋地域の一部となった。
1966年、イギリスはアメリカ合衆国との間にこの島を50年間貸与する協定を結び、イギリス政府は巧妙な方法で、同島とその他の2島の住民の島からの追い出しを図り、1973年ごろには、最終的に島に残った住民たちをモーリシャスへ強制移住させた。移住を余儀なくされた住民が、イギリス政府を相手に同島への帰還と補償などを求めて訴訟を起こし、係争中(2004年現在)
2016年12月30日、アメリカ合衆国による租借の期限を迎える。
香港返還の時のイギリスと中国の関係ほどには緊張状態にはなるまいが、すんなりとアメリカがイギリスに返還するとも思えない。さりとて、イギリスは自前でこの島を守り通せるだろうか。現に、中国は、この島を目の敵にして、軍関係のメディアでは、数年前から「原潜で、この島の近くまで潜って行って、ミサイルでこの島にいる、アメリカの原潜をやっつけることができる」と大見得を切っている。
『白髪三千丈』のオーバーな言い方をする中国人の軍関係メディアの書き方だから、喧嘩前に腕を振り上げてわめくのと同じだろうが、本音は出ていると思わないかい?
その軍関係紙とは2015・11・05の『新浪網』(なんとなく防潜網をつくる業界みたいな感じだね)
『わが原潜はインド洋の米軍基地を叩き潰す、米オハイオ級も餌食だ』 中国流脅しの表現を読んでみよう。
2014年9月に、海賊対策のためにソマリア沖に派遣された駆逐艦とともに航行する093型原潜と見れれる写真を掲載してあって、インド海軍による公表の事実として中国の原潜は2013年7月までの数年間、インド洋に22回出没した。中国の原潜がインド洋に入っても、インドは今更パニックになる必要もない。インド洋に面するパキスタンとスリランカは、中国の友好国であり、通常動力の潜水艦はスリランカに寄港したこともあり、通常動力の潜水艦だけですでに一定の脅威になっているから。
ディエゴガルシア島には、インド洋では唯一の米軍基地があるが、米軍の対中戦略ではグアム島だけでなく、ガルシア島を発進した戦略爆撃機がバングラディッシュ上空を通過して中国西南部を攻撃する選択もある。同方面は中国防空の弱点だ。中国は戦時において、米軍のディエゴガルシア島の能力を減じる計画が必要だ。
中国がディエゴガルシア島を攻撃する場合、「標準的な方法としては、まず中距離弾道弾と潜水艦からの巡航ミサイル、遠方を飛ぶ戦略爆撃機から発射した巡航ミサイル、さらに戦略爆撃機を接近させての爆撃と、三段構えで攻撃する。
ただし中国の爆撃機は内地の基地を飛び立ってから、この島の基地を攻撃するのは不適格で、中国国内からの弾道ミサイルは高コストで数量不足。理想的な戦術ではない。多くの原子力潜水艦を出動させるのが最も良い選択。米軍は2010年にオハイオ級原潜を、ディエゴガルシア島に配備した。この原潜の、1454発もの搭載発射できる巡航ミサイルは、インド洋で発射し。バングラディシュとミヤンマーの上空を通過させ、中国内陸部を攻撃できる。
米海軍のオハイオ級原潜の搭載する武器は一般に対潜水艦用ではない。中国の093型原潜はインド洋の深海で米原潜オハイオを餌食にすることができる。
………………………………………
主張は主張、勝手な図上作戦であるが、国防とはここまで考えるんだね。因みに、この島の位置は、インド大陸の最南端の岬、コモリン岬の南南西1805.8km(大圏コースを測るネット利用)。我が家のどんな地図にも、この島の正確な地点は出ていません。
昨日、消えた君へのメールはおおむねこんな内容だったのです。
いまから近くの国際プールに行って、銭湯代わりにシャワーで全身を洗ってひと泳ぎしたあと、マッサージで、痛みの出る右の足を中心に揉んでもらいます。君たちご夫妻のご健康が回復しますようにお祈りします。 IN
宛字の代表格のように言われているのが、「流石(さすが)」で、この字にはいろいろないわれがあります。
「さすが」とは、「さも有りなむ」などと使う指示副詞「然(さ)」に、サ変動詞「為(す)」、接続助詞「がに」が熟合した「さすがに」から「に」が脱落したものといいます。「さすが」はいまでは やはり・いかにも の意に使われることが多いようですが、元々は そうはいうものの・それでもやはり という意に使われていました。そのためらう気持ちを小石が淀みながら急流を流れてゆく様子にたとえて「流石」の字を当てたといいます。
また、他の説に中国の故事によるものだというのがあります。
世説新語の誹調篇に孫楚という人についての次のような記載があります。
孫子荊、年少時、欲隠。語王武子、当枕石漱流、誤曰、「漱石枕流。」
王曰、「流可枕、石可漱乎。」
孫曰、「所以枕流、欲洗其耳。所以漱石、欲礪其歯。」
孫子荊、年少(わか)き時、隠れんと欲す。王武子に語るに、当(まさ)に石に枕し流れに漱(くちすす)がんとすとすべきに、誤りて曰はく、「石に漱ぎ流れに枕す。」と。
王曰はく、「流れは枕すべく、石は漱ぐべきか。」と。
孫曰はく、「流れに枕する所以(ゆえん)は、其の耳を洗はんと欲すればなり。石に漱ぐ所以は、其の歯を礪(みが)かんと欲すればなり。」と。
訳)孫子荊(そんしけい、孫楚のこと子荊は字〈あざな〉)は若い頃隠遁の志があった。王武子(おうぶし、王済のこと武子は字)に「石に枕し、流れに漱ぐ」と言おうと思いながら、誤って「石に漱ぎ、流れに枕す」と言ってしまった。
王武子は言った。「流れを枕にしたり、石に漱いだりすることができるのだろうか」
孫子荊は言った。「流れを枕にするのは、耳を洗うためだ。石に漱ぐのは歯を磨くためだ」
*「耳を洗う」は、昔の賢人許由(きょゆう)が堯帝(ぎょうてい)から帝位を譲ろうと言われた時、その耳の穢れを清流で洗ったという故事によるもの
孫楚の言い逃れがあまりにもうまかったので人々は「さすが!」と言って感心したので、「流石」を さすが に当てたというのです。余談ですが、このことから負け惜しみの強いこと、ひどいこじつけを「漱石枕流(ソウセキチンリュウ)」というようになったのです。夏目漱石というペンネームもここからとったということです。この夏目漱石は宛字作成の天才だったようです。
横浜のIN氏からメールが入りました。曰く、
2016年10月6日13時45分着信 題:君宛の書きかけメールが行方不明
日高節夫様
「ディエゴ・ガルシア島」と題した、君宛のメール原稿が、保存したままどこかへ行っちゃった。メール原稿を打ち込み中、家内からの電話で、近くの地下鉄駅まで迎えに行くときに、一時保留にしたはずだけど、帰宅後、保存状態から開けなくなりました。
この書きかけメールは、キャンセルにします。気分を取り直して、後日、書き直します。もし偶然に、君のパソコンに入ったら消去してください。 IN
昨日のコメントで篠山市にある地名“安口(はだかす)”の説明有難う。
東の横綱が「匝瑳市」、西の横綱が「宍粟市」について調べてみました。
横浜のIN氏よりメールが入りました。曰く、
2016年10月5日11時26分 題:メリーランドのこと
日高節夫様
メリーか?メアリーか?
つまらないことで、お手数をかけてすみませんでした。
じつはメリーランド州のことを、メアリーランド州と現地に行くまで、思い込んでいたのは、「アメリカにおける秋山真之」(1969年、朝日新聞社)のせいでした。
この本は、島田謹二さんの著書で、「ロシアにおける広瀬武夫」(1961年刊)の姉妹版です。時は、日露戦争が始まる前のこと、山本権兵衛が、日本海軍の若い士官のなかから西欧の海軍視察に留学生を出すという物語です。作品の形は比較文学ですから、いわば現在残っている資料をフル活用して、あたかもその時代に呼吸しているような筆遣いで物語を進めていくものです。
留学生としてアメリカに派遣されたのが秋山真之、ロシアに派遣されたのが広瀬武夫、イギリスが財部彪、フランスが村上格一、ドイツが林三子雄、の5人。その中で広瀬武夫だけが卒業の時の成績がよくない。時の軍務局長・山本権兵衛が、広瀬の卒業席次64/80に派遣決定を躊躇するという描写があります。
もちろん秋山は文句なしのパスでしたが、その本のなかで、ワシントンからの展望を説明するところで、『メアリ-ランド州』となっていたのです。
「ロシアにおける広瀬武夫」いらい、島田謹二先生は、私の頭の中では誤りのない人になっていたものですから、「ベセスダは、メアリーランド州じゃあない、メリーランド州だよ」と注意される1989年まで、頭の中にこびりついていたわけ。
間もなく84歳の誕生日を迎える今でも、時々間違えるのは、若いときの勉学方法がいい加減だったせいだよね。
なんだか言い訳がましいが、思い込みが間違いを引きずっているというお話しです。
ノーベル賞発表の週間が始まって、東京工大は大騒ぎだろう。大学院のキャンパスは田園都市線の駅からは不便なところにあるが、国道246号では下りの線だけは左折で東工大大学院に入れる。
このキャンパスの丘ひとつ越えた隣に新しくできた 最新・最大の横浜市営の火葬場(斎場)があるが、母の葬儀の時はここがクリスマス休日で使えず、保土ヶ谷まで運んで行ったよ。
ノーベル賞を受賞なさった大先生がいらっしゃるのに、火葬場の話など持ち出してお許しあれ。この年齢になると、おれのときはどこで焼くかということを考えるようになったよ。
なにはともあれ、ご夫妻、どうぞお健やかにお過ごしあれ。少々の痛い部位は誰でもこの年齢になればあるものだよ。 IN
人間誰しも、歳取って老いてくれば死後を考えます。
廓兮已滅 慨焉已遐 廓(かく)として已に滅し 慨として已に遐(はる)かなり
不封不樹 日月遂過 封せず樹せず 日月遂に過ぐ
匪貴前譽 孰重後歌 前譽を貴ぶにあらず 孰か後歌を重んぜん
人生實難 死如之何 人生實に難し 死 之を如何せん
鳴呼哀哉 ああ哀しい哉
訳)空しくも身は既に滅び、遥かな昔を偲ぶと感慨深い、墓には盛り土もせず、目印の木も植えぬまま、時が過ぎてゆく、生前の名誉を求めぬ私だ、死後のことなどどうでもよい、人生とはむつかしいものだ、死んだからといってどうなるものでもない ああ、悲しいことだ (陶潜の自祭文より)
明日は塾友Sekiちゃんの父上の通夜です。享年83歳、この爺より一つ下、心筋梗塞で亡くなられた。
先だってはTY師の母上、HS女史の父上と最近塾友の父母の訃報が続く、いずれも爺と同世代で、思い出の深い人々です。
漢字の中でも読みにくいのが宛字(当て字)です。とくに漢字の音にも訓にもない読みを当てているものはまともに考えたのではなかなか思いつきません。しかし、宛字にもそれなりの法則のようなものがあって、漢語に同じ意味のやまと言葉を読みとして与えたものがあります。たとえば、
七夕(シチセキ、たなばた)、老舗(ロウホ、しにせ)、火傷(カショウ、やけど)、紅葉(コウヨウ、もみじ)、白髪(ハクハツ、しらが)、一昨日(イッサクジツ、おととい)、丈夫(ジョウブ、ますらお)、生業(セイギョウ、なりわい)、黒子(コクシ、ほくろ)、梅雨(バイウ、つゆ)、黄昏(コウコン、たそがれ)、黄泉(コウセン、よみ)、陽炎(ヨウエン、かげろう)、曽孫(ソウソン、ひまご)、狼煙(ロウエン、のろし 中国では燃やすと風が吹いてもまっすぐに立ちのぼるという狼の糞を用いたことから)
などがあり、いずれも音読み(カタカナで示す)もできます。
「欠伸(ケンシン・あくび)」は日本語では「あくび」と読みますが、「欠」があくびで、「伸」はのびで、正しくは「あくび」と「のび」のことです。
生活に密着した気象をあらわす漢語はやまと言葉を当てたものが多いようです。東風(こち)、南風(はえ)はよくご存じだと思います。西風を「ならい」、北風を「あなじ」というのも聞いたことがあります。宛字の意味と同じ意味の漢語で表すのが普通ですが、指しているものが全然違うものがあります。「東雲」は漢語では「トウウン」と読み文字通り東の雲の音ですが、「しののめ」とやまと言葉の読みを当てますと、明け方の意味になります。時雨(ジウ、しぐれ)も漢語で読むと丁度良い時に降る雨の意ですが、「しぐれ」とやまと言葉で読むと晩秋から冬にかけて降る通り雨のことになります。
「時」のつく熟語で「時鳥(ジチョウ)は漢語では時節に応じて啼く鳥の意ですが、わが国では「ほととぎす」の読みに宛てています。ほととぎすにはほかに、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰]、時鳥、子規、田鵑など、漢字表記や異名が多くあります。
名詞だけでなく副詞や形容動詞にも昔の文人たちはぴたりと合った漢語を当てて読んでいました。
ただひたすらに座禅することを「只管打座(シカンダザ)」といいますが、やまと言葉ではこの只管を「ひたすら」と読みます。一向と書いても「ひたすら」と読ませます。
物事をいい加減にすることを意味する言葉に等閑(トウカン)といいます。「等閑視する」「等閑に付す」のように使われますが、やまと言葉では 等閑=なおざり と読ませます。
漢語の劫設(キャクセツ)=かえって説く、閑話(カンワ)=暇にまかせてする無駄話、休題(キュウダイ)=話すことをやめること はいずれも接続詞「さて」と読みました。あとの2語はまとめて、閑話休題と四字熟語になりますが、「それはさておき」と読みます。
「加之」は漢文調で読むと「之(これ)に加わうるに」で、そればかりでなくの意ですが、これは「しかのみならず」と読ませています。「遮莫」は「遮るもの莫(な)し」で、どうであろうとままよの意ですが、「さもあらばあれ」と読ませます。
中国から伝わった漢語ではなく、やまと言葉にそれらしい当てて作った熟語もあります。「徒花(あだばな)」は咲いても実を結ばない花のことで、「あだ」というやまと言葉に いたずらに・むだに という意味のある「徒」を当てたものです。ほかに徒事、徒名、徒桜、徒情け、徒波などがあります。音読みにも訓読みにもそんな読みはないが、見ているとそれらしい感じのするものに、飛白(かすり)・煙管(きせる)・白湯(さゆ)・山葵(わさび)・土筆(つくし)・秋刀魚(さんま)・祝詞(のりと)などがあります。
今は現代かなづかいで、動植物はカタカナ表記することになっていますが、一昔前にはこれらは漢字で表記しました。そのものの持っている性質から字が当てられたものがあります。たとえば、「無花果(いちじく)」は花は咲くのですが、外から見ると花は見当たらないまま実を結ぶことから字が当てられました。「万年青(おもと)」はユリ科の多年生植物でいつも葉が青々としています。赤い花が長く咲き続ける「百日紅」はヒャクジツコウとも読みますが、「さるすべり」とも読みます。幹の皮がなめらかなので猿でさえ滑るという意味からついた名前で、サルナメリともいいます。「馬酔木(あしび・あせび)」は花は可愛らしいのですが、葉や茎に毒をふくみ馬や牛が食べると麻痺することから当てた字です。「向日葵(ひまわり)」は太陽を追って花が回ると考えられいたことから当てられたものですが、実際はほとんど動きません。それにアオイ科ではなくキク科の植物なのです。いわば間違った情報が当てられた字なのです。
横浜のIN氏からメールが入りました。曰く、
2016年10月2日12時08分着信 題:ごぶさた、インド洋の離れ島はまだです
日高節夫様
ご無沙汰しました。家内の体調は、風邪ひき、咳込みだけは90%治癒。
あれやこれや、書きますと約束? しておきながら、だらだらと暮らしているものだから、ちっとも約束を果たせずにいます。お許しあれ。
関心のあることは次から次へと出てきて、もうしっちゃかめっちゃか状態。
三菱リージョナルジェット機(MRJ)は1号機がようやく、カムチャッカ半島ペトロパヴロフスク・カムチャツキー市にあるエリゾボ空港、アラスカのアンカレッジ国際空港経由、最終目的地の太平洋岸の州、ワシントン州シアトル郊外のモーゼスレークのグラント郡国際空港に到着した。
9月26日、名古屋県営空港を発って、新千歳空港経由、現地時間9月28日午後6時に歓迎の放水アーチを潜りながらモーゼスレーク空港に到着した。名古屋県営空港を出発して、空調設備が不調で二度も後戻りした前歴があるので、果たしてうまく、ベーリング海を通過できるのかと心配していたが、三度目の正直で、今回の1号機は、千島列島、カムチャッカ半島、アリューシャン列島を無事飛行して目的地に到着したようです。
昔々、まだサラリーマンでいた頃、YS11のエンジンをイギリスのロールスロイスだったか、プラットアンドホイットニーだったかに支払い送金をしたことがあった。東京オリンピックの翌年だったと思う。飛行機の製造は機体とエンジンとは別々の会社が造るということを知った初めてのケースでした。YS11はターボプロップ機で、ジェット機ではありませんでしたが戦後初の国産機で、期待の星でした。戦後、日本は飛行機を造ることができず、このターボプロップ機が精々の時代でした。国策会社を作り、各銀行は協調融資という形をとって危険分担をしました。それからすると、今回のMRJが、どこのエンジンを使うのかまだ調べておりませんが飛行機づくりは、いろいろと手間がかかるものですね。
最終目的地のワシントン州グラント・カウンティー国際空港は、グラント郡が運営管理する空港のようで、アメリカは依然として、郡(county)が、日本の県に相当するようです。元来、日本の県郡制度は、中国の郡県制度を模したものでしょうが、日本は県が大きくて、次が郡、次が町、村。市は郡よりも大きく、県に次ぐ存在だと理解していますが、中国ではたしか郡が県より大きかったのではなかったでしょうか。君にいろいろお世話になった、読売新聞の連載小説・宮城谷昌光氏の「草原の風」でも、郡県の順でしたよね。
日本の県郡町村の感覚で物を考えていたものですから、1989年初めて、アメリカに行ったときに、郡(カウンティー)が市よりも広い地区を管轄していたのにびっくりしました。アメリカは州の次は郡で、県はありません。今回の最終目的空港が、郡営空港という存在なのは、ちょうど県営名古屋空港と同じような感覚なんでしょうね。
なかなか、中国メディアが、「わが原潜はインド洋の米軍基地を叩き潰す。米オハイオ級も餌食だ」と勇ましいことを言ってる、ディエゴ・ガルシア島のことが書けません。
ほかに興味のあることは、「メリーか、メアリーか、クイーン・メリー号はなぜメアリーでないのか」「なぜ、メリーさんの羊は、メアリーさんの羊ではないのか」が疑問。
もう一つ、今日の読売新聞に、英語会話のCD,カセットテープを売る通販の全面広告が出ている。門司区泉が丘7-8-105という住所。 有限会社遊牧民 鎌田俊二 笑子
この読売新聞の全面広告がいくらかかるか知りませんが、まあ、門司の人が起業しているのでしょう。関心は、門司にも泉が丘などというハイカラな町ができていて、それがどこだろうと、久しぶりに「九州ロードマップ」を開いて見ましたら、原町の鎮西別院の南西約200メートルのところにあるマンションらしい。こう言う形の英会話学校は本当に、雨後の筍みたいに出てくるもんだね。
ではまた。奥様をお大事になさってください。 IN
ウェブニュースより
初の国産ジェット「MRJ」、米国に到着 挑戦3回目で成功 ――【9月29日 AFP】三菱重工業(Mitsubishi Heavy Industries)は、国産初の小型ジェット旅客機「三菱リージョナルジェット(MRJ)」が米西部時間28日、試験飛行のため米国に到着したと発表した。米国への移送は2回失敗していたが、3回目で成功にこぎ着けた。
MRJは26日に名古屋を離陸。給油のため北海道、ロシア、米アラスカ(Alaska)州アンカレッジ(Anchorage)を経由して、米ワシントン(Washington)州のグラント(Grant)郡国際空港に到着した。
三菱では2018年の商用飛行開始を目指しており、国土交通省の「型式証明」取得に向け、米国内で試験飛行を繰り返す予定。三菱によれば約2500時間の試験飛行が必要となる見通しで、さらに3機を米国に移送して計画を加速する方針だ。
MRJは8月、米国に向けて出発したが、離陸後に空調システムの不具合が見つかり、2回にわたって引き返しを余儀なくされていた。 (AFP 2016年09月29日 16:25 発信地:東京)
Mary(固有名詞、女の子の名/merry(形容詞、陽気な/marry(動詞、結婚する)の発音を研究社の新英和中辞典でしらべてみると、順に mé(ə)ri/méri/mˈæri となっています。しかし、アメリカのほとんどの地域ではどこも méri と発音するようです。ただ、東部のニュージャージーとかは、Mary/merry/marryの3つの発音は違うそうです。この西に接するペンシルバニア州では Mary/merry は同じで、marry は違うようです。
とにかく、「Mary Had A Little Lamb(メリーさんの羊)」を聴いて見て下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=ODFBEvZumRU
この爺には Mary は「メリー」としか聞こえませんが。まあ、実在した女の子はメアリー・ソーヤだから、「メアリーさんの羊」とした方が良いのでしょうが、はてさて、この歌をレコードに入れたエジソンはどのように発音したのでしょうね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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