英語での月名、Octoberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第8の」という意味の "octo(オクト))" の語に由来しています。一般的な暦では10番目の月ですが、紀元前46年まで使われていたローマ暦では、一般的な暦の3月が年始であり、3月から数えて8番目という意味です。日本では、旧暦10月を神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼び、新暦10月の別名としても用います。
旧暦11月を霜月(しもつき)と呼び、現在では新暦11月の別名としても用いています。「霜月」は文字通り霜が降る月の意味です。他に、「食物月(おしものづき)」の略であるとする説や、「凋む月(しぼむつき)」「末つ月(すえつつき)」が訛ったものとする説もあります。また、「神楽月(かぐらづき)」、「子月(ねづき)」の別名もあります。英語での月名、Novemberは、「9番目の月」の意味で、ラテン語で「第9の」という意味の「novem(ノウェム)」の語に由来しています。実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、3月から数えて9番目という意味なのです。
旧暦12月を「師走」、「師馳」(しわす・しはす)又は「極月」(きわまりづき・ごくげつ・ごくづき)と呼んできました。今では「師走」及び「極月」は、新暦12月の別名としても用いられているそうです。英語での月名、December(ディセンバー)は、「10番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の「decem(デケム)」の語に由来しています。 実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、3月から数えて10番目という意味なのです。
旧暦7月を文月(ふづき、ふみづき)と呼び、現在では新暦7月の別名としても用いています。文月の由来は、7月7日の七夕に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからというのが定説となっているようです。しかし、七夕の行事は奈良時代に中国から伝わったもので、元々日本にはないものでした。そこで、稲の穂が含む月であることから「含み月」「穂含み月」の意であるとする説もあります。また、「秋初月(あきはづき)」、「七夜月(ななよづき)」の別名もあります。
英語での月名、Julyは、ユリウス暦を創った共和政ローマ末期の政治家、ユリウス・カエサル(Julius Caesar)からとられたものです。カエサルは紀元前45年にユリウス暦を採用するのと同時に、7月の名称を「5番目の月」を意味する "Quintilis(クィンティーリス)" から自分の家門名に変更しました。
日本では、旧暦8月を葉月(はづき)と呼び、現在では新暦8月の別名としても用いています。葉月の由来は諸説あります。木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名です。他には、稲の穂が張る「穂張り月(ほはりづき)」という説や、雁が初めて来る「初来月(はつきづき)」という説、南方からの台風が多く来る「南風月(はえづき)」という説などがあるます。また、「月見月(つきみづき)」の別名もあります。
英語名Augustは、ローマ皇帝Augustus(アウグストゥス)に由来します。アウグストゥスは紀元前1世紀、誤って運用されていたユリウス暦の運用を修正するとともに、8月の名称を「6番目の月」を意味する "Sextilis(セクスティリス)" から自分の名に変更しました。
よく見かけられる通説に、彼がそれまで30日であった8月の日数を31日に増やし、その分を2月の日数から減らしたため2月の日数が28日となったというものがありますが、これは11世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコが提唱したものであり、8月の名称変更以前からすでに2月は短く、8月は長かった事を示す文献が複数発見されているため、この通説は現在では否定されているということです。
旧暦9月を長月(ながつき)と呼び、現在では新暦9月の別名としても用います。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力です。他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説などがあります。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もあります。
英語での月名、Septemberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の「septem(セプテム)」の語に由来しているのに不一致が生じているのは、紀元前153年に、それまで3月を年の始めとしていた慣例を1月に変更したにもかかわらず、名称を変えなかった為であり、7月と8月にローマ皇帝の名が入ってずれたというのは俗説のようです。これは7月がガイウス・ユリウス・カエサルによって「Julius」に改める以前は「Quintilis(クィンティーリス)」といい、これがラテン語で「第5の」という意味の「quintus(クィントゥス)」の語に由来していて、既にずれが発生していたのです。
旧暦4月を卯月(うづき)と呼び、現在では新暦4月の別名としても用います。卯月の由来は、卯の花が咲く月「卯の花月(うのはなづき)」を略したものというのが定説となっています。しかし、卯月の由来は別にあって、卯月に咲く花だから卯の花と呼ぶのだとする説もあります。「卯の花月」以外の説には、十二支の4番目が卯であることから「卯月」とする説や、稲の苗を植える月であるから「種月(うづき)」「植月(うゑつき)」「田植苗月(たうなへづき)」「苗植月(なへうゑづき)」であるとする説などがあります。他に「夏初月(なつはづき)」の別名もあります。
英語での月名、Aprilはラテン語のAprilis(アプリーリス)。Venus(ウェヌス、相当するギリシャの女神アフロディーテのエトルリア名Apru〈アプル〉より)に捧げられた月を意味します。
旧暦5月皐月(さつき)と呼び、現在では新暦5月の別名としても用います。「さつき」は、この月は田植えをする月であることから「早苗月(さなへつき)」と言っていたのが短くなったものです。また、「サ」という言葉自体に田植えの意味があるので、「さつき」だけで「田植の月」になるとする説もあります。
日本書紀などでは「五月」と書いて「さつき」と読ませており、皐月と書くようになったのは後のことです。また「皐月」は花の名前となっています。「菖蒲月(あやめづき)」の別名もあります。旧暦の五月は新暦では6月から7月に当たり、梅雨の季節です。五月雨(さみだれ)とは梅雨の別名であるし、五月晴れ(さつきばれ)とは本来は梅雨の晴れ間のことです。英語名などのMayはローマ神話で豊穣を司る女神マイア (羅: Maia) の名に因むといわれています。ローマ神話には春を司る豊穣の女神マイア(Maia)がおり、マイアの祭日である5月1日は供物が捧げられました。これがメーデーの起源なのです。ギリシア神話のマイアとは本来は無関係ですが、のちに混同されるようになりました。またメルクリウスとも関連付けられるようになり、5月15日のメルクリウスの祭日にも祀られるようになったといいます。
陰暦6月を水無月(みなづき)といいます。水無月の「無」は「の」という意味の連体助詞「な」であり「水の月」であるとする説が有力です。神無月の「無」が「の」であり、「神の月」であるということと同じです。田植が終わって田んぼに水を張る必要のある月「水張月(みづはりづき)」「水月(みなづき)」であるとする説もあります。文字通り、梅雨が明けて水が涸れてなくなる月であると解釈されることもあるそうですが、これは俗説だといいます。他に、田植という大仕事を仕終えた月「皆仕尽(みなしつき)」であるとする説、などもあります。
英語名ではJuneというのはローマ神話のユピテル(ジュピター)の妻ユーノー(ジュノー)から取られたといいます。ユーノーが結婚生活の守護神であることから、6月に結婚式を挙げる花嫁を「ジューン・ブライド」(June bride、6月の花嫁)と呼び、この月に結婚をすると幸せになれるといわれています。
今月もはや12月。陰暦では12月を師走(しわす)といいます。
師走は当て字で、語源は以下の通り諸説あり、正確な語源は未詳です。師走の主な語源説として、師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月と解釈する「師馳す(しはす)」があります。この説は、平安末期の「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」に、「しはす」の注として説明されています。現代の「師走」と漢字の意味も近く、古い説であるため有力に思えますが、「師馳す」説は民間語源で、この説を元に「師走」の字が当てられたと考えられます。その他、「年が果てる」意味の「年果つ(としはつ)」が変化したとする説、「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説、「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説などがあります。
陰暦(旧暦)における月の異称について調べてみました。なお、陰暦(旧暦)では現代と季節にずれがあります。一月~三月が《春》、四月~六月が《夏》、七月~九月が《秋》、十月~十二月が《冬》になります。
1月の別称を睦月と言います。今日の日本では新暦(グレゴリオ暦)の1月もそう呼ぶことがあります。睦月の語源は諸説ありますが、最も有力なものは1月は年始であり、親族が集まって親睦を図る月であることから睦び月、それが転じたというものです。それ以外には、稲の実を水に浸す月、「実月」が変化したという説があります。
英語のJanuaryは、ローマ神話の出入り口とドアの神Janus(ヤヌス)に因むものです。年の入り口にあたることから、ヤヌスの月となりました。
旧暦2月を如月(きさらぎ、絹更月、衣更月と綴ることもある)と呼び、現在では新暦2月の別名としても用います。「如月(じょげつ)」は中国での二月の異称をそのまま使ったもので、日本の「きさらぎ」という名称とは関係がありません。「きさらぎ」という名前の由来には諸説あります。旧暦二月でもまだ寒さが残っているので、衣(きぬ)を更に着る月であるから「衣更着(きさらぎ)」、草木の芽が張り出す月であるから「草木張月(くさきはりづき)」、前年の旧暦八月に雁が来て、更に燕が来る頃であるから「来更来(きさらぎ)」、陽気が更に来る月であるから「気更来(きさらぎ)」などがあります。
2月はグレゴリオ暦で年の第2の月に当たり、通常は28日、閏年では29日となります。他の月の日数が30または31日なのに対して、2月だけ28または29日なのは、アウグストゥスが紀元前8年、8月の日数を30日から31日に変更し、そこで不足した日数を2月から差し引いたためであるといいます。それ以前のローマ暦では、年初は3月であったため、単に年末の2月から日数を差し引いただけのことです。欧米での呼び名であるFebruaryはローマ神話のフェブルウス (Februus) をまつる祭りから取ったと言われています。
旧暦3月を弥生(やよい)と呼び、現在でも新暦3月の別名としても用います。弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力で、これに対する異論は特にありません。
古代ローマの暦(ユリウス暦より前)においては、年の最初の月は現在の3月にあたります。3月(さんがつ)は、グレゴリオ暦で年の第3の月に当たり、31日間あります。英語での呼び名であるMarchはローマ神話のマルス (Mars) の月を意味するマルティウス(Martius)から取ったものです。
ビロウド(ポルトガル語: veludo、スペイン語: velludo)は鵞鳥の羽に似て光沢があるので天鵞絨(てんがじゅう)の漢字が当てられました。 柔らかで上品な手触りと深い光沢感が特長で、フォーマル・ドレスやカーテンに用いられます。レーヨンやシルクが一般的で、縫いずれし易く、きれいに縫製するには高度な技術が必要です。英語のベルベット(velvet)です。江戸時代には既に京都で生産されていたらしく、西鶴は雪を頂いた富士山を「白いビロード」にたとえているそうです。当時は高級品で一般庶民は身に着けることも出来ませんでした。
メリヤスの日本への伝来は、南蛮貿易時代の永禄10年(1567年)から寛永12年 (1635年)の間というのが定説となっています。語源は、当時のポルトガル語のメイアス(meias)、あるいはスペ イン語のメディアス(medias)のいずれかであろうとされます。両語とも意味は「靴下」です。この当て字には「女利安」「女利夜須」「女利弥寿」「莫大小」などが使われていたようで、享保4(1719)年に出た「長崎夜話草」(西川如見)には、メリヤスに ついて、『「女利安」紅毛詞(こうもうことば)なるゆえに文字なく、足袋、手覆(ておお い)、綿糸または真糸にて漉きたるものなり。根本紅毛人、長崎女人におしえたり、 色ものみぞ次第なり……。』といっています。
古代、魚をとる網やカゴやむしろなどに原型があり、英語でメリヤスをHOSIERY(ホーズ)といいます。ホーズは「靴下」の意味であり、編物の歴史は靴下から始まったということが分かります。1589年イギリスのウイリアム・リーが靴下機を発明したのが今日の編物(ニット)の発端となりました。メリヤス編機が日本に入ってきて、靴下が作られるようになったのは明治になってからです。そして、メリヤスがニットといわれ、織物と肩を並べるまでに発展し、衣料分野で大きな割合を占めるようになったのは戦後になってからのことです。
文政9年頃に編纂されたと思われる「緩草小言」という随筆の中に、『……「莫大小」をメリヤスと言う。石川公勤(詳細不詳)曰く、メリヤスというものはのびちぢみありて、 人の大小あれどいずれへもよく合うものなり。さらば大小と莫く合うという義にてあるべきや、また、俗曲にメリヤスというあるは戯場のあい手に用いるものにて、何の戯にもよく合うものから、これも名くること同じ意なるべし……。』との記述があります。
当時、メリヤスという言葉は靴下の意味で使われていたことが、以下のよう な古書の記述からもわかます。
「落陽集」延宝3年(1675年)より 唐人の古里寒しメリヤス足袋 - 眠松
「猿蓑」元禄4年(1691年)より かきなぐる墨絵おかしく秋暮れて - 史邦
はきこころよきメリヤスの足袋 - 凡兆
「獨吟集大矢数」井原西鶴 メリヤスはいて蛤蜊踏まれけれ
シッチン(ポルトガル語、setin)は中国の七糸緞(シチンタン)の略で、日本では繻珍とポルトガル語から直接ではなく中国語を介して入ったものでしょう。現代satijn(オランダ語、サテン)と言われているものと同じです。
襦袢の漢字は当て字で、ポルトガル語の「ジバン」か、その古形「ジュバン」の転訛だといいます。Gibão(ジバン、ジュバン)は「袖の広い上着」を意味するアラビア語の「jubbeh(ジュッバ)」が語源となるそうです。日本の下着は白無垢の対丈仕立てでしたが、南蛮人によって襦袢がもたらされた16世紀頃からは、丈の短い襦袢が流行し、腰あたりまでの「半襦袢」、身丈ほどの「長襦袢」などが作られました。
カッパは紙やラシャで作ったようですが、ポルトガル語「capa」からの外来語で、漢字の「合羽」「雨合羽」は、江戸時代から使われ始めた当て字です。人が着ると、両翼を合わせた鳥に似るところから「カッパ(合羽)」とうまく漢字を当てています。16世紀頃、日本に来航したポルトガル人によってラシャ製の「capa」が伝えられ、外衣として珍重されていました。
カッパは厚手で防水性もあるため、雨具としても使われるるようになったのです。明治以降には、防寒具として用いるものが「マント」と呼ばれるようになったため、雨具として用いるものを「カッパ」と呼ぶようになったといいます。
新井白石の『西洋紀聞下(1709年)』に「其法衣、ポルトガル語には、カッパと言う。昔我俗〈=日本の庶民〉其製に倣ひ、雨衣を作れり」と述べています。
軽衫(カルサン)はズボンの一種で、ポルトガル語のカルソンcalção(半ズボンの意)に由来します。16~17世紀,スペインを中心に西欧で,詰物を入れて大きくふくらませた短いズボン(英語でトランクホーズ)が流行し,南蛮貿易に伴って日本にも渡来しました。
ふくらんだ半ズボンに長靴下をはいたポルトガル人の姿をまね,短い袴(はかま)に脚絆(きやはん)を付けて作ったものをかるさん(軽衫はあて字)と呼び,くるぶし丈のシャルワール型のズボンとともに,キリスト教信者や武士の間で愛好されました。
南蛮人によって、現代女性でも喜びそうな美しい様々な繊維・織物がもたらされました。(カナキン・ラシャ・ビロウド……)等々、暖かい布団にくるまって寝ることの出来たのも江戸時代中期からであるといいますから、いかに日本人の生活において衣料が乏しかったが分かります。食べ物に続いて、衣服でも南蛮文化は日本人の生活を豊かにしたのです。
「金巾(カナキン・カネキン)」とは、金巾木綿ともいわれ、細めの単糸を使って平織りにて緻密に織った薄手の綿織物です。あまり衣料には使われず、カーテン・旗・エプロンといったものなどに主に使われます。
華やかな絹織物より一般的なのは木綿ですが、「木綿」のコットンはアラビア語qutunが仏語を経てcotounからcottonとなったと言います。日本語のカタン糸はその訛りなのだそうです。絹織物と同様に木綿の場合の平織物の代表は「金巾」といいますが、これもポルトガル語のカネキンcanequimに由来するといいます。この中でも目の粗い包帯や肌着用の「ガーゼ」は、原産地がパレスチナ南西部のガザGazaであることに由来するのだそうです。
金巾の高級なもので、30~40番手の経糸、緯糸合計密度が140本/インチ程度の比較的高密度で、織目をつぶして光沢をつけたものが「キャラコcalico」と呼ばれ、足袋の他にワイシャツやハンカチ、裏地などに用いられます。
これは綿布が古くからインドの主要輸出品でルネサンス時代にヨーロッパに齎されますが、17世紀以後インドに進出した英国東インド会社がカリカット港(Calicut)を積出港としたので、この名が訛って「キャラコ」と呼ばれたのが由来だそうです。ただ日本でキャラコと呼ぶ場合は、インドとは逆に薄手で織り目が細かい純白の布地を指します。
canequim(カネキン)は詳しいことはよく判りませんが、どうやらインド西海岸の地名によるもののようです。同じように地名からから出たものにmogol(モール)があります。中国語の表記ムガール「莫臥児」をそのまま用いているのだそうです。
正徳2(1712)年頃に成った寺島良安の『和漢三才図会』に「按莫臥爾天竺国名、所出之綺、似緞閃而有小異、本朝所織者亦不劣」とあり、インドのモゴル(ムガール)帝国(1526~1857)の所産で、緞子(ドンス)に似ているが少し異なるとしています。わが国には戦国時代から桃山時代にかけて、南蛮貿易によって舶載されたといいます。緞子も地名Damask(ダマスク、現在のダマスカス)の音訳で日本には中国から十五世紀早々に入ってきたと言います。
羅紗は厚地の紡毛織物の総称。16世紀中ごろ南蛮貿易によりもたらされた毛織物で、ポルトガル語のraxa(ラーシャ)の転訛といいます。組織は平織,綾織、繻子(しゅす)織などあり、縮充(しゅくじゅう)、起毛、毛刈りをして仕上げるので表面はフェルト化しています。
江戸時代末期から明治初年にかけて、外人の妾のことを「ラシャメン」と言いましたが、このラシャは羅紗のことです。現代ではVonnel(ボンネル)やExlan(エクスラン)などの化学繊維に圧倒されています。
サラサ(saraça、ポルトガル語)は古代ジャワ語で「まんべんなく撒布した」の意で、ポルトガル語から入ったと言われています。
和訓栞には「さらさ 常に紗羅紗と書けり、蛮国の名、正にサラアサと云ふ、暹羅染(シャムロ)ともいへり」とあります。
近松門左衛門も「博多小女郎浪枕(1718年初演)」の中で『愚痴なサラサら云ふではないに、ラシャもない事』と織物名の外来語にひっかけて洒落を飛ばしています。
https://www.youtube.com/watch?v=--7PwlMuhlw
俳人蕪村も「片町に更紗染むるや春の風」と油絵のような俳句を詠んでいます。
江戸期の日本で“喫煙”といえば、刻んだ葉たばこを「キセル」に詰めて吸う形態を指します。諸外国でも見られたこの喫煙方法は、葉たばこを細く刻んだ「細刻みたばこ」が登場したことで、日本独自の進化を遂げました。喫煙の風習が日本に伝来した当初、「たばこ」を吸う人々は、手に入れた葉たばこを自分で刻むか、“一服一銭”などと呼ばれた露店で購入していました。
それが、徳川4代将軍・家綱の時代である明暦年間(1655〜1658年)以降には、町中に「たばこ」のみを扱う専門の店舗=「たばこ屋」が見受けられるようになり、そこここに「細刻みたばこ」の製造・販売を専業とする店が増加します。通常、家族単位で営まれたそれらの「たばこ屋」では、おかみさん(=かか)が葉たばこの下準備をし、主人(=とと)が葉たばこを刻む“かかぁ巻き ととぅ切り”と呼ばれる形態がとられていました。日本ならではの精巧な技術力から生みだされた「細刻みたばこ」が、世に現れたのは、江戸時代中期(18世紀中頃)のことです。「たばこ」には当初、粗く刻まれた葉たばこが用いられていましたが、それがだんだんと細く刻まれるようになり、やがては毛髪のごとく細く刻まれたことで、名称とともに広く普及していきました。これにより日本では、世界でも例をみない独自の喫煙方法が確立されることとなったのです。
「細刻みたばこ」による喫煙が定着すると、日本人は喫煙具のなかに美を求めるようになります。使用する人の階層やTPO(Time〈時間〉、Place〈場所〉、Occasion〈場合、Opportunityと使われることもある〉の頭文字をとって、「時と場所、場合に応じた方法・態度・服装等の使い分け」を意味する和製英語)に応じてさまざまに作られた江戸期を代表する喫煙具の数々が作られました。
明治時代に入ると、外国からさまざまなたばこが輸入されました。なかでも紙巻たばこ(シガレット)は、目を惹くパッケージデザインと手軽さが広く受け入れられ、国内でも製造されるようになりました。
日本で最初に国産の「紙巻たばこ」を製造したのは、彦根藩(現在の滋賀県)の下級武士だった土田安五郎といわれています。土田は、もともと“たばこ刻み”を内職としていましたが、明治になると上京し、「紙巻たばこ」を作りはじめます。そして明治14(1881)年に開催された「第2回内国勧業博覧会」で有功賞を受賞するのです。
こうした状況のなかで「紙巻たばこ」は都市部を中心に“ハイカラ”のシンボルとして、人々の間に広まっていきました。
明治中期になると、たばこ産業は問屋制手工業から機械制工業へと近代化が進み、個性的な商品と広告宣伝で力をつけたたばこ会社が台頭します。明治後期には、政府が国家の財源確保のため、たばこに関する法律を次々と制定し、たばこ産業は国営化されることとなりました。
その後も紙巻きたばこ市場は成長を続け、大正時代には、その製造量は刻みたばこを上回ることとなりました。
食べ物ではありませんが、嗜好品としての煙草についても調べてみました。
煙草は南アメリカが原産ですが、コロンブスがハイチから土民が吸っているのを見てポルトガルに持ち帰ったと言われています。
言語はカリブの土語だといいますが、スペイン語の tabaco(古いアラビア語で薬草の一種を示す “tabaq”という言葉が語源) が元になって英語やフランス語にはいっていったというのが、本当のところだと言います。いずれにしてもわずか1世紀たらずで日本にももたらされたのは余程人間の嗜好にあったのでしょう。日本では「思い草」「忘れ草」「相思草」などともよばれ、漢字表記「煙草」「莨」「莨菪」「多葉粉」「佗波古」「淡婆姑」と沢山の表記が見られます。中国語では「香煙」などと呼ばれることもあります。
「たばこ」が日本へ伝わった正確な年代や状況は、日本およびヨーロッパともに現存する明確な記録がないため、今のところ推測の粋を出ません。 しかし、以下の2説をはじめ、さまざまな説が存在します。
天文年間説 …… 天文12(1543)年に種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲とともに伝えたとする説
慶長年間説 …… 慶長10(1605)年前後に、ポルトガルやスペインなどの西欧諸国=南蛮から渡来したとする説
いずれにしても、慶長年間(1596〜1615年)にはすでに“喫煙”も「たばこ」の耕作も伝来していたと考えられています。
タバコと最初に出合った人物として記録上に残るのは、江戸幕府を開いた徳川家康です。それはスペインのフランシスコ会の修道士ヘロニモ・デ・ヘススからの贈り物でした。ヘススはさまざまな土産物と一緒に、「たばこ」を原料とする薬と、「たばこ」の種子を家康に献上したのですが、この時、家康は「たばこ」についてこまごまと尋ね、列席の役人に効能や特性を書き留めさせたといわれています。
庶民の間に喫煙の風習が広がりはじめた頃、徳川幕府は「たばこ」の禁煙令を発します。この「たばこ」に関するお触れは後に、「たばこ」の栽培の禁止など、幾度か内容を変えて発令されますが、度重なる禁令にも関わらず、「たばこ」を楽しむ人々は増え続け、徳川3代将軍・家光の代となる寛永年間(1624〜1645年)に入ると、「たばこ」に課税して収入を得る藩も現れ、「たばこ」の耕作は日本各地へ広まっていきます。やがて、禁令は形骸化し、徳川綱吉が5代将軍を務めた元禄年間(1688〜1703年)頃を境に、新たなお触れは出されなくなりました。
こうして「たばこ」は庶民を中心に嗜好品として親しまれながら、独自の文化を形作っていくこととなったのです。
飛竜頭とは、関西でいう、がんもどき。粳米(うるちまい)と糯米(もちごめ)の粉を混ぜて練り、油で揚げた食品で、飛竜子・ひりゅうず・ひろうす・ひりうす と表記することもあります。パソコンの語源由来辞典によると「飛竜頭は、ポルトガル語「filhos(フィリョース)」に漢字を当てたもの。『filhos』とは小麦粉に卵を混ぜ合わせ油で揚げた菓子で、元禄2年(1689年)の『合類日用料理指南抄』にある「ひりやうす」の作り方が近い。元禄10年(1697年)頃には、ゴボウやキクラゲを炒ったものと、豆腐を擂ったものを混ぜ合わせてまるめ、油で揚げた精進料理の「豆腐巻(とうふけん)」が「飛竜頭」と呼ばれるようになっており、部分的に製法が似た料理に「飛竜頭」の名が用いられた結果、「がんもどき」を指すようになったと考えられる。」とあります。
英葡辞書によると filhozes fritter とあるものもあるそうです。Fritter とは「果物、肉、野菜などを少量の練り粉に包んで揚げたもの」を指しますので、油で揚げたものなのでしょう。安土桃山時代に伝えられたもので、最初は『紅毛雑話』に「この国にて言う油揚げは飛龍豆でポルトガル国の食物なり。その製、左の如し、ひりょうずは彼の国の語の由なり。糯米粉、粳米粉、各七合、水にて練り合わせ、ゆで上げて油揚げにしたるものなり」とあるように、「油揚げにした餅」すなわち完全な菓子でした。これが江戸時代になって料理食品の「がんもどき」になったというのです。「がんもどき」は精進料理で肉の代用品(もどき)としたもので、鳥のガンの肉に似せた料理ということになります。
「がんもどき」の材料は、もともとは豆腐ではなく、こんにゃくだったといいます。味が雁の肉に似ていることから「雁擬(がんもどき)」の名がついたという説。もう一つは、精進料理の「糟鶏」という料理だったという説で、こちらはこんにゃくを使った点心(中華料理の一つ)「糟鶏」が、「俗にいうがんもどきなるべし」と古い本に書かれているところから、「糟鶏」の俗称として「がんもどき」という親しみやすい日本語にしたという説があります。
明暦の大火(1657)後の復興過程で、江戸の町には様々な屋台が登場しました。特に防災都市化する過程で各地に設けられた火除地は広小路と呼ばれて盛り場に発展、飲食店が軒を連ねた他、祭りともなれば寺社の門前に、さらに季節の行事毎に人が集まる場所に屋台が集結しました。その屋台の商品の一つとして「すし」「そば」「田楽」「蒲焼き」などとともに売られるようになったのが、「てんぷら」であったようです。記録は下りますが、文政十三(1830)年に出版された、喜多村信節「嬉遊笑覧」に日本橋に屋台を出していた男が鰹を使ったてんぷらを出したという話があり、文久元年(1861)の滑稽本「江戸久居計」にも弥次喜多が屋台の天ぷらを犬に食われてしまうイラストがあります。いつ頃から食べられはじめたのかは十七世紀末から十八世紀半ばまで幅がある。
関東地方では東京湾でとれた新鮮な魚を天ぷらに、関西地方(特に京都)では新鮮な魚が入手しにくかったので野菜や山菜を天ぷらにして食べていました。食材の旨みをサクサクとした衣で包み込んだ天ぷらは、世界中の人々に好まれている日本料理の一つになっています。しかし、天ぷらは日本古来の料理ではなく、今から約400年前(16世紀の中頃)鉄砲の伝来とともにポルトガルから長崎に伝わった南蛮料理だということです。当時の日本では油は灯火用の大変貴重なものだったため、調理に大量の油を使用する天ぷらは高級品として扱われていました。江戸時代に入り油の生産が増えた事によって、天ぷらは次第に庶民の大衆料理として広まっていきました。はじめは立ち食い屋台で、おかずと言うよりは間食のような感覚食べられていたようです。天ぷら料理の専門店や料亭が出現しはじめたのは明治以降の事です。
関東風の天ぷらは、卵を入れた衣を胡麻油で揚げたもので、こんがりキツネ色に仕上がるのが特徴です。一方関西風の天ぷらは卵を入れない衣をサラダ油で揚げたもので、白い天ぷらが特徴です。もともと関東では江戸前でとれた魚を天ぷらにしていたので、魚の臭みをとるために胡麻油で揚げるようになった言われています。一方関西では野菜中心であったため、自然の味を生かすため天つゆではなく食塩をつけて食べるようになったと言われています。
「天ぷら」はポルトガル語で「四季の斎日」を意味する「Tempora(テンポラ)」が語源という説があります。四季の斎日とは季節のはじめの三日間に祈りと節食をする習慣です。この期間中信者は肉を食べる事が禁じられるため、魚などに小麦粉の衣を付けた料理を食べていました。この料理が日本に伝わり「天ぷら」になったと言われています。この他にもポルトガル語で調味料・料理を意味する「Tempero(テンペロ)」や、「あ・ぶ・ら」の当て字で「天〔あ〕・ぷ・ら」など、語源に関しては様々な説があり、どの説が正しいのかはっきりした事はわかっていません。漢字の「天麩羅」は、「天」が「天竺(てんじく)」、「麩」は「小麦粉」、「羅」は薄い衣を表し、天竺から来た浪人が売る小麦粉の薄物という意味で、江戸時代に戯作者の『山東京伝』が考えたものとされるそうです。「天婦羅」の漢字は、「天麩羅」の当て字を変えただけのものと考えられます。
sechin@nethome.ne.jp です。
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |