瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨日は私の誕生日。ブログのコメントでお祝いの言葉を戴きました。シンさん、ハルキ君ありがとう。
 私の生まれた1932年は2月4日が節分でした。だから、節夫という名前が付けられました。


 旧暦(中国・日本の太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれています。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためであるといいます。これを夏正(かせい)というそうです。古代中国夏王朝の正月という意だそうです。平気法(二十四節気を配置する方法の一つ)ではそのために、立春の次の雨水を含む月を正月(1月)としています。

 立春は旧暦1月1日だという勘違いがありますが、ほとんどの場合は正しくありません。旧暦1日は必ず朔(さく、新月)ですが、立春は朔に関係なく定められるため、多くの年は1日にはなりません。ただし約30年に1度ほど、立春が朔と重なり、旧暦1月1日になる年があります(朔旦立春)。近年は1954年・1992年がそうだったとうこてす。次は2038年と予測されているそうです。

 携帯にも誕生日のお祝いメールが入りました。曰く


2017年2月4日2013分  題 おめでとうございます


 日高先生     お誕生日おめでとうございます‼ 


とにかく一言、お祝いを申し上げたく、メール致しました。(メールですみません〓)


インフルエンザが流行っているようです。ご自愛下さい。 Kanami


2017年2月4日22時4分 題 遅くなりましたが、


 
 [祝]お誕生日おめでとうございます〓〓[クラッカー][くす玉][ボトル]〓〓[花束]


健やかで、穏やかな一年になりますように 「\(^ω^)/][\(^ω^)/][\(^ω^)/] Yoko


 


 Kanamiさん、Yokoさんありがとう。


 1月27日以来、ブログ更新をお休みしています。
 福岡の甥に依頼されて、彼がやっているウェブ句会の「句集」を製作していたためです。ワープロへの書き込みがやっと終了し、後はゲラの校正を待って印刷・製本にかかるところで、一段落ついた所です。

 いつの間にかはや2月。明日は節分です。
 節分とは元来、季節の移り変るときをさし、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前日でした。しかし太陰太陽暦では立春を年の初めと定めたので、立春の前日すなわち大寒の最後の日を特に節分 (太陽暦の2月3日か4日) として重視するようになりました。
ウェブニュースより
 節分は大みそかの行事だった? 豆で追い払う"鬼"の正体とは ―― 暦の上では春とされる立春。その前日(毎年2月3日前後となります)は節分(せつぶん)です。節分といえば、豆まきですね。近年では豆まきに加え、バラエティー豊かな恵方巻きをいただく方も多いのではないでしょうか。さて、風水でも節分には大きな意味があります。詳しく見ていきましょう。

 節分とは? 
 節分は文字通り「季節を分ける」意味を持ちます。本来は春だけでなく、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の新しい季節が始まる前日を節分と呼んでいました。
 いにしえの日本では立春を1年の始まりとしていたため、長い年月がたつにつれ、最も重要だった立春の前日の節分だけが残ったとされます。旧暦では立春を新年としますので、つまり節分とは大みそかを指します。その1年の最後の日である大みそかに、1年の内についてしまった厄や穢(けが)れを落とし、清らかな気持ちで新年を迎えようとしました。
 そもそも鬼って何?
 鬼とは、目に見えないものを表す「穏(おん)」が転じていつしか「鬼(おに)」と呼ばれるようになったとされています。天災、飢饉(ききん)、疫病、悪霊など、正体も知れずひそかに忍び寄る不穏な気配を感じ取り、それを総じて「鬼」と呼びました。
 目に見えるものだけが全てではなく、不吉なことは全て鬼の仕業と考えられていた時代の人々は、さぞ恐れおののいていたことでしょう。
 また、鬼は鬼門(丑寅・うしとら)となる東北の方角からやって来るとされ、鬼のもののけは、牛(丑)の角を生やし、虎(寅)柄のパンツをはいた姿で描かれています。
 豆まきは大みそかの行事だった
 節分に行う"豆まき"は、平安時代初期から宮廷で大みそかの行事として行われていた鬼払いである追儺(ついな)がもとになっているとされます。
 追儺は邪気を払い、清らかな新年を迎えることで幸せになるよう、鬼の面を着けた人を桃の木で作った弓矢で射(う)ち追い払うという風習です。
 また、節分の時に話題になる"恵方"も、その年の初めに降臨される年神様の方角を指します。節分が古代の大みそかだとすると、年神様をお迎えする方角を気にするのもよくわかりますね。2017年の恵方は北北西。特に北北西のお掃除を念入りにして、多くの福を呼び込みましょう。


 


 篠山の姪からメールが入りました。曰く、
20171261929分受信 題 ブログであげつらうのも
 品がないし、国の恥なのでメールで。
 1月24日の国会答弁で安倍晋三首相が「云々(うんぬん)」という漢字を読めず、「でんでん」と発言していた。これは蓮舫代表とのやり取りで安倍首相の口から飛び出てきた言葉で、プラカードを掲げた民進党や野党を皮肉る言葉を繰り返している中で「訂正云々(でんでん)というご指摘は全くあたりません」と発言。
 
あまりにも安倍首相が堂々と言っていることから野党側も気が付いていないようだった。
 驚いたのは、すぐには大手メディアが全く取り上げなかったこと。「武士の情け」か?
 
でも副総理が「未曾有」を「ミゾウユウ」と読んだときは、大騒ぎしてなかった? (26日の朝日天声人語ではさらりと皮肉っていましたが。)
 野党批判を、官僚あるいは側近に書かせて、そのまま読んでいる(読めなかったけど)、ことがバレバレ。
 それでやってきて、結構人気あるから演技派であることに間違いないんでしょう。
 このことで小学生に「云々」を「うんぬん」と読むことが知れわたれば、「怪我の功名」ですけど。
 腹が立ったままでは、健康によくないので、笑い話を一つ。ネットの声です。
 
そのうち「云々」は
・「でんでん」と読む学者もいるとスガが擁護
・「でんでん」で問題ないと閣議決定
・「でんでん」と読むことに解釈変更
・「でんでん」と読まないと五輪が開催できない
・アベ一代限り「でんでん」と読む特別法制定
とかなりそう。  CU
 
ウェブニュースより
 
安倍首相「でんでん」発言トレンド入り そういえば麻生元首相も... ―― 2017124日の参院本会議で、安倍晋三首相が「訂正でんでん」という意味不明な発言をする場面があり、ツイッターでは大きな注目を集めて、一時トレンド入りした。
 
「云云」(うんぬん)を「伝伝」(でんでん)と読み間違えた可能性があるが、麻生太郎氏が首相だった08年にも、漢字の読み間違いを相次いで報じられたことがある。
 蓮舫代表への反論の中で
「デンデン」発言は、民進党の蓮舫代表の代表質問への答弁で出た。蓮舫代表は、安倍首相が120日の施政方針演説で
「ただ批判に明け暮れたり、言論の府である国会の中でプラカードを掲げても何も生まれません」
と述べたことを問題視。自民党も野党時代に国会でプラカードを掲げたことを指摘しながら、
「私たちへの批判とどう整合性をつけておられるのですか」
などと批判。民進党も「必要な法案には粛々と賛成している」として、
「まるで我々がずっと批判に明け暮れているという言い方は訂正をしてください」
と述べた。
 この発言に対して、安倍首相は
「これはあくまで一般論であって、民進党の皆さんだとは一言も申し上げていないわけであります。 自らに思い当たる節がなければ、これはただ聞いて頂ければいいのだろう、このように思うわけであります」
と反論。その上で、
「訂正『でんでん』というご指摘はまったく当たりません」
と力を込めた。
 「云云」と「伝伝」を混同か この文脈では、「でんでん」だと意味が通じないが、「云云」(うんぬん)なら意味が通じる。広辞苑第6版によると、「云云」の項目の最初の説明には
「引用した文を中途で切り、以下を省略する時に用いる語。しかじか。これこれ」とある。安倍首相は「云云」と「伝伝」を混同した可能性があるが、答弁原稿にこの文字があったのかどうか不明だ。この安倍首相発言はNHKで中継されたこともあって、ネット上で注目を集め、一時ツイッターでは「#訂正でんでん」という単語が「トレンド」入りした。
 また、この安倍首相答弁を機に、ネットの一部では麻生太郎氏の首相当時の発言を思い出す人も現れた。麻生氏は08年、記者会見などで、「頻繁」(ひんぱん)を「はんざつ」、「未曾有」(みぞう)を「みぞうゆう」、「踏襲」(とうしゅう)を「ふしゅう」と読むなど、相次ぐ漢字の読み間違いがクローズアップされたことがあったためだ。 (2017125 150 J-CASTニュース)
https://www.youtube.com/watch?v=6vcOgS3ipas


 

大和物語 125段
 泉の大将、故左のおほいどのにまうでたまへりけり。
 ほかにて酒などまゐり、酔ひて、夜いたく更けてゆくりもなく物したまへり。
 おとどおどろき給て、「いづくに物したまへる便りにかあらむ」などきこえ給て、御格子あげさはぐに、壬生忠岑御供にあり。
 御階のもとに、まつともしながらひざまづきて、御消息申す。
「かささぎの渡せるはしの霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ となむ宣ふ」と申す。
 あるじの大臣いとあはれにおかしとおぼして、その夜、夜一夜大御酒まゐり、あそび給て、大将も物かづき、忠岑も禄たまはりなどしけり。
 この忠岑がむすめありとききて、ある人なむ「得む」といひけるを、「いとよきことなり」といひけり。
 男のもとより「かのたのめたまひしこと、このごろのほどにとなむおもふ」といへりける返り事に、
  「わがやどの ひとむらすすき うら若み むすび時には まだしかりけり」
となむよみたりける。まことに又いと小きむすめになむありける。
※泉の大将=藤原定国。高藤の息子。大納言・右大将をつとめた。(867~906年)
※故左のおほいどの=藤原時平。


 
現代語訳
 泉の大将が故左大臣のお屋敷に参上なさったということです。
 余所で酒などお飲みになり、酔って、夜ひじょうに遅くに突然いらっしゃっいました。
 左大臣さまがびっくりなさって、「どこにいらっしゃったついでであろうか?」などと申し上げなさって、家の者たちが出迎えの準備に格子をつりあげて忙しく立ち働いていますと、壬生忠岑がお供のなかにいました。
 階段の下に、松明をともしたままひざまずいて、訪問をお告げ申し上げました。
「カササギが渡しているはしの霜のうえを、夜中に踏み分けてわざわざ尋ねて参りましたよ、とおっしゃっておられます」と申し上げました。
 主人である大臣も、非常に風流で味わい深いとお思いになって、その夜、夜通し臣下を相手にお酒を召し上がりなさって、大将も衣類を褒美にいただき、忠岑も褒美の品をいただいたりなどしたということです。
 この忠岑のむすめがいると聞いて、ある人が「妻にしよう」と言ったのを、「たいへん結構なことだ」と言ったそうです。
 男のところから、「例の当てにさせなさったこと、近いうちにと思います」と言いました、その返事に、
「我が家にある一群のススキは、若くてみずみずしく、生長していないので、結ぶには十分な長さがないように、また、心が幼いので、夫婦の契りを結ぶにはまだ早いと思います」
と歌を作ったそうです。本当にまだ幼いむすめだったのです。


大和物語 132段
 同じ帝の御時、躬恒(みつね)をめして、月のいとおもしろき夜、御あそびなどありて、「月を弓張といふは何の心ぞ。其のよしつかうまつれ」とおほせたまうければ、御階(みはし)のもとにさぶらひて、つかうまつりける、
  てる月を 弓張としも いふことは 山べをさして いればなりけり
禄に大袿かづきて、又、
  しらくもの このかたにしも おりゐるは 天つ風こそ 吹きて来つらし
※弓張=弓形をしている月。特に、陰暦七・八日ごろの月を「かみの弓張り」、二十三、四日ごろの月を「しもの弓張り」という。
※大袿=平安時代に禄・かづけものとして賜った袿(うちき、平安時代以来、貴族の男性が狩衣〈かりぎぬ〉 や直衣 〈のうし〉 の下に着た衣服。女性の場合は唐衣 〈からぎぬ〉 の下に着た。単に衣 〈きぬ〉 ともいわれる)で、裄(ゆき)丈(たけ)を大きめに仕立てたもの。着るときは普通の大きさに仕立て直す。

現代語訳
 同じ醍醐天皇の御代に、躬恒(みつね)をお呼び寄せになって、月が非常に美しい夜に、管弦の宴などを催されて、「月を弓張というのはどういう意味だ。その理由を述べてみよ」とご命令なさったところ、御殿の階段のところに控えて、お作り申し上げた歌、
  夜空に照る月を、弓張とも言うことは、山辺を目指して入る(山のあたりをめがけて射る)からなのだなあ。
 天皇に頂いた褒美の大袿を肩に掛けて、又、次のような歌を作った、
  白雲がちょうどこちらの方におりてきてとどまっているのは(白雲のように白くてふわりとした大袿が、私の肩に高い御殿からくだってきてのっかっているのは)、空の風がまさに吹いて来たらしい。

無名抄27段 貫之・躬恒の優劣

  俊恵法師語りていはく、
「三条の大相国、非違(ひゐ)の別当と聞こえける時、二条の帥(そち)と二人の人、躬恒・貫之が劣り勝りを論ぜられけり。かたみにさまざま言葉を尽くして争はれけれど、さらにこときるべもあらざりければ、帥いぶかしく思ひて、『御気色(けしき)を取りて勝劣きらむ』とて、白河院に御気色給はる。仰せにいはく、『われはいかでか定めむ。俊頼などに問へかし』と仰せごとありければ、ともにその便(びん)を待たれけるほどに、二、三日ありて、俊頼まゐりたりけり。帥このことを語り出でて、初め争ひそめしより、院の仰せのおもむきまで語られければ、俊頼聞きて、たびたびうちなづきて、『躬恒をば、なあなづらせ給ひそ』といふ。帥思ひのほかに覚えて、『されば貫之が劣り侍るか。ことをきり給ふべきなり』と責めけれど、なほただ同じやうに、『躬恒をばあなづらせ給ふまじきぞ』といひければ、『おほしおほしことがら聞こえ侍りにたり。おのれが負けになりぬるにこそ』とて、からきことにせられけり。躬恒が詠みくち、深く思ひ入れたる方は、またたぐひなき者なり」とぞ。
現代語訳
  俊恵法師が語って言うことには、
「三条の太政大臣(藤原実行)が検非違使の長官と申し上げていた時、二条の帥(藤原俊忠)とふたりで、躬恒と貫之の優劣を論じ合われた。お互いにさまざまに言葉を尽くして論争をなさったが、いっこうに決着する様子がないので、帥がはっきりさせたいと考えて、『白河院の御意向をお伺いして優劣を決めよう』ということで、白河院に御意向を仰ぐ。白河院の仰せによるところでは、『予がどうして決められようか。俊頼などに問うがいい』とのことだった。そのような仰せがあったので、ふたりとも機会を待っていると、二、三日して俊頼(源俊頼)が参上した。帥はこの件について語り出し、最初に優劣を論じ始めてから、院の仰せの趣旨までお話しになったので、俊頼は話を聞いて、幾度も頷いて、『躬恒のことを、侮りなさいますな』と言う。帥は意外にお感じになって、『それならば貫之が劣っているのですな。躬恒のほうが優れているとお定めになるべきでしょう』と促したが、俊頼が依然としてただ同じように『躬恒のことを侮りなさるべきではありませぬぞ』と言ったので、『大体おっしゃっていることは理解できました。貫之が優れていると考えていた私の負け、ということですな』と、負けたことを辛くお思いになった。躬恒の詠みぶりの、深く思いを歌にこめてある趣は、他に並ぶものがないものだ」


 


 初場所は稀勢の里の優勝で幕を閉じましたが、ここ数場所小兵力士の活躍から目が離せません。小兵力士が好きなのは日本人ならではの判官贔屓なのかもしれませんが小さな力士が大きな力士を倒すのが無差別級の相撲という競技の醍醐味でもあるのです。特に今場所は十両の宇良の活躍は眼を見張るものがありました。
ウェブニュースより
 宇良 和輝(うら かずき、1992年6月22日~ )は、日本の大相撲力士。大阪府寝屋川市出身。木瀬部屋所属。最高位は東十両筆頭(2016年9月場所)。血液型はB型。

 関西学院大学相撲部創部125年で初のプロ入り力士である。
 レスリングの経験を活かした撞木反り[20]、居反り、足取りなどの珍しい技を繰り出す取り口の相撲はアクロバット相撲と評され入門前から注目されていたことから、入門記者会見では報道陣100人が詰めかけた。20171月場所13日目には天風に襷反りを決めたが、この技が十両以上の取り組みで決まったのは19601月に決まり手が制定されて以来初めての事であった。同場所ではやはり滅多に出ず「幻の技」といわれる首ひねりを、2日目に青狼に対して決めている。
 2016年の十両における敢闘精神あふれる力士評価では2位の石浦の2165(この年は十両5場所在位)を引き離して26044場所)で1位となった。
 https://www.youtube.com/watch?v=_oAyCdHzR3g
 


大和物語 三十
 故右京の大夫(かみ)宗于(むねゆき)の君、なりいづべきほどに、わが身のえなりいでぬこととおもうたまひけるころほひ、亭子の帝(みかど、宇多天皇)に紀の国より石つきたる海松(みる)をなむたてまつりけるを題にて、人々うたよみけるに、右京の大夫、
  おきつかぜふけゐの浦にたつなみのなごりにさへや我はしづまむ
※海松(みる)=海藻の一つ。浅い海の底の岩に生え、濃い緑色の枝葉が分岐する。古くは食用とした。

※ふけゐの浦=いまの大阪府泉南郡岬町。『万葉集』に見える「吹飯浜(ふけいのはま)」。
現代語訳
 故右京の大夫(かみ)宗于(むねゆき)さまが、出世してもよさそうな時分になっても、我が身が出世できないもんだなあとお考えになっていたころ、亭子の帝(宇多天皇)に紀の国から石が付着している海藻の海松を献上したということを題として、人々が和歌を作った際に、右京の大夫さまが、
  沖の風よ吹け、吹けという名をもつフケイの浦に立つ波の余波にあおられてさえ浜に打ち上げられることなく私は沈んだままなのだろうか(底に石がついたままの、この海藻のように、いつまでたっても上に浮き上がって出世できないものだ)
という和歌をお作りになったということです。

大和物語 三十二段
 亭子(ていじ)の帝に、右京の大夫(かみ)の詠みて奉りける、
  あはれてふ 人もあるべく 武蔵野の 草とだにこそ 生(お)ふべかりけれ
また、
  時雨のみ ふる山里の 木の下は をる人からや もりすぎぬらむ
とありければ、かへり見たまはぬ心ばへなりけり。「帝御覧じて、『なに事ぞ。これ心えず』とて僧都(そうづ)の君になむ見せ給ひける、と聞きしかば、かひなくなむありし」語りたまひける。現代語訳
 亭子の帝に、右京大夫が詠んで奉った歌、
  あぁ…懐かしいと、きっと言ってくれる人もいるように、せめて武蔵野の草にでもなって生えればよかったとつくづく思います。
また、
  時雨ばかり降る山里の木の下は、人が枝を折って間をすかせたせいなのでしょうか、来る日も来る日も、雨が漏っております。
とあったが、それは帝が右京大夫に目をおかけにならないのを恨むものだったのです。後に右京大夫は、「帝は、それを御覧になって、『何のことだろうか、この歌の意味がよくわからない』とおっしゃって、僧都の君にお見せになったということだったので、わざわざ歌に詠んだ甲斐がありませんでした」と、お話になりました。


 


 小野小町が少(わか)くて色を好みし時、もてなされしありさま、ならびなかりけり。『壮衰記』といふ物には、「三皇五帝の妃も、漢王・周公の妻も、いまだこのおごりをなさず」と書きためり。
 かかりければ、衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍を調へ、身には蘭麝を薫じ、口には和歌を詠(なが)め、万の男を賤しくのみ思ひ下し、女御・后に心をかけたりしほどに、十七にて母を失ひ、十九にて父におくれ、廿一にて兄に別れ、廿三にて弟を先立てしかば、単孤無頼の独り人になりて、頼むかたなかりき。
 いみじき栄え、日々に衰へ、はなやかなる形、年々にすたれつつ、心かけたるたぐひも、うとくのみありしかば、家は壊れて月の光むなしく澄み、庭は荒れて蓬(よもぎ)のみいたづらに茂し。
 かくまでになりにければ、文屋康秀が三河掾にて下りけるにいざなはれて、
  わびぬれば身をうき草の根を絶えてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ
など詠みて、次第に落ちぶれゆくほどに、つひには野山にぞさすらひける。懐旧の心のうちには、悔しきこと多かりけんかし。

現代語訳
 小野小町がまだ若くて、色を好んでいた頃、その美貌故のもてはやされ方は一通りではなかった。玉造小町形衰書と云う書物によれば、三皇五帝の妃も、漢王・周公の妻も、小町の栄華には及ばないと謂う。
 錦と刺繍をあしらった衣を重ね、海陸の珍味を食膳に並べ、蘭蕙香(らんけいこう)と麝香(じゃこう)の香りを身にまとい、口には和歌を詠じて、幾多の男を取るに足らぬものと見下して暮らしていた。
 皇后になろうかとさえ望みを掛けていたが、十七で母を失い、十九で父に先立たれ、二十一の時に兄も亡くなり、二十三で弟も逝って仕舞った。身寄りもなく、孤立無援の身では立身の見込みもなく、目を見張るばかりの華やかな暮らしも日毎に寂しいものになって行った。絶世と謳われた容色も年齢と共に衰え、心を掛ける男たちも次第に少なくなって行ったから、家は破れ寂びて月ばかりが虚しく澄み、庭は荒れ放題で雑草が生い茂るばかりであった。
 文屋康秀が三河の国司に赴任する時に誘うと、次の歌を詠んだ。
  侘びぬれば身をうきくさのねをたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ
(落ちぶれて我が身が厭になる程の身の上だから、根のない浮き草が水の流れで何処にでも行くように、誘う人があれば何処にでも行こうと思う)
 時を経て、更に零落して、終いには野山をさすらったと謂うことである。


百人一首2130についても調べてみます。


 
21. 素性法師 今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな(古今集)
 素性法師(そせいほうし) 俗名良岑玄利(よしみねのはるとし、生没年不詳)は遍照の子。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。左近将監に任官した後に出家し、権律師(ごんのりっし)となる。
 現代語訳 あなたがすぐに来ると言ったばかりに秋の夜長を待っていたら、有明の月が出てしまった。
22. 文屋康秀 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ(古今集)
 文屋康秀(ふんやのやすひで、生没年不詳)は平安前期の歌人。六歌仙の一人。文屋朝康の父。
 現代語訳 吹くとすぐに秋の草木がしおれるので、なるほど山風を嵐というのだろう。
※小野小町と親密だったといい、三河国に赴任する際に小野小町を誘ったといいます。それに対し小町は「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」(=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います)と歌を詠んで返事をしたといいます。のちに『古今著聞集』や『十訓抄』といった説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになりました。
3. 大江千里 月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど(古今集)
 大江千里(おおえのちさと、生没年不詳)は平安前期の歌人、漢学者。中古三十六歌仙の一人。在原行平・業平の甥。宇多天皇の勅命により『句題和歌』を編纂。
 現代語訳 月を見ると、いろいろと物事が悲しく感じられる。私ひとりの秋ではないのだが。
※ 句題和歌とは 平安前期の歌人大江千里(おおえのちさと)の家集。『大江千里集』ともいう。894年(寛平6)成立。宇多(うだ)天皇より古今の和歌の類聚(るいじゅう)を求められたのに対し、唐詩の一句を題とした翻案歌110首(現存本は115首)をそれぞれの摘句とともに番(つが)えて、これを漢詩文集の部類をも参考に、春、夏、秋、冬、風月、遊覧、離別、述懐に分類し、末尾に自詠和歌10首(詠懐)を添えて献上したもの。和漢対照様式の斬新(ざんしん)な趣向は当代の好尚を反映するものですが、佳句撰(せん)的傾向が強く、題詠歌としては習作の域を出ません。出典の判明する88句中の8割が白楽天詩からの摘句であると言います。
24. 菅家 このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに(古今集)
 菅家 菅原道真 (すがわらのみちざね、845~903年)は文人官僚。894年、遣唐使に任ぜられますが、建言により廃止。従二位・右大臣となるも、藤原時平により太宰権帥に左遷されます。学問・詩文に優れ、『類聚国史』、『三代実録』などを編集。没後、学問の神、天満天神とされます。贈正一位。
 現代語訳 今度の旅は、御幣をささげることもできない。とりあえず、手向けに山の紅葉を錦に見立てて御幣の代わりにするので、神の御心のままにお受け取りください。
25. 三条右大臣 名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人にしられで くるよしもがな(後撰集)
 三条右大臣 藤原定方(ふじわらのさだかた、873~932年)は三条に邸宅があったことから三条右大臣とよばれた。
 現代語訳 逢坂山のさねかずらが逢って寝るという名を持っているのであれば、さねかずらが蔓を手繰れば来るように、誰にも知られずにあなたを手繰り寄せる方法がほしいものだなあ。
※ 逢坂山は山城国(現在の京都府)と近江国(現在の滋賀県)の国境にあった山で関所がありました。「逢ふ」との掛詞になっています。また、「くるよしもがな」の「くる」は「来る」と「繰る(手繰り寄せる)」の掛詞となっています。
26. 貞信公 小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ(拾遺集)
 貞信公(ていしんこう) 藤原忠平(ふじわらのただひら、880~949年)は平安中期の貴族。藤原基経の子。時平の弟。「延喜格式」を完成。摂政・関白・太政大臣を歴任。長期にわたって政権の中枢に位置し、藤原摂関家の基礎をかためる。従一位・贈正一位。貞信公は諡号。
 現代語訳 小倉山の紅葉よ。お前に心があるなら、いま一度の行幸があるまで散らずに待っていてほしい。
※ 『拾遺集』の詞書によると、宇多上皇が大堰川に御幸された際、その景色を子の醍醐天皇にもお見せしたいとおっしゃったことを受けて、天皇の義理の兄である藤原忠平(貞信公)がこの歌に託して奏上したということです。寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったといいます(『栄花物語』)。
27. 中納言兼輔 みかの原 わきて流るる 泉川いつ見きとてか 恋しかるらむ(新古今集)
 中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ) 藤原兼輔(ふじわらのかねすけ、877~933年)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。加茂川の近くに邸宅があり、堤中納言とよばれました。
 現代語訳 みかの原から湧き出て、原を二分するようにして流れる泉川ではないが、いったいいつ逢ったといって、こんなに恋しいのだろうか。(一度も逢ったことがないのに)
※「瓶原(みかのはら)」は、山城国(現在の京都府)の南部にある相楽(そうらく)郡加茂町(かもちょう)を流れる木津川の北側の一部を指します。泉川は現代の木津川で、ここまでがこの和歌の序詞にあたります。
28.  源宗于朝臣 山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば(新古今集)
 源宗于朝臣(みなもとのむねゆきあそん) 源宗于(?~939年)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇の孫でありながら、官位に恵まれず正四位下右京大夫にとどまります。『大和物語』に不遇を嘆く歌を残しています。
 現代語訳 山里は、冬に一段と寂しくなるものだなあ。人も来なくなり、草も枯れてしまうと思うので。
29. 凡河内躬恒 心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花(新古今集)
 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね、生没年不詳)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』撰者の一人。官位は低かったが、紀貫之とならぶ歌壇の中心的人物とされました。
現代語訳 当てずっぽうで折るなら折ってみようか。初霜がおりて区別しにくくなっている白菊の花を。
※『大和物語』に、醍醐天皇に「なぜ月を弓張というのか」と問われ、即興で「照る月をゆみ張としもいふことは山の端さして入(射)ればなりけり(=照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)」と応じたという話があり、『無名抄』によると貫之・躬恒の優劣を問われた源俊頼は「躬恒をばなあなづらせ給ひそ(=躬恒をばかにしてはいけません)」と答えたと言います。
30.  壬生忠岑 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかりうきものはなし(新古今集)
 壬生忠岑(みぶのただみね、生没年不詳)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』の撰者の一人。忠見の父。
 現代語訳 有明の月がつれなく見えた。薄情に思えた別れの時から、夜明け前ほど憂鬱なものはない。
※身分の低い下級武官であったが、歌人としては一流と賞されており、『古今和歌集』の撰者として抜擢されています。『大和物語』によると藤原定国の随身であったといいます。


 


大和物語 九十段
 同じ女、故兵部卿の宮、御消息などしたまひけり。「おはしまさん」とのたまひければきこえける、
   たかくとも何にかはせん呉竹のひとよふたよのあだのふしをば
※同じ女=修理の君(父兄が修理職(皇居の修理・造営をつかさどる役所)の役人だった)という女房
現代語訳 おなじ女に、故兵部卿の宮さまが、お手紙のやりとりなどなさっていたとさ。兵部卿の宮さまが手紙で「行きますよ」と、おっしゃったので、返事に申し上げた歌
   丈が高くても何になるでしょう、呉竹の一節二節といったちょっとした役にも立たない節なんか。(あなた様の身分がいくら高くっても何になるでしょう。一夜二夜しかいらしてくださらない、不誠実なお泊まりなんて)


 
大和物語 百三十七段
 志賀の山越のみちに、いはえといふ所に、故兵部卿の宮、家をいとをかしうつくりたまうて、時々おはしましけり。
 いとしのびておはしまして、志賀にまうづる女どもを見たまふ時もありけり。おほかたもいとおもしろう、家もいとをかしうなむありける。
 おほかたもいとおもしろう、家もいとをかしうなむありける。
 としこ、志賀にまうでけるついでに、この家にきて、めぐりつつ見て、あはれがり、めでなどして、かきつけたりける、
   かりにのみ くる君まつと ふりいでつつ なくしが山は 秋ぞ悲しき
となむ書きつけて往にける。
※故兵部卿の宮=陽成天皇の皇子、元良親王(890~943年)。
※としこ=肥前の守、藤原千兼の妻。藤原千兼の妻で、千兼は宇多天皇(=亭子院)の信任が厚かった歌人・忠房の息子です。また、忠房の娘、つまり千兼の姉か妹が源大納言清蔭の妻でしたた。としこは、この清蔭のもとに仕えており、そこで千兼と結ばれたと言います。

現代語訳 滋賀の山越えの道中の、岩江という所に、故兵部卿の宮が、家を非常に風流に建造なさって、時々その別荘においでになったそうです。
 非常に人目を避けてお出かけになって、滋賀の寺社に参詣する女性たちを御覧になる時もあったということです。
 おおよそお屋敷全体が、非常に風情があり、家の造りも非常に趣味が良かったようです。
 俊子が、滋賀の寺社に参詣したついでに、この家に来て、周囲をめぐりながら見て、感嘆し、ほめたりなどして、塀に書きつけた歌、
  仮りそめにだけやって来るあなた様を待とうと、声をふりしぼって鳴く鹿の住む滋賀の山は、秋が格別にもの悲しいことだ。
と書きつけて、たちさったということです。

 今昔、川原の院は融の左大臣の造て住給ける家也。陸奥国の塩竈の形を造て、潮の水を汲入て、池に湛(たた)へたりけり。様々に微妙く可咲き事の限を造て住給けるを、其の大臣失て後は、其の子孫にて有ける人の宇陀の院2)に奉たりける也。
 然れば、宇陀の院、其の川原の院に住せ給ける時に、醍醐の天皇は御子に御せば、度々行幸有て微妙かりけり。
 然て、院の住せ給ける時に、夜半許に、西の台の塗籠を開て、人のそよめきて参る気色の有ければ、院、見遣せ給けるに、日の装束直(ただ)しくしたる人の、太刀帯(はき)て、笏取り畏りて、二間許去(の)きて居たりけるを、院、「彼(あれ)は何に人ぞ」と問せ給ければ、「此の家の主に候ふ翁也」と申ければ、院、「融の大臣か」と問せ給ければ、「然に候ふ」と申すに、院、「其れは何ぞ」と問はせ給まへば、「家に候へば住候ふに、此く御ませば、忝く所せく思給ふる也。何が仕るべき」と申せば、院、「其れは糸異様の事也。我れは人の家をやは押取て居たる。大臣の子孫の得(えさ)せたればこそ住め。者の霊也と云へども、事の理をも知らず、何で此は云ぞ」と高やかに仰せ給ければ、霊掻消つ様に失にけり。其の後、亦現るる事無かりけり。
 其の時の人、此の事を聞て、院をぞ忝く申ける。「猶、只人には似させ給はざりけり。此の大臣の霊に合て、此様に痓(すく)やかに、異人は否答じかし」とぞ云けるとなむ語り伝へたるとや。


 
現代語訳 川原院融左大臣の霊を宇陀院見給へる語
 これも今となっては昔のこと、今も知られる河原の院というのは、もとは融の左大臣様がお造りになり、住んでおられたお屋敷なのです。陸奥出羽按察使であられた融様は殊の外、あの陸奥の国の塩釜の浦の美観を好まれましたが故に、それを模してお庭をお作りになり、なんとまあ、わざわざ海水を汲み入れて池と成されたのでございます。かように、様々にこの上もないほど贅の限りを尽くしてお住まいになっておられたのですが、その融の左大臣様が亡くなって後は、その子孫にあたる方が、宇陀院にこの河原の院を献納したのでございます。そのようなわけで、宇陀院がその河原の院にお住まいになっておられた時には、時の帝であられた醍醐天皇は宇陀院の御子であられたのですから、度々ここに行幸もあり、まことにめでたくも良きお屋敷でございました。
 さて、その宇陀院がお住まいになっていらっしゃた時のことでございます、とある夜半、西の対の塗籠を押し開けて、誰(たれ)やら人が、さらさらという衣擦れの音をさせながらやって来る気配が致しましたので、院がそちらの方をご覧になったところ、きちんと晴れの装束をなした人が、太刀を佩き笏を手にして、院から二間ほど離れた位置にかこまって座っておりましたのを、院が「そこに居る者は誰(たれ)か」とお尋ねになられると、「この家の主人の翁にございます」と申すので、院が「融の左大臣か」と重ねてお尋ねになられると、「左様でございます」と申し上げるので、院が更に「何の用じゃ」とお尋ねになられると、「私の家でございますから住んでおりますのに、その私の家にこのように帝がずっといらっしゃっておられますので、畏れ多くも、如何にも窮屈で気詰まりな感じが致すのでございます。いかが致したものでございましょうや?」と申し上げたので、院は「それはまた、如何にもおかしな申し様じゃ。我は人の家を無理矢理奪い取ってここに居るとでも申すか? 我はかつての主であった融の左大臣の、その子孫が献上したからこそここに住んでおるのじゃ。融の霊を語る怪しげな物の怪と言えども、世の当たり前の道理をも弁えず、何故そのような不埒千万なことを申すか!」と仰せられ、声高く一喝なさったところ、その霊はかき消すように失せたのでございます。そうしてその後、二度とは現れることはなかったのでございます。
 当時の人々はこの出来事を聞いて、前にもまして宇陀院を畏れ敬い申し上げて、「やはり宇陀院はただのお人とはまるで違っておられることだ。他の方では、この左大臣の霊に逢って、このようにぴしゃりと言ってのけることは、とてもできそうもない。」と言ったと、今も語り伝えているということです。


 


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