ハロウィーンは毎年10月31日に行われる、ヨーロッパを発祥とするお祭りです。もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事で、11月1日の、カトリックの聖人の日である万聖節(All-hallow)の前の晩に行われていました。「All-hallow-even」を短縮して、Halloweenと呼ばれます。発祥の地はアイルランドやイギリスという説があります。古代ケルト、古代ローマ、キリスト教の3つの文化が融合して生まれたものです。原点はケルト人の収穫感謝祭で、それがカトリックに取り入れられたとされています。
古代のケルトでは、1年間は11月1日~10月31日までで、新年の1日目である11月1日に、悪い精霊や神が現れると信じられていました。また、大みそかの10月31日には、死んだ人の魂が家族の元へ帰り、さらに悪霊や魔女が町をさ迷うとも言われ、死者の霊や悪霊たちが家に入らないよう、かがり火をたいたといいます。伝統色は黒色とオレンジ色でした。
現在では、本来の宗教的な意味合いはほとんど失われ、欧米、特にアメリカで、民間行事として定着しています。カボチャの中身をくりぬいて中にろうそくを立てた「ジャック・オー・ランタン」をつくったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して、近くの家々を訪れ「Trick or treat(お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ)」と唱えてお菓子をもらったりする風習などがあります。家庭によっては、カボチャのお菓子をつくったり、子どもたちがもらったお菓子を持ち寄って、パーティーを開いたりします。イギリスでは、ハロウィーンは11月5日の「Guy Fawkes' Day」に統合されたような存在になっています。「Guy Fawkes' Day」とは、1605年に、ガイ・フォークスたちカトリック教徒による国会議事堂爆破計画を未然に防げたことを記念する行事で、子どもたちが「guys」と呼ばれる人形を持って街を練り歩き、最後にその人形を焼くというものです。
日本では、アメリカやヨーロッパのような風習はありませんが、ここ数年、キャンペーンやイベントに取り入れる企業なども出てきて、行事として定着し始めたといいます。
ハロウィーンの時期に見られるカボチャを使ったランタンは、一般的に「Jack-o'-Lantern(ジャック・オー・ランタン)」と呼ばれます。日本語に直訳すると「ジャックの提灯」です。このランタンを家の中や外に飾るだけで「ハロウィーン」の雰囲気になります。そんな「ハロウィーン」の顔ともいえるランタンの持ち主である「ジャック」という名前ですが、海外では男性に使われる一般的な名前であり、「ジャック・オー・ランタン」に関する逸話は世界中に数多くあります。また、ランタンの呼び名に関しても国よって違う場合もあります。そんな中でも共通しているのは、一人の男性が天国からも地獄からも受け入れられず、提灯一つを持って闇夜を永遠と迷い続ける事になった点です。
その昔、ジャックという名の口は巧いが卑怯で普段から行いの悪い鍛冶屋の男がいました。怠け者だがズル賢いジャックは、十字架を使って悪魔を罠に仕掛け、自分を地獄に落とさないと約束するまで罠の中に閉じ込めてしまいました。悪魔はやむなく約束し、ジャックは死んでも地獄へ落ちない身となったのです。そうして死んだジャックは「死者の門」へ着いたのですが、そこで聖ペテロという死者を天国か地獄へ行くか見定める者を得意の話術で騙して生き返りました。しかし、生き返った後も生前の行いを全く反省せずに最悪な男のままでした。そのため、再び死んで死者の門を訪れた時に聖ペテロから「お前は天国へ行くことも、地獄へ行くこと出来ない」と言われ、暗い闇の中を漂う事になりました。
そんなジャックを見て哀れんだ悪魔が地獄の劫火(ごうか)から赤々と燃える石炭を一つ取り、ジャックに明かりとして渡しました。その明かりをカブに入れてランタンの代わりにし、ジャックは今でも暗闇を一人で歩き続けているというのです。それが「ジャックの提灯」と呼ばれ、その明かりは夜中に不思議な光として現世で目撃されると、哀れなジャックの話に倣って「ジャック・オー・ランタン」となったのです。
この明かりに関しては時に男性の名前が代わって「will-o'-the-wisp(ウィル・オー・ザ・ウィスプ、世界各地に存在する、鬼火伝承の名の一つ)」と呼ばれる事もあり、多種多様な話、呼び名があって各教会ごとに脚色したり、本として出版するときに話が増えたと考えられています。日本にも「狐火」や「鬼火」といった不思議な光の話は数多くあります。最初はカブだったランタンも、アメリカで作られたカボチャのランタンが普及し、今では「カボチャランタン」が一般的な「ジャック・オー・ランタン」になっています。
キューバのカストロ前議長がなくなりました。1959年のキューバ革命でアメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を武力で倒し、キューバを社会主義国家に変えました。1962年キューバをめぐりソ連とアメリカが激しく対立した事件があり、キューバのソ連ミサイル基地建設に対し、アメリカは海上封鎖を断行――核戦争まで懸念されましたが、アメリカのキューバ不侵攻とソ連のミサイル撤去の約束により妥協が成立したキューバ危機は今でも記憶に残ります。
ウェブニュースより
フィデル・カストロ前国家評議会議長死去、各国指導者の反応 ―― 【11月27日 AFP】(更新)キューバのフィデル・カストロ(Fidel Castro)前国家評議会議長が25日に90歳で死去したことに対する世界の反応を集めた。
今年3月に歴史的なキューバ訪問を果たしたバラク・オバマ(Barack Obama)米大統領は「この並外れた人物が周りの国民および世界に与えた多大な影響は、歴史が記録し審判を下すだろう」と述べた。
ドナルド・トランプ(Donald Trump)次期米大統領はカストロ氏を「残忍な独裁者」と呼び、「フィデル・カストロの遺産は銃殺隊、窃盗、想像を絶する苦しみ、貧困、基本的人権の否定だ」と声明で述べた。
ロシアのウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領は、「この卓越した指導的政治家の名は、まさに現代世界史の一時代の象徴として認識される」とし「フィデル・カストロはロシアの誠実で信頼できる友人だった」と語った。
中国の習近平(Xi Jinping)国家主席は国営テレビで読み上げられた声明で「中国人民は優れた真の同志を失った」と述べ、「カストロ同志は永遠に生き続ける」と語った。
ベネズエラのニコラス・マドゥロ(Nicolas Maduro)大統領はツイッター(Twitter)に「彼の後を継ぎ、独立の旗を掲げるのはわれわれにかかっている」と投稿した。
シリアのバッシャール・アサド(Bashar al-Assad)大統領は「偉大な指導者フィデル・カストロは、帝国主義および覇権に反対する数十年に及ぶ人民と国家の闘いを指導した」と述べた。
ローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王は「彼が安らかに眠らんことを神に祈る」とのメッセージを送った。
国連(UN)の潘基文(バン・キムン、Ban Ki-moon)事務総長は記者団に「カストロ前国家評議会議長の下、キューバは教育、識字および健康の分野で進歩を遂げた」と語った。
ロシアのインタファクス(Interfax)通信によると、旧ソ連最後の最高指導者だったミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)氏は、「フィデルは立ち上がり、米国の厳しい制裁が続く中で彼の国を強くした。彼は途方もない圧力を受けていたが、それでも彼の国をこの制裁の渦中から独立した発展の道へと導いた」と述べた。
南アフリカのジェイコブ・ズマ(Jacob Zuma)大統領は「カストロ議長は、われわれの反アパルトヘイト闘争と共にあった。キューバ国民をわれわれの闘争に参加するよう奮い立たせてくれた」と、各国首脳の中でも特に温かい賛辞を贈った。「カストロ議長の思い出に敬意を払う一つの方法として、南アフリカとキューバの間に存在する連帯、協力、そして友情を維持し、育てていかなければならない」
フランスのフランソワ・オランド(Francois Hollande)大統領は、カストロ氏はキューバ革命の「希望」と「失望」の両方を体現したと声明で述べた。
インドのナレンドラ・モディ(Narendra Modi)首相は、「フィデル・カストロは20世紀最大級の象徴的人物の一人だった。インドは偉大な友人の死を悼む」とツイッターに投稿した。
フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)大統領は、カストロ氏は「欧米と帝国主義に反抗して立ち上がった」ことで偉大な人物になったと述べた。
パレスチナ自治政府のマハムード・アッバス(Mahmud Abbas)議長は、「彼は世界における正義の…断固とした擁護者であった」と述べた。
北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン、Kim Jong-Un)朝鮮労働党委員長は弔電を送り、カストロ前議長を、西半球で初めて真の意味で人民に支配権を持たせるために闘った「卓越した指導者」と称賛した。
国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)は、キューバ国内での表現の自由の状況はカストロ氏が残した中で「最も暗い遺産」だと述べ、「多数のキューバ国民が公共サービスを利用できるようにしたカストロの業績は、基本的自由の組織的な抑圧によって弱められた」と指摘した。 (AFP BBNEWS 2016年11月27日 10:45 発信地:パリ/フランス)
安倍首相、カストロ前議長死去に「哀悼の意」 ―― 安倍晋三首相は26日、キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長の死去を受け、「謹んで哀悼の意を表します。日本政府を代表して、キューバ政府及び同国国民、ご遺族の皆様に対し、ご冥福をお祈りします」とのコメントを発表した。
安倍首相は9月に日本の首相として初めてキューバを訪問し、カストロ氏と会談したことにも触れ、「世界情勢について情熱を込めて語られる姿が印象的だった」とした。会談では、北朝鮮問題や広島・長崎への原爆投下などについて意見交換した。
首相は、日本キューバ友好議員連盟会長の古屋圭司・自民党選挙対策委員長を政府特使として葬儀に派遣する方向で調整する。 (朝日新聞DIGITAL 2016年11月26日20時48分)
九州場所も鶴竜の優勝で終わりました。印象に残った相撲と言えば、何といっても14日目の、石浦vs正代戦でした。爺には正代の手が先に付いたように見えましたが、取り直しの末正代に軍配が上がりました。残念‼
https://www.youtube.com/watch?v=-ur0_qb-hUA
ウェブニュースより
大相撲九州場所 新入幕の石浦 初の敢闘賞 ―― 大相撲九州場所の三賞の選考委員会が福岡市で開かれ、2日目から10連勝を果たした新入幕の石浦が敢闘賞に初めて選ばれました。
三賞の選考委員会は福岡国際センターで開かれ、敢闘賞には東の前頭15枚目の石浦が初めて選ばれました。新入幕の石浦は2日目から10連勝を果たし11日目を終えて優勝した横綱・鶴竜とともに優勝争いのトップに立つなど、幕内最軽量の114キロの小柄な体で奮闘したことが高く評価されました。
また、敢闘賞には西の前頭3枚目の正代も選ばれました。正代は7日目に大関・稀勢の里を破るなど14日目までに自己最多の11勝を挙げたことが評価され、2回目の敢闘賞受賞となりました。
技能賞には小結の玉鷲が選ばれました。玉鷲は初日に横綱・日馬富士を破るなど力強い突き押しで1横綱3大関を破ったことが評価され、初めての三賞受賞となりました。
また、殊勲賞には1横綱3大関を破った東の前頭3枚目の遠藤が千秋楽の取組で勝ち越しを決めることを条件に選ばれました。遠藤が受賞した場合、三賞受賞は3回目になります。 (NHK NEWS WEB 11月27日 14時38分)
尚、人気力士の前頭3枚目遠藤(26=追手風)は、小結玉鷲(32=片男波)に突き倒しで敗れ、期待された勝ち越しを逃しました。勝てば殊勲賞に選出される一番でしたが、立ち合いが合わず玉鷲の勢いに押し込まれて7勝8敗。新三役の可能性もなくなりました。玉鷲は10勝5敗で技能賞を獲得しました。
ウリ科の一年生つる草、カボチャ属の野生種は新大陸のみに分布し、その多くはメキシコおよび中央アメリカで、11種に及ぶといいます。栽培種5種のうちニホンカボチャ、クリカボチャ、ペポカボチャは世界で広く栽培されています。
カボチャ類のもっとも古い記録はペポカボチャで、メキシコのTamaulipas(タマウリパス)の紀元前7000~前5500年の地層からは種子と果皮の一部が出土しています。ペポカボチャは考古学的資料からはメキシコとアメリカ西部に限定され、逆にクリカボチャはアンデスの高原地帯しか知られていませんでした。ニホンカボチャはペルーのHuaca Prieta(ワカ・プリエタ、ペルー北海岸チカマ河口の遺跡。紀元前2500年ごろから前500年ごろのもので、先土器時代から形成期中期の生活の跡をとどめる)の遺跡、ついでメキシコのTamaulipas(タマウリパス)の前1440~前440年の地層から発掘され、有史以前に南北アメリカに広がっていたことが知られています。新大陸の発見後、16世紀前半に世界に伝播(でんぱ)され、日本にもいくつかの経路で渡来したことが異名からわかります。九州の方言ボーブラはポルトガル語のabóbora(アボーボラ)に、ナンキン(南京)、トウナス(唐茄子)、カボチャ(カンボジア)はそれぞれ地名に由来するものです。
カボチャは、漢字では「南瓜」と書きますが、これは南京瓜の略語で、唐茄子とも呼ばれます。また、英語では「pumpkin(パンプキン)」といいますが、これはハロウィンなどで使用するオレンジ色のカボチャを指す言葉で、日本で良く見る緑色のものは、Squash(スクァッシュ)と呼ぶのが正解なんだそうです。
カボチャ(Canbodia abobora)もジャガイモと同じく産地名から出ていますが、新井白石(1657~1725年)は次のように述べています。
「南瓜、一名カボチャ、一名ボウブラ、カボチャは其出所の地名にて、ボウブラは瓜の変名なるべし(西洋紀聞)」
ポルトガル人が彼らの寄港地である東南アジアのカンボヂャから日本に持ってきたものです。戦国時代の末には既に栽培されていたようです。
カボチャはインドシナのカンボジャに由来し、abobora de Cambodia「カンボジャ産のうり」の前半を略したものかもしれないし、あるいはCanbodia abobora「カンボジャうり」の後半を略したものかもしれません。ところで、この略したabobora ですが、ポルトガル語ではabobra と言います。これを日本人がボーブラとして受け入れました。関西・九州方面では、このボーブラがいまでも「カボチャ」として通用されています。熊本民謡の歌詞の中にも「川端町ツアン キャア めぐらい 春日南瓜(ぼうふら)どん達ア しりひっ張って 花盛り 花盛り ピーチク パーチク雲雀の子 ゲンバクなすびの イガイガドン」とあります。
https://www.youtube.com/watch?v=cMDKvG5nZM4
「ハロウィン」と言えば、かぼちゃとセットで扱われるようになったのは、アメリカが始まりなのです。それまで「ハロウィン」で用いられるランタンにはカブが使われていました。しかし、ヨーロッパの人々がアメリカに渡って独自の文化が築かれる様になった際に持ち込まれた野菜の中で、数種類のカボチャがアメリカの土地に適した作物だったので、今ではカボチャはアメリカを代表する野菜の一つになりました。そのカボチャの中でも、特に色合いが良いオレンジや黄色のカボチャは「ハロウィン」の際に作られるランタンに最適の材料でした。そうして作られたカボチャランタンがアメリカからヨーロッパに渡り、カブより扱いやすくて見栄えの良い事からヨーロッパでも親しまれるようになりました。それがヨーロッパだけでなく世界に広まって、現在では「ハロウィン」の時に家の装飾やランタン専用のカボチャが栽培されるまでなりました。
最初はカブだったランタンも、アメリカで作られたカボチャのランタンが普及し、今ではカボチャランタンが一般的な「ジャック・オー・ランタン(jack-o’-lantern)」になっています。
なおスイカも南蛮人によって、日本へ持って来られたものです。西域(今の中央アジア)より渡来したので、西瓜でスイカ(唐音)と言います。大阪ではそのままサイカと言ったそうです。言語を伝えていませんが、おそらく最初は原語のまま呼ばれていたのではないでしょうか。
ザボンは、ミカン科の常緑小高木です。アジア南部原産で、果皮は厚く、砂糖漬けにします。果肉は淡黄色で、やや苦味があります。文旦(ぶんたん)ともいいます。ザボンの語源をパソコンの語源由来辞典で調べてみると、『ザボンは、ポルトガル語の「zamboa」から。当初は、「ザンボア」や「ザンボ」と原語に近い呼称であったが、転じて「ジャボン」となり、「ザボン」になった。これには、ザボンの粘液が水に溶けた石鹸のように泡が立つことから、「シャボン」との混同で「ジャボン」になったとする説と、単に発音のしやすさから転じたとする説がある。漢字表記の「朱欒(しゅらん)」は漢名からで、江戸時代には「座梵」という当て字も使われた。』とあります。
今から240年前(安永元年・1772年)に吹き荒れた春一番により、唐船(中国福建の船)が薩摩の阿久根に漂着しました。地元のあたたかいもてなしと物心両面の援助と協力により応急の修理も終わり、食料や飲料水を積み込んで目的地の長崎に向かいました。この際お礼にと船内に僅かに残っていた2個の朱欒(シュラン)、白欒(ハクラン)を唐通詞の原田喜右エ門に贈りました(朱欒は果肉の色が赤、白欒は果肉の色は白色・黄色)。このミカン(当時温州みかんはすでに渡来していました)の化物みたいな果実を番所の役人達は神妙に食べ、数人の役人達はその種子を持ち帰って自分の屋敷に播いて育ててみました。その種子から育った木に実ったミカンの王者を見て、昔お礼にと二個の果物を恥かしげに渡して去った船長の名(謝文旦)を思い出し、上二個の謝文(ザボン・またはジャボン)とか、下二字の文旦(ボンタン又はブンタン)と呼ぶようになったと伝えられているそうです。中国ではボンタンの事を柚子(日本の柚子とは別)と呼ぶそうです。
マーマレードは、オレンジなどの柑橘類の果実を原料としたものですが、ポルトガルで最初に作られたときの原料は marmelo(マルメロ、ポルトガル語、英語ではquince〈クインス〉)であったといいます。
マルメロの言語 marmelo に接尾辞の –ada をつけると marmelada となります。これがフランス語経由で英語に取り入れられて marmalade になったということです。しかし、マーマレードの由来には諸説があるようです。
1700年頃にスペインで誤って船一杯にbitter orange(ビターオレンジ、だいだい)を買ってしまったスコットランドの商人が悲嘆していたところ、奥方がこれを砂糖漬けの加工品にしたところ大変好評となり、その際に、庭で遊んでいた一人息子のメアーをMair Ma lad!(メアー、私の息子よ!)と手伝いに呼んだ事が由来とされた説、マリ・マラード(仏: Marie malade、病気のマリ)に綴りが近いことから、スコットランドのメアリー女王が腹痛の時に食べたから、あるいは、仮病を使ってでも食べたがったから、という民間語源説などです。
英語でも –ade という接尾辞は lemon(レモン) → lemonade(レモン水)のように使われます。
前回の菓子に続いて、ジャガイモとカボチャなどの野菜・果物について調べてみました。
日本原産とされる野菜で、確実なのは、フキ・ミツバ・ウド・ワサビ・アシタバ・セリぐらいです。
現在、日本国内で栽培されてる野菜は150種あまり、そのほとんどすべてが外来種です。ダイコン、ハクサイ、ネギ、キュウリ、ダイズは中国周辺。タマネギ、ニンニク、ソラマメ、ニンジン、ホウレンソウは中央アジアから中近東。キャベツ、レタス、アスパラ、セロリ、カブは地中海沿岸。カボチャ、サツマイモ、インゲン、トウガラシ、トウモロコシ、ジャガイモ、トマト、ピーマンは中南米。オクラや豆類、ゴマがアフリカ。
古い時代に日本に伝来したのもありますが、栽培するようになったのは多くが江戸時代以降です。外来種がその土地独自のものを駆逐していく歴史は近世以降、特に市場経済が発達した近代以降猛烈に加速したようです。
現在広く栽培されるジャガイモは四倍種で、アンデス山岳地帯のペルーとボリビアにまたがる標高4000メートルにあるティティカカ湖周辺で、西暦500年ころに栽培されていたものです。
それまでは数種の二倍種がペルー、ボリビアを中心にエクアドル、コロンビア、ベネズエラの限られた地域で栽培されていたといいます。この栽培四倍種のandigena(アンディゲナ)が南北に伝播(でんぱ)し、コロンブスの新大陸発見(1492年)当時にはメキシコからチリ南部に至る地域で栽培されていたそうです。アンディゲナは長日条件下ではいもが形成されませんが、この伝播の過程で、長日下でもいもを形成する、現在の栽培種tuberosum(テュベローサム)が成立したといいます。
旧大陸へは、1570年にメキシコからスペインに導入され、16世紀に広くヨーロッパの北方の国々に伝播しました。イギリスにはこれとは別に1590年に導入、北アメリカには1621年にヨーロッパから導入されました。インドには16世紀に、インドネシアや中国には16世紀にオランダ人により導入されたそうです。日本には1601(慶長6)年に、ジャカトラ港(現在のジャカルタ)からオランダ船によって長崎県の平戸(ひらど)に運ばれたのが最初で、ジャガタライモと名づけられました。それが略されてジャガイモとよばれるようになったそうです。
「馬鈴薯」(ばれいしょ)という呼び名もよく用いられますが、これは中国での呼び名のひとつと漢字が同じで、中国語で読むとマーリンシュー(ピン音mǎlíngshǔ)となります。18世紀に日本人の小野蘭山が『耋筵小牘』(1807年)で命名したといわれていますが、中国名をそのまま輸入したものなのか、新しく付けた名前がたまたま中国名と同じだったのか、それとも蘭山の命名が中国に伝わったのかは明らかではありません。
寛政(かんせい)年間(1789~1801年)にはロシア人が北海道や東北地方に伝え、エゾイモの名で東北地方へ広がっりました。日本でも最初はヨーロッパ同様観賞植物扱いでしたが、その後飢饉(ききん)のたびに食糧として関心が高まりました。甲斐(かい)(山梨県)代官中井清太夫(せいだゆう)の尽力により、食糧難を乗り越えたことから「清太夫いも」の名でよばれたこともあるなど各地に逸話が残っています。
こうして19世紀後半の幕末までには救荒作物として全国的に広がりました。しかし本格的に普及したのは、明治初期に北海道開拓使などがアメリカから優良品種を改めて導入してから以降のことであるといいます。ジャガイモは英語ではハイチ島起源のpotato という言葉を、スペイン語経由で借り入れて使っており、これが日本語にもポテトとして入っています。フランス語ではこれを pomme de terre(ポム・ドゥ・テール)と訳し、オランダ語でも aardappel(アールダップル)と呼んでいるそうです。どちらも「大地のリンゴ」と言う意味で、英語で言えば earth-apple となります。茨城などの方言に見られる「アップラいも」と言うのはこのオランダ語のaardappel の後半を取り入れて、それに「いも」を付けたものでしょう。
昨日は朝から雪、浅草ではほとんど積雪は見られませんでしたが、一日中家の中に引きこもっていました。何と11月の初雪は54年振りだと言います。
ウェブニュースより
都心11月積雪、史上初=鉄道一部に乱れ-関東甲信、大雪注意 ―― 関東甲信では24日午前、雨や雪が降った。東京都心では初雪となり、北の丸公園で午前11時に気象庁職員が積雪を観測した。都心の11月の積雪は1875年の統計開始以来初めて。気象庁は昼すぎにかけて関東の山沿いと甲信で大雪となり、関東の平野部でも雪が積もる所があるとして、交通の乱れや路面の凍結などに注意を呼び掛けた。
前線を伴う低気圧が伊豆諸島付近を東に進む一方、関東甲信の上空に真冬並みの寒気が南下して冷え込んだ。都心の11月の初雪は1962年以来54年ぶりで、平年より40日早い。統計史上、最も早い初雪は1900年11月17日だった。
24日正午の積雪は、長野県軽井沢町23センチ、山梨県富士河口湖町21センチ、埼玉県熊谷市4センチ、千葉市2センチなど。
JR東日本によると、雪の重みで垂れ下がった木の枝が架線に触れそうになるなどして、中央、青梅、八高各線の一部区間で運転を見合わせた。私鉄も京王線や小田急線が一部運休するなどし、通勤、通学の足に影響が出た。
25日正午までの24時間降雪量は多い所で、甲信15センチ、関東北部の山沿いや神奈川・箱根から東京・多摩、埼玉・秩父が3センチ、関東平野部2センチと予想される。 (jiji.com 2016/11/24-13:16)
東京都心で異例の雪 この冬シーズンはどうなる? ―― 実に54年ぶりに都心で11月の初雪。さらには11月としての積雪は観測史上初!こうなるとこの冬はどうなるのか気になるところです。東京で雪が降る日が多くなる!? とは簡単には言えません。今回の雪が異例のわけ。今年の日本の雪の降り方について見解をお伝えしておきたいと思います。
今回、首都圏では異例の早さで「しっかり」雪が降ったのは、例年1月や2月にみられるような、大雪になる気象条件が重なったからです。
関東平野で雪の目安となる寒気は上空1,500m付近で-3℃。南海上を低気圧が進むパターンでは、地上付近の冷たい空気が流れ込みやすく、日本海側の雪の目安と言われる-6℃より高い気温でも雪となります。さらに地上付近が乾燥していると、落ちてきた雨が蒸発する時に多くの熱を奪って気温が急降下。一層、雪が降りやすくなります。関東平野で雪の目安となる寒気は上空1,500㎡付近で-3℃。南海上を低気圧が進むパターンでは、地上付近の冷たい空気が流れ込みやすく、日本海側の雪の目安と言われる-6℃より高い気温でも雪となります。さらに地上付近が乾燥していると、落ちてきた雨が蒸発する時に多くの熱を奪って気温が急降下。一層、雪が降りやすくなります。
つまり、上空の寒気(真冬の大雪レベル)がきたところに、南岸低気圧(雪のもと)が発生して雪が降ったわけです。このように、真冬レベルの寒気と南岸低気圧が揃うことはめったにありません。(だから54年ぶりという話になったのですが)
当初注意していたような「どっさり積雪」とまではいきませんでした。これは、
・地面の温度が真冬ほど冷たくなかった
・降り出しは雪の予想だったが、雨で降り出し、雪の時間が短くなった
・湿度が高く湿った雪だった
・雨によって路面が濡れていたため融けて積雪しにくかった。
という事が想定されます。
今回も観測データやモデルの予想などに加えて、「人間の五感」も非常に優れたセンサーの一つとして、刻一刻と変わる雪の状況を追跡していましたが、多くの人は朝8時の時点で「積もらない」と感じていました。
しかし、まだ油断はできません。この冬はどうなるのか?
●寒気は降りてきやすい状況
先日ウェザーニュースが発表した、この冬の降雪予想によると、今シーズンは、弱いながらもラニーニャ現象の影響で、寒気の流れ込みが平年並か平年より強くなって、各地の気温は平年並か平年より低い日が多くなるとのこと。また、ラニーニャ現象の時は、西日本にも強い寒気が流れ込みやすくなるのが特徴です。「関東の人、大変だなぁ」と今回の大雪ニュースをみていた西日本の方も油断できません。
●特に年末年始は注意
よく年末寒波とも呼ばれますが、今シーズンも年末年始は強い寒気が南下し、北〜西日本の日本海側で大雪となる恐れがあります。また関東平野部で積雪リスクが高まるのは1月中旬~下旬です。この時期に、冬型の気圧配置が弱まるタイミングで日本の南岸を低気圧が通過すると、東京をはじめ関東南部の平野部でも雪が降り、積雪の恐れがあります。
●雪への意識・対策をしっかりと
今回の雪は「初雪」ということもあって、首都圏のみなさんは本格的な冬の風物詩として感じた方も多いと思います。ただし、これからが冬の本番。雪にめっぽう弱い首都圏への雪のリスクは、年を越してから高まっていきます。雪への意識・対策をしっかりとしていきましょう。 (2016/11/25 01:31 ウェザーニュース)
昨日は勤労感謝の日で、二の酉と重なり、淺草の鷲神社周辺は大変賑わったと言います。
勤労感謝の日が制定される以前は、「新嘗祭」が行われていました。新嘗祭は古くから国家の重要な行事であり「瑞穂の国」の祭祀を司る最高責任者である大王〔おおきみ〕(天皇)が国民を代表して、農作物の恵みに感謝する式典でした。「新嘗」とはその年収穫された新しい穀物のことをいいます。農業中心の時代、この行事はとても重要な儀式でした。
「勤労感謝の日」は1948年に定められましたが、この日を制定するにあたては、元々の「新嘗祭」として祝いたいなど様々な意見があったようです。しかし「労働」とは本来「農業に従事して生産を行うもの」だけを言うのではなく、今日のサービス産業なども含めた幅広い意味を持つことから「新嘗祭の日」という考えは却下され、現在の「勤労感謝の日」が制定されました。
勤労感謝の日はアメリカの「Labor Day(直訳:勤労の日)」 の影響を受けているのでは、という説があります。しかしアメリカのLaborDayは9月の第1月曜で、「勤労感謝の日」とは大きなずれが生じます。アメリカにはLaborDayのほか、11月最後の木曜日に「Thanks Giving Day(感謝の日)」があります。
日付や新嘗祭との関係を考えると、こっちの解釈の方がしっくりきます。しかし、日本の勤労感謝の日はあくまでも収穫を祝うだけではなく、広義の意味で「日々の勤労に感謝する日」なのだということです。
夕飯支度の時間と重なるので、ここの所大相撲もゆっくり見れません。今場所は何といっても幕内最軽量の石浦の活躍です。
ウェブニュースより
新入幕で10連勝、石浦の夢 病と闘う戦友との「横綱土俵入り」 ―― 大相撲九州場所で新入幕ながら10連勝している幕内最軽量の石浦(宮城野部屋)。そんな石浦を突き動かす、夢があります。
中学時代から一緒に稽古を積んできたライバルであり友と、横綱土俵入りで露払い・太刀持ちを務めることです。その力士とは……バセドウ病と闘いながら、十両に返り咲いた同部屋の力士・山口です。
破竹の十連勝:新入幕の石浦は身長173センチ、体重114キロ、幕内では最軽量の力士です。持ち味は、素早い立ち合いと思い切りの良い相撲。23日の11日目に、元関脇の実力者・妙義龍にも勝ち、2日目から破竹の10連勝。11日目を終えて、横綱鶴竜らと優勝争いする活躍に、観客からの期待は高まっています。大活躍の石浦は、この九州場所から横綱白鵬の露払いを務めています。横綱土俵入りの露払いと太刀持ちは、同じ部屋か一門の幕内力士が務めるのが慣例になっています。十両に返り咲いた山口が幕内に入り、石浦が幕内で相撲を取り続ければ、夢は現実になります。
石浦と山口、中学から大学まで切磋琢磨:2人は鳥取市立西中学校、鳥取城北高校、日大と同じ道を歩んできました。地元出身の石浦に対し、東京から鳥取に「留学」してきた山口は、高校横綱などアマ19冠に輝いた大器。中学1年の時点で身長170センチ、体重100キロもありました。一方、中学1年の時点で石浦は150センチ、50キロ。当時は重戦車のような山口の立ち合いに圧倒され、まわしにすら触れられませんでした。その後、高校、大学でも歯が立たなかった石浦ですが、山口との稽古で成長を感じていました。石浦は「山口より強いやつはいない。大きい力士の懐に入るスタイルの基本もできあがった」と語ります。日大卒業後、相撲をあきらめかけオーストラリアへ語学留学したこともある石浦。土俵に再挑戦したのも、山口の角界での活躍に刺激を受けたからでした。そして、同じ宮城野部屋に入門しました。
けが、バセドウ病、苦しむライバル山口:山口は入門後は幕下15枚目格付け出しから、所要3場所で新十両に昇進、幕内も1場所務めました。しかし、大きな挫折を味わいます。2年前の夏に十両から陥落。その後、腰のけがの手術をしたほか、バセドウ病になっていたことが発覚したのです。本来の力を全く出せず、一時は三段目まで番付を下げました。地道に復活を期し、先場所では幕下優勝。2年ぶりの十両に返り咲きました。「どん底」を見た山口の姿に心を痛めながらも、その復活を信じていたのが石浦でした。
夢まもなく「あとは自分次第」:先場所、山口が幕下優勝し十両復帰を濃厚にした時、石浦は山口との「露払い・太刀持ち」という夢について「あとは自分次第」と語っていました。
――山口の幕下優勝についての感想は?
驚くことはないです。(苦しんでいる山口のことを)あいつはもう終わったから、おまえが頑張れという人もいた。でも信じていた。口が苦しんでいる時は)何も声はかけなかった。自分の言いたいことも山口はわかっている。山口がどれだけ悔しいかわかっていたから。
――夢だった2人での露払いと太刀持ちが近づいています。山口は大丈夫なんで、あとは自分次第じゃないですか。
小兵ながら気迫あふれる相撲で注目されている石浦。闘志を胸に秘めながら、夢に向かって、一歩ずつ、進んでいます。 (withnews 2016年11月23日)
昨日早朝ブログを更新中に、部屋がガタガタと揺れ始めました。東北大地震の時ほどではなかったものの揺れは3~4分ほど続き、どこかでかなりの被害が出たことを思わせました。
ウェブニュースより
福島県でM7.4の地震発生、高さ3mの津波警報発令
2016年11月22日5時59分ごろ、福島県を震源とした地震が発生しました。マグニチュードは7.4(当初発表値は7.3)、福島県・茨城県・栃木県で震度5弱を記録。福島県には津波警報が発令され、高さ3mが予想されています。到達時刻は6時10分と予想されていますが、津波は予想よりも遅く来ることもあります。また、何波にもわたって来ることがあるので、くれぐれも注意してください。
気象庁|地震情報
http://www.jma.go.jp/jp/quake/20161122060518495-220559.html
2016年11月22日 5時59分ごろ 福島県沖 - 地震情報|NHK
http://www3.nhk.or.jp/sokuho/jishin/index.html?id=JSA0161122055652_20161122060530
ニュース同時提供中 | NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/live/
地震の震源は福島県沖で、深さは25km(当初発表は10km)。福島県のいわき市・白河市・須賀川市・南相馬市・国見町・鏡石町・天栄村・泉崎村・中島村・浅川町・広野町・楢葉町・双葉町・浪江町、茨城県高萩市、栃木県大田原市で震度5弱を記録しました。
また、以下の通り津波警報・津波注意報が発令されました。
【津波警報】
福島県 高さ3m 6時10分
【津波注意報】
宮城県 高さ1m 6時20分
茨城県 高さ1m 6時20分
岩手県 高さ1m 6時30分
千葉県九十九里・外房 1m 6時30分
時刻・高さはあくまで予想なので、沿岸部にいる人は今すぐに高台に避難してください。
NHKでは「すぐにげて!」「すぐ避難を!」のテロップが表示されました。
東北電力によると、女川原子力発電所では今のところ施設への被害はないとのこと。
東京電力によると、福島第一原子力発電所の注水状況やモニタリングポストへの変化はなく、福島第二原子力発電所では施設の被害はないとのこと。
日本原子力発電によると、東海第二発電所は運転停止中でこの地震による異常はなく、モニタリングポストの値にも変化はないとのこと。 (Gigazine 2016年11月22日 06時15分00秒)
3.ボーロ (葡: bolo) とは、ポルトガル語においてはケーキを主とする菓子の総称であり、特定の菓子の名前ではありませんが、日本においては小麦粉、砂糖、卵、牛乳を材料とした南蛮焼き菓子のことをいいます。日本には16世紀に伝えられ、江戸時代の『古今名物御前菓子秘伝抄』などの菓子の製法書に製法が残されていますが、当時の材料には卵は用いられていませんでした。次第に材料に胡麻や大豆などを用いる工夫も重ねられ、造形も王冠、あるいは花びらのような形に成形された花ぼうろとして親しまれていた様子が『名代干菓子山殿』や『小紋裁』に記述されていますが、成形の手間などから次第に廃れ、現在その痕跡は沖縄県の花ぼうるとしてみるに留めます。これは他のボーロと異なり複雑な形をしていて、食感はクッキーに近いもののようです。現在では小麦粉の他にもそば粉や片栗粉を主原料とし、卵、砂糖などを加えてこね、成型してから焼き上げられます。一般的にはカリッとした軽い歯ざわりと口中でさらりと溶ける食感が特徴ですが、中にはカステラのようにしっとり焼き上げたものもあります。 形としては丸めてから平たくしたものや、小粒のものなど様々であり、販売される商品名も「乳ボーロ」「丸ぼうろ」「たまごボーロ」「ミルクボーロ」「ベビーボーロ」「そばぼうろ」「松葉ボーロ」(島根県津和野町など。「松葉」と呼ばれることも)「堅ボーロ」(滋賀県長浜市)など様々な名称で広く市販されています。 「丸ぼうろ」は佐賀市の銘菓であり、佐賀をはじめとする九州の土産菓子として有名です。
4.カルメラ(葡: caramelo)はカルメ焼き、かるやきとも呼ばれています。いわゆる駄菓子の一種で、今日でもお祭や縁日の露店などで稀に見掛けることができます。直径は10cmほど、厚みは4~5cmほどの「亀の甲羅」に似た中央が膨らんだ楕円状の菓子である。発泡させた飴のようなモノでもあり、サクサクした歯応えと濃厚な甘さ、加えてカラメルのような砂糖の焦げた風味があります。語源はポルトガル語の「甘いもの」(caramelo)によります。作るには砂糖を融かす熱源と砂糖を融かす型、そして攪拌するための割り箸や菜箸のような棒があればよいのです。材料は水・砂糖・重曹(膨らし粉)です。爺も子供の頃、おたまの中にザラメ砂糖を入れてガス代に載せて溶かし混ぜ棒の先に重曹をつけて素早くかき混ぜ、混ぜ棒を少しばかり持ち上げると溶けたザラメが膨らんでカルメ焼きが出来上がり、それをおやつに食べていたのを思い出します。作り方は単純で、ザラメまたは赤砂糖(三温糖)に少量の水を加え加熱して融かし、125℃になったら重曹を加えて手早くかき混ぜ、炭酸ガスで発泡したところで、冷やしながら軽石状に固めたものです。古くは重曹の代わりに卵白を用いていたといいます。ただ、砂糖と水の分量や、火から下ろすタイミング次第では失敗することがあります。冷やす際には、水に濡らしたタオルの上に形を押し当てながら、溶けた砂糖が発泡状態のまま固まるようにさせます。
5.アルヘイトウ(葡: alféloa)は、砂糖を煮て作られた飴の一種で、南蛮菓子の一つです。金平糖と共に、日本に初めて輸入されたハードキャンディとされています。阿留平糖、金花糖、氷糸糖、窩糸糖とも呼ばれます。語源にはポルトガル語のアルフェロア(alféloa;糖蜜から作られる茶色の棒状の菓子)とする説とアルフェニン(alfenim;白い砂糖菓子)とする説とがあります。製法は、原料の砂糖に少量の水飴を加えて煮詰め、火からおろした後に着色や整形を行って完成させる。初期の頃は、クルミのように筋がつけられた丸い形をしていましたが、徐々に細工が細かくなり、文化・文政期には有平細工(アルヘイ細工)として最盛期を迎えました。 棒状や板状にのばしたり、空気を入れてふくらませたり、型に流し込んだり、といった洋菓子の飴細工にも共通した技法が用いられます。江戸時代、上野にあった菓商、金沢丹後の店の有平細工は、飴細工による花の見事さに蝶が本物の花と間違えるほどとされました。有平糖は茶道の菓子として用いられることが多く、季節ごとに彩色をほどこし、細工をこらしたものが見られます。縁日などで行われている即興的な飴細工とは異なるものです。一方、技巧が進化し高価なものとなってしまった有平糖を、見た目よりも味を重視して廉価にしたものとして榮太樓本店の「梅ぼ志飴」や、村岡総本舗の「あるへいと」などがあります。
6.コンペイトウ(葡: confeito)は、戦国時代にポルトガル人が西日本へ来航し、南蛮の諸文物がもたらされました。永禄12(1569)年にキリスト教・宣教師のルイス・フロイスが京都の二条城において織田信長に謁見した際に、献上物としてろうそく数本とフラスコ(ガラス瓶)に入った金平糖が差し出されたといわれています。江戸時代初期には慶長14(1609)年に佐賀藩の『坊所鍋島文書』に「金平糖一斤(600グラム)」が記されており、慶長18(1613)年に平戸の松浦鎮信の病気見舞いに贈られたといいます。さらに、寛永14年(1637年)の長崎・平戸のオランダ商館長日記に拠れば、ポルトガル船により「各種金平糖3000斤(1800キロ)」が運ばれており、京都などに流通して献上品として用いられていたといいます。江戸中期の元禄元(1688)年に刊行された井原西鶴の『日本永代蔵』の中で長崎において金平糖作成を試みる話が記されており、中国人もその製法を知っていたといいます。なお、西日本では佐賀藩で元禄3(1690)年から三度に渡る贈答の事例があります。18世紀には、庶民の間にも普及していたようです。
余談になりますが、爺が子供の頃、餓鬼どもの間で「いろはに金平糖 金平糖は甘い 甘いはお砂糖 お砂糖は白い 白いはうさぎ うさぎははねる はねるはかえる かえるは青い 青いはお化け お化けは消える 消えるは電気 電気は光る 光るはおやじの はげあたま」というわらべ歌? が唄われていました。
聖母マリア像とともに、南蛮渡りの珍しい食べ物がお目見えして、すっかり日本人を魅了してしまいます。現代のわれわれにも身近なものが沢山あります。
はじめに菓子の話から始めることにしましょう。もともと菓子は果子で現代の水菓子(くだもの)が本体でした。従って、第十一代垂仁天皇の時、田道間守(たじまもり)が朝鮮から橘の木を持ってきたのが、日本の菓子の始まりというわけで、爺の小学生の頃には唱歌で「田道間守の歌」までありました。
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/s_kokumin/s1_tajima_mori.htm
しかし、果子でない菓子も奈良時代から見え唐果物(からくだもの)と呼ばれました。饅頭・羊羹(蒸し羊羹は江戸時代)・志留粉餅などは鎌倉・室町時代に中国から僧侶により日本にはいって来ました。さびしかったおやつもこれらによって余程潤ったことでしょう。康永2(1343)年には京都に菓子の組合ができたほどでした。ここにいよいよ「南蛮菓子」が登場するのです。解りやすく一覧にしてみましょう。
1.パン(葡: pão、英:bread ブレッド) 2.カステーラ(葡: Castella)
3.ボーロ (葡: bolo) 4.カルメラ(葡: caramelo)
5.アルヘイトウ(葡: alféloa) 6.コンペイトウ(葡: confeito)
1.パン(葡: pão、英:bread ブレッド)は基本的に、小麦粉やライ麦粉などに水・酵母(イースト)を加えてパン生地(en:dough ドウ)にし、それを焼いた食品を指します。発酵のためのイーストと糖類(砂糖など)をセットで加えることも一般的です。なお、酵母を入れずに生地をつくるパンもあり、これを「無発酵パン」や「種なしパン」などと言います(その場合、酵母で発酵させてから焼いたパンのほうは「発酵パン」と言います。)。無発酵パンとしては、生地を薄くのばして焼くパンがあり、アフリカ・中東からインドまでの一帯でさかんに食べられています。なお、生地を発酵させるのは主として気泡を生じさせ膨張させるためですが、酵母で時間をかけて気泡を生じさせる代わりに、ベーキングパウダーや重曹を加えることで簡便に気泡を生じさせるものもあります。また、生地にレーズン、ナッツなどを練り込んだり、別の食材を生地で包んだり、生地に乗せて焼くものもあります(変種として、焼く代わりに、蒸したもの(蒸しパン)、揚げたもの(揚げパン)もあります。) 。パンは多くの国で主食となっています。アブラハムの宗教では儀式(ミサ)において用いられます。
日本ではドン・ロドリゴ(Don Rodrigo)の呼び名で知られるロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルッサ(Rodrigo de Vivero y Aberrucia、1564年 - 1636年)は、エスパーニャ貴族、植民地政治家で、江戸時代初期に日本を訪れた人物ですが、江戸時代初期に遭難して日本に漂着した際の見聞をまとめた『ドン・ロドリゴ日本見聞録』によれば、「江戸Jendo市は日本の他の市のごとく、多数の住民をもたないが、これを有名にさせる特別な点がある。此市は住民十五万をもち、海水その岸をうち、また市の中央に水多い川流れ、相当に大きい船が入る。パンpãnは果物と同じく、常食外の品として用いるに過ぎないが、此市で造るパンは世界中最高のものというのも過言ではない。そしてこれを買うものが少ないゆえにほとんど無料に等しい。此市および街路には見るべきものがはなはだ多く、市政もまた大いに見るべきところがある。ローマの政治と争そうことが出来よう。――ドン・ロドリゴ、日本見聞録――」とあります。これは、パンの名のごく古い記録と言われています。
2.カステーラ(葡: Castella)は漢字表記で「家主貞良」「加須底羅」と書きますが、、鶏卵を泡立てて小麦粉、砂糖(水飴)を混ぜ合わせた生地をオーブンで焼いた菓子のひとつです。名前の由来は一般的には、スペインの地方名カスティーリャ(Castilla)のポルトガル語発音であるカステーラ(Castela)と言われています。また異説として、カステラ製造過程でのメレンゲを作る際、高く高く盛り上げる時「城(castelo)のように高くなれ!」と言ったことから、カステロ=カステラとなったという説もあります。いずれにせよ、パン・デ・カスティーリャ(pão de Castela、カスティーリャ地方のパン)や、ビスコチョ(元は乾パン状の船乗りの保存食だったが、16世紀末頃、柔らかく焼き上げるレシピが生まれています)が由来とされます。ポルトガルの焼菓子であるパン・デ・ロー(pão de ló)が製法的に似ていることから、こちらを始祖とする説も有力です。
(以下、次回へ)
キリシタンの渡来によって南蛮流の医術をはじめ、西欧の学問や文化も紹介されました。Rhetorical(レトリカ、修辞学)、philosoph(ヒイロソヒァ、哲学)、Logica(ロジカ、論理学)、Mathematica(マテマチカ、数学)などの学問名もその一端でした。anima(アニマ、霊魂)、paraíso(ハライソ、天国)などのラテン語やポルトガル語が言語のまま、かなり自由に日本人に用いられたようです。キリシタンは日本語に対して深い関心をもっていましたが、すべては布教のためでした。天正18(1590)年、七月、ローマへの少年使節を連れて日本へ帰ってきたヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)は印刷機を土産として持って来ていました。以後、長崎や天草でローマ字による説教書や日本古典が刊行されたのです。
ポルトガル人の種子島漂着以来、ポルトガル人やイスパニア人がキリシタン宣教師として日本にやってきましたが、神の教えを説くだけでなく、商売もやりました。彼らと共に珍しい西洋の品物が入ってきたのです。次回からはこれらの品物について、調べてみようと思っています。
トランプ・安倍会談にも臨席していたトランプ氏の長女イバンカさんがしていた高級ブレスレットが問題になっているようです。
ウェブニュースより
トランプ氏長女のブレスレットに批判 「政治を利用」 ―― トランプ次期米大統領の長女イバンカさん(35)がテレビのインタビューで付けていた、金とダイヤモンドで装飾した1万800ドル(約120万円)のブレスレットが物議を醸している。自らのブランド品を政治の舞台を利用して売り込もうとしているとして批判にさらされている。
問題になっているのは、トランプ氏が当選後にCBSニュースのインタビューで出演した際、同席したイバンカさんが身につけていたブレスレットだ。
番組出演後、自身のブランド「イバンカ・トランプ・ファイン・ジュエリー」の副社長が「流行速報」として記者らにメールを送付。イバンカさんがブレスレットをつけて番組出演した写真とともに、「あなたのクライアントにも情報を共有してほしい」と商品を売り込んでいた。
これをニューヨーク・タイムズ紙など米メディアが、個人的な事業に政治を利用しているとして一斉に批判。宝飾品や家具、ホテルなど手広く事業を手がける「トランプ・ファミリー」がビジネスと政治をどう切り分けるのか、様々な議論を呼びそうだ。 (朝日新聞デジタル 2016年11月17日 07時09分)
sechin@nethome.ne.jp です。
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