瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[179] [180] [181] [182] [183] [184] [185] [186] [187] [188] [189]

 江戸の初期に石田未得(1587~1669年、松永貞徳の門人で、俳人・狂歌師)という人の著した「吾吟我集(ごぎんわかしゅう、古今和歌集をもじり、部立てもそれに倣う)」に
 また飛びぬ 女と男とあはれ ぬし知らじ 死ぬれば跡を とめぬ人魂
(またとびぬ めとをとあはれ ぬししらじ しぬればあとを とめぬひとだま)
という廻文歌が記載されています。廻文歌とは「上から読んでも下から讀んでんも同じ文句の歌」をいいます。私達も子供の頃から「しんぶんし」「竹藪焼けた」「確かに貸した」などの回文をよく口にしたはずです。これもやはり中国の回文を手本にして出発したものといわれています。
 ヨーロッパでも西暦87年ヴェスヴィオ火山の噴火によって滅亡したヘルクラネウムの街の遺跡に「Sator Arepo Tenet Opera Rotas」というラテン語の回文が刻まれている事から、回文の起源は少なくとも西暦79年またはそれ以前まで遡る事ができます。英語では「Madam, I'm Adam」(マダム、私はアダムです)のような例が知られています。

 また、ナポレオンの言葉をもじった ABLE WAS I ERE I SAW ELBA(エルバ島を見るまでは不可能ということを知らなかった ere=before )というのもあります。

 日本でも歴史は古く和歌から発生していったと考えられているようです。「奥義抄」(藤原清輔・12世紀)にある次の回文歌も古いものの一つです。
 むら草に草の名はもし備はらば何(な)ぞしも花の咲くに咲くらむ
(むらくさにくさのなはもしそなはらばなぞしもはなのさくにさくらむ)

 回文は言葉のあやが中心ですから、名歌などなかなかありません。しかし、落語などによく出て来る次の和歌などはかなりの人々に迎えられたらしく、長く歌われています。
 長き夜の 遠の睡ねむりの 皆目醒めざめ 波乗り船の 音の良きかな
(なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな)
 これを枕の下に敷いて、初夢を見るというのが江戸時代の庶民のならわしでした。

 出典元や意味・解釈については、いくつかの説があります。出典元として有力な文献に、室町時代の通俗辞書『運歩色葉集』(著者未詳。1548年に成立)、中国(当時:明)の『日本風土記』(1592年)があります。このことから風習そのものは、16世紀後半に広まり行われたものであったとされます。

 回文は和歌のほか連歌や俳諧でもさかんにおこなわれました。ここでも庶民階級の勃興をもって一般化します。江戸初期、貞門派(松永貞徳(1571~1654年)によって提唱された俳諧の流派)の俳諧は言語遊戯に重きを置いたので回文俳句が数多く作られました。和歌と違って文句が短くなるので無理も少なく作りやすかったのでしょうね。
1、冷えの気さむく酌酒(くむさけ)の酔(ゑひ)
2、ねふりつ乗は春の釣り船
3、今朝皆はのめや菖蒲(あやめ)の花見酒
4、春来るは百鳥(ももとり)共も春来るは
5、鴨か小鴨か鴨か小鴨か
6、灸(やいと)いやもぐさくさくも灸いや
 いくらか鑑賞にたえる句もありますが、所詮は遊びなのです。コトバが優先している姿をはっきり認めることが出来ましょう。中でも5、6のようにkとg音のくり返しや、y、i、m音のくり返しだと舌がもつれていわゆる「早口言葉」に展開していきます。
 親鴨が生米かめば小鴨が小米かむ 生米生麦生卵 の類です。


 


 昨日は浅草は伝法院通りの地口行灯について記しましたので、もっと詳しく写真でお目に掛けます。

 約200メートルの伝法院通りには、名所や見どころがたくさんあります。今日は鎮護堂(おたぬきさん)の縁日に飾られたという地口行灯を写真で堪能してください。


 


 謎は「何ぞ?」と呼びかける語の名詞形ですが、単なる言葉遊びとは違いかなり高度なもので、一種のmental exercise(メンタル・エックスサイズ)といったものです。信仰に関連があり、巫子(みこ)の使う隠語、忌み詞の類に近かったものとわれます。
 奈良末期の歌経標式(かきょうひょうしき)にもすでに謎々を織り込んだ歌がみられます。種々の歌の体を挙げて説明しているのですが、その中に譴警(けんけい、不正や過失を警告すこと)の歌というのがあります。譴警の語自体には、謎の意味はありませんが、譴警の歌の実体を見ると、謎の歌ということができます。
 禰須弥能伊幣 与禰都岐不留比 紀呼岐利弖 比岐岐利伊ダ須 与都等伊不可蘇礼
 ねずみのいへ よねつきふるひ きをきりて ひききりいだす よつといふかそれ
  鼠の家    米搗き篩ひ  木を伐りて 挽き伐りい出す 四つといふかそれ
 鼠の家=穴→あな(感動詞)、米搗き篩ひ=粉(こ)、木を伐りて挽き伐りいだす=火、四つ=シ。すなわち、穴粉火四、「あな恋し」となるのだとの説明がついています。

 謎の起源はかなり古く、主に上流階級によってなされたものと思われます。平安時代にはなぞなぞ物語・なぞなぞ合わせの語が現われますし、なぞの歌合せもあったようです。ここでも和歌がなぞの温床であったわけです。和歌から連歌、時代も平安・鎌倉・室町となるにつれ次第に盛んになったといいます。室町時代には「謎(なぞだて)」と読んでいたようです。この頃に出来たと思われる謎の本に「後奈良院御撰何曾」という本があります。

 十里の道を今朝歸る→ 濁り酒(五里が2つで十里、「けさ」の返りは「さけ」)
 酒の肴→ 袈裟(さけの逆名だからケサ)
 母には二度あ浸れど父には一度もあはず→ 唇(ハハfafaと発音するときは唇が二度あうが、チチchichiと発音するときは唇が合わない)
 腹の中の子の声→ 柱(はらの中の子だから〈は子ら〉となる子の声は子という字の音であり、子(シ)となる。そこで「ハシラ」となる)
 破れ蚊帳や→ 蛙(カイル、蚊いる)
 蝋燭の先足袋の中にあり→ 盥(たらい、らふそくの先で「ら」、その「ら」がタビの中にあるから、タラヒとなる)
   http://snob.s1.xrea.com/fumikura/motooriuchito_nazo/

 江戸時代の初期には「寒川入道筆記」(1613年刊)がありますが、これは松永貞徳(1571~1654年)の作ではないかと言われているものです。和歌や俳諧に関する見聞録、笑い話、巻末には「譴詰之事」(本によっては「謎詰之事」)と題して当時のなぞなぞが109題載せられており、俳諧のネタをためておくための作者のメモとしての意味が強いといいます。笑い話は、教養のない「うつけもの」の滑稽な受け答えを題材とするものが多いようです。なぞなぞとしては「親の教訓、叶わず」として、答えを「子持ち犬」(子用いぬ)とするなど洒落が利いているものが含まれています。先行する他の著作に含まれるなぞなぞも複数あり、すべてのなぞなぞを著者が創作したというわけではありません。謎の調子も和歌や連歌から離れて、庶民的となってきます。
 享保年間に入ると「何曽尽」とか「謎車氷室桜」などが出版され新しく、3段式の謎が登場します。
2段式のもの
 炎天の雁がね→ 彼岸(干雁)
 親が子に酒を盛る→ 木の芽(子飲め)
 盗人の渡し守→ すりこ木(掏摸漕ぎ)
 我が子田舎へ下る→ このたび(子の旅)
 我が女房は妃になる→ 薩摩(后はき先で、いろは歌で「き」の先が「サ」、我が女房は「妻」、全体で「サツマ」となる)
3段式のもの(~とかけて、~と解く、心は~の形式)
 浦島太郎の玉手箱とかけて 十二月三十一日と解く 心はあけると年を取る
 江戸見物とかけて 吉原のひやかしと解く 心は見ながら帰る
 扇の模様とかけて 明日の日和と解く 心はあけねば知れぬ
 蕎麦屋の手間取りとかけて 鬼子母神と解く 心は粉(子)だらけ
 月月とかけて 盃と解く 心は月代(さかやき)の月の字、月は月(つき)なり
 野次馬とかけて 池の中の金魚と解く 心は物好き(藻のすき)に出る
 若後家とかけて 張り子の虎と解く 心は大きな腹で手々(父)がない

 江戸時代の謎を点出してみましたが、謎とはいうものの推理を働かせるその源には、秀句や地口(添付図参照)の知識が必要だし、さらに縁語や懸詞、いろは歌や漢字の知識(音訓)など、日本語によく通じていなくてはなりません。また、歴史上の人物や事件、物語の主人公などについても一応の知識がないと謎は解けないということです。あらゆる点から当意即妙のウィットと日本語の理解が必要になります。

 謎は明治に入っても盛んでしたが、次第に言語遊戯の枠をはみ出して、考え物の感じが強くなってきます。やがては大人の世界からは忘れ去られ、単なる遊びになっていきました。


 


 一昨日の中公望からのコメントについて考えてみました。
 天皇家は万世一系と言いますが、天皇家の血統が何度か変わっているのは明白な史実ではないのですか? 皇族が渡来人の血統を引いているのも明白で、事実天皇もこれを認めている発言をしているようです。

 いやはや、万世一系と信じてる人が多いのは何故でしょうね。朝鮮系の人々を目の敵の様な扱いをする一部の差別主義者や天皇崇拝者はこの事実を知らないのでしょうか? それにあまり血統にこだわると同族結婚が多くなり皇族にとってもあまりいい結果を生むことにはならないのてはないしょうか? この爺にはどうでもいいことですが、この方々の考えでは皇族の人々は国際結婚も出来ぬということですね。まあ、競走馬や犬猫じゃあるまいし、このグローバルな時代に血統なんて持ち出すのは時代遅れもいい所じゃないでしょうか?

 シドニー在住のMihoちゃんからメールが入りました。曰く、
2016年9月27日19時11分着信 Re: ご機嫌如何
 節夫おじさん、道子おばさん
 お元気ですか?
 ありがとうございます。マットの肋骨はもうほとんどよくなり仕事も普通に復帰しています。


 おばさんも回復の方向に向かっているとのことでとても嬉しいニュースです。
 Ayanoちゃんはとても大人っぽくなりましたね。車の運転ができることになってとっても嬉しいんじゃないでしょうか。
 はるなは、9月の24日で3歳になりました!
 親戚でパーティーをしました。はるなは大喜びでパーティを楽しんでいました。料理やデザートをほとんど一人で作ったのでとっても大変でしたが、はるなにとって特別な日になってよかったです。
 来年の1月からプリスクールという幼稚園のようなものに1週間に2日行く予定です。
 写真をウェブサイトにアップデートしました。リンク先をクリックすると見れます。
 では、このへんで。
 お体に気をつけてお過ごしください。


 https://www.flickr.com/gp/131308319@N05/aX3S05
 https://www.flickr.com/gp/131308319@N05/961bM0
  みほ


奈良時代以前には日本語を表す文字が出来ていなかったため、古代の日本人は、中国から輸入した「漢字の読み方(音や訓)」を工夫して、日本語を書き記していました。
 例えば「山」のことを『万葉集』では「八万・也末・野麻」、『古事記』では「山・夜麻」と表記しています。こうした表記法は、特に万葉集において発達し、「万葉仮名」と呼ばれています。
 


 早くも、そこに「ことば遊び」が見られるのです。例えば、「恋」を表記するのに、「古非」「古比」とあるだけでなく、「孤悲」の字を用いた例がかなりあります。このように、漢字の音だけでなく意味を考えて表記する試みが随所に見られ、今日の「当て字(倶楽部・目出度い・型録など)」に近い、すぐれた言語感覚による「仮名遊び」と言えます。こうした、「戯れ〈たわむれ〉」を意図した「万葉仮名の用字法」を「戯書」(戯訓)と呼び慣わしています。
 『万葉集』にはこうした「戯書」と呼ばれる「ことば遊び」が多く見られます。

① 巻9(1787) 笠金村(生没年不詳)の長歌
 天平元年己巳冬十二月の歌一首并せて短歌 (笠金村)
 虚蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥 礒城嶋能 日本國乃 石上 振里尓 紐不解 丸寐乎為者 吾衣有 服者奈礼奴 毎見 戀者雖益 色二山上復有山者 一可知美 冬夜之 明毛不得呼 五十母不宿二 吾歯曽戀流 妹之直香仁
読み) 現世(うつせみ)の 世の人なれば 大王(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 礒城嶋(しきしま)の 日本(やまと)の国の 石上(いそのかみ) 振(ふる)の里に 紐解(と)かず 丸寝(まるね)をすれば 吾の衣(き)る 服(ころも)は穢(なれ)ぬ 見るごとに 恋はまされど 色(いろ)に出(い)でば 人知りぬべみ 冬の夜の 明(あ)かしもえぬを 寝(い)も寝(ね)ずに 吾はぞ恋ふる 妹が直香(ただか)に
訳) 現世の世を生きる人なので、大王の御命令を謹んで承って、礒城嶋の大和の石上の布留の里に上着の紐を解くこともせず、ごろ寝をすると、私が着る服はよれよれになった。貴女が紐を結んだこの衣を見る度に恋心は増さるけど、表情に出せば人は知るでしょう。冬の長き夜の明かし難いのを寝るに寝られず、私は恋慕う、愛しい貴女の目に映る姿に。
用字: 「山上復有山」を「出で」と読ませています。「山上復有山」を訓で読むと「山の上に復た山あり」です。「山」の上に「山」を載せると「出」となる、「出」の漢字を分解した「ことば遊び」です。

②       巻7(1189) 作者不詳の「羇旅の歌」
  大海尓 荒莫吹 四長鳥 居名之湖尓 舟泊左右手
讀み) 大海(おほうみ)に嵐(あらし)な吹きそしなが鳥猪名(ゐな)の湖(みなと)に舟泊(は)つるまで訳)  大海に嵐よ、吹くな。しなが鳥が居る、その言葉のひびきのような猪名の湊に船が泊まるまで。
用字: 「左右手」を「まで」と読ませています。「ま」=「真」で「完全なもの」を意味します。「左右手(両手)」で「真手」となるわけです。普段から両手で何かすることを「真手(まで)」と言っていたのでしょうか。それを「~するまで」という助詞の用法に当てはめたのです。これも読む人への挑戦、クイズだったのでしょう。他にも、「諸手」「二手」で「まで」と読ませています。

③  巻十一(2542) 作者不詳の「正に心緒(おもひ)を述ぶる歌」
  若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國
讀み) 若草の新(にひ)手枕(たまくら)を枕(ま)き始(そ)めて夜をや隔(へだ)てむ憎くあらなくに訳)  若草のような初々しい貴女と手枕での共寝を始めた、そんな夜の訪れに間を置くでしょうか。嫌いでもないのに。
用字: 「二八十一」を憎く」と読ませます。「二」=「に」、次の「八十一」を「くく」と読ませるのです。言うまでもなく「九九=八十一」のかけ算です。こうした「漢数字を使った戯書」は多く見られます。他には、「猪(しし)」を「十六」で表すもの、「三五月」を「望月(満月)=十五夜」と読ませるものがあります。

④  巻一(48) 「伊勢国に幸しし時、京に留まりて柿本朝臣人麻呂(660?~724年)の作れる歌」
  東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
讀み)「東(ひむがし)の野に 炎(かぎろひ)の 立つ見えて かへり見すれば 月〔五文字〕」
訳) 東の野原を見れば空を真っ赤に染めていままさに朝陽が昇ろうとしている。振り返って西の空を見ればまだ月が沈まずに残っている。
用字:有名な柿本人麻呂の歌です。暗記している人も多いでしょうね。「月西渡」を何と読んでいましたか? 恐らく「月傾(かたぶ)きぬ」と覚えていた方が多いでしょう。賀茂真淵が読んだ訓で、月が「西へ渡る」を「傾く」と読むセンスは「さすが」という感じですが、この読み方、「なおも問題あり」で専門家には「暫定的な読み」と考えられているようです。
 まだまだ『万葉集』も読めていない歌が何首もあります。万葉人が残した「謎解き」解明すべき課題はまだまだ残されているといいます。

⑤       巻十二(2991) 作者不詳の「物に寄せて思い陳ぶ歌」
  垂乳根之 母我養蚕乃 眉隠 馬聲蜂音石花蜘蛛荒鹿 異母二不相而
讀み) たらちねの 母が飼ふ蠶(こ)の 繭隠(まよごも)り いぶせくもあるか 妹に逢はずして
訳)  “たらちねの”母親に飼われるカイコが、繭にこもっている。せつないよ。あの娘に会えないので!(あの娘は母親の監視が厳しくて、家から一歩も出られないよ)
用字:心が晴れない様子を「いぶせく」と言います。なぜ、「馬声蜂音石花蜘蛛荒鹿」を「いぶせくもあるか」と読めるのでしょうか。「馬声」=「イ」/「蜂音」=「ブ」/「石花」=「セ」/「蜘蛛」=「クモ」/「荒鹿」=「アルカ」と分けて読むのだそうです。つまり、「イブ」に「馬声蜂音」の擬音を当てた「ことば遊び」です。奈良時代にあっては、馬のいななきを「イ」「イイン」と聞いていたらしいですね。蜂の羽音は「ブブブ…」でしょう。当時の「音」の感覚がわかる便利な「万葉仮名」です。
 石花は「セ」と読み、牡蠣・かめのて・珊瑚などの事を著すと言います。駿河湾の真ん中辺りを石花海(せのうみ)と言うそうです。
 なお、この一句を「すべて動物につながる漢字(馬、蜂、牡蠣、蜘蛛、鹿)」で表記してあるのも、万葉人の「遊び心」と言えるでしょう。前に挙げている蠶まであわせると、この歌には全部で六種類もの動物が登場します。しかも全部強壮剤、強壮食品として名高い、またはセックスに強い動物ばかり―― 馬はもちろんのこと、女王蜂や女郎蜘蛛(ぐも)は雌対雄が一対うん十、うん百のセックスの女王たちです。それにローヤル・ゼリー、鹿茸(ろくじょう)、牡蠣(かき)、蚕のさなぎにいたるまで強壮剤・強壮食品ばかり(韓国では今でも蒸した蚕のさなぎをよく食べるといいます)です。この文字の使いようでよく分かるとおり、作者は激しい性愛行為を描写しているのという説があるそうですが、如何なものでしょう。
 さらに、「妹」を「異母」と表記しているのも意味深な感じですね。

 いやはや、まるで頓智教室のようですが、漢字勿論九九や動物の鳴き声まで知らないと、「万葉集」も読めないということです。こうした「なぞ」はかなり昔からあり、どうやら中国から学んだものでしょうね。


 


 一昨日(9月26日)のブログについた姪のコメントで 皇位の継承が「男系男子」であるべき理由で、得心のいく説明 について、竹田恒泰の見解は

 「女性宮家の旦那っていうのはどこの馬の骨かもわからないじゃないですか」「天皇というのは血以外の何物でもない!」「天皇というのは血統の原理なんです。これを変えてしまったら皇室が終わります」「皇室典範って皇室は養子をとることができないって規定があるんですね。だから旧皇族の男系の男子から養子をとることが可能だというふうに変えるわけです。そうするとですね、どんなふうに可能性が広がるかというと、赤ちゃんでまずいいわけですよ。だいたい養子って赤ちゃんじゃないですか。個人の意思が芽生える前に。民法は赤ちゃんで養子をとれるようになってるんですね。成人していてもいいし、なんなら夫婦養子でもいいんです。そこまで広げればいくらでも(男系男子が)できる。しかもですね、旧皇族はこれからどんどん子どもが生まれてきます。私の周辺でもいとこ連中どんどん子どもが生まれて、その旧宮家、11宮家のうち、若い世代がどんどん子どもが生まれてきています」 (8月26日放映の「朝まで生テレビ」の発言より)

 イギリスの王位継承順は王位継承法(1701年)により原型が定められているようです。これによれば、


・ステュアート家の血を引いている者(ハノーファー選帝侯妃ゾフィーの子孫)に限る。


・継承者は国王の直系子孫。20111028日以降に生まれた者は、性別を問わずに長子先継(第一子第一子の子孫第二子第二子の子孫→……の順)。


・2013年王位継承法において男子優先の長子先継(長男→長男の子孫→次男→次男の子孫→…→長女→長女の子孫→次女……の順)から改正されたが、2011年10月27日以前生まれの者については改正前の男子優先が適用される。
のようになっていますが、日本もこれに倣えばよいのではないでしょうか?


 


 正直言って、爺のような庶民にとって雲の上のお人の事はよく判らないし、どうでもいいことなのです。


 


 横浜のIN氏からメールが入りました。曰く、
2016年9月25日15時52分着信  題:家内の咳は治まった
 日高節夫様
 雨がよく降ったね、そちらは異常ありませんか。
 当方は、家内の風邪、咳がようやく治まって、というより、寝ている方がよほど腰が痛くて耐えられないということで、内科より、整形外科になったものですから、私の炊事当番は外れました。
 でも、左の膝の皿と右の足首が痛む症状には変わりがないので、 今になって考えると、去年だったか、センター北駅〈最寄りの地下鉄駅)でバス停まで、全力疾走させた無謀を悔いています。タクシーに乗せて帰ればよかった…とね。
 インド洋の小島、ディエゴ・ガルシア島の話を書こうと思っていたのですが、それよりも政府専用機のことを書きます。
 いつも読売新聞の朝刊を読むときに、最初にページを開くのは2面の「安倍首相の一日」という首相の消息欄。
 昨日(23日、24日)は、キューバから帰国するので、また羽田に到着後は夜間の皇居で帰国記帳という文字があるだろうと見当をつけていたら、羽田から直接、自邸に帰宅…となっている。
 常々、いちいち帰国の記帳など、やめればいいのにと思っていたが、どうやら別の理由があった様子。
 国内政治面に「キューバから給油地のサンフランシスコに向かう途中、鳥が政府専用機に衝突して機材にトラブルが発生したため同空港で予備機に乗り換えた。政府専用機は不測の事態に備え、首相の外遊時は原則2機で運用している」という記事があって、羽田空港に着く時刻が夜遅くなりすぎるので、宮内庁への帰国記帳を止めたらしい。
 政府専用機は、通常、30分間隔を置いて、2機で運用しているようで、いわばアメリカ大統領のエアーフォース・ワン〈米空軍1号機というコールサイン)を使う例に倣って天皇や、首相の外遊の時には2機で飛ばしているらしい。
 いわば別のジャンボ機が首相夫妻を乗せて30分前後の間隔で飛行しているという。
 無論、表面的には機体、機材の故障も想定してのことであろうが、主目的は対空攻撃を防ぐ意味合いが多いだろうということはどんな素人でも見当がつく。
 政府専用機を飛ばすには、訪問国で駐機する駐機料も含めて2機分の運用管理費が必要になってくる。日本のような貧乏国が、エアーフォースワンを2機持つ必要があるのだろうかね。2機持つのなら、500人乗り(実態は140人乗りに改造してあるらしいが)でなくて、200人程度の客を乗せれば十分ではないのだろうか。
 とにかく、日本国のエアーフォースワンは2019年、26年間のお役目を終えて、退役。東京オリンピックの前年には、新しい機体に取り換えなければならないのだがね…。
 とりあえず、先日、予告した、家内の体調が戻ったら書くと予告した、ディエゴ・ガルシア島の話は後日に回します。
 どうぞお元気で…。奥さまによろしく。 IN
 


 取り敢えず、ディエゴ・ガルシア島の位置だけ確認しておきました。


 


 ウェブニュースより


 政府専用機に鳥が衝突 安倍首相、予備機で帰国 ―― 安倍晋三首相は24日夜、米ニューヨークでの国連総会出席やキューバ訪問を終え、政府専用機で羽田空港に到着した。キューバを23日午前(日本時間24日未明)に出発したが、鳥の衝突による機体トラブルのため、途中の給油地の米サンフランシスコで予備機に乗り換えた。


 首相が外国訪問で利用する政府専用機は、トラブル発生時に備え、2機で運航している。首相のほか、同行職員らも予備機に乗り換えたが、旅程に大きな乱れはなかった。 (朝日新聞 20169242202分)


 


 さらに、IN氏からのメールが入りました。曰く、
2016年9月26日9時47分 題:チャンドら。ボースの秘宝
 日高節夫様
 昨日は、君宛のメールが、なかなか発信できなくて、イッツコムと電話機を握って小一時間悪戦苦闘をしたが、モデムの接続を直しただけで回復した。
 君のパソコンに迷惑をかけてはいなかったでしょうか、お伺いして、もしトラブルを波及させていたのでしたらお詫びを申しあげます。
 今日は読売の朝刊で、「チャンドラ・ボースの台北空港での航空事故遭難」に関する資料が、公開される日が来た…というニュースが大きく出ている。
 戦後の中学生にとっては、このニュースはスペースは大きくなかったが、衝撃的なニュースでしたね。
 その後、怪しげな政治資金の流れがあると「ボースの宝石」が原資だとイエローペーパーを中心に騒がれた。「ボースの宝石」という言葉は、我々世代には耳なじみのある言葉だね。さて真実はどうなのか?  IN

 ウェブニュースより
 インド独立闘争のボース「墜落死」文書公開へ ――  【ロンドン=角谷志保美】インド独立闘争の英雄スバス・チャンドラ・ボースが太平洋戦争の終結直後に台湾で事故死したことを示す日本政府の機密扱いだった文書が、30日にも外務省の外交史料館(東京都港区)で閲覧可能になる。/インドではボースの生存説が根強く、日本で保管されている遺骨の返還の妨げともなってきた。ボースの遺族は文書公開が、遺骨がインドに戻るきっかけになればと期待を寄せている。/ボースは1945年8月、飛行機の墜落事故で死亡したというのが定説だ。しかし、故郷のインド東部コルカタを中心に「事故死は偽装で本当はソ連に渡った」と主張する勢力があり、遺骨も「本物かどうか分からない」としてインドに戻すことに反対してきた。  (YOMIURI ONLINE 20160926 1446分)


 


 G20に初参加した英国のメイ首相は、EU主要国や大英帝国時代に支配したインドの首相他の首脳たちと会談し、それなりの存在感を示していたようです。世界の元首・首長に“女性時代”の到来がきたようです。
 国連常任理事国では、英国のメイ首相(2016)に次いで、米国初の女性大統領にクリントン氏が就任する可能性は高いといわれています。EUを牽引してきたドイツのメルケル首相(2005)以降では、ブラジルのルセフ大統領、パク・クネ(朴槿恵)韓国大統領(2013)、2014年にマルタのコレイロプレカ大統領、バングラデシュのワセド首相、2015年はモーリシャス大統領、ノルウエーとポーランドの首相、ミャンマーのスーチー国家最高顧問が就任しました。今年は、リトワニア大統領、英国首相が、国家元首として女性リーダーの時代を築きつつあります。国連機関や世界銀行・FRBなどの独立組織の首長で活躍している女性も少なくありません。
 嘗ては日本にも飛鳥時代から奈良時代にかけて女帝時代がありました。最近では東京都知事小池百合子が都民・国民の耳目を集めているようですが、“戦後強くなったのは女と靴下”と、男性に揶揄された女性社会進出をマッカーサーの占領政策のせいにする向きが後を絶たないのは未だに「男社会」が健在である証拠です。これが今の日本の現状です。
 昨日の朝日新聞(文化の扉)のページに「古代日本女帝の時代」が取り上げられていましたので、転写しておきます。

 (文化の扉)古代日本、女帝の時代 男系社会の行き詰まり打開 ――  かつての日本には、女性が政治の権力を握っていた「女帝」の時代があった。しかも、彼女たちは特定の時期にかたまって現れていたという。それは、どのような時代だったのだろう。
 7、8世紀は「女帝の世紀」といわれる。この間、6人の女性天皇が登場したからだ。当時の天皇は政治を取り仕切る権力者。8世紀の「養老律令」にある継嗣(けいし)令には女性天皇を「女帝」と記述している。
 6人の最初に登場した推古天皇は崇峻(すしゅん)天皇が蘇我馬子に殺害されるという異常事態の直後に即位。その後の女帝たちの即位も、皇位継承に伴って起きる有力氏族の対立を和らげるためだったとされる。そのため、女帝の存在を皇位の「中継ぎ」とみる見方もある一方、数々の業績から政治力も経済力も備えていたとの見解もある。

 瀧浪(たきなみ)貞子・京都女子大学名誉教授は「皇太子を決めないまま天皇が没するなどしたときに必要とされた女帝は男系社会での緩衝材で、もしいなければ混乱は増していた」と指摘する。「中国や朝鮮半島より早く誕生した日本の女帝は古代日本に根ざした存在。国史の編纂(へんさん)や遷都など文化的に果たした役割は大きい」
 平安時代になると、皇太子制度が整備されて次期天皇が明確化されたことなどにより女帝はみられなくなり、その後、政治の実権は武士に移っていった。
     *
 3世紀には女王もいた。卑弥呼だ。だが、ほかに多くの女性首長がいたことも近年わかってきた。
 岡山大学の清家(せいけ)章教授は、墳丘墓に残された人骨や、副葬品の種類とその配置を調べることで被葬者が男性か女性かを判別した。弥生中期までは首長として葬られた女性はいなかったが、弥生後期には女性の被葬者が現れ始めた。古墳前期に入るとその傾向は強まり、全国の首長のうち3~5割が女性とみられるという。
 この時期は戦争や争乱を推察させる資料が比較的少ない。政治、祭祀(さいし)、軍事といった首長に求められる素養のうち、男性優位の軍事への期待が低くなったためと考えられる。「女性首長が一般的な存在になる時期に登場した卑弥呼とその後の台与(とよ)は特異な存在ではなく、女王が受け入れられやすい素地があった」と清家教授は話す。
 清家教授は一方で、卑弥呼の優位性についても言及する。「本来であれば、父系社会の中国王朝に対して男王が外交にあたる必要があったし、海外諸国と衝突が起こることを考えて王には軍事的な能力も求められた。そうした不利益があっても女王に共立されたのは卑弥呼の政治や祭祀に関する能力が高かったからだろう」
 古墳中期になると、首長として葬られる女性が消え、男性だけになる。男王を基本としながら一時的に首長層の女性の地位が上がった時代があったという清家教授の研究結果。これは、邪馬台国がかつて男王を立て、卑弥呼を経て、再び男王を立てたとする魏志倭人伝の記述にも沿う。
 政治的背景や社会的背景と個人の能力が相備わって、女帝や女王は君臨しえたといえる。

■     女性は言葉で、男性は戦で 脳科学者・中野信子さん

 女性は脳の「言語野」の容量が男性より大きく、言語能力が高い。男性が1日あたり7千の単語を話すのに対して、女性は2万を超えるという研究結果があります。女性は言語的存在であり、言葉を使って大衆を束ねるリーダーに向いていると言えます。
 ただ、過去の指導者には言葉よりも戦(いくさ)での能力が求められる傾向がありました。その点では男性が有利です。男性は脳の「頭頂連合野」が女性より発達していて空間認知能力が高いので、戦場での陣形や地形を把握するのが得意だからです。これは地図を逆から読めるかなどを検証する実験結果からも男女の差が明らかになっています。
 今後、女性の得意な言語能力がより求められる世界になれば、日本にも女性トップが現れる可能性があります。実際、海外で女性首相が増え、外交の場で女性同士が議論する場が増えています。 (朝日新聞DIGITAL 20169250500分)


 


 昨日のブログで、海海海海海・烏烏烏烏烏・木木木木木木木木木木木は何と読むかと尋ねましたね。
 まず、海という字は今の音訓表では カイ・うみ の一音一訓しかありませんが、昔のように宛字を使えば 海女(あま)の「あ」、以下 海豚(いるか)、海胆(うに)、海老(えび)、海髪(おご)と読ませることができます。すなわち、海五文字で 海海海海海=あいうえお と読むことが出来ます。


 同じように 烏乎(あゝ)、烏賊(いか)、烏合(うごう)の衆、烏帽子(えぼし)、烏滸(おこ)がましい などと読めますので、 烏烏烏烏烏=あいうえお と読めるのです。
 さて、「木」を十一字並べた語は、木防己(つづらふじ)、木天蓼(またたび)、木枯(こがらし)、木菟(ずく)、木賊(とくさ)、木綿(もめん)、木(き)、木乃伊(ミイラ)、木半夏(なつぐみ)、木瓜(かりん・ぼけ) から、
 木木木木木木木木木木木=妻来ずとも君鳴かず と読めるというのです。

 しかし、宛字というのは、例えば「海女」はあくまでも 海と女の二字で「あま」と読むのであって、海を「あ」と読み、女を「ま」と読むのではありません。「木防巳」「木天蓼」「木半夏」などに至ってはこれらの「木」を「つ、ま、な」と読ますのですから、何をかいわんやです。


 漢字や漢文から仮名や日本文を創造した先祖の苦しみを思えば、当用漢字制定によって漢字の枠が設けられたと嘆くふしもあります。例えば、颱風(タイフウ)を「台風」と書いたのでは意味を成しません。漢字は表意文字で見て意味が判るところに重要な面があるのです。とはいえ、颱風はもともと typhoon の宛字なのです。

 「鯨」のように漢字からは誤った概念を受け取ってしまう恐れもあります。鯨は魚類ではありません。「虹」や「偽」も漢字からは古臭い原始時代の思想を学び取るだけです。虹は虫の一種と考えるよりも、rsin-bow(雨の弓)と読んだり「天のかけ橋」と名付けた方が、科学的でロマンチックではありませんか。ノーベル賞ものの「人の為した業績も」漢字にかかれば「偽(いつわり)」と言われかねないのです。

 鯨が私達人間の仲間の哺乳類であると断じ、虹が水と光がおりなす化学現象であると理解するところに文化的で近代的な人間生活があるのです。生活表現としての言葉もこのようにあってこそ本来の役割がつとまるのでしょうね。

 昨夕、大分市在住のHM氏より携帯にメールが入りました。曰く、
2016年9月24日20時37分着信 題:Mです
 日高様 先日はFAXでのお便りありがとうございました。私がメールは全然ダメですので、今娘にこのメールを打ってもらっています。年は取りたくないものですが、お互いに仕方の無い事ですね。また、FAXでお便りします。   HM


 


 13世紀前半に書かれたという説話集の『宇治拾遺物語』に次のような件(くだり)があります。

 今は昔、小野篁といふ人おはしけり。嵯峨の帝の御時に、内裏に札を立てたりけるに、無悪善と書きたりけり。帝、篁に、「よめ。」と仰せられたりければ、
 「よみはよみ候ひなん。されど、恐れにて候へば、え申し候はじ。」と奏しければ、「ただ申せ。」と、たびたび仰せられければ、「さがなくてよからんと申して候ふぞ。されば、君を呪ひ参らせて候ふなり。」と申しければ、
 「これは、おのれ放ちては、誰か書かん。」と仰せられければ、「さればこそ、申し候はじとは申して候ひつれ。」と申すに、
 帝、「さて、何も書きたらんものは、よみてんや。」と、仰せられければ、
 「何にても、よみ候ひなん」と申しければ、片仮名の子文字を十二書かせ給ひて、「よめ。」と仰せられければ、
 「ねこの子のこねこ、ししの子のこじし。」とよみたりければ、帝ほほ笑ませ給ひて、事なくてやみにけり。

 訳) 今となっては昔のことですが、小野篁という人がいらっしゃいました。嵯峨天皇の時代に、(誰かが)宮廷に札を立てたのですが、(そこには)無悪善と書いてありました。天皇は篁に「(立て札を)読みなさい。」とおっしゃったところ、
(篁は)「読むことは読みましょう。しかし、恐れ多いことですので、申し上げることはできません。」と(天皇に)申し上げたので(天皇は)「とにかく読みなさい。」とたびたびおっしゃったので(篁が、)「性(嵯峨天皇の嵯峨とかけている)がなくてよいと申しております。つまり、あなた様を呪い申し上げているのです。」と申し上げると、
(天皇が)「(札の内容がわかるのだから)これはお前以外に、誰が書くというのだろうか。」とおっしゃったので、
(篁は)「だからこそ(犯人と疑われるからこそ)、(読めるけどその内容は)申し上げまいと申しておりましたのに。」と申し上げると、帝が、「それでは、何でも書いてあるものは、きっと読めるのか。」とおっしゃったので
(篁は)、「なんでも、きっと読みましょう。」と申し上げたところ、(天皇は)片仮名の子の文字を十二個お書きになって、「読んでみろ。」とおっしゃったので
(それを見た篁が)、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子。」と読んだところ、帝は微笑まれて、お咎めがないまま(この件は)終わりになりました。


 


 「さが」は、生れつきの性であって、善悪のどちらにも通じます。易林本『節用集』(室町時代から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種)に、「無レ悪」を「サガナシ」と読んでいるそうです。ここでも、「悪(さが)なし」と読んで、「嵯峨なし」に掛けているのです。
 福井県三方上中(みかたかみなか)郡若狭町には、「無悪(さかなし)」という地名があって、小野篁(たかむら)に由来すると言われています。嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐へ流罪となった小野篁は、隠岐から帰郷中に暴風に遭って小浜に漂着、そこから三年間、無悪で過ごしたと言います。地元の人から愛され人望があった小野篁は、当時嵯峨天皇が在位していなかったら無罪だったろうという意味で、この地が「さかなし」と名付けられたというのです。

 古来漢字は一字に多くの音・訓があり、名乗り字や宛字があって「生」などは150通り以上あって正確な所はよく判らないほどです。


 


「子」の字にしても、接尾語に用いるものだけでも、冊子、杏子、様子、餃子、面子どれも読み方が違います。
 皆さんは、「海海海海海」(海五文字)「烏烏烏烏烏」(烏五文字)さらに「木木木木木木木木木木木」(木十一文字)を讀めますか。


 


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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