瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 デパートのすし店の前に立つと、色々な商品名の中に「バッテラ」というのがあります。御存じのとおり鯖の押しずしのことです。考えてみるとバッテラという名は少し異様です。すしがヨーロッパの言葉と関係があるのはおかしいのですが、片仮名で書かれているところと言い、語感といいどうも元はヨーロッパ系の言葉ように思われます。

 パソコンの語源由来辞典で調べてみると「バッテラの語源は、ポルトガル語で小舟を意味する「bateira(バッテイラ)」。/明治26年(1893年)頃、大阪順慶町の鮨屋がコノシロの片身を鮨に乗せた形が、小舟に似ていたため「バッテラ」と名付けられた。/これが鯖寿司に応用され、次第に〆鯖の押し鮨を「バッテラ」というようになった。/江戸時代の文献にも「バッテラ」や「バッテイラ」の語は見られるが、「小舟」の意味以外では用いられていない。」とあります。

 江戸前のにぎり寿司に対して、大阪は押し寿司。バッテラはその代表的な大阪寿司です。明治24年創業、バッテラ発祥のお店『寿司常』の三代目店主がのれんを下ろして(閉店して)から約30年経った同じ場所で、今年(2016年)7月11日に現在の四代目が、再びのれんを揚げることになったそうです。その店内に書道の先生に書いてもらった「バッテラの由来」があるそうです。

 明治時代中期、大阪湾ではコノシロ(コハダ)が豊漁となり、コノシロを使って、お店の創業者・中恒吉さんが、明治24年に大阪湾で大量に捕れた『コノシロ』を使って考案した寿司が『バッテラ』の始まりといわれています。幕末から明治にかけて大阪では小舟のことをポルトガル語『バッテイラ(bateira)』と呼んでいたそうです。コノシロを開いて酢でしめ、酢飯にのせて作った寿司は、中央が太くて尾が上がり、形が小舟に似ていたことから『バッテラ』の名がつきました。コノシロは漁獲量が一定ではなく後に価格が高騰したため、より安価な鯖が代わりに使われるようになったのです。
 とにかく「鯖の押しずし」を船の形をした木枠に入れて作り、これを「バッテラずし」といって売り出したのです。だから本来から言えば、鯛であろうが、海老であろうが、鯖以外の材料を使っても舟形でありさえすれば立派に「バッテラずし」のはずですが、いつの間にか肝心の「舟」という意味が忘れられて、ただバッテラは「鯖の押しずし」と受け取られてしまうようになったのです。


 


 昨日のブログにつづいて、今昔物語の「太りすぎた三条中納言朝成の話」を紹介します。

 今昔物語集 巻28第23話 三条の中納言、水飯を食ひし語 第廿三
 今は昔、三条の中納言と云ける人有けり。名をば朝成(あさなり、あさひら)とぞ云ける。三条の右大臣と申ける人の御子也。身の才賢(ざえかしこ)かりければ、唐の事も此の朝の事も皆吉く知て、思慮(おもひばか)り有り、肝太くして、押柄(おしがら)になむ有ける。亦、笙を吹く事なむ、極たる上手也ける。亦、身の徳なども有ければ、家の内も豊なりけり。
 長高くして、太りに太りてなむ有ければ、太りの責て苦しきまで肥たりければ、医師和気の重秀を呼て、「此く太るをば何がせむと為る。起居など為るが、身の重くて極く苦しき也」と宣ければ、重秀が申ける様、「冬は湯漬、夏は水漬にて、御飯(おもの)を食(め)すべき也」と。
 其の時、六月許の事なれば、中納言、重秀を、「然は暫く居たれ。水飯食て見せむ」と宣ければ、重秀、宣ふに随て候けるに、中納言、侍を召せば、侍一人出来たり。中納言、「例食ふ様にして、水飯持来(もてこ)」と宣へば、侍立ぬ。暫許(とばかり)有て、御台片□を持参て御前に居へつ。台には箸の台二許を居へたり。次(つづ)きて侍、盤(ばん)を捧て持来る。□□の侍、台に居うるを見れば、中の甕(かめ)に白き干瓜の三寸許(ばかり)なる切らずして十許盛たり。亦、中の甕に鮨鮎(すしあゆ)の大きに広らかなるを、尾頭(しりがしら)許を押て、卅許盛たり。大きなる鋺(かなまり)を具したり。皆台に居へつ。亦、一人、大きなる銀の提(ひさげ)に、大きなる銀の匙(かひ)を立て、重気に持て前に居(すゑ)たり。
 然れば、中納言、鋺を取て侍に給て、「此れに盛れ」と宣へば、侍、匙に飯を救(すくひ)つつ、高やかに盛上て、喬(そば)に水を少し入れて奉たれば、中納言、台を引よせて、鋺を持上(もたげ)給たるに、然許大きなる手に取納へる2)に、「大きなる鋺かな」と見ゆるに、気(け)しくは非ぬ程なるべし。
 先づ、干瓜を三切許に食切て、三つ許食つ。次に、鮨鮎を二切許に食切て、五つ六つ許安らかに食つ。次に、水飯を引き寄せて、「二度許箸廻し給ふ」と見る程に、飯失ぬれば、「亦盛れ」とて、鋺を指遣り給ふ。
 其の時に、重秀、「水飯を役と食とも、此の定にだに食さば、更に御太り止まるべきに非ず」と云て、逃て去て、後に人に語てなむ咲ける。
 去れば、此の中納言、弥よ太りて、相撲人の様にてぞ有けるとなむ語り伝へたるとや。

訳)今は昔、三条中納言藤原朝成(ふじわらのあさなり、あさひら)という人がいました。賢明で唐のことにも我が国のことにも精通し、豪胆で強引な人柄でした。また蓄財の才もあり、家は豊かでした。
 背が高く太っていたのですが、あまりにも太りすぎたため苦しくてしかたがないので 医師の和気重秀(わけのしげひで)を呼び寄せました。「立ったり座ったりが苦しくてしかたない。太ってしまうのを何とかできないものか?」この問いに対して医師はこう言いました。「冬は湯漬け、夏は水漬けにして御飯を召し上がるようにして下さい。」
 その時は六月ごろ頃だったので、朝成は医師に言いました。「さればしばらく居てくれ。水飯を食べてみせよう。」朝成は邸の侍に準備を命じました。「水飯を作って、いつものように持って来い。」 給仕の侍が朝成の食卓の台に据えるのを見ると、中ぐらいの皿に三寸ばかりの干瓜が切らずに十ほど盛られている。また別の中ぐらいの皿に大きく幅広い鮨鮎(すしあゆ)を尾と頭だけを押しずしにして三十ばかり盛られている。それに大きなお椀が添えられていました。そして一人の侍が、大きな提(ひさげ)に大きな銀の匙(さじ)を立てて重そうに持って前にすえました。
 朝成がお椀を持って「これに盛れ」と命じると、侍は匙(さじ)で飯をすくい、お椀に高々と盛り上げ、わきに水を入れて差し出しました。朝成がお椀を取り上げると、大きく見えていたお椀は、少しも不似合いには見えません。
 朝成はまず干瓜を三切れほどに食い切り、三つほど食べました。次に鮨鮎を二切れほどに食い切り、五つ六つをぺろりと平らげました。それから水飯を引き寄せ、二度ほど箸でかき入れたかと思うと、もう飯はなくなり、「もう一膳盛れ」と言って、お椀を差し出しました。
 これを見て、医師は言いました。「ひたすら水飯だけを食されるからといって、こんな具合に食されていたのでは絶対に肥満がおさまるはずがありません。」 医師は逃げるように退出し、後にこのことを人々に話したそうです。さればこの中納言はますます太り、相撲取りのようであったと語り伝えられているのです。


 


昨日のブログで『今昔物語集』の「すし売りの女の話」や「太りすぎた三条中納言朝成の話」について記述しましたので、その原文を写し取ってみました。

 巻第三十一第三十二「人、酒に酔ひたる販婦(ひさめ)の所行(しわざ)を見し語」
 今は昔、京にありける人、知りたる人のもとに行きけるに、馬より下りてその門に入りける時に、その門の向かひなりける旧き門の、閉ぢて人も通はぬに、その門の下に、販婦(ひさめ)の女、傍に売る物ども入れたる平らなる桶を置きて臥せり。いかにして臥したるぞと思ひてうち寄りて見れば、この女、酒によく酔ひたるなりけり。かく見置きてその家に入りて、暫くありて、出でて又馬に乗らむとする時に、この販婦の女驚きさめたり。見れば、驚くままに物をつくに、その物ども入れたる桶につき入れてけり。あなきたなと思ひて見る程に、その桶に鮨鮎(すしあゆ)のありけるにつきかけけり。販婦、あやまちしつと思ひて、急ぎて手を以てそのつきかけたる物を鮨鮎にこそあへたりけれ。これを見るに、きたなしと云へばおろかなりや。肝もたがひ心もまどふばかり思えければ、馬に急ぎ乗りてその所を逃げ去りにけり。
 これを思ふに、鮨鮎、本よりさやうだちたる物なれば、いかにとも見えじ。定めてその鮨鮎売りにけむに、人食はぬやうあらじ。かの見ける人、その後永く鮨鮎を食はざりけり。さやうに売らむ鮨鮎をこそ食はざらめ。我が許にてたしかに見て鮨調(ととの)へさせたるをさへにてなむ食はざりける。それのみにもあらず、知りと知りたる人にもこの事を語りて、「鮨鮎な食ひそ。」となむ制しける。亦物など食ふ所にても、鮨鮎を見ては、物狂はしきまで唾を吐きてなむ立ちて、逃げける。
 然れば、市町に売る物も、販婦の売る物も極めてきたなきなり。これによりて、少しも叶ひたらむ人は、萬の物をば目の前にしてたしかに調へさせたらむを食ふべきなりとなむ語り伝へたるとや。


 


訳)むかーし昔。京都に住んでいた人が、知人の家に行って、馬から下りてその門に入った時、その向かいの古い門が閉じたままになって、人も通らないのに、その門の下に販婦(ひさめーもの売り女)が、傍らに売る物を入れた平たい桶を置いて、横になっています。
 何故横たわっているのかと思って、近寄ってみると、この女は酒を飲んで酔っぱらっているのでした。
 そのように見定めて知人の家に入り、しばらくして出てきて、また馬に乗ろうとすると、その販婦は物音に驚いたのか、目が覚ましました。 見ると、目を覚ますと同時に反吐を吐いたのですが、商品を入れた桶の中に吐いてしまったのです。
 うわー、汚いと思ってみていると、その桶には鮨鮎(すしあゆ-鮎の馴れ鮨)が入っていたのですが、その上に吐いてしまったのです。
 販婦は失敗したと思ったように、慌てて手でその吐いた物と鮨鮎を混ぜ合わせました。
 それを見ては、「汚い」と言う言い方では言い足りませんね。動転し、驚いて、気分も悪くなって、馬に乗って、その場を逃れるように立ち去りました。
 これを考えてみると、鮨鮎は元来そのような様子の物だから、反吐と混じっても見分けは付かないでしょう。きっと、その鮨鮎を売ったら、知らない人は食べないわけではありません。
 あの見た人は、その後ずーっと鮨鮎は食べませんでした。そのように売っている鮨鮎は、当然食べられないでしょう。自分の目の前で、間違いなくきちんと作った鮨鮎でさえ、食べられませんでした。それだけでなく、自分の知人にはこの事を話して、「鮨鮎は食べてはいけないよ。」と止めました。また、物食う場所で、鮨鮎を見ると、気が狂ったように唾を吐いて、その場から立ち去るようになりました。
 だから、露天の市場などで売る物も、販婦の売る物も、全く汚い物なのです。このことから、少しでもそれができる余裕のある人は、全ての物を、目の前で間違いなく調理させた物を、食うべきだと、語り伝えたと言うことです。
 


 いやはや穢い話でごめんなさい。でも、爺は育ち盛りの少年時代を食糧難の時代に育ちました。戦災孤児が人の吐いた反吐を食べた話なども伝わってきた、時代でしたよ。2度とそんな時代が来ないことを心から願っています。 お粗末さまでした。


 


 昨日は休日でもあるし、夕食は松屋で握り寿司を買って来て食べました。買い物の道々、寿司について調べてみようと思い立ちました。

 「すし」の語源をパソコンの語源由来辞典で調べてみました。
 すしの語源は「すっぱい」を意味する形容詞「酸し(すし)」の終止形で、古くは魚介類を塩に漬け込み自然発酵させた食品をいい、発祥は東南アジア山間部といわれる。/「酢飯(すめし)」の「め」が抜け落ちて「すし」になったとする説もあるが、飯と一緒に食べる「生成(なまなれ)」や、押し鮨の一種である「飯鮨(いいずし)」は、上記の食品が変化し生まれたもので、時代的にもかなり後になるため、明らかな間違いである。/すしの漢字には「鮓」「鮨」「寿司(寿し)」があり、「鮓」は塩や糟などに漬けた魚や、発酵させた飯に魚を漬け込んだ保存食を意味したことから、すしを表す漢字として最も適切な字である。/「鮨」の字は、中国で「魚の塩辛」を意味する文字であったが、「鮓」の持つ意味と混同され用いられるようになったもので、「鮓」と同じく古くから用いられている。/現代で多く使われる「寿司」は、江戸末期に作られた当て字で、「寿を司る(つかさどる)」という縁起担ぎの意味のほか、賀寿の祝いの言葉を意味する「寿詞(じゅし・よごと)」に由来するとの見方もある。
とありました。
 すし(馴れずし)の起源は東南アジアといわれています。すしはもともと東南アジアの山地民族の間で行われていた魚の貯蔵法で、川魚の保存法として米などの穀類と炊いたものと一緒に漬け込み、米の発酵を利用して魚を保存したものでした。この技術が中国→朝鮮半島→奈良時代に日本に伝わったといわれます。文献によると大宝2(702)年施行の大宝令は今日全文は伝わっていませんが、その第一次改訂である(養老令)が残っていますし、令義解、令集解などの令文の注釈書などによっても原型をだいたい復元できるといいます。その中の賦役令の中に、若し雑物を輪するならば・・・鰒鮓(あわびずし)二 、貽貝鮓(いがいずし)三 ・・・雑
 
奈良時代に入って穀類と一緒にアユやフナを漬け込んだ熟れずしが庶民に食べられるようになります。琵琶湖周辺のフナの熟れずしがありますが、塩つけにしたフナをご飯とともに、1年くらい漬け込んだもので、ご飯は食べずフナだけ食べます。
 
古代の寿司の推移を見ますと、平安時代の寿司は『今昔物語集』の「すし売りの女の話」や「太りすぎた三条中納言朝成の話」の記述によると、寿司は飯部分を除去して食されていたようです。
 


 鎌倉時代は生成(なまな)れが登場します。生成れは10日くらいで食べられ、素材はアユ・フナ・ナマズ・コイなどの川魚が中心でした。
 安土桃山時代になると酢が作られました。これによって、寿司が大きく変わりました。この頃、飯ずしが誕生します。(ご飯も食べる)箱寿司(押し寿司)もこの頃に誕生したそうです。素材も川魚に代わって、小鯛やサバなどになりました。漬け込んだ魚は今までは、おかずでしたが、食事へと変わっていきました。
 にぎりずしの誕生は、江戸時代の後期、文化年間(18181830年)だそうです。握ってその場で食べる・・というのを考案したのは、花屋興兵衛(1799 1858年、「与兵衛寿司」を開業した)と伝えられます。日本料理の技術である酢の物(コハダ)や煮物(イカ・穴子)、焼き物(玉子)、蒸し物(アワビ)、刺身(マグロ・ヒラメ)などをすし飯と一緒に食べさせるということを思いついたと云われます。江戸前というとすしの代名詞と思われますが、もとはウナギを指していました。かって江戸城の前は海でしたが、ここを埋め立てた沼でウナギが沢山捕れ、これをぶつ切りにして串にさして焼いて食べさせた店があったことから、江戸城前のウナギと云われるようになったらしいです。その後、にぎりずしが盛んになったので、江戸前ずしとすしにも使われるようになったといわれます。江戸の前の海で捕れる魚を指す言葉です。
 


 江戸から明治にかけてのすしは、屋台が中心で、現在のように店を構えるようになったのは、もっと後のことです。桶にすしダネを入れて、担いで町の中で売り歩くすし売りという商売もありました。冷蔵庫の無い時代のことなので、殆どのすしダネは、酢に漬けたり、煮たり、しょう油に漬けたりと手が加えられていました。これが、今も伝わる酢じめをした光りものや煮イカや煮ハマグリ、またはマグロのしょう油ずけの原型です。すし屋の調理場がつけ場と云われるのは、このように醤油に漬けたり、酢に漬けたりする仕事が中心だったことの名残です。
 戦後は、屋台で生ものを扱うことが禁止され、店の中に屋台を持ち込み店内で食べさせるようになりました。これは屋台の形式を店の中で再現したと言うことです。屋台の形式がカウンターになりました。戦中・戦後の食糧難の時は、すし屋も店を閉めなくてはならなかったのですが、米1合で巻物を含むすし10個と交換することが出来たといわれています。この時のすしが1貫の大きさの基準であり1人前の基準となっています。
 大阪の立ち喰い寿司店経営者・白石義明(19132001年)が、ビール製造のベルトコンベアをヒントに、多数の客の注文を低コストで効率的にさばくことを目的として「コンベヤ旋廻食事台」を考案し、1958年、大阪府布施市(現・東大阪市)の近鉄布施駅北口に最初の回転寿司店である「元禄寿司」(元禄産業株式会社)を開きました。1970年代以降、元禄寿司のフランチャイズは全国的に広まり最盛期には200店を超えたといいます。にぎりずしが誕生してから、わずか200年余。これからすしはどのように変化していくのでしょうか。


 


 今日は文化の日、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ということで制定されていますが、この日は日本国憲法が公布された日でもあります。何気なく使っている文化の日ですが、1948年までは“明治節”といいました。明治という激動の時代を忘れないためにもということで、明治天皇の誕生日を祝日としていたのです。

 11月3日が初めて祝日になったのは、1873(明治6)年の天長節でした。その後、1911(明治44)年に天長節は一度廃止になりましたが、1927(昭和2)年に明治節という名前で復活しました。ところが、明治節は1947年に廃止となります。これは、第二次世界大戦後のGHQの意向によるものです。その翌年の1948年から、文化の日という祝日になったのです。
 爺が小学生だった頃、この日は四大節(四方拝、紀元節、天長節、明治節)の1つとされ、学校では式典があり、式日の朝には、儀式に参列するためだけに、生徒は晴着で登校しました。式の初めにご真影と教育勅語が、恭(うやうや)しく講堂に担ぎ込まれ、ご真影が開かれ、君が代の合唱後、校長先生によって教育勅語が厳かに読み上げられました。生徒たちは頭を垂れて静かに聞き入ったものです。生徒たちが下を向いているうちにこぼれて来た鼻水をすすりあげる音で、やや厳かさが損なわれることもありました。「アジアの東、日出処、聖の君の現れまして…」と明治節の歌を合唱して、校長先生の訓示があり、ご真影と教育勅語が持ち出され、式典は終わりました。
 https://www.youtube.com/watch?v=EHrdFZZIN50
 各学校には奉安殿があり、そこには天皇・皇后の写真(御真影)と教育勅語を納められていて、先生も生徒もその前を通る時はお辞儀をしなければなりませんでした。


 ウェブニュースより
 「明治の日」制定求め、自民議員ら国会内で集会 ―― 明治天皇の誕生日である11月3日を「明治の日」にしようと、祝日法改正運動を進める団体が1日、国会内で集会を開いた。明治維新から150年の節目にあたる2018年の実現に向け、超党派での国会議員連盟発足を目指しているが、国会議員の参加は14人で、うち自民党以外は2人にとどまった。
 この日の集会には約140人が参加。明治の日の実現を求める約63万8千筆の署名が自民党の古屋圭司選対委員長に手渡された。安倍晋三首相に近い古屋氏は「かつての『明治節』がGHQ(連合国軍総司令部)の指導で大きく変わることを強いられた。明治の時代こそ大切だったと全ての日本人が振り返る日にしたい」と決意を述べた。
 稲田朋美防衛相も「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」と語った。民進党からは鷲尾英一郎衆院議員が参加した。  (朝日新聞DIGITAL 20161120048分)



 「五箇条の御誓文こそ本来の憲法」 国会議員の主な発言 ―― 「明治の日」制定を求めて国会内で開かれた集会での古屋圭司、稲田朋美両氏以外の国会議員の主な発言は以下の通り。
 《青山繁晴参院議員(自民)》 西洋の憲法と、日本語の憲法は全く別物だ。私たちの憲法は古代の十七条の憲法に始まり、それが近代化されたのは明治憲法ではなく、本来は五箇条(かじょう)の御誓文。御誓文こそ、私たちの本来の憲法だ。「明治の日」が制定されれば、そういう根幹に立ち返ることを子どもたちに話すこともできるのではないか。
 《赤池誠章参院議員(自民)》 私は参院文教科学委員長を務めているが、48年前の「明治100年」には、頌歌(しょうか)として「のぞみあらたに」がつくられたと聞いている。2年後の「明治150年」に向けて、「のぞみあらたに」をともに歌って運動の広がりをつくっていくことも大事ではないか。今の立場を善用して、文部科学省に徹底的にこのことを伝え、明治の日に向けて国民運動をともに盛り上げたい。
 《高鳥修一衆院議員(自民)》 議員になる前から、「昭和の日」を実現する国民運動に参加していた。私の好きな歌に「あゝ肇国(ちょうこく)の雲青し」という一節がある。神武創業の原点にしっかり立脚した「明治の日」を実現していくことが、日本人の精神の独立につながると確認している。
 《鷲尾英一郎衆院議員(民進)》 思い起こせば毎年(この集会に)出席している。(明治の日が)なかなか結実しないことに焦燥感を持っている。民進党は1人で大変心細いが、民進党にも色々な考えがある。私は民社協会に所属しており、塚本(三郎・元民社党)委員長の後輩。思想的に後輩ということだ。今の民進がしっかりしないのも民社がしっかりしないからだと私は確信している。再来年に向けて、超党派の一員として私も尽力したい。  (朝日新聞DIGITAL 20161120050分)


 


 しつこいようですが、干鮭の話で徒然草よりもう一つ、料理の専門家である大納言が、人にケチつけられたのを機転によって切り返した話があるのを紹介します。
 徒然草第百八十二段
 四条大納言隆親卿、乾鮭といふものを、供御(ぐご)に参らせられたりけるを、「かくあやしき物、参るやうあらじ」と、人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚(うお)、参らぬ事にてあらんにこそあれ。鮭のしらぼし、何条(なんじょう)事かあらん、鮎のしらぼしは、参らぬかは」と申されけり。

訳)四条大納言隆親卿が、乾した鮭を、天皇のお食事として差し上げたところ、「このような賤しい物を差し上げる法があるものか」と、人の申したのを聞いて、大納言、「鮭という魚を差し上げないことに決まってるならともかく。乾した鮭に、何の問題があろうか。鮎の乾したのは差し上げないのか(差し上げるだろう。ならば、鮭を差し上げてもよいわけだ)。

 昨日のブログに続いて、宇治拾遺物語から干鮭の話を紹介します。
 巻十二 (144)聖宝僧正、一条大路渡る事
 昔、東大寺に上座法師のいみじくたのしきありけり。露ばかりも、人に物与ふる事をせず、慳貪に罪深く見えければ、その時聖宝僧正の、若き僧にておはしけるが、この上座の、物惜む罪のあさましきにとて、わざとあらがひをせられけり。「御坊、何事したらんに、大衆に僧供(そうぐ)引かん」といひければ、上座思ふやう、物あらがひして、もし負けたらんに、僧供引かんもよしなし。さりながら衆中にてかくいふ事を、何とも答へざらんも口惜しと思ひて、かれがえすまじき事を、思ひめぐらしていふやう、「賀茂祭の日、真裸にて、褌(たふさぎ)ばかりをして、干鮭(からざけ)太刀にはきて、やせたる牝牛(めうし)に乗りて、一条大路を大宮より河原まで、『我は東大寺の聖宝なり』と、高く名のりて渡り給へ。然らば、この御寺の大衆より下部にいたるまで、大僧供引かん」といふ。心中に、さりともよもせじと思ひければ、固くあらがふ。聖宝、大衆みな催し集めて、大仏の御前にて、金打ちて、仏に申して去りぬ。
 その期(ご)近くなりて、一条富小路に桟敷うちて、聖宝が渡らん見んとて、大衆みな集りぬ。上座もありけり。暫くありて、大路の見物の者ども、おびただしくののしる。何事かあらんと思ひて、頭さし出して、西の方を見やれば、牝牛(めうし)に乗りたる法師の裸なるが、干鮭を太刀にはきて、牛の尻をはたはたと打ちて、尻に百千の童部つきて、「東大寺の聖宝こそ、上座とあらがひして渡れ」と、高くいひけり。その年の祭には、これを詮にてぞありける。
 さて大衆、おのおの寺に帰りて、上座に大僧供引かせたりけり。この事帝聞し召して、「聖宝は我が身を捨てて、人を導く者にこそありけれ。今の世に、いかでかかる貴き人ありけん」とて召し出して、僧正までなしあげさせ給けり。上の醍醐はこの僧正の建立なり。

訳)昔、東大寺の上座法師に、たいへんな富裕な者がいた。それでいて、この法師は露ほども人に物を恵まず、ケチ・慳貪の罪を深くしているように見受けられたから、あるとき、当時はまだ若かった聖宝僧正が、この上座法師が物惜しみの罪がひどいというので、わざと口論をしかけた。「御坊は、何を為したら、寺内の大衆へ饗応をされますか」と言いかけると、上座の法師が思うには、(争論になり、もし負ければ饗応せざるをえなくなる。とはいえ、衆人の中でこのように言われ、何とも答えぬのも口惜しい。この男がとても出来ないようなことを言うしかない)と思いを巡らせると、
「賀茂祭の日、貴僧が、真っ裸でふんどし一つ締めて、干し鮭を太刀のようにさし、痩せた雌牛に乗って一条大路を大宮から河原まで、『我は東大寺の聖宝なり』と高く名乗りながら練り歩いたなら、寺の大衆から下々に至るまで、大いに饗応をしよう」と言った。
 心中に、まさかするわけがないと思うので、強く言い張ったのである。聖宝は、大衆をみな集めて、大仏の御前で金を打ち叩き、仏に誓って立ち去った。
 さて、賀茂祭の日、その時も近くなって、一条富小路に桟敷を設けて、聖宝の練り歩きを見物しようと、寺の大衆がみな集った中に、例の上座法師もいた。やがて、大路の見物衆がさかんに騒ぎ始めた。何事――と思い、人々が頭を突き出して西の方を見れば、牝牛に乗った裸の法師が、干し鮭を腰に差し、牛の尻をはたはたと打ちながら、さらに後へ、百人千人という童子の集団を引き連れて、
「東大寺の聖宝が、上座と争論し、ここを押し渡るものなり」と、高々と叫んでいるのである。この年の賀茂祭は、これが最上の盛り上がりであった。そうして大衆は、それぞれ寺へ帰ると、上座法師に大いに饗応させるのだった。さらに、このことは帝の御耳へ達して、
「聖宝は我が身を捨てて、人を導くことのできる者である。今の世に、どうしてこれほど貴い人がいるのか」と、召し出されて、聖宝を、僧正の位にまでのぼらせたのだった。醍醐寺は、この僧正が建立したものである。


 


 先日のブログで宇治拾遺物語の話が出たのでその場面を紹介しておきます。
 大童子鮭ぬすみたる事
 これもいまはむかし、越後國より鮭を馬におほせて廿駄ばかり粟田口より京へおひ入けり。それにあはたぐちの鍛冶が居たるほどに、いたゞきはげたる大童子のまみしぐれて物むつかしうおもらかにもみえぬがこの鮭の馬の中に走入にけり。道はせばくて馬なにかとひしめきけるあひだ、この大童子走そひて鮭を二つひきぬきてふところへ引入てんけり。さてさりげなくて走さきだちけるを、此鮭にぐしたる男見てけり。
 走先立て童のたてくびをとりて引とゞめていふやう、「わせんじやうはいかでこの鮭をぬすむぞ。」といひければ、大童子「さることなし。なにをしようこにてかうはの給ぞ。わぬしがとりてこのわらはにおほするなり。」といふ。
 かくひしめくほどにのぼりくだるもの市をなしてゆきもやらでみあひたり。さるほどにこの鮭のかうちやう〔口長〕「まさしくわせんじやう〔和先生〕とりてふところに引入つ。」といふ。大童子はまた「わぬしこそぬすみつれ。」といふ時に、この鮭につきたる男「せんずる所我も人もふところをみん。」といふ。大童子「さまでやはあるべき。」などいふほどに、この男はかまをぬぎてふところをひろげて「くはみ給へ。」といひてひしひしとす。
 さてこのをとこ大童子につかみつきて、「わせんじやうはや物ぬぎ給へ。」といへば、わらは「さまあしとよ。さまであるべきことか。」といふを、この男たゞぬがせにぬがせてまへを引あけたるに、こしにさけを二つはらにそへてさしたり。男「くはくは。」といひて出したるときに、この大童子うちみて「あはれ勿躰なき主かな。かうやうにはだかになしてあさらんには、いかなる女御・后なりともこしにさけの一二尺なきやうはありなんや。」といひければ、そこら立とまりて見けるものども一度に「はつ」とわらひけるとか。

訳〉これも今は昔のこと。お役人が、20頭ばかりの馬に鮭を積んで、はるばる越後の国から、京都へやってきた。やがて粟田口へさしかかり、鍛冶屋の店先を通りかかると、そこにいた、頭頂部が禿げて、しょぼたれまなこで、風采の上がらぬ見習いが、いきなり馬の間へ走り込んできた。 狭い道だったから、馬がひしめき合ううちに、この見習いは、すばやく鮭二本を引き抜き、懐へ入れて、さりげなく走り去ろうとするから、気づいた馬引きの一人が、
「おい、おまえ、何で鮭を盗みやがった」と先回りして首根っこを押さえつけると、この見習い、「そんなことをするものか! 何を証拠にそんなことを言うのか。おぬしの方が盗んだのを、わしのせいにするつもりではないのか!」などと喚いたものだから、何だ、どうしたと、通りがかる者が集まって、道も通れないほどになった。そうして、運送責任者が出てきて、
「間違い無く、おまえが盗んで、懐へ入れた」と決めつけるが、見習いは負けじと、「いいや、むしろおまえが盗んだのだ!」と叫ぶから、馬引きも怒って、「では誰が盗んだのか、わしを含めて、全員の懐を調べてみようではないか」
「え、何もそこまでやらなくても……」と慌てる見習いを前にして、馬引きはさっさと袴を脱ぎ、懐を広げると、「さあよく見ろ!」と、ぐいと見せつけた。そうして、馬引きは、この見習いを捕まえるや、
「さあ、今度はおまえ様の番だぞ、お脱ぎなされませ!」
「そ、そんなみっともない真似ができるものか……」と抵抗するのを、押さえつけて無理矢理に脱がしてみると、腰に鮭が二本、ちゃんと挿してあった。
「ほらやっぱり!」と鮭を引き抜いて見せつけると、見習いは、「なんて無体な真似をしやがる奴らだ。こんなふうに素っ裸にしてみれば、宮仕えの女御やお姫様にも、腰のところに鮭の一つや二つはあるに決っているではないか!」そんなことを言い放ったから、立ち止まって見ていた周りの者も、一度に、どっと笑ったという。

 横浜のIN氏からメールがありました。曰く、
2016年10月29日19時40分着信 題:ご無沙汰
 日高節夫 様
 ご無沙汰をしておりますが、君のブログが完全復活したのを見届けて、ここのところわたくしは雑用にかまけています。
 我が家は、家内の右膝痛の医者通いが定期的になり、彼女のお雇い運転手を忠実に勤めております。
 君のブログは、読み手に回り、楽しく拝見しています。
 どうぞお元気で…。近況を少しばかりご報告。 IN


 


 ウェブニュースより
 天地人 ―― 「もったいない」。ドイツ人から、こんな日本語を聞かされるとは思いも寄らなかった。小池百合子都知事と会談した国際オリンピック委員会のトーマス・バッハ会長のことだ。2013年の会長就任以降、五輪改革路線をひた走る。
 肝いりで策定された中長期改革は「アジェンダ2020」と呼ばれる。五輪について複数の都市や国内での分散開催を認めるほか、既存や仮設施設の活用も積極的に奨励する。開催都市にのしかかる巨額の財政負担を減らすためだ。
 20年東京五輪の経費削減を訴える小池知事に対し、バッハ会長の口から出たのが「もったいない」発言である。要は節約の考え方は十分理解できるとの姿勢だ。きのうの安倍晋三首相との会談では、東日本大震災の被災地で複数種目を実施する案も示した。
 ならば渦中のボート・カヌー会場も宮城・長沼ボート場に変更すれば、と思うのだが、組織委や競技団体の反発は根強い。運営体制の再構築、警備や輸送のコスト増を強調する。
 招致段階の大会経費の見積もりは約7340億円。今では3兆円を超えるとの指摘もある。新国立競技場といい、そもそも原因は丼勘定にある。責任の所在も曖昧だ。「社長と財務部長を欠いた会社」と皮肉られても仕方あるまい。本番まで4年を切ってなお騒動が続く。時間が「もったいない」ようで。  【Web東奧 2016年10月20日(木)】

 「勿体ない」をパソコンの語源由来辞典で調べると、
 もったいないは、和製漢語「勿体(もったい)」を「無し」で否定した語。勿体の「重々しさ」「威厳さ」などの意味から、もったいないは「妥当でない」「不届きだ」といった意味で用いられていた。転じて、「自分には不相応である」、「ありがたい」「粗末に扱われて惜しい」など、もったいないの持つ意味は広がっていった。また、「勿体」は本来「物体」と書き、「もったい」と読むのは呉音。「物の形」「物のあるべき姿」から派生し、「重要な部分」「本質的なもの」となった。さらに、重々しい態度などの意味に派生し、意味が離れてきたため「物」が省略され、「勿」という表記で和製漢語の「勿体」が生まれたとされる。これらの経緯から、「惜しい」といった意味で用いられる「もったいない」は、「本来あるべき物がない」と原義に戻ったようにも思えるが、「もったいないおばけが出るぞ」など言われるように、「神聖な物」「重要な物」を粗末にする意味が含まれるため、「勿体」の意味が転じた流れによるものと考えられる。
と、あります。

 この「勿体ない」という形容詞は中世以後に用いられるようになった言葉だそうですが、その語源については諸説があるようです。「勿」は「物」の省字(せいじ、漢字の画の一部を省いてあらわした字)で、「物体なし」と書くのが本来であろうかと考えられています。「もったい」は「物体」の呉音読みで「物のかたち」という意味に用いられた語です。江戸時代の初めの評判記「色道大鏡」にはこの語を説明して、
 もったい。僭上(せんじょう)をさきだて景気を繕う貌(かたち)なり。勿体らしきなどという詞なり。
と言っています。すなわち、偉ぶった態度を取って様子を飾るという語だというのです。


 


 確かにこの語は、「もったいぶる」とか、「もったいらしい」とか、あまりいい意味には使われないことが多いようです。しかし、「勿体がある」とか「もったいをつける」と言うといかにも重々しい威厳のある様子になるという意味にも用いられています。「もったい」には、その物に備わって見える品位・品格という意味があったのです。そうした実体がいかにもあるかのようにふるまうのがつ「もったいぶる」であり、その態度が「もったいぶる」なのです。
 「もったいなし」とは、ある物に備わるそういう品位を無いものにする(無視、或いは否定する)ような態度や行動をとる様子をいうのです。場合によっては「無礼だ」「不都合だ」「とんでもない」の意味にもなります。『宇治拾遺物語』に鮭を盗んだ大童子(寺の雑役に使われる下級僧)が裸にされ身体検査を受ける話がありますが、憤慨した大童子が 「あはれ、もったいなき主(ぬし)かな」 と怒鳴るのですが、これは「まあ、無体な(不都合な)お方じゃなあ」という意味になります。
 『日葡辞書』にも「モッタイナイ 耐えがたい。また、不都合な。」と説明されているそうです。

 「耐えがたい」「不都合な」というのは、そのもの本来のありようからすれば受けるべきでない処遇を受けるから、言うのです。
 したがって、へりくだった態度からすれば、この語は「もったいないお言葉です」というように、我が身の分に過ぎて恐れ多いということにもなるし、又、「捨てるのはもったいない」というように、捨ててしまっては、その物のまだ保有している有効性を無視した、その物に対して不都合な処遇をすることになるというような意味にもなるのです。この点で、「惜しい」と通じるのでありまして、「あの人にこんな仕事をさせておくのは、惜しい」というのを「あの人にこんな仕事をさせておくのは、もったいない」という言い方もできるわけです。


 


 明の趙南星の『笑賛』65話に次のような話が載っています。

 王安石はしきりに文字学を研究していたが、ある時、
 「波は水の皮だ」と言った。すると、蘇東坡が、
 『じゃ、滑は水の骨というわけですな』
 賛に曰く、
  王安石の謬(あやま)りはこの通りであった。彼が宰相となって天下を乱さずに済むはずはなかったのだ。最近張新建(ちょうしんけん)という人は文字学から仙道を悟って、ひそかに姜忠文(きょうちゅうぶん)に伝えた。
  「婦人の唾液は華池神水と申してな、いつもこれを吮(す)ってな吞むがよろしい。そうすればながいきできます。活という字は千口水ですから」
  忠文は仁者なればこそ長寿を得たのであって、この法を用いたからではなかった。しかし、新建はそんな年でもないのに早く死んでしまったが、あれは多分神水の呑み方が少なかったからであろう。惜しいかな。

 後漢書五行志に
 「獻帝踐祚の初、京都の童謠に曰く、千里の草、何ぞ青青たる。十日卜するに、生きるを得ざらんと。案ずるに、千里草は董と為し、十日卜は、卓と為す。凡そ別字の體は、皆な上より起り、左右に離合す。下より端を發する者有る無きなり。今二字此くの如き者は、天意に卓は下よりして上を摩し、臣を以て上を陵ぐと曰ふが若きなり」とあります。
 後漢の最後の帝王である献帝(在位189220)の即位したころ、都に、千里草 何青青 十日卜 不得生(千里の草、何ぞ青青たる。十日の卜、生きることを得ず)という童謡がはやった。これは董卓(139193)が君を凌ぐが後に没落する前兆である。千里草で董、十日の卜で卓、それが初めは青々としているが生きられないということです。董卓が殺される前に聞こえてくることになっています。


 


 世説新語(捷悟篇第十一)の捷悟とは素早く悟るといういみで、この篇には機知にとんだ人々の挿話が集められています。楊脩と曹操の逸話について次のような記事があります。

 1、楊徳祖(楊脩)は魏の武帝(曹操)の主簿だった。そのころ相国門(丞相府の門)を作り、たるきの組み立てができたばかりの時、魏の武帝はみずから門の所へうち眺め、門に題額をかけ、「活」の字を書き入れさせて立ち去った。楊徳祖はこれを見ると、すぐにこれを打ち壊させ、すっかり終わるといった。


 「門の中に活があるのは、闊の字になる。門の大きいことこそ、王(武帝)の嫌われることだ」※     闊は、大きい、広いの意。当時曹操は後漢王朝の実権を握り、簒奪の噂が仕切りであったから大きい門は避けるべきだとの意である。

2、ある人が魏の武帝に酒器一杯の酪(酪、チーズのようなもの)を贈った。魏の武帝は少しばかり飲んだ後、ふたの上に「合」の字を書いて、一同の者に示した。一同は何のことかわからない。順番が楊脩の所へ来た時、楊脩はこれを飲んでいった。
 「公は皆の者に一口ずつ飲めと命令されているのだ。何もふしぎがることはない」
※     原文は「公は人を教(し)て噉(くら)うこと一口ならしむなり、また何ぞ疑わん」とある。「合」の字を分解すると「人ごとに一口」となる。

3、魏の武帝(曹操)は、ある時曹娥の碑のそばを通りかかった。楊脩が随行していた。その碑の裏面に「黄絹・幼婦・外孫・齏臼」の八字が刻まれていうのを見て、武帝は脩に言った。「わかるかね。」
  答えて言った。「わかりました。」
  武帝は言った。「(答えは)まだ言わないでおいてくれ。わしが考えてわかるまで待ってくれ。」
  それから三十里ほど行くと、武帝はやっと言った。「わかったぞ。」
  脩には回答を別に書かせてから答えさせた。
  「『黄絹』とは色糸のことです、文字にすると『絶』となります。『幼婦』とは『少女』です。文字にすると『妙』になります。外孫とは『女(むすめ)の子』です。文字にすると『好』になります。『齏臼』とは『辛(からし)を受け入れる器』です。文字にすると『辞』になります。つまり(この八字)は所謂『絶妙好辞』(すばらしい言葉。表面の碑文を讃えたのである)ということになります。」
  武帝の方でも、脩と同様の回答を書きつけてあった。そこで感嘆して言った。「わしの才が、君に三十里及ばないことが今にしてわかったよ。」



 



プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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